>>128
信長公記の兵力数に関しましては、桶狭間のは明らかに当時の石高から比しましても、
2倍以上に誇張している事がわかりますが、
長篠における武田側の兵力は1万5千、としており、
これは武田側の軍鑑においても、1万5千、としており、
敵味方で兵力が一致している事から、事実である可能性が高いかと思われますかね。

朝倉の兵力数に関しましても、刀根坂の時の朝倉勢は「義景は国中の諸勢を動員した。」と書かれておりますし、
さらには先発隊として、義景の本軍の前に山崎吉家などの三千余が先に出陣していた、という事も
書かれておりますので、2万近くは十分にいた可能性が考慮されると思うのですけれどね。
基本的には刀根坂の時も、長篠の時も、敵側よりも信長側が多く書かれているのですから、「大軍に勝利した!」という事にしたい桶狭間の時とか、
稲生の時とかのような誇張とかはしなくてもいいように思われますしねえ。
志賀陣の時の朝倉浅井一向宗勢で三万、とも信長公記は書いてあり、
朝倉家が2万余の兵力を出せる、というのは、信長公記においては、一貫しているように思われますかねえ。