氏邦って元服が遅すぎると以前から指摘されていたけど、生年に新説が出ていて、
氏邦とその家臣が、信玄焼きで失われた秩父郡法養寺薬師堂を再建したときに奉納した、
十二神将のうちの申の神の足ほぞ部に「天正十三年 乙酉八月五日旦那安房守 氏邦本命」と
書かれていて、本命は生まれた年の干支を意味するので、従来から言われてきている
天文10年でも、堀尾古記の同13年でもなく、同17戌申年生まれが妥当ってことらしい
この説に則れば、幼名乙千代丸が最後に確認できるのが15歳、実名氏邦の初見も17歳と、
一般的な元服時期と整合する
また、氏邦の地位が最初氏規より低かったのも単に弟だったからということになる
氏照が氏邦を毛嫌いしてたのもなんとなく分かるような気がしたわ