逆に西軍の当初の着地点の「徳川と決戦を避けながら戦略的優勢を固めて政治的に勝利」を考えてみようか。

「内府、会津・佐竹を敵に仕り、僅かに三万の人数を持ち、分国十五城を抱へ、廿日路を上らる事なる物候哉。
 (中略)右の分別これなく、主の人数一万、上勢一万許り語ひ上り候へ共、尾・三の間にて討ち取るべきの儀、誠に天の与へに候」

@内府ちかひの条々で会津征伐軍瓦解、A徳川軍3万の関東封じ込め、B西上する軍勢を2万程度に抑える
この3つが「徳川と決戦を避けながら戦略的優勢を固めて政治的に勝利」の大前提で、
これが達成できれば確かに政治的勝利も視野に入る。

しかし8/14の東軍諸将3万数千到着と、8/24の秀忠軍3万5千の西上開始でこの戦略は完全に崩壊する。
更に言えば徳川単独で結城を残して尚、6万5千を西上させてるから徳川軍3万の見通し自体が甘かったんだけど。

で、これらを達成する方法ってあるんかな?