秀吉は自分を非難した奴を破滅にまで老い込む

神子田正治
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AD%90%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%B2%BB
正治は、他隊が交戦中であったにも関わらず、その敗北を知らぬまま、手勢を放置して無断で先に離脱した。
しかし個人で敵の首級を1つ挙げて帰還したので秀吉に感心されたところ、

このようなことで感心されたのでは「諸将が、匹夫の勇にばかり心がけ、戦いで大利を得ることはできますまい」と
主人に苦言を呈したため、秀吉は分を過ぎた発言であると激怒したが、
正治は「大小の利をわきまえず、戦いだけで功を計るのは、闇将である。ともに謀るにたらず」と放言し、
秀吉も正治は持ち場を放棄して逃げ去った臆病者であると罵った。正治は重ねて秀吉を闇将と誹って去ったため、
行動の責任を問われて所領を没収された上で高野山に追放された[4]。

天正13年(1585年)閏8月13日には朱印状が発せられて、高野山からも追放となり、
妻子も連座することになってこれらを庇護することは禁止された。

このために諸国を放浪し、天正15年(1587年)に豊後国で自害したとも、
九州征伐で陣にあった秀吉に帰参を哀願したが、許されずに切腹ないし打ち首を命じられたとも言う。
その死後、京都一条戻橋に梟首が晒され、「臆病者」との高札が立てられた