わたしなりにもう一度岐阜城が一日で落ちた原因を考えてみたが、
まず渡河迎撃で出陣(岐阜城留守居700程残置)、迎撃失敗し敗走、
死傷・逃散で戻ってきたのはおそらく1500〜3000。
(予備隊(遊軍)配置の佐藤方政700〜1000は勝手に戦線離脱行方不明になってる)
で、この2000〜3000で岐阜城各砦、登山口に分散配置した。
おそらく各砦300〜500とかの人数と思われる。

そして東軍は、半ば放棄されたような城下町に容易に侵入、放火しつつ
池田隊は城下町と信長居館跡の間あたりから長良川沿いに水の手口へ移動?、
そして攻撃、福島隊は大手門方面、井伊隊が瑞龍寺山方面を攻撃。
戦力差で押し切られる(落ちない砦もあった)。


やっぱ単純に分散配置による戦力差が主因だと思う。
家老の推す本丸周辺一極集中のほうが数日はもったと思う。

兵7000でも足りないような気もするが主要砦には1000は配置できるようになるし
石垣もある居館跡を強化するなら拠点としてそれなりに機能しそうではある。
もっと兵がおれば、城下町惣構を利用し、城下町&居館跡、山頂本丸、
どちらかが落ちてももう片方で粘るということも可能だと思う。