白峰の西軍公儀の論拠とそれに対する反論のレス

石田・毛利連合政権成立の論拠
【1】豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼を直接推戴した
【2】毛利輝元が公儀の城郭である大坂城に入城して豊臣秀頼を直接補佐した
【3】自らを「公儀」と称した
【4】政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた
【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた
【6】大名に所領(知行)を与えた

1に関しては秀頼を直接推戴したって言うけど、家康みたいに出陣前秀頼や朝廷から使者が来たわけでもないし、

2は単純に実力をもって西の丸を徳川方から奪い取っただけでしょう。

3は論外だし、4、5、6は戦における自勢力圏の確保と敵と味方に関しての当たり前の行動にしか思えないんだけど。

しかも5が達成できたのは関ヶ原の決戦の二日前の有様だし。

1、2は別に批判するほどの根拠では無いな。家康とて大坂には実力で入城したし、輝元も豊臣家の中核たる奉行衆から請われて入城してる。

3は白峰氏の主張に無理がある。公儀を名乗る事が出来たというのは確かに大事な要素ではあるが、それによる影響をキチンと調べないと意味が無い。

4は上方周辺の諸侯を動員できてるから妥当。ただし畿内すら掌握できておらず、完全からはほど遠い。

5は城を受け取れず、戦になった時点で面目丸潰れでしかも杵築は接収にも失敗した。むしろ蜂須賀、生駒を改易にして城を受け取った点を評価するべきだろう。

6は近江の家康所領などを与えてはいるが、もともと豊臣家の代官が把握してた所領。その他は切り取り次第の状況で公儀性を発揮してるとは言い難い。