そもそも徳川と蒲生は人事交流が頻繁で、氏郷の没後、秀行に家康の娘が嫁いだことからも解るように、家康は蒲生の後見といった
役割を受け持っていた。親家康というなら蒲生氏郷はまさしく親家康だったと考えたほうがいい