【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その26
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0001人間七七四年
2018/01/08(月) 00:15:18.78ID:ZBMRAJhn炎上して無い関連スレは、過疎回避にこちらへ誘導願います。
【辞世の句】
嬉やと 再び醒めて 一眠り
浮世の夢は 暁の空
先に行く 後に残るも 同じこと
連れて行けぬを 別れとぞ思う
前スレ
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その25(c)2ch.net
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0610人間七七四年
2018/10/28(日) 00:35:42.41ID:BTvFl9XN寄親寄子で疑似親子・疑似氏族関係で主従関係を結ぶ
鎌倉殿と室町殿を踏襲したに過ぎない
諸大名は豊臣長者に従うのが筋
天皇行幸と関白職はただの箔つけよ
0611人間七七四年
2018/10/28(日) 13:13:18.59ID:pmFeMDUU織田徳川ら愛知県人の苦闘と信長の遺産を食い潰して、信長の家族を一周忌もたたないのに殺しまくり
主家を乗っ取った秀吉のおかげで天下人のお膝元になった事実を理解すべきだろうな。
大阪人はうまく行き過ぎた横領の記憶を忘れられないらしい。彼らは金儲けのためなら歴史を捏造するし都合のいい解釈をおこなう。
0612人間七七四年
2018/10/28(日) 13:46:01.10ID:iaRQAR1J0613人間七七四年
2018/10/28(日) 13:46:19.16ID:iaRQAR1J0614人間七七四年
2018/10/28(日) 13:46:44.80ID:iaRQAR1J0615人間七七四年
2018/10/28(日) 13:48:14.89ID:iaRQAR1J0616人間七七四年
2018/10/28(日) 13:49:01.92ID:iaRQAR1J0617人間七七四年
2018/10/28(日) 16:44:27.06ID:BGxy7iwn0618人間七七四年
2018/10/28(日) 22:23:52.21ID:pmFeMDUU天下人のお膝元とか言って勘違いしているが、信長が生涯をかけて育てた織田家を乗っ取っただけの話だ。
それに信長の家族を殺しながら1583年に建て始めた大阪城は主家乗っ取りの記念碑と言っていい。
主家乗っ取りをした関白左大臣殺しの豊臣家は滅びる運命だったと思うよ。信長の20年来の盟友の手で滅んだのだから因果応報だ
「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」 織田信孝
0619人間七七四年
2018/10/28(日) 22:31:26.12ID:pmFeMDUU弔い上げで豊臣家が滅亡したわけで、織田信孝も満足して成仏しただろう
0620人間七七四年
2018/10/29(月) 01:10:47.64ID:AYzzBn2p0621人間七七四年
2018/10/29(月) 01:11:12.42ID:AYzzBn2p0622人間七七四年
2018/10/29(月) 10:38:21.06ID:tk/AhyYn93歳の長寿をまっとうし、真田家は10万石の大名として存続した。それなのに幸村ときたら・・・
白髪歯抜けでお兄様に仕送りされてなんとか生き延びたんだっけ。愚かなことだ。
「去年よりにわかに年より、ことのほか病者になり申し候、歯なども抜け申し候、ひげなども黒きはあまりこれなく候」真田幸村
0623人間七七四年
2018/10/29(月) 12:28:47.17ID:7x3AJER/将軍は朝廷を攻撃する勢力を討つ権利はあるが、それ以外はただの私戦だぞ
0624人間七七四年
2018/10/29(月) 12:42:10.13ID:tk/AhyYnその科学テロは当時最高の学者である林羅山や五大学に相当する五山が認める犯罪行為だった。
豊臣のしたことを現代に置き換えるなら、
化学兵器の薬物で、主権者の国民から政治を任されている内閣総理大臣と政府にたいして科学テロをおこなって
ヤクザやごろつきを集めて国家反逆罪をしたのと同じだ。
んで、その容疑者の秀頼いわく「俺は関白だ!豊臣こそが天下のあるじ!」。当時の関白左大臣は鷹司信尚で、右大臣征夷大将軍は徳川秀忠。
秀頼は妄言を吐いているテロリストにすぎない。右大臣征夷大将軍としては討伐せざるえんよ。科学テロの証拠物件は方向寺に残っている。
0625人間七七四年
2018/10/29(月) 13:11:12.53ID:tk/AhyYn「何よりも悪いことと考える。見逃してそのままにはできない。」
天龍寺
「承知できることではない。」
南禅寺
「前代未聞である」
相国寺
「好ましいことではない」
建仁寺
「好ましいことではない」
林羅山
「源を射るという意味だ。無礼で不法極まりない。沙汰の限りである。呪詛調伏の心」
銘を刻んだ清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁された
現代なら、東大医学部、京大医学部、慶應医学部、東京医科歯科大学医学部、名古屋大学医学部あたりが科学テロというようなもの。
大阪府が日本政府に科学テロがおこないヤクザをあつめて国家反逆罪をおこしたら、内閣総理大臣はどうするか。自衛隊はどう動くか。考えればわかること
0626人間七七四年
2018/10/29(月) 14:51:20.92ID:oZFpC41V1603年の江戸開府に始まり、1867年の大政奉還に至る265年に及ぶ徳川幕府の政権は、
多少の混乱はあったものの、世界史的に見ても類を見ない「長く平和な治世だった」と内外から高い評価を受けている。
そんな江戸時代の基礎を築いた家康だが、その「偉大な実績」とは裏腹に、意外と人気は乏しく、「嫌われ者」になることも多い。
なぜ「成功者」であるはずの家康は、日本人に嫌われるのか。
その理由を知ることは、ビジネスパーソンの「処世術」としても役に立つ。
0627人間七七四年
2018/10/29(月) 15:04:20.93ID:oZFpC41V【理由1】「華々しさ」も「潔さ」もない
家康には、私たち日本人が好む「ヒーロー」の要素がありません。
源義経や織田信長、真田幸村など日本人が好きな武将には、「戦場で華々しく活躍する英雄」としての姿や、逆に「志半ばで潔く散っていく悲劇の英雄」としての姿があります。
また豊臣秀吉には、「農民の子から天下人へ大出世した」という物語があります。
これに対して家康は、武田信玄に惨敗した「三方ヶ原の戦い」では命からがら逃げる途中、馬上で「お漏らし」しながらもしぶとく生き長らえました。
また、「権力者」である秀吉に勝てないと悟ると、すぐさま屈服し、関東への転封を命じられると、意地やプライドはあっさり捨てて受け入れてしまいます。
日本人が好む「華々しく活躍する英雄」あるいは「潔く散る悲劇の英雄」、そのどちらの姿がないのも、家康が日本人に好かれない一因でしょう。
0628人間七七四年
2018/10/29(月) 15:05:38.34ID:oZFpC41V日本人の大好きな「絆」も、家康にとってはしょせん、出世のための「ツール」にすぎません。
まだ三河の小大名だったころは隣国の今川義元に従属していましたが、「桶狭間の戦い」で織田信長が義元を破ると、今川を見限って織田と同盟を結びます。
その信長が「本能寺の変」に倒れると今度は豊臣秀吉に従いますが、秀吉が病で死去するや豊臣家をないがしろにし、ついには「大坂の陣」で豊臣家を滅亡へと追いやります。
こういう「義理」に薄い、「人情」を大切にしない「薄情さ」が、日本人に嫌われる要因でしょう。
【理由3】「タヌキおやじ」と呼ばれる「ズル賢さ」
彼の政治手腕は、「タヌキおやじ」と陰で称されるほど「狡猾」です。
三河の大名時代、領内での一向一揆に手を焼いていた彼は、いったん一揆側と和睦を結び、彼らを解散させます。しかし、一揆側が解散するや否や、途端に手のひらを返して、武力で一揆側を弾圧しました。
後の「大坂の陣」でも、最初の「冬の陣」で豊臣秀頼と表面的には和睦しながらも、その陰で大坂城の総堀を埋め、翌年の「夏の陣」では豊臣家を滅ぼすというやり方も「狡猾」そのものです。そういう「ズル賢さ」「狡猾さ」が、家康が嫌われる一因でしょう。
0629人間七七四年
2018/10/29(月) 15:23:20.21ID:qW+Snzis0630人間七七四年
2018/10/29(月) 15:51:17.39ID:tk/AhyYn大阪のやつらが大阪城と豊臣を金儲けの核にすえているからだよ。
天下人の関白殿下のおひざもととプロパガンダを流しているからだ。
でもね、お前ら大阪の人間は、南無阿弥陀仏と連呼しながら宗教戦争をしていたやつらの末裔だろうと言いたいね。
織田家や徳川家などの愛知県の人たち苦労して平定していった戦いを妨害し、天下を最後の最後に盗み取ったやつらの末裔だろうと。
長島や三河の一向一揆で妨害しまくり包囲網を築いて時代を遅らせた張本人だろうに。
秀吉は主君の信長が殺されると、1年で信長の家族を殺しまくり、宗教戦争をしていた総本部である大阪に信長が殺されて1年後に城作りを始めた。
家康はそれらの間違ったものを正しい姿に戻したんだよ。
0631人間七七四年
2018/10/29(月) 16:03:33.49ID:tk/AhyYn上洛戦
朝倉征伐
金ヶ崎の撤退
姉川の戦い
長篠の戦い
甲州征伐
天下平定は織田と徳川の共同事業だった。
それを織田家の飼い犬である秀吉が横からかっさらって天皇の権威を利用して1590年に織田家を滅亡させたのが史実だな。
家康も敵地の関東に黙っていかなければ改易にされていただろう。盗人の豊臣によく我慢したものだ。
暴君の詐欺師である秀吉が死んだあとは、内大臣として政治をおこない、征夷大将軍として260年の平和を築いた。よくやったよ。
0632人間七七四年
2018/10/29(月) 16:07:01.80ID:tk/AhyYn三方ヶ原の戦い
この2つも追加だ。織田と徳川は苦楽を共にした共同事業者だ。
0633人間七七四年
2018/10/29(月) 18:38:06.88ID:oZFpC41V0634人間七七四年
2018/10/29(月) 20:19:29.88ID:sId7kNJd0635人間七七四年
2018/10/29(月) 22:49:00.38ID:tk/AhyYnそれも恩をかけ下層民から引き上げてやった男に乗っ取られるとは。実力主義、能力主義の弊害ってやつだな。子飼いに忠誠心がない。
上杉から敵前逃亡した秀吉を軍律にしたがって殺さなかったことと、佐久間らを排除したのが間違いだった。
家康にとっては20年ごしの盟友で、上洛、朝倉征伐、金ヶ崎撤退、包囲網、姉川、三方ヶ原、長篠、甲州征伐と協力してきて
天下平定が見えてきたと思ったら乗っ取りで、盟友が崩れたのだからな。日米同盟でアメリカが崩壊したような感じか。
家康はよくぞ大阪の陣で信長と信孝の仇をとってくれた。「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」だ
0636人間七七四年
2018/10/30(火) 14:26:15.74ID:ThOH07tu0637人間七七四年
2018/10/30(火) 14:32:28.53ID:Zi9KX/6n0638人間七七四年
2018/10/30(火) 22:06:31.38ID:b4l6SuBp0639人間七七四年
2018/10/31(水) 02:16:50.94ID:UhUDsU7B0640人間七七四年
2018/10/31(水) 02:17:08.46ID:UhUDsU7B0641人間七七四年
2018/10/31(水) 02:17:38.33ID:UhUDsU7B0642人間七七四年
2018/10/31(水) 02:18:35.64ID:UhUDsU7B0643人間七七四年
2018/10/31(水) 02:19:45.61ID:UhUDsU7B0644人間七七四年
2018/10/31(水) 02:40:28.95ID:dk+3tmyb当時は織田家の滝川を倒した北条が甲信に攻めこもうとしていて、
北条の侵攻を防ぐ必要があり、秀吉は家康に手紙を送って家康が甲信をおさえることをすすめている。
織田家筆頭家老の柴田勝家も甲信に兵を出して北条の侵攻を食い止めた家康の行動を手紙で賞賛している。
徳川家康公のスレに来ながらこんなことも知らんのか。
0645人間七七四年
2018/10/31(水) 10:27:52.80ID:fJD3JKDRそして豊臣傘下から独立か
0646人間七七四年
2018/10/31(水) 13:09:43.20ID:dk+3tmyb1582年以降は、日本史の教科書にも書かれている惣無事令と2度の聚楽第行幸の意味が大きい
1584年に檄文を発して織田家を簒奪した逆賊の羽柴秀吉と戦った家康は
1585年に惣無事令が発令されて帝の臣従し戦を止めるように呼びかけられたため、
1586年に家康は呼びかけに応じて天皇に臣従した。
1588年に聚楽第行幸があり、家康ら諸大名は帝に臣下の礼をとり、1592年にふたたび聚楽第行幸があり帝に臣下の礼をとった。
1598年に太政大臣が死に、大臣以外は不在。以降家康は最高位の武家である内大臣として業務を行い、秀吉に娘を殺され流罪にされていた右大臣の職を戻したりしている。
1600年に後陽成天皇が下賜して出陣した軍に石田三成が謀反をおこしたので鎮圧。
1601年に関白左大臣が任命され、1603年に右大臣征夷大将軍が任命。以降は幕府が天下を統治した。
しかし1614年に豊臣秀頼がテロをおこなって謀反をおこし1615年に滅亡した。
という流れだな
0647人間七七四年
2018/10/31(水) 13:51:37.45ID:dk+3tmyb1570年
大阪人は本願寺とともに死ねば極楽と主張し念仏を叫びながら織田信長に徹底抗戦をはじめ
以後11年の長きに渡って織田家と対立。弟信興を殺す。
1580年 大阪人は織田家に降伏
1582年 秀吉に呼び出された織田信長が途上で殺される
1583年
4月秀吉に信長の側室坂氏と孫娘が串刺しにされて殺される。6月信長の息子信孝が殺され信長の妹お市が重臣柴田と殺される
「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」 織田信孝
大阪城築城はじまる。8月秀吉の寄進を受け本願寺が大阪天満本願寺で再建される
1585年 天下人のお膝元
1590年 織田信雄が改易にされて流罪。織田家滅亡
1595年 豊臣が関白左大臣一家を虐殺。右大臣の娘を殺し右大臣を流罪
1614年 豊臣秀頼が幕府に謀反をおこす
1615年 豊臣家滅亡
0648人間七七四年
2018/10/31(水) 14:20:56.74ID:2daRGV9U信雄等に返却してないだろ
とにかく騙すのが得意な男だし
0649人間七七四年
2018/10/31(水) 15:08:45.79ID:XmoLssb1遺領配分を決めた清洲会議で甲斐信濃は議題にも上がってないが
滝川一益が領していた上野も天正壬午の乱で北条が領することになったがここも清洲会議では
議題に上がってないし織田家から北条に上野を返せとも言ってない
もう少し勉強したら?
0650人間七七四年
2018/10/31(水) 15:10:58.29ID:Ecz2vPep0651人間七七四年
2018/10/31(水) 17:36:11.24ID:pu8LSQ340652人間七七四年
2018/10/31(水) 17:47:58.72ID:dk+3tmyb信長の後継者とか言ってしまう人たちの口のうまさにはかなわないよ。
信長が死んで3年で関白になり惣無事を宣言して聚楽第行幸を2度もして関白の正当性を訴えながら
その関白一家を皆殺しとか。しかもそんなことをしておいて、豊臣が忠義を尽くすのが当然とかのたまう。
この詐欺師の手腕は真似できない
0653人間七七四年
2018/10/31(水) 19:58:43.34ID:Bu6AXxn2そういう話は知っていて、それでも掠め取った、と書いた
当初は同盟だったのだろうが、もう駿河拝領の頃には完全に家臣
家康家臣の日記にも信長を「上様」と記載
織田家に従っているのなら返却して当然の話だろうが
しかし現実にはそのまま横領したろう
何が盟友だよ、片腹痛いわ
0654人間七七四年
2018/10/31(水) 20:50:19.88ID:Ecz2vPep0655人間七七四年
2018/10/31(水) 21:03:19.55ID:5DHNtCmD家康は信雄信孝に許可を得た上で天正壬午の乱に臨んでるし逐一経過報告もしてる
その際信雄らから切り取り次第のお墨付きをもらってる
織田家として領有権を放棄してるんだよ
北条が侵攻してきてたし秀吉勝家含め織田家側に対処する余裕がなかったから
織田体制傘下の家康に防波堤になってもらった形で切り取り次第はその前恩賞と考えてもいい
だから後に家康信雄が結んだときも信雄は甲斐信濃を返せとは言ってない
0656人間七七四年
2018/10/31(水) 21:13:42.62ID:7BUTAIkaせるという大義名分がある
信雄臣従後、彼が後陽成天皇を招く準備を整え、謀反の疑いで改易にされた際も2万石と
いう堪忍分まで与えていて、ここまでやっても後に大名に戻している
関ケ原の戦い以後に再び改易されているが、これは家康の判断
徳川が秀頼を攻撃する時、天下は統一されていて、攻撃の動機は徳川の天下を盤石に
するためという私欲に満ちたものでしかなかった
秀頼は朝廷に弓引く者ではなく、大坂方への攻撃は征夷大将軍の職務とはいえ
ず、しかも秀頼との君臣関係を清算せぬままで攻撃をしたので謀反に当たる
最終的に織田家の血筋の者でもある秀頼を殺して国松まで斬った
辛うじて太閤秀吉公の血筋は完子を通じて現代の皇室や浅野家に残っているが、直接の
子孫は絶やされることになった
0657人間七七四年
2018/10/31(水) 21:14:46.79ID:dk+3tmyb3ヵ月後に秀吉に呼び出された信長が殺されたわけで。滝川が負けた時点で余裕がない。
織田家の内側では秀吉が簒奪をはじめていて、三法師に家督、後見を信孝にしているのに、
信雄に臣従して対立をあおったりしているわけで。織田家からの提案で家康は東を固めたわけだよ。
んで、信長が殺されて1年後の1583年6月までに、秀吉は信長の側室や孫娘や息子や妹や筆頭家老をぶっ殺して簒奪に成功し
信雄をのぞくこうとして小牧長久手で家康が大義の戦をしたわけで。
0658人間七七四年
2018/11/01(木) 02:00:22.05ID:K8zNHKQ30659人間七七四年
2018/11/01(木) 02:00:45.77ID:K8zNHKQ30660人間七七四年
2018/11/01(木) 02:01:59.11ID:K8zNHKQ30661人間七七四年
2018/11/03(土) 13:08:41.55ID:gkD/7B4H1560年代
大阪人「なもまみだぶ、なもあみだぶ、三河で一揆やでぇ。家康めぇ」
1570年代
大阪人「仏敵信長! 織田家滅べや、死ねば極楽、なもあみだぶつ」
1580年
大阪人「ごめんなんさい。織田家にはもう歯向かいません、南無阿弥陀仏」
1582年
大阪人「本能寺? 信長ざまぁああw 家康が堺にいる? 死ねやぁ」
1583年
大阪人「ひゃっはー織田家の人間が死んでくでぇ。織田家は大阪のもんや。秀吉さんもっとやったれ。大阪城つくるでぇ」
1585年
大阪人「関白さんのお膝元やw 近衛さんありがとなw」
1588年
大阪人「ほれみい。天皇はんも聚楽第に行幸して関白殿下と大阪の天下を認めてる」
1592年
大阪人「ほれみい。天皇はんも聚楽第に行幸して関白殿下と大阪の天下を認めてる」
1595年
大阪人「太閤さんのお膝元やw 関白? 殺生関白なんぞ知らん」
1600年
大阪人「たぬきめぇ徳川めぇ石田三成は大儀の人!」
1601年
大阪人「関白左大臣が九条はん?関白は豊臣のもんやろ」
1603年
大阪人「右大臣征夷大将軍が家康だとぉ」
1605年
大阪人「なんやて秀忠が征夷大将軍だとぉぉお奴は豊臣の家臣だろうが。関白左大臣が近衛信尹ぁ? 関白は豊臣のもんや!」
1614年
大阪人「国家安康、君臣豊楽、徳川を呪いころしてやるでぇ。浪人集めて挙兵や!」
1615年
大阪人「ごめんなさい。許してください。」
1615年、右大臣征夷大将軍に率いられた幕府軍によって逆賊豊臣家は滅亡した。関白左大臣が鷹司信尚のときである
0662人間七七四年
2018/11/03(土) 14:23:52.47ID:jwlbAtZR0663人間七七四年
2018/11/03(土) 19:07:58.71ID:99MvXLfZ0664人間七七四年
2018/11/03(土) 23:24:04.61ID:zY3gAyLz0665人間七七四年
2018/11/04(日) 02:47:00.36ID:/tp68XAd0666人間七七四年
2018/11/04(日) 02:47:42.90ID:/tp68XAd0667人間七七四年
2018/11/04(日) 09:47:52.19ID:6uWCBKa3極悪人 徳川詐欺康
0668人間七七四年
2018/11/04(日) 10:52:39.57ID:krEBjw4wもともとれっきとした独立勢力で、秀吉に懇願されて政権に参加し協力することで
統一事業を加速させたんでむしろ貸しがあるのはこちらのほうだと思っていたかも知れない
関東移封も北条攻め勲功第一に対する当然な報酬であると同時に東国鎮定の役割を担わされた面がある
後見を頼まれたっつったって秀吉が自分で豊臣家を子供一人のスカスカにした挙句
その尻拭いを家康に押し付けただけで、何の実力もなくなった豊臣家を
家康が徳川家を挙げて助けるほどの義理などない、何度も言うがもともと独立勢力で
時の勢いでやむなく服属しただけというのが実態なんだから
それは他の独立勢力だった諸大名も同じで譜代重恩でもなんでもないから家を賭してまで豊臣家を助ける義理はない
だから関ヶ原で反徳川派が一掃されるとほぼ全ての大名が実質豊臣家を見限り徳川に鞍替えした
全国の大名が徳川家の統制下に置かれた状態で徳川家の号令の下に全国の大名が
豊臣家を滅ぼしたんだから、それはもはや謀反とか反逆とかではなくむしろ新たに定着した
徳川体制に豊臣家が逆らって滅ぼされたというほうが正しい
何しろ大坂の陣で家を挙げて豊臣に味方した有力大名が皆無だったんだから
もはや豊臣家を主君とも天下人とも思っていなかったことになる
武家の主従関係なんてのは源平の昔からこちらについたほうが得だと思われる方に
鞍替えするのが当たり前で、恩義だとか名目などはわずかな例外があっても基本功利的でドライなもの
徳川幕府だって勢威が衰えた幕末には譜代や親藩まで新政府軍に鞍替えされたんだから
いつまでも半島の人ばりに怨むなら、豊臣家を独り立ちできぬほど弱体化させ
求心力を失わしめた張本人の秀吉をこそ怨むべきだね
豊臣家自体にちゃんと力があればあんな滅び方はしなかったよ
0669人間七七四年
2018/11/04(日) 11:50:10.23ID:sbjlx7dMだがそれは無理が通れば道理が引っ込むの類に過ぎない
あくまで形式論だと家康は反逆者
0670人間七七四年
2018/11/04(日) 12:37:45.32ID:krEBjw4w家康が反逆者というならその家康についた全国の大名も反逆者ということになるんで
豊臣家の主観で言えばこの世の全てに反逆されたという滑稽な図式になる
この世の全てに反逆されないだけの手を打ち、それだけの力を持てなかったわけで
そりゃ滅亡して当然だわという話
0671人間七七四年
2018/11/04(日) 12:49:57.36ID:0GrYAOUG力関係が逆転すれば主従関係もそれまでよ
0673人間七七四年
2018/11/04(日) 13:31:13.03ID:Q5ZpFF2eで、薩長がその通りのことをした
ところが秀吉は政権への執着が強かったので、秀頼を頼むしか言わなかっただけだな
0674人間七七四年
2018/11/04(日) 13:34:36.40ID:krEBjw4w秀吉も「勝てば官軍」で五摂家からゴリ押しで関白を騙し取ってるんだし
何か豊臣家を天皇家と同一視してない?日本に天皇家という絶対権威がある以上
豊臣家は他家に頼らず自ら他の諸大名を畏服させるだけの力を持ち続けなければ
他にそれだけの力をもつ勢力が現れ天皇からお墨付きを貰えば
取って代わられるのはやむを得ないことでしょう
残念ながら豊臣家はそこまでの絶対的な家柄でも地位でもなかったということでむろんそれは徳川家も同じ
「勝てば官軍」なんてそれこそ源平の昔から自分の家と領地を守るための武士の行動原理なんで
豊臣家にだけその法則の適用は許されないというのはちょっと宗教がかった見方と言わざるを得ないな
0675人間七七四年
2018/11/04(日) 14:46:49.21ID:rHM1wt4Q公家なら従二位は従一位に従うのがすじだし
義理の息子なら義父や義祖父には敬意を払うべきだし
武家の棟梁なら大阪の陣で出陣して陣頭指揮をとるべきだろうし
若者なら「非常に太っていて自由に体を動かすことができない」「世になきお太り」なんてのは非常にまずい
161kgの体重は太りすぎ。体を動かさずに食いまくっていたのだろう。脆弱のデブで馬にすら乗れず出陣できない。
裏切りで成り上がった恩知らずの息子なのに、勘違いしちゃった成金のぼんぼんが豊臣秀頼。常識のないキモオタみたいなやつだろうね
0676人間七七四年
2018/11/04(日) 16:03:58.99ID:rHM1wt4Q加持祈祷の時代に呪いをかけるのはテロ行為の相当する。
しかも東大、京大、慶大、などの医学部に相当する五山や、当時最高の識者として名高い林羅山たちが
東福寺
「何よりも悪いことと考える。見逃してそのままにはできない。」
天龍寺
「承知できることではない。」
南禅寺
「前代未聞である」
相国寺
「好ましいことではない」
建仁寺
「好ましいことではない」
林羅山
「源を射るという意味だ。無礼で不法極まりない。沙汰の限りである。呪詛調伏の心」
と言っているわけで、征夷大将軍に従わない武家で、従一位の目上に従わず、義父に敬意を払わず、浪人を集めて国家反逆罪をおかした自制心のないデブを
右大臣征夷大将軍の職にある人間が討伐するのは当然のことだ。
そもそも豊臣自体が織田家を簒奪して成立した不正の家で、諸大名を聚楽第行幸で帝に臣従させることで、関白として命令をだし、太政大臣として命令をだすことで成立していた。
大阪の陣のときの豊臣には何の権利もない。
0677人間七七四年
2018/11/04(日) 16:19:17.37ID:rHM1wt4Q後陽成天皇の下賜と
元太政大臣家からの下賜を受けて出陣した
当時最高位の武家大臣である内大臣に、謹慎中だった元奉行が謀反をおこしておこった戦いだ。
石田三成に大義はない。
1601年に関白左大臣が任命され、1603年に右大臣征夷大将軍が任命されて幕府が成立した以上
豊臣が従うのは義務といえる。1614年当時の関白左大臣は鷹司信尚、右大臣征夷大将軍は徳川秀忠だ。
秀頼は呪術でテロをおこなったテロリストにすぎない
0678人間七七四年
2018/11/04(日) 16:33:03.67ID:PhLChSCgアホ康がそんなこと言うわけねえだろ
捏造だよ捏造
家康語録なんてほとんどが後世の捏造だからな
まともに信じてる奴はアホ
0679人間七七四年
2018/11/04(日) 16:45:45.72ID:rHM1wt4Q家康の名言と言われている
「天下は一人の天下にあらず。天下の天下なり」は六韜三略の六韜の名言だ。
まぁ古典を読んでいれば豊臣家というのがどうしようもない悪党の家とわかるもの
0680人間七七四年
2018/11/04(日) 22:03:47.53ID:NiVNN6u+豊臣家とて武士の行動原理の法則は受けるから「無理が通れば道理が引っ込む」の通り
滅亡に追いやられたよ
ただしその理屈は別に徳川家康は謀反人という事実を消すことはできない
関白は天皇の代理人なので関白の命に逆らう事は天皇に逆らう事だから全国の朝臣は
個々の主従関係を飛び越えて関白に自動的に従う義務が生まれる 従わなければ朝敵
になるだけだから
ただし、征夷大将軍はこの理屈は使えない
征夷大将軍は朝廷に仇なす敵を討伐する職なので、秀頼が朝廷にとって脅威にならない限り
命に従う義務が生じないからだ
つまり形式的には大坂の陣は私戦にすぎなくなる
私戦の場合だと個々の主従関係がものをいうので、徳川が主従関係を破棄する宣言をした形跡
は見られない以上、形式的には謀反、それだけの話しかしてないよこちらは
なんでこの点がそんなに気に入らないの?
0681人間七七四年
2018/11/04(日) 23:00:09.40ID:rHM1wt4Q幕府をひらき日本の政府を率いる右大臣征夷大将軍に呪いでテロをおこなっておきながら反逆の意思はありませんなんて通らん。
0682人間七七四年
2018/11/04(日) 23:37:18.30ID:NiVNN6u+徳川家と徳川家の覇権を守るため、という私的な魂胆であることは帝で
なくとも誰でもわかったハナシ
だから一度は認めた鐘銘に因縁をつけるなどという器の小さい事までやってる
0683人間七七四年
2018/11/05(月) 01:07:34.53ID:NazrBtso幕府に逆らうってのはようは徳川家の当主に逆らうって事は意味しても、天皇の敵
とは必ずしもならない事に注意
日本の政府って何時の時代でも朝廷だよ
武力という実力さえあれば、ここを形式的にも押さえられる関白が最強
己と天皇を同一視させられるからね
将軍にはこれができない
0684人間七七四年
2018/11/05(月) 01:24:24.22ID:ZhZ8yG4o0685人間七七四年
2018/11/05(月) 01:24:48.95ID:ZhZ8yG4o0686人間七七四年
2018/11/05(月) 01:25:08.71ID:ZhZ8yG4o0687人間七七四年
2018/11/05(月) 01:35:18.92ID:HVaJZSRR太政大臣 全官職の最高位。職掌は特にないが最も重く扱われる。
左大臣 政務を実質的に総裁する。
右大臣 政務を実質的に総裁する。左大臣が欠員の場合や、左大臣が関白を務めている場合に、代わって政務を総裁する。
内大臣 政務を実質的に総裁する。左右大臣が欠員の場合や、何らかの事情で出仕しない場合などに、代わって政務を総裁する。
征夷大将軍 夷敵を征討する天皇の代理。鎌倉室町とつづく武家の棟梁を意味する職
1598年
内大臣徳川家康・・・関白左大臣殺しの太政大臣が死んだ時点で、他の大臣は不在。政務を実質的に総裁する
1603年
右大臣征夷大将軍徳川家康・・・政務を実質的に総裁する右大臣で武家の棟梁。
1614年
右大臣征夷大将軍徳川秀忠・・・政務を実質的に総裁する右大臣で武家の棟梁。
0688人間七七四年
2018/11/05(月) 01:59:43.22ID:NazrBtso賜豊臣姓 豊臣氏人
豊臣家は武家摂関家、豊氏長者、兼藤氏長者
個人の官位官職より家格が重視される
0689人間七七四年
2018/11/05(月) 04:46:56.23ID:HVaJZSRR武家なら武家の棟梁である征夷大将軍の命令に従うべき。
親族としてなら、儒教的に義父や義祖父を敬うべき。
秀頼のやった呪いは当時最高峰の大学ともいえる五山が認め、否定的なコメントをしていて、
当時最高の学者ともいえる林羅山がテロ認定している。
大阪の地がテロの温床になっていることを危惧した政府がいくつか提案するが
豊臣はすべて拒否して浪人を集めて挙兵した。
日本の政府を動かす右大臣征夷大将軍にテロをしたあげく、命令に従わずに反乱をおこした。
そりゃ討伐されるだろう。各都道府県の知事にあたる大名は誰も豊臣の味方はしなかった。
徳川は地位にふさわしい仕事をしたよ。内大臣として、右大臣征夷大将軍として、地位にふさわしい仕事を。
0690人間七七四年
2018/11/05(月) 12:35:15.04ID:YkIN8nEYだが、挨拶は二条城への御成の形式で果たしているし、年賀等には使者を遣わして挨拶させている 家格が低くとも個人官位が高い義祖父への作法としては気を遣ったものと言える
だが、君臣の道は別 家康が関白になっているならば秀頼は従う義務があるが、朝敵がいない日本で征夷大将軍に従う義務はない
0691人間七七四年
2018/11/05(月) 18:22:05.56ID:HVaJZSRR加持祈祷の時代に呪いを凶器にしてテロをおこなって、
政府のもとめる要求を拒否して浪人(無職)をあつめて大阪で反乱をおこしておきながら朝敵ではないとな?
テロにかんして、当時最高の学府といえる五山が
「前代未聞で好ましいことではなく、承知できることではない。見逃してそのままにはできない」と言い、
当時最高の学識者の一人である林羅山が
「沙汰の限り。呪詛調伏の心」と言っている。
これは日本政府を率いる内閣総理大臣にテロをおこなっても国民の敵ではないというようなものだぞ。
日本政府に従う義理も義務もない。内閣総理大臣を殺傷しても問題ないと。呪いをかけるというのはそういうことだ。
ちなみに諸大名はみんな征夷大将軍に従いました。下層民出身の豊臣はバカだから滅ぶべくして滅んだのよ。
主君が死んで1年で主家を横領して乗っ取り、外征を二度もおこなって失敗し、関白左大臣を殺したのだから当然のむくいだろうな
「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」 織田信孝
0692人間七七四年
2018/11/05(月) 19:05:09.10ID:tdqkFFhk0693人間七七四年
2018/11/05(月) 20:32:34.50ID:FTUfB2tTもう少し身長は低いがな(185p)
彼は別に動けないどころか格闘家。秀頼も同じことが言える
あの時代でこの巨漢は威厳あるだろうし、まして摂関家で正二位右大臣(または左大臣)と
いう天下人に相応しい官位官職
家康が秀頼を「あれは人物じゃ」と評したのもわかる
別に秀頼がデブであろうと家康が謀反人である事は変わらない
当時の諸大名は家康が太閤遺命による後見人で天下の御家老だから従ったまでのこと
そして長いものに巻かれろ、がわが国の考え方であるからその環境に慣れてしまうと
秀頼に弓引くのもそれほど不自然ではない 違和感ありとは察するが
しかし、大坂の陣の出陣の際ですら家康らは諸大名への書状に「秀頼の周囲にいる浪人を
成敗するため」などと意志を伝えている
つまり、最後の最後まで堂々と秀頼を討つなどと言える雰囲気ではなかったという事さ
0694人間七七四年
2018/11/05(月) 20:53:17.64ID:HVaJZSRRいざ出陣となったら馬に乗れないという男のどこが人物なんですかねぇ
豊臣秀頼評
「非常に太っていて自由に体を動かすことができない」
「世になきお太り」
0695人間七七四年
2018/11/05(月) 21:01:31.21ID:HVaJZSRR「彼は30歳を超えざるに、甚だ肥満し、自由に身体を動かすこと能わず」
0696人間七七四年
2018/11/05(月) 21:56:51.30ID:TBfyQQRaその統制下におかれるべきと考えていたがな
伊達政宗が関ヶ原翌年の今井宗薫宛書状で秀頼を家康の手元で養育し、天下人の器でないと
家康が判断するなら2〜3国程度与えておけばよいと書いている
これは秀頼を天下人にするかは家康次第ということで、やや持って回った言い方ながら
まだ将軍にもなっていない家康を事実上天下人扱いしている
関ヶ原以前ではまずあり得なかっただろう認識の変化で、政宗は秀頼を大坂城に放置しておくと
曲者が秀頼を担いで謀反を起こし、そのために秀頼が切腹するような事態になるかも
知れないとまで書いていて後の大坂の陣を見事に予見している
家康が謀反人ではなく「秀頼が曲者に担がれて謀反を起こす」と
つまり関ヶ原によって諸大名の中にも秀頼はもはや絶対的な天下人とは言えず
謀反人にもなり得る危険な存在という認識ができつつあり、全ての大名が秀頼の後見人で
天下の御家老だから家康に従っていたなどという甘っちょろいお花畑なものではなかったということだ
0697人間七七四年
2018/11/05(月) 22:14:54.92ID:HVaJZSRR聚楽第行幸で、天皇を主君として忠誠を誓い、関白を窓口として天皇にご奉公することを誓っているのだからな。
秀吉が出させた誓詞も、秀頼が成人するまで後見することと、
秀頼を秀吉と同じように天皇への窓口として待遇するとあったと思うが、
その主君である天皇が家康を右大臣征夷大将軍に任命したのだから、元上司の子供なんぞになんでつくさなければならないのか。
家康の主君は聚楽第行幸で誓った天皇であって、秀吉は上司に過ぎないよ
0698人間七七四年
2018/11/05(月) 22:19:27.57ID:HVaJZSRRでも秀吉は織田家の同僚達を天皇に臣従させることで上下関係をすりかえ、窓口として関白の自分が威張る体制をつくったわけで、
誰も秀吉なんぞを主君になんかしていない。2度の聚楽第行幸がその象徴だ。
0699人間七七四年
2018/11/05(月) 22:31:47.78ID:kjTH98Zeどんな低い官位官職でもそれをもらうという事はそういうこと
だがそれと武士同士の主従関係は別の話
豊臣家に臣従するというのは家康が大坂城に呼びつけられて秀吉に
頭を下げる、というところから始まってる
誓詞も秀頼を秀吉と思いこの命をきくこと、とある
0700人間七七四年
2018/11/05(月) 22:50:15.33ID:kjTH98Ze秀忠は秀吉を烏帽子親として「秀」の文字を賜り、これを放棄したことはない
秀忠正室の江も秀吉の娘扱いであり、大坂の陣直前ですら離縁している様はない
秀頼正室、千姫の離縁要求もない
つまり、主従関係を破棄していないということ
0701人間七七四年
2018/11/05(月) 22:52:52.34ID:TBfyQQRa秀頼を秀吉と思いますと誓詞で誓っていながら関ヶ原後の書状ではその秀頼を「担がれて
謀反を起こす」恐れがある危険な存在だと書いてるんだからな
あと豊臣家に怨みのある最上なども豊臣攻めを謀反だなどとは思ってなかっただろうし駒姫の
仇討ちだと思ってたかもな
0702人間七七四年
2018/11/05(月) 22:57:23.88ID:kjTH98Ze秀頼を堂々と討つと言える状況ではなかったって事は史料上残っている
佐竹もバカではないのでこれが方便にすぎない事はわかっていたろうが、方便を
使う状況にあるという時点でお察し
0703人間七七四年
2018/11/05(月) 23:02:14.49ID:HVaJZSRR帝の威をかりて織田家を乗っ取り、
近衛家をだまして近衛信尹に譲る約束で関白になりながら、天皇の弟に譲るだの、宮家を作ったから鶴松に譲るなどと話をすりかえていき、
最終的に関白左大臣を殺して、契約書で縛る作戦にでたという
0704人間七七四年
2018/11/05(月) 23:20:59.92ID:TBfyQQRa考えていなかったとも解釈できる
秀忠が秀の字を捨てなかったのも江を離縁しなかったのも徳川家が豊臣家の
ひいては豊臣政権の正当な後継者であることを暗に示したともとれる
何しろ秀次一族虐殺後から秀吉はあれこれ手を尽くして徳川家と豊臣家を一体化させようとしている
秀頼の叔母江を秀忠に嫁がせその娘千を秀頼の許嫁にし
諸大名で唯一徳川家だけが秀頼成人後も豊臣家に影響を及ぼせる外戚の地位を約束された
豊臣家に徳川家を接ぎ木するようなもので縁戚関係で言えば徳川家は豊臣家一門でもあり
(単に豊臣姓をもらったというだけでなく)家康は豊臣一門の筆頭長者ともいえ、
ただの主従関係とは明らかに性質が違う
0705人間七七四年
2018/11/05(月) 23:37:24.84ID:kjTH98Ze解釈できる
家康は豊臣一門の中で最有力者であるこは変わりないけど、宗家を滅ぼしたからな
氏人が長者を滅ぼすのは当然反逆行為
0706人間七七四年
2018/11/06(火) 00:02:34.28ID:4ILw9Rm4政宗の危惧どおり、秀頼は呪いをかけて呪殺しようとしたあげく浪人をあつめて謀反をおこし、征夷大将軍に征伐された。
0707人間七七四年
2018/11/06(火) 00:12:08.98ID:EPZ3Fs1f主君、豊臣秀頼公に謀反を起こした
秀頼が朝廷に弓引いたら家康側に正当性が出てくるが、そうではない
徳川家の安泰の為に滅ぼした
だから諸大名には秀頼の周りにいる浪人を成敗すると大ウソを抜かした
0708人間七七四年
2018/11/06(火) 00:25:19.80ID:4ILw9Rm4https://believeitornot666.com/jks47/
呪殺を唱える、過激な僧侶集団「JKS47」
https://tocana.jp/2015/09/post_7284_entry.html
秀頼のように、為政者を呪殺しようとするやつは現代でもいる。
0709人間七七四年
2018/11/06(火) 00:25:20.55ID:EPZ3Fs1f当たると言っているだけで、大名が家康を支持するかしないかは別の話
大名が豊臣が滅亡するのはあんな状況では仕方ない、と思っているとか判断したとか
関係なく、徳川の行動はようは謀反だよね、と言いたいだけ
0710人間七七四年
2018/11/06(火) 01:12:57.83ID:Hp7vPAu3不安定過ぎる武家関白制に代わって伝統も実績もあり公家との関係もすっきりした征夷大将軍による武家政権を
確固としたものにするため、諸大名とともに危険因子である豊臣家を滅ぼした
とも言えるな
将軍の親征は室町期にも反乱を起こした守護大名討伐で行われているから別におかしくはない
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