トップページsengoku
29コメント31KB

【遠江佐久城】 浜名正国 【今川家臣】 part1 [無断転載禁止]©5ch.net

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2016/03/11(金) 10:31:54.92ID:TwNuc3hI
遠江国の名門一族・浜名氏について語ろう!


『武家家伝_浜名氏』
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hamana_k.html

『日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 清和源氏頼光流【5】』
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004a4.htm

『濱名庄司系譜』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/769763/107?viewMode=

『浜名氏系図』
∴清和天皇─貞純親王─源経基─満仲─頼光─頼国─頼綱─仲政─
┬頼政=兼綱─頼兼=頼貞─政国─政義─頼氏─
└頼行─兼綱─顕綱─頼貞
─浜名清政─詮政─満政─持政─政義─政明─頼親─正国─重政─
┬頼広─浜名三郎兵衛─
├信正
└正綱
0002人間七七四年2016/03/11(金) 10:54:54.66ID:TwNuc3hI
浜名氏物語

浜名湖地域・佐久城を拠点とした浜名氏。
今川家当主が氏真であった時代の浜名家当主は頼広であった。
頼広は、今川シンパである掛川朝比奈氏とも姻戚、
今川から離反した飯尾氏とも姻戚関係にあるという、困惑せざるを得ない立場に置かれた。
しかしいよいよ今川氏真の統治体制が崩壊し、古豪の武田家か新興の徳川家か、
どちらかの傘下に入らないと生き残れない状況に立たされる。
一旦は徳川に属すものの、親族が徳川方の者によって粛清されると恐慌を来たし、武田に寝返る。。
徳川軍東進への防波堤になるつもりだったが、徳川軍は予想とは異なる進路を採り、佐久城は包囲されてしまう。
窮まった頼広はまたしても恐慌を来たし、僅かな供を連れて包囲網を脱出。甲斐へと逃亡する。

残された佐久城の城兵は親族が指揮を執り、徳川軍へ抗戦の構えをとる。
そこで徳川方は領地安堵を約束し、佐久城は開城する。
彼等、頼広に置き去りにされた一族郎党は、こうして徳川勢に組み込まれていくことになる。

一方、領地も手勢も置き去りにして逃亡してきた頼広を、武田家は受け入れなかった。
頼広は野に下り、近江でひっそりと息を引き取ったという。
0003人間七七四年2016/03/11(金) 10:58:30.87ID:TwNuc3hI
浜名三郎兵衛 (?〜?)
今川家臣浜名頼広の子。本多忠政に仕え、大坂の陣に出陣。道明寺口合戦で功があった。
0004人間七七四年2016/03/11(金) 11:08:41.65ID:TwNuc3hI
佐久城浜名肥前守頼広、嫡子浜名与兵衛政伴・三男猿田弥三郎政綱と家臣24,5人と甲斐に逃れる。『浜松城時代の徳川家康の研究』
0005人間七七四年2016/03/11(金) 11:22:35.95ID:2H+z1ZYt
おれんちも浜名氏の子孫だわ。
源三位頼政の子孫と伝わっているけど。
なるほど、源頼行の子孫なのか。
0006人間七七四年2016/03/11(金) 12:22:02.87ID:TwNuc3hI
昔、三ヶ日町の津々崎に「獅子神様」という小さな社がありました。
実はこの社には、とても痛ましい物語が残されているのです。

時は永禄11年(1558)。永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、
遠州が混乱を極めていた時のことです。三ヶ日町都筑を治めていた佐久城の城主は、
文和年間(1352)から200年の間、地域第一の豪族だった源頼政の子孫である浜名備前守一族が代々務めていました。
領地は安定していたのです。しかし、すでに世は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、
武力のあるものの勝つ戦国時代。名門の家柄とて、安閑としていることは出来ませんでした。
実際に岡崎の家康は、遠州に食指を動かし、順次に兵を進めてきていたのです。

そして永禄11年11月、ついに徳川家康は配下の重臣、酒井忠次に命じて、この佐久城を攻めさせました。
初め酒井忠次は「天下は今や、織田、徳川のものである。一刻も早く、徳川方の指揮のもとに入れ。」と降伏を迫ってきました。
しかし時の城主・浜名左衛門佐政遠は、今までは今川氏に属していたのに、そう安々と寝返りすることは武士の本領ではないと考えました。
それで政遠は、城兵達を集めて軍議を開いたのです。
「いかにしたものであろうか。」すると家臣からは様々な意見が出てきたのです。
「今川義元は、すでに8年前の永禄3年(1560)に桶狭間で戦死。その子の氏真が継いでいるとはいえ、力は弱くなっている。
いつまでも昔のことを思っていなくても・・・・」という者もいれば、
「しかし、徳川氏はまだ、海とも山とも分からない。それに隣の宇津山城も、気賀の堀川城も、家康には敵対している。
徳川方につくべきではない。」と言う者もありました。どちらも一理あり、意見がまとまらないまま日は過ぎて行きました。
とうとうしびれを切らした酒井忠次は、3000の兵をもって佐久城を包囲し、攻撃を始めてきました。
「今は仕方がない。」と城主浜名政遠は、応戦するにはしたのですが、両論があっただけに城兵の士気は揚がりませんでした。
また、城兵も少なく、酒井軍を迎え撃つほどの力もなかったのです。夜陰にまぎれて逃げる者も出始め、浜名軍はどんどん劣勢になってしまいました。
すると城主浜名政遠は、ある夜部下二人と共に、城を捨てて出ていってしまったのです。

この時城主には一人の姫がありました。姫は勇敢にも、「何、逃げるものか、私一人でも戦おう」
と太刀をもって戦ったのですが、敵うはずもありません。ついに斬られて、首は浜名湖に捨てられてしまいました。

姫の首は流れ流れて、その数日後、猪鼻湖の一角、津々崎の川原田にある一の地蔵があるほとりに流れつきました。
これを見た津々崎の住人、百姓・清左衛門は、「おお、これはたしかに、城のお姫様だ。」
と拾って丁寧に箱に納めておきました。するとその夜、お姫様が夢に現れたのです。
「清左衛門よ、有難う。できれば私を獅子神としてまつってくれぬか。きっとお前の家に、いい運をさずけてやろう。」
清左衛門はびっくりして、翌朝すぐ一の地蔵の上、貴布弥神社の八合目に懇ろ(ねんごろ)に埋葬しました。
そして、ここに小さな祠を作って、「獅子神様」としてまつったのです。その後この社は、白山山の方に移したともいわれています。

出典/「三ケ日町のむかしばなし」三ケ日町教育委員会
0007人間七七四年2016/03/11(金) 12:49:42.79ID:TwNuc3hI
三ヶ日町都筑の南端、大崎半島の近い所に、古城の跡があります。
徳川時代までは、いかめしい石垣の残りや、幾重もの深いお堀のあとがあったといわれますが、今はおおかた埋められて、それと思われる畑の高低に、さつまいもや大根が蒼く茂っているのみです。
かつて、この城のお堀には、10メートル余りの大蛇が住んでいたという言い伝えがありました。その大蛇を見てしまった村人は、あまりの恐ろしさに腰がぬけて歩けなくなってしまうと言われました。
ようやく家にたどりつくと、そのおそろしさが頭の中に去来して、少なくとも一ヶ月は床について、病気になってしまうというのです。
この古城は、その昔の佐久城の跡でしょうか。佐久城には、大蛇にまつわるこんな伝説が伝えられています。

永禄11年(1568)のこと。岡崎城の徳川家康は、そのころ今川方の勢力がようやく衰えだしたので、この機に浜松城に入って、駿河、遠江、三河の三国を手中に入れたいと、日ごろの野望の実現を考えていました。
しかし、浜松城に入る途中には三ヶ日町の佐久城、細江町気賀には堀川城があって、いずれも城兵が堅く守っています。
「なんとか方法はないものか」 知将・家康は、本多平八郎、小山源三郎などの幕僚と軍議をしました。その結果、「戦わずして、まず浜松城に入ることだ」と一決したのです。
永禄11年(1568)11月の末、徳川の軍勢は岡崎城を出発すると、この佐久城と堀川城を回避して、三河から宇利峠を越し三ヶ日の平山に出ました。大福寺の前を通って、さらに只木から風越峠の嶮を越して引佐町奥山を経て、井伊谷にと軍を進めたのです。
ここからも、なお山ぞいに天竜市二俣の鹿島(現在の浜松市天竜区)に出て、天竜川を渡船して東岸にわたり、東岸を下って池田(磐田市)へ。また渡船して西岸の妙恩寺に着いたのは、その年の12月15日でした。
ここで浜松城の様子を伺い、城主・飯尾豊前守が、掛川城へ所用で行った留守の間に、まんまと城を乗っ取って、目的を達成してしまいました。
しかし家康にとって、自分に反旗をひるがえす、佐久城と堀川城は、目の上のこぶでした。
そこでまず、本多平八郎と戸田三郎左衛門に手兵2000を率いさせて、佐久城を請取りに向かわせました。
一隊は佐久城の手前、津々崎と大明神山に陣を敷いて、使者を城内に出しました。
「徳川家康は、すでに駿遠三(駿河・遠江・三河)の盟主である。速やかに城を明け渡して帰順せられよ」
城内では後藤角兵衛、安形平兵衛などが集まって、にわかに軍議を開きました。ところが、
「今戦って、勝てる見込みはない」という意見と、「武士として、みすみす敵に兜を脱ぐのは恥である。敗けるまでに城を枕に討ち死にすべきである」という意見との両論が出て、なかなか決まりませんでした。そうしている内に、二日が過ぎてしまいました。
本多平八郎は、再び城内に使者を送りました。
「速やかに回答せよ。この際おとなしく城を明け渡すならば悪いようには取り計らわないが、万一如何としてもわたさぬ時は、ひともみに攻め落とすのみである」
城内ではさらに軍議を重ねました。ところがその夜、そっと城内から逃げ出す不心得者が、数多く出て来てしまったのです。それを見て、「もうだめだ」と、直ちに城の明け渡しを決議して、城門を開いて徳川軍を迎え入れたのでした。
この時の城主、浜名備前守頼近には、一人の姫がおりました。芳紀十八歳、花のような美しい姫でしたが、この様を見ると、
「わが家は、源三位頼政の末葉である。その武士の家の者が、戦わずして敵に城を渡すとは、まことに残念である。私は敵の顔も見たくない……」
と室を抜けて濠の傍に走り出てきました。そして家臣に悲憤の涙を流しながら、
「私は、たとえ生きる道があろうとも、この城を離れては何の楽しみもない。今はこの濠に入って大蛇となって、永くこの地の守護となろう。者共、この枝に枝葉が生じたならば、私の念願成就したと思われよ。」
そう言うと、手にした竹の杖を濠端の土にさして、ざぶんと飛び込んで消えてしまったのです。
その後不思議なことに、その姫のさした枯竹の杖からは、根が生じ芽を出し、葉も茂ったが、姫が土にさすとき逆さであったとみえて、枝葉は総て逆さまのまま、繁茂したということです。
先の古城の大蛇は、姫が化身したものでこの濠の主であろうと言い伝えられています。


出典/「三ケ日町のむかしばなし」三ケ日町教育委員会
0008人間七七四年2016/03/11(金) 15:32:17.06ID:TwNuc3hI
【浜名氏家臣団】

■後藤氏
 長享元年(1487)9月。足利将軍義尚の佐々木(六角)高頼征伐に、
上洛参戦した後藤九郎が祖の遠州後藤氏(日比沢城主)。

■安形氏(縣氏)
 浜名県主が祖の安形氏。
子孫は宇都宮戸田藩の家老となる。

■岡本氏
 岡本信久(源左衛門尉)。
浜名郡岡本郷の豪族。


【浜名氏一族】

■浜名氏

■大屋氏(大矢氏)

■猿田氏
 浜名重政の子、新三郎信正・弥三郎正綱兄弟、ともに遠江国の式内
猪鼻湖神社の祭神、猿田彦に因み、猿田氏を称する。

■浜名氏流朝日奈氏

■浜名氏流飯尾氏

※また、浜名頼広の妻は今川氏に最期まで誠忠を尽した掛川城主の朝比奈泰能の女であり、
浜松城主飯尾乗連は甥に当たっていたといわれ、今川氏とは強い因縁で結ばれていた。
0009人間七七四年2016/03/11(金) 15:41:49.50ID:TwNuc3hI
今川義元の城(家臣の城も含む)


・駿府今川館(当時は駿府城ではなく今川館でした)

・尾張鳴海城=城主・岡部元信

(以下、城主は省略)

・駿河朝比奈城=朝比奈元長

・三河田原城=朝比奈元智

・駿河瀬名城=瀬名氏俊

・駿河蒲原城=蒲原氏徳

・駿河庵原城=庵原元政

・駿河川入城=由比正信

・遠江掛川城=朝比奈泰朝

・遠江二俣城=松井宗信

・遠江高天神城=小笠原氏清

・遠江井伊谷城=井伊直盛

・遠江引馬城=飯尾乗連

・遠江佐久城=浜名正国

・三河岡崎城=松平元康

これ以外では、犬居城(天野景泰)、横山城(興津清房)、葛山城(葛山氏元)、
松平氏関係で、大草、竹谷、桜井、青野、長沢、形原、田峯、長篠、野田、足助、寺部、上ノ郷、牛久保、作久、五本松の三河の各諸城があります。
0010人間七七四年2016/03/11(金) 15:56:15.97ID:TwNuc3hI
猪早太
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E6%97%A9%E5%A4%AA

 猪 早太(いの はやた、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。
井 早太、猪 隼太あるいは猪野 早太などとも表記する。
源頼政に郎党として仕えた。遠江国猪鼻湖西岸(現在の静岡県浜松市北区三ヶ日町)、
または近江国猪鼻(現在の滋賀県甲賀市土山町猪鼻)を領したことから猪鼻を苗字としたという。
また、多田源氏で父は太田伊豆八郎広政(廣政)といい、名は高直であったともされる。
(後年の浮世絵などでは名を広直(廣直)あるいは忠澄とするものも見られる。)
『播磨鑑』では、頼政の知行地であった播磨国野村の産とされる。

 『平家物語』等にみえる、仁平年間(1151-54、近衛天皇治世)における頼政の鵺(鵼)退治の際に
ただ一人随行し、頼政が射落とした鵺にとどめを刺した、という伝説で著名。『源平盛衰記』によると、
このとき早太が用いた刀は、頼政が彼に預けた短刀「骨食」である。また、とどめを刺すに当たっては
「喉を一突きにした」、「九回刺した」など異同がある。
0011人間七七四年2016/03/11(金) 16:02:03.44ID:TwNuc3hI
天福(てんぷく)元年(一二三三)九月、武士三名は、遠江但木神明社(引佐郡三ヶ日町只木)に掛仏を寄進している。
その胎蔵界の背裏に毛彫した銘はつぎのようである。

   【但木御薗】「但木御薗
           天福元年癸巳九月日
           大施主 源貞正入道
                  藤原真道
                  大家末時」

但木神明社掛仏背裏(引佐郡三ヶ日町 只木神明宮蔵)
【気賀荘 大家氏 浜名氏 県氏】只木のあたりは、気賀を中心とする引佐郡伊福(いふく)郷に属していた。
これが荘園化して気賀荘になる。七条女院領であった。大家(おおや)氏は、ここの荘官らしく、源貞正は浜名氏の祖、
藤原真道は、県(あがた)氏の祖である(高橋佑吉編『浜名史論』)。
0012人間七七四年2016/03/11(金) 16:14:22.96ID:2H+z1ZYt
ググったら、浜名氏は伊豆多田氏の流れなのか。
0013人間七七四年2016/03/11(金) 17:23:13.98ID:2H+z1ZYt
浜名三郎兵衛は本多忠勝の子・本多忠政の家臣になってるね。
0014人間七七四年2016/03/11(金) 17:53:20.11ID:TwNuc3hI
>>1
『濱名庄司系譜』にある、大屋金太夫光重の子の「作左衛門重次」って本多作左衛門重次のことだろうか?
0015人間七七四年2016/03/11(金) 22:41:20.51ID:2H+z1ZYt
浜名三郎兵衛は本多忠勝の子・本多忠政の家臣になってるね。
0016人間七七四年2016/03/11(金) 22:42:29.32ID:2H+z1ZYt
ググったら、浜名氏は伊豆多田氏の流れなのか。
0017人間七七四年2016/03/11(金) 22:42:31.69ID:2H+z1ZYt
おれんちも浜名氏の子孫だわ。
源三位頼政の子孫と伝わっているけど。
なるほど、源頼行の子孫なのか。
0018人間七七四年2016/03/12(土) 02:08:48.65ID:0+eC78e4
コーエーは信長の野望に下記の武将を追加するべきだな。

濱名備中守政明
濱名肥前守頼近
濱名三郎正國
濱名肥前守重政
濱名與三郎頼廣
濱名三郎兵衞
猿田新三郎信正
猿田彌三郎正綱
大屋安藝守政頼
大屋左馬允政景
大屋金太夫光重
大屋作左衞門重次
後藤藤九郎眞泰
後藤佐渡守直正
後藤角兵衞實久
安形伊賀守正道
安形刑部左衞門正秀
岡本源左衞門尉信久
0019人間七七四年2016/03/13(日) 01:02:52.00ID:Dlmlh6PJ
戦国武将・建部宗右衛門政遠公

 昔々、建部宗右衛門政遠という戦国武将がいました。
政遠は領内に重税を課し、領民からは悪評でした。
一揆が起きても全く聞く耳を持たず、武力で弾圧し、さらなる重税を課すほどでした。
 ある時、そんな政遠の前に、美少女が現われました。
彼女は領内の百姓の娘でした。
政遠はすっかり少女に一目惚れしました。
そんな政遠に彼女は言いました。
「領民を苦しめるのは、お止めなさい」と。
政遠は、「それならば、私の妾になるのなら、その願いを聞いてやろう」と言いました。
そして、2人は結婚し、すぐに子供ができました。
政遠は子供に、「我が家は『政』が通字だから『政』の字と、妾の名前の貴恵(キエ)から『恵』の字を取って、名前は政恵(まさやす)と名付けよう」と言いました。
しかし、これには貴恵も猛反対しました。
「あなたの家の通字の『政』の字と、私の家の通字の『胤』の字で、政胤(まさたね)にしなさい」と言いました。
既に貴恵に逆らえない状況になっていた政遠は、それをすんなり承諾しました。
領内から一揆がすっかり無くなり、税金も殆ど課さず、領民に対するいじめも無くなりました。
 ある日、突然、貴恵と政胤が家を出ていきました。
驚愕した政遠は城を留守にし、妻子を探しに向かいました。
主をなくした城では、家臣たちが「隣国から敵が向かっている」と大騒ぎになりました。
それは建部家の長年の敵である、椎名越後守親胤の軍勢でした。
親胤は、家臣の阿部平八郎と斎藤与五左衛門に命令し、政遠の城を包囲しました。
山名与三郎と南部七郎兵衛ら、政遠の家臣らも必死に抵抗しましたが、主がいなく、また、これまで減税して武力を補強していなかった城は、すぐに陥落しました。
政遠の城に親胤が入城しました。
なんと、そこには貴恵と政胤も一緒でした。
実は貴恵は親胤の妾で、政胤は親胤の実子でした。
こうして、政遠がいなくなった建部家の城は、椎名家の城となり、領内に重税を課しました。
領民は一揆を起こしましたが、すぐに鎮圧。
政遠の首を持ってきて、仕官しようとした領民も現われましたが、それも無視されました。
こうして、親胤と貴恵と政胤は幸せに暮らしましたとさ。
0020人間七七四年2016/03/13(日) 01:03:41.88ID:Dlmlh6PJ
戦国武将・建部宗右衛門政遠公

 駿河国の戦国大名・今川氏の家臣、遠江国の戦国武将・井伊氏の家臣・建部宗右衛門政遠は、領民に重税を課し武力を補強していました。
そのため領民は困窮を極めていました。
反対に建部氏の家臣らは贅沢を極めていました。
政遠は武力を極めることで、今川氏や井伊氏らの家臣の中で力をつけようと企てており、領内の政治のことには無関心でした。
ですから領民が声を上げても、政遠の耳には全く届きませんでした。
主がこの様なありさまなので、政遠の家臣らは腐敗堕落していきました。
領民に因縁をつけては、その場で刀を抜き領民を刺し殺したり。
領内の民家に強盗しては、良さそうな娘を強姦して拉致して監禁したりしていました。
この状況に異議を唱えた家臣もいました。
それが山名与三郎と南部七郎兵衛ら戦国武将です。
素行の悪い家臣らを捕まえては、その場で首を切り落としたりしました。
仲間が山名らに斬られたのをみた他の家臣らは、喧嘩を売られたと政遠の所に訴えに行きました。
政遠は山名らを罪人としました。
山名と南部らは濡れ衣だと訴えました。
しかし、政遠は領民に優しい山名らよりも、民家を強盗して得た金品や、拉致して嬲った後の女を分け与えてくれる家臣らを優遇しました。
山名と南部らはどうしようもできません。
そんなときでした。
隣国の赤佐源太夫直孝が、政遠の領内の酷さを噂に聞き、偵察しに来ました。
領内の現状をみた直孝は酷く憤りを感じました。
すぐに政遠を呼びつけ叱咤しました。
しかし、政遠は逆に直孝に恨みを持つようになりました。
政遠は家臣らの腐敗堕落を利用して、さらに領民を苦しめました。
領民には既に抵抗する気力もありません。
領内には女もいなければ、食べ物もなく、餓死者であふれていました。
そうこうしているうちに、領民の人口は1/10にまで減少。
しかし、家臣らの子孫だけは増えていきました。
人口が減り、領民から搾取できなくなった政遠は、武力も低下して、望み通りにいかなくなっていきました。
そんなときです。
山名と南部らが檻から脱出し、隣国の赤佐氏の領内に逃げ込みました。
そして、赤佐氏の軍勢は建部氏の領内に向かいました。
政遠や腐敗堕落した家臣らには、武力もありませんでした。
直孝は、家臣の阿部平八郎と斎藤与五左衛門らに指示し、建部氏の城を包囲させ、すぐに陥落しました。
腐敗堕落した家臣らは、一族共々全員が斬首されました。
政遠は、自らの元の家臣である山名与三郎と南部七郎兵衛らの下役として、赤佐氏の家臣に取り込みました。
建部氏の腐敗堕落した家臣ら一族を斬首したこともあり、家臣らの子孫ばかりだった領内の人口も、さらに減っていた状況でした。
しかし、直孝は、政遠の旧領を山名与三郎と南部七郎兵衛らに治めさせ、彼らに領内の復旧を任せました。
こうして、領内には、山名与三郎と南部七郎兵衛の子孫だけが増えましたとさ。
0021人間七七四年2016/03/13(日) 01:38:32.12ID:Dlmlh6PJ
戦国武将・建部宗右衛門政遠公

 時は戦国、六角氏が治める近江国に、宗次郎という百姓のせがれがいました。
宗次郎は本を読むことが好きで、仕事をしながら勤勉に励みました。
ある時、近辺を治める、六角氏の家臣・後藤越後守祐豊が、宗次郎の前を通り過ぎました。
宗次郎は祐豊に仕官を望みました。
祐豊は、宗次郎の勤勉さにひかれ、彼を家臣としました。
その後、宗次郎は、建部宗右衛門と名乗り、建部朝臣政遠という名前を持ちました。
政遠は祐豊の家臣として、300石を拝領しました。
その後、政遠は戦で次々と戦功を得てきました。
政遠は、祐豊の家臣の中でも、次第に頭角を現すようになります。
政遠のことは、祐豊の主である六角氏にもとどろく様になりました。
その後、政遠は、祐豊の下役として、六角氏の家臣となり、10000石を拝領するに到りました。
そして政遠は、今の地位に安住してしまい、幸せに暮らしましたとさ。
0022人間七七四年2016/03/13(日) 11:33:57.67ID:V8VCamT8
浜名氏が登場するゲームとか小説とかあります?
大河ドラマとかにでてこないかなー
0023人間七七四年2016/03/21(月) 08:46:55.65ID:ZCi6KKrB
むかし話の城主に頼近とか政遠という名があるけどこれは頼広と同一人物との考えでいいのです?
0024人間七七四年2016/03/21(月) 13:01:19.03ID:XU5RJbf/
>>23
頼近については、頼広とは別人だろう
頼広が逐電して取り残された浜名一族の中の一人に、頼近がいる
0025人間七七四年2016/03/21(月) 17:53:54.37ID:ZCi6KKrB
>>24
へぇ…頼近は別に実在してるのですねぇ
喉につっかえた骨が取れた気分ですわ、ありがとうございます
0026人間七七四年2016/03/22(火) 07:24:49.32ID:mbEWoipD
むかし話の「頼近」は、浜名氏系図の「頼親」のことだろう。
また、「政遠」も「頼近」だと思うわ。
浜名氏の通字は、源三位頼政由来の「頼」と「政」だから。
「頼」の反対の字の「政」と、「近」の反対の字の「遠」で「政遠」になった。
単なる誤差の範囲だと思う。

「頼親」=「頼近」=「政遠」
0027人間七七四年2016/03/27(日) 03:06:06.61ID:VrlY3wUJ
>>26そういう事ですか、たしかに説得力があります。
ということは2つのむかし話に出てくる城主と姫は同一人物で、どこかで話が枝分かれしたという事ですかね
0028クリスチャノ水戸2016/06/13(月) 19:46:52.29ID:jlZqYES4
!!注意換気!!
※常識的に事実でなければこの様な内容は書けません!
極悪人、押川定和の被害にご注意下さい。

我々は水戸のサポーターや関係者で押川定和の悪事の被害者を中心に集った団体だ。8割ぐらいはメインスタンドで観戦している。
押川定和は
『ゴール裏で戦う会』
のリーダーで元鹿島サポーター。
SNSで数千もの架空アカウントを作り水戸の関係者の情報を盗み出し個人のSNSを炎上させるなど攻撃を仕掛ける。
SNSで限界になると人を利用して情報を盗み出す。その人がその後どうなろうがお構い無しの使い捨て。押川に誰が騙されて巻き込まれるか分かりません。
皆さん注意して下さい。
Twitter、Facebook、mixi、超水戸、ニコニコ動画など可能な範囲で全てで悪行を行っている。
『悪行の事実を突き付けると全てを自演や同一扱いで煙に巻こうとする。』
悪行が事実の為、表舞台には出れないが2ちゃんねるで反応はする。
水戸の関係者になりすまして未だに水戸スレに書き込み続けている。
現在は悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
押川定和の悪事は犯罪の領域に達している。

押川は現在、悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
勤め先・株式会社WEIC(ウェイク)104-0053
東京都中央区3-1
http://www.ntt.com/bizhosting-basic/data/case2_1.html
0029人間七七四年2016/12/29(木) 06:53:57.15ID:IHs+gJGp
浜名正国って浜名氏の中興の祖なの?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています