とりあえず現状としては、当初家康は和戦両睨みで、徳川邸参集前田邸参集時のように
形勢によっては和睦でもよいと考えていた。
しかし岐阜城陥落により東軍優勢、東軍先発隊も寝返る可能性はほぼないと確認すると
当初の計画を変更、戦でケリをつける方向に転換した。こんなところじゃないだろうか?

前の方で他のひとも言ってるけど、秀忠出陣後さほど間を置かずに秀忠に作戦変更を指示してるとこからして
美濃情勢変化による戦術的部分もあるが戦略的変更部分もあると見ていいのではないだろうか。

となると西軍としては美濃戦線膠着化で東西互角の情勢を維持し、和睦内容は別として
和睦に持っていくのも策としてはあると思う。