【早雲】後北条家総合スレッド 其の六【氏直】©5ch.net
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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net
2017/04/26(水) 23:13:53.23ID:ES42k+CG【早雲】後北条家総合スレッド 其の五【氏直】
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386581460/
0438人間七七四年
2018/06/29(金) 15:04:20.23ID:DEvxvkAqなかなか凄い。
0440人間七七四年
2018/07/04(水) 16:22:44.79ID:Lw0B/TR1http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/37899/rsg090-11-asakura.pdf
0442人間七七四年
2018/07/10(火) 23:43:39.32ID:A1WwXs++ごめん分かりにくかったかな
実際の雲見高橋氏は清水康英の同心に過ぎず、知行役高も10貫文しか
なかったってのはご存知?
その上で、「筑後高橋当主の座を捨てて高種や綱高を輩出し北条一門に列した」と
称している高橋氏のご先祖様は実際は遠江出身で雲見に所領を得たのは
伊豆を平定した後ではないかってことね
0443人間七七四年
2018/07/10(火) 23:50:58.97ID:A1WwXs++北条氏に仕えた雲見高橋氏と同じ一族じゃないかってことね
0444人間七七四年
2018/07/11(水) 14:41:47.58ID:Nl6VhCrl10貫て10石〜20石で一族は養えても家臣は養えないレベルじゃない?
いわゆる下級役人てやつ
そんなに低いのか
隠居領かなんかじゃなくて?
0445人間七七四年
2018/07/11(水) 14:53:07.06ID:Nl6VhCrlhttp://www.shimodajyou.com/koubouryakunenpu.html
他の文書だと高橋郷左衛門尉か
0446人間七七四年
2018/07/12(木) 21:26:56.26ID:+Rdu5qowと
遠江出身で雲見に所領を得た高橋氏
は無関係じゃないの
0447人間七七四年
2018/07/13(金) 01:48:42.01ID:Ggd0wGmo高橋家系図には、高橋高種は足利政知に請われて雲見に所領を得て、
北条綱高、高橋氏高兄弟も雲見で生まれたとあるよ
0448人間七七四年
2018/07/13(金) 09:00:10.92ID:3OqRO6wF830貫取りの大身と10貫の木っ端役人が連名で安国寺恵瓊・脇坂安治から起請文取るって
普通にあるの?なんか違和感がある
0449人間七七四年
2018/07/13(金) 17:51:04.31ID:Wlm4EvA810貫文だと本人と家臣の二人で参陣なのか
0450人間七七四年
2018/07/14(土) 11:01:58.71ID:JLVrI5Uc氏光のところにはないが
氏忠のところには
文禄4年(1595年)の時点で安芸草津に在所しているが、その後の動向は不明である。(拙稿小田原落城後の北条氏一族)
とあるからこの論文に何か書いてあるかもね
で 『日本歴史』2013年10月号(785)
【史料散歩】
小田原落城後の北条氏一族…黒田基樹
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n7435.html
同じ内容かどうかはしらん
最もそこにも氏光しかり氏忠しかりこれまで言われていた通説の死去年後の生存が確認できただけかもしれない
(著書瑞渓院にも文禄4年大和奈良に在所が確認とあるし氏光も)
0451人間七七四年
2018/07/16(月) 20:22:03.14ID:LzFNWHD8http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-0ca8.html
一部鉛筆書きの史料群で北条氏の知られざる事実が明かされるなんて胸が熱いね
0452人間七七四年
2018/07/16(月) 21:26:24.00ID:WwHSV/nY佐野氏の同族阿曽沼氏は安芸に傍流がいるけどどこまでツテが生きてるか謎だし
そもそも佐野息女とは離(死?)別したって話じゃなかった?
0453人間七七四年
2018/07/17(火) 00:18:58.19ID:YCJLI0EL月刊誌だから2巻以降は来年か?
0454人間七七四年
2018/07/18(水) 21:47:22.45ID:0qcrA4uH「店員さんに北条家ファンがいるから、もしくはこの辺の大名が北条家だからかな」と思ったんだけど
コーナーには小早川秀秋とか真田信繁とか北条家に直接関連しない題材の本も数冊あって、よく見たらコーナーの全部が黒田基樹先生の著書だったw
0455人間七七四年
2018/07/18(水) 22:52:54.91ID:J842jJEB新九郎→名前が氏親とわかる
氏政→生年が1年繰り下がり1539年に
氏照→諸説あった生年も1542年に固定できそう
氏規→五男から四男に浮上
氏邦→諸説あったが生年が繰り下がり1548年で五男に。また庶子にも変化
氏忠→現在は父は氏堯。氏康は義父
景虎→氏秀と同一人物にされたことがある
氏光→氏忠と同じ。こちらが弟
蔵春院→氏康最初の子供で長女とされてきたが、現在では四女へ
七曲殿→長女に昇格
種徳寺殿(小笠原康広室)→現在は為昌の娘
尾崎殿(千葉親胤室)→未だ法名わからず。四女から次女へ
長林院(太田氏資室)→法名、生年共にわからん。五女から三女へ
浄光院(足利義氏室)→瑞渓院は義母に変化
桂林院(武田勝頼正室)
円妙院→過去帳しか名前がないのはかわらず。法名がわからん2人の氏康娘のどちらかと同一人物の可能性も残る
こうも変化するから10年経ったら氏忠、氏光の事績もよりわかるかも
氏忠は北条研究者より毛利研究者が発見するかもね
0456人間七七四年
2018/07/19(木) 08:24:48.85ID:gxxBpy37遠山康光妹と康光室の妹が混同
0457人間七七四年
2018/07/19(木) 21:00:53.54ID:n78fM44e0458人間七七四年
2018/07/19(木) 21:28:14.02ID:gxxBpy37事実上黒田さんの占有状態なんだから伏せる意味が無い
とりあえず異議申し立てたいのなら既知の一次史料との矛盾点を丁寧に拾ってけば?
0459人間七七四年
2018/07/19(木) 21:47:35.36ID:n78fM44e伊勢弥次郎が高橋氏の名跡を継いだというのもこの家だけが言っている
五色備えや×家・××将衆などというのもこの家に伝わる戦記の中だけの話
高橋氏が玉縄(甘縄)城代・江戸城主になった事実もない
一致するところがない
実在した彦四郎・郷左衛門(加賀高橋文書)、丹波・左近(雲見高橋文書)の受給文書を伝える子孫は別に存在する
0460人間七七四年
2018/07/19(木) 21:53:40.63ID:n78fM44e狭山等信頼できる北条子孫の家の史料にも残されていないものが
北条家臣としての実態がない高橋氏にのみ伝わることに蓋然性がない
0461人間七七四年
2018/07/19(木) 22:14:56.11ID:gxxBpy37それとも偶然の一致?
結局決定的なものが出てこない以上は地道に可能性を潰してくしかないのよ
0462人間七七四年
2018/07/19(木) 22:35:31.79ID:gxxBpy37無いわけ無いんだよな元服してるんだから
「太田」氏房てのは無いか
0463人間七七四年
2018/07/19(木) 22:56:25.29ID:lGnqUj9hhttp://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b370871.html
昨年下山治久先生亡くなられてるんだよね
あとは則竹雄一氏、浅倉直美氏、長塚孝氏とかかな北条研究者
0464人間七七四年
2018/07/21(土) 01:44:03.76ID:9mBmemfV氏康が吉良氏の家臣に直接命令を下すようになった時期以降に成立したものがほとんど
下田城址の解説板に「小田原城からは援将江戸摂津守朝忠と検使高橋郷左衛門尉が派遣され」とあるけど
江戸朝忠は吉良氏の筆頭家老江戸頼忠の子だし、小田原からというよりは、吉良氏が軍役に応じて
その陣代として下田に遣わされたのが実情だと思う
そのような地位にありながら、所領役帳に「拾貫文 雲見」としか記載されていないのは、高橋郷左衛門が
当時食客扱いで諸役を免除されていた吉良氏(なので蒔田領は載ってない)の家臣だったからで、
雲見は北条氏から別に与えられた知行地だと考えれば合点がいく
牟礼に縁があるのも、吉良氏朝が徳川家康に仕えた時に世田谷に移ったからであり、従って高橋氏は
一貫して堀越六郎・貞朝(吉良氏朝)の家臣だったとすれば、何一つ矛盾しない
0465人間七七四年
2018/07/21(土) 02:06:57.22ID:9mBmemfV天ケ谷の城平(別名高橋の城)周辺に残っているそうなので、
高橋氏が遠江今川氏に仕えたのはこの前後ではないかと思う
0466人間七七四年
2018/07/22(日) 19:45:00.48ID:9YKHZXl2A:吉良義定室系
北条氏康→早川殿→吉良義定室→吉良義弥→吉良義冬→吉良義央→上杉綱憲
B:今川範以系
北条氏康→早川殿→今川範以→吉良義弥室→吉良義冬→吉良義央→上杉綱憲
0467人間七七四年
2018/07/22(日) 23:02:39.35ID:HOJqxHiB0468人間七七四年
2018/07/23(月) 01:41:17.71ID:yVdFwmJ40470人間七七四年
2018/07/23(月) 22:35:55.69ID:gdW5vf9N高橋彦四郎(のち平左衛門か)
高橋平左衛門(所領役帳で本人に72貫400文、寄子に150貫文)
高橋郷左衛門
高橋源七郎(のち郷左衛門か)
高橋久太郎
子孫は受給文書を「加賀高橋文書」として伝える
伊豆雲見の高橋氏
高橋将監
高橋丹波守
高橋左近
子孫は受給文書を「雲見高橋文書」として伝える
雲見高橋氏が伝える歴代(禰宜を世襲した雲見浅間神社の連名帳)
高橋丹波守先祖 円覚院迅証道難入禅定門 1479年8月没
高橋左近 1523年没 明応5(1496)年宗瑞判物の高橋とのか
高橋左近 1534年没 永正16(1519)年宗瑞書状の高橋将監か
高橋左近 1555年没
高橋左近 1597年没 下田城に籠城した丹波守はこの人か
高橋左近 1646年没 下田城に籠城した左近の子か孫か
0471人間七七四年
2018/07/30(月) 19:49:25.03ID:6WrzRaXZ伝心庵過去帳には後御前と注記されているらしいけど、この「後」って
どういう意味で付けられたのかな?
0472人間七七四年
2018/07/30(月) 19:53:59.52ID:KLq7KEGSその後氏綱公の正室になりますよ、ってあたり?
0473人間七七四年
2018/07/30(月) 21:32:28.30ID:LumFf9Ny一応言っておくと
後北条氏の場合
税収10貫は
総石高に換算すると
地域によるから一概には言えないけど
50石〜100石くらい
http://hitosugi.web.fc2.com/2021.pdf
ここでは一例として60貫が240石とあるけど
所領役帳の数字は総貫高ではないから
もっと石高は多くなる
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/rekishibunken55/pdf/043odawarashushoryouyakuchou.pdf
5貫につき動員兵力1人とあるけど
戦国時代の動員兵力は100石で数人というのが基本
10貫〜20貫で100石
0474人間七七四年
2018/07/30(月) 21:56:54.08ID:d8M1Ri1Bそれに戒名の注記にその解釈は合わないような
後室とかって解釈で良くないかな?
0475人間七七四年
2018/08/01(水) 21:40:12.43ID:Fvm9BAm7丹波・左近父子と一族(同名)の六郎左衛門・縫殿助・助三郎の5人
丹波・左近は妻子を小田原に差し出して下田に籠った
0476人間七七四年
2018/08/01(水) 21:55:15.58ID:MiPdFzqw0477人間七七四年
2018/08/04(土) 22:09:50.32ID:kFUybZMh後室って意味だと小笠原娘と南陽院殿が同一人物だった場合、
その前に先妻がいたって事になり、それは誰だって話しになるし
別人物だった場合先妻の小笠原娘が亡くなった後、南陽院殿が
後室に入った事になり、それじゃ南陽院殿は誰なんだって話になって
ややこしい事にならないか
0478人間七七四年
2018/08/05(日) 00:05:11.89ID:IjdfymLCどう考えても前者じゃね
兄貞興の動向もほとんど記録に残ってないというし、備中時代なんてそんなもんじゃないの
0479人間七七四年
2018/08/10(金) 22:00:40.24ID:25jc2a3F0480人間七七四年
2018/08/11(土) 00:09:19.20ID:VPUnMWAI高島礼子が家宝捜索!蔵の中には何がある?
http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kura/
8月10日放送
#13 2時間スペシャル「東京郊外…戦国末期、豊臣秀吉との戦いに敗れたものの
生き延びた一族が…商家として成功し築いた豪邸には…新撰組の手紙!?…謎の英文書!?
…驚きの家宝が続々登場」 よる9:00〜10:54放送
高島礼子が日本全国の蔵へ!埋もれた家宝捜索の旅。今回の捜索の舞台は…東京郊外。
かつて都心部へ材木や薪炭を提供して栄えた町には、今も多くの蔵が残っている。
訪れた旧家は、敷地内に蔵がいくつも建つほどの豪邸。江戸時代以降、材木商として
成功した家だというが、その歴史は古い。そもそもは、戦国末期、秀吉の小田原攻めで
敗北した北条家臣で、命からがらたどり着いたこの地に住み着き、名前を変えて生き延びた
一族だという。
0481人間七七四年
2018/08/13(月) 19:52:28.57ID:8y6qp/zr0482人間七七四年
2018/08/16(木) 22:10:28.01ID:1AJ9KYhH面白かったけど、歴史好き以外には受けなさそうなマンガだな
0483人間七七四年
2018/08/16(木) 22:30:55.29ID:BpNVJ6310484人間七七四年
2018/08/18(土) 07:49:21.81ID:7YhJfOTJ草津城(城主児玉氏)近辺の行者山なのよね
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3b/Gaikan_Hiroshima-shishi_map-01.jpg
かつて引き潮の時は広島まで歩いて渡れたらしい
そういう重要拠点を縁も薄そうな氏忠が自由に出入りできたのかしら
0485人間七七四年
2018/08/20(月) 15:17:06.61ID:5YMRjRsK山中鹿之助の娘もかくまったとあるなその寺 すげえ なんかかっこいい
0486人間七七四年
2018/08/22(水) 21:19:24.88ID:baML9NDe氏忠終の棲家が言われていた伊豆ではなく広島ってなら
信じざるを得ない
とりあえず乗讃院の正体が判明せんだろうか?
0487人間七七四年
2018/08/27(月) 21:46:35.26ID:hPpGzj0M偶然にも父親の名前に入ってたのに
0490人間七七四年
2018/08/28(火) 06:13:01.01ID:cQEGQKbj『綱』は誰かから貰ったのかしら?
0492人間七七四年
2018/08/28(火) 22:13:21.79ID:2+zHLFO6これ面白かった。
アマゾンとかだとキャラが現代語を喋っていて変とか言う批判もあったけど作者は読みやすさ分かりやすさを重視したんだろうなと思った。
ただでさえ歴史に興味ない人には取っ付きにくい題材だし
0493人間七七四年
2018/08/28(火) 22:16:31.43ID:rU/ocRc+0494人間七七四年
2018/08/28(火) 23:53:08.96ID:s3PGNmUS0495人間七七四年
2018/08/29(水) 00:06:14.97ID:TXv8v/sB氏綱氏康が元服した時はまだ今川氏の家臣だったんだから、氏親からの偏諱じゃなきゃおかしいでしょ
ってなことが黒田氏のどれかの本に書いてあった
あと氏政以降の氏はまた違うらしい
0496人間七七四年
2018/08/29(水) 10:15:23.44ID:vDpNMkve他家からの貰いものではないという自負があったのでは
ただ氏直からは止めちゃうんだけど
これはよくわからん
0497人間七七四年
2018/08/30(木) 22:24:49.94ID:6iDiuQtE0498人間七七四年
2018/08/31(金) 00:03:27.79ID:tjyG+vks0499人間七七四年
2018/08/31(金) 12:54:38.82ID:lD2bTDwF氏堯が最初なんだけど、これは河東の相駿断絶に関わってるんじゃないかと思う
さらに氏政期に入ってからは傍系の久野家玉縄家にわざわざ改名させて『氏』を与えてる
これも政治的になんらかの意図があるのは間違いない
これが氏直期に入ると氏房氏隆を最後に止めてしまい直重直定など『直』を与えるようになった
おそらく本能寺後の政治情勢を受けて当主権限強化を形として打ち出したのではないかと思う
んでその推論が当たってるとなると北条『氏』資は非常に怪しいのよね
何らかの褒賞があったなら兎も角、いきなり元服時に与えられたというのならば極めてイレギュラーな形になる
はい「尻働き」とか言うの禁止w
0500人間七七四年
2018/08/31(金) 16:32:12.98ID:yZCNRV9b義元に対する対抗心から来てるんだと思うわ
氏親、氏照は今川氏の歴代当主に同じ読みの人がいるし、氏真を小田原に
招き入れた時に、氏直を養子にさせたりと今川氏当主の座に固執してるように見える
側室の子である義元を認めず、北条氏であると同時に今川氏当主としての
正統性を示していたのではないかと思う
0501人間七七四年
2018/08/31(金) 21:13:22.41ID:cu6oHOMSでも氏政だけピンポイントで今川家に関係ない名前なのが気にかかる
0502人間七七四年
2018/08/31(金) 21:28:44.87ID:SkTSWPZF0503人間七七四年
2018/08/31(金) 22:55:14.24ID:lD2bTDwF遠江高橋氏出身である傍証だと思う
政治的には今川外戚北条氏の縁者として一門格に連ねたが
あくまで今川家中として「氏」の書き出しを受けた
具体的には葛山氏広に近いイメージ
0504人間七七四年
2018/09/01(土) 00:31:45.82ID:tDAHi0Ig0505人間七七四年
2018/09/01(土) 02:14:44.95ID:Fn64jS960506人間七七四年
2018/09/01(土) 02:18:04.31ID:TpSTbC7f0507人間七七四年
2018/09/01(土) 19:51:45.98ID:dJPMIIs00509人間七七四年
2018/09/03(月) 12:11:21.92ID:ek8S7z3D0510人間七七四年
2018/09/03(月) 20:59:24.36ID:J+wFTJQ7研究者失格
0511人間七七四年
2018/09/03(月) 22:56:05.08ID:kCFKJ2N60512人間七七四年
2018/09/04(火) 05:34:09.82ID:D7UqDEVp0513人間七七四年
2018/09/04(火) 22:46:29.00ID:64d2mX/+河越夜戦で氏康の臆病が活きたってのは少し無理がある構成に感じられたが...w
0514人間七七四年
2018/09/07(金) 18:36:13.19ID:64KBsXph晩年大坂の陣で豊臣を寡兵と侮り危うく討ちとられそうになったり、
三献茶で心細やかな気づかいっぷりが気に入られ秀吉に召し抱えられた三成が、
同僚の武将を気づかえずことごとく敵に回し関ケ原で敗れ、
今度は臆病で家臣からもバカにされてたのを、氏綱の計らいで算術を施され自信を
つけさせてもらって立派な武将に成長した氏康が、我が子には「おまえは飯にかける汁の
加減も分からんのかたわけ、北条もわしの代で終わりや!」とか罵倒するとは・・
親にそんなこと面と向かって言われたら凹んでやる気失せるわな。
なぜ武将は子どものころ、若い頃の経験や素質が持続しないのか?
0516人間七七四年
2018/09/09(日) 12:21:27.74ID:xeeTn+LD北条と幕府朝廷の付き合いってどんな感じだったんだろう
0517人間七七四年
2018/09/11(火) 05:12:59.97ID:RoZuhfL70518人間七七四年
2018/09/13(木) 15:13:37.00ID:KRMbl2Ol普通に儀礼的なつきあいをして、たまに献金していたのではないかな?
0519人間七七四年
2018/09/18(火) 22:42:56.44ID:9aG9hCHf0520人間七七四年
2018/09/23(日) 23:10:23.53ID:CmkYfeLH近衛尚通の日記『後法成寺関白記』大永3年9月13日条によると、尚道が詞書を書いた酒呑童子絵巻を北条氏綱にプレゼントした
氏綱は礼銭を送ってる、取り次いだのは幕府同朋衆の相阿弥だった
それが今でも重要文化財として残ってる
https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=626
近衛尚道とは親交が続くようでこの後もお互い贈答しあってる
現在確認できる「北条」の最古の記録はまさに大永3年9月13日条のこの部分
「酒呑童子絵詞、去年書遣間、為其礼北条千疋進上之、相阿弥執次也、」(去年酒呑童子絵巻を送ったので、お礼として北条から10貫文進上してきた、取次役は相阿弥である)
0521人間七七四年
2018/09/24(月) 13:10:31.19ID:gC7O6TJWつまり氏堯は関白太政大臣の孫であり
更に紀伊家頼宣水戸家頼房は玄孫という設定ということになるわけだ
ほんとかよ
0522人間七七四年
2018/09/24(月) 15:23:30.50ID:jzHe24tv> 氏綱は礼銭を送ってる
この時代。小田原から京都までまとまった金銭を輸送するってのは難しくなかったのかな?
0523人間七七四年
2018/09/24(月) 16:26:10.80ID:Xq/FykkF0524人間七七四年
2018/09/24(月) 17:39:18.10ID:ttdSTp7s後北条五代か長宗我部三代をドラマ化しろという声は昔からあるのだが、なかなか実現しない。
0525人間七七四年
2018/09/24(月) 17:43:51.61ID:ttdSTp7s早雲の死 5月上旬
(二代目は視聴率が取れないので大幅にカット)
謙信が小田原城に攻めてきた 8月下旬
信玄が小田原城に攻めてきた 10月下旬
氏康の死 11月下旬
(これ以降は視聴率が取れそうにないので大幅にカットして)
滅亡 最終回
0526人間七七四年
2018/09/25(火) 11:54:33.46ID:Bj1ZQ7Up秀吉と徳川挟撃していれば
0527人間七七四年
2018/09/26(水) 03:30:48.52ID:ng5PtLXDしっぽ振ったところで
0528人間七七四年
2018/09/27(木) 02:17:25.51ID:dG0dcKSo俺下手に北条主人公だと悲惨な脚本家監督にあたるの怖いから、里見とか佐竹とか宇都宮主役にして敵としての怖い北条を見せてほしいわ
0529人間七七四年
2018/09/27(木) 12:45:32.53ID:NlIkQUrm10貫文程度だからそこまで難しくなかったと思う
ただ物価や相場を考証するのも大変だし、どんな感じで売買等をやり取りしてたか実態が復元できているわけじゃない
おそらく地域ごとに違う可能性もあるしね
だからある程度想像や妄想の自由があるかもしれない
10貫文(1000疋=10000文)について暇があったらこれを見てほしい
旅行の帳簿
真ん中あたりからは解説で具体的に内容に触れてるから参考になると思う
https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/kojima/kensokuchou.html
>上りの総支出(「国々逗留ノ間并ノホリノ路銭分」) 七貫六一〇文
>下りの総支出(「下リ路銭分」) 三貫八二八文
>旅籠賃については、最初にも述べたように、近江から越後までほぼ一泊二食が四八文(一人二四文)で一貫しており、それ以外もだいたいこれに近い値段である場合が多い。
>長期的に追跡できる価格について、ここで紹介できるものとしては、大工の工賃があり、早くからそれが一日一〇〇文であることなどが指摘されている
このあたりの解説で10貫文というのがどの程度の金額かは想像しやすいと思う
金銭や換金可能なものを直接輸送したわけではなく別の方法を取った可能性も否定はしないけど、酒呑童子絵巻は実際に小田原に届いている事もあるし、上のような帳簿はもちろんいくつかの旅行記も残っている
なので例えば盗賊等の想像も思いつかないことはないけど、金品を持って遠隔地に移動する事自体は普通に行われていたと自分は考える
要するに、可能ではある(けど簡単とは言ってない)くらい、少なくとも難しいとは言い切れないかな・・・
0530人間七七四年
2018/09/27(木) 16:04:38.63ID:/EP2O2h8なるほど。
当時は地方大名が官位もらっても、礼金を京都に送金するのがしんどかったイメージがあるが、
意外とそうでもないのかな。
0531人間七七四年
2018/09/28(金) 01:17:49.85ID:sciDIWWjやっぱあの件がネックなんじゃない?
宣伝に利用されかねないから
0532人間七七四年
2018/09/28(金) 05:37:42.79ID:En963y2Z昔からさんざんっぱらやってる
真逆やねん
有名な事件があってそのスケープゴートにされたのよ
0533人間七七四年
2018/09/28(金) 06:22:05.54ID:h5imjvbO0534人間七七四年
2018/09/28(金) 11:37:54.54ID:ZU2rvnAl氏康は認知症、氏政は切腹、氏直は病死
0535人間七七四年
2018/09/28(金) 19:01:10.80ID:5QhqgRV/つまり、武田滅ぼしたとき、北条は完全に織田の家臣になると表明してた
本能寺で助かったというけど、逆にアレで滅びちゃったのかねえ
あれがなけりゃ織田家臣として関東200万石の大大名
0536人間七七四年
2018/09/28(金) 21:47:04.04ID:amUqXEPh家康との伝手を活かして氏規、氏盛親子で家を再興EDとかは
>>535
武田滅亡後の北条に対する信長の態度を見ると本領全て安堵は難しそうな気がする
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