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豊臣信者がよく主張するのは
関ヶ原後豊臣家は三カ国六十五万石に減封された
秀頼は主君で家康は反逆者
関白継承権を持つ秀頼を邪魔に思っていた
豊臣家を滅ぼすため、清正など豊臣恩顧の武将の死を待つなど
じっくり時間掛けながら謀略を行い豊臣家の力を削いでいった
されでも開戦の名目がないので方広寺の鐘銘に難癖をつけた
秀頼が家臣の且元を仕置しようとした事に口出しして冬の陣を起こした
冬の陣は豊臣方の勝ち、だって宣教師がそう報告してるから
城攻めの苦手な家康は豊臣を騙して、大坂城の堀を総べて埋めた
豊臣家を滅ぼしたい家康は豊臣の飲めない無理な条件を出し
わざと拒絶させる事により夏の陣を起こした
真田信繁に本陣に攻め込まれた家康は無様に逃げた、もしくは戦死した
助命する気もない癖に豊臣の降伏の使者である米村の前で、赦免できないか
秀忠と相談するなんて小芝居をした
八歳の国松は処刑され天秀尼は東慶寺に入れる事により、豊臣家の血脈を絶った
豊国神社を破壊した
戦後十万人以上を虐殺した、やっぱり宣教師がそう報告している

このあたりかな