武田勝頼、義信、盛信についてPart5
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0735人間七七四年
2018/06/16(土) 03:01:40.23ID:qWRnLxQwいや、貴方の妄想願望は非常にどうでもよろしいとは思う次第なのではございますが、
>勝頼の権力があんなに弱小だったのか
貴方の妄想願望とイメージで語られておられるようには思うのではございますが、
実際には信玄以来の重臣である内藤とかは、勝頼に対して
「信玄様時代以上に奉公しますので、自身達の立場とかを保証して欲しい。」と
勝頼に要請し、勝頼に書状を書いてもらっている、という流れなわけですしねえ。
既に何度も指摘されている事だとは思いますが
>信玄の時は上杉・徳川・北条の三方向から(1570年)。
この時は、上杉とはすぐさま甲越和与を結んだりもし、上杉と北条は長年の対立もあって、
上杉がろくに武田領土に攻め込む事はなく、それに激怒した北条が、
武田との再同盟を選択する、という流れですし、
徳川にいたっては、ろくに武田領土には侵攻してないわけですしねえ。
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
> あるいは織田・徳川・上杉の三方向から(1572年から1574年)。
これも何度も指摘されておりますように、上杉は1572年から1574年まで、
北陸一向宗と北条の相手をするために東西奔走を繰り返しており、
ろくに武田と戦ってはいないので、武田は普通に1574年の高天神城攻めとかに
2万5千もの大軍を動員したりしてますしねえ。
織田は包囲網の相手で東西奔走状態ですし、徳川相手には、武田は長篠までは圧倒的に優勢に進めておりますしねえ。
これらに関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
上記のように、普通に貴方が挙げた事例は、信玄の外交戦略などによって、
多方面攻勢をされないようになっている状況ですし、
御館以後の時は、長篠での損害に加えて、北条まで敵に回して、
織田・徳川・北条と三方向を敵にして、多方面策戦を数年続けた事で、
領国疲弊が起こっている、という流れなわけなのですが、
これらの件に関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。
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