そもそも当時の家康は秀頼を抱きかかえて威張り散らしたこともなければ
大坂にいる豊臣の人質を自分の管理下に置こうとしたこともない
それどころか会津征伐をはじめ重要な政治決定は全て秀頼に事前報告して許可を取るなど秀頼重視主義を取っていた
むしろ三成たちの方が自分たちだけでなんでも決められる、豊臣の財物・人質・秀頼の身柄をは全て自分たちの管理物だという態度を見せて
秀頼軽視主義を取っていた