>>834
それ、元々信長が謙信宛の1573年3月19日付け書状で
「信長・家康・謙信で武田領土に攻め込みましょう!(キリッ)
よくよく示し合わせて行動すべき事なのは、申すに及ばない事です!
こちらは伊奈口から攻め込みます!この前の遠州表の戦いでは
少々勝利を失いました(三方ヶ原の事と思われますね。)。
畿内や江北で手一杯だったので、私自身が出撃できなかったのが
口惜しい事です!」とか書いておきながら、そのすぐ前の3月7日に
細川に出した書状で「謙信が武田領土に攻め込んでくれれば、
信玄はそちらに対して備えをするだろうから、
武田軍のこちらに対する圧力が減少する♪」
「謙信が春日山に戻ってきたようだ♪
(実際はまだ戻ってきてはいないのですがね。)
このように諸方への備えができたので、
上洛して存分にしたい♪」と書いているわけで、
提案者の信長自身がスルーするつもり満々で、謙信を当て馬にして
信長自身は上洛して存分にしたい、というのが本音ですのに、
謙信がどこまで馬鹿正直に、信長の思い通りに動いてくれるのか、
非常に疑問なのですけれどね。


現に信長が1572年の11月に「北陸での対陣が来年の春まで続きそうなら
まずは辛抱して帰国して、先に武田領土に侵攻して欲しい。」と
謙信に要請しましても、普通に謙信はその「来年の春」である
1573年4月まで北陸で遠征を続けたわけですしね。