戦国ちょっといい話46
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0001人間七七四年
2018/06/11(月) 22:45:50.79ID:3S+RqTvu戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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0005人間七七四年
2018/06/12(火) 00:05:21.87ID:6bYuvtCd去る程に四海八島の外も波静かに治まり、関白左大臣豊臣秀吉公は京都に大仏殿を御建立あるべしと、
天正17年の春より人夫を揃え、京に石を引かせた。
大仏殿は五条の橋の方で、その大門の石は松坂少将蒲生氏郷の担当と成った。
それは一辺が2間(約3.6メートル)の、四角形の大石であった。
大津三井寺の上より、漸く道まで引き出したが、そこで秀吉から氏郷に
「あの大石は人夫への負担が大きいので輸送は中止するように。」
と伝えられたため、氏郷も畏まりこれを中止した所、それを京童が一首の狂歌を詠んで
落書にして立てた
『大石を 道の蒲生に引き捨てて 飛騨の匠も成らぬものかな』
もちろん飛騨とは氏郷の受領名「飛騨守」の事である。氏郷はこれを知ると
「京童に嘲られる事こそ口惜しい!ならば引いてみせよう!」
そう決意し、再びこの大石に取り付き引き始めた。
蒲生源左衛門尉郷成の、その日の装束は太布の帷子の、袖裾を外し背には大きな朱の丸をつけ
小麦藁の笠に采配を取って石の上に上り、木遣をした。
その他には、蒲生左門家来である中西善内が笛の役、蒲生四郎兵衛郷安家来、赤佐一蔵は太鼓の
役で、拍子を取り、これが誠に面白いと人夫共もこれに勇を得て引いた。
また氏郷自身がこれを奉行したので、氏郷の侍たちも皆、石を引く本綱末綱に取り付き、
我劣らじと引いた。
ここで、戸賀十兵衛の人足の一人が、草鞋の奉行であるからと傍に居たのを氏郷が見つけ
「あれは如何にも悪き奴かな!搦め捕ってこい!」
と命じ、土田久介という小姓がこれを承り、走り寄り手巾にてかの者を搦めて来ると、
氏郷はこれを田の畦に引き据え、腰の脇差を抜いて、立ちどころに頸を落とした。
これを見た者たちは興醒め顔にて、なお一層石引に精を出した。しかしながらやはり大石
であり、なかなかうまく進まず、人夫たちにも次第に疲れの色が濃くなった。
そこで「彼らに力を与えよう」と、都より傾城十余人を呼び寄せ、石の上に登らせ
小歌を謡わせると、これにひときわ気力を得た。
しかし、日岡峠を登らせる時は流石に不可能に思えたが、氏郷は源左衛門尉郷成に、
「どうにか精を出して引き登らせよ!」と命じた。
郷成は「承り候」と言うや、わざと田の中に転び落ちた。彼は装束を泥だらけにして
起き上がると、それを見た人夫たちは、一斉にどっと笑った。その夥しい笑い声は
暫く鳴り止まないほどであった。
そしてその勢いでこの峠をついに越えたのである。氏郷は非常に喜び、彼に秘蔵の名馬を
与えた。
その後も人々精を出して引いたが、どうしたことか鎖綱が引きちぎれ、額に当たって
人夫一人が死んだ。しかし別の鎖に付け替えて引き、ついに加茂川へと引き入れ、都の内へと入った。
ここで氏郷は「今度の京童共による狂歌への返報である」と、人夫共を京の民家の上に
上らせで石を引かせた。このため大仏殿の方向にある家々は踏み破られた。
そこに関白秀吉が氏郷を迎えに御出になられた。御供は木村常陸介で、彼らは石の上に
上がってきた。これを見て赤佐一蔵は驚いて石より飛び降り、郷成、中西善内も下りようとしたが、
秀吉は「そのまま罷りあれ!」と彼らを留め、自身は帷子に着替えて木遣を成された。
常陸介は太鼓を打ち、中西善内はまた笛を吹いた。こうなった以上、秀吉の御供として
付き従っていた大名小名もみな石に取り付いて引いたため、そこからは飛ぶように進み、
程なく大仏殿へと到着した。
この時、一番の大石を尋ねた所、この氏郷の引いてきたものより大きな物は無かった。
(氏ク記)
有名な話ですが、出典付きで
0006人間七七四年
2018/06/12(火) 01:03:03.38ID:gXqWeN7x0007人間七七四年
2018/06/12(火) 09:24:59.36ID:5Fu7ixea0008人間七七四年
2018/06/12(火) 11:34:45.72ID:7/r2BUUk0009人間七七四年
2018/06/13(水) 16:37:50.26ID:NO0axVvC細川忠利の士川北九大夫と言う者有り。川尻の代官を勤めよ、となりしに、出陣の時供に
連れられなれば代官の職勤むべし、と言いければ、尤とて、出陣の時供すべし、と定めら
る。天草はややもすれば一揆をなす所と西国の人の言いける事なれば、心に掛けて、川尻
は海辺、船の着く所にて細川家の米蔵あり。天草へ海上七里と聞ゆ。川北兼ねて地鉄砲の
数を調べ置けり。(地鉄砲とは猟師の事也)天草の一揆起ると聞きて、川尻の海岸に一間
に一本宛竹を立てさせ、一本毎に火縄を結い付け、五本に一人の地鉄砲を配りけり。後に
天草にて生捕られし者の言いけるは、其夜川尻の米を取らん為に船を押出して見しに、川
尻に幾らとも無く鉄砲を備えて見えたる故、さては熊本より軍兵の早川尻に来たれり、と
て船を戻しけるとなり。川北なかりせば川尻の米を取られ、天草の糧容易く破れまじかり
しに、川北が謀にて天草の糧早く尽きてけり。
(常山紀談)
竹を2メートル間隔で立てて、それに火縄を結びつける。5本ごとに一人の地元猟師が担
当。つまり、臨戦態勢の鉄砲隊がたくさんいるように見せかけたということなのかな。
これで川尻の米蔵を略奪されていたら、切腹が一人や二人ですまない大恥。ナイス計略。
しかし、天草・島原の乱で、川尻襲撃の準備があったという話は、聞いたことないなあ。
天草四郎が一揆の直前まで宇土町の郊外に住んでいて、母や姉を連れ出そうと船が送り込まれたが失敗した話ならあるけど。
0010人間七七四年
2018/06/14(木) 17:07:32.39ID:MnYHqCftその官位昇進のため、同年12月28日、秀吉秀次以下天下の諸大名は、位次第に車にて参内を
することとなった。
この時秀吉は、蒲生氏郷の次に伊達政宗、その次に山形出羽守(最上)義光と定めた。
ところが氏郷は御前に進み出て
「山形(最上)は源氏の縁であり、その上政宗にとっては母方の叔父にあたります。
政宗の後にすべきではありません。」
このように申し上げたところ、秀吉も「そういう事なら」と、最上義光を政宗の前に立てた。
これを知った義光は謹んで氏郷に申し上げた
「お陰を以って天下に面目を雪ぎました。この御恩はいつの世に忘れることが有るでしょうか。
氏郷殿御一代、それがし一世の間に、会津に何事か有れば、その御用に立ちましょう。
その証拠として人質を進上しましょう。」
それより子息の一人駿河守(家親)を、氏郷の生きている間は差し置いた。
(氏ク記)
0011人間七七四年
2018/06/14(木) 17:10:00.88ID:NpoWDhvU0012人間七七四年
2018/06/14(木) 23:55:07.48ID:qqKel1dY0013人間七七四年
2018/06/15(金) 00:04:24.55ID:ldS390FA通った。そこはあまりに人気無く、非常に物寂しい場所であった。
ここで氏郷は思いつくままに、一首詠んだ
『世の中に 我は何をか那須ノ原 なすわざもなく年や経ぬべき』
そう言葉にして、打ち過ぎたという、
(氏ク記)
氏郷みたいな人でも「俺は何も成さずに今まで生きてきてしまった」みたいに思うこと
あったのですね。
0014人間七七四年
2018/06/15(金) 00:38:12.36ID:aqx17Q8P0015人間七七四年
2018/06/16(土) 10:50:45.33ID:OPn9dD680016人間七七四年
2018/06/16(土) 12:05:27.02ID:odU49sW/下方覚兵衛*は元々は蒲生氏郷に四百石で仕え、その後は小早川秀秋に呼ばれ
千二百石で仕えていたが秀秋が亡くなったため、池田家臣の土肥周防の誘いで
慶長八年、池田輝政のもとへ召し出された。
土肥周防が輝政の嫡男・利隆に氏郷時代の知行四百石で仕えるようにと
折紙を渡すと、覚兵衛は
「中納言(秀秋)のことで浪人になってしまったので、ただいま無双の御当家へ
召し出されるのならば、いかようでもお請けしたいのですが、せめて
先知(千二百石)の半分は下されるべきでしょう」
と申したため、周防が折紙と違う知行を求めてくるのは困るとして
断ろうとしたところ、輝政が
「今は諸浪人の多くが先知を減じ、そのままで終わってしまうことがあるから
このようなことを言ったのだろう。この先配慮をしてやるように」
と仰せられたので、翌年から覚兵衛には百俵の合力米が支給された。
覚兵衛はその後出世していき、慶長十六年には光政の守役に任ぜられた。
そのとき輝政と利隆の相談の結果、池田家の譜代同然に扱われることになり
家督を継いだ光政が領国に帰るときには、妻子と一緒に江戸で留守を守った。
元和七年に亡くなるが、最終的には千百石を拝領したという。
――『吉備温故秘録』
* 祖父が小豆坂七本槍の下方左近であったことから、蒲生氏郷に仕える。
氏郷の死後、堀秀治に仕え越後にいたが、小早川秀秋に召し出される。
光政とは家族ぐるみで交流があり覚兵衛の死後、妻は岡山城の水の手に
屋敷を拝領し、光政から"水の手の祖母"と呼ばれ慕われた。
0017人間七七四年
2018/06/17(日) 15:34:15.91ID:p3ch8gs1(利家の次男・利政の妻が氏郷の娘)、供の侍たちは蒲生家、前田家共に座敷に入るのであるが、
その時は蒲生家の侍たちは、座敷には入らなかった。
ところが、氏郷の小姓である岡半七という者、これを知らずいつものように番所の戸を開けて
座敷に入ろうとした所、傍輩が一人も居ないことに気が付き、驚いて座敷の戸を閉めて退出した。
この姿を番所に居た者たちが小声で笑った。
その瞬間、岡半七は太刀の柄に手をかけた
「汝ら何を笑うのか!?」
声高に過ぎたその声を氏郷は聞き付け
「また半七めか。いつもの大声だな。」と、つるつると座を立ち半七を呼んで、特に用があったわけでは
無かったが、当座の事について長岡越中守(細川忠興)への使いに出した。これによって喧嘩を止めたのである。
このように氏郷は、物事に分別のある人であった。
(氏ク記)
0018人間七七四年
2018/06/17(日) 17:04:59.83ID:UyI9nnUz0019人間七七四年
2018/06/19(火) 00:25:10.18ID:LF7ESyC8氏郷の家臣である錦利八右衛門は、「似せの鎧を遣わしましょう」と申し上げたが、氏郷は
「『なきなどと 人には言て有なまし 心の問はば如何こたへん』という古歌がある。
お前の言う事、我が心は恥ずかしい。
確かに佐々木鎧は天下に一足の鎧であるから、それが如何なるものか知る者はほとんど居ない。
だが、私は一度忠興に遣わすと言ってしまったのだ。そうである以上、後に残ったとしてもそれは重宝ではない。」
そう言って佐々木鎧を忠興へと遣わした。後になって忠興は、その鎧が蒲生家重代の宝であることを知り
様々に返還しようと働きかけたが、氏郷は決して受け取ろうとしなかった。
この鎧は氏郷逝去の後、跡を継いだ秀行へ返還されたという。
(氏ク記)
0020人間七七四年
2018/06/19(火) 05:34:44.11ID:PX6q8q1U0021人間七七四年
2018/06/19(火) 08:36:19.46ID:FtljizKOちょっと珍しいパターンかも。
0022人間七七四年
2018/06/19(火) 17:39:01.63ID:780zjbW0氏郷さんもええ人やな
0023人間七七四年
2018/06/19(火) 18:55:35.55ID:TBSus3I3ええっ?……
0024人間七七四年
2018/06/19(火) 19:13:09.28ID:MQw5BSy80025人間七七四年
2018/06/20(水) 15:32:11.38ID:88yyrNxx島原の城攻に、細川家の士大将松野亀右衛門井楼より見るに、本丸と二の廓の間に坂有り
て人集る。中に大紋の羽織著たる者在り。松野指ざして鉄砲を打ちたるに、五町許にてた
だ中に中りてけり。夫より空箭無く打ちしかば、彼坂を夫より後たまたま通る者、身を屈
め走り通りけるとぞ。松野は、鉄砲の妙手留刑部一火に学びて妙を得たり。
(常山紀談)
500メートルをスナイプ。確かに原城の縄張りを見ると、本丸の出入り口は内陸を向い
ているから、狙撃しやすいポイントと言えそう。しかし、ライフリングの無い火縄銃で、
外した弾がないというのは、すごいなあ。
<BR>
ちなみに、この松野亀右衛門、大友氏の末裔らしい。
0026人間七七四年
2018/06/20(水) 17:20:25.75ID:A/bNT0zJ子の(織部)親英は蜂須賀に使えたあと細川忠興に召し寄せられて直臣となる
大友改易後に田原親盛が細川忠興に使え松野半斎と名乗っていることから松野衆として名を改めたのだろうか?
亀右衛門は親英の子である
なお松野家はもともと切支丹であったが棄教した、このため代々家老に起請文の提出が義務付けられていたようだ
0027人間七七四年
2018/06/21(木) 08:54:19.80ID:tSvrzezHこれに対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も付けず鑓を持つと、正面の敵に構わず、敵の後に
ただ一人廻り、敵の後から突き倒し、散々に相働いた。
これにたまらず敵方は城中に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責め立てられ、逃げ惑い堀に飛び込む
者まで居た。これを見て後から駆けてきた侍たち、我も我もと頸を討ち取った。
氏郷は数多の敵を突き倒し、その頸を取った者も多かったという。
関白秀吉はその働きを聞いて感じ入り、「氏郷が活躍するのは珍しいことではないが、今回の
夜討に敵の後ろに回り、一人で切り取り数多の頸を討ち取ったこと、当意の機転、古今稀なる働き
である」と讃えたという。
(蒲生氏ク記)
氏郷の単騎攻撃のお陰で敵の夜討がボーナスステージに成ったお話。
0028人間七七四年
2018/06/21(木) 10:51:47.16ID:R6dkeP0Z夜討の混乱状態で後ろに回った機転が、武功と生存の鍵なのか。
0029人間七七四年
2018/06/21(木) 19:02:19.99ID:ZEe/6+m0ゲームの主人公かな?
0031人間七七四年
2018/06/22(金) 09:17:50.00ID:+Vch1/Y2木村長門も同年である。
大野修理はその頃、47,8くらいに見えた。
後藤又兵衛は60あまりに見えた。男ぶりは百人頭という風情の人であった。
真田左衛門佐は44,5くらいに見えた。額に2,3寸ほどの傷跡があり、小兵なる人であった。
秀頼の御子8歳と長宗我部の二人は戦後生け捕られ、京にて御成敗された。
(長澤聞書)
大阪の陣で後藤又兵衛に従った長沢九郎兵衛による、大阪方の人々の印象
0032人間七七四年
2018/06/22(金) 10:47:30.98ID:K53k58Oq0033人間七七四年
2018/06/22(金) 12:11:36.59ID:tpZc7hd20034人間七七四年
2018/06/22(金) 16:21:57.96ID:L0H/Woxq0035人間七七四年
2018/06/23(土) 21:19:53.04ID:4kKiA17m(池田輝政が)あるとき厠に入ったかと思うと、けしからぬ声が聞こえてきたので
お側の人々が驚いて厠に走り入ると、卿(輝政)は笑って
「我は常に軍旅の事を考えているのだが、今も図に当たったなと思ったら
つい声が出てしまった。怪しまなくていいぞ。沙汰なし沙汰なし」
と仰せられたと、老人が語り伝えている。
――『有斐録』
0036人間七七四年
2018/06/23(土) 23:52:48.83ID:PEJlXB4/0037人間七七四年
2018/06/24(日) 21:54:29.29ID:AYWzaaZT「軍法は、聖人賢人の作法であり、常によく行儀作法をいたし、大将たる人は臣に慈悲深く、
欲を浅く士の吟味よく召し、もし戦が起ころうとしたなら、すぐにその備を作れるように、
よく注意しておくものだと伝わっている。」
(長澤聞書)
0038人間七七四年
2018/06/25(月) 14:13:22.54ID:121ckDlk(長政)
0039人間七七四年
2018/06/25(月) 20:34:10.90ID:X2M4avTS「射ながし」と言って、さし矢に星をかけ、弓場の作法も無しに射た。
又は、世間で兵庫付と言って、弓場の付け様、檜垣の塀の切り様、矢代の気味、前弓後弓の次第、
星の射上垣破という、先例よりの作法を吟味して射た。これは関白様が弓を好む方々の射礼を
お聞きになり、そのうち兵庫付の作法が良いと言われたことによる。
・この頃の流行り道具(武器)は鍵鑓で、上下ともに用い、10人の内8,9人はこれを持ち鑓としていた。
対の鑓はおおかた二間半から三間柄(約4.5〜5.5メートル)であった。
・その頃侍も町人も残らず茶の湯が流行り、円座を敷いて炒り大豆を拵え、茶の立て様や呑み様を
稽古した。当時茶の湯の上手と呼ばれたのは、古田織部、小堀遠州、桑山左近、永井信濃守であった。
・大阪籠城の間、世間では米の値段が17,8匁くらいであったが(1俵当たりか)、大阪では高騰し、
10日ほど130匁まで騰った事もあった。
・その頃、侍または町人百姓まで、牢人といえば隠棲している者であっても頼もしく思い、一度も
会ったことがない者でも近づきと成り肝煎りとなったものであった。
・その頃は、奉公人を召し抱える時も、その人物を万事吟味し、品々良き者を召し抱えるよう
御内の者に仰せ付けていた。意図的に贔屓するようなことは出来なかった。召し使わす者も
その先祖まで良く良く吟味された。
(長澤聞書)
大阪の陣の頃の世間の風潮について
0040人間七七四年
2018/06/25(月) 22:36:19.51ID:yfM2uK9e0041人間七七四年
2018/06/26(火) 21:45:36.17ID:WN+xHaZ/0042人間七七四年
2018/07/01(日) 00:49:51.09ID:QOgqRimO「何度やっても本当に理解できるものではないが、しかし合戦というものは結局、気負い次第なのだ。
今回ならば、秀頼と組み合い、最後に上になった者が勝つということだ。」
これ以外に、大阪の陣に置いて軍法に関する仰せ出は無かったという。
(諸士軍談)
0043人間七七四年
2018/07/01(日) 13:56:04.98ID:xUOsaneP0044人間七七四年
2018/07/01(日) 20:13:07.83ID:xUOsaneP大坂冬の陣では、諸大名の軍勢に兵糧を給与した。およそ三十万人、一日に千五百石。
遠国の兵には倍を支給した。夏の陣では、家康は、松下浄慶を呼び出し、大坂の賄支度は、
膳米五升、干鯛一枚、味噌、鰹節、香物、少しばかりを用意せよ。それ以上はいらないと
仰せられた。そのため台所用品は、長持一棹のみで事足りたという。
(常山紀談)
家康ネタを重ねる。
夏の陣は数日で済むと、最初から見通していたわけか。京都が出撃拠点だから、そのく
らいで充分事足りたのかな。一日一升食べても、5日分。
おかずが足りないような気がするけど。具なし味噌汁と干鯛一かけら、漬物で山ほどの
飯を食う。天下人として、ものすごい質素だな。それとも、おかずが誰かが献上するのだ
ろうか。
0045人間七七四年
2018/07/01(日) 22:01:36.50ID:ub6eO5wf少なくとも大坂の陣の頃はポピュラーな食べ物じゃない筈
0046人間七七四年
2018/07/01(日) 23:03:38.98ID:syCr0qO5花鰹なら15世紀末の包丁書に出てきてる
それのことじゃないのかな
でなければようやく製法が編み出されたいまの鰹節に近いもの
0047人間七七四年
2018/07/02(月) 17:32:24.99ID:+lDXEXb7小牧・長久手の戦いが始まっていた。
氏郷は松島に入部すると、先ず領地の仕置を優先し日置へ押し寄せようという気持ちは全く無かったにも
関わらず、織田信雄の家臣である木造左衛門佐(長政)の支配する日置方面からは、氏郷の領内へ夜な夜な
人数が出て苅田などを行った。
氏郷はこれを聞くと「哀れ足長にも出てきたか。討ち果たしてやろう。」と、方々に物聞(見張り)を
置き、苅田をする者たちが侵入してくれば鉄砲を撃ち、これを合図に松島より出撃しこれを討つ決まりとし、
これにより度々侵入者を撃退した。この時、氏郷は早馬を以って真っ先に乗り懸かった。
これを見た木造長政は、謀略によって氏郷を討ち取ろうと工夫を考えた。
9月15日の夜、木造長政勢は氏郷の領分である会原という場所に侵入した。この時、木造の家中において
物頭をし、発言権を持つほどの兵は残らずこの会原周辺のよき場所に伏兵として起き、氏郷が駆けてくれば
即座に討ち取れる準備をさせ、あとはいつものように苅田をさせた。
これに蒲生の見張りが気づき鉄砲を撃って知らせ、この音を聞き松島より蒲生氏郷が駆けつけた。
その夜は月が冴えて、まるで日中のような明るさであったが、氏郷はそこに真っ先に駆けつけ、
その後に早馬を持つ兵たち7,8人が続いた。彼らが入ってくると伏兵たちが一斉に起き上がり、
氏郷たちを包囲し攻めた。この時は流石に危うく見えたが、氏郷は馬の達者でありその騎馬も逸物で、
四角八面に懸け破り、突き倒しては駆け回り、乗り散らし乗り返し、その戦いにおいて蒲生方の
外池長吉、黒川ノ西、田中新平などと言った者たちは散々に戦い討ち死にした。
小姓の姿であった外池孫左衛門という者は氏郷の矢面に立ち塞がり防戦した。
この時、氏郷の銀の鯰尾兜に銃弾3つが当たり、鎧にも傷数ヶ所があったが、その身には薄手すら
負っていなかった。
このようなうちに、氏郷勢が追々駆けつけ、騎馬のもの7,80騎となると、氏郷は敵の少ない所へ
そのまま馬を乗り入れ東西南北に懸け破り蹴散らし、敗北した者は手下に討ち取らせ自身は追い打ちをかけ
日置の城下まで追い詰め、木造家中にて物頭を勤める屈強の兵30余人、その他甲冑をつけた者36,
雑兵数多を討ち取り勝鬨を作り、日置の城下から10町ばかり引き取った場所に陣を取った。
これにより、木造長政は在城を諦め、翌日詫び言をし命を助けることで城より退去した。
世間において「日置の夜合戦」と呼ばれるのがこれである。
(蒲生氏ク記)
敵の計略どおり単騎突撃してまんまと罠にハマったけれども特に何ということもない氏郷であった。
0048人間七七四年
2018/07/02(月) 20:20:12.31ID:rLUgrkrt0049人間七七四年
2018/07/02(月) 20:33:58.80ID:rorhF+dI0050人間七七四年
2018/07/02(月) 20:39:34.50ID:AoEQtwek0052人間七七四年
2018/07/03(火) 21:31:20.04ID:XBNxngP4上下ともに、その道具にて円座を敷き、茶を点てることが流行した。
その頃、馬道具などは大小名から下々まで、紫、または紅の大房の尻懸が流行っていた。
刀脇差の鞘は、のし付きの金銀、又は朱鞘などが用いられていた
(長澤聞書)
大阪の陣の頃の流行り色々
0053人間七七四年
2018/07/04(水) 21:45:13.29ID:chNAFmln彼の物語に、ある時権現様(徳川家康)の御前に、あん信という唐人が招かれ、家康はこの唐人に、
唐船の事を詳しく尋ねた。そしてその後、このように言われた
「日本船が唐船と戦うときは、鷹に鶴を取らせる心が無ければ勝利することは出来ない。
例えば、千町の田地に鶴が多く有る時、これを取るために逸物の鷹を千羽求めても、鷹師が下手なら
鶴を取ることなど出来ない。
鷹師が上手ならば、予てからそのための訓練を行い、また当日の天気と風と距離を考え、息を合わせ
調子を合する時は、たとえ一羽であっても鶴を取ること疑いない。
進物の鷹が、どれほど心剛だとしても、その鷹の資質だけでは鶴を取ることは出来ないのだ。
唐船と日本船は、この鶴と鷹のようなものだ。日本船がどれだけ心剛だとしても、それだけでは
彼に勝つことは難しい。将が予てからその戦いを想定していることが必要なのだ。
(松永道齋聞書)
唐船に限らず、合戦すべてに必要な心構えでもあるのでしょうね。
0054人間七七四年
2018/07/04(水) 22:20:04.42ID:jbqGHTD40055人間七七四年
2018/07/05(木) 18:24:45.96ID:eCXlS6rgあるとき池田輝政公は、出陣の朝に飯炊きに膳を進められたものの
気分が悪く召し上がらないことがあった。
そこで家臣の淵本彌兵衛が下々の飯の内から(黒米を)取ってきて
山折敷に据えて食べさせたところ、(輝政は)大いに喜んで戦に勝利した。
それより後は、門出の朝は黒米飯を山折敷に載せて
彌兵衛が配膳するようになった。
この彌兵衛は美濃国野間にて、腰に鎌をさして道の傍らにうずくまり
「御馬の草苅として奉公させて下さい」
と野を巡っていた信輝公(恒興)に申し上げたので、公が歳を聞いたところ
十六歳と申したので、永禄十年に召し抱えた者だという。
それから彌兵衛は度々功労があり、のちに利隆の正室福照院付きとなって
三百石を賜ったという。
――『備陽武義雑談』『吉備温故秘録』
0056人間七七四年
2018/07/05(木) 18:30:59.94ID:/LwZ2lnk大坂落城の日、興国公(池田利隆)の士斎藤織部、黒母衣かけて西国道に落行く敵に追付
き、すでに討取らんとせしに、彼敵ふり顧りて、落武者の首取られたりとも、さばかりの
武功とも言うべからず。如何に助けられんや、という。斎藤、従者に差せたる相印の腰指
を与えて、疾く落ちられよ。見咎むる者有らば、池田が内の斎藤織部という士の従者ぞと
言われよ、と教えければ、忝き由謝して落ち行きけり。帰陣の後斎藤が友来たりて、大坂
にて落武者の中に我縁の者が候が、救け給い相印まで与えられし故、遁れ出でて密に参り
て斯く申せし、と言いけり。斎藤後人に語りて、我其時此武者を討たんは易し。されども
落武者の降参するを斬りたりとも、母衣懸けたる我に如何許の功名とかすべき。今は却っ
て奥深く覚ゆ。猥に人数を殺すのみを武と思えるは、大きなる僻事にてこそあれ、と言い
しとぞ。
(常山紀談)
ずいぶん親切な。
0058人間七七四年
2018/07/06(金) 17:36:04.45ID:N8PBqEKt晋三 晋晋晋晋三 ノ´⌒`ヽ
晋晋 三晋晋晋 * /´ ノj` \、
。.I晋 ◆/・ ・\◆晋 °.* / /ノ \ ) アリラン アリラン アラリヨ
.丶,I◆∠/I I \ゝ◆ソ 。. | ノ ―ヽ ) アリラン峠を越えて行く
I│ . ││´ .│I あきえ. ヽ ( \ ` ´ / i,/ * 。 +
| ノ(__)ヽ .| * 。 ヽ | (__人_) | あそこ、あの山が
I │ I .I 素敵な歌だね \ `ー' / 白頭山(満州民族・朝鮮民族の霊峰)だが、
i .├─┤ ./ + 。 + ツ)) (((し 冬至師走でも花ばかり咲く
+. \ /  ̄ ヽ,ノ. 心が和むよ / \/ ヽ 。 +
/ . ̄ ̄ ̄ ) / . ̄ ̄ ̄ ) *
/ / | ̄ ̄ ̄ / / | ̄ ̄ ̄ - *
(__/ | | * (__/ | | * 。 _
ヽ、 ヽ / 。 ヽ、 ヽ / 。 +
l´ | |´ l´ | |´
(⌒Y⌒)|___) (⌒Y⌒) (⌒Y⌒) |___) (⌒Y⌒) (⌒Y⌒)(⌒Y⌒)
(⌒*☆*⌒) (⌒Y⌒)*☆*⌒)(⌒*☆*⌒)*☆*⌒)~) (⌒Y⌒) (⌒*☆*⌒)
~(__人__)~(⌒*☆*⌒)ゝ__)~ ~(__人_(⌒Y⌒)*☆*⌒)(⌒*☆*(⌒Y⌒) .~(__人__
0059人間七七四年
2018/07/06(金) 21:44:23.21ID:XoIoRDXeこの者は膏薬を調合し、往来の人、在々の者に施して、その対価として銭、又は五穀を貰うことで
飢えをしのぎ身命を繋いでいた。
彼は里の童たちを誘い、薬草を集めると子供に頼って松脂を取り調合の手伝いをさせた。
このため、調合の方法まで子供たちは見習い、自分たちで調合し売り広めるように成った。
この由緒を以て、今でも清見の膏薬は子供の商売となっている。
この膏薬を作り始めた庵主は弟子に跡を譲り、この商売は次第に繁盛して、かつての庵は、今は
寺と成っている。
(渡邊幸庵對書)
こんな今川の遺臣のお話が
0060人間七七四年
2018/07/06(金) 21:52:27.29ID:1GYT3Z0c0061人間七七四年
2018/07/07(土) 00:53:45.30ID:9OdgJgq+0062人間七七四年
2018/07/07(土) 22:15:35.57ID:9Qmq/53U能の脇を良くして、役者にも勝っていると、その時代の評判であった。
有る時、法楽の能で船弁慶を勤めた時、白洲の見物の中から「あれでも能の上手か!?」と、声高に
あざ笑う声が聞こえた。左馬介はこれを聞きとがめ、能が済んだ後、これを言った者を引き止めどう言うことか
尋ねた所
「私は船頭ですから、能の事は良く解りませんが、ただし波風の荒い時の船の漕ぎ様は、ああではありません。
艫の押し方、抱え方、間違っています。
またいくら弁慶と言っても、波風の荒い時はあのように船中に立つことは出来ません。」
これを聞いた左馬介は、彼から波風の荒い時に船中で立ち応える方法、並びに船の漕ぎ方を詳しく尋ね、
以降の船弁慶にこの心得を活かした。
左馬介は後に中村靭負と名乗った。何事もこのように、その道の人間に尋ねるべきである。
(渡邊幸庵對書)
0063人間七七四年
2018/07/07(土) 22:39:49.02ID:8XKizmlU船頭(やべえ…)
0064人間七七四年
2018/07/07(土) 23:05:53.00ID:nc14XRd90065人間七七四年
2018/07/08(日) 03:57:57.70ID:bELb4SvO0066人間七七四年
2018/07/08(日) 09:01:24.43ID:ETD5YrSf芸の道と武士のメンツは、違うということか。
0067人間七七四年
2018/07/08(日) 09:44:35.67ID:9qBl9iy9↓
役者が真摯に教えを乞うて芸が一段上がる
これ芸能の故事によく出てくるテンプレの流れな
0068人間七七四年
2018/07/08(日) 19:03:49.08ID:pHebzZNl水野勝成が仙石権兵衛配下の際、長曾我部攻めで
水野勝成に兄を射殺された竹崎右衛門が水野勝成に復讐を誓う
その水野勝成が土佐の国に放浪している事を知る。
土佐の村々で一宿一飯の旅をしているらしい。
そして水野勝成を村の相撲大会におびき寄せる事にした。
水野勝成が相撲大会に参加したところを引っ捕らえて兄の仇を討つ計画だったが
いざ水野勝成が相撲大会に参加した際にまさかの褌一丁の姿に驚き
水野勝成を捕らえる好機が無くなった。
相撲大会は無事水野勝成の優勝に終わり、竹崎右衛門の家来まで喝采するが
結局水野勝成は捕らえられた。
その時、竹崎右衛門は水野勝成の前に出て水野に賞品である米一斗を差し出した。
そして水野勝成も竹崎右衛門の前に自分の持って来た米を差し出して「供養にせよ」
と言った。
水野勝成は周辺の村で一宿一飯の恩義で米を集めて供養米を集めてたらしい。
竹崎右衛門は水野勝成に「これからも立派な武将になられませ」と返答した。
0069人間七七四年
2018/07/09(月) 12:25:51.02ID:Elqyu4L1ここがよく分からなかったが、泊めて貰ってお土産で米を貰っていたという事か
0070人間七七四年
2018/07/09(月) 21:48:22.34ID:zdyxJwFYどのように調理されるか楽しみだ
0072人間七七四年
2018/07/10(火) 00:14:00.10ID:4OTrD0VR『長子を養子に遣わす。私の形見に残し置く』という文を出した。
この長子は名を小西宇右衛門と言い、銀座の家督となり後には江戸に下り、銀座頭を勤め
公儀より五十人扶持を下された。
宇右衛門の子の一人は、は公儀の御医師である小川宗春方へ養子に入り、後に宗春の名を継いだが、
無学にて家業を疎かにしたという。
外戚腹の男子は京の難波屋の養子となったが、これも放埒に金銀を遣い失い、身体を果たした。
しかしそれらの父宇右衛門はさすが行長の子であり器量が有った。当時、芝大仏に茶屋を一軒
借り置いていたが、近所で火事が出た時、彼は家財諸道具一切に構わずかの茶屋へ一家を引き連れ
立ち退いた。その姿を人々は笑ったが、宇右衛門はこう言った
「財宝は求め安い、しかし命は求めがたい。天下を望むのも、生命があってこそだ。」
(渡邊幸庵對書)
0074人間七七四年
2018/07/10(火) 15:18:13.18ID:tkEmB0NM0075人間七七四年
2018/07/10(火) 19:21:24.09ID:wjkq+BjH0076人間七七四年
2018/07/12(木) 15:31:24.37ID:m3mAOga4関ケ原にて、井伊兵部少輔(直政)へ永井右近(直勝)が見廻りに参られたところ、
兵部が申されたことには、「内々に思っていたのとは違い、上方衆はぬかっている。
あまり先を取ろうという気遣いがない」とのことであった。
(内々存候と相違上方衆は、ぬかり候中々先を致され可申との気遣なし)
また本多中務少輔(忠勝)の方へ見舞い申されたところ、中務が申されたことには、
「上方衆は先を取ろうとの気遣いがなかったが、この頃の様子を見申すに思いのほか
違って、まばたきの内にも先を取っているように相見える。
左様に御心得なされ」と申された。
(上方衆先を被致可申との気遣無之處此中の様子を見申候に思の外相違瞬目の内にも
先を取り候様に相見え候左様に御心得候へ)
――『日本戦史 関原役補伝(永井直清筆記、武功雑記)』
0077人間七七四年
2018/07/13(金) 08:35:18.29ID:LVuhrboZ0078人間七七四年
2018/07/14(土) 09:38:24.86ID:0uqXaRXi0079人間七七四年
2018/07/15(日) 12:18:31.01ID:LUY+taW2池田家臣の片桐半右衛門俊元*は元は織田家臣だったが、池田恒興が
桶狭間で戦功を挙げた際、信長に願い出て家臣にしたという。
同年には対斎藤龍興の押さえとして軽海西城を修築し居城とした。
その経緯上池田家中での立場は重く、恒興の四男・長政が9才のときに
息子がいない俊元の婿養子とした程であった。
池田輝政が三河国吉田を領するようになると、俊元は新庄城主となったが
慶長2年に亡くなったため、長政が片桐家の跡を継いだ。
ところが長政の正室だった俊元の娘が男子のいないまま早世したため
慶長10年に長政は、加藤嘉明の娘まんを継室として迎えた。
婚礼で嘉明が長政の屋敷を訪れると、輝政と利隆は丁重に接待したという。
11年には嫡男の長明が生まれたが、12年に長政が33才の若さで急逝してしまい
長明は母と共に松山に行き、そこでしばらく養われることとなったが
18年に輝政が死去し利隆が跡を継ぐと、長明は播磨に戻った。
ちょうどその頃5才になった光政(利隆の嫡男)が、長明の屋敷を訪れ
扇子を一旦長明にあげたものの、しばらくすると扇子を取り返してしまった。
そこに長明の母のまんが
「こんなことをする御心で、大国の大将になることが出来るでしょうか」
と言って、光政のお尻を強かにつねったという。
(光政が大人になった後)長明に向かって
「そちのお袋がきつい人なので、強かにつねられてしまったよ」
とこのことを話して笑うので、(その度に)長明は困っていたという。
――『明君逸事』
* 祖父は足利義晴に仕え、父の代から織田家臣となる。豊臣家重臣として
有名な片桐且元は正室がこの片桐家の娘で、同族であるという。
孫娘(池田長政娘)も且元の長男の采女に嫁いだ。
0080人間七七四年
2018/07/16(月) 16:13:14.19ID:sF4DeMO/慶長5年(1600)、関ケ原御陣の時、水谷勝俊は関東におり、その子・勝隆は4歳で
京都にいた。この時、石田三成は勝隆を捜索したので、その乳母は勝隆を背負って
摂津国山崎辺りへ逃れた。しかし訴人により小野木縫殿助(重勝)と川勝備後守(秀氏か)
が勝隆を捕らえようとかの地にやって来ると聞き、乳母はまた夜中に勝隆をだき抱えて
山崎のやのうらから小舟に取り乗って八幡の松坊へとやって来た。ところがここにもまた
島津の家人が尋ね来ると風聞したので、東山の麓にある近衛殿(近衛前久)の
龍山の幽居に赴いた。乳母は泣き告げて「これは水谷の児子でございます。君(前久)は
久しく彼の父を御存じでありましょう。どうかこの子の命を御助けください」と言った。
この時、近衛殿は憐れんで20日間、小風呂の中に勝隆を匿いなさった。その後、関ケ原
の凶賊等が敗北したので、勝隆は危険を免れることができたのである。
――『日本戦史 関原役補伝(寛永諸家系図伝)』
0081人間七七四年
2018/07/17(火) 17:16:20.74ID:HBQe+2EB織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光 ハリウッド映画化も
映画化か、面白そうだけど、まさか白人がノブ役するんじゃないだろな
0082人間七七四年
2018/07/17(火) 20:53:55.29ID:pQPinb+R0083人間七七四年
2018/07/17(火) 22:45:35.41ID:H5KjFGzu0084人間七七四年
2018/07/17(火) 23:37:05.03ID:IibntZeN特に関係なきゃスルーでしょ
0085人間七七四年
2018/07/18(水) 08:24:12.40ID:uXyvS12w0086人間七七四年
2018/07/18(水) 08:40:54.03ID:0wRJjWz40087人間七七四年
2018/07/18(水) 13:14:41.83ID:HI2wwpjF森武蔵守(長可)殿の家来に大塚主膳という者がいた。
(跡を継いだ)美作守(忠政)殿が川中島を領知していたとき
主膳の親(丹後守)は高遠城を預かり、在城していた。
主膳は近習として小室(小諸)城にいたが、所用で高遠城へ行った。
高遠城は山城なので、植え込みが山へと続いている。
その夜(主膳が)「囲のくさの間に寝る」と言うと、児小姓共が
「その部屋には化物がいて、寝る者を必ずたぶらかすのです」とささやいた。
主膳は若き者なので「どうして戯言を言うのか」と聞かない。
年老いた者も「入らないで下さい」と再三諫言したが(主膳は)
「左様なことがあるだろうか」と言って、(その部屋で)起きていた。
その夜主膳が横になっていると、得体の知れないものが体に上ってきて
一晩中そのままだったので、息も絶えるような心地になった。
東雲のころ(夜明けごろ)になってから探したが、どこに行ったか分からない。
主膳は無念に思ったがやりようがなく、その日には帰る約束だったが
とにかく他の理由にかこつけて城に留まった。
先の夜と同じく抜身の中脇差を小夜着の下に隠し、小夜着の裾を足に纏い
蹴ってはげるようにして、少しも寝ないで待ち構えた。
子の半刻になる頃には、眠くて仕方がない。
主膳は「化物は間違いなく今来るはずだ」と思うようにして
気を静めて少しも眠らず待ち構えていると、村雨が夥しく振り
風が吹き渡って、木々の梢をひどく鳴らした。
そのとき何かが縁側に上る足音がしたかと思うと、腰障子の掛金を
自力で外し(障子を)さらりと開け、主膳の上にぱっと上った。
そのとき主膳は小夜着を蹴ってはぎ、すぐ(化物を)切った。
(主膳は)化物が飛び退るより早く飛び起きて、障子を閉め掛金を掛け
次の間にいる小姓を起こし「蝋燭を持って来い」と言ったところ
(主膳の)親がその声を聞いて、十文字槍の鞘を抜き手燭を持って来た。
「何物かは分かりませんが、傷を負わせました。先に手燭を入れて下さい」
と主膳が言ったので(親は)障子を細めに開け、手燭を入れてから入った。
脇差に血は付いていたものの、(部屋には)付いていなかったので
この部屋より外には出ていないだろうと探したが、一向に見つからない。
思いがけずあちこち見ていると、見回す者の後ろに猿のような影が
壁に写っていたので、気づかなかった体で取って返し押さえた。
見れば狸であった。
切られた前足を口にくわえ血を吸い、血を下に落とさないようにして
人の陰に付いて回ったのは、畜生と言えども賢き物である。
(この狸が)来るときに村雨が夥しく降ったが、どこにもその様子はなく
飛び石も濡れてはいなかったので、不審千万であったらしい。
(狸は)台所に繋ぎ、四、五日人に見せた後に殺したという。
誠に勢い強く心が強ければ功は成るが、勢いが弱ければ功を遂げにくい。
だからこそ武士は、勇猛の心を日夜朝暮にひたすら願い求めるべきなのだ。
――『功名咄』
0088人間七七四年
2018/07/18(水) 14:57:40.88ID:P7fNmpSG>切られた前足を口にくわえ血を吸い、血を下に落とさないようにして
>人の陰に付いて回ったのは、畜生と言えども賢き物である。
怪談なのに妙にリアルだなw
0089人間七七四年
2018/07/18(水) 18:07:39.33ID:mmGCON2Aもしかして、後で美味しく頂きました?
0090人間七七四年
2018/07/18(水) 21:54:33.59ID:/NO3z8Xwそらもう餌断ちして臭みが少し減ったら〆て狸汁よ
0091人間七七四年
2018/07/18(水) 23:15:17.74ID:F+2jpvv+<´ 狸じゃ、狸の仕業じゃ! >
⌒ v'⌒ヽr -、_ ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: < _,ノ`' 、ヽ、_ ノ ;;;ヽ //
///// /:::: (y○')`ヽ) ( ´(y○') ;;| /
// //,|::: ( ( / ヽ) )+ ;| /
/ // |::: + ) )|~ ̄ ̄~.|( ( ;;;|// ////
/// :|:: ( (||||! i: |||! !| |) ) ;;;|// ///
////|:::: + U | |||| !! !!||| :U ;;; ;;;| ///
////|::::: | |!!||l ll|| !! !!| | ;;;;;;| ////
// / ヽ::::: | ! || | ||!!| ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: : | `ー----−' |__////
0092人間七七四年
2018/07/19(木) 07:31:41.10ID:d/QlK5mL| 〉`ヽ-―ー--< 〈 |
7 , -- 、, --- 、 ヽ
/ / \、i, ,ノ ヽ ヽ
| (-=・=- -=・=- ) |
/ < / ▼ ヽ > 、 はいはいワシのせいワシのせい
く彡彡 _/\_ ミミミ ヽ
`< ミミ彳ヘ
> ___/ \
/ 7 \
| /
0093人間七七四年
2018/07/19(木) 16:43:01.09ID:MMKjxULT0094人間七七四年
2018/07/19(木) 22:04:00.97ID:VToEx01u早雲寺宗瑞居士と言った。
彼は文武二道に達し、才知抜群の士であった。京都にあった伊勢貞国の外叔父の甥にあたる。
彼の先祖である伊勢伊賀守盛綱は、建武年中等持院殿(足利尊氏)による天下草創の時手越河原の戦いで
討ち死にした。以来代々、京都公方家の御供衆であり、また一族であったので代々伊勢守家伊勢氏と
相親しんでいた。
新九郎盛時は先年、今出川殿(足利義視)のお供をし伊勢に下ったのだが、関東兵乱の久しきを鑑みて、
時運に乗じて我家を興起せんと思ったのか、京には帰らず、駿河国府中の城主である今川義忠という人が、
駿河一国の守護にて盛時の姉聟であったので、これを頼んで新九郎は駿州へ下った。
その頃、隣国との合戦があって義忠は討ち死にし、その家督である五郎氏親はようやく7歳の幼児であり、
国政に関われるはずもなく一族老臣たちが我意に任せ威を争い、様々に分かれて合戦に及んだ。
このような中、新九郎は氏親を助け様々に和議を以てこの騒乱を集収し、終には駿河を平和に治め氏親の
世と成した。氏親はこの忠義に感じ入り、同国興国寺の城に富士郡を副えて新九郎に与えたのである。
(應仁後記)
現在の研究に照らし合わせて、「盛時」の諱なども含めて、相当正しく伊勢新九郎盛時の履歴を描いている應仁後記の記事。
0096人間七七四年
2018/07/21(土) 17:06:40.52ID:t7W75aUO熊谷伊豆守、香川左衛門尉、飯田越中守、山県筑後守、山田の一族である羽仁己斐以下の者達も
これに従って下向した。大内義隆はこれを大いに喜び、毛利に随従してきた者達には安芸への帰国を許し、
毛利父子四人は山口に逗留させた。この時、大内義隆は家臣である内藤氏の娘を養女とし、毛利隆元との
婚姻を望み、婚約を調えた。
また吉川元春と陶隆房に兄弟の昵契を結ばせた。
この時吉川元春からは吉光の脇差が引き出物として出され、陶隆房からは、天下無双の名馬である「近江黒」が
出された。この馬は近江の六角氏より将軍足利義晴へ奉られ、柳営より大内義隆に下されたのを、陶隆房が
給わり、この度春元に進められたのだ、と聞き及んでいる。
(安西軍策)
陶隆房と吉川元春が義兄弟とされた時のお話
0097人間七七四年
2018/07/22(日) 05:11:41.97ID:14knLVU50099人間七七四年
2018/07/23(月) 06:24:23.95ID:7+1YOzxD元忠(鳥居元忠)の茶道(茶坊主)に神崎竹谷という者がいた。すでに伏見城は破れて元忠
最期の時、竹谷は敵の大勢の中に駆け入り散々に切って廻ったが、敵兵は折り重なって
ついに竹谷を生け捕り、石田(三成)に注進した。石田は竹谷を召し出して伏見城の始終を
つぶさに問い、元忠の忠信類なきを聞いて、はなはだこれを感じた。石田は竹谷に向かって、
「新太郎忠政は父の戦死の有様がさぞかし気がかりであろう。汝は急ぎ関東に下って合戦の
次第を忠政に語るのだ」と言うと竹谷の命を助け、あまつさえ伝馬に乗せて東国に送った。
忠政は竹谷の物語りを聞いて亡父の忠死の潔きを知り、討死した家士らの妻子もみな最期の
様子を聞くことができたのである。
――『日本戦史 関原役補伝(鳥居家中興譜)』
0101人間七七四年
2018/07/23(月) 20:51:59.22ID:lDBGrq6m元就は考えた、「大友宗麟は無双の弓取りである。その上防長両国には大内義長に好の有る者達も
多い。彼らは何か有れば、志を変じ大友に靡き従う可能性もある。」
そこで元就は長男隆元を両国の押さえとして周防に下し、岩国の永興寺に在陣した。
このような所に、大友宗麟はこの年の2月中旬、豊前国神田の松山城を2万余騎もいぇ取り囲み
攻め破ろうとしたが、ここを守る天野紀伊守が能く城を守り、非常に堅固であったため。大友は
遠攻めへと戦術を切り替えた。
しかしこの事は、九州の高橋、長野といった国衆達が元より毛利に志深かったため、毛利隆元へ
飛脚を以って知らされた。隆元は即座に「後詰めの軍勢を出す!」と彼自身が防府まで進み防長の
軍勢を集結させた。
ここで、京の将軍である光源院(足利)義輝公より、毛利には聖護院、大友へは久我大納言殿が
使いとして派遣された
『近年諸国兵乱の事、これらは偏に、上を蔑ろにするが如き所業である。然らば、大友毛利は
速やかに和睦し、中国九州を静謐にする事こそ肝要である。』
こう言った旨が仰せ下され、両家は大樹の高命に従い和平を成した。
これによって九州表は無為となったが、隆元は「今なら大友も強く反発しない」と判断し、
門司、下関の城に兵卒を入れその支配を固めた。
その上で周防を出立し出雲へと向かったが、途中の芸州佐々部の宿にて急病を患い、8月14日、
享年41にて終に逝去されたのである。
(安西軍策)
毛利隆元が、将軍による大友との和平を利用して関門海峡を確保していたというお話。しかし直後…。
0102人間七七四年
2018/07/23(月) 20:58:21.15ID:UveR13y3■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています