武田信玄が長生きしていたら、天下を取れたのか?6
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0068人間七七四年
2018/03/05(月) 13:30:46.67ID:rqrrIfqmそもそもの問題として、それは軍鑑の話なわけでございますしねえ。
勝頼の継承経緯とか、立場に関連する軍鑑の記述に関しては、
色々と問題があるように思われる次第でございますしねえ。
まず、勝頼は軍鑑での記述とは異なり、史実では「家督を継承しました。」的な書状を普通に
出しておりますし、各地の勢力からも家督継承を祝われたりしておりますし、
勝頼と敵対した穴山信君も普通に「我が国の太守勝頼公は、その在位は10年であり〜」
的に書いておりますし、一次資料的には普通に勝頼は家督を継承していたと考慮するのが自然なように思われる次第でございますかねえ。
で、年始の重臣会議がどうとか、おっしゃっておられますけれど、
これも軍鑑によるものでございまして、実際にそこまで重臣達の会議が勝頼より優越していたとは考慮しにくいように思われますのは、
勝頼が武田家の戦略などについて、普通に指示などを行っている書状などが多数残っている事や、
その重臣達である内藤達が、勝頼が家督を継承した直後において、
「これからは信玄様時代以上に奉公いたしますので、自身達の立場などを保証して欲しい。」的に勝頼に申し入れ、
勝頼が「それならば内藤達などを粗略には扱わない。」的な書状を出している事からも、
明らかなように思われる次第でございますかねえ。このような経緯を、鴨川氏などは内藤などは
それまで疎遠だった勝頼が家督を継承した事からの粛清などを警戒し、このような申し入れを行ったのではないか、的な
説を述べておられるわけでございまして、普通に勝頼は当主として家督を継承し、
それまで疎遠だった重臣達が粛清される事を警戒して、
「これからは信玄様時代以上に奉公いたしますので、自身達の立場などを保証して欲しい。」的に申し入れる程には、
権力やら権威やらを保有していた、という事になるように思われる次第でございますので、
普通にそのような重臣会議でのハブがどうとか、そのような事がありまえしたのかどうかは、
非常に疑問のように思われる次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
で、ついでに、信玄は義信が死亡した後に、普通に勝頼を甲府に呼び戻して、
後継者としての扱いを行っておりまして、将軍義昭にも「勝頼に対して一字拝領と官位叙任をお願いいたします。」
的な書状を出しておりますので、
(これは信長と義昭の主導権争いの中でお流れになってしまった、とされており、
これが信玄が織田と敵対する要因の一つにもなっている、と述べられている学者さんもおられる次第でございますかねえ。)
普通に勝頼を当主として継承させるつもりで行動していた事は明らかなように思われる次第なのでございますがねえ。
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