9月14日に本多忠勝、井伊直政が出した「家康は輝元を疎略にしない、領地は安堵する」
という起請文の宛先は吉川広家、福原広俊。

wikiの福原広俊の項にも以下のように書かれてる。

関ヶ原の戦いにおいては、西軍に味方した毛利氏の断絶を防ぐため、
広家・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直と談合の上で徳川家康に内通、
領国安堵の約束を取り付けたが、戦後約束は反故にされ、
輝元が減封されると広俊も本領を維持できず、以後は長門吉敷の地を領した。


つまり毛利の重臣連中が不戦密約してる。吉川広家が単独で行ったものではない。
秀元、輝元が表立っていないのは「安国寺が勝手にやった」のと同様、
もし西軍が勝った場合、「家老が勝手にやった」と言い訳できるようにするためと見ていいと思われる。
このような重要事項を輝元、秀元が知らないはずがない。

ただ、南宮山の現場でも、戦況が西軍優勢となれば、「勝利に貢献した毛利勢」となるべく
西軍として参戦する可能性はもちろんある。
だから南宮山が動くかどうかは戦況次第。