>>171宛続きその2
いやいや、なんで貴方の中ではそんなに徳川の兵力だけが
増えるのですかと。
>三河はほぼ無傷だから吉田、岡崎など三河の諸城から集めたら1万はいけるのでは?
いけるわけないでしょうにwと思うのですがねえ。
そもそも、三河・遠江を合わせても、 太閤検地ではおよそ55万石余りで
一万石250人換算の基本兵力動員想定では1万3千程。
しかし、元々武田側に三河の山家三方衆とか、遠江犬居城の天野氏などが従属し、
遠江小山城周辺地帯も武田に従っており、その後の信玄西上開始から三方ヶ原までで
高天神は武田に従属、只来城、天方城、飯田城、各輪城、匂坂城、二俣城、などが
武田側に攻略されており、という状況でして、徳川家の実質石高は
55万石よりも大きく減退している、という状況なわけですしねえ。
徳川は一万前後動員出来れば御の字、という所でしょうかねえ。
それで、三方ヶ原には通説では徳川勢は8千、織田勢が3千、
という状況であったとされ、三方ヶ原には東三河と西三河の旗頭である
酒井と石川がそれぞれの兵力を率いて参戦しており、
普通に三河の兵力も込みにした総力戦を挑んだと思われるわけですしねえ。
で、それで敗北をして、しばらくは三千程の兵力しか動かせなくなっているのが
三方ヶ原以後の徳川の状況というわけなのですしねえ。
これなら普通に数千の兵を抑えにおいておけば、十分かと思われますしねえ。

貴方の言う「史料」って何をお指しになられておられるのでしょうかねえ?
正直、これまでの議論の流れからしましても、貴方がどのような「史料」を
基にして語られているのかと、非常に不可思議に思われる次第なのではございますけれどねえ。
こちらは普通に武田家の書状集を基にして語っておりますだけの話でございますしねえ。
>義信事件で飯富に対する史料なんて武田関係の書籍に全く無いから大発見です。
大発見なわけがないでしょうに、と思うのですけれどねえ。
普通に武田氏関係の学者さんもその書籍で普通に引用している、
普通に前から発見されていて、特に新しくもなんともない、武田家関係の書状ですよ。
1565年10月23日付書状において、信玄は
「飯富が陰謀を行い、信玄と義信の父子の仲を悪くしようとしたので、
飯富を粛清した。信玄と義信の関係は問題はない。」的に書いていて、
義信事件で悪いのは、義信ではなく飯富、という事にしようと躍起になっておりますね。
真面目な話、貴方はどのような「史料」とやらをお読みになられておられますのか、
についてご説明の方をいただきたいと思いますので、
この件についてご回答の方をいただきたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。