【紹運】戦国のサラブレッド立花宗茂総合スレ6【道雪】 [無断転載禁止]©5ch.net
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0001人間七七四年
2017/01/01(日) 10:06:37.96ID:fnHRKQTW忠義剛勇鎮西一、西国無双など様々な異名を持つ
戦国のサラブレット・立花宗茂を語りましょう。
立花家、高橋家、妻の立花ァ千代や九州一帯の諸説など、関係ある話題もおkです。
まとめみたいなテンプレは>>2-10に。
■過去スレ
【戦国の雷音】立花宗茂総合スレ【妻・ァ千代】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152224537/
【紹運】戦国のサラブレッド立花宗茂総合スレ2【道雪】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1216803439/
【紹運】戦国のサラブレッド立花宗茂総合スレ3【道雪】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1252600855/
【紹運】戦国のサラブレッド立花宗茂総合スレ4【道雪】
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1294898383/
【紹運】戦国のサラブレッド立花宗茂総合スレ5【道雪】
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1421606914/
■関連リンク
立花宗茂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
ttp://www.muneshige.com/index.html
■関連スレ
大友氏について語ろう 3(再)
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1380277017/
0049人間七七四年
2017/01/16(月) 14:39:41.67ID:IJkIW30Iホントだ。
>秀吉が死んでからが戦国時代だと
って書いてあるな。
「秀吉が死ぬまでが戦国時代」と空目してた。
まぁ、それにしても変なんだけど。
0050人間七七四年
2017/01/26(木) 19:01:59.76ID:1mB8xjdk独特の雰囲気がする期間だよなあ。
桃山時代とも江戸時代とも言いにくいグレーゾーン時代。
0051人間七七四年
2017/02/03(金) 23:03:31.42ID:DHjDH0YO0052人間七七四年
2017/02/04(土) 12:19:06.33ID:+k7Wf0NL本多正信、土井利勝、酒井忠世等と、特に本多康俊・俊次親子と親密だったらしい
家康の死後御噺衆になるんで将軍の相伴で諸大名等の屋敷へ御供するようになって
付き合いも幅広くなるけど、特に付き合いが深いのは加藤家と細川家かな
他だと改易になった高橋元種を預かって世話をしたり、
曼殊院良恕法親王と茶道や香道の付き合いで親密だったらしい
0053人間七七四年
2017/02/04(土) 17:48:36.60ID:gdMTHBXa田中吉政と宇喜多秀家、あとは大久保彦左衛門辺りか?まぁ彦左は大名じゃないけど。
三河以来の旗本で大名に成れなかった人間からすると、宗茂みたいな存在はムカつくだろうなぁ。
0054人間七七四年
2017/02/05(日) 00:01:08.98ID:792LT3qk黒田家とも親交が深かったんじゃなかったかな
大友義統の息子を旗本へと口添えしたりと、本当に主君思いのお方よ
0055人間七七四年
2017/02/05(日) 22:18:36.56ID:BWZIDpbi病没前の本多康俊を見舞ってから(大津には妙に縁がある)
大坂に行って、そこで豊前の細川家が迎えの船を送ってくれてたんだけど
なぜか筑前の黒田家も宗茂のために船を送って来てたんで
宗茂は細川家が先に申し出てくれたことなんでと、黒田家には礼だけ言って
細川家の船に乗って帰ったら、それで黒田家とはしばらく疎遠になったらしい
まあ、細川と黒田の仲が悪いのが原因なんだろうけどね
0056人間七七四年
2017/02/06(月) 00:26:55.48ID:cr7yBIw4供の人数が分からないが人夫含め60人とする
細川船に宗茂と家臣1/3が乗る
黒田船に細川の方が早かったからと礼を述べ
筆頭家老と家臣2/3が乗れば丸く収まる
0057人間七七四年
2017/02/06(月) 00:31:56.81ID:tvmc73DL0062人間七七四年
2017/02/06(月) 21:13:11.45ID:i/Ni1TBg0063人間七七四年
2017/02/07(火) 03:33:35.41ID:ZYS374tu肥後から帰ってくる旧臣が多すぎて雇い切れなかったのが原因なんだろうけどね
旧臣でも横須給付人という一旦浪人の身分で荒地を開拓させてから家臣として
認められた連中も生じてたし
0064人間七七四年
2017/02/07(火) 08:13:05.93ID:tlyfDMZB0065人間七七四年
2017/02/07(火) 09:24:38.30ID:5irrXSwN0066人間七七四年
2017/02/07(火) 13:14:20.33ID:y4XX+8C00067人間七七四年
2017/02/07(火) 18:48:52.32ID:3MwoCBDD前田利長のことも余り好きではなかったんかね
0068人間七七四年
2017/02/07(火) 21:22:16.24ID:y4XX+8C0田中吉政(宗茂が吉政を嫌ってる?)
宇喜多秀家(秀家が立花家を小勢云々と言ったとか?)
大久保彦左衛門(彦左が宗茂を嫌ってる?)
黒田長政(細川家の船に乗ったから?)
前田利長(宗茂が利長に腰抜け云々?)
他にはいないか?
0069人間七七四年
2017/02/08(水) 11:42:16.81ID:jYCWYC+Iお前が評価しないのはお前の自由
お前が評価したいものを俺らは批評するつもりもない
それはお前が評するものはお前にとって評するだけの理由や思いがあるからだと思う
お前が食べたいものに横から美味そうだの不味そうだの言うつもりもない
だから、お前も他人の食べ物に不味そうだの言うなw
0070人間七七四年
2017/02/08(水) 11:47:22.88ID:jYCWYC+Iそれが1番の理由らしいね
宗茂さんはそう言うのが生き方として納得できなかったんだろうね
三成を捕らえて突き出して田中吉政が野に下っていればまた違ったのであろうが
それによって褒美をもらったことが許せなかったのだと思う
0071人間七七四年
2017/02/08(水) 11:56:08.11ID:YqpQoT6P0072人間七七四年
2017/02/08(水) 13:09:03.23ID:I5FHUFVk有馬は渡瀬家の組下だったのがあれよあれよのうちに准国持クラスで、末裔の人は、なんで福知山13万石から久留米21万石になれたかよくわからないと、おっしゃっていた
0073人間七七四年
2017/02/08(水) 14:05:19.86ID:F3SK7qMh史実かどうか知らんが吉政が三成を騙くらかして
石田の家宝を隠してやるから場所を教えてくれと言い
他の奴に捕まるより吉政に捕まる方がいいと言ったらしい
三成は吉政に家宝のありかを教え吉政はそれを家康に献じたか
処刑前の三成と家康が面談する時にこれ見よがしに家宝を家康の側に置いた
嫌うならこんな理由じゃないか?
三成捕縛は命令だし捕縛後の吉政は三成を丁重に扱っているので
捕縛をもって嫌う理由にはならない
0075人間七七四年
2017/02/08(水) 14:31:01.10ID:LeI/ivTi家康に助命嘆願して、せめて斬首じゃなくて切腹にしてやってくれとか頼んだのかね?
しかも、捕縛の褒美で柳川貰うとかふざけんな、って思うのは普通だろ。
0077人間七七四年
2017/02/08(水) 17:27:29.26ID:dlcIYnTX手掛かりすらありませんわ
戦国時代に興味持ち始めた頃って久留米の有馬って肥前有馬の流れと勘違いするよね
0078人間七七四年
2017/02/08(水) 20:03:32.03ID:p/mScg0L京都で宗茂に日置流弓術の免許を与えた吉田茂武と
その弟で宗茂に金溜地塗籠弓を贈った吉田茂氏は
共に前田家臣でその関りで前田家から誘われたけど
断ったってだけの話なんだろうけどな
0079人間七七四年
2017/02/09(木) 03:39:23.82ID:mSwecxb3捕縛で嫌ったのでは無く
捕縛したことにより自分の評価を上げたことに対する浅ましさを嫌ったのだろう分からない?
0081人間七七四年
2017/02/09(木) 09:20:25.94ID:oU3wE+gF関ヶ原では家康の本陣の背後を警備しているから
能力jはともかく、忠誠心は高く評価されていたんだと思う。
徳川家を裏切らないということで。
0082人間七七四年
2017/02/09(木) 09:26:40.55ID:h/wkAtnH0083人間七七四年
2017/02/09(木) 18:59:56.63ID:o7PKWojw有馬も聚楽第の敷地内に屋敷を与えられ場違い感に思わず笑いが出ちゃう感じ
まぁ不思議な親子だな
0084人間七七四年
2017/02/09(木) 19:11:39.00ID:h/wkAtnH0085人間七七四年
2017/02/09(木) 19:13:10.19ID:8HE/Ihcw> 豊氏の父親も少身ながら秀吉に謎の厚遇されていて、
茶人としても高名だったが、豪傑でもあったという変なキャラクターだったらしい。
0087人間七七四年
2017/02/10(金) 01:18:28.11ID:vCL4znw0立花吉弘一萬田志賀田原とか
0088人間七七四年
2017/02/10(金) 17:55:45.36ID:w7pAqqbm0089人間七七四年
2017/02/11(土) 18:00:27.43ID:XZjkkiXW0090人間七七四年
2017/02/11(土) 21:10:07.28ID:GVf3z6rx0091人間七七四年
2017/02/14(火) 06:43:02.33ID:XuyS2+oi0092人間七七四年
2017/02/14(火) 14:56:55.56ID:imI4Pq8G0093人間七七四年
2017/02/14(火) 14:57:20.38ID:imI4Pq8G0094人間七七四年
2017/02/14(火) 19:33:48.54ID:MQGzxCsc0095人間七七四年
2017/02/20(月) 20:20:56.89ID:JlDSEOHs敵方に例えられたのか味方が言ったのかどっち?
0096人間七七四年
2017/02/20(月) 21:26:36.45ID:wfsGPCaD流石に褒めすぎだと思うけど
0097人間七七四年
2017/02/20(月) 21:38:25.22ID:3pc2Kht8うたわれてたのはあった気がする
0099人間七七四年
2017/02/21(火) 09:30:13.30ID:1skzio9YWikipediaの渾名にも西国無双と並んで飛将と書いてある
前漢時代岩を射抜くほど弓に秀でた飛将軍李広は匈奴を何度も撃破し武威と人気は絶大だった
同じく弓の上手い呂布も李広になぞらえて飛将と恐れられた
つまり宗茂は朝鮮では呂布のような弓の達人で猛将しかもその智謀は孔明の如しと讃えられた?
そして死後宗茂の治世は尭のようだと肖像画に書かれているそうだ>>96
尭は中国神話の始祖みたいな感じの人で神聖な存在、次の舜とともに理想的な統治を行ったとされる
孔明は清正が言ったんだっけ?軽く調べても誰が言ったか分からなかった
童門早乙女加来がそれらしきことは書いてるようだ
0100人間七七四年
2017/02/21(火) 12:13:20.70ID:ajVQvIM90101人間七七四年
2017/02/21(火) 18:50:03.40ID:MqrQRMMSほくのかんがえたさいきょうぶしょうだ!
0102人間七七四年
2017/02/21(火) 20:20:59.48ID:978rNsJTてかチャイナが持ち上げてるって事だったから何か立花と関係ない別の誰か中国偉人の話かと思いましたよ
0103人間七七四年
2017/02/22(水) 01:04:00.04ID:w98B2R6fゲームの影響?
0104人間七七四年
2017/02/22(水) 01:09:26.32ID:w98B2R6f>ぼくがかんがえたさいきょうのぶしょうだ!
宗茂の現代に残っている文献をみると
本当にぼくがかんがえたぶしょうだ!みたいだな
0105人間七七四年
2017/02/22(水) 02:06:09.75ID:iv6CvxnJ残念ながらWikiの出典が小説だったりする事が多いんだよなあ
史実に沿った立花宗茂像を知りたかったら柳川市刊行の本を買うのがベスト
0106人間七七四年
2017/02/22(水) 02:41:18.02ID:clvbV93F平成24年に出た柳川市史史料編Xが
立花家関連の文書がまとめられてて重宝するけど
いつどういった状況での文書かを判定するのが難しいな
0107人間七七四年
2017/02/22(水) 11:41:40.01ID:eDXDMWpE人口石高などの行政関連とは別に古老からの伝承を残している
道雪紹運宗茂小説の必須タネ本
http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive05/table.html
秀吉の「立花事(略)比類なき働き、九州の一物也」という感書は黒田がずっと持っていたようだ
立花家がそれ頂戴頂戴とずっと言ってるけど黒田家は九州軍奉行だし大身だし
どうしてもお願いっていうから本書を送ってやった(益軒文を超訳
あとは戦前の糟屋郡史がネットで読めたら助かるんだがない
立花山周辺は香椎町と和白町が福岡市になり新宮町と久山町は糟屋郡に残ったので
現在の立花山関連の郷土史編纂がちぐはぐなのは行政区域が別れたせいもあると思う
立花口は新宮町(旧立花村)、城下町は東区、米多比菰野という地名は新宮の隣の古賀市
福岡民で立花城の城下町がどこら辺にあったか知っている人は殆どいないんじゃないか?
0108人間七七四年
2017/02/22(水) 23:23:02.16ID:lI0OHO5Vおお〜懐かしい地名が沢山出て来てるわ。
大学時代、東区に住んでたんだが立花家と関係がある所に住んでたのか・・・
全く気付かなかったわ。
昔は新宮町は立花村だったとはね。
近所には小早川隆景、秀秋所縁の名島城址もあったりで、
あの辺は戦国時代好きには結構濃い場所だったんだな。
0109人間七七四年
2017/02/22(水) 23:30:36.32ID:lI0OHO5Vでも、やっぱり九州で立花というと道雪、宗茂を思い浮かべてしまうし、興味深い話を感謝。
0110人間七七四年
2017/02/23(木) 00:47:48.64ID:j3WJ6eF1筑前国続風土記は養生訓の福岡藩儒(藩士)貝原益軒が書いたけど
黒田家は島津秋月掃討戦くらいしか筑前で戦っていないので
特に古城古戦場の巻は道雪紹運の西大友が主役と言ってもいい
2人とも最大限の賛辞を送られているよ
私は道雪(宗茂)が絡んだ、宗像大宮司、杉、河津、秋月など今でいう
福岡市から糟屋筑豊宗像の戦国時代の歴史を知りたいですね
自分のルーツを探ることにもなりますし
0111人間七七四年
2017/02/23(木) 07:38:20.02ID:fvfy7qKg0112人間七七四年
2017/02/24(金) 03:31:02.71ID:Oso++fyO門跡に対面する形で立つと真正面の山にあるのが岩屋城跡
0113人間七七四年
2017/02/24(金) 20:46:13.42ID:h+zOd//U0114人間七七四年
2017/02/24(金) 21:07:35.89ID:hWIgyn4y古代のことになるが
太宰府が攻撃された場合に備えて
岩屋城のあった場所に朝鮮式山城を作っておこうとか、そういう発想がなかったのが
不思議といえば不思議なのだが。
0115人間七七四年
2017/02/24(金) 21:08:28.21ID:hWIgyn4y柳川藩の『小野家文書』
0116人間七七四年
2017/02/24(金) 21:46:35.59ID:h+zOd//U波泳ぎ兼光といい宗茂は謙信と少し縁があるよね
2人もと戦上手だしね
0117人間七七四年
2017/02/24(金) 21:52:55.15ID:o/YD5ogP逆に太宰府方面から進行する薩摩勢から博多を守るために築かれたのが岩屋城
北から敵が攻めてくるか南から敵が攻めてくるかで城を築く場所がちょっと違う
0120人間七七四年
2017/02/25(土) 12:05:35.85ID:2cmdMfTO想定したとするなら筑後国人や龍造寺なんだけど
大友の重要な拠点である立花城宝満城岩屋城以外に支城や砦も当然ある
それらを線で引いていくと博多を囲うようになり博多を守ろうとしていた
大内毛利が襲来したり龍造寺が博多を焼き払ったりしたけど
貿易都市博多は堺みたいなものと考えれば敵は我が物にしたいし大友は守りたい
0121人間七七四年
2017/02/25(土) 12:30:19.10ID:a7zXJuDEつまり太宰府天満宮より三柱神社に賽銭投げて御守り買って本殿再建に協力しやがれ
0122人間七七四年
2017/02/25(土) 16:15:38.26ID:s8hN6B6g那珂川より先の博多区域に対して立花家関係者はむしろ侵略者側であることも多いよ
0123人間七七四年
2017/02/25(土) 16:26:42.86ID:s8hN6B6gそこは立花家も守っていた筈だけど
0124人間七七四年
2017/02/25(土) 19:04:29.98ID:5mDii6bD0126人間七七四年
2017/02/25(土) 20:01:10.29ID:EN6FwjoB0127人間七七四年
2017/02/25(土) 21:55:51.15ID:tJHcUZRW0128人間七七四年
2017/02/26(日) 00:25:45.86ID:JfojjPM7筑前は立花氏が全てを支配しているわけではなく
道雪がいくら大友氏の軍事権行政権を委任されていようと
立花氏じたいは糟屋郡の5000町くらいの身上
筑前には立花高橋以外にも大友直臣がいたわけだし
大内衰退後博多支配は大友氏のものとなったのは確か
宗麟は幕府から九州探題にも任命されており
博多に洪水が起きないよう石堂川を引く治水事業をしている
そしてそもそも道雪は立花を名乗っていない
0130人間七七四年
2017/02/26(日) 02:54:37.90ID:tadXpM3X0131人間七七四年
2017/02/26(日) 10:35:04.97ID:zQLWEy1Kある程度の防衛力はあったようだけどね
0132人間七七四年
2017/02/26(日) 14:11:43.67ID:dzAFV9/b一の谷→湊川→花隈城
壬申の乱→関ケ原
みたいな時代をまたいだ歴史の表舞台って面白い
0133人間七七四年
2017/02/26(日) 14:42:58.67ID:0jPHu0eIとかな
0134人間七七四年
2017/02/26(日) 18:41:02.77ID:Sg1NRRIr0135人間七七四年
2017/02/26(日) 18:44:11.05ID:Sg1NRRIr0136白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
2017/03/05(日) 01:52:12.57ID:XF3h9Z6S大嘘こくなや。
九州立花ハッタリ物語を挙げとこうよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
『立花盗人虚言物語』
「上記の他に次のような武勇伝も伝わっている。
明将・麻貴率いる明・朝鮮軍2万9500人が蔚山倭城を再度攻撃し(第二次蔚山城の戦い)、
守備に当たった加藤清正が包囲され窮地に陥っていることを知ると、釜山で近所の
日本軍諸将は会議を行う。日夜対策が評議されたがなかなか結論が出ず、
辛抱強く議論を聞いていた宗茂もさすがにしびれを切らし「評定のみに日を送っても無駄なこと
です。思いますに、まず蔚山城の敵を追い払えば泗川の敵は退き、泗川の敵が退却すれば順天の
敵もおのずから退却いたすでありましょう。拙者が蔚山城を救援いたしましょう」と進言した。
それを聞いた総大将・ 小早川秀秋は「それはよいことを申された、わずか3,000にも満たない
兵であれば、 万一やり損なっても味方の難儀にはなりますまい」と言い放った。宗茂はわずか
1千の兵を率いて救援に駆けつけ5百の兵を率いて夜襲を敢行、別の5百兵が鉄砲で攻撃し明軍の
先陣5,000人を撃退し、その後は偽情報を拡散するために先の夜襲した際の捕虜40人余を解放し、
その夜、偽の陣地や營火と伏兵を使って明軍を引き出して分断包囲撃破し、翌日蔚山城に到着、
加藤清正を援助した[15] 。その後、清正も5,000の軍勢で明軍を追撃し、戦後ともに蔚山城に
入り、清正から 「日本軍第一の勇将」と絶賛された[16]。『立斎旧聞記』
なお、これらの武勇伝は同時代史料に記録が無く、話の信憑性には疑問符が付く。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%9A%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
『真実』
「日本の赴援軍では毛利秀元の陣所より、吉川広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、
続いて総勢が一度に突撃した。そのとき明軍の敗走が始まる[8]。 『清正高麗陣覚書』」
0137白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
2017/03/05(日) 01:53:35.12ID:XF3h9Z6S他スレでも云うたよう、
「立花道雪は、毛利勢に負け、立花城を陥落させ城兵を丁重に大友側に護送たんが、余程悔しいん
か、大友らが大内のお馬鹿坊ちゃんをそそのかし、毛利勢が山口謀反征伐に引き返した時、殿で
立花城に残った浦宗勝さんが城を明け渡す時、道雪らは、暗殺を企てよったんよ。
ほいで、立花道雪つまり戸次鑑連ら大友三将は、浦(乃美)宗勝さんの、籠城長引き策に業を
にやしとったけんのう。じゃが麻生隆実さんを唆して、浦宗勝さんらを討ち取ろうとする姑息さも
九州人らしいやり口よのう。 大友にそそのかされた大内の坊やが反乱して毛利勢が引き返し、
宗勝さんがしんがりで篭城し時間稼ぎに業いった九州勢は、毛利勢が立花城陥して大友の捕虜を
丁重に送り届けたのに、立花道雪らは、闇討ち計画たぁ陰険で戦闘道徳にも反するわい。
麻生隆実さんが請負人じゃったが、 実行せず、小早川隆景さんに計画暴露したんよ。」
こがぁな立花道雪ら外道に功績たぁなんなら。立花宗茂も吉川広家さんの蔚山独断奇襲を
捏造して立花の手柄じゃの大嘘放題じゃし、嘘吐きを手本たぁあきれたもんじゃわい。
兎も角九州人云うんは、嘘ばっかし吐く連中じゃけぇのう。
0139人間七七四年
2017/03/05(日) 06:02:03.88ID:T331M0hH0140人間七七四年
2017/03/05(日) 11:04:32.60ID:vEmIdRDL必死だなw
0142人間七七四年
2017/03/05(日) 18:00:41.31ID:/mZM2cHz第一次蔚山とは全く別の話なんだけどなw
0143白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
2017/03/06(月) 00:58:31.96ID:1p5e5h4T九州は後の近代郷土兵団でも嘘こき体質じゃし、他所の手柄の功績泥棒はせん方がええど。
>>142
第二次蔚山にも、立花ホラッチョ君は活躍した根拠すら無ぁんじゃし(笑)。
0144人間七七四年
2017/03/06(月) 02:41:10.98ID:od4a/JEEコイツまだ相手する?
0145人間七七四年
2017/03/06(月) 03:09:53.69ID:Ilj82WuS特に相手にする気はないんだけど、蔚山救援については調べたい部分も多いから所見だけいう
基本的に慶長2年12月のが第一次蔚山で、慶長3年9月の三路攻撃の一つが
第二次蔚山とされてるんだけど、立斎旧聞記だと慶長3年5月に救援に行ったってなってるんだよな
第一次蔚山の後大将格の小早川秀秋、宇喜多秀家、毛利秀元を始めとした日本軍の大半が帰国して
在番として残った武将だけになってから、秀吉が死んで撤退命令が出るまでの間は
当時の朝鮮での状況が明確にわかるほど記録が残ってないから検証のしようがないんだけど
浅川聞書だと第一次の後も蔚山城に何度か敵が攻め寄せて来て、宗茂が救援に行ったら
大した戦いにならずに敵が引き上げていったって感じに書かれてたから、
これが実態に近いんじゃないかと思う
0146白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
2017/03/07(火) 01:43:43.14ID:JXvt3n5O加藤清正も吉川広家さんにゃ馬印送っても、立花にゃ「日本軍第一の勇将」じゃの云うた
こともあるまあに、立花ハッタリ文書が「日本軍第一の勇将」じゃの近代郷土師団の久留米師団の
法螺と一緒じゃなぁか(笑)。ほんま九州人は嘘こきじゃけぇのう。
九州勢は毛利や黒田の山陽道勢にゃ手も足も出ん弱い癖に虚勢張って強がるけぇのう。
0147人間七七四年
2017/03/07(火) 07:27:22.97ID:GSOo7MCL膠着状態が続き、ついにはた。吉岡の策略で立花山城を明け渡さざるを得なかったww
ほんとにそんなに強かったのか?(ww
0148人間七七四年
2017/03/07(火) 07:45:10.98ID:5UaM8lsM■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています