関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part11
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年
2018/01/03(水) 00:35:15.74ID:N5T/NvLp関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part10
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1512519887/
0848人間七七四年
2018/01/31(水) 13:52:14.26ID:hLQHhcxBなるほど、そうなんだ。
それでいくと稲葉以外の美濃衆は「守備で手一杯、兵は出せない」と答え無記載、
もしくは秀信に合算表記。
島津義弘は「国許から増援が来るから5000は出せる」と返答したと。辻褄合うね。
そうなると秀信6530のうち実際の援軍派遣を差し引いてどのくらいの兵力で岐阜城篭城できるかと、
小西の2900、同与力衆4人4000、で小西6900と計算すべきかどうか、かな?
0849人間七七四年
2018/01/31(水) 14:11:13.93ID:hLQHhcxB0852人間七七四年
2018/02/01(木) 01:58:28.34ID:E3EzO4Pn0853人間七七四年
2018/02/01(木) 02:46:28.63ID:IAeiK1xK0854人間七七四年
2018/02/01(木) 07:57:02.74ID:cMyEWwGs傭兵メインで幕府軍と戦ったのが大坂の陣だからね
農兵は>829の通り免税のために仕方なく来てるだけ
0855人間七七四年
2018/02/01(木) 08:59:22.98ID:nMrE0lLm秀信が渡河迎撃で出陣した際、岐阜城に残した守備兵は800でいいかな?
0856人間七七四年
2018/02/01(木) 18:33:56.21ID:cMyEWwGs0857人間七七四年
2018/02/01(木) 19:02:45.07ID:IAeiK1xK0858人間七七四年
2018/02/01(木) 19:03:03.97ID:IAeiK1xK0859人間七七四年
2018/02/01(木) 19:03:21.13ID:IAeiK1xK0860人間七七四年
2018/02/01(木) 19:46:39.92ID:/rzbbBCz事実だけを言えばいいのに、解釈させると目も当てられない。
0861人間七七四年
2018/02/01(木) 19:58:31.16ID:NLaV0YmF0862人間七七四年
2018/02/01(木) 20:01:19.14ID:OutyXKwN8月22日、岐阜城には秀信+美濃与力衆8190と石田援将河瀬、松田ら1000を加えた
合計9190の兵がいた。
東軍先発隊を迎撃すべく、岐阜城の守備に800を残し、秀信は8390の兵で出陣した。
しかし遊軍の佐藤方政750は戦線離脱、実際には7640が戦闘参加した。
しかし迎撃失敗し岐阜へ敗走、死傷、逃散で25%の兵を失い岐阜に戻ってきた兵は5730であった。
秀信は残した守備兵800+戻ってきた5730の計6530で籠城することにした。
こんなかんじになる。
岐阜には秀信+石田援将で9190いたことになる。
もっと驚異的なことは6530で籠城して一日で落城したことになるという点。
わたしとしてはまず6530という数字に疑問を感じる。
>>3の上段を見てもらえばわかるんだけど、福島覚書の兵数で全部足していくと
東軍先発隊の兵数は5万を超える。
通説的な35000に数字を合わせると下段のようなかんじかなと思った次第。
なので福島の記載兵数は30〜40%ほどの誇張もしくは誤差があるのではないかと思うが
どうだろう?
0863人間七七四年
2018/02/01(木) 20:38:15.45ID:OX4lBrfj4000位じゃね?
0864人間七七四年
2018/02/01(木) 20:51:07.89ID:cMyEWwGs6530騎は木曽川での野戦の総兵力だよ
籠城戦の人数は不明だが武徳安民記によると
福島正則隊が430人、池田輝政隊が490人
浅野幸長隊が308の首級をあげて
落城時には秀信の家臣が数十人にか残っていなかった
と記されてるからかなり減ってたのが分かる
0865人間七七四年
2018/02/01(木) 20:57:44.00ID:OutyXKwNえ?渡河迎撃時? そうならそうと言ってくれないと。
この2日ずっとこの件を疑問に思ってたんだからww
0866人間七七四年
2018/02/01(木) 21:05:02.17ID:OutyXKwNおおむね妥当な数字じゃないでしょうか。
0867人間七七四年
2018/02/01(木) 21:09:41.71ID:cMyEWwGs河田木曽川渡河の戦い、米野の戦い、竹ヶ鼻城の戦い
岐阜城籠城戦を全部含めて関ヶ原前の美濃前哨戦を
岐阜城の戦いと呼んでたけど確かに混同しちゃうね
0868人間七七四年
2018/02/01(木) 21:40:01.48ID:OutyXKwN備口人数にある、秀信5300には犬山城の美濃衆は含まれない、
ということでいいんじゃないでしょうか。
0869人間七七四年
2018/02/01(木) 21:54:06.31ID:OutyXKwNと回答した(と推定される)稲葉一族は西軍としてけっこうやる気があったんじゃないだろうか?
なので犬山城は
東軍つきたい派の加藤、関、
西軍やる気派の稲葉一族、石川貞清、
中立派の竹中、
こんなかんじだったんじゃないかな?
もし東軍につく、で意思統一されてたのなら東軍中村隊が来た時点で開城すると思う。
それがしばらく籠城継続で、岐阜城が落ちて東軍優勢になったんで説得されて開城した、と。
0871人間七七四年
2018/02/02(金) 19:07:08.43ID:cQkV2oJn徳川家康、美濃岐阜の織田秀信の、石田三成に黨せしを聞き、
加藤成之をして、之を説かしむ、秀信、肯かず、
譜牒餘録
これどう思う? 日時が間違ってないのならば、
秀信は7月22日頃には西軍についたと言えそうだけど。
0872人間七七四年
2018/02/02(金) 19:32:09.77ID:ttLHb+Ko20日前後から石田三成の謀反の噂の情報収集してるから
そのあたりから西軍と東軍の陣容がはっきりしていたとは言い難いね
ただ鳥居元忠は異変を感じて15日には籠城準備していたから
それ以前から異変を家康に伝えてた可能性もあるし難しいとこだ
0873人間七七四年
2018/02/02(金) 23:41:16.92ID:cQkV2oJn大垣城:石田5700、小西5000、島津1000、計11700
岐阜城:秀信+美濃衆6000、石田援将河瀬、松田ら1000、計7000
犬山城:石川貞清400?、稲葉貞通・稲葉典通1400、稲葉通重400、稲葉方通150?、
加藤貞泰1200?、関一政900?、竹中重門150?、大坂弓鉄炮衆2400?
計7000
伊勢桑名、長島周辺(推定):明石掃部3000〜8000(推定)
近江草津:宇喜多秀家10000〜15000、(宇喜多は明石掃部と足して総計18000)
伊勢国内:安濃津城攻略に向けて、安国寺恵瓊1000、長束正家1000、
秀信は渡河迎撃時の6530から少し割り引いて計算、そのまま計算なら秀信6330になる。
0874人間七七四年
2018/02/02(金) 23:57:09.00ID:cQkV2oJn前スレの岐阜城後詰決戦案まとめ
原案たる叩き台は以前のスレに出てた>>6
史実での岐阜城1日で落城の原因は暫定的に>>7
岐阜城早期落城させない為の手段が>6の当初よりの籠城方針及び籠城準備、野戦築城、
秀信の戦術面補佐及び援軍として島津義弘の派遣。
岐阜城の想定籠城期間は2週間。
その結果の日時、戦力想定は
8月21日に大垣より岐阜へ島津義弘1000を秀信の補佐と援軍として派遣。
岐阜城:秀信+美濃衆6000、石田援将河瀬、松田ら1000、島津義弘1000、計8000
大垣城:石田5700、小西5000、計10700
8月27日に宇喜多18000が大垣到着、
9月2日 大谷ら9600関ヶ原山中村着陣
9月1〜3日頃 白瀬峠経由ではなく関ヶ原、垂井経由で相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら(3000〜5000大垣入城
9月7日毛利秀元、吉川16000、安国寺1000、長束1000、長曾我部2100ら伊勢方面隊20100南宮山到着。
東軍先発隊はこの状況下でも木曽川渡河を敢行するであろうと想定。
渡河後東軍は岐阜城を包囲ないし対陣すると想定。
その後、西軍との後詰決戦に至れば>6の通り。
東軍先発隊が後詰決戦に応じる可能性の根拠としては>>8
戦力差により東軍先発隊が清洲に撤退するという合理的判断をする可能性はもちろんある。
その場合西軍は>>9のように改めて有力な戦力をもって木曽川渡河迎撃の布陣を取ることが可能になる。
その結果考えられるのは膠着か>>10
なので、西軍が勝てる公算が最も高いのは>6の後詰決戦に至った場合。
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着化した場合は和睦が妥当か
東軍
史実通りの最速で家康本隊が清洲到着9月11日
岐阜城到着9月13日(江戸清洲間を11日間走らせたための休息1日とった)
史実通りの最速で秀忠の美濃到着は9月18日前後
家康本隊と秀忠隊がいない8月下旬〜9月上旬までに東軍先鋒隊を壊滅させることができれば西軍に勝ち目が出てくる
壊滅できなければ木曽川より西側から東軍を駆逐しての大軍による渡河防衛での膠着になる
8月下旬〜9月上旬までが勝負
>698のハイパーリンク入らないので文章で追加しました。
主な変更点は兵力算定見直しにより岐阜城兵力は8000となりました。
0875人間七七四年
2018/02/03(土) 02:12:45.19ID:8Cw/w11l>8月21日に大垣より岐阜へ島津義弘1000を秀信の補佐と援軍として派遣。
>岐阜城:秀信+美濃衆6000、石田援将河瀬、松田ら1000、島津義弘1000、計8000
>大垣城:石田5700、小西5000、計10700
島津義弘なんか送ったところで何の意味もないから削除しといていいよ
土地勘もない、兵も少ない、言葉すらまともに通じるか怪しい薩摩兵が岐阜城に派遣されても何の意味もないしむしろ邪魔
0876人間七七四年
2018/02/03(土) 07:12:20.14ID:wWCFxrv60877人間七七四年
2018/02/03(土) 07:39:10.30ID:zy8eAHsS篭城は持ち場を防衛するだけだから、野戦のように総大将の能力がダイレクトに影響しないし、土地勘も必要ない
大坂冬の陣の総大将の秀頼は置物状態なわけだったし、土地勘のない浪人が奮戦しただけ
伏見城篭城の鳥居元忠も岩ヶ崎城主だから土地勘があったわけじゃない
0878人間七七四年
2018/02/03(土) 08:10:45.92ID:djUDlHci0879人間七七四年
2018/02/03(土) 10:15:33.22ID:CSy7+F6x曲輪同士は連絡が取れなくて孤立しているらしいし。
しかしその岐阜城の構造や土地勘を良く知っているのが池田輝政とその家臣たちだから、
籠ってもどうにもならいよな。
実際池田は北側は天守に一直線で行ったみたいだしな。
それと何度も言うけど岐阜城は平地が少ないから戦力を集中させるのが困難。
頭数がいても各曲輪に分散させなくればいけないし、連絡が取れないから
孤立して攻められたら終わり。
0880人間七七四年
2018/02/03(土) 11:24:51.24ID:8Cw/w11l大坂に籠城してる奴らは土地勘あるぞ
もともと大坂は関ヶ原以後に大量に浪人が集まって来てて幕府が問題視してるしそいつらがそのまま豊臣軍になったわけだから当然大坂周辺の地理は知ってる
真田信繁・毛利勝永・長宗我部盛親といった大坂以外に住んでた奴らも秀吉の生前に何度も大坂・伏見には足を運んだり屋敷を構えてるからある程度の見当はつくだろう
0881人間七七四年
2018/02/03(土) 12:01:33.08ID:CSy7+F6x可能性というには根拠が乏しいな。
根拠が乏しい可能性は一般的に妄想と言うのだけどな。
0882人間七七四年
2018/02/03(土) 12:11:28.35ID:zy8eAHsS大坂夏の陣で国分村で野戦築城しようとしたら真田信繁らは遅れてしまい
迷わずに先に着いた後藤又兵衛でさえ徳川幕府軍に先に布陣されてたわけだけどね
土地勘が無いからそこまでに要する日数や敵の進軍スピードを読み違えていたわけだ
ご存じの通り夏の陣の野戦の総力戦では1日も持たずに壊滅
逆に冬の陣の篭城では健闘していたわけだけど
0883人間七七四年
2018/02/03(土) 13:09:41.25ID:JIepnRg3部隊運用というか、この時代での作戦面での土地勘を勘違いしてない?
>>882のひとも言ってるけど、その地域の道や地形に明るく、
部隊運用を適切に行うことができるか、が土地勘だよ。
道明寺で真田が道に迷って遅れたとか、若江でも木村重成が道に迷ったとか
大坂方は散々な状態。
東軍先発隊池田隊では一柳直盛が道案内役やってるし、
その面では島津義弘や小西行長の単独での攻勢作戦は非常に不安がある。
しかし陣地を守るだけなら土地勘の影響は小さい。
0884人間七七四年
2018/02/03(土) 14:07:22.84ID:8Cw/w11l単独での攻勢作戦なんてどっから出て来たんだ…
岐阜城に島津義弘1000人ぽっちを送っても何の意味もないって言ってるだけで小西や島津で攻勢をかけろなんて案はどこにも出てないと思うが
それをやるくらいなら大垣あたりにとどめておいて西軍の増援を待ってから岐阜城の後ろ巻き軍として出陣したほうがいい
0885人間七七四年
2018/02/03(土) 14:17:04.40ID:pwBtB/w1後詰め決戦
ただし通常であれば退却するだろう
0887人間七七四年
2018/02/03(土) 18:12:56.32ID:CZKDZIjO離れてる砦を一つ一つ潰されていくだけだし
宇喜多が来たってまだ兵数では差があるし挟み撃ちできる訳でもない
粘れる理由もなければ粘っても戦況が良くなる理由がない
0888人間七七四年
2018/02/03(土) 18:59:01.73ID:CSy7+F6x岐阜城攻略には金華山一帯を視野に入れなければいけないな。
城を攻略にするにしても金華山で部隊運用をしなければいけない。
まあ、平城の籠城戦とは少し違うよな。
0889人間七七四年
2018/02/03(土) 19:00:36.68ID:h6VmSBOR0890人間七七四年
2018/02/03(土) 20:02:21.96ID:zy8eAHsS>>794で論破されたやつがまた痴呆症のようにまた言ってるのか
いつの時代の戦術も高所有利は変わらない
航空戦力が出てくるまでな
関ヶ原でも小早川などでさえ山に陣取っただろ?
大砲が出た時代でも山に陣取って有効射程伸ばしてたし
近代でも高所からのマシンガンやスナイパーライフルは生きている
まあ航空戦力でもヘリからの上空からのマシンガンや爆撃と高所からなんだけどな
0891人間七七四年
2018/02/03(土) 22:24:09.49ID:xlcG8pDMこの世には、敵に敢えて高所を取らせる
反斜面陣地と言うものがあってだな・・・
たぶん概念さえあれば戦国時代でも使えたと思うんだ
0892人間七七四年
2018/02/03(土) 22:56:38.08ID:BxptxZv60893人間七七四年
2018/02/03(土) 23:12:42.92ID:zy8eAHsS投石が弓鉄砲に匹敵する主力武器だった戦国時代で、投石の飛距離と威力が激増する山などの高所が何よりの地の利だったからな
反斜面陣地なんて飛距離と命中精度が上がった近代兵器でやっても、嘉数の戦いでは反斜面陣地をやった日本側のが大損害になっているんだよなぁ
航空戦力と潜水艦に蹂躙されすぎて陸戦の戦術が勝敗のカギとは無縁になっている時代だしな
射程と命中精度の低い火縄時代にそんな戦術をやっても…
0894人間七七四年
2018/02/03(土) 23:15:18.33ID:lCwGHYxk>>8この時点で既に吉川広家と黒田長政が繋がっててるからね
長政から広家に対して8/17に「このたびのこと輝元の意思ではなく安国寺の先走りだということ内府も了解してくれました。
こちら調整は私がするのであなたは輝元に直接言上して内府と手切れにならないようにしてください。
戦闘が始まってしまえばどうにもならなくなってしまうので油断しないように」
って書き送ってる
たぶん前線の東軍は「輝元は戦意がないそうだからおそらく後詰にはこないし来ようとしても吉川広家が止めるだろう。仮に援軍に来たとしても吉川広家を通じて調略すればなんとかなる」
と考えていたのではないかと
0895人間七七四年
2018/02/03(土) 23:28:05.81ID:zy8eAHsS8/17の書状だと伝わってないと思ったのか25日にも同じ書状送ってるからな
吉川広家らは伊勢の城を攻め落としてたし、むしろ長政はスゲー焦ってたって話あったな
0896人間七七四年
2018/02/03(土) 23:54:48.59ID:sCIt8bGGアウステリッツでは、ナポレオンはわざとブラッツェン高地を敵に取らせるって事してるよね。
陣形を変化させる時は隙が出来るから、異常な指揮能力があれば逆手に取れるんでしょうが。
逆に言うと、ナポレオン並みの才能無ければ高所有利。
0897人間七七四年
2018/02/04(日) 01:14:02.93ID:Q9SChmKP0898人間七七四年
2018/02/04(日) 01:21:37.76ID:5SOTlJ+r0899人間七七四年
2018/02/04(日) 08:30:10.13ID:pBqeom4Q水路や水源がない高所という点では岐阜城と一緒だな。
0900人間七七四年
2018/02/04(日) 08:38:42.19ID:5SOTlJ+r信長公居館跡には井戸は発見されてるけどね
頂上の岐阜城天守には雨水等を貯める井戸が複数あって、中腹には水の手口という水があるから名付けられた道もある
岐阜城の天守だけを見て井戸がないと言ってるだけで岐阜城は頂上の天守のみじゃ動員数が低く
山麓を城郭として守る城なのを理解してないよな
0902人間七七四年
2018/02/04(日) 09:56:38.85ID:5SOTlJ+rだから野戦に出ずに最初から篭城準備して信長公居館を出城に改修し、山麓を野戦築城しないと防げないって話を上からずっと話してるんだろう
0903人間七七四年
2018/02/04(日) 10:40:03.24ID:SMAvZqklhttp://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2006/03/0603hist-heri.pdf
近代岐阜忠節用水流域における都市形成に関する研究
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00063/2011/2011-04-0072.pdf
どうも岐阜城城下町の惣構は土塁(堤防兼用)と水堀(用水兼用)だったっぽい。
水の問題は城下町押さえてればどうにでもなりそう。
あと上段リンクには京都惣構の例も載ってるけど、広けりゃいいってものではないみたいだね。
それを守れるだけの兵力がないと。
んで、水の手口への侵入防止や、用水取水部防衛には丸山砦が重要な役割を果たしそう。
0904人間七七四年
2018/02/04(日) 12:24:11.79ID:F0kpaSDk最初から籠城せずに野戦で大打撃受けたからでしょ
籠城して西軍の進出まで粘れば福島達は後詰の西軍にボコられて終了してた
この時点でもう家康も江戸から動けなくなる
0906人間七七四年
2018/02/04(日) 13:44:29.48ID:dCHYh9y7>>894 >>895で触れてるけど東軍の北上時点で既に西軍の主力の毛利軍は東軍と内通してるので後詰に出てきても脅威は半減してる
ついでにこの時東軍は細川忠興を主力とする別働隊が北陸方面に派遣されてて前田と合流して細川幽斎の守る田辺城の援軍に向かおうとしてる(岐阜城攻防戦に細川忠興がいないのはこのため)
史実では予想以上に早く岐阜城が落ちたので結局忠興軍は美濃方面に呼び戻されたんだけど仮に岐阜城が落ちなかった場合そのまま前田と合流して進軍することになるので西軍は北陸方面にも兵力を割くことになりますます岐阜城へ派遣できる援軍の兵力は少なくなる
この状況で送られた後詰軍が岐阜城を攻撃する東軍を撃退できるかははっきり言ってかなり怪しい
0907人間七七四年
2018/02/04(日) 14:00:40.46ID:F0kpaSDk岐阜城落とせずに後詰が2万程度でも来ればもう福島達は終わり
0908人間七七四年
2018/02/04(日) 14:10:05.54ID:eWjhsmXF攻城を停止して退却する
0909人間七七四年
2018/02/04(日) 14:26:21.49ID:F0kpaSDk0910人間七七四年
2018/02/04(日) 14:34:55.68ID:dCHYh9y7その後詰軍2万って具体的に誰を想定してるんだ?
0911人間七七四年
2018/02/04(日) 14:38:21.47ID:5SOTlJ+r長篠の武田勝頼は後詰めに来た援軍に突撃したけどな
この時代に記した物や軍記見ても人数もはっきりと数えてるわけじゃないし
上でも言われてるように戦闘員の数が一番重要な時代だからな
非戦闘員含めた数字をあてにしてないから寡兵で大軍に挑むという現象が実際に起こった
だから秀信も無謀にも寡兵で大軍に挑んだ
0912人間七七四年
2018/02/04(日) 14:45:19.90ID:SMAvZqklまず、毛利は既に内通してるとか断言はよくない。吉川広家が交渉してるだけ。
毛利の不戦密約が確定するのは9月14日と見るべき。
次に細川主力の別動隊が北陸方面に派遣されてて、前田と合流云々、
これ初耳なんだけどソースなに?てか木曽川渡河した細川がどうやって北陸行くの?
一応、8月24日付浅野長政宛福島正則書状には、
昨日、細川忠興、加藤義明、福島正則が稲葉山を攻撃して落城させた。とあるが。
0913人間七七四年
2018/02/04(日) 21:07:57.99ID:pifA57da『細川家史料』にある細川忠興から息子の光千代(細川忠利)への手紙で
「我々は北国を通り幽斎の援軍に向かっている」
「あなたは中納言(徳川秀忠)への奉公こそ大切である」
「丹後はますます堅固であり敵は仕寄すら仕掛けず十町ばかり離れているので心配することはない」
という記述がある
0916人間七七四年
2018/02/04(日) 22:13:27.59ID:dCHYh9y7書状の日付は8/1なので違いますね
0917人間七七四年
2018/02/04(日) 23:11:12.50ID:SMAvZqkl福島正則からの注進状を読みました。其元(清洲と思われる)では油断せず
福島正則と相談するように。 とある。
つまり8月14日頃には細川忠興も清洲にいて、8月22日福島隊として木曽川渡河、
翌23日岐阜城を攻撃の通説通りで、
8月14日以前に北陸にいたとするのは距離的日数的ルート的に無理があると思うが。
おそらく、「舟で伊勢に援軍を送る計画」と同様、8月1日頃に前田と合流して
田辺城に後詰を行うという計画があったのだろうが、実行されることはなかった、
と見ていいのではないかと思うが。
0918人間七七四年
2018/02/04(日) 23:27:29.95ID:SMAvZqklなんで引き返したかはわからんけど。
0919人間七七四年
2018/02/04(日) 23:53:01.72ID:SMAvZqkl美濃衆は東軍あるいは中立ならば、清洲から美濃郡上油坂峠経由あるいは
美濃根尾温見峠経由で越前で前田と合流し、若狭経由で田辺城への後詰という
プランが考えられるけど、
実際に清洲に到着してみると秀信ほか美濃衆多数が西軍についたし
前田は金沢に引き返したので計画は実行されなかった、ではないだろうか。
0920人間七七四年
2018/02/05(月) 00:16:25.30ID:z4yHCBy4この時点では、徳川の主力が東海道に出られるとは思えないし前田勢だけで南下したら下手したら
各孤撃破される可能性高く無いかな?
史実を知ってるから疑問に思わんけど、福島なんかの豊臣恩顧がどの程度やる気なのか不安に
思う方が普通だし。
常識的に考えるなら、奥州が雪に埋まる11月に成って徳川西進ってのが普通の考え。
0921人間七七四年
2018/02/05(月) 00:27:55.09ID:cV1B7xtc出てみたら家康は江戸から動かんし北陸勢が思ったより手ごわいしで先走りすぎたーと撤退だろう
0922人間七七四年
2018/02/05(月) 01:15:08.70ID:W8pqQSND東軍が負ければ逆に前田の価値が上がるから
適当にうろついてやってる感演出してただけ
0923人間七七四年
2018/02/05(月) 01:16:37.52ID:hU1w3SEY水がなくなったら士気ガタ落ちだな
0924人間七七四年
2018/02/05(月) 01:38:57.76ID:cV1B7xtc0925人間七七四年
2018/02/05(月) 03:32:15.77ID:2YF5YCQi多そうだから。居館跡の井戸と山頂の貯水井戸では足りなくなるような気がする。
これに対する解決策は、居館跡と丸山砦(>>764の地図参照するとわかりやすいけど
居館跡と長良川の間にある小山が丸山砦)の絶対確保。
丸山砦を維持していれば夜間長良川に水汲みにいける。
あるいは忠節用水なるものがこの時代でもあったのなら水の確保は容易と思う。
ついでに>>764の地図参照してもらいたいけど、ロープウェイ山麓駅のあたりが居館跡。
で、居館跡と稲荷山の間の入江みたいになってる扇状地みたいなとこから
登ってくとこが大手道。ここから福島らが攻撃してる。
そして丸山砦のあたりから登ってく水の手口から池田らが攻撃してる。
そして>>616の100頁にあるのが城下町惣構の簡略図
>>764の地図でいくと伊奈波神社の南側の突き出した山裾、権現山砦のあたりから
城下町惣構が伸びてた。
なので、丸山砦と稲荷山砦、そしてそれを支援できる居館跡。
最小防衛線ではこの3所が重要だと思う。
その次は金華山山頂南側尾根筋最南端の瑞龍寺山砦だと思う。
城下町惣構を防衛ラインとするかどうかは悩ましいところだと思う。
0926人間七七四年
2018/02/05(月) 03:46:31.77ID:Tn/onL6i0928人間七七四年
2018/02/05(月) 03:57:32.47ID:Tn/onL6i0929人間七七四年
2018/02/05(月) 04:22:35.35ID:2YF5YCQi瑞龍寺には丸(曲輪?)が3つあったが2つと、そのほかに2、3の丸(2〜3の曲輪という意味か
二の丸、三の丸か不明)をすべて落とし、本丸も天主まで攻め寄せたところ、(以下略
とある。
つまり本丸以外全部落ちたわけではなく、少なくとも瑞龍寺山砦の一部はまだ粘っていたようである。
0930人間七七四年
2018/02/05(月) 04:25:54.87ID:kf8tQgQn0931人間七七四年
2018/02/05(月) 05:58:46.26ID:hU1w3SEY数を入れれば難攻不落なのか
それならば数は減っていてももう少し持ったのではないか
大群がも凝るには向かない城であることは明白で周辺一帯を把握しないと岐阜城の利点というものは生きない様な気がする
0932人間七七四年
2018/02/05(月) 07:37:30.12ID:g5po/JWg>そして暑い時期で飲用水の消費も
>多そうだから。
関ヶ原合戦は旧暦で慶長5年9月15日で、現在の西暦に直すと1600年10月21日だから
旧暦の慶長5年8月末は秋だぞ
0933人間七七四年
2018/02/05(月) 07:52:33.03ID:g5po/JWg八月末に送った秀忠への西進せよの使者が川の増水のせいで遅れた
0935人間七七四年
2018/02/05(月) 08:05:02.25ID:g5po/JWgそれに>>6の流れだと台風で木曽川が増水した時に後詰決戦されたら東軍の退路が完全になくなる
0936人間七七四年
2018/02/05(月) 08:35:19.60ID:Usv6Ud2tその確保ですら相当の兵数が必要だし、北側の水の手口から攻められたら何の役にも立たない。
まあ、籠城派は籠城するならどこまでの陣地を確保しているのかはっきりしてもらわないとな。
金華山全部と麓の居館館までは虫が良すぎる。
それと居館館にいくら兵を集めて防御しても福島との戦闘をしているだけで、
裏から来た池田にはなんの抵抗もできないし、丸山砦が何日も持つようには思えないしな。
0938人間七七四年
2018/02/05(月) 08:42:05.00ID:c2a1L6qRしかし本城を捨てるのは難度が高い
捨て兵をニ千ぐらい置いておくという手もある
しかし岐阜が落ちると家康が出てくるので
負けが確定してしまう
0939人間七七四年
2018/02/05(月) 09:05:21.58ID:g5po/JWg俺も籠城派で旧暦と西暦を指摘したのも俺なんだけど?
むしろ指摘できなかったお前が一番残念って話だな
0940人間七七四年
2018/02/05(月) 09:17:41.45ID:g5po/JWg>>613の当時の岐阜城を見ろ
野戦に出ずに最初から籠城準備して水の手口を掘削や瓦礫で塞ぎ、野戦築城しろと言っている
信長公居館を出城に改修して空堀を掘ったりな
野戦に出て川岸で分散して野戦築城してた労働力を、城の改修や野戦築城に7000人全部の労働力を注ぎ込めって話だ
0941人間七七四年
2018/02/05(月) 09:34:18.79ID:2YF5YCQi東側は岐阜城なので、西側と南側を主に守ればよいのでそれほど守備線が広いわけではない。
その際居館跡は予備兵力を置くのによい地点でもある。
寄せ手は城下町を打ち破らないことには大手道も水の手口も行けないので
守れるなら守るに越したことはない。
しかし守備兵数に不安があるので、防衛ラインを城下町惣構を含めるべきか
(西側は)丸山砦・居館跡・稲荷山砦のラインとすべきかはわたしは判断できない。
どちらも一長一短。
ただ言えることは、史実よりも兵力に余裕があるので、丸山砦を落とさずに容易に
水の手口に近づくことはできないと思われる。
その場合、池田隊は大迂回して東側の尾根伝いに進攻してくるのではないかとわたしは予想する。
0942人間七七四年
2018/02/05(月) 09:37:58.96ID:kf8tQgQnあくまで準備も本戦も大成功の籠城を基準に話を進める訳だし
史実の岐阜城籠城戦のような大失敗が絶対起こらない想定になる
こういうifスレで話をいじれるのは籠城するか野戦するか程度だろう
それで変えられないならそれまでの部分
0943人間七七四年
2018/02/05(月) 09:53:50.00ID:2YF5YCQiざっくりいくなら8000で籠城すれば大丈夫だろう、となる。
水やら収容人数やらすぐ落ちる言うから具体的対応策を述べてるだけで。
0944人間七七四年
2018/02/05(月) 10:22:00.44ID:JQcis8Jv「東軍」として行動することだから、問題なく出陣する
0945人間七七四年
2018/02/05(月) 10:22:31.62ID:g5po/JWg野戦は総大将の能力と采配がかなり問われるが
籠城は大坂の陣(豊臣秀頼)、掛川城の戦い(今川氏真)
と、総大将である大名が置物状態でも配下の奮戦次第で健闘できるからな
大津城の戦いの京極高次も蛍大名と陰口を言われるぐらいの大名だが
大津城の戦いでは最初から籠城を決め、町を焼いて瓦礫で埋めたから一週間耐えている
0946人間七七四年
2018/02/05(月) 11:12:09.35ID:HifTsyqRけど犬山城が東軍の手にある以上、中山道と東海道は接続していると考えるべきで
岐阜はあまり意味のない場所だよ。googleの地図で航空写真を良く見たほうがいい
0947人間七七四年
2018/02/05(月) 11:16:05.92ID:c2a1L6qR決定的でないかもしれないが
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。