>>183
いやいやいや、
「信玄の路線を引き継ぐ「しかない」勝頼は引き続きそれに応えないといけない立場だった 」
とはおっしゃいますけれど、何度も指摘されておりますように、>>179にも書きましたように、
信玄が勝頼に残した外交状況とかは、
勝頼が長篠までは東部戦線を織田徳川相手に優位に進めうるもので、
現に勝頼もそれを活用して、東部戦線を優位に進めていたわけで、別に勝頼もいやいややっていたわけではなく、
長篠前の勝頼の書状に勢いに乗っているような感じからも、勝頼が信玄から引き継ぎ、自身が進めている
東部戦線の優位について、勝頼当人も自信をもって進めていた事が伺われるように思われるのですけれどねえ。

>畿内に残った本願寺の期待には何も応えてないまま、それどころか長島の一向一揆は全滅した
いや、普通に畿内の本願寺とも連携をとって勝頼は東部戦線を進めているわけですし、
そもそも、勝頼の長篠城攻めに至る1575年の三河侵攻自体が、その同時期に本願寺・三好へと侵攻しようとしていた、
織田に対する東部戦線からの牽制と陽動、という一面を有しておりまして、
長篠城攻囲に至るまでに勝頼が1575年の三河遠征で各地の戦いにおいて勝利を得ているのを、
畿内の反信長勢力の六角などは、普通に喜んで書状を武田側におくっておりますね。

で、そもそも、それまでの東美濃、高天神、浜松周辺などにおける勝頼による
武田側の数々の勝利も、普通に織田徳川側に対して脅威を与える事になり、
信長自身が書状において、「勝頼は若いが、信玄の教えをよく守り、
表裏を心得た油断ならぬ敵だ。謙信が(織田側が)五畿内の防御を一時おいておいても、
勝頼の鋭鋒を防がなければならない、というのは、もっともな事だ。」と書く事になっており、
勝頼への評価を大きく改める事になっておりますね。
他ならぬ信長自身が、勝頼が信玄から継承した戦略状況を基にしましての、東部戦線における勝頼の数々の勝利を、
大きな脅威であると認識している事を、書状に書いておりますのに、
そのようにおっしゃられましても、と思う次第なのではございますが、これらの件に関しましては、
いかがなものなのでございましょうかねえ。