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関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part11

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0001人間七七四年2018/01/03(水) 00:35:15.74ID:N5T/NvLp
前スレ

関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part10
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1512519887/
0678人間七七四年2018/01/28(日) 08:07:17.33ID:Y/Ci5Dco
池田と福島が競争したのが奏功した
この局面では

籠城だった場合逆目に出た可能性がある
0679人間七七四年2018/01/28(日) 08:15:35.30ID:wu45txnD
>>673
そういう事を言える兵力差ではない

>>674
籠城準備してないから落ちたなんて記録があるのか?
0680人間七七四年2018/01/28(日) 08:36:00.63ID:9USpALf0
>>677
同意、政略や戦略ならともかく
城や地形や戦いかたそのものに関する戦術に関して
当時その場を生きる人達が人生を賭けて考え抜いた判断は軽視すべきじゃない
そして現実に岐阜城は籠っても即陥落した
0681人間七七四年2018/01/28(日) 08:43:31.28ID:Hn1jzr+/
野戦という選択肢がない以上
籠城しかない
0682人間七七四年2018/01/28(日) 08:45:09.77ID:uL2hldm7
そもそも西軍の基本戦略は(事前に相談もしていないけど)東海道と中山道の大名が全て西軍について
北条攻めと同じ要領で関東攻めをすることだった
ところが真田以外が全員東軍についたので基本戦略が破綻し、
次の戦略が(事前に相談もしていないけど)福島が西軍についてくれたらという願望のもと
三河で東軍と迎え撃つ戦略だった
つまり美濃で東軍と戦うことは三成にとっても秀信にとっても想定外の事態だったわけ
だから対応が泥縄でその場しのぎの行動しかできなくなるのも当然なんだよ
籠城の準備をしろとか連携して迎え撃てとか言うのは実情を理解していない机上の空論に過ぎない

関ヶ原の結果論から美濃で戦うことが最初から決まりきったことのように考えてしまうのは大きな誤りだ
むしろ美濃は西軍の事実上の最終防衛ラインであり、美濃で戦うこと自体が追い詰められていることを意味していた
0683人間七七四年2018/01/28(日) 08:57:04.07ID:8iai/cop
>>681
籠城という選択肢もない
大垣から後詰めがなかった時点で勝負は決していた
0684人間七七四年2018/01/28(日) 09:00:50.66ID:Hn1jzr+/
>>683
じゃどうしろと?
0685人間七七四年2018/01/28(日) 09:04:09.58ID:Hn1jzr+/
福島が西軍と考えていたなら狂っている
戦の前に打診したのか
例えば密使を送って口頭で確認するとか

百歩譲って第二案以降を考えるべきだ
0686人間七七四年2018/01/28(日) 09:09:16.62ID:SBTrljyh
けっきょく関ヶ原の戦いをどうこう考えるなら大義名分なんだよ
大義名分がなければ人は集まらない。

西軍は当時の武将が必修で学んでいた兵法の原則のすべてが欠落しているが、
基本である孫子の五事七計、道天地将法と君主将帥天地法令軍隊兵卒のすべてが欠落している
そしてまず念頭に置くべきは大義名分である道だが、それすらもない。
豊臣忠義を唱えているのに豊臣の公認を得ていないという片手落ちだ

家康は聚楽第行幸で忠誠を誓った主君である帝から1600年当時、武家のなかで最高位の内大臣に任命されていて、
太政大臣の遺言で何ごとも内大臣の意見に従うようにと政務を任されており、
後陽成天皇の下賜を受け、前太政大臣家からも下賜を受けて出陣したわけで
必要な手続きはすべて行っている。
その官軍に讒言しまくって人望のない石田三成が反乱をおこし
帝どころか、豊臣家の公認すら得られていない状態なんだから勝てるわけがない。
0687人間七七四年2018/01/28(日) 09:14:04.48ID:SBTrljyh
石田三成が関ヶ原で勝とうと思うなら
まず服役中の罪人の立場を解消し、朝廷に献金して内大臣以上の官位にしてもらい
武断派に頭をさげて謝罪して歩いて文武の融和をはかり
讒言はやめて公正な政治をおこなって信頼を回復し
その上で豊臣家の公認を得て関ヶ原をはじめるべきだったろうな
何年かかることやら
0688人間七七四年2018/01/28(日) 09:14:57.97ID:8iai/cop
>>684
どうもできない
3万を越える東軍先発隊を止められる選択肢なんてない
0689人間七七四年2018/01/28(日) 09:21:13.90ID:q7H5zFMH
>>687
いや、意外に難しくなかったと思うぞ。

1. 豊臣家の敵として池田輝政、浅野幸長、田中吉政、中村一氏、山内一豊、
  堀尾吉晴ら秀次の残党を孤立させること。
2. 家康を1.の連中に縛り付けること
3. 天下には、秀次の残党が秀頼を脅かしている、と喧伝し、1,2を天下の敵と
喧伝すること。

少なくとも、>>687よりははるかに楽。
0690人間七七四年2018/01/28(日) 09:42:56.73ID:Hn1jzr+/
>>688
降伏?
0691人間七七四年2018/01/28(日) 10:04:37.85ID:FqQOCfdE
籠城否定するなら>>136に答えてください。
0692人間七七四年2018/01/28(日) 10:18:35.59ID:/fG9tLI+
>>676>>679
野戦して無様に退却してすぐ落ちたって記録しかないな
野戦が間違いだったという記録しかないな
0693人間七七四年2018/01/28(日) 10:28:40.68ID:/fG9tLI+
>>677
>>602-603
0694人間七七四年2018/01/28(日) 10:39:03.70ID:FqQOCfdE
岐阜城後詰決戦案は>>11にまとめてあるけどもう一度改めてまとめようか。

前スレの岐阜城後詰決戦案まとめ

原案たる叩き台は以前のスレに出てた>>6
史実での岐阜城1日で落城の原因は暫定的に>>7
岐阜城早期落城させない為の手段が>6の当初よりの籠城方針及び籠城準備、野戦築城、
秀信の戦術面補佐及び援軍として島津義弘の派遣。
岐阜城の想定籠城期間は2週間。
その結果の日時、戦力想定は
8月21日に大垣より岐阜へ島津義弘1000を秀信の補佐と援軍として派遣。
岐阜城:秀信6000、島津義弘1000、計7000
大垣城:石田6000、小西5000、計11000

8月27日に宇喜多18000が大垣到着、
9月1〜3日頃 白瀬峠経由ではなく関ヶ原、垂井経由で相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら(3000〜5000大垣入城
9月7日毛利秀元、吉川16000、安国寺1000、長束1000、長曾我部2100ら伊勢方面隊21100南宮山到着。

東軍先発隊はこの状況下でも木曽川渡河を敢行するであろうと想定。
渡河後東軍は岐阜城を包囲ないし対陣すると想定。
その後、西軍との後詰決戦に至れば>6の通り。
東軍先発隊が後詰決戦に応じる可能性の根拠としては>>8
戦力差により東軍先発隊が清洲に撤退するという合理的判断をする可能性はもちろんある。
その場合西軍は>>9のように改めて有力な戦力をもって木曽川渡河迎撃の布陣を取ることが可能になる。
その結果考えられるのは膠着か>>10

なので、西軍が勝てる公算が最も高いのは>6の後詰決戦に至った場合。
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着化した場合は和睦が妥当か
0695人間七七四年2018/01/28(日) 10:43:08.17ID:FqQOCfdE
あ、大谷ら忘れてた。

9月2日 大谷ら9600関ヶ原山中村着陣
0696人間七七四年2018/01/28(日) 10:45:07.40ID:8DamNB2V
大前提として東軍先鋒の出撃時期と目的を、事前に正しく判断する必要があるね
なお、情報収集と分析は西軍が最もダメだった要素
0697人間七七四年2018/01/28(日) 10:56:46.68ID:/fG9tLI+
>>682
>事前に相談もしていないけど

一 拙者儀先尾州表ヘ岐阜中納言殿申談人數出候

一 拙者(石田三成)は、岐阜中納言殿(織田秀信)と相談した


>三河で東軍と迎え撃つ戦略だった
>つまり美濃で東軍と戦うことは三成にとっても秀信にとっても想定外の事態だったわけ


もし於不相濟は清須へ勢州口一所に成候而可及行候、猶吉事可申承候


もし福島との交渉で清洲城の開城がうまくいかなかった場合は清洲城へ勢州口(伊勢方面軍)と合流して攻めるつもりである。

交渉決裂した場合は伊勢方面軍を待って合流して清洲城を攻めるって話が抜けてますよ?
伊勢方面軍を待って戦場は三河じゃなくて清洲攻めることも想定してたんだけど
実際伊勢方面軍が来るまで大垣勢は待ってた
秀信も三成も動いてないしな
0698人間七七四年2018/01/28(日) 11:30:32.10ID:/fG9tLI+
>>694
東軍
史実通りの最速で家康本隊が清洲到着9月11日
岐阜城到着9月13日(江戸清洲間を11日間走らせたための休息1日とった)
史実通りの最速で秀忠の美濃到着は9月18日前後


家康本隊と秀忠隊がいない8月下旬〜9月上旬までに東軍先鋒隊を壊滅させることができれば西軍に勝ち目が出てくる
壊滅できなければ木曽川より西側から東軍を駆逐しての大軍による渡河防衛での膠着になる

8月下旬〜9月上旬までが勝負ってことだね
0699人間七七四年2018/01/28(日) 11:57:09.64ID:URL4C6p8
秀信が全力で岐阜城に籠城してたら東軍はもっと楽に勝ってたって当時の見解はどこにもないのにどうして執拗に否定する人がいるの?
0700人間七七四年2018/01/28(日) 12:26:33.13ID:ddNwemqY
>>676
援軍のあてがなくなって降伏開城したことはあるけど攻め落とされたのは秀信の時だけだぞ
0701人間七七四年2018/01/28(日) 12:29:03.75ID:SBTrljyh
岐阜城の城主経験者、
池田輝政が岐阜城を攻め落とせると考えており

岐阜城の城主織田秀信とその家老が
自軍の方が寡兵なのにもかかわらず、篭城するより野戦に出たほうが勝率が高いと考えた

その双方を否定して篭城したほうがいいとか
えらそうにうんちくをたれている評論家様の意見なんぞ参考にもならないだろう

岐阜城は守りにくい城なんだと思う。
0702人間七七四年2018/01/28(日) 12:47:43.02ID:/fG9tLI+
史実通りがベストな判断だとしたら長篠の戦いも勝頼はベストな判断してたってことか
今川義元も桶狭間で討ち取られたけどベストな判断してた
信長も本能寺で少数で泊まっていたのもベストな判断
秀吉も秀次一族処刑して五大老制というガバガバな判断したのがベストな判断だってことか
0703人間七七四年2018/01/28(日) 12:47:44.04ID:uL2hldm7
そもそも美濃で戦う羽目になったことが西軍の敗因なのに
籠城すれば云々を語るのは馬鹿げている
美濃が戦場になった時点で西軍は追い詰められている状態だった
0704人間七七四年2018/01/28(日) 13:11:32.12ID:FqQOCfdE
一応参考までに出しておきましょうか。

8月22日付秋田実季宛佐々正孝書状には
岐阜城の織田秀信は兵が少ないので岐阜城は50日ももたないだろうという風聞がある、

としている。

逆に言えば1ヶ月くらいはもってもおかしくない、というのが当時の認識だったんじゃないかな。
これを2週間もたせるのは当時の認識としてもおかしいことではないと思うが。
0705人間七七四年2018/01/28(日) 13:20:14.72ID:EglkmnwA
三成は家康を征伐する気だったのだから
東へと出掛けていくのが当たり前
0706人間七七四年2018/01/28(日) 13:21:14.82ID:FqQOCfdE
>>703
なんで西軍の敗因を勝手に決めつけてるの?
直接的な敗因は関ヶ原で西軍主力が壊滅し継戦不能になったから。

あんたの言ってるのは遠因。


>籠城すれば云々を語るのは馬鹿げている

馬鹿げている理由は? ifスレで籠城した場合を考えてなにが悪いのか。
0707人間七七四年2018/01/28(日) 13:30:03.31ID:uL2hldm7
つまり西軍は美濃で戦って壊滅したんだろ
敗因以外の何物でもないな
0708人間七七四年2018/01/28(日) 13:36:53.25ID:Hn1jzr+/
家老が野戦派だという根拠は?
0709人間七七四年2018/01/28(日) 13:56:27.23ID:q6u17Uo7
>>706
壊滅したのは敗因ではなく結果では...
0710人間七七四年2018/01/28(日) 14:11:34.62ID:FqQOCfdE
>>709
「西軍」をどういうくくりで見るかにもよるけど、西軍全てが関ヶ原で壊滅したわけではなく、
まだ毛利輝元や増田長盛や残存戦力はあった。
例えばまだこの後、瀬田で迎え撃つとか大坂城に籠城するとかできなくもないけど、
かなり劣勢で勝ち目はないよね。
これらの部分からです。
0711人間七七四年2018/01/28(日) 14:23:11.84ID:8zHJSvTN
>>640
岐阜城はやっぱり水駄目だね
籠城とかしたら麓どころか中腹までいくのもたいへんだろうな
0712人間七七四年2018/01/28(日) 14:57:53.36ID:/fG9tLI+
秀信が野戦でボロ負けした時点で野戦したのは
間違いだったっては確実なんだよね
0713人間七七四年2018/01/28(日) 15:24:52.59ID:ddNwemqY
>>712
竹ヶ鼻城を防衛拠点にしての籠城戦なのに野戦って何を言っとるんだ
0714人間七七四年2018/01/28(日) 15:29:28.51ID:8iai/cop
3000人で全力で守って1日で落ちたのが岐阜城
準備だのなんだの野戦だからだのなんだのと言い訳考えたところで結果は変わらん
0715人間七七四年2018/01/28(日) 15:43:14.39ID:/fG9tLI+
>>713
渡河防衛するために秀信は戦力分散したが
地形を知り尽くしてる池田輝政に渡河しやすい場所から強行突破されて作戦失敗
兵数を無駄に消費し
作戦失敗で士気駄々下がり退却


秀信がやったのは竹ヶ鼻城を防衛拠点にしての籠城戦ではなく渡河防衛するための野戦です
0716人間七七四年2018/01/28(日) 16:20:04.70ID:ddNwemqY
>>715
池田輝政が渡河しやすい場所を知ってるように織田秀信側も渡河しやすい場所を知っててそこを守ってるんだから地形を知り尽くしてる云々はまるで無関係たんなる兵力差の問題

戦力分散したから野戦ってのも飛躍しすぎ
渡河防衛だろうが兵力分散しようが城を拠点にして防衛作戦を展開してるんだからそれは野戦じゃなくて拠点防衛でしょ
0717人間七七四年2018/01/28(日) 16:20:47.49ID:9USpALf0
>>702
少なくとも当時の地形や城に関しての見解で当時の城主二人の意見以上に
現地を把握出来てる意見は考えにくい
0718人間七七四年2018/01/28(日) 16:30:41.62ID:OIocUqTQ
>>714
秀信は5000だぞ、数の誤魔化しは良くない。
0719人間七七四年2018/01/28(日) 16:37:20.88ID:Hn1jzr+/
秀信は知らないか知っていたとしても却下じゃないか

それに全ての渡河点をどうやって守るつもりなのか
0720人間七七四年2018/01/28(日) 16:38:20.45ID:/fG9tLI+
>>716
>織田秀信側も渡河しやすい場所を知っててそこを守ってるんだから

野戦では数の利がダイレクトに影響するのに敵に圧倒的に劣る戦力をまた分散してしまうという愚行を秀信はしたから
池田輝政に数の利に押されて強行突破されたんだけどね
原因が何なのか考えようね
0721人間七七四年2018/01/28(日) 16:48:54.41ID:/fG9tLI+
>>717
それは秀信が戦場経験の歴戦の武将だったらな
初陣状態の秀信の判断が優れるわけないだろ
0722人間七七四年2018/01/28(日) 16:49:32.27ID:UlsPNPL7
戦史的に言えば秀信は遅滞防衛戦に出て、
失敗して食いつかれ大損害を出したとみるのが自然なんだが
史料的にはどうなんだろう読み込んでみるか
0723人間七七四年2018/01/28(日) 17:05:16.04ID:/fG9tLI+
秀信と家臣は福島正則には籠城戦は誉められてたから
籠城の才能はあったんだろうね
0724人間七七四年2018/01/28(日) 17:07:39.02ID:9USpALf0
>>723
誉められるぐらい善戦して1日かからず落とされてる訳で
何もせずに囲まれてたら戦意が続くとは思えない
0725人間七七四年2018/01/28(日) 17:43:48.59ID:FqQOCfdE
籠城否定するなら>>136に答えてください。
0726人間七七四年2018/01/28(日) 17:54:00.89ID:yHcZTFBZ
史実で岐阜城が落ちた理由を説明出来てる人などここにはいない
野戦したからなんて屁理屈でしかない
0727人間七七四年2018/01/28(日) 17:57:49.52ID:FqQOCfdE
>>726
>>7
0728人間七七四年2018/01/28(日) 17:58:33.52ID:8zHJSvTN
秀信に求められるのは

 1.大垣まで下がって本隊と合流する
 2.城を動かないなら少しでも時間を稼ぐ
   (これだと大垣から岐阜に援軍を置くならければいけなく、大垣の戦力が分断される)

岐阜なんて見渡しはいいけど直線を外れた所にいるから大垣から思い切った数を送ることは出来ない

1.しかない様な気はするが城を動かないを選んだ秀信の時点で圧倒的な戦力差から
少しでも時間を稼ぐという選択肢しかないから、水とかの問題は多いんだけど数日なら持つだろうから
後手だが全兵力籠城しかないな

野戦とか名軍師、策士がいるならともかく数合わせの戦いするならやってはいけないな
0729人間七七四年2018/01/28(日) 18:14:27.36ID:8zHJSvTN
岐阜城から兵を送るのは地理的にいいんだろうけど岐阜城に送るようになったら駄目だよね
0730人間七七四年2018/01/28(日) 18:18:34.37ID:8zHJSvTN
本当に秀信に求められていたのは東軍につくって事だけどね
0731人間七七四年2018/01/28(日) 18:18:55.23ID:yHcZTFBZ
>>727
後詰めの動きが一切無い大垣を警戒する必要がない
渡河防衛の時点ならともかく岐阜城包囲時なら距離があるから
大垣は偵察だけさせてれば十分、皮肉にも岐阜城からなら大垣含め丸見えだし
東軍先発隊は竹ヶ鼻を拠点にほぼ全軍で岐阜城攻められるかと
何故か>>7だと島津が援軍に来てるが野戦もせずに囲ませるならそれも間に合わない
すると兵力差3万強vs5~6000、力押しで潰されて終わり
0732人間七七四年2018/01/28(日) 18:26:38.11ID:FqQOCfdE
>>731

まず>>694を読んでいただけますか?岐阜城後詰決戦案の概要です。
ちなみに東軍のオーダーは>>3です。
0733人間七七四年2018/01/28(日) 18:30:09.06ID:8zHJSvTN
個々の戦いをどう勝ってみたいな下から積み上げて西軍を勝つことを考えるのはなかなか無理だわ
勝つとか勝たないとかじゃなくどう行動すべきだったかを戦いに入る前、戦いの最中、戦いの後みたいな
感じで考えていかないときついわ
0734人間七七四年2018/01/28(日) 18:41:41.22ID:/fG9tLI+
>>724
君が>>680で言った
>当時その場を生きる人達が人生を賭けて考え抜いた判断は軽視すべきじゃない

福島正則が秀信の籠城戦を誉めたのは当時の生きた人の評価だぜ?
0735人間七七四年2018/01/28(日) 18:44:15.59ID:yHcZTFBZ
>>732
どっちにしろ5倍の兵力差で持ちこたえる理由はない
岐阜を知らない功城苦手な島津を呼ぶ理由もよくわからん、ゲームか?
0736人間七七四年2018/01/28(日) 18:48:49.15ID:xk5AdU+l
岐阜城って曲輪が散らばっているし、本丸に大兵力を収容できないから
数だけ揃えても仕方ないんだよな。
どうせ分散するから。

島津の1000人なんて焼石に水だよ。
0737人間七七四年2018/01/28(日) 18:51:03.68ID:xk5AdU+l
そもそも籠城派の一番の問題点は岐阜城が難攻不落とかいう根拠だよな。
歴史的にそんな事実があるのか。

落城は36年間に6回しているらしいけど。
0738人間七七四年2018/01/28(日) 18:53:48.77ID:yHcZTFBZ
>>734
その評価は重要だろうな、敵から見ても織田秀信の籠城に
全く落ち度はなく称賛に値するものだったのだろう、準備も含めて
それでなお1日かからず落とされてるのが岐阜城
0739人間七七四年2018/01/28(日) 18:56:47.39ID:Hn1jzr+/
野戦がダメな以上籠城しかない
0740人間七七四年2018/01/28(日) 18:58:18.50ID:/fG9tLI+
>>728
> 1.大垣まで下がって本隊と合流する

岐阜城が落ちると東軍は大垣城素通りして関ヶ原から佐和山目指すだけなんで
小早川や吉川の本格的な調略が始まり
小早川が佐和山で不審な行動をしだし、関ヶ原で東軍に合流しようとするので史実となんら変わらない結果にしかならないのでは?
岐阜城放棄して史実より早く取られてる状態だと家康が史実より早く動き出す最悪の事態になるかもしれないし
0741人間七七四年2018/01/28(日) 18:59:28.15ID:xRqRU2fu
籠城しても勝てない(と判断した)から出撃した
しかし、結果的に籠城した方がマシだった
0742人間七七四年2018/01/28(日) 19:02:37.18ID:FqQOCfdE
>>735
以前のスレでも述べたけど、攻め手の東軍29000対岐阜城7000なら戦力比約4倍。
で、わかる範囲で攻城戦事例を調べたところ、守備兵5000以上くらいのケースで
低戦力比で落ちた事例は信貴山城の事例しかない。
高戦力比で落ちた事例も城方の内応によるケースが多い。

7000も籠もる城を力攻めするなら、よほどの理由か損害前提が必要と考える。

それとなぜ島津って、大垣に石田、小西、島津しかいないから。
0743人間七七四年2018/01/28(日) 19:03:02.91ID:yHcZTFBZ
>>741
どっちにしろ大差ない、議論進める意味がない
0744人間七七四年2018/01/28(日) 19:04:47.63ID:/fG9tLI+
>>738
敗走で兵力が落ち籠城準備が整ってないから水の手口から攻めこまれたんだけどな

>>8にもいわれてるように
>※付け入って とは、敗走する敵を追撃し、そのまま敵の城に攻め込む戦法

敗走して籠城準備が整ってない城に攻めこむ戦法で岐阜城は落とされた
0745人間七七四年2018/01/28(日) 19:05:47.63ID:xRqRU2fu
>>743
おっしゃる通り
0746人間七七四年2018/01/28(日) 19:07:50.21ID:FqQOCfdE
>>741
わたしも最近そういう理由もあったんじゃないかと思うようになった。
6000では岐阜城を守るには広大で足りないような気がする。
1万くらいいないとどこかの防備がおろそかになるようなかんじがする。
0747人間七七四年2018/01/28(日) 19:08:15.56ID:/fG9tLI+
>>743
君の議論がこのスレ的に一番無駄で意味がないんだけどね

史実と同じ結果ガーとしか言ってない上に当時の戦法も全く理解してないし
0748人間七七四年2018/01/28(日) 19:08:48.87ID:yHcZTFBZ
>>742
東軍は35000だろ、5倍の兵力なら問答無用で落ちるかと
さすがにこれが耐えられるとか言い出したらなんでも有りだわ
ただでさえ相手は岐阜城知り尽くしてるんだから
他より早く落ちる可能性高いし実際に落ちてるのに
0749人間七七四年2018/01/28(日) 19:12:20.91ID:/fG9tLI+
>>746
兵力的には城下町までを野戦築城は無理だから信長公居館を出城に改修して
後は抜け道や山道を瓦礫や野戦築城で徹底的に潰すしかない
0750人間七七四年2018/01/28(日) 19:15:48.57ID:yHcZTFBZ
>>747
当時の戦法も含めて福島は秀信の籠城を称賛したのではないのか?
それでなお1日で落とされてるのに
現代の素人が屁理屈並べてどうなるのか
0751人間七七四年2018/01/28(日) 19:21:30.96ID:FqQOCfdE
>>748
じゃあなに、犬山城の抑えや清洲城在番衆全部動員して岐阜城攻めるの?
とりあえずその35000の内訳書いてもらえる?
0752人間七七四年2018/01/28(日) 19:24:51.54ID:SBTrljyh
伏見城の攻防戦はすごかったのだろうな
当時の近隣住民みたく弁当片手に山の上から見学したいものだ
あれこそが名城だ。戊辰戦争の熊本城攻防戦も見学してみたい
0753人間七七四年2018/01/28(日) 19:28:07.29ID:/fG9tLI+
>>750
>>744の当時の戦法は無視か
史実の結果がベストなら>>702の負けた側もベストな判断だったのか?
秀信が地理を知ってる云々言ってるが>>721で秀信は初陣状態ってのもスルーか?

戦法とか考慮してIFを考えるスレにおいて
君みたいに戦法に疎く史実の結果ガーしか言わない議論がこのスレにとって一番要らないんだけどね
0754人間七七四年2018/01/28(日) 19:42:19.04ID:8zHJSvTN
籠城でも野戦でも時間稼ぎをどこまでできるかって事だし
1日で落ちた城をどこまで引っ張れると思ってるの?
0755人間七七四年2018/01/28(日) 20:00:34.94ID:FqQOCfdE
>>754
>>694>>698
最長2週間(伊勢方面隊到着)、最短5日(宇喜多到着)もてばよし。
次善は落ちても東軍に多大な損害を与えること。
0756人間七七四年2018/01/28(日) 20:16:17.33ID:8zHJSvTN
>>755
んで、籠城すれば回り囲まれて中腹やふもとに水も汲みに行けなく
野戦なら大差でどれくらい持つと想定してるの?
0757人間七七四年2018/01/28(日) 20:17:19.35ID:/fG9tLI+
まあ宇喜多到着まで持って貰わないと勝機はなくなるからな
0758人間七七四年2018/01/28(日) 20:39:06.21ID:Hn1jzr+/
実際どうするかは別にして
大垣隊が後詰めに来るまで持てばよい
0759人間七七四年2018/01/28(日) 20:40:21.25ID:/fG9tLI+
今までの流れ見て金華山頂上の岐阜城天守のみで籠城すると思ってる奴がまだいるのに驚くw
0760人間七七四年2018/01/28(日) 20:54:30.79ID:qSw/OrjL
野戦して1日で落ちた城が籠城して2日持ったら籠城した方がいいってことでしょ
籠城しても1日で落ちると断言できる人いる?
0761人間七七四年2018/01/28(日) 21:24:25.25ID:8DamNB2V
織田秀信の兵数は三成書状では5300人、しかも一手との表記なので、
犬山城の兵を併せた可能性が高い
0762人間七七四年2018/01/28(日) 21:56:05.00ID:dOyNzkic
https://i.imgur.com/V2pcvh1.jpg

石田三成の陣に甲冑を着た人がいましたね。
0763人間七七四年2018/01/28(日) 22:06:19.89ID:FqQOCfdE
わたしなりにもう一度岐阜城が一日で落ちた原因を考えてみたが、
まず渡河迎撃で出陣(岐阜城留守居700程残置)、迎撃失敗し敗走、
死傷・逃散で戻ってきたのはおそらく1500〜3000。
(予備隊(遊軍)配置の佐藤方政700〜1000は勝手に戦線離脱行方不明になってる)
で、この2000〜3000で岐阜城各砦、登山口に分散配置した。
おそらく各砦300〜500とかの人数と思われる。

そして東軍は、半ば放棄されたような城下町に容易に侵入、放火しつつ
池田隊は城下町と信長居館跡の間あたりから長良川沿いに水の手口へ移動?、
そして攻撃、福島隊は大手門方面、井伊隊が瑞龍寺山方面を攻撃。
戦力差で押し切られる(落ちない砦もあった)。


やっぱ単純に分散配置による戦力差が主因だと思う。
家老の推す本丸周辺一極集中のほうが数日はもったと思う。

兵7000でも足りないような気もするが主要砦には1000は配置できるようになるし
石垣もある居館跡を強化するなら拠点としてそれなりに機能しそうではある。
もっと兵がおれば、城下町惣構を利用し、城下町&居館跡、山頂本丸、
どちらかが落ちてももう片方で粘るということも可能だと思う。
0764人間七七四年2018/01/28(日) 22:11:34.79ID:SBTrljyh
http://ime.pta.jp/d/0LuLEF.jpg
http://ime.pta.jp/d/0os71k.jpg
http://ime.pta.jp/d/NKQK0A.jpg
http://ime.pta.jp/d/G8MWFm.jpg
http://ime.pta.jp/d/qEKztp.jpg

いつもの航空写真

岐阜城は攻めようと思えば四方八方から攻められそうだな。
もし岐阜城が難攻不落なら前城主の池田輝政は攻めようと思わないだろ。
家康の信頼を得るための戦いで負けましたじゃまずいわけだし
0765人間七七四年2018/01/28(日) 22:12:54.09ID:FqQOCfdE
>>761
962 自分返信:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 06:10:42.75 ID:j8DwuIBJ
>>928の兵力補足説明
とりあえず石田6000、秀信6000としてるが、これは備口人数では石田6700、秀信5300となっているが、
実際には石田は岐阜城に柏原彦右衛門、柏原内膳、河瀬左馬助、大西善左衛門、松田重太夫らを
援軍として送っており(ただし兵力は不明)
とりあえず援軍兵力推定700として計算している。

ただし、一説では援軍兵力2000とするものもある。この場合なら大垣石田4700、
岐阜秀信5300、石田援将2000、となる。

私見では舞兵庫あたりでも1000〜2000くらい、島左近、横山喜内、蒲生郷舎でもない将に
2000も率いて援軍させるか疑問に思う。そこでとりあえず援軍兵力700とした。


以上コピペ。
犬山城は稲葉とかはその備口人数にも表記されてるでしょ。
個人的に備口人数で判断つかないのが小西の兵力。とりあえず5000とわたしはしてるけど。
あと島津5000は援軍見込み含むものと見て、通説的な島津1000、パラパラ援軍込みの
9月15日なら島津1500と見てる。
0766人間七七四年2018/01/28(日) 22:14:48.00ID:yHcZTFBZ
>>751
犬山の押さえも清洲守りも1000も要らん、少数で十分
35000で攻められたら普通に落ちるだろ

>>763
瑞龍寺や権現など分散させて守ったら各個撃破されるだろう
1000程度じゃそれぞれ潰されるのに数時間かからんだろうし
その間あえて本丸無視されても自分からは攻めないのであれば士気は下がる一方だろうな
0767人間七七四年2018/01/28(日) 22:15:49.42ID:SBTrljyh
全時代的な弓での防衛には適していたけど
鉄砲の時代には合わない城だったのかも。
死角が多そうだし
0768人間七七四年2018/01/28(日) 22:23:00.57ID:Hn1jzr+/
池田がダメ城と知っていれば本拠を移したはずだが
0769人間七七四年2018/01/28(日) 22:26:41.11ID:8DamNB2V
>>765
犬山城には稲葉以外に城主の石川光吉・竹中重門・関一政・加藤貞泰・大坂弓鉄炮衆がおり、
その数は『太田和泉守記』では7000人とする
0770人間七七四年2018/01/28(日) 22:32:08.39ID:FqQOCfdE
>>761
もう一度備口人数確認してみたけど、美濃衆は稲葉一族以外表記がないね、
たしかに一手との表記なので含まれててもおかしくはない。
それだと根本的に岐阜城と犬山城の兵力算定も違ってくる。

ただ、犬山城主石川貞清も記載がないので尾張(犬山城)は未記載なのか、
ちょっとよくわからんね。
0771人間七七四年2018/01/28(日) 22:40:08.44ID:uL2hldm7
西軍が先に畿内で蜂起して東軍は一週間後に連絡を聞いて北関東から反転する立場なのに
畿内から一歩出ただけの関ヶ原が戦場になっている時点で西軍の駄目っぷりが良くわかる
史実の関ヶ原にしても上で叫ばれている岐阜籠城にしても西軍が受身に立つことを前提にした行動なんだよね
ただでさえ雑多な烏合の衆の西軍がもはや先に蜂起したメリットが何もない受身の行動を取れば負けて当然だろう

秀信は戦術に疎いガキだったが信長の孫だけあって受身の行動では勝てないという祖父譲りの直感はあった
むしろ他の西軍首謀者連中ののんびりした消極的な行動がおかしい
秀吉がスピードと積極性を武器に天下を取ったことは文治派も毛利も知っているのに
そこから何も学習していない間抜けぶりには開いた口が塞がらないよ
0772人間七七四年2018/01/28(日) 23:55:46.19ID:SBTrljyh
秀吉が天下を取った大きな理由はスピードと裏切りと残虐性だよ
主君の信長が死んで1年たってない喪中に、信長の奥さんと信長の孫娘を串刺しにして殺して3日も放置して晒すなんて誰が考えるよ
家康に取り込むために自分の妹を離婚させ夫を死に追いやるとか人非人の所業だろう。
関白一家を皆殺しにしたのも残虐性のあらわれ。
西軍のやつらはそんな秀吉の太鼓持ちをしていたやつらだから保守的なんだよ
0773人間七七四年2018/01/29(月) 00:27:47.16ID:dCW007y2
>>772
信長の奥さんと孫娘って誰だっけ?
0774人間七七四年2018/01/29(月) 00:34:58.19ID:WEej03D/
>>771
そこは同感だな
岐阜城が粘れる云々以前に消極的すぎて西軍が勝つ目が見えない
0775人間七七四年2018/01/29(月) 03:51:13.17ID:yKhobbQ7
>>773
________________________________________
|                                                        
| それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。          .           
| しかるに、いったん信長公の寵遇を受けて将帥にあげられ、大禄を食みだすと、   .   
| 天よりも高く、海よりも深きその大恩を忘却して、公の没後ついに君位の略奪を企つのみか、
| 亡君の子の信孝公を、その生母や娘とともに虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。     
| その言語に絶した大逆無道 黙視するあたわず、                       
| わが主君 源家康は、信長公との旧交を思い、                           
| 信義を重んじて信雄公の微弱を助けんとして蹶起せり。                      
| もしかの秀吉が、天人ともに許せぬ悪逆を憤り、義の重きを思うものあらば、        
| 父祖の名誉にかけて、この義軍に投じ、以て逆賊を討伐し、海内の人心に快せん      
|                                                       
|  天正十二年                榊原小平太康政                     
|_______________________________________
               ∧∧ │      │ 
               (   ,,)│      │
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            〜′ /´ │      │
             ∪ ∪  │      │ _ε3
            ゛'゛'゛゛゛'゛゛'゛'゛゛゛'゛'゛'゛'゛゛゛'゛'゛゛'゛'゛゛゛'゛゛'゛'゛゛゛'゛''小牧長久手


当時の人はみんな知ってる
0776人間七七四年2018/01/29(月) 09:36:53.98ID:yfM8xzSS
ログ見てると家康ってホント何もしてないのがわかるな
0777人間七七四年2018/01/29(月) 09:59:06.79ID:HRQNA+I6
>>764の地図も参照して水の手口がどのあたりのルートなのか確認してみたけど
思ってたより北西側だった。
居館跡の強化と、その長良川側、城下町惣構と接する山際の辺り、ここ強化すれば水の手口への進攻は
防げる。
それと>>764の地図見て思ったのはとても大軍が大挙して攻撃できる山じゃない。
それができそうなのは大手道のあたりと、瑞龍寺山からの尾根伝い。
たしかにがれきで道塞いでしまえばかなり時間稼ぎできそう。
おおむね>>613の強化で合ってる。

つまり強化ポイントとしては居館跡、その北側山麓水の手口登山口、大手道、瑞龍寺山砦あたり。
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