史実に基づいて。

朝倉義景 1572年8月から9月にかけて前波吉継、富田長繁、戸田与平次らが織田側に寝返る。同年の収穫の秋には織田軍に近江、越前南部で苅田焼き討ちされて収穫減(朝倉義景のすべてより)。

浅井長政 佐和山城が陥落して小谷城が孤立状態。起死回生を狙って朝倉義景と連携して反撃したら木下秀吉の部隊すら抜けない体たらく。最早城を守るだけで手一杯。

武田信玄 かつての川中島合戦でもそうだが、甲斐からの補給は常に厳しい。そもそも美濃攻めは距離的、山岳地帯などを考慮すれば川中島と負担がそこまで変わらない。

せっかく駿河で手に入れた水軍も美濃が内陸国だから補給に使えない。財政的にみても川中島合戦と変わらない期間を徳川領で過ごしており、これ以上の遠征はできても翌年に破綻する。

以上。