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関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part10

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0001人間七七四年2017/12/06(水) 09:24:47.58ID:visuc2TV
前スレ

関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part9
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1509028014/
0789人間七七四年2017/12/24(日) 00:13:48.95ID:790/qGmc
>>787
自分に文句つけてくるやつは全員同じやつ!はさすがに病気だよ…
しかも自分の勘違いが明らかになってから最初からスレチだし!とかいうね…
wをつけて強がってるのが哀れさを誘う…
0790人間七七四年2017/12/24(日) 07:32:29.41ID:wUEaJpjk
議論と口論は違いがわかってないやつがいるからな。
議論相手を馬鹿にしておとしめることを議論と思っている人がいる
レッテル張りしたり罵倒したり。議論を口論と履き違えている
0791人間七七四年2017/12/24(日) 07:33:02.68ID:wUEaJpjk
議論と口論の違いがわかってないやつがいるからな。
議論相手を馬鹿にしておとしめることを議論と思っている人がいる
レッテル張りしたり罵倒したり。議論を口論と履き違えている
0792人間七七四年2017/12/24(日) 08:42:21.80ID:XV384RcD
このスレすぐ相手を罵倒しながらレスする人が一人常駐してるね
0793人間七七四年2017/12/24(日) 10:16:52.11ID:fzfYqIa5
>>788
黒田加藤らに島津討伐令が出てたから東軍でもなかったかな
0794人間七七四年2017/12/24(日) 10:43:18.83ID:+M7ld3J2
>>793
義弘が西軍に居る以上、揺さぶりだわな
忠恒はマジでクソジジイ早くくたばれと思ってそうw
0795人間七七四年2017/12/24(日) 14:44:15.91ID:U68gqvxR
黒田と加藤じゃ島津に勝てる訳がない
0796人間七七四年2017/12/24(日) 15:00:49.30ID:aAd9kU2e
9月2日、関ヶ原山中村着陣の大谷らの兵数調べてみた(備口人数準拠)。訂正あればよろ。備口人数

大谷吉継1200、木下頼継700、戸田勝成500、
小川祐忠、小川祐滋2500、脇坂安治1200、

朽木元綱(不明、600?)、赤座直保(不明、600?)、平塚為広(不明、300〜400?)

合計7600〜7700か。

この他に備口人数の北国口には越前東江衆2000なるよくわからんのもいるが
山中村にいたかは不明。これを足せば9600〜9700になる。
関ヶ原本戦布陣的には
大谷、戸田、平塚ら2700〜2800+越前東江衆2000なら4700〜4800
脇坂、小川、朽木、赤座で4900.
0797人間七七四年2017/12/24(日) 15:16:48.70ID:+M7ld3J2
家康にオトされてる奴ばっかりでほとんど東軍だなw
0798人間七七四年2017/12/24(日) 15:21:52.18ID:aAd9kU2e
それから8月19日付井伊直政、本多忠勝宛黒田長政、徳永寿昌、奥平貞治連署状からは
村越茂助の件もあってか木曽川渡河は成功しようが失敗しようが損害が多かろうが
相当の覚悟で敢行するつもりのよう。
木曽川渡河美濃進攻を「天下之勝負」と捉えているみたい。
なので、多少の戦力差(目安としては1.5倍くらいまでか?)なら後詰決戦に応じる可能性は
けっこうあるように思える。
もちろん合理的判断で清洲に撤退する可能性もある。五分五分と見る。
0799人間七七四年2017/12/24(日) 15:40:41.31ID:aAd9kU2e
美濃・尾張方面東軍西軍兵力集結状況

8月10日 石田、小西大垣到着(6700、5000)
8月14日 東軍先発諸将3万数千清洲到着(35000)
8月20日 島津義弘大垣到着(1000)
8月27日 宇喜多秀家、長島城攻略を止め大垣入城(18000)
9月2日 大谷ら関ヶ原山中村着陣(9600)
9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)
9月7日 毛利秀元、吉川ら毛利勢南宮山着陣(約2万?)
9月11日 家康清洲入城(33000?)
9月17日 秀忠妻籠(信濃美濃国境付近)到着(38000)
0800人間七七四年2017/12/24(日) 15:53:08.27ID:aAd9kU2e
ちなみに「9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)」

これは8月下旬以降、垂井〜赤坂を東軍に押さえられているため、
近江伊勢の白瀬峠を越えて大垣南方から入城という遠回りをしているようで、
岐阜城が粘って東軍が垂井を押さえていないのなら2〜3日は到着が早くなる。
0801人間七七四年2017/12/24(日) 16:21:44.16ID:70S8u6KT
関が原本戦で西軍が勝利しても東軍はまだあとがあるからな
やっぱり戦闘以前の秀吉存命時代から動かんととても勝てんよ

宇喜多騒動と7将襲撃回避して三成が中央に居られる状況というのが最低条件
あとは織田秀信どうにかして大谷吉継クラスを岐阜城に入れないと無理か?
0802人間七七四年2017/12/24(日) 17:17:06.81ID:acSIDKwa
>>792
どうも何時も書き込みの内容が同じなんで、徳川スレに常駐してる人ではないのかと?
どんな内容でも家康が貶されるのは我慢出来ないみたいですね。
>>801
それは流石に違うって思うな。内府違いの条々で東軍の本隊以外が消滅したみたいに、形勢を傍観してる
勢力はどちらかと言うと西軍だから東軍の本隊が野戦で敗北すると厳しいと思う。
最終的な勝敗は兎も角、西軍が膨れ上がるんで関東まで引き込む形に成るんでは?
0803人間七七四年2017/12/24(日) 18:35:22.67ID:fzfYqIa5
岐阜城後詰め決戦で東軍先鋒隊を壊滅させていればそのまま尾張に攻めこめるけど
大軍同士による渡河防衛になってしまったら西軍も攻め込めなくなるので完全に膠着
0804人間七七四年2017/12/24(日) 19:06:04.54ID:n/HMyWt9
>>801
岐阜城自体の防衛能力欠如の可能性も否めない
池田が代わりに籠城してくれれば話は別だが
急に岐阜城知らない武将が籠城してどうにかなるのか疑問というのもある
0805人間七七四年2017/12/24(日) 19:41:48.22ID:U68gqvxR
>>804
徳川は伏見城を全く知らない奴に守り任せましたがw
0806人間七七四年2017/12/24(日) 19:44:19.25ID:c//5mowE
>>805
家康が伏見城に入城してどれだけ立っていたかも知らないタイプの人?
0807人間七七四年2017/12/24(日) 20:22:47.82ID:fzfYqIa5
伏見城の戦いの城代を勤めた鳥居元忠は岩ヶ崎城城主だから
伏見城とは無縁だったってことでしょ
上でも言われてるように籠城には城代城主の能力の影響は少ない
0808人間七七四年2017/12/24(日) 20:27:18.81ID:jS1zGFP1
根性あるかどうかだね
0809人間七七四年2017/12/24(日) 20:40:19.76ID:fzfYqIa5
普通なら家名を守るために、家臣や領民を領地を守るために劣勢なら即東軍に降る所を
家臣が悉く討ち死にして家臣が数十人になるまで降伏しなかった秀信は籠城は適任と才があると言える
愚直ともいうが
0810人間七七四年2017/12/24(日) 22:35:55.59ID:aAd9kU2e
それと木曽川挟んでの膠着状態になった場合、東軍はおそらく犬山城を狙ってくる。
西軍はすみやかに伊木山、鵜沼を占拠し野戦築城、犬山城にも援軍送って増強するべき。
対秀忠でおそらく最前線になる。
伊木山に毛利秀元&吉川広家、鵜沼に小西あたり配置するといいかも。

個人的には家康、秀忠が来る前に和睦するのを強く推したい。
0811人間七七四年2017/12/24(日) 22:46:48.43ID:X1mYBlQK
籠城に城主や前線指導者の能力が関係ないなんて平気で言える人の意見はまともに聞く気になれない
これは絶対関係あるだろと
0812人間七七四年2017/12/24(日) 23:24:51.03ID:aAd9kU2e
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着後西軍のなすべきことは木曽川渡河迎撃と秀忠迎撃。
正直兵力が足りない。
対前田は以前にも述べたように田辺城組を敦賀に5000、北ノ庄に1万ほど援軍派遣すればいいと思う。
前田利長は利政抜きでおそらく兵18000〜2万(丹羽3000を付け加えるなら21000〜23000)と思われるので、
北ノ庄の16000〜17000、敦賀5000で抑えられると思われる。
この情勢なら双方とも積極攻勢はしないと思われる。
おそらく北ノ庄で対陣。

大津組の立花、筑紫、小早川秀包計5000は美濃方面に向かうと思われるが
毛利元康はわからない。この情勢なら輝元、元康は美濃に出陣すべきだと思うが。
小早川秀秋の動向はまったくわからない。

輝元、元康美濃出陣ならなんとか兵力は足りる。


>>811
関係ないなんてだれか言ったの? 野戦ほどの影響はない、って言ってるひとはいるけど。
籠城の場合、城自体の防御能力、守備兵の多寡、指揮官の能力、この順で影響すると思うが。
城の縄張り図見て理解できないなら武将じゃない。農民一揆。
0813人間七七四年2017/12/25(月) 00:00:05.28ID:opPYe6uM
>>812
野戦も籠城も指揮官の実力の影響は変わらんだろう
少なくとも差が出る根拠なんかない
籠城が得意、野戦が得意という違いはあるだろうけど
0814人間七七四年2017/12/25(月) 00:28:41.42ID:FGJpd+rI
>>813
指揮官の能力の優劣で城の曲輪の数が増えたり減ったりしないし、
守備兵が増えたり減ったりもしない。
0815人間七七四年2017/12/25(月) 00:47:23.04ID:opPYe6uM
>>814
使い方は変わるかと
このスレでその使い方まで武将に指示できるとも思えないし
そこは本人の能力に頼らざるをえない

野戦での地形の使い方と同じ
0816人間七七四年2017/12/25(月) 01:16:03.76ID:FGJpd+rI
>>815
守備兵数が充足してるならあとは予備隊をいつ、どこに投入するかくらいしかないと思うけど。
それ以外だと城外に打って出て攻撃する場合。

史実での秀信はただでさえ少ない守備兵をさらに分散配置し戦力比をさらに不利に傾けた。
一日で落ちた主因はそこにあると見る。


もし指揮官の能力が最も影響するというのなら志賀の陣で浅井・朝倉が籠もる比叡山を
織田は攻撃すればいい。
しかし実際はしていない。それどころか「野戦で決着をつけよう」と使者まで送ってるでしょ。
0817人間七七四年2017/12/25(月) 01:45:52.67ID:opPYe6uM
>>816
それも指揮官の実力だろう
くらいしかないとか勝手に断言できる意味がわからん
0818人間七七四年2017/12/25(月) 03:14:03.74ID:ccPGyLwx
>>811
>籠城に城主や前線指導者の能力が関係ないなんて平気で言える人の意見はまともに聞く気になれない

いつ誰が前線指導者の能力が関係ないなんて言ったんだ?
大坂冬の陣では城主秀頼、真田丸等の前線指導者真田幸村らで
城主の能力の影響より前線指導者の能力の影響が大きかったが?
0819人間七七四年2017/12/25(月) 03:25:45.79ID:ccPGyLwx
それに>>804
>急に岐阜城知らない武将が籠城してどうにかなるのか

伏見城の戦いの鳥居元忠は伏見城の城主でもなく
岩ヶ崎城城主から伏見城の城代として伏見城に引っ張られてきただけだからな
見知った土地かも含めて能力と言ってる
0820人間七七四年2017/12/25(月) 14:29:16.15ID:RGxkJJWZ
>>808
ワロタ 確かに根性だなw
0821人間七七四年2017/12/25(月) 16:03:29.09ID:450VoRIB
>>814
その辺はゲームのAIとか参考にしたら解らんかね?
実際、光栄の奴は馬鹿だから中盤以降作業で眠く成るとか言われてるし。
それとさ、有名なナポレオンだって必要な時に必用場所に必用なだけの兵力を...でしか無い。
重要地点を見抜き、他所から兵力抜いて援軍を出すんだから才能大事と思う。
0822人間七七四年2017/12/25(月) 17:23:49.62ID:v/oyrmga
毛利がちゃんと参加して義久がちゃんと兵を九州から送っていれば勝てたんじゃない?
0823人間七七四年2017/12/25(月) 17:49:49.61ID:hY4z3sLG
大義のない西軍は勝てません
吉川や小早川などの毛利の武将がひよってたのは大義のない戦いだからだ。
さらに率いる将兵は武断派の東軍と文治派の西軍で格差があり
中国からの遠征軍と地元の軍で地の利が違う。
三成専横でまとまりに欠ける西軍と小山評定で意思統一のなされた東軍
そして東西を取りまとめるのが大義をもち野戦上手の家康と、奸臣として名高い石田三成
西軍が勝てるわけがない
0824人間七七四年2017/12/25(月) 19:06:14.47ID:fks9OAnj
>>823
>さらに率いる将兵は武断派の東軍と文治派の西軍で格差があり
武断派と文治派という括りがまず間違い。一般的に武断派急先鋒のようなイメージのある福島正則からして武将というより吏僚側の人間
将兵についても西軍側は先年まで朝鮮で戦闘経験を積んだ将兵が多くおり東軍に比べて大きく劣っているということはない
>三成専横でまとまりに欠ける西軍と小山評定で意思統一のなされた東軍
小山評定はフィクション
0825人間七七四年2017/12/25(月) 19:39:21.76ID:RGxkJJWZ
>>824
そいつは相手しちゃ駄目
0826人間七七四年2017/12/25(月) 20:05:18.24ID:kXd3M8g5
「小山で評定」があったかどうかはともかく、「小山のあたりで意思統一の評定はあった」ということは誰も否定しておらんだろ。
「小山評定否定」って言葉遊びの一種だわな
0827人間七七四年2017/12/25(月) 20:09:20.97ID:3DkVFbNx
否定はしてないけどそんなもんがあったかどうかわからんという主張なんだけどな
0828人間七七四年2017/12/25(月) 20:13:13.52ID:7r/OZ5bG
いわゆる『小山評定』は家康神話の一環だとして否定しているけど
となると逆に家康の統率力が評価されてしまうという面白い状況
0829人間七七四年2017/12/25(月) 20:14:47.03ID:kXd3M8g5
>>827
当時の書状なんかも含めた状況証拠から「どうやら評定はあったらしい」ってのが今は主流の考え方だろ
0830人間七七四年2017/12/25(月) 20:29:38.25ID:3DkVFbNx
主流じゃないとか言ってないぞ
だれも否定してないというのは言い過ぎって言ってるんだよ
0831人間七七四年2017/12/25(月) 20:31:12.61ID:3DkVFbNx
小山評定への疑問はそれなりに取り上げられてる
0832人間七七四年2017/12/25(月) 20:38:30.22ID:nH5I8NVr
何も話無しで西軍攻撃が決定していたと?
0833人間七七四年2017/12/25(月) 20:45:26.37ID:5iFSWVBU
西軍はまとまりがなさすぎ。
岡山に金扇の馬印や『厭離穢土欣求浄土』の旗印を見ただけで
西軍の雑兵は動揺し若干名逃げ出したとあるぐらいだからな。
0834人間七七四年2017/12/25(月) 20:53:10.12ID:3DkVFbNx
わからないことはわからないだろ
わからないから研究するんだ
0835人間七七四年2017/12/25(月) 22:04:00.91ID:fks9OAnj
>>832
正確には西軍じゃなくて謀反を起こした石田・大谷の2人
小山評定が行われたとされるのは7/25だけどそのあと7/27に秋田実季や堀秀治に「大谷と石田が逆心し、大坂のお袋様、増田・長束・前田の三奉行、前田利長らから上洛を要請されたのでこれから上洛するつもりです」という内容の手紙が出ていて
さらにそのあと7/29に家康から黒田長政に向けて「引き返したあとに大坂奉行衆が謀反したと聞いた。相談がしたいがすでに軍勢を進めているだろうからそれはやめて詳細は使者に話しておく」という手紙が出てる
仮に評定があったとしてもフィクションの小山評定のような西軍なんていう大規模な敵を想定したものではないと思うよ
0836人間七七四年2017/12/25(月) 22:45:33.72ID:Cm/CA6H1
それ以前の細川忠興書状には、毛利輝元の西軍参画も認識されていた
この辺の書状の内容が全て正しいと考えるのはどうかと
0837人間七七四年2017/12/25(月) 23:25:39.22ID:Ny32E/Xw
誰が何人集まろうが謀反は謀反だろ
輝元や秀家や三奉行が集まったところでそいつらが豊臣の主君ではないからな
こいつらや三成が集まれば好き勝手に何をしてもいいなんて理屈は成立しない
0838人間七七四年2017/12/26(火) 00:02:26.39ID:+LGP9Nq5
惣無事と聚楽第行幸より諸大名の主君は天皇ですよ
天皇は関白に公儀をゆだねていたが、太政大臣の豊臣が関白左大臣を殺し右大臣を流罪にして
死ぬまでの3年勝手気ままに政治をおこない死んだ。
征夷大将軍・関白・左大臣・右大臣が欠員で、公儀を行うにたる人物は内大臣のみ
だから内大臣が天皇にゆだねられた公儀を代行した。

その公儀に謀反をおこしたのが石田三成だ
0839人間七七四年2017/12/26(火) 05:52:44.57ID:MMIhX7on
謀反のような気はするが
勝者の徳川が後の歴史書に歴史書に謀反だと騒いでない点が気になる
無理やりにでも謀反説広めようとしそうなもんだが
0840人間七七四年2017/12/26(火) 07:09:02.97ID:dcuj5NeU
7月19日福島正則宛の家康書状によると

早々にそこまで出陣したことを御苦労共、上方雑説のため人数(福島正則の軍)は西上させて、御自身(福島正則)は是(江戸)まで来るように。
詳しいことは黒田長政・徳永寿昌が述べるので詳しくは書かない。

という書状を送ってるから江戸まで福島正則のみで来て
黒田長政・徳永寿昌に何か指示か説得を受けた
江戸〜小山のどこかでそれぞれ東海道の大名に対して
何らかの軍議指示はあったのは確かだね
0841人間七七四年2017/12/26(火) 08:30:16.15ID:0M2Bs9bi
>>840
全員一同に集まったかどうかはかなり怪しい
0842人間七七四年2017/12/26(火) 11:48:54.51ID:KDvhObMf
福島正則って武断派みたいに言われてるけど、実際はけっこう兵站部門やってるよね、
清洲でも豊臣の米備蓄してるわけだし。

6月10日付春日元忠宛来次氏秀書状には、上杉征伐時家康から清洲城を貸してほしいと
頼まれたが福島正則は断った、とある。(単なる噂の可能性あり)

つまり当時の認識として福島正則って>>824の言うようにポジション的には吏僚に近いけど
個人的に石田がムカつくという微妙な存在だったのかねぇ?
0843人間七七四年2017/12/26(火) 13:28:30.47ID:e9bbKNjU
福島正則はただのチキンで利己主義名だけだよ。
隠れ蓑に三成を出してるに過ぎない。徳川との婚姻だって
三成とか全く関係ないし、単に最大勢力の家康に取り入っただけ。
0844人間七七四年2017/12/26(火) 16:40:43.91ID:NLEtgTsP
であれば、大阪方に8万石の米接収させる必要はないな
親族を代理入城させなくても良い

秀吉の遺言に忠実なだけだな
0845人間七七四年2017/12/26(火) 17:16:37.85ID:CquFn2ES
毛利が一枚岩にならないとどうにもならないだろ?
それが、無理なんだが。
0846人間七七四年2017/12/26(火) 17:32:39.48ID:bwxudYEh
>>845
そもそも家康の会津征伐への出立後に輝元が大坂に呼ばれたこと自体が安国寺1人の先走りで輝元自身も予想外のことだったからな
0847人間七七四年2017/12/26(火) 17:58:44.77ID:dcuj5NeU
西軍が清須城を早期に攻めると言ってた人いたけど
7月中には福島正則の兵だけ清須城に戻ってて
8月1日に伏見城攻略だからどう見ても清須城は落とせないよな
0848人間七七四年2017/12/26(火) 18:29:08.32ID:bwxudYEh
>>847
7/24〜7/25は江戸〜小山のどこかにいたとされてる福島がそこから7月中に清洲に戻るのは無理じゃないの
兵隊を置いてとりあえず身一つで清洲に戻ったとかならギリギリ無理ではないかもしれんが
0849人間七七四年2017/12/26(火) 18:40:45.37ID:dcuj5NeU
>>848
>>840読んで
とりあえず7月19日の書状には福島正則は江戸にはついていない
清須〜江戸の途中であった
そこに家康から書状で福島正則の軍だけ西上(清須に戻し)
福島正則単身で江戸に来てくれという書状になっている
0850人間七七四年2017/12/26(火) 18:51:57.04ID:bwxudYEh
>>849
そのあとにこんな書状が出てるんですけどね

・7/24徳川家康→福島正則
もうすぐそこまで御出陣だそうで、御苦労様です。上方で雑説が流れていますので、兵団はそこにおとどめになったまま、御自身だけ、こちらへおいでになってほしいのです。詳細は黒田甲斐と徳法印が話すでしょうから、詳しいことは書きません

この書状通りなら家康視点ですぐそこまでと言える距離のところまで兵隊を連れて福島正則が来てることになる
0851人間七七四年2017/12/26(火) 19:04:40.51ID:8g0YjHLI
>>850
それ内容は全くいっしょ。日付が三通りあってふたつは誤記。19日とその24日とあともうひとつ違う日付のがある。
0852人間七七四年2017/12/26(火) 19:22:02.02ID:dcuj5NeU
>>850
8月5日の三成書状には福島正則は清須城に到着してるからね
19日の書状で引き帰らさせて単身で江戸まで来て
岐阜から江戸までの報告が早馬で四日だから
福島正則だけ江戸から単身で清須に早馬で帰ればって間に合うって話だね
0853人間七七四年2017/12/26(火) 19:25:29.48ID:nh0zX49L
一枚岩でも勝つのは難しい
0854人間七七四年2017/12/26(火) 19:52:33.42ID:bwxudYEh
>>852
8/5着なら7/24の呼び出しの手紙を受けてから兵隊を連れて帰還でも十分間に合うがね
そもそも19日時点で福島正則に軍勢を清洲に戻せ、はありえないと思うけどね
増田長盛が「大谷吉継が病気と称して行軍を止めた。上方では石田が謀反という噂が流れている」という手紙を発送したのが7/12
大坂駐在毛利家臣の宍戸元次が「安国寺恵瓊が戻ってきてこれは輝元の命令だと言った。ありえないことだし輝元もこのことは知らないだろう」という手紙を発送したのが7/13
出雲を出て明石に到着した吉川広家が「安国寺恵瓊が大坂で進軍を止めろ、これは輝元さまの命令だと言ってきました。輝元が事情をするはずもないしありえないことです」という手紙を発送したのが7/14
広島にいた輝元が「増田・長束・前田玄以から上洛要請が来た。事情はよくわからないが秀頼様に忠節せよというのでこれから上洛する」という手紙を清正に送ったのが7/15で実際に大坂入りしたとされるのが7/17
当時の通信の速度を考えて7/19時点だと江戸の家康の手元にあるだろう情報は「石田と大谷の謀反の噂」「安国寺が輝元の命令と称して軍勢を大坂で止めるように言っている」くらいで実際に謀反が起こったのかどうかもはっきりしてない
これで福島に軍勢だけ清洲に戻して一人だけ江戸に来いなんて命令が出るとは到底思えん
19日の手紙は誤記もしくは実際に石田が謀反を起こして東軍が清洲に戻ってそこから北上し西軍と戦ったという事実から逆算して作った偽書だろう
0855人間七七四年2017/12/26(火) 20:03:52.64ID:dcuj5NeU
>>854
20日にも上方騒乱の書状を送って
23日には最上に会津征伐を決め中止の書状を送っている
前線基地になるだろう清洲城の福島正則だけ何にも知らせず24日まで放置とかあり得ない
23日〜25日は軍議してたのか遠方にしか書状送ってないし
24日なら福島正則は既に江戸に付いててもおかしくない
0856人間七七四年2017/12/26(火) 20:04:48.45ID:dcuj5NeU
訂正
23日には最上に会津征伐中止を決め書状を送っている
0857人間七七四年2017/12/26(火) 20:35:58.85ID:bwxudYEh
>>855
だからその前線基地になるであろう清洲城ってのがまず結果ありきの後知恵なんだってば
21日の細川忠興の手紙では「石田三成と毛利輝元が申し合わせて謀反を起こしたと上方から内府へ次々と御注進がある。ほかにも西へ残っている者たちは彼らに味方したそうだ。おそらく内府はすぐに御上洛となるだろう。(中略)
内府は江戸を今日二十一日に御出発だそうだ。私は昨日宇都宮まで来ている。きっとひっくり返して上方で御働きになると思っている」
21日時点での家康は上方から送られてくる情報を集めてる最中で「すぐに上洛するだろう」「上方で槍働きになると思っている」と西進はあくまで諸将の予想の段階を超えてない
ましてやそれより前の19日の時点で清洲城が前線基地になるなんて考えが前提の清洲城への軍勢帰還命令が出るわけがない
0858人間七七四年2017/12/26(火) 20:45:57.14ID:dcuj5NeU
>>857
20日前後の上方騒乱の書状が飛び交っている上に
23日までに会津征伐を中止を決定して
福島正則抜きで会津征伐中止を決め
福島正則には24日まで何にも知らせず放置の状況があり得ない
しかも清須は兵糧備蓄されてるから最重要拠点には代わりないし交通の要所でもある
0859人間七七四年2017/12/26(火) 21:12:26.42ID:bwxudYEh
>>858
>24日まで何も知らせず放置の状況
↑これが徳川家が物事の真偽をリアルタイムで完璧に把握しているという神の目視点を前提にした後知恵なんだってば
21日時点で宇都宮にいる細川忠興も上方で石田・毛利が謀反を起こしたと言ってるんだから当然徳川や福島正則だってそういう情報自体は持ってるでしょ
だからといって情報が入ってすぐにその情報の真偽の判定をし、即座に軍事行動を停止して新たな方針を即座に打ち出せるかはまた別だよ
24日に福島正則をわざわざ「石田三成が上方で謀反を起こした」なんていう従軍してる諸将でも知ってるような情報を知らせるために呼ぶわけがない
徳川家が情報収集と方針転換の結果、会津征伐を中止し西進して謀反を起こした石田たちと戦うという方針を決めたから呼んだと思うほうが自然
>しかも清須は兵糧備蓄されてるから最重要拠点には代わりないし交通の要所でもある
これも19日の時点で徳川家が上方から届いた断片的な情報だけで「石田はすでに謀反を起こした!」なんていうリアルタイムの神の目視点で歴史をみた後知恵ありきの考え
石田の謀反が噂だけのことだったならそもそも福島の兵を清洲守備のために戻す必要もない
0860人間七七四年2017/12/26(火) 21:37:21.66ID:dcuj5NeU
>>859
>だからその前線基地になるであろう清洲城ってのがまず結果ありきの後知恵なんだってば

後知恵はこっちな
伏見城で西軍が苦戦するって未来も分からない上に石田と毛利に近江美濃がどこまで呼応するか分からないんだから
清洲城が大丈夫という根拠は全くない

7月18日付で稲葉通孝は会津征伐は延びて国許に帰っているから7月19日の書状で福島正則の軍だけ帰ってるのは不自然ではない
むしろ24日まで福島正則は誰からも知らされずに放置されてる状況が異常だよ
0861人間七七四年2017/12/26(火) 21:53:03.00ID:bwxudYEh
>>860
伏見城がいつ攻撃開始されたか知ってる?
19日時点だと徳川はそもそも伏見城が攻撃されてるということすら知らないんだよ
実際に謀反が起こったのかどうかも真偽がはっきりしてるとは言い難いのに攻撃されるかどうかもわからない城を苦戦するって未来もわからないと表現すること自体がまず大きな間違い
あともう一度言うけど福島正則が誰からも知らされず放置ってのがそもそも間違いなんだよ
上でも書いてるけど細川忠興なんかは江戸より先の宇都宮にいても上方での謀反の噂を知ってたんだから当然福島正則も知ってたろう
その上で会津征伐軍が今後どう動くかという方針を指示されたのが24日の呼び出しと考えるべき
0862人間七七四年2017/12/26(火) 22:10:14.04ID:dcuj5NeU
>>861
アホか
7月13日に宍戸元続によって既に蜂起したことは知られて7月15日には伏見城は籠城準備開始している
吉川広家とかの内通者がいるのに7月19日の伏見城の戦いまで東軍が蜂起を知らないわけないだろ
もう資料を勉強しろよ
0863人間七七四年2017/12/26(火) 22:21:19.13ID:bwxudYEh
>>862
残念
13日の手紙は「安国寺恵瓊が大坂に軍勢を戻すように言ってきて、これは輝元の命令だと言ってるがそんなはずはない」というもので石田の蜂起を伝えるものではない
吉川の手紙はどうも手違いがあったのかすぐに徳川に届いたわけではなく8/8時点で始めて家康は「吉川から報せが届きました」と黒田長政に伝えているので7/19時点では家康には伝わってない
0864人間七七四年2017/12/26(火) 22:27:11.17ID:dcuj5NeU
>>863
残念?
実際に15日に伏見城が籠城準備開始してるのに
蜂起と異変の報を受けて籠城開始してるのに何の情報収集もせず
家康にも情報を知らせてないと思うのか?
アホだなぁ
伏見城の戦いまで全く東軍が知らないと思うなんて
0865人間七七四年2017/12/26(火) 22:32:29.67ID:bwxudYEh
>>864
さらに残念
当時の通信速度では君が籠城準備を始めたと言ってる15日に報せを送ったとしても19日には間に合わない
東軍が知らない、ではなく19日時点では知りようがないということです
0866人間七七四年2017/12/26(火) 22:37:44.95ID:dcuj5NeU
>>865
はい残念
20日前後に上方騒乱の書状が飛び交い
23日には最上に会津征伐中止を決め書状を送っている
0867人間七七四年2017/12/26(火) 22:51:35.22ID:bwxudYEh
>>866
20日前後に飛びかっている上方騒乱の書状とやらに徳川がそれを認識しているという報告でも書いてるんですか?
ちなみに徳川家は当初「石田・大谷が蜂起し増田・長束・前田玄以がこれに対抗し大坂城に籠城している」と認識していたようで伊達政宗にその旨の手紙を書き送ってます
どっちにしろ清洲城が最前線にはならないですね
0868人間七七四年2017/12/26(火) 23:12:40.47ID:dcuj5NeU
>>867
7月18日付で稲葉通孝は会津征伐は延びて国許に帰っているし
20日前後の上方騒乱の報を受け最上に会津征伐中止の書状を送っている
噂の段階じゃなくなったから会津征伐中止したんだろ

伊達政宗?
伊達を繋ぎ止めるために家康は西上しないという書状を送ってるんだけどね
実際は西上したけど


人に後知恵と言っておいて西軍の展開が遅れて清洲城が前線にならないという後知恵論を展開ですか?
0869人間七七四年2017/12/26(火) 23:27:30.40ID:bwxudYEh
>>868
20日前後とひたすら繰り返してるあたり完全に欺瞞ですね
19日以前の手紙で上方の騒乱を情報を正しく認識していたという手紙が見つからないので20日前後ということで無理やり証拠に仕立ててるのが丸わかりですよ
最上に会津征伐の中止の書状を送ったのは23日なんでしょう?19日にすでに石田の謀反が本当のことだとわかってならむしろその間の4日間はなにをしてたんですかね?

>伊達を繋ぎ止めるために家康は西上しないという書状を送ってるんだけどね
>実際は西上したけど
それ、家康が福島正則を19日に清洲城に軍勢を戻すように指示したことに関係あります?

>西軍の展開が遅れて清洲城が前線にならないという後知恵論
どこらへんから西軍の展開が遅れてという言葉を読み取ったのか困惑してます…
当初徳川は「石田と大谷が三奉行の籠城している大坂城を攻めている」という認識を持っておりこの見解だと救援対象は大坂城になるわけで清洲城が最前線になるという想定は成立しないということをいってるんですが
0870人間七七四年2017/12/26(火) 23:55:42.75ID:dcuj5NeU
>>869
7月18日付で稲葉通孝は会津征伐は延びて国許に帰って
23日には遠方の最上にも会津征伐中止の書状を送っているのに
24日まで福島正則の軍には会津征伐中止を知らせずに無駄に江戸まで来させたって言う
稲葉通孝は18日に帰ってるのに福島正則は空白の放置プレー5日間は疑問に思わないのかw
0871人間七七四年2017/12/27(水) 00:55:40.66ID:4OGWiAIy
>>870
慶長年中卜斎記では家康が上方の雑説を知ったのは20日となってますがそれなのにどうして19日に福島正則を呼び出すんですかね
1日くらいなら誤差、ということでしょうか?それとも他に19日以前に家康が上方の雑説について詳しく知っていたという内容の手紙があるのでしょうか?
それと福島正則を放置プレイというなら上方の蜂起を知っておきながら細川忠興を19日時点で呼ばずに放置プレイにしてるのも変ですね
細川忠興は石田三成が蜂起した際に真っ先に「何の忠節もないのに家康から福原から没収した領地を貰っている。そのため秀頼公が御成敗とする」
と名指しで批判し実際に田辺城への攻撃や細川ガラシャを死に追いやり九州の細川忠興の領地を預かる松井康之にも領土の接収を通告してるいわば当事者です
危険が間近に迫っているという意味では福島正則よりもむしろ忠興の方が上な訳で上方の雑説を把握してるはずの家康がなぜ彼を放置プレイしてるんでしょうかね
0872人間七七四年2017/12/27(水) 01:33:10.89ID:ccGqvvWW
当該の黒田・徳永が述べますので詳しくは書きません書状ね。
内容はほぼ同じで、7月9日付が京都大学所蔵福島文書
7月19日付が福島家系譜所収文書、7月24日付が武徳編年集成。

通説は7月24日で、小山評定はあったとする説。当然小山評定に福島正則が出席していれば
8月初頭に福島正則が清洲に在城しているのは不可能。

白峰氏や光成氏が推しているのが7月19日のもの。いわゆる小山評定といわれるものはなく
福島正則は8月初頭に清洲に在城してた説。

7月9日は石田・大谷の挙兵すらないので誤記だろうといわれている。

いずれにしても原本がなく写しなので学者たちがいろいろと議論しているわけで、
それを「誤記」ではなく「偽書」とか言うのは、

お前何様よ?と。
0873人間七七四年2017/12/27(水) 02:15:38.24ID:4OGWiAIy
>>872
>それを「誤記」ではなく「偽書」とか言うのは、
>>854の最後をよく読みましょう
誤記、もしくは偽書だろうと書いてますね?
人のことを何様とかいう前にまずちゃんと文章を読めるように訓練しましょう
0874人間七七四年2017/12/27(水) 02:49:22.54ID:AveeAhiu
5000にんの島左近で殲滅すれば余裕
0875人間七七四年2017/12/27(水) 02:51:28.97ID:qBSUZVex
7月19日付が福島家系譜所収文書の写し
7月24日付が武徳編年集成で後年に作られた物

だけど23日までに会津征伐中止を決め最上義光にも書状を送っているから小山評定は無かったと言われてる
小山に集結せよという書状は一つも存在しないこともあわせてね

1740年に作られた武徳編年集成で神君家康公崇拝で小山評定というストーリーを作るために19日だったのを24日に
木村高敦が改竄した可能性があるってのが学者の見解だよね

慶長年中卜斎記の名を出し24日が本物って言ってる人は小山評定があったと思ってるってことだよね?
0876人間七七四年2017/12/27(水) 08:24:41.50ID:RBx0XP2+
だれが、いつ、どこで、なにを、なぜ、どのように、
どれもあいまいな書状しかないんだからこれで小山評定があったっていえるほうがどうかしてる
思い込みあるいは類推を重ねた説にすぎない
0877人間七七四年2017/12/27(水) 08:27:06.00ID:8F4rvnZ+
どこかで話があったでいい

先発隊は少なくとも何かあって先発
0878人間七七四年2017/12/28(木) 06:40:32.37ID:dzrp6dYx
背後で石田三成が謀反をおこしているのに
評定もせず規定の戦略を変更して引き返すなんてありえないだろう

聚楽第行幸で諸大名が天皇に忠誠を誓ったのを手紙がなきゃ信じないと言っているのと同じだ。
0879人間七七四年2017/12/28(木) 07:13:16.24ID:NPy2mOm2
23日には最上に会津征伐中止を通知したんだから
23日までに何らかの評定はしたんだろう
25日以降に小山で評定して会津征伐を中止したってのが創作であって
0880人間七七四年2017/12/28(木) 14:10:02.33ID:glE8ZSWH
最上って可哀相だよな。秀吉には散々な目に合わされて
徳川のために戦ったのにお家取り潰されて・・・
0881人間七七四年2017/12/28(木) 14:21:08.83ID:9f4Zi4ba
お家騒動を起こしたのだから
身から出たさび
0882人間七七四年2017/12/28(木) 14:22:15.00ID:dzrp6dYx
応仁の乱をみればわかるけど、お家騒動は乱世の始まりだしな
まぁ、北条征伐の恩賞で、故郷の尾張から出て行きたくないと褒美を拒絶したら改易されて滅亡した豊臣の主家の織田家や
秀吉に協力したのに、長秀が死ぬと14歳の長重にいちゃもんつけて100万石召し上げを食らった丹羽家よりマシだろうな
0883人間七七四年2017/12/28(木) 14:31:33.97ID:dzrp6dYx
考えてみれば北条征伐後の家康の身の処し方が見事だ
敵地に移住して雑草の生い茂った湿地を本拠地にしろと言われて
三河に戻ることなく住み着いて、土木工事しまくって
東京湾に流れていた利根川を千葉県東の太平洋まで動かして東京を住める土地にしたのだからな
もし北条征伐の褒美を嫌だとごねたら、織田家同様に改易されただろう
0884人間七七四年2017/12/28(木) 14:46:41.49ID:NPy2mOm2
あの時代、京より離れるほど田舎、偏狭だからな
織田信雄は家康領だった浜松周辺に転封だから屈辱だったろうけど
家康はもっと京から離れた関東の田舎だからな

あの時に家康も逆らうと思って転封命じたのか
それが仇となり死後に家康に蹂躙されるという…
0885人間七七四年2017/12/28(木) 14:57:11.39ID:9f4Zi4ba
遠隔地関八州に封じられたからこそ朝鮮半島に渡らずに済み
家内の勢力を蓄えることができた
0886人間七七四年2017/12/28(木) 16:19:22.09ID:QLtVjIh9
石高同じなら拒否だが増額だからな

しかし先祖伝来の地を良く捨てたもんだ
0887人間七七四年2017/12/28(木) 17:30:01.79ID:dzrp6dYx
>>884
北条征伐で立てた手柄への褒美を断れば改易→例:織田信雄
四公六民で善政が行われ100年単位で支配された敵地が暴発すれば改易→例:佐々成政
秀吉を否定し家臣が少しでも不穏な動き動きを見せたら領地没収→例:丹羽長重

もともと敵だったのにこれらをすべてクリアしたわけだからすごいことだ。
家康が律儀と言われるゆえんだな。無理難題を押し付けられても天皇から関白に公儀を任されている以上粛々と従った。
まぁ徳川は言うに及ばず、上杉も伊達も島津も長宗我部も豊臣家には恩より恨みのほうが多い
0888人間七七四年2017/12/28(木) 17:53:39.22ID:aQXOZ7OG
しかし会津征伐中止を知ったときの最上って凍りついたろうな・・・
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