>>81
いやいやいや、普通に>>70に書いてありますように、
こちらは一度の野戦で全てを決する、なんて一言も書いてないように
思われる次第なのでございますが、何をどうお読みになられたのか、について、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
実際にこのようなやり方を朝倉浅井が志賀陣で行っておりまして、普通に信長を土下座降伏宣言和睦詐欺を行わざるを得なくなるほどに
追い込んでいる次第なわけでございますが、この件についてはいかがなものなのでございましょうかねえ。

仮に岐阜城に信長がこもった場合、武田・朝倉・長島、がそれぞれの侵攻ルートにおいて、
織田の領域を制圧していくだけのように思われる次第でございますかねえ。
で、それらの諸城は岐阜にこもって織田が救援にこない、となりますれば、
普通に数年しか付き合いのない、それも基本的に放任主義の織田家に対して、
当時の自力救済の価値観的に、玉砕するまで付き合う義理はないわけでございますから、
次々と包囲網側に対して離反していく、という流れになるように思われる次第でございまして、
普通に美濃の大部分を包囲網側に制圧され、岐阜にこもる織田勢も、諸城を助けにいかない織田家に対して
次々に離反するものが続出していくように思われる次第でございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。

甲斐からの後詰が現実的じゃない、とか喚かれておられますけれど、甲斐から美濃への侵攻距離以上の距離を、
普通に今川とかが侵攻したり、後詰したりしているわけでございますが、特に問題はないように思われる次第でございますかねえ。

普通に美濃と近江を制圧してから、京都に進軍するように思われますかねえ。