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大嘘こくなや。
九州立花ハッタリ物語を挙げとこうよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
 『立花盗人虚言物語』
「上記の他に次のような武勇伝も伝わっている。
明将・麻貴率いる明・朝鮮軍2万9500人が蔚山倭城を再度攻撃し(第二次蔚山城の戦い)、
守備に当たった加藤清正が包囲され窮地に陥っていることを知ると、釜山で近所の
日本軍諸将は会議を行う。日夜対策が評議されたがなかなか結論が出ず、
辛抱強く議論を聞いていた宗茂もさすがにしびれを切らし「評定のみに日を送っても無駄なこと
です。思いますに、まず蔚山城の敵を追い払えば泗川の敵は退き、泗川の敵が退却すれば順天の
敵もおのずから退却いたすでありましょう。拙者が蔚山城を救援いたしましょう」と進言した。
それを聞いた総大将・ 小早川秀秋は「それはよいことを申された、わずか3,000にも満たない
兵であれば、 万一やり損なっても味方の難儀にはなりますまい」と言い放った。宗茂はわずか
1千の兵を率いて救援に駆けつけ5百の兵を率いて夜襲を敢行、別の5百兵が鉄砲で攻撃し明軍の
先陣5,000人を撃退し、その後は偽情報を拡散するために先の夜襲した際の捕虜40人余を解放し、
その夜、偽の陣地や營火と伏兵を使って明軍を引き出して分断包囲撃破し、翌日蔚山城に到着、
加藤清正を援助した[15] 。その後、清正も5,000の軍勢で明軍を追撃し、戦後ともに蔚山城に
入り、清正から 「日本軍第一の勇将」と絶賛された[16]。『立斎旧聞記』
なお、これらの武勇伝は同時代史料に記録が無く、話の信憑性には疑問符が付く。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%9A%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 『真実』
「日本の赴援軍では毛利秀元の陣所より、吉川広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、
続いて総勢が一度に突撃した。そのとき明軍の敗走が始まる[8]。 『清正高麗陣覚書』」