トップページsengoku
1002コメント572KB

戦国ちょっと悪い話43 [無断転載禁止]©5ch.net

レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001人間七七四年2016/01/16(土) 17:41:29.13ID:8PHIYbdq
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話42 [転載禁止](c)2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1435340082/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話43 [転載禁止]©2ch.net [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1447636011/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
0002人間七七四年2016/01/16(土) 18:16:23.65ID:VQB9pWsr
>>1
スレたて乙。
0003人間七七四年2016/01/17(日) 16:57:13.23ID:F1FAFYEr
  ∧ ∧   
 ( ´・ω・)       >>1 大儀であった!好きな美姫を取るがよい
 ( ∪ ∪          ただし、自己責任じゃ!当方何があっても与り知らんぞ!
 と__)__)
 
             / ̄ ̄ヽ   ∞/⌒⌒丶∞   / ヾ丶     / ̄ ̄ヽ   ∞/⌒⌒丶∞
             | ノノ)ノ)))    <_Li(("))_>   |ノ从从|    ( ノノ( ノ)))    ( *((")) _)
             / │^ヮ゜ノ|     |│‘ヮ゜ノ|    ││゜σ゜ノ|   丿|│゜ヮ゜ノ|    丿|| ‘ヮ゜ノ| 
               おね      茶々       五徳       まつ      お市

             /⌒⌒丶    / ̄ ̄ヽ     /⌒⌒丶,    / ヾ丶     /⌒⌒丶
            |ノノ †)ノ)|    |ノ从从 |    | イ从|从)    |ノ从从|    ヽ从 从 _ノ
            丿ノ‘ヮ゜ノ(,    || ´ω`ノ|.   丿!#゜Д゜ノ|    ││;-;ノ|     ( ゜ヮ゜ )アーッ
             ガラシャ     新庄局      小松       亀寿       蘭丸

             /⌒⌒丶   ∞/⌒⌒丶∞   / ヾ丶     / ヾ丶オ     / ̄ ̄ヽ
             ( ノノ(-))))    <_Liミν )    |ノ从从|    ( ノノ)ノ)))タ    <_Li(("))_>
             ノ│゜Д゜ノ(    丿|│‘ヮ゜ノ|    ││ - ノ|    丿│^ヮ゜ノ|ベ   丿|│゜ヮ゜ノ|
              ァ千代      江与       瀬名       義姫       帰蝶
0004人間七七四年2016/01/21(木) 05:15:56.58ID:TEmnWNJ0
文禄の役の講和のため、大明・朝鮮の伝奏が来日することは、小西行長が石田三成を通して
報告していたので、秀吉もかねてより、馳走すべきであると、その歓待のため家臣を奔走させた。

伝奏が登城すると、秀吉は上壇に着座し、伝奏は次の間に置かれたのを、伝奏は通詞を以って
秀吉に訴えた

「日本国太閤秀吉、大明国に和を乞うた以上は我らと同輩である。
そもそも私は、この冠を太閤に御免なされる勅使なのだから、太閤の態度は無礼である。
太閤は次の間に下り、大王より御免なされた勅書、冠を頂戴すべきである。」

これを聞いた秀吉は以ての外に激怒し、小西が表裏を言ったのだと思い、
「この冠を捨てよ!」と命じ、庭に捨てさせた。
そして明皇帝からの勅書を台長老、哲長老に読ませ、その内容を聞いた所、小西が報告したこととは相違し、
先ほど勅使が言った通りの内容であった。

秀吉はますます機嫌を悪くし
「この秀吉を大明国王の婿とし、朝鮮四道を割譲すると、小西が申した故に、軍勢を釜山浦まで引き取り、
朝鮮の王子たちも返したのだ!どれほど後悔しても及ばない。小西を呼べ!!」

そして呼び出された小西行長を見ると、「こやつの首をはねよ!」と怒ったが、小西は色々と
詫び言を申し上げ、また石田三成からもたっての取り成しを申し上げたため、当座の難を逃れた。

しかしこれによって、異国と本朝は再び手切れとなったのである。

(續撰清正記)
0005人間七七四年2016/01/21(木) 23:02:07.90ID:XY4nnJys
親に不孝な人は運が悪いと申すことは天のなすことである。
 
 今武田流は軍学に一あって二ない軍学であるが、その軍学も間に合わず武田家が滅亡したのは何事であろうか。
 これは信玄公が父信虎公へ不孝であり、その他にも甚だ残忍なことがある大将なので、滅亡なさったのだろう。

 また、川中島合戦は古来から甚だ難しく、この戦で信州一円を信玄は領しなさりましたので、まずは勝ち戦の様に聞こえますが、
武田家は御舎弟左馬頭信繁殿をはじめ、歴々の名のある武士に討ち死にが多かった。
上杉家には格別名のある武士の討ち死を伝え聞いておりません。
 そうであるなら勝ち負けはまずなく互角の戦で、武田家は名のある武士を討ち死にさせて、信州一円を取りなさり、
上杉家は名のある武士を打ち取って、信州を武田家に渡されたということであろう。
(本阿弥行状記)
0006人間七七四年2016/01/22(金) 18:52:25.90ID:Ckr/msp4
蒲生氏郷は名護屋に陣していた文禄2年の春、俄に体調を崩し下血夥しく、諸医術をなしたるも
験無く本国の会津へと帰還した。
同3年正月、病をおして上洛した。この年の11月、太閤秀吉は氏郷の邸に入り、饗宴の事があった。
その後も氏郷の病は日々重くなり、40歳という、文禄4年2月7日、都において死去した。

『かぎりあれば 吹かねど花はちるものを 心みじかき春の山風』

この歌を、氏郷は仮初の筆ずさみのように書き残していた。
この歌についてこういう説がある

去る天正19年、九戸での戦いが終わり、石田三成は都に帰還すると秀吉にこう報告した

「今回、蒲生氏郷が軍を運用する模様を見ましたが、彼はただ人ではありません。
彼の軍勢が道を通過するのに、7日ほども引きも切らないほどでした。
その上一人も軍法を犯すものがありません。

彼は殿下のお為に、二心を持たない限りは、あのような御固め世にも二つとないでしょう。
能く注意して見ておくべき人物だと思います。」

これを聞いて秀吉は、氏郷に密かに毒を與え、それによってたちまち病に冒され、終に空しくなった。
氏郷はこのことを察していて、このような詩を綴ったのだという。

(藩翰譜)
0007人間七七四年2016/01/22(金) 19:48:52.60ID:8sLYXkgQ
徳川の世だし、悪口しかないよね
0008人間七七四年2016/01/22(金) 20:39:59.59ID:nTLumAyT
まぁ、結局辻褄の合わない話が多いね
後世の創作は…
0009人間七七四年2016/01/23(土) 01:51:56.84ID:OQs1dSBS
 唐土も本朝も、主君が征伐なさる官軍の他は皆貪兵と申すもので、戦に負け滅亡すると大将へ罪を負わせるものであります。
義兵は至って稀なものと考えております。

 これについて明智日向守(光秀)殿が悪人である事は誰もが存じていますが、
この人としても老年ということもあり、善悪の区別が無い人ではなかったが、信長公の御心が小さく
御身亡き後の信忠公の代で軍学といい、武術といい、その代に並びない日向守を生かしておいては、天下危うしという
信長公の深いお考えから、光秀に無理ばかり仰せられ、必ず謀反を起こすだろうという程の御仕置きをなされたので、
却って光秀が先をとったものと承っております。

 秀吉公とても忠義の人に非ず、信長公の御孫信秀公を天下へ据えられるところを、自分自身が天下をお取りなされました。
不忠不義は日向守も同じ事でありますが、秀吉公の悪はめぐり合わせがよく隠れているだけでございます。
(本阿弥行状記)

ここでは、本能寺の変は怨恨説ですね
0010人間七七四年2016/01/23(土) 08:57:07.53ID:sF8lhDa4
本阿弥はなんか太閤に親でも○されたの?
太閤の治世は色々問題があったとは言え、ここ最近の本阿弥系統の逸話は悪口が多いように感じる

悪い話スレだから仕方ないかも知らんが
0011人間七七四年2016/01/24(日) 01:52:33.44ID:1oPsJCju
豊臣秀吉は陸奥に赴く時、宇都宮で佐野天徳寺(房綱)を呼んで物語りをさせた。
天徳寺が武田と上杉の合戦の勢いが盛んであったことを語ると、秀吉は嘲笑い、

「おい天徳寺、謙信と信玄という坊主も早く死んだことは幸いであるな。

今も生き永らえていたなら、1人には薙刀を担がせ、1人には我が輿の先で朱傘
を持たせて馬の前に召し具したろうに、この世にいなければどうしようもない。

車懸りや座備が何だというのか。全て戯言である」と、言った。
(何條車がかり、坐備、皆戯言なり、とぞ言はれける。)

――『常山紀談』
0012人間七七四年2016/01/24(日) 02:14:30.64ID:Xhod1L9J
生きていたら織田がどうなっていたことやら…
0013人間七七四年2016/01/25(月) 01:40:42.53ID:GtrZCsB2
天正18年8月、豊臣秀吉は奥州会津・白河・二本松において90万石を蒲生氏郷に
与え、葛西・大崎を木村伊勢守(吉清)に与えた。伊勢守は登米にいて、嫡子の
弥一右衛門(清久)は古川におり、家来各々へ知行を分け渡した。

その中で岩手山を領する某という者は、自領内の農人の子を召し抱えて、小姓に
使っていて、いつも自分の髪などを結ばせた。

その某は前述の小姓の親に非分の事を言い掛けて苦しめていた。その親を、死罪に
すると決まった時、その小姓はいつものように主人の仰せにより、髪を結び掛けたが、
やがてその髪を取って某を引き倒すやいなや、一刀で某を刺殺した。

この事は誰言うとなく領内一円に知られ、たちまち百姓一揆が起こり、その日のうちに、
木村父子の家来を30余人打ち殺した。

これより一揆はますます大勢になり、国中が騒動に及んだので、伊勢守は古川へ
行って弥一右衛門と一所になろうと乗り出し、弥一右衛門は登米へ行って父と一所に
なろうと乗り出した。2人は途中で出会い、それから父子は佐沼の城へ籠ったが、
終いには家を亡ぼした。

――『明良洪範』
0014人間七七四年2016/01/25(月) 12:23:36.93ID:3Cxazat6
鬼武蔵大河出演が決まったそうだが例の逸話を全国ネットでやってしまうのか?
0015人間七七四年2016/01/25(月) 12:34:25.11ID:JTtuyOsL
農民相手に敗走する赤鬼っすかw
0016人間七七四年2016/01/25(月) 13:19:03.18ID:8+YSOaBQ
関所の逸話ですね。分かります
0017人間七七四年2016/01/25(月) 14:18:58.07ID:ugeCPIAk
>>14
例の逸話って、どの逸話?
26歳で死んだ人とは思えないほど逸話が多い人なので。
0018人間七七四年2016/01/25(月) 15:31:23.82ID:yWDanqGL
信州で鬼武蔵と言えば、国人たちに色々親切にしてあげてたよね
烏帽子親になってあげたり...
0019人間七七四年2016/01/25(月) 16:23:48.67ID:aCutGqKr
>>18
いい話だなー(棒)
0020人間七七四年2016/01/25(月) 16:45:41.45ID:w9485U0J
でも烏帽子親になって森姓与えても結局自ら殺しちゃってるけどね
0021人間七七四年2016/01/25(月) 18:18:57.84ID:SKaJqW/h
真田が主人公なんだから滝川さんがちょっといい話で去っていく中で「一方信濃では…」って感じで紹介されそう
0022人間七七四年2016/01/25(月) 18:21:02.32ID:mzR+6PaL
ヒャッハー状態であった…
0023人間七七四年2016/01/25(月) 18:55:04.65ID:ZMWEDtlT
天皇の名を叫びながら民間人を犯した関東軍と通底するものがあるよね
0024人間七七四年2016/01/25(月) 19:22:29.21ID:mzR+6PaL
獅子心王じゃないけど
鬼の意味がヒトによって違うよなw
0025人間七七四年2016/01/25(月) 19:22:46.51ID:ugeCPIAk
鬼武蔵のキャスト、まだ公表されてないんだな。
このスレの鬼武蔵みたいな、極端な悪者にしてほしくないが。
0026人間七七四年2016/01/25(月) 19:29:12.53ID:Oh2x50Ry
>>25
出てるぞ

森長可(谷田歩)
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/cast/mori_nagayoshi.html#mainContents
0027人間七七四年2016/01/25(月) 19:42:37.15ID:ugeCPIAk
ほんとだ。
でも、イケメンぽいけど年齢が高過ぎないかな?
0028人間七七四年2016/01/25(月) 19:44:14.85ID:RkQTRoUZ
森長可(谷田歩)
もし、この鬼武蔵が頭良くて権謀術「数」、「計」略に富んでたら
タニタ歩数計と呼ばれて
0029人間七七四年2016/01/25(月) 19:44:59.81ID:SKaJqW/h
江の信忠と同じ人らしいな…あんま覚えてないけど
野武士っぽい感じだな
0030人間七七四年2016/01/25(月) 19:48:47.09ID:RkQTRoUZ
しかし今までなら、「森蘭丸の兄」と説明がつきそうなもんだけど
もう森長可単独で知名度高くなったから、弟については書いてないのか
0031人間七七四年2016/01/25(月) 21:15:34.06ID:6uxYqnph
まぁ元々可成の跡継いだ森家の棟梁と言えば長可の方なんだし今までが空気過ぎたんじゃないのか
0032人間七七四年2016/01/25(月) 23:29:18.20ID:8+YSOaBQ
なんか最近は森蘭丸の影が薄くない?
蘭丸くんの逸話とかあんまりないのかな
0033人間七七四年2016/01/26(火) 06:01:49.94ID:aR5Bs2au
たしかに、歴ヲタの間では、なぜか微妙に影薄いな>蘭丸
ゲームでもいるにはいるけど、やっぱ微妙にキャラ立ってないし
0034人間七七四年2016/01/26(火) 07:38:18.96ID:aRcSoxjZ
小賢しい逸話しかないからな
本能寺が宿舎になったのもこいつのせいだし傾国美童といっていい
0035人間七七四年2016/01/26(火) 10:05:00.54ID:0IydTtIn
20前で死んでる小僧だしそう目立った逸話は本当はない
0036人間七七四年2016/01/26(火) 13:06:33.49ID:S9dHEqe8
武将というより事務官だからしょうがあるめぇ
0037人間七七四年2016/01/26(火) 13:12:50.25ID:Kn7fuvcZ
使者や奉行もやった仙千代やQ太郎とは違って内々の事しかやってない段階で死亡だからな
0038人間七七四年2016/01/26(火) 17:01:09.85ID:H4d7WJ4x
生駒壱岐守高俊は、藤堂高虎の外孫であり、土井利勝の婿であった。しかし彼は天性愚かなる人物で、
世の笑い草に成る事ばかり多かった。

生駒家の家老、石崎若狭・前野助左衛門という者二人は常に江戸にあり、中でも前野一人が
計らいとして生駒家全体を差配していた。それは在国している家老等には納得出来ないもの
ばかりであったが、前野は常に「御舅土井殿の仰せである」或いは「幕府執政の人々の旨を得ている」などと
言い送ったため、「ならばかの人々の仰せに背くのは、家のため然るべからず」と、曲げてその旨に従った。
そのようであったから、生駒家の政治は日々月々に善からぬこと多くなって行き、武士も領民も怨み苦しんだ。

ここに至り、在国の家老である生駒将監は「このままでは家が滅びるのも遠からず」と、密かに江戸に参り、
幕府の執政の人々に「高俊が家の事すべからく、早く関東よりのご沙汰を止められ、父祖の例によって
国の静謐を致すべきです!」と訴えた。

これを聞いた執政の人々大いに怪しみ、先ず前野助左衛門を召喚して尋問した。しかし前野は
「皆様の御下知を承らない事を、私がどうして国元に申し送るでしょうか?」
そう陳じた。このため生駒将監。前野助左衛門の両名を召して対決させた。

生駒将監は何も言わず、懐中より一枚の書状を出して執政の人々に捧げた。
彼らがこれを見てから「それを前野にも見せてください」と申し上げた。
前野はその書状を見ると思わず吹き出し、執政の人々に向かって言った

「これは将監の元から鯛二つが送られた時、私が送った礼状です。一体どういう意味があってこんなものを
ここで披露するのか。こんな不思議の事をやるような男ですから、今回のように跡形も無いものを訴えたり
するのですよ!」

将監、人々に向かい
「この書状は前野自ら書いたものか否かを尋ねて頂けますか?」
前野は人々より聞かれるより早く「勿論私が書いたものだ」と応えた。

「ならばその書状を返していただきたい。」そう言ってこれを再び懐中に戻すと、今度は別に大量の書状を
取り出した。それは数年に渡り、前野が、土井利勝を始めとした幕府執政の人々の仰せを承ったと騙り、
自らの心のままに国務を沙汰した文書であった。それらは全て、前野自身の筆跡であった。

ここに至り前野は争う様子もなくひれ伏した。執政の人々大いに怒り、彼を即座に搦め捕って禁獄した。
そして即座に生駒高俊およびその家臣たちを召喚し

「高俊が天性愚かである事、知らないわけではなかったが、父祖の功を捨てられぬため家を継がせたというのに、
このように家が乱れた上は、今後国を与えておくわけにはいかない。
しかし、心が至って愚かである以上、その罪も重くはない、とも言える。」

そう沙汰し、別の義を以って所領一所を賜った。
前野は一族尽く誅せられ、石崎若狭は、同じく江戸にあり、前野の振る舞いを見ていながら彼に従ったこと、
その罪逃れるべからず。しかし前野とは罪の科は同等であるべきではないと、誅殺は彼自身のみに留まった。
その他の家臣たちも、その罪の軽重によって尽く刑が行われたという。

(藩翰譜)

「馬鹿だから罪一等を減ずる」というのもひどい話ですな。
0039人間七七四年2016/01/26(火) 17:13:55.78ID:Kn7fuvcZ
現代の精神鑑定してなんちゃらってのと同様やね。昔の記録にもちょくちょく出てくる
00401/22016/01/26(火) 23:45:07.38ID:qMlN0UKE
 太閤様は朝鮮陣の時のことです。大明から加勢として名将李如松が三十万騎の総元帥として来たので、日本勢は小勢なので敵わないと、
朝鮮の都を立ち退きました。そこで、加勢の事を朝鮮から次々とお願いに来ましたが、大神君と加賀公の両公へご相談があったといえども、思った程には軍勢が整わなかった。

 殿下は小国に生まれましたので、口惜しくも軍勢が整わなかったと落涙されたという。
一応はその理が無いことではないが、殿下は不学なのでただこのような御上意をなされた事はもったいない事である。
中華とて格別に軍勢が有り余ることはない。民兵と申すものを拵え置いて、用のない時は百姓に、戦の時は組を取り決めておき、官軍にさし加わって働きます。
その方法の子細は中華の書にある。もっとも中華といっても時代によって違うというが、まずは大体この方法で軍勢を拵えると聞いております。
 または乱世では亡命無頼の者が最終的に天下を取ることもあります。このような事は日本神国で昔から無かったのは、無類の神国であるからと思われます。
殿下が遠征を思われたときにかねてから軍学者とご相談がありましたらこの後悔は無かったでしょう。
 その賢慮がなく却って本朝を小国と後悔されたことは、禁裏に対し甚だおそれあるお一言であり、諸事思い違いが多かったので、御代は永くなかった。
00412/22016/01/26(火) 23:46:14.21ID:qMlN0UKE
 殿下は総じて他国との取り合いを御存じなく、下賤から日本を手に入れなさった考えでは、大明からの加勢で大いに思い違いをなされました。
このように、上見ぬ鷲とやらであり御利運になっても、朝鮮と我朝は海路で隔たっているのに、そのうえ秀次公のような人柄、器量が少しもない人を関白に進ませながらの御遠征は
始終のところ何の益もなく、兵は貪兵と申す類となり、朝鮮大明人などは倭奴入寇とけなす事は本朝の恥と言えます。
 終いには大明のあぶれ者の沈惟敬と申す説客が、大いに大明と日本をだましました。
この一件は小西行長、沈惟敬の受け持ちであり、大明から王号衣冠を贈られたことを、殿下は大明から我朝の尊さゆえに贈られたと心得られていた所、
その文章が甚だ横柄で、日本国王に封じたので朝鮮国王と和睦せよ、との事であったのでまた取り合いが始まった。
 この事は中華は外夷へ王号を贈り、中華の正朔(暦と年号とのことである)を請けるという事からきている。
つまり琉球なども薩摩公の御下知に随いながら、中華の正朔を請けており、中華の勅定によって王号を代替わりに申請しており、
外夷はみな二八月に貢物を捧げることなど、全く御存じなかったので、殿下は大いに思い違いをなされ、終いにつまらぬ和睦となってしまいました。

 なんにせよ民兵の事は天領私領問わずいてほしいことである。また民兵が始まりましたら、これまで書いてきました様に、甚だ工夫が必要な物だと思われます。
(本阿弥行状記)
0042人間七七四年2016/01/27(水) 08:33:42.92ID:QK5rajFN
土井大炊頭が、坂崎出羽守愛用の三池典太の脇差を所望し、家臣の寺田某を
坂崎の屋敷に遣わした。寺田から話を聞いた出羽守は
「大炊様から脇差を所望されたのは、名誉なことである。斬れ味
を確認して頂いた上で進呈することとしよう。」
といい、家老を呼び、罪人がいるかどうかを尋ねた。
家老が
「今日はいません。」
と答えると、出羽守は
「昨日、不始末をし叱ったでかした坊主がいるだろう。そいつを
連れてこい。」
といい、連れてこられた坊主を木に吊るし、その脇差を抜き打ち
に胴切りにし、坊主の体を両断した。その一部始終を寺田に
見せた上で、脇差を渡した。

坂崎の凶暴さとともに、脇差の抜き打ちで胴を一刀両断にする
恐ろしい腕の冴えを伝えるお話し。

「元禄世間話風聞集」
0043人間七七四年2016/01/27(水) 10:07:02.40ID:bmM4omYX
試し切りされる程の不始末ってどの程度の物なんだろ?
三才様家の庭師レベルなんだろか?
0044人間七七四年2016/01/27(水) 12:27:56.12ID:+L0D7x0A
銘「大炊、刃に丸」
0045人間七七四年2016/01/28(木) 01:54:28.78ID:jd9xfX/V
土井利勝に刀をもっていかれてムカついたんだろうなコレw
0046人間七七四年2016/01/28(木) 08:10:08.01ID:mxjf220e
古田織部正は、古くから伝わる器などが完全に保存されているのを、「あまりに思うところがない」として
好まなかった。されば、書画のような物でも、かしこを切りここを裁ち、普通の茶道具も、多くは破損させ
或いは砕いて、それを再び補修し、継いで用いた。世の人々はこれを興あることと思い真似たため、
世の中から全き物は無くなってしまうようであった。

松平伊豆守信綱の実父である大河内金兵衛久綱は、古田織部について近くの人々に、
「彼は必ず禍に巻き込まれて死ぬだろう」と言っていた。
後年、織部は罪を蒙って誅せられた。
人々は大いに驚き、久綱に聞いた
「あなたはどうして、織部があのようになると知っていたのか?」

「古の宝器と聞こえた物も、世々の乱に多くは紛失し、現在まで残っている物は、皆神仏によって
護持されていたからこそ、このように世に残ったのです。それを、己一人の好みに合わせて破損させると
いうのは、必ず鬼神の憎むべき行為でしょう。ならば、それをしている人もまた、身を全うして終わることを
得られない。そう思って言ったのです。」

これは名言であると、古き人の物語を承った。この事は萬に渡り心得あるべきだろう。

(藩翰譜)
0047人間七七四年2016/01/28(木) 13:10:40.58ID:WL2rLY7i
言いがかりだなぁ…
たまたま当たったからこうやって記憶にも記録にも残されてるけど
外していたらあっという間に忘れ去られているだろうよ。

安藤さんが本多正純の失脚を言い当てたのも同じようなもんだな。
0048人間七七四年2016/01/28(木) 13:15:29.13ID:WL2rLY7i
織部のやつ怪しからんって思うのは個人の勝手だけど、織部には織部の思うところ(豊臣の存続?)があって

それの実現のために動いた結果、徳川政権と相容れなくなった。つまり結果論だろう。
0049人間七七四年2016/01/28(木) 13:23:35.17ID:my13jaj9
DQN眼竜「ほんま名物壊すとかロクでもないな」
0050人間七七四年2016/01/28(木) 14:36:46.95ID:jd9xfX/V
破袋みたいなゴミをありがたがってる織部の審美眼はかなり怪しいw
0051人間七七四年2016/01/28(木) 14:59:43.17ID:nTarwUBU
審美眼は人それぞれだから何とも言えないけどわざわざ壊してまで好みに合わせるってのは凡人にはよく分からんなあ
自然に壊れたものに金継ぎしたり鎹打ったりしたものが味が出て喜ばれるってのなら分かる気もするけど
0052人間七七四年2016/01/28(木) 15:06:16.95ID:et56NdCV
 私達が一年加州へ御用に下向して逗留している時に、御台所の勘定奉行がひどく使い込んでしまったので、
退役閉門、知行の内から毎年返納するよう仰せ付けられたということがあった。
 その人は常々懇意であった人だったので特別に気の毒に思った。

 この背景には利家公はきわめて御憐憫の深い君であったので、御家中で百石から千石の侍衆で身持ちが放埓でない貧しい人々を吟味して、
順番に御台所の勘定奉行に仰せ付けられたことにあります。彼らは捨てられた物を拾い、余った物を売り払い、先ずは横物成の類から着手していって、
一ヶ年毎に勤めさせてもらったので、君のおかげで身の上を取り直してきました。
 
この度の使い込んでしまった人は一粒一銭の私物化もなかったが、吟味が足らず、下に勤めている者らに対し、
様々なものに条件の良い値段をつけたので、御台所の出費がいつもより一ヶ年で三千両ばかり高く必要であると申し上げた。
そのため不足分を負債としてしまいました。
 この人はきわめて篤実な人ですが、器量がなかったのでこのようになってしまった。

 これにつきましては、親にひどく孝行して国家の用に挙げられたが、才が足らなかった人がいることを思い起こします。
 孝行といえばただ一道にして、その孝行には事情や立場あると考えられます。
(本阿弥行状記)
0053人間七七四年2016/01/29(金) 02:11:06.15ID:cFB0egY4
安藤彦四郎はこう語ったという。

「武士の身の上には“伊達”というものがあるが、心得ている者は少ない。
武士の伊達には、討死にまさるものはあるまい」

――『武功雑記』

大坂夏の陣の時、安藤帯刀(直次)の子・彦四郎重能は、徳川秀忠の小姓の
成瀬豊後守(正武)の組であった。

彦四郎は常々人に語り、「およそ武士というものは、長生きして度々戦場に出て、
武功は多くとも死なずして世を送っては、格別に優れた勇士とは言い難い。ただ、
討死することこそ本望である」と、言った。

5月7日になって、彦四郎は「一番首と言わば彦四郎と思いなされ、一番に
討死と言わば、それも彦四郎と思いなされ!」と言い、撓いの指物を巻いて
井伊直孝の先陣へ行った。

そこで彼は庵原助右衛門(朝昌)に向かって、「いざ掛からん!」と言った。
しかし庵原は同意せず、「敵の待ち受けている矢先へどうして掛かることが
できるだろうか!」と、言った。

これに彦四郎は「待ち受けている矢先へ掛かってこそ勇士と言うべきである!」
と言うが、庵原は「いまだ早い!」と言って攻め掛からない。

すると彦四郎は、「さらば私が掛かってみせん!」と言った。庵原は彦四郎を
押し止めたが、彼はまったく躊躇わずに敵の中へ駆け入って討死した。

さて、父・帯刀は馬上で采配を取って諸軍を命令していた。そこへ従者が駆けて
来て彦四郎討死の旨を告げ、「屍をいかがいたしましょうか」と申し上げた。

これに帯刀は「犬に食わせよ」と言いながら、崩れた味方を立て直した。その後、
合戦が終わると、帯刀は大いに嘆いたということである。

――『明良洪範』
0054人間七七四年2016/01/29(金) 03:22:56.23ID:i2sa2dX4
匹夫の勇ってやつかね
子育てに失敗した悪い話だな
0055人間七七四年2016/01/29(金) 10:43:13.93ID:p3p9MENe
ヴァイキングの社会では戦場で勇敢に戦って死ぬとエインヘルヤル
としてヴァルハラに行けるが、天寿を全う、病死、海難事故は藁の死と言われて
地獄行きの恥ずかしい死に方とされていた。

鬼武蔵こそ大正義
0056人間七七四年2016/01/29(金) 11:02:32.71ID:Rw0/EE71
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-684.html?sp&;sp
犬に喰わせろ、の話は既出
0057人間七七四年2016/01/29(金) 12:49:15.38ID:Rw0/EE71
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3368.html
伊達も出典はないが既出だった
0058人間七七四年2016/01/29(金) 14:25:15.09ID:uO/yXBy0
い、伊達
0059人間七七四年2016/01/29(金) 19:20:01.82ID:gZducy7M
一番首(討ち死に)=ファーストペンギンの役目ってことなのかな?
自軍を鼓舞するには手柄あげるにしろ死ぬにしろ勇敢に奮戦するところを見せること

ちなみに彦四郎殿は南龍公の茶入だかを酔った末に破損
→自害も覚悟したところを許してもらっており、拾った命と思っていたのもあるんじゃない?
0060人間七七四年2016/01/30(土) 12:34:06.81ID:OQaqTFvJ
   おきて

一、足さすり候とき、居高なるていをし候者においては、ふちふち十石返させ申すべく事
一、湯殿の裏への供番、代わりたるべく候事
一、秀吉・お祢に口答え候はば、一日一夜縛り申すべく事
以上

天正十三年十一月廿一日 でんか

( 豊臣秀吉文書集二 1757 足さすり等掟)

ちょっとブラックな豊臣家が垣間見える掟
(読みづらいので原文より漢字を増やしてます)
0061人間七七四年2016/01/30(土) 14:30:24.35ID:g4DmB2LH
>>60
この時代はどこもこうだったのか、それとも厳しい方なのかわからん。
0062人間七七四年2016/01/30(土) 14:59:09.43ID:ZGufmnku
天正十三年十一月だと関白になって四国平定した後くらいかな
0063人間七七四年2016/01/30(土) 22:00:54.95ID:+Q47h22A
>>11
そういえば、乃至政彦「戦国の陣形」っていう近頃出た本で陣形についての話が載ってた
要点を書き出すと
・律令政治の頃は大陸や朝鮮との関係悪化の可能性があったため、大規模な動員を可能にし、それなりに陣形も研究していた
・常備軍が必要なくなると、各々の領主が部下を率いるという形で全体を統率するようなことはなく、陣形は不可能であった。
・文献で「魚鱗の陣」「鶴翼の陣」「鳥雲の陣」などはたしかに見られるが、それは単に密集とか散開などを意味するだけで大して意味はなかった。
・戦国時代になってやっと大名による大規模な動員が可能になり、おそらく山中勘助が八陣を耳学問ででっち上げて信玄に具申し、陣形をとることにした。
・しかし、信玄に追い詰められた村上義清がやぶれかぶれで兵種ごとに統率した戦術によって陣が崩れ、信玄も負傷したため陣形の重要性が薄れた。
・上杉謙信は亡命してきた村上義清の戦術を大々的に組織し、信玄と度々対峙したため、北条氏なども五種の兵種に分けるという戦術を採用。
・川中島の「車懸り」というのも、実は螺旋状の陣形ではなく、単に上杉家の戦法のひとつで八陣とは関係なし。
・織田や関西勢力も上杉らとの戦いから、だんだん五種の兵種に分けて統率する手法が主流となり、陣形などは顧みられなくなった。
・そもそも実際の戦争は流動的であり、両者が互いの人数を確認したうえで布陣、などはほとんどない
・江戸時代に入り、甲州軍学が流行したため、山中勘助の言っていた「八陣」が戦国時代の主流と勘違いされた。
・なお、陣形の元祖である中国大陸でも、「八陣」という名はあったので、孔明たちが研究。
・孔明は思考実験をしていたのだが、後世、孔明の「八陣」と称するものがあらわれ、もともとは「8つの陣」を主軍の周りに配置、という意味だったはずが
いつの間にか「8種類の陣」と意味が変わってしまっていた。
・結論:中国の「陣形」も日本の「陣形」も実戦ではほとんど意味を持たなかった

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4460.html
で真田信之が「戦闘開始後、敵と味方の勢いを見て随時補強が先決、陣形などは二の次、三の次」
というような事を言っているが、実戦の経験がある武将には合戦譚などは笑止千万だったんだろう
0064人間七七四年2016/01/31(日) 09:01:17.81ID:hehjqzBp
乃至は人間として駄目だ

@prometheus1575 ごツイートに大変勇気づけられました。一般書のみならず論文もまたインターネットで批判する意味がないですね。みなさん現行の学者でないにも関わら歴史学を代表して発言されるので、歴史学はそういう世界なのかなと考えさせられていました。

https://twitter.com/naishimasahiko/status/693294325078192131


こんなことを平気でいう奴に未来はない
0065人間七七四年2016/01/31(日) 14:46:26.08ID:dYdpsyyl
不利になれば重いもの置いて逃げるのが一兵卒だもんな
予備兵投入するか督戦しないと瓦解する
0066人間七七四年2016/01/31(日) 16:18:16.06ID:12F+pkU1
>>63
最近は軍事学本増えてうれしい
軍事オンチがこの手の本を書くなやってのは置いといてw
0067人間七七四年2016/01/31(日) 20:14:35.20ID:QPFGXANS
ある人の語った所によると、山崎家盛の妻は、池田勝入の娘であり、池田輝政の
妹であったが、彼女は極めて見目悪く、そして手足の力は人にはるかに超えていた。
そのような女性であったので、夫婦の仲も睦まじいとは言えないものだったが、
彼女はそれに怨む色も見せなかった。

さて、大阪の奉行たちが軍を起こした時(関ヶ原の乱)、輝政は家康とともに東国にあり、
彼の北の方は大阪に置かれていた。この北の方というのは徳川家康の娘であり、家盛の妻からすれば
兄嫁に当たる。
この時、山崎家盛は大阪に留められ、西軍より中の渡の新関の守備を命ぜられた。
しかし、元より東軍に心を寄せており、色々と謀って輝政の北の方を盗み出し、彼女と、
自分の妾、及びそれの産んだ子を、居城である三田の城に落とした。そして奉行たちが
輝政の北の方を奪い取り人質にしようとしたなら、親戚の好によっていかにも欺き、
叶わぬ際には自ら腹切ろうと思い定めていた。

ところがこのような所に、奉行衆が細川忠興の妻を取り損なう事が起き、その後
「東国に下った人々の人質を取るには及ばない。しかし大阪に在る人々は人質を上げるように。」
との命が下った。

山崎家盛は妻を参らせようとしたが、夫からそれを聞いた彼女は、夫に近づくとその手を捕らえ、
守り刀を引き抜いて喉元に当て

「古より、妻が夫の身代わりになった例は珍しくありません。ならばどれほど、普段から情けのない
関係であっても、夫となし妻となったからには、あなたの身に代えるべき人がなければ仰せに従うでしょう。
ですが、これはそういう話ではありません!

先ず、あなたは私の兄嫁を、内府の姫君であるからと、命をかけて盗み出しました。
また愛おしく思っている妾を、幼い子供を付けてこれも同じく落とし、命に代えて守りました。
一方、私はその間留め置かれたままで、今人々の手に渡れと言うのは、あまりに恨めしきお計らいでしょう!

私はそんなつれない人のために命を失おうとは思いません!
それでも行けと言われるのなら、私も思うところがあります。さあ、いかにやいかに!?」

そう刀を突きつけて言われると、山崎家盛は大いに恐れて言った
「あ、あなたがそう言われるのも道理である!私の過ちを許してほしい。
この上はどうしてあなたを人質に参らせるだろうか!」

「ならば、あなたの過ちであったという言葉に、偽りはないと誓って下さい。」

家盛は神仏にかけてとこれを誓った。すると妻は

「私は普段から怨みに思っていなかったわけではありませんが、色に出して見せないようにしていました。
しかし今このように本心を顕した以上、再びあなたとまみえようとも思いません。」

そして供をする侍女2,3人を召し、伝馬を借りてそれに打ち乗るとそのまま三河国へと駆け、
兄輝政の城に下り、やがて尼となり天久院と名乗った。

その後、この人の住む所に盗賊4,50人ほどが押し入ったことがあった。
この時天久院は大薙刀を手に取ると走り向かい、彼女に向かってきた者3人をなぎ倒し、
残る奴原を散々に手負わせて撃退した。
池田勝入のような人の娘であるから、心も剛で、理にも通じた人であったと伝わる。

本当かなあ?(実事なるにや)

(藩翰譜)
0068人間七七四年2016/01/31(日) 20:46:40.25ID:Kg5LzJi3
水野勝成は天正十五年、関白殿が筑紫に向かった時、肥後国に渡り
(都にて闘争し、人を討ったので肥後に行ったとも言う。本当であろうか?)
佐々陸奥守成政に仕えて、国人等が乱を起こした際所々の戦にて高名した。
成政が滅んだ後、小西摂津守行長に仕え(千石を領すると云う)
そこを出て(また人を斬って退去とも言われている)
加藤主計頭清正に仕えるが(千石を領すると云う)
またここも去って(ここにても人を斬ったと云う)
豊前の国へ行き、黒田甲斐守長政に仕えた(千石を領すると云う)。

長政が船に乗って大坂に上がる際、勝成を召し、帆柱にある縄を解けと命じた。
勝成は「自分は心が猛しと言えども、このような技に慣れていない。
これほど走る船の帆柱に登れとは奇怪な事を言う人だ」と腹を立てたが
断るのもさすがに口惜しと思い、帆柱に登り、縄を引き解いて下り
「このような辟事を言う主に仕えるに益なし」と
その夜、船が着いた所より立ち去った。
このような事であったので、畿内も九州も皆たたずむべき所がなくなり
備中国に隠れ住んだ。

(藩翰譜)
0069人間七七四年2016/01/31(日) 20:57:33.56ID:/4NCAMRO
>>67
一方、姉?の池田せんは花隈城主として鉄砲隊を率いてた
もし、鬼武蔵の嫁さんがこっちの妹の方だったら
どんな子供が生まれただろうか
0070人間七七四年2016/01/31(日) 23:26:42.51ID:dzmKXgHh
>>67
『犯したる!!』のねーさんみたいな人だなw
0071人間七七四年2016/02/01(月) 00:02:19.34ID:xg2IiiUZ
枢斬暗屯子さんかよ
0072人間七七四年2016/02/01(月) 17:44:54.90ID:ttxrTago
>>67
作者も疑ってるのが面白い。
0073人間七七四年2016/02/02(火) 10:13:31.55ID:8nDx0e9s
>>68
の続き

この後勝成、乗乃助と名を変えて、毛利が家人、備中国の住人三村紀伊守という
三千石を領する人の家に行き、十八石の禄を受けて仕え、この国にて子息美作守をもうけた。
あらたまの春となり、三村が家に椀飯の事があり、饗膳をはり、茶を賜る事があったが
下様の人には及ばなかった。
勝成、さすがに昔を思い出し、どうにかして飲みたいと思ったので
茶を点てる童坊に近寄り、手をつかねて、事なさげに
「我にもお茶をたまわれ」と言うと、この童坊
「これはうえさまの人々に給はるもので、おこと等にまいることは叶わず」
勝成これに対して
「さればである。それゆえこうして望んでいるのだ」と言ったが
つれなく聞き入れられず
勝成「侍ほどの者に飲食の物にて恥は見せぬものだ」と言うと
童坊カラカラと笑って「おことも侍の数に入るのか、ああおかしい」と言ったので
勝成、大いに怒り、大の眼に角を立て、はたと睨んで
「憎っくき今の言葉かな、思い知らせてくれん」とつぶやきつぶやき立ち出でて
この童坊が茶の事終わりて帰る所を、ただ一刀にて斬り捨て
ここを去りて都を指して登って行ったと言う事である。

(藩翰譜)
0074人間七七四年2016/02/02(火) 13:36:56.89ID:SLtLAPZq
水野勝成はほんと生まれる時代を間違えなかった
0075人間七七四年2016/02/02(火) 14:56:38.29ID:/5a0my5b
>>73
ただ、勝成に限らず戦国時代に侍を挑発すれば、切り捨てられてもまあ当然。
0076人間七七四年2016/02/02(火) 21:41:31.05ID:euXDDpox
これでも水野家ではまともな人だったわけだが
0077人間七七四年2016/02/03(水) 01:25:22.33ID:nCCVptJZ
 学問を好む人がまたしても仏をそしり、韓退之の仏骨表をほめそやして、
梁の武帝が台城で逆臣侯景により飢え死にさせられた事に対して、『この武帝が仏を信じたため餓死されたのだ』と笑うものはわずかである。

 しかれども韓退之の一生を聞き伝わると甚だ不人柄で、時の執権にこびへつらって京兆の司(日本ノ所司代ニ準ズ)になられたようである。
大いに笑うべし。ただ物知りとはほめ申すべし。
君に忠臣、民に慈愛ある、国家の用に立つ人ではさらさらない。

 また梁の武帝が仏法の信仰が厚く、それゆえに侯景に餓死させられたのではさらさらない。
父子の恩愛を大いに間違えた人で、昭明太子が憂いながら死なれたことをわきまえるべきだ。その訳は史書に詳しい。

 その他、漢代で賈誼という人が、天下の田地・商人の元手まで平等にしようと致されたのを、陳平・周勃らが大いに讒言したので失脚された。
後にこの賈誼は江南の諸侯の附家老となり早世されたという。
 かの賈誼などが、所謂腐れ儒者と申す者である。例えば兄弟を同じくし、百姓ならば田畑、商人ならば元手銀を同じに渡しても、
その身の幸、不幸でいろいろとなるものである。小さいことですらこのようである。
まして天下一統平等にしようという事は、管の中から天を見るに等しい。
自己の少量の見識で造物主の御気に違い、埒もない事を申し上げ、ついには天の御罰を蒙ったのか,
たった三十歳ばかりで死去、ああ恐るべし。
 彼が申す事を用いなさったら、漢家四百年の基礎となる事業はどうしてたもてただろうか。

 儒仏ともその人の用い様で治乱あるが、中華の歴代を考えると、天下を乱した博学高才の学者は多い。
学問を好むとも、文華の学問は用いてはならない。
 特に天下の政務に仏法は甚だよろしく、上宮太子などが所々に寺を御建立されたことでわかるでしょう。

 今もてはやされている林道春などは、太子をそしり、兼好法師の徒然草、源氏物語をそしられています。
このようなことは、朱晦菴の遺風を真似られていることと、我々はおかしくおもっています。
(本阿弥行状記)

さすが代々の法華宗の本阿弥一族
仏嫌いの林羅山に容赦ない
0078人間七七四年2016/02/03(水) 08:01:35.51ID:bT7LTetB
備前守(浅井長政)の嫡子に万福という者がいた。越前に人質として
送り遣され、越前平定後は加賀国に行って隠れていたが、

盲人となったので、母、または祖母公(信長の母)を頼って出たところ、
近江国木本にて信長により誅殺された。

――『当代記』
0079人間七七四年2016/02/03(水) 11:18:19.84ID:zF8xJyop
>>73
勝成は水野側の資料(主張)がホント酷い。
例えば大坂夏の陣では後藤・真田・明石・薄田等
名だたる武将は全部水野家が討ち取り
越前松平、家康の窮地をも救って大坂城内一番乗りとかそういうレベル。
白石先生は藩翰譜でそういうホラ話は採用せずに淡々と記述してるが、その点はさすが。
0080人間七七四年2016/02/03(水) 19:39:36.83ID:IZjFTMLJ
白石と羅山、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い
0081人間七七四年2016/02/03(水) 19:43:52.65ID:DQrJ04RJ
徳川家の半分は水野家のDQNの血統で出来てます。
特に越前家に濃く出てます。
0082人間七七四年2016/02/03(水) 20:02:37.17ID:DQrJ04RJ
≫79
そんなの言ったら真田の方が酷いだろ
真田十勇士とか無茶苦茶じゃないか
0083人間七七四年2016/02/03(水) 20:56:53.62ID:zF8xJyop
水野の場合は家伝、つまり藩の公式見解がぶっ飛んでるってこと。
松代藩の記録には十勇士が出てこないでしょ。
0084人間七七四年2016/02/04(木) 02:26:28.65ID:SO9y3j9I
 親類の中にひどく貧しい人がいるのは一家の恥である。何とぞはなるべく助け合いなさい。
貧しい人がいないようにするべきことは、人間第一の事である。

 前に御大将方について残忍であることを申しました。
この残忍というのは親類を倒し、父子兄弟を殺し、時が来ていないうちは志をたわめて自分の悪念を隠し、勢いに乗った時に功臣を殺すなど、
不仁のことがあまたあることである。
 その中でも、信長公は仏神に悪く当たり、日枝山を焼き、弟を殺し、功臣を殺しなさった事のように、ひどく残忍大過の君であった。
それゆえ明智により落命、御子孫はあるのかないのかわからないほどとなり、信雄公と有楽齋はその家の武備には疎くて、
むしろ茶事に名があるようなことは残念なことである。

 おおよそ聖人に近い君は中華では後漢の光武帝、我が朝では東照宮、この両君を除いて後の世の人はわからないが、
当御代まで決して他に聖君がいたとは知らない。

難有る時代に生まれました事と毎度落涙しております。

また、残忍の志は下々にもずいぶんあることです。よくよく慎むように。
(本阿弥行状記)

信康は…まぁしょうがないよね
0085人間七七四年2016/02/04(木) 06:34:50.07ID:TjKaqYJR
この頃には、徳川家をはばかって信康はあまり知られてないか
信長のせいにされてたのかもね。

てか、本阿弥が大好きな日蓮宗は信長、家康が揃って懲罰してるけど
いいのかなぁ
0086人間七七四年2016/02/04(木) 07:53:35.67ID:Zu+5XOiX
>>85
日蓮宗全体を禁じてるわけじゃなくて、過激派の不施受派が弾圧されてるだけだろ
0087人間七七四年2016/02/04(木) 08:46:37.67ID:wXRNGBqO
本阿弥家がそこまでイエヤスキーになる理由って何よ

信長秀吉に比べて全然態度が違う。いくら最終的な勝者とは言え…
0088人間七七四年2016/02/04(木) 09:12:19.19ID:gntg+EyP
>>87
信長は天下が確定する前に死んでるからともかく、秀吉に関しては特に晩年は、政権と繋がって既得権得ている人間以外は
「早く終われ」と思ってた人のほうが多かったでしょ。
0089人間七七四年2016/02/04(木) 09:32:09.40ID:wXRNGBqO
>>88
本阿弥家って、権益なかったのかね
まぁ家康と結び付きを強めたから良く言っておこうということなのかもしれんが。
0090人間七七四年2016/02/04(木) 09:56:40.01ID:UvpVzQgq
>>87
鷹峯の土地を家康から拝領してるし
0091人間七七四年2016/02/04(木) 18:33:02.25ID:ZsWPVkYs
なんだ家康プロパかよ本阿弥…
0092人間七七四年2016/02/04(木) 19:32:14.33ID:TtalNbCl
あーだこーだ好き勝手言った後
徳川アゲで締める事で
予防線を張る意味合いもあるんやで。
0093人間七七四年2016/02/04(木) 20:46:42.83ID:usWz4Ldn
>>88
秀吉みたいないわば典型的な独裁者が全国を支配するのって、日本じゃ希だしねい
0094人間七七四年2016/02/04(木) 23:12:11.42ID:QKehDki4
>>92
ここのまとめサイトが
まさにそんな空気ですな
disられるのは主にラスボス
0095人間七七四年2016/02/05(金) 00:56:23.91ID:wJtdm8/P
浅井の平生の存念は、越前が平定すれば、江北は肝要の
場所であるため、浅井も追い立てられるであろうというもので、

その旨嫌疑に及び、先年敵対したのだとか。

およそ信長公は大心第一の将であるため、そのようなことは
あるはずもないものを、

このように疑ったのは浅井の運の窮するところであろうか。

――『当代記』
0096人間七七四年2016/02/05(金) 18:59:38.80ID:mLQrqOXT
大谷刑部少輔(吉継)は徳川家康に無二の忠節を申し上げ、大事の相談の在った時も、心底に残す所無く
家康の御為を大切にした人物であった。

ところが、宇喜多黄門(秀家)家中において不慮の紛争が起こった時(宇喜多騒動)、大谷はこれを取り持ち
榊原康政も引き加えて紛争を解決しようとしたが失敗、戸川肥前守、宇喜多左京、岡越前守、花房志摩守などは
「宇喜多秀家から討ち手を向けられれば打って出る!」と、その時の相印として上下皆坊主にした。

これを家康は聞き及び、康政を叱りつけた
「関東よりお前と交代する平岩主計頭が既に上ってきているのに、式部(康政)はどうして関東に下らず、
要らぬ他家への取り持ちをしているのか?そのように欲にふけり、取り持ちに対する礼物を欲しがるような
者だったとは思わなかった!」

康政はこれを聞くやいなや、どこにも暇乞いすらせず早々と関東に下っていった。

大谷吉継はこのことを聞いて思った
「式部をそのようにお叱りなされたということは、私も同様に思われているということだ。
それにして言い方があるではないか。取り持ちをしたのを礼物目当ての汚らしい心中であると仰せになったことは、
草履で面を踏まれたのも同然だ!」

そう家康を怨み、腹を立てて泣いたという。

(玉露叢)
0097人間七七四年2016/02/05(金) 21:06:05.15ID:dLnsTis+
康政を挑発して帰還させ、宇喜多家の騒動の泥沼化→弱体化させる魂胆ですか?
0098人間七七四年2016/02/06(土) 08:40:02.41ID:qGRq9v6i
 東照権現と号する勧請の事、関東からお願いが有ったといえども勅許は無かった。
しかたなく叡山の座主梶井宮へお願いして、宮のお取成しで、禁裏から権現号の勅許を梶井宮へ下されました。
右の宣命の写しを関東へ送られ、本紙は梶井宮の宝蔵に納めてあるという。
もちろん梶井宮の御勧請という。実に末世であるといっても、日月地に墜ちずと言うべきである。
(本阿弥行状記)

今でも写しはあるのですかね
0099人間七七四年2016/02/06(土) 14:01:14.90ID:j7aiHJz8
大坂の陣が調停となって堀を埋めた時、豊臣秀頼より女中方が使いとして
やって来て、「堀の埋めさせられようは、どのように致しましても、御情けの
なきなされようでございます!」と、恨み申し上げた。

徳川家康にしても秀忠にしても応対しかね、老中も返事を申しかねたので、
女中方はますます激しく、恨み深く申していたところ、成瀬隼人(正成)が
女中の傍へと近寄り、

「おやおや、こなたは女中であるのに、よくものを申される人ですねえ」

と言って、女中の尻をつねった。女中はこれに困って赤面し、言葉を発する
ことができなかったそうである。

この事は、「時に臨んで功者な手段」と言われたとのことである。

――『武功雑記』
0100人間七七四年2016/02/06(土) 19:28:45.21ID:vYxxbSP+
セクハラパワハラ
0101人間七七四年2016/02/06(土) 20:24:25.19ID:uEIFzPgd
この女中は美人で名高いお玉の方か
0102人間七七四年2016/02/06(土) 20:39:46.22ID:OlPnY2tG
女中がァ千代だったら死んでるだろ成瀬
0103人間七七四年2016/02/06(土) 21:05:46.48ID:QbI8M+bu
そこへ現れる大蔵卿局
0104人間七七四年2016/02/07(日) 11:37:11.36ID:uIIEMHG4
逸話というか書状ネタ

上杉家の家臣、狩野新介秀治。
元々は尼子勝久の家臣だったといい、何がどう流れてきたのか越中神保氏の家臣狩野氏の養子となり、謙信に仕えたらしい。
御館の乱では謙信の馬廻り衆として景勝とともに春日山籠城組の一人だったらしいのだが
この時何をしたのか分からないが景勝に超気に入られる。
謙信時代の重臣達や景勝の直臣衆である上田衆すらも差し置いて万事取り次ぎを任される執政扱いになった。
秀治は景勝より20歳ばかり年上だったということだが清貧で控えめな人となりだったらしく、
なかなか重臣達が言うこと聞かなくて苦労していた青年当主景勝はそんなところが気に入っていたのかもしれない。
兼続が直江の跡取り娘お船の入り婿になると上杉家は秀治と兼続の二大執政状態になる。
秀治はしかし、根なし草である自分が景勝様に大層気に入られ重用されている事態を憂い、嫉妬を呼ぶだろうと考え
春日山に粗末な庵を結んで質素に暮らした。
景勝が秀治には内政も外交も重要な仕事をたくさん任せているので、秀治がそのような粗末な姿では上杉の面子に関わる、
屋敷を受け取れ、せめて兼続と同禄受け取れと再三命じても固辞し続け、ボロ小屋に住み続けた。
上杉家の筆頭家老なのにボロ屋住み(兼続は後輩なので秀治の方が順位上)
ある日、春日山に嵐が来た。
他のきちんと普請された屋敷はなんともなかったようだがお粗末な庵の狩野宅には被害が出たらしく
景勝から「一昨日風にて其元家損し候て、時分と云、造作笑止に候」と書状が届いた。
景勝は他にも秀治に「お前の家マジ狭い」とネタにしているのでもうちょっとマトモな家に住めよ!ということだろう。

なお生活環境悪かったのかはたまた過労かしばらく後に秀治は病死し、景勝は二度と秀治の代わりとなる者を作らなかった。
0105人間七七四年2016/02/07(日) 13:10:44.24ID:K/Hk/8cI
景勝が「笑止に候」と出しても想像できない
0106人間七七四年2016/02/07(日) 13:14:55.43ID:WI66Vt05
三条の大面城を貰ってるみたいだね
0107人間七七四年2016/02/07(日) 13:34:46.02ID:Kd2+emmN
当時の「笑止」って気の毒に思うってことやで
0108人間七七四年2016/02/07(日) 14:40:36.45ID:K/Hk/8cI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6891.html
そうだったのか、前にも自分と同じ勘違いしてた人がいたようだ
確かに「笑いが止まる」だから字面的には気の毒の意味になるな
0109人間七七四年2016/02/07(日) 17:36:57.83ID:a4eBAu+p
昨日風であなたの家が壊れたと聞いたんだけどほんと酷い家ですねぐらいの意味に読んだ

>>106
秀治はほぼ春日山城詰めだったと思われるので
城貰ってもそこでは殆ど暮らしてないかと
0110人間七七四年2016/02/07(日) 21:47:33.00ID:v2SG8Npp
これは明治時代の話になるのだがご容赦を

勝海舟は政敵・小栗上野介忠順について氷川清話の中でこう評していた

「小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人に優れて計略に富み世界の大勢にもほぼ通じてしかも誠忠無二の徳川武士で先祖の小栗又一(忠政)によく似ていたよ。
一口にいうとあれは三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ。しかし度量の狭かったのはあの人のためには惜しかった」

当時は小栗又一忠政が誠忠無二の三河武士として高く評価されており子孫の上野介も初代又一に例えられたのは非常な名誉だったかもしれない
0111人間七七四年2016/02/07(日) 21:55:24.17ID:YvvETfm6
>>110
勝海舟はどんな話でも自分を持ち上げる為に他人を使うから大嫌い
0112人間七七四年2016/02/07(日) 22:37:06.32ID:SGOzzvqe
福沢諭吉「せやな」
0113人間七七四年2016/02/07(日) 23:28:07.22ID:t9+ef2vY
小栗さんの子孫は漫画家になったんだよな
昔、ジャンプで連載された
テンテン君の作者がそうらしい
0114人間七七四年2016/02/07(日) 23:35:42.59ID:t9+ef2vY
水野成貞ってかなりのDQNだったらしいな
旗本奴の元祖らしいが
余りにもDQN振りが格好良くて
ある大名家の姫様が惚れて嫁入りしたそうだ
その息子がアレなんだけどね

ちなみに水野成貞が主人公で書かれた小説は
隆慶一郎氏のかぶいて候なんだよね
0115人間七七四年2016/02/08(月) 19:22:35.46ID:gDL8B/I9
>>110
小栗上野介さんものすごい面倒くさそうです
0116人間七七四年2016/02/08(月) 19:33:17.55ID:SQuCyOuj
幕臣で一番めんどくさそうな勝海舟がそれを言うのも面白い。
そういえば、勝海舟を大久保彦左衛門にたとえる人がいるけど、
晩年の境遇はともかく、実績があまりにも違いすぎだろうに…
0117人間七七四年2016/02/08(月) 21:29:47.41ID:Iwd3FKrA
>>116
これどっちのが実績あると見るの?

戦国贔屓だから
戦国時代に武功を上げた彦左の方が実績あると考えたけど
0118人間七七四年2016/02/08(月) 21:39:52.32ID:ZgTfYKA/
局地戦で活躍しただけの人と日本を揺るがしかねない事態を何とかした人とじゃ
流石に勝のほうが実績あると思うけどな
0119人間七七四年2016/02/08(月) 21:40:41.93ID:wm+Ql6zV
そら海舟やろ
0120人間七七四年2016/02/08(月) 21:44:21.48ID:OlPz/peZ
大久保って愚痴日記出したのが功績だろ?
海舟とはラベルが違うと思うが
0121人間七七四年2016/02/08(月) 22:13:29.21ID:ncGGk0Ei
伊藤博文も勝海舟もちょっと前の先祖が農民って所が幕末乱世
0122人間七七四年2016/02/08(月) 22:16:20.27ID:leHnml7m
昨今の幕末史研究では、江戸無血開城も、いわゆる西郷と勝の会談よりも前に決まっていたらしく、勝はどうも、それを自分の手柄に
でっち上げたフシがあるらしいぞw
0123人間七七四年2016/02/08(月) 23:20:32.83ID:QKtuFps3
勝みたいなハッタリ野郎に比べたら小栗の方が有能だな
明治維新で薩長がやろうとした事はみんな
小栗が考えてた事のコピーだから

正直、小栗上野介と河井継之助は生かして欲しかった
0124人間七七四年2016/02/08(月) 23:48:57.97ID:wm+Ql6zV
そろそろ板違い
0125人間七七四年2016/02/09(火) 09:39:37.05ID:jY5+LRJV
水野成貞は旗本奴の元祖である。
0126人間七七四年2016/02/09(火) 09:48:17.59ID:9/TruwmO
慶長19年5月22日、天台宗の面々が登営し南殿に出御した時、南光坊天海がこんな事を言った

「最近、比叡山の八王子三ノ宮で珍事がありました。それは先ず、学林坊の奴である次郎を天狗がさらって
行方知れずとなった事件から始まりました。

10日ばかり過ぎて、この次郎は帰ってきてこう云いました
『私はこれまでの間、当山の大天狗、次郎坊の使者として、愛宕山の太郎坊、鞍馬山の大僧正、
彦山の豊前坊、大山の伯耆坊、上野の妙義法印、彼ら何れにも叡山に参るべき旨を振れ回りました。』

このように大天狗たちが叡山に登る旨を聞いた人々は、皆不思議に思い、そこからかの三ノ宮に参詣してみると、
天にわかに曇り、激しい風雨が巻き起こったかと思えば、大霰まで降ってきました。
そしてあの次郎が三ノ宮の社殿の棟に飛び上がり、しかしそのまま落ちると、軒端にて起き上がり、
足を上げて立ちました。

その他天狗の眷属たち大勢が、社の上にて様々に不思議な事をし、扇を以って歌舞を行うのを人々は目撃しました。
また三ノ宮の扉を、これは普通は2,30人で持ち上げるような物ですが、その扉2枚ずつを回し投げました。
それなのに、この扉にはいささかの傷もなかった。
また、虚空より大礫を数多打っていたそうです。」

そのように云々したという。
(玉露叢)
0127人間七七四年2016/02/09(火) 11:21:07.72ID:RFhGQd0T
昔の人は大嘘つきが多いね
0128人間七七四年2016/02/09(火) 22:36:23.52ID:eFlTnkWy
知恵伊豆のユーモア

承応から万治年間(1652-1659)にかけて長崎奉行を勤めた甲斐庄正述の妻は松平信綱の従姉妹(姪とも)であった。

そんな関係で、信綱と正述は親しかったので、二人はよく会っていたのだが、ある日の信綱邸での饗応で正述はふと思った。

「今出てきた芹焼き(芹を酢に煎じたもの)は焼いていないのに『焼き』というのはおかしくないか?『芹煎』とか言うべきだろう。」

それを聞いた信綱、
「焼いていないものを『焼き』というのが不審と言うが、あなた自身にもそんな不審なものがあるではないか。」

「??」

「あなたの頭の月代(さかやき)は誰が焼いているのですか?」

ここで正述、
「なるほど、自分にも焼かないのに焼くというところがあるのに、そこには思いが至りませんでした。」と納得。一同大笑い。

(御役人代々記)

いい話でも悪い話でもなさそうだけど、とりあえずこっちに。


ちなみに正述の孫の大森時長も長崎奉行として赴任し、享保の飢饉時に長崎の住民を飢餓から守ったということで非常に人気があるらしい。

(鈴木康子「長崎奉行 等身大の官僚群像」)
0129人間七七四年2016/02/10(水) 00:20:03.96ID:/thGEHa4
宮崎県五ヶ瀬に伝わるお話。
400年程前高千穂の三田井家落城の際、逃げてきた侍が五ヶ瀬の内の口の甲斐繁左衛門の家に
「助けてくれ」と駆け込みました。
繁左衛門は屋根裏の桶の中に侍を隠します。
しばらくすると、追っ手が繁左衛門の家にやって来ました。
「この家に落ち武者が来たはずだ」
しかし繁左衛門は
「その者なら、いましがた、あちらの方向に走っていきました。うそだと思うなら家中をさがしなさるがよい」
と答えました。繁左衛門があまりにきっぱりと言うので、追っ手の兵はあきらめてその家を出て行きました。
その後侍は礼を言い山道を再び逃げますが、近くまで追っ手が迫っていたので息をひそめ隠れました。
しかしその時、腰に差していた「蛍丸」という刀がまさしく蛍のように光り、気付いた追っ手に討たれてしまいます。
哀れに思った村人たちは、侍を手厚く葬り、祠を建てその霊を慰めたといわれています。
その祠が恵良八幡神社の始まりといわれ、また繁左衛門の子孫宅には侍をかくまった「半切桶」や「はしご」が現存しており、
この物語が語りつがれています。
(ひむか神話街道 第三十一話恵良八幡の伝説 など)

ゲームで有名になった「蛍丸」とは別の刀のお話。
0130人間七七四年2016/02/10(水) 23:08:11.40ID:VGSnZblL
>>127
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー----−' |__////
0131人間七七四年2016/02/11(木) 20:40:33.17ID:OisiZXid
黒田長政って何でDQN四天王に入らなかったの?
あいつもかなりのDQNじゃん
0132人間七七四年2016/02/11(木) 21:57:57.22ID:0zTEJwB4
>>131
他がインパクトあるからね
0133人間七七四年2016/02/11(木) 23:50:39.84ID:l6JxuLw5
長政は面倒くさい家臣や面倒くさい父ちゃんにいじられてるイメージが強いから。
蒲生氏郷や徳川家康にもDQNエピはあるけど、他のエピの方がイメージ強いからDQN扱いされない
0134人間七七四年2016/02/12(金) 00:43:09.75ID:wDI9j80A
長政にもNADEGIRIかSATSURIKUエピがないと。
0135人間七七四年2016/02/12(金) 07:29:39.812371ID:f6D0TWI/
>>133
政宗さんは?
0136人間七七四年2016/02/12(金) 08:33:48.734385ID:eFaqP0+d
筆頭DQNやないか
0137人間七七四年2016/02/12(金) 16:36:12.69ID:VEMSwmHY
謙信なんかリアルの方だと人質殺した記録なんかほぼなくて
人質として差し出されながら城の女中に手を出しまくるアホに激おこっても
「あの馬鹿家に戻せ!」で済ませてるし
子供なら自らおぶってあやしているレベルだけど
関東メイン軍記物出展だとヒャッハー世紀末覇王だぜ
0138人間七七四年2016/02/12(金) 16:49:00.59ID:DjL5l7TL
だれか翻訳してくれ
0139人間七七四年2016/02/12(金) 17:40:12.72ID:XNHIrd4W
>>138
ぼくはれきしにくわしいんだぞ!
0140人間七七四年2016/02/12(金) 20:33:55.21ID:ipPusG3l
謙信さま、love
0141人間七七四年2016/02/12(金) 20:54:42.90ID:eFaqP0+d
愛で直江が落ちてくる
0142人間七七四年2016/02/12(金) 21:05:05.25ID:lsyw4TMR
上杉謙信の鬼(北条)退治
キジ(小田フェニックス氏治)
イヌ(太田ワンワン資正)
サル(超豪華スペシャルゲスト。誰かな!?)
0143人間七七四年2016/02/12(金) 21:06:50.20ID:MfFfnU4C
面白いと思ってるのかね
0144人間七七四年2016/02/12(金) 22:31:23.33ID:ZmIvG3Ym
宇都宮じゃねーの?
0145人間七七四年2016/02/13(土) 05:07:24.29ID:PBLqqo5q
関東で猿…猿か…ん〜
日光猿軍団?
東照宮の三猿?
0146人間七七四年2016/02/13(土) 08:49:26.64ID:EomKwQib
武田信玄じゃね?猿之助だったし。
0147人間七七四年2016/02/13(土) 14:22:09.52ID:xyVxXPOO
小田、太田レベルじゃないと釣り合いがとれないじゃん
0148人間七七四年2016/02/13(土) 16:18:21.31ID:X1fvI47v
そもそも北条が鬼ってありえんから
関東をたびたび荒しにくる長尾が鬼だから
0149人間七七四年2016/02/13(土) 16:42:16.76ID:xyVxXPOO
上杉から関東を奪った悪党なのに?
0150人間七七四年2016/02/13(土) 18:07:45.43ID:28r1XeST
他国の凶徒
しっかしつまらん流れやな
0151人間七七四年2016/02/14(日) 23:15:52.08ID:gOAKlHCV
水野家って何気にDQNの巣窟だな
勝成の長男一族以外みなDQN
特に三男一族が酷過ぎる
0152人間七七四年2016/02/15(月) 12:00:49.33ID:bOA+vfct
上杉謙信が越中に出陣していた頃、春日山城は留守役として甥の景勝(この頃はまだ喜平次顕景と名乗っていた)に守らせ
謙信の筆頭家老山吉豊守を年若い甥っ子に補佐役として付けていた。
しかし武田信玄が謙信の留守中に信濃から春日山に攻めいるつもりであると噂を聞いた謙信は酷く心配し
春日山城へ書状を何度もしたためた。

「喜平次へ
心のこもった再報が届いてとても嬉しかったです。
細かな気遣いが本当に心に染み入りました。
それに比べて、豊守は私がこんなに心配しているというのに、一度も手紙を寄越さないんですよ。
喜平次は何度も連絡をくれるので、本当にありがたく思います」

この書状を見た喜平次は慌てて豊守に書状を書かせたらしく
この後謙信から「喜平次のおかげで豊守から手紙が来たよ!ありがとう!」という書状が届いている。
0153人間七七四年2016/02/15(月) 14:12:22.47ID:CF6lY/QG
上杉謙信オカン説がはかどるな
0154人間七七四年2016/02/15(月) 14:55:44.45ID:ff+fCwcY
>>152
かわいいw
0155人間七七四年2016/02/15(月) 15:20:22.31ID:8kGl8Ch8
軍神謙信返信に安心
0156人間七七四年2016/02/15(月) 15:30:29.28ID:ByMwmBOM
恋文かよ
0157人間七七四年2016/02/15(月) 16:01:54.84ID:2IrJApji
言い難い事は子供を使って言わせる。まさにどっかのオカン
0158人間七七四年2016/02/15(月) 20:48:23.95ID:jVA8ZplL
謙信のいい話やん。ほっこりした。
0159人間七七四年2016/02/15(月) 21:41:20.10ID:ztZFu36T
伊達政宗は大阪の陣で後ろから神保さんに銃撃しました
0160人間七七四年2016/02/16(火) 00:34:21.48ID:lkeFR4n3
補佐役で喜平次と一緒に在城してるのに
謙信に喜平次宛で愚痴を書かれた山吉豊守の決まりの悪い話かな思って
0161人間七七四年2016/02/16(火) 09:19:07.26ID:/JyidBrr
このスレもそうだが
水野一族に対する評価が低いぞ
水野一族ほど一族揃って皆DQNな一族は少ないぞ
間接的には超勝ち組な一族だから評価が低いのか?
0162人間七七四年2016/02/16(火) 09:25:31.73ID:GKn4rhpC
昔からネット界には水野を異様に持ち上げる一派が居てみんなうんざりしてるだけだよ
0163人間七七四年2016/02/16(火) 14:35:49.24ID:ZNRGt3ln
教科書に載るくらい有名なのいるからいいじゃん
0164人間七七四年2016/02/16(火) 14:38:06.42ID:ISKtEFxg
1564年、エムベロル公方(足利義輝)は日本を支配し、宮廷を都に有していた。しかしその時、
1万2千の逆徒はエムベロルに対し厳粛なる同盟を作りて反逆を謀り、最初の着手として都を襲い、
宮殿の四ヶ所に火を放った。公方は不慮の襲撃にあって、適応な防御手段を講ずることが出来ず、
自ら剣を抜いて大胆なる突撃をし、ただ200人を従えて血路を開かんと試みた。しかし衆寡敵せず、
敗れて数ヶ所を負傷し殺され、従臣もまた全て寸断された。

こうして反逆者は宮中に乱入し、公方の母および娘を見つけ出して惨殺した。
一人妻女は寺院の僧舎に隠れていたが、たちまち発見され、これもまた罪人として斬られた。

斯くの如くにして彼らは王族を完全に滅亡させ、ただ公方の弟のみを残した。これは彼が僧籍に在ったが
故である。反逆者たちは事件の後、この弟に対し安心を得るために、宗教上の契約を以って彼を拘束した。
しかし彼は、その契約後逃亡し、密かにロカの君主和田殿(Vatadono)の元に走った。和田殿は彼を
丁寧に待遇し、尾張(Bonari)の王信長に援助を乞わんことを勧めた。

信長は之を容れて6万の軍を戦場に出し、公方の殺害者と相対した。殺害者たちは抵抗し得ざるを見て
降伏し、首魁たる扇動者は罰せられた。

信長は血統において最も近い公方の弟を立てず、自ら都の都市および城の絶対的君主となった。
焼けた宮殿を再建するとしてその完成を急ぎ、費用と労力とを厭わず、土工を使用すること日に
1万5千人に及んだ。彼は抜刀を携えて此方彼方を巡視し、これがため何人も懈怠、又は時間を
徒消することは出来なかった。彼は、軍前通りかかった婦人の覆面を上げたと言って一人の木工の首を
刎ねたこともあった。

信長は威風堂々として短日月の間に30の王国を征服し、我が治下に立たしめ、継いでまた公方を廃して
エムベロルの冠を己が頭に頂いた。その後彼は、同じ王冠をヅボにおける彼の新たな肖像の頭に加え、
以って生存中に神として礼拝せされんとした。この目的のために、彼は彼に阿諛追従する宮廷の官人、
および市内の佞者を欠かすことが出来なかった。後者は彼の虚栄心を長ぜしめ、彼が細心、卓抜の行為、勇気に
よって斯くの如き驚嘆すべき事業を成し、斯くの如き多くの勝利を得たる上は、今の行為は正当にして
また栄誉であると自覚するに至ったのである。

しかし他人は、この虚栄の空想と傲慢なる企画を忌むこと甚だしかった。彼らは多くの君主で善行ある者に対し、
その死後これを神として祀ることには慣れていたので、このために彼を忌むことはなかったが、
彼の望む所は甚だ高く、生存中、すなわち人間が弱点に陥りやすい時において神となり、同時に人たらんとし、
特に霊界に在って永久に祝福される者にのみ捧ぐべき供物と犠牲を受けんとするのは、神聖を冒涜するものであり、
彼らが言うには

『人々は斯くの如く残虐、破約、偽誓をなせるものを神とすることを欲しない。例えば、いかなる国が
彼の君主たる面目、警言、寛仁を信頼して彼に降伏することがあっても、彼は攻撃の手を緩めず、これを略取し、
しかも暴力を以って侵入したかのように無慈悲にその国人を屠るのが常であるのを憎んでいる。』

信長を怨める者の中、最も甚だしいのは明智(Aquechi)王であった。
彼は大胆にして勇気ある君主であったが、信長の冒涜的傲慢を見て平然安堵する所を得なかった。
信長は多くの寵遇を明智に加え、彼を丹後の王となし、自己の全軍の大将としたが、宗教の名誉、並びに
正常なる神の真の礼拝が危機に瀕することを見るや、彼は信長の全軍をして彼に変心、反対せしめ、
1582年6月20日に都に進軍した。

こうして信長は不測に襲撃させられたが、自己の軍勢を以って囲まれた事でもあり脱走を企てる方法がなく、
敵の追跡を破り都に近い森林の中で殺された。
この森は以後、”エムベロルの血の森”の名を得るに至った。

(モンタヌス日本誌)

永禄の変から本能寺の変まで、モンタヌス日本史の記事である。
0165人間七七四年2016/02/16(火) 15:31:44.57ID:hr/xwwVX
>>161
茶坊主斬ったり、町奴と張り合ったりオラついた逸話だけで
高評価もらえる程世の中甘く無い。
0166人間七七四年2016/02/16(火) 16:09:51.32ID:il9ecMq6
>>164
本能寺から逃げて都の外れの森林で殺されたとは面白い
歴史秘話ですね
0167人間七七四年2016/02/16(火) 16:18:37.32ID:ZNRGt3ln
朝倉義景「ウチに公方の弟なんてこなかったよ?」
0168人間七七四年2016/02/16(火) 19:47:40.59ID:pzhOD786
>>162
DQNだけど野生的な魅力に溢れてるからね
0169人間七七四年2016/02/16(火) 22:17:57.90ID:1KdjBj4R
血乃森蒼紫
0170人間七七四年2016/02/17(水) 06:11:25.68ID:7sCp75Ni
>>164
エムベロルって何?
エンペラー?
0171人間七七四年2016/02/17(水) 07:25:42.08ID:YUNgAg2D
ポルトガル語のエンペラーだったかと
0172人間七七四年2016/02/17(水) 21:53:44.65ID:1ckoV6Tq
>>164
”エムベロルの血の森”
やだカッコイイ
0173人間七七四年2016/02/18(木) 14:33:35.30ID:oCLoILm4
これのまとめ管理人は盗作ゲームのネタばっかRTしてんじゃねーよ
2ちゃんでネタ拾ってんなら刀の悪評くらい知ってんだろ
水増し目的の複アカ推奨とかありえねーわ
0174人間七七四年2016/02/18(木) 16:53:07.51ID:gfgaEMBE
死せるエムベロル(織田信長)の妻の弟なる柴田殿(Xibatodono)は、信長の遺族中、最も近い
親類であったが、羽柴藤吉郎の行為を快からず思い、力を極めて彼に抵抗した。ここにおいて、
藤吉郎は柴田殿を滅ぼさんとその居城を囲んだ。

柴田殿は突然攻撃を受け、免れる事ができないのを知り、将士を尽く集めて言った
「卿等は予の窮境をしらん。予は残虐なる暴王に屈せんよりは、むしろ自殺せんとす。
予の願う所は、予が死したる後は卿等が予を火葬するにあたり、不人情なる叛乱者をして
誇らしめるべき何者をも残さざるように成してほしいという事である。
卿等は生命を保たんがために如何なる談合を成すも可なり。」

しかし万座の者達は、柴田殿の決心を賞賛し、みな柴田殿の例に倣わんと決心した。

柴田殿は彼らの忠義に感じ、この世の別れとして宴をおこない、食卓上には様々な肴を具え、
ある限りの楽器を鳴らし、彼らの好む茶、および酒を飲み交わし、かくて饗応も静まるころ、
彼らは起きて各種の燃焼物を部屋に満たし、これに火を放つと、焔煙は屋を貫いた。

ここにおいて、残酷なる饗宴が始まり、柴田殿は先ず妻子、僕婢を刺殺し、あるいは重傷を負わせると、
彼の諸将もこれに倣って同様に親族従者を殺した。次に彼らはこれらの死骸を火中に投じ、その上に立ちながら
切腹して果てた。

時に藤吉郎は、城中に火災が起こったのを見て、偶然の失火だと思い好機を逸してはならないと
総攻撃を命じたが、門といい城壁といい何らの戦備も抵抗もなく、ただ未だ焼け終わらない
数個の死骸を見たのみであった。

藤吉郎は柴田殿の城を陥れて都に帰るや、最初の名の藤吉郎のみならず羽柴の名も改めて、
関白殿、すなわち日本の最上卿と称し、1594年以降は太閤様と名乗った。すなわち大エムベロルの事である。

(モンタヌス日本誌)

モンタヌス日本史より、柴田勝家の最期についての記述である。
0175人間七七四年2016/02/19(金) 01:32:13.30ID:nyJqeplz
英林塚の鳴動

越前朝倉氏が栄華を誇った夢の跡である一乗谷朝倉氏遺跡。代々の当主の住居であった
朝倉氏館跡の南東の高台に一つの塚がある。人呼んで「英林塚」、戦国大名朝倉氏の祖で
ある朝倉孝景の墓である。英林塚とは孝景の戒名「一乗寺殿英林宗雄居士」に由来する。

この塚は、昔から越前国に災いが起きる前触れに不気味に鳴動するという言い伝えがあった。
あたかも雷鳴、あるいは大砲の轟くような音がしたという。
現在では、「夜、塚の近くに行くと、『おぉ〜…』って男の叫ぶ声が聞こえるんですぅ」なんて言う
怪談話も登場している。言い伝えが進化・変化を遂げたものだろう。

ところが、朝倉義景治世下の永禄12年(1569年)に記されたとされる『朝倉家伝記』では、
まるで上田秋成の「吉備津の釜」(雨月物語)じゃないが、「英林塚が鳴動したら国家安泰!」
と現代まで残る言い伝えとまるっきり逆のことが書かれている。御家が滅びるとこんなことになるのか。

時代により吉凶がまるで逆となってしまう英林孝景さんのお墓の悪いお話。


(きっと、義景さん切腹、ヒャッハー大暴れ、一揆皆殺しの頃、毎日鳴ってたんだよ、それで…)
0176人間七七四年2016/02/19(金) 02:02:33.64ID:bcM3R0Aa
どうしてこうなった...

吾妻鏡を読んで、配流された身から天下を獲った頼朝に自分を重ねる竹千代君
http://i.imgur.com/jJHz9pG.jpg

吾妻鏡を読んで、頼朝に情けをかけたのが悪いと秀頼を殺す神君家康
http://i.imgur.com/CsTtXlp.jpg
0177人間七七四年2016/02/19(金) 02:30:01.96ID:Vdr6MGkx
うむいつも通りのヒストリアで安心した
0178人間七七四年2016/02/19(金) 02:37:15.50ID:QBxVywqO
全て板尾が悪い
0179人間七七四年2016/02/19(金) 05:56:54.94ID:ObbaCpIo
 東照宮の御近習の某、ある時茶宇の袴を着ていたのを、君が尋ねられたので
「唐から新たに渡りましたので受け取りました。」
と申し上げると、君は大いに怒られなさった。
「そち達が我らも知らぬものを着るのは甚だ奢りである。」
と、さっそく退役を仰せ付けられたという。
(本阿弥行状記)
0180人間七七四年2016/02/19(金) 07:44:05.07ID:QBxVywqO
器のちいせえ奴w
0181人間七七四年2016/02/19(金) 08:53:39.29ID:7LoAwQos
>>175
そういや初代孝景と義景の墓はちゃんとあるのに、中3代の墓ってどこにあるのか知らんなあ。
0182人間七七四年2016/02/19(金) 12:06:46.75ID:tq5yGm1d
名前が同じ人の墓は1つで間に合わせているとか
0183人間七七四年2016/02/19(金) 15:58:41.47ID:wkcWwOeQ
助けて!えーりん!
0184人間七七四年2016/02/19(金) 21:59:32.75ID:2fmnXVf9
それより両エムベロル(豊臣秀吉・秀次)は、その随行全員とともに、日本最大の諸侯である
飛弾殿(Fidandono 蒲生氏郷?)の宴に招かれたが、これもまた善美を尽くしたもので、
皿を覆っている金箔だけでも4千クラウンを要し、酒宴の費えはこれよりも遥かに多額を要した。
どういう事かといえば、エムベロルに対して飲む酒盃の数は九献にして、第一杯には献品として
1万クラウンを要し、第二杯より暫時上がって、最期には一杯目の倍、2万クラウンとなる。
故に饗宴費はほとんど計算することすら出来ない。エムベロルの覚え目出度からんためには、その費用を
惜しむことなど出来ないのだ。

翌日、太閤様はまた、八州の太守ギエタゾ(Gietazo 徳川家康?)の邸に赴き、飛弾殿のそれにも劣らない
饗宴に臨んだ。

(モンタヌス日本誌)

蒲生氏郷が、秀吉の御成りを受けた饗宴の模様。しかし、ギエタゾ…?
0185人間七七四年2016/02/19(金) 22:15:09.13ID:EWxuNQyH
ポルトガル語なら
giはジ、もし最後のoがなければzはスに近くなるから
ジエタスにはなるか
や行の発音はたしかなかったからこのあたりが曖昧になるんだろう
前のレスを見ても「山口」を「アマングチウム」とか書いてたし
0186人間七七四年2016/02/20(土) 02:44:55.17ID:jvV7FCmr
水野忠胤の悲劇
三河水野藩藩主である水野忠胤が
遠江浜松藩主松平忠頼を自宅招いて茶会を開いていたが、
忠胤の与力である久米佐平次と服部半八郎の両名が囲碁の
勝敗をめぐって口論となり、刃傷事件に発展した。
この争いを見て忠頼は両名の仲裁に入ったのだが、
逆に仲裁に切れた佐平次が、よりによって忠頼を殺害してしまった。
佐平次は忠胤によって切り捨てられたが
その事件によって忠胤は切腹を命じられ水野藩は改易になった。
ちなみに長男の勝信(織田信長の孫)はこの後に
徳川忠長に仕えた
(妙蓮寺旧記)
0187人間七七四年2016/02/20(土) 08:39:46.73ID:T0tcXj2W
ジエタス→いえやす にはなるか
でも家康を家康って呼ぶ人はいないよなあ
トクガワヌスとかにならんのか
0188人間七七四年2016/02/20(土) 09:54:31.55ID:KZwAhx2/
水野藩って聞いた事がないなと思ってググッてみたら
どこにあったかもわからないらしい w
0189人間七七四年2016/02/20(土) 09:56:52.54ID:fZRPebE5
>>186
忠胤が切腹する理由はなんやねん
実在はともかく気になる
0190人間七七四年2016/02/20(土) 10:05:31.20ID:fgf6N03W
それまでも不手際あったらしいからスリーアウト的な改易かね
0191人間七七四年2016/02/20(土) 11:13:36.47ID:+HWr++cl
>>187
当時の家康くらい高位になると「徳川」と書かかれたりすることの方が少ないよ

諱を書かれることについて「政宗」がよくネタにされるけど、書状なんかで「家康」
と書かれてる事がかなり多い。
ある程度のビッグネームには多い現象なんだよね。

もちろん当人への書状の宛名に使われるのは「江戸大納言」等だけどね。
0192人間七七四年2016/02/20(土) 11:24:45.82ID:fgf6N03W
歴史上の人物は諱OK、雲の上の人も諱OK
宛名での諱を名指しも場合によっては一周回って厚礼になったりする場合もあるから複雑
0193人間七七四年2016/02/20(土) 12:06:40.75ID:6H2FGaXT
>>189
部下同士の争いで部下が大名を殺したんだから十分な理由だよ
全く与り知らないところならいざ知らず
0194人間七七四年2016/02/20(土) 16:32:33.76ID:nxqo7cq6
「鮎貝宗信謀反事件の真相」
天正十五年十月、伊達政宗は鮎貝一族に警戒を募らせていた。
当時の史料から読み取れる動向はまとめるとだいたいこんな感じである。
政宗「あいつらは伊達家中でも力を持っているし、最上領に近いしな。
あいつらが将来的に伊達・最上の境目にいる国衆をまとめて反抗したら相当ウザい。
何か理由つけて、境目の領地奪って伊達に完全に組み込まないとな」
そんな折、鮎貝父子間の仲が悪いと知った政宗は、これにかこつけ介入。
自ら出陣すると鮎貝城を攻め、数百人を討ち取った。
城は一日も持ちこたえられず落ち、鮎貝宗信は行方不明になった。
これにて一件落着と政宗は米沢に帰還した。

なお、当時最上義光は庄内侵攻で手一杯であり、本件には一切関与していない。
義光が動けないからこそ、最上領に近い鮎貝城を攻めたとも解釈できるのではないか。

これが伊達家公式記録『貞山公治家記』によればこうなる。
宗重「嫡子宗信は父である私と仲が悪く、最上義光から謀反をすすめられています。
私は止めたのですが、バカ息子は聞き入れなくて! 殿、なんとかしてください」
政宗「って宗重が言うから仕方なく出馬。最上も加勢するかもしれないし、他にもそそのかしているかも。
うちの家臣をそそのかすなんて義光はなんて卑怯なんだ!」
この記録が、世間では通説となっている。
が、繰り返すが、当時の史料を調べると最上義光は庄内で手一杯であり、本件には一切関与していない。大事なことなので二度書くが、最上義光は関与していない。

政宗の思惑を、最上義光のせいにしてごまかす、そもそも鮎貝宗信は謀反すらしていなかったという伊達家のちょっと悪い話。
(出典:大沢慶尋「再検証 鮎貝宗信謀反事件」)
0195人間七七四年2016/02/20(土) 17:31:11.87ID:D1hnpXG6
諱呼びは「大名の中でも有名人枠」みたいな扱いじゃね
名字も領地も官職も書かないけど皆知ってるよねポジション
政宗と景勝が特に諱でほいほい出てくるせいか
北国でその傾向が特に強いんじゃないかって話は見たことがある
0196人間七七四年2016/02/20(土) 19:02:19.32ID:RDZArt37
>>194
背後の心配をしなくていいように手を打っていたともとれるが
0197人間七七四年2016/02/20(土) 19:22:50.76ID:z59eWpfo
仮に義光に唆されたなら、失敗後に匿ったりしてない気がする
0198人間七七四年2016/02/20(土) 21:01:53.13ID:1/ck4STB
「みなさん、本物の政宗でございますよ」
「偽物がいたら見てみたいんですけどね」

じゃねえよなあ
0199人間七七四年2016/02/21(日) 08:59:56.55ID:lPFOqztD
>>197
給料回復のために匿うなんて普通にあると思うが
0200人間七七四年2016/02/21(日) 12:56:58.54ID:F0kGDLfv
>>194
逸話スレに書く内容なのかなぁコレ
0201人間七七四年2016/02/21(日) 14:27:00.42ID:ou0lTV7q
>>195
佐竹家老梅津政景の日記で、義宣と親しい景勝が普通に日記上で諱で登場するんだが
景勝が亡くなって定勝に代替わりすると普通に「上杉弾正少弼」に表記が変わるので
身分の上下などでは表せない個人に対する敬意や親しみなんかが
諱表記で表現されるんだろうって研究がある
0202人間七七四年2016/02/21(日) 17:59:48.90ID:BiwxmhRL
斎藤龍興の家臣である、西美濃三人衆と呼ばれた氏家常陸介(直元)、稲葉伊予守(良通)、
伊賀伊賀守(安藤守就)がある時会合し、伊賀守は言った

「今の斎藤龍興の所業を見るに、日を追いつきを経るに従って、諌めを行い国家の為よろしき人と言うほどの
人物には、皆出仕を停止させ、阿諛追従する者ほど威名盛んである。不順、これより甚だしい物はない。
このようにして滅んでいった国々は、指を折っても数えきれない。

一方、織田信長は仁義の道を行われ、武勇智謀、最も優れている。この人を頼んで武功に励み、
奮功した家臣たちを撫育しようではないか!」


しかし氏家は
「承った話は、何れも至当であり、これに異議を唱えるものではない。しかしながら一度も
諫言に及ばずしてこのような事をするのは、ただ自分の身を立てようとするだけで、義に非ず。
先ず諫書を上げて、もし用いられなかった時は、そのようにしようではないか。」

こうして彼らは諫書を作り、龍興に差し上げた

一、君たる道を真の儒者に能く問われて、行いを然るべくされますように。
一、近習に侍っている執権たちは、国家の為には鴆毒です。急ぎ薬言の臣を用いられますように。
一、幽悪を察し、微善を試み、お心持ち至誠に、賞罰を行われますように。


このように諌めたが、阿諛する家臣たちは、却って之を取り消させるように讒言したので、
翌年になって三人衆は信長に使者を出し、味方に参る由を申し上げると、信長も「願う所の幸い、
天の与えるところである。」と、村井民部丞、島田所助の二人を派遣し能く語らしめた。

永禄七年八月朔日、信長は三河に攻め込む旨を触れ、小牧山に勢揃いした所で、三河には一言も触れず
「美濃国において然るべきこと有るぞ!進めや!」と宣言し、出陣し、瑞龍寺山へと駆け上がった。

この突然の軍勢の出現に、稲葉山城の者たち慌て騒いで「こは何者ぞ、敵か味方か?」と怪しむほどであった。
信長は片端より火をかけ、即座に裸城にした。このような所に三人衆もはせ参り、臣従を許したお礼を申し上げ
「この城攻めも苦労すると思っていましたが、このように何の問題もなく押し詰められた事、誠に御名誉です」
と申し上げた。

その日は強風が吹き雨も降りだしたので、翌日諸方の手分けをして、鹿垣を二重三重に結い廻し、
「一人も漏らすな」と下知した。
城内は、兵糧の支度もなく逃げ入ったものだから、早くも以ての外に弱り、「命を助けて頂ければ
城を明け渡します。」と様々に詫び言を申してきた。
信長は家臣を呼び集め、どうすべきかを尋ねた所、
「先ず龍興の一命を助けられ、この城を請取あって、国々太平の功を励ますことこそ宜しいかと思います。」
と、人々一致したため、信長も之に同意し稲葉山城を受け取り、龍興を退去させた。

こうして信長の武威は、飛竜が天に上がるがごとくであった。

(甫庵信長記)
まあ実際に稲葉山城を退去した永禄八年でも、まだ17歳なんですけどね龍興。
0203人間七七四年2016/02/21(日) 20:51:34.09ID:sic6Ivqj
小田原陣の際、北条家第一の大名松田尾張守父子、氏政へ逆心し敵の勢を城中へ引き入れるという企てが会った。
この時、松田の末子左馬助は一向に合点しないので、父子は申し合わせて一間へ押し込んで、いよいよ逆心を取り急ごうとした。
ところが、左馬助は具足櫃に入って忍んで本城へ参り、父兄の逆意を申し上げたので松田父子は早速罪に処せられた。
 その後小田原落城の後、氏直と高野山へ登られたときも、この左馬助は付き添って忠を尽くされたという。

 惜しむらくは父兄への孝道が欠けていること、大いに玉に疵である。
父兄が罪に処せられましたときにすぐさま腹をも切ったら、忠孝二つとも全うできたものを残念な事である。
父は子のためにかくし、子は父のためにかくすという聖人の示された言は今更である。
(本阿弥行状記)

忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず
0204人間七七四年2016/02/21(日) 21:23:58.99ID:MU5FSvyb
黒官「あれ、わしが秀吉の命令に背いて、
長男を殺して末子を助命した、て話は」
0205人間七七四年2016/02/21(日) 21:32:00.19ID:fw1BDPma
城井一族を騙して皆殺しにしてるから、北条も適当に嘘ついて開城させたんだと思う
0206人間七七四年2016/02/22(月) 06:10:51.84ID:8tZiaW+w
>>186
似たような話を関が原の時(前夜?)あったような気がするんだが
重い打線
0207人間七七四年2016/02/22(月) 07:35:04.13ID:0hhC4clU
水野忠胤の父親の水野忠重が関ヶ原直前に堀尾吉晴や加賀井重望と三人で飲んでたら、
なぜか加賀井重望が水野忠重を殺害して、堀尾吉晴にも傷を負わせ、
堀尾吉晴に返り討ちにあった、て話では?
(徳川実記だと、加賀井重望は石田三成の刺客だったそうだが真偽は不明)
0208人間七七四年2016/02/22(月) 09:19:05.90ID:8tZiaW+w
おーそれだ!
0209人間七七四年2016/02/22(月) 10:48:42.25ID:5wqhA/F9
命がけの日々を送っていると
PTSDでおかしいやつらがそこら中に発生するんだね
0210人間七七四年2016/02/22(月) 11:41:27.73ID:esA0ZeQ1
親兄弟が死んでる森長可のことですね
0211人間七七四年2016/02/22(月) 11:47:11.23ID:0LMYINhw
政宗の父親や弟も悲劇的な最期を遂げてるから政宗がああなったのか
0212人間七七四年2016/02/22(月) 11:59:23.35ID:SDvQUnR0
>>211
政宗の弟は政宗自身が殺したんだがな
0213人間七七四年2016/02/22(月) 18:32:22.20ID:GQLxreIm
二本松義継「輝宗の死因は銃撃ですよね?」
0214人間七七四年2016/02/22(月) 20:56:04.71ID:+cazqg1Z
>>201
親疎や経緯はありそうだけど、定勝は景勝に比べて官位などが
恐ろしくグレードダウンしてるから比較対象としてどうなんでしょう?
0215人間七七四年2016/02/22(月) 22:17:26.49ID:pY+DLWFU
 北条三代目の氏康公は御子の氏政公と御昼食の時、氏政公が飯へ汁を二度かけて召し上げられたのを氏康公はご覧名さなれ、
 「後に関八州は氏政が世で亡ぶだろう。わずか飯椀の中に汁を入れるということさえ、一度だけで行う加減がわかっていない。
そのようなひととなりではどうやって八ヶ国の人々の目利きをすることができようか」
と御落涙したという。
 その言葉の通り氏政公の御代で滅びました。厳密にいうと氏政公は滅びなさったときは御隠居で、氏政公の御子氏直公の御代で亡びましたということだが、
彼はひどいうつけ者であり、氏政公はその愚昧の氏直公へ御相続させられましたことから、汁かけ飯での氏康公のお目利きは神のごとしだと思われます。

 冷泉家は北条執権のころ無二の懇情でしたが、その後君の御憎しみがつよく遠流となられ、
程経て帰洛の後に、家の掟で武家と縁組等を無くし、今でもその通りであります。
先代の掟をこのように守りなされることは甚だ感心します。
 その他の公家方は時節につれてなされたように思われます。
心ある堂上方はこのことを恥と申されたという。清貧と申す事はとかくならぬ事と思われます。
(本阿弥行状記)
0216人間七七四年2016/02/22(月) 22:27:17.81ID:+ttG42F8
本阿弥光悦の時にこの話が広まっていたとは驚き
0217人間七七四年2016/02/23(火) 01:45:53.87ID:nRXKJORI
氏政暗愚説っていうか、まぁ時流を読み間違えたのはそうなんだろけど

だからって汁かけ飯ごときで暗愚判定されるとは、氏政も草葉の蔭で泣いてるんじゃないかな…
もうちょっとこう…あるだろ
0218人間七七四年2016/02/23(火) 09:35:44.71ID:WdzuTFCx
☆ 日本の核武装は早急に必須ですわ。☆
総務省の『憲法改正国民投票法』、でググってみてください。
日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願い致します。
0219人間七七四年2016/02/23(火) 16:51:20.67ID:drP4ghCp
2度目に薬味も入れとけばこうもこき下ろされずに済んだハズ
0220人間七七四年2016/02/23(火) 20:56:52.37ID:xvX4Nzda
氏政と黄梅院の話とか、夫に尽くす早川殿、北条夫人をみると
北条家が戦国時代を生き残るのは難しかった気がする
0221人間七七四年2016/02/23(火) 22:31:33.07ID:4Krux0rQ
早いうちに同盟を結び後々臣従すれば生き残れただろう
しかしながらどこの大大名も猿ごときなどと侮って過小評価してるからなw
魔王くらいインパクトないと畏怖しないんだね
0222人間七七四年2016/02/24(水) 11:03:12.07ID:GZz9U8JJ
ぶっちゃけ東国組で速攻秀吉と手を結んだのは
勝家との確執って理由があった(勝家の対抗馬なら誰でも良かった)上杉くらいですし
0223人間七七四年2016/02/24(水) 11:43:00.97ID:GDc0Jsbf
上杉毛利は勝ち組、徳川についた奴は負け組
0224人間七七四年2016/02/24(水) 11:43:57.09ID:OZ8/vebl
西国だってそうだわ。毛利は秀吉と勝家を両天秤にかけてて、賤ヶ岳合戦のあと秀吉から糾弾されてる。
0225人間七七四年2016/02/24(水) 11:59:32.29ID:lg3xEMyk
北条まで本領安堵なんかしちゃったら与える土地が全く無くなるからな
北条が生き残るには秀吉が西より東から統一してなきゃ無理だな
0226人間七七四年2016/02/24(水) 14:22:15.78ID:GDc0Jsbf
そもそも抵抗してる時点で詰んでるよ
本拠地を攻められて降服じゃあ相模伊豆安堵も危うい
やるなら野戦して降服しないと
0227人間七七四年2016/02/24(水) 18:25:33.36ID:yQOMArRR
小牧長久手の時にラスボスと同盟結んで背後から徳川を攻撃する事以外、
北条が生き残る道は無かった
それ以外にラスボスに恩売るタイミング無かったし
0228人間七七四年2016/02/24(水) 19:54:52.15ID:6Blzu3C3
北条は大領で本領安堵は難しいという説はよく聞くが、実際どうかな?
状況は違うが家康は5か国安堵してもらっているし、毛利・上杉もそう。
家康入府以前に関東なんて大して開けてないし、九州征伐前後の時期、
北条から腰を折って来たら秀吉も受け入れたのでは?
0229人間七七四年2016/02/24(水) 20:26:16.51ID:kmCFO9Qi
かろうじて河内狭山藩主として残ってるからま、多少はね?
0230人間七七四年2016/02/25(木) 14:45:44.31ID:TxbN0KVY
バカは黙って三国志板に行ってこいよ
0231人間七七四年2016/02/25(木) 17:47:51.90ID:O9n+VizP
>>228
その時は受け入れるが、後々徳川と両天秤に掛けられてどちらかが潰されてた気はする
そうなるとより大身で色々と火種を抱えやすいほうが・・・
0232人間七七四年2016/02/25(木) 19:04:08.22ID:EPBFhMLJ
東国の大大名で徳川と上杉は仲悪いから睨み合わせておけるけど、
北条は徳川と仲良さそうだし、両家で連合したらラスボス相手でも
抗しえるので、北条が関東制覇したままの状態で残ることは難しそう。

もっともラスボスには大陸制覇の野望があるから、北条があっさり
降伏する分、前倒しで唐入りし、うまく大陸に大領土を拡張できたら、
徳川、北条が大大名でもあまり気にしないだろが。
0233人間七七四年2016/02/25(木) 19:07:39.55ID:VV52jl0m
>>222
青森勢も秀吉よいしょしてたような
うろ覚えだけど
0234人間七七四年2016/02/25(木) 22:50:02.06ID:rYsnAXrG
(関ヶ原の結果)内府様(徳川家康)は日本全国の君主となるに至ったが、他の君主のように
勝利の後に暴虐を行うことはなかった。彼は捕虜となった敵に対して穏和の手段をとったが、ただ
3人だけは許さなかった。閣員(奉行衆)の軍を率いて彼に反抗した近江の王・治部少輔(石田三成)、
肥後半国の王・ツノカミ殿(小西摂津守行長)、毛利殿が顧問としていた安国寺(Ancocugis 恵瓊)である。

彼らは甲斐守(Cainecanis 黒田長政か?)に捕らえられ、初めはその身分に応じた待遇を受けたが、
程なく大阪に幽閉され、死刑を宣告された。彼らは大阪において痩せ馬に乗せられ、市内を引き廻れたる後、
荷車を以って都に送られた。彼らの周囲には市民が群集して、貴人の不幸を憐れむ者もあり、また之を
罵る者も有り、治部少輔は第一の車に在り、安国寺はこれに次ぎ、ツノカミ殿は最後にあった。
ラッパ手が各人の前に行き、彼らは謀反人なるを以って恥ずべき死刑に処せられることを声高に叫んだ。

この時、ツノカミ殿はいささかも勇気を失わなかったが、他の二人は無罪を陳じて、当局者の処置に対し
愁訴した。

彼らが刑場に近づくと、近隣の仏教僧が数人やってきて彼らに説教を行い、かつ、全ての罪悪を
浄める為の、多くの笑うべき儀式を行ったが、これは死後、不潔な精神を有さずして阿弥陀の前に
出るためであった。これによって処刑者はいささかの慰安を得て、永久の生に確信を持ったようであった。
ところが、ツノカミ殿は頑として僧の説教を拒み、あくまでキリスト教徒たる態度を示した。

刑台に上がる時、高僧が来た。彼は通常は外出せず、ただ高貴な人が悩むときにおいて顔を出すのみであった。
彼は多数の日本僧を伴い、手には釈迦の聖典を携えていた。

彼は様々な呪文を唱え、また作法を行った後、治部少輔と安国寺が死せんとする時、聖典を取り出して
これに接吻させた。しかしツノカミ殿はこの高僧を罵り、己がキリスト教徒であることを公言した。
そして帯の間から、キリストとマリアの小さな絵を取り出した。これは皇帝チャールズ5世
(神聖ローマ皇帝カール5世)の同胞、ポルトガル国の女王(王女?)カザリン(キャサリン)がエスイト教徒
(イエズス会)の手を経て彼に贈ったものである。

ツノカミ殿はこの絵を両手に捧げ、これを熟視して祈祷をなし、首を差し伸べて剣手の刀を待った。
剣手は3度にてこれを刎首した。他の2名も同様に処刑され、その死骸は焼かれた。
ツノカミ殿の死骸はエスイト教徒の手に渡り、都において、良き屍衣によって覆われ、ローマ教会の儀式によって
埋葬された。

(モンタヌス日本誌)
0235人間七七四年2016/02/25(木) 23:57:07.10ID:PgRWsO7d
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5648.html
半分は既出のような
0236人間七七四年2016/02/26(金) 10:19:24.41ID:flISSs7M
でも寺や神社に祀られるんでしょ
0237人間七七四年2016/02/26(金) 14:38:32.53ID:wJbS32Th
高野山で逢いましょう
0238人間七七四年2016/02/26(金) 14:59:51.90ID:BOOoXAE2
島原の役の時、真田信之が細川忠利にこう言った
「今回、板倉内膳正重昌が討ち死にした事で、敵を急ぎ踏み潰すためにあなた方を
遣わされるようですが、ただし、手間取って思ったようには成らないでしょう。
そのように心得ておくべきです。

私が昔、忍城の成田氏を攻めた時のことです、
軍勢は勇まず、下知を聞こうとしませんでした。帰陣した後、私は父の安房守(昌幸)に言いました
『あのような腰抜けばかりを選んで私に付けられたので、今度の合戦で勇まないのです。』
安房守は怒って申しました
『若輩者が!何を不智な事をいうか!?それはお前が、去年合戦で後れを取ったためだ。
一度後れては3年失せぬものである!』

今度の島原も、内膳正は討ち死にし、軍勢は損害を受け、みな恐怖心を持っているでしょうから、
軍勢は勇もうとしないでしょう。であれば、手間取ります。
その分別をして、ご出陣すべきです。」

(名将言行録)
0239人間七七四年2016/02/26(金) 15:29:09.86ID:wJbS32Th
そりゃあ総大将がアレですから
0240人間七七四年2016/02/26(金) 16:05:21.65ID:linV+D2a
>>238
小童!ではないのか。
0241人間七七四年2016/02/26(金) 17:55:57.98ID:DxkpIThN
去年合戦で遅れをとった、て名胡桃城取られたこと?
信幸に責任あったっけ
0242人間七七四年2016/02/26(金) 18:23:49.08ID:rVEZlCrD
沼田の責任者だからだろ
0243人間七七四年2016/02/26(金) 18:34:42.29ID:vERWSTmf
そのお陰で北条攻めの名分が出来たのに…
0244人間七七四年2016/02/26(金) 18:46:04.34ID:Wke8w9Jz
天正の末、参州水野和泉守の嫡男、水野六左衛門は
太閤秀吉公の扈従であったが、相撲の諍いによって傍輩を殺して出奔した。
秀吉公大いに怒って、諸国を尋ね求めてこれを殺さんとした。
六左衛門は勇敢身に備えたる人であったので、九州へ下向し
姓名を改め、所々の戦闘に参加し功があった。
名が既に顕れたので、ここも逃げ去り、糧食も尽き、身も塞がってしまったので
漢の韓信が釣りを垂れる苦しみであった。
美作国へ往き、安藤という百姓の聟(むこ)となった。
しかし農作を勤めず、朝夕川に臨んで網釣を事とし
山へ登って禽獣を狩ってばかりいた。
安藤、これを見て「汝は我跡を相続する者ではあらず」と大いに怒り、追い出した。
恥辱と思ったのだろうか、刀を抜き刺殺し、ここをも走り去り、三村紀伊守を頼った。

(西国太平記)
0245人間七七四年2016/02/27(土) 10:38:18.43ID:r+I6p6vK
>>244
毎度お馴染みの水野さん
0246人間七七四年2016/02/27(土) 10:42:43.56ID:mTZkIgw9
どの話でもだいたい大筋の流れ同じだからやっぱり本当にDQNだったのだろう
0247人間七七四年2016/02/27(土) 12:16:09.29ID:fqUtjaJs
>>242
その時沼田は小田原に割譲済だけど?
0248人間七七四年2016/02/27(土) 12:27:16.72ID:nDdVzJi9
つ名胡桃
0249人間七七四年2016/02/27(土) 14:14:58.07ID:4EbOraoe
>>244
水野「ヒャッハーッ!血だ!血を寄こせ!」

各地でこれだもんな
0250人間七七四年2016/02/27(土) 20:42:54.44ID:Qr2b1qrj
それが中国大陸で娘娘を強姦して廻った日帝軍人に引き継がれるわけですね
旧家にある銃剣で若い娘娘を突き刺してる曾祖父の古写真を見るたび日本人である自分を呪いたくなります
0251人間七七四年2016/02/27(土) 20:46:55.21ID:XgP8Ra7H
釣れますか
0252人間七七四年2016/02/27(土) 23:34:13.73ID:D76wOlY2
250はパンチョッパリニカ?
0253人間七七四年2016/02/28(日) 00:26:07.39ID:+mnejghW
>>244
水野勝成は今で言うADHDっぽい。
衝動性や他人への共感性の欠如や
自伝での虚言癖等、当てはまる要素が多い。
ADHDは適性に合った職や環境に出会うと改善するが
勝成の場合、家督を継いで小藩を治める、というのがそれだったんだろう。
0254人間七七四年2016/02/28(日) 06:02:43.25ID:8i+MnqKv
>>253
それ言いだすと、鎌倉時代以降〜元禄期までの武士はADHDだらけだぞ。
毎日人を殺さないと気が晴れないとか、生首を飾ってないと機嫌が悪いとか、悪口から周囲を巻き込んで殺し合いとかごろごろしてる。
0255人間七七四年2016/02/28(日) 07:02:41.61ID:5s/MLQ/I
当時はそれが仕事だから
0256人間七七四年2016/02/28(日) 07:53:29.36ID:MPqumkkl
>>244
これでも水野一族ではまともの方なんだよな
勝成さん以外の水野一族の方々も
表に出てないだけで勝成さん以上の無茶ぶりをやらかしてるし
三河では勝成さんクラスのDQNが当たり前だから
たまたま勝成さんは奉公構えで全国を彷徨ったから目立っただけだから
ただこの狂気な水野一族の血脈から天下人が出て来たから
ある意味勝ち組何だが
0257人間七七四年2016/02/28(日) 09:00:58.75ID:xgbWrhES
それが当たり前なら、勝成を始めとする水野一族を
無理に持ち上げなくてもいいような気がするんだけど。
どうしても高く評価されないといかんのか?
0258人間七七四年2016/02/28(日) 10:02:18.56ID:LfsNoNs8
それでも島津軍法みたいなのは基地だと思う
おかげで島津軍の通ったあとの九州各県は兵だけでなく
片っ端から村人殺されペンペン草も生えない大虐殺だらけで
薩摩以外からはいまだに嫌われてる
まあ黒田とかも好かれてないが
0259人間七七四年2016/02/28(日) 13:48:59.74ID:sDx5l1XY
水野一族は変わり者が多いからな
天保の改革で有名な水野忠邦なんか
老中になりたいが為に実質20万石以上ある
唐津藩を捨てて6万石程度の浜松藩に転封したぐらいだからな
0260人間七七四年2016/02/28(日) 15:03:20.59ID:RTpfv5yA
松平の血で中和出来たんだろうか?
でも諸々のエピソード聴くと短気なところは受け継いでるな
0261人間七七四年2016/02/28(日) 15:06:43.79ID:iethBXAo
まさか本気で言ってないよね
0262人間七七四年2016/02/28(日) 22:05:47.55ID:cPzbsdgc
やっぱ水野一族も面倒くさい三河武士なんだな
0263人間七七四年2016/02/28(日) 23:37:23.34ID:FsKlazUS
お前らと一緒だな
0264人間七七四年2016/02/28(日) 23:44:27.96ID:/m5uHHqe
>>259
いやあれはもうしょうがない。
忠元系水野家5代の忠之が勝手掛老中になってしまったことで、
水野家としては「老中を輩出した」という事実が重く乗っかっている。(それ以前もこの家
幕府の重職についている家格だし)

なので、このまま埋没した場合「先祖の威名を汚した」として、大名連中から物笑いの種に
なってしまう。
綱吉の頃だったか老中になりたいために、譜代大名が柳沢に運動したりとか
そこら辺の苦労話みたいなものもあるしねえ。(それですらなかなかうまくいかないのだが)
0265人間七七四年2016/02/29(月) 10:51:29.31ID:EDpWGsSr
水野の創作文芸信じて、勝成最強!!とか言っちゃうのって、
中学生ぐらいまでにしておきたいよなぁ。
0266人間七七四年2016/02/29(月) 13:56:08.18ID:mGas1m50
最強は本多忠勝だろ三河人なら園児でも知ってるわ
0267人間七七四年2016/02/29(月) 14:07:41.95ID:xXfunMOA
>>266
父上…最強の名乗りは私を倒してからなさいませ
0268人間七七四年2016/02/29(月) 18:06:02.01ID:2zRB3gVd
>>265
でも勝成ファンってギャグセンスあると思う。
ネットで「黒駒合戦で一人で300の首級を上げた」ってのを見て
首供養10回分じゃん!って笑っちゃったもん。
0269人間七七四年2016/02/29(月) 18:34:30.73ID:UZopRqti
>>256
表に出てないのに、お前は何で知ってんの?
0270人間七七四年2016/03/02(水) 16:03:33.41ID:zQw4wQ1m
ブラタモリ見たけど城下町を造るって大変だな
http://i.imgur.com/kfjSEoN.jpg
http://i.imgur.com/Jxcn4s1.jpg

参考
http://www.yonkeiren.jp/sef/senkakusha2.pdf


こんなに苦労して城と城下町造っても、会津に転封....
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-839.html
0271人間七七四年2016/03/02(水) 17:35:51.92ID:ybjpJ4JY
地味な作業じゃのう
0272人間七七四年2016/03/02(水) 18:14:15.33ID:8pSP80LN
蒲生氏郷「俺のことかと思ったのに」
0273人間七七四年2016/03/02(水) 21:06:02.36ID:xVGEjDjB
残念ながら熱帯雨林は酸素供給なんてしてないぞ
0274人間七七四年2016/03/02(水) 21:11:33.40ID:ybjpJ4JY
お、おう
0275人間七七四年2016/03/03(木) 22:14:31.27ID:23E5b8t+
松永弾正少弼(久秀)は、その嫡子右衛門佐(久通)と共に計った

「織田信長は若年の頃より、小勢を以て大軍を砕き、度々勝利を得たのは、時の運に乗じたのみではない。
武勇も世に超え、智謀も人に優れ、古今に傑出した人なるが故である。
往を以って来を計るに、今後彼の武威はいよいよ四海を覆うだろう。私が危険に逼迫してから屈服しては、
敵にも味方にも侮られてしまい、それから悔いても意味は無い。未だ余裕のある内に降参し、和州多聞城を
明け渡して偏に忠をなせば、きっとその益もあるだろう。」

そう議定し、内々に佐久間右衛門尉信盛に遣いし、この旨を述べると、信盛は早速岐阜に参じて
これを取り次いだ。信長は言った

「松永久秀は武略にも達し、かつ聡明な人物だが、隠れなき佞人である。
己が名利のために計る者は、その威積累する時には、果たして国家を乱すこと、掌を返すより
簡単に行ってしまう。そのような徒者をどうすべきだろうか?」

佐久間は答えた
「それは暗君に仕えての事です。まず御赦免されれば、天下静謐の功も、速やかに成し遂げられるでしょう。」

これに信長も説得され
「ならば汝が、兎にも角にも計らうように。」と信盛に任せた。
これによって降参の義は調い、先ず多聞城を請取、こうして松永父子は元亀4年4月10日に
岐阜に参向し御礼申し上げ、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差など進上した。
こうして多聞城には山岡対馬守を入れ置かれた。

(甫庵信長記)

甫庵信長記より、松永久秀臣従の模様である
0276人間七七四年2016/03/04(金) 10:11:20.67ID:752mqM54
全て甲斐の生臭坊主が悪い
0277人間七七四年2016/03/04(金) 14:20:47.94ID:1i+wHq0y
>>276
人とは欲を生きることじゃ、己の欲に生き生き抜いてこそ見える境地あるかもしれぬ
0278人間七七四年2016/03/05(土) 07:35:27.90ID:3KJccw/e
ある時、徳川家康物語の折、大久保忠世が言った
「奥州一揆(葛西大崎一揆)の時のことです。蒲生氏郷は伊達政宗に謀られ、名生城を攻め懸けましたが、
危うい合戦に打ち勝ったのはまさに武功の大将です」

家康はこれを聞くと
「蒲生氏郷は武勇の士であり、武功とは言いがたい。
おおよそ”功”と言えば、智謀勇あって勝つことを武功と呼ぶ。”功”は”いさお”と読むと、
これは「功績」を意味する。
また”剛”は強きを意味する。氏郷は武剛と呼べるであろうが、謀は不足している。
第一客戦(敵の領内での戦争)の法をわかっていない。

敵国に入るには、郷導を5人も10人も求めて、地理および士民の風俗、粮の有無を案内者に
尋ねた上で働くのが定まった法である。然るに案内者を求めなかったのは智謀の足らざる所である。
これによって不覚を取ったといえる。

氏郷が伊達政宗を唯一の案内者と頼み、彼が申すのを真実としたのは智の不足である。
政宗が味方だからといって、その言葉を真実と受け取るのは愚かなことだ。
勇士の習いとして、人を出し抜き独り功を立てんと思う輩は、偽り、謀を構えること、
その例多い。昔、佐々木高綱は梶原景季の馬の腹帯が伸びていると偽って先に登った。
近くでは九戸城攻めの時、堀尾帯刀が病気と偽り、先陣と定められていた氏郷を出し抜き、
九戸城をただ一人で攻め落として蒲生の手を失わせたという例がある。

そもそも名生を攻める前、政宗に思うところあって氏郷を茶に招いた時、氏郷は政宗の
企みを察し、郎党も含めて用心していた。それなのに政宗の、高清水のほか敵は居ないという
言葉を事実と心得、案内者も求めず名生城を攻め立てたのは、正直に言って全く智謀がない。

兵は偽りの道である。ではあるが、偽りを以って躰とはしない。実を以って躰とし、偽りを
権に用いる。
戦争では虚実の変がある。これを判断できなければ、いざという時、必ず失う物が多くなる。」

この言葉に、一座伺候の者達は皆感心した。

(伊逹秘鑑)
0279人間七七四年2016/03/05(土) 09:59:03.17ID:6uru3vLx
俺が氏郷ならDQNをぶっ殺してラスボスには、こいつが黒幕でした
って事後報告するわ

DQN殺して、咎められるとは到底思えん
0280人間七七四年2016/03/05(土) 10:31:57.42ID:rfLBdCmG
何、このゲーム脳
0281人間七七四年2016/03/05(土) 11:24:16.14ID:RMpi+8RN
>>278 一行にまとめると「政宗を信用するとか、バカなの?死ぬの?」ってことか。
0282人間七七四年2016/03/05(土) 11:51:18.60ID:2PJRhSNT
家康は甲斐で一揆を扇動して、河尻秀隆を殺してるから
大崎葛西で一揆を扇動した政宗の心理も良く分かった事だろう

工場長は優秀なんだけど順風満帆な人生のせいで、悪人に対応する
スキルが不足している気がする
0283人間七七四年2016/03/05(土) 14:17:51.74ID:ZeMm1oSb
上手いこと言うね
0284人間七七四年2016/03/05(土) 21:46:17.24ID:vA0aQVHO
信長の野望で水野勝成がやっと評価されたらしいな
0285人間七七四年2016/03/07(月) 17:15:06.26ID:kS/hBmPc
織田信長の元へ、鏡屋の宗白という者を、村井長門守(貞勝)が召し連れ、彼は手鏡を献上して
御礼申し上げた。

信長はこの手鏡を取り上げると言った
「たいへん明白に映る鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡はないものだろうか?

世の癖として、諸侯太夫、寵臣たちは、良くも悪くも皆適切な発言をする。しかしこれによって
主君たる者は却って心を暗まされてしまう事、日々月々にいや増しているが、行いの悪しきを
諫むる者は居ない。
だからこそきちんとした諫臣を得なければ、政道の実利は聞こえてこなく成るものなのだ。」

そんな事を語りながらふと鏡の裏を見ると、そこには『天下一』と銘してあった。
信長の機嫌はたちまち悪化した

「去年の春、どこぞの鏡屋が献じた物にも『天下一』と銘じてあった。天下一はただ一人あってこその、
一号にてあるべきだ!それが二人もあるのは濫りというものではないか!

これは偏に長門守の不明より起こったことであるが、汝の不明は私の不明である!」

そう、殊の外ショックを受けたようであった。(事の外にぞ痛み思召し給ひける。)

(甫庵信長記)
0286人間七七四年2016/03/07(月) 17:26:02.55ID:3as9S0BN
オンリーワンて意味だろ
0287人間七七四年2016/03/07(月) 22:10:39.31ID:Zknb0aiq
そもそも、信長が色んなものに天下一って評価を与えてるんじゃなかったっけ?
自分が関係ないところで「天下一」を使ってることに起こったんじゃないか?
0288人間七七四年2016/03/08(火) 10:24:08.55ID:42/aHoLr
おこなの?
0289人間七七四年2016/03/09(水) 03:13:53.82ID:kDB78OH7
http://i.imgur.com/3xnvz1k.jpg
0290人間七七四年2016/03/09(水) 07:08:15.44ID:1bNIM6x/
誰これ?ブスしかいない
0291人間七七四年2016/03/09(水) 22:03:39.93ID:GlMZAr4d
ヤフーニュースから
https://pbs.twimg.com/media/Cc2u_8sUsAAhNQB.jpg
みんなだったらどこ座りたい?
※なお森長可の人間無骨は二つ隣りの席まで届くものとする
0292人間七七四年2016/03/09(水) 22:38:37.40ID:pIU/YpjM
>>291
15かな
0293人間七七四年2016/03/10(木) 21:45:32.61ID:C5sK8azt
>>291
元ネタはこれかな?
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293102886/294
0294人間七七四年2016/03/11(金) 10:16:15.46ID:axDp3R6T
>>291
少なくとも5の席の机の上には花瓶と花が置いてあるのはわかる
0295人間七七四年2016/03/11(金) 13:54:35.08ID:P+Fw5RO8
>>285
信長が政道とか言っても説得力ないよね 悪逆無道で滅ぼされたんだから
0296人間七七四年2016/03/11(金) 14:40:54.41ID:8yyrruOc
>>291
小野木公郷助命問題で忠興と揉めた直政と
ガラシャが隣ってのが上手いね。
とりあえず教科書忘れたガラシャに机くっつけてあげる直政と
それを歯ぎしりして見ている忠興の図は想像できた。
0297人間七七四年2016/03/11(金) 19:00:42.70ID:cGLcVCWY
天正19年、愛息鶴松を失った豊臣秀吉は、10月19日、諸大名、奉行たちを尽く集め、
朝鮮への出兵を宣言した

「先ず朝鮮を征して、従えばこれに先登させて進むべし。従わずば尽く攻め平らげ、
そのまま大明国に攻め入ろう。何の難しいこともない。各々、どう思うか!?」

諸大名は驚愕した。みな、秀吉は愛子を失い、嘆きのあまり狂気したのだと思い、
口を閉じて答える者はいなかった。
徳川家康は上座に居たが、彼はこう思っていた。我々は連年の軍旅に疲れ、去年に成ってようやく
一息ついたというのに、またもや兵を三韓に出せば、人民がどれだけ困窮するか言葉にもしがたい。

そして秀吉の言葉が聞こえなかったかのように、何も答えなかった。
秀吉は家康が答える様子がないのを見て、憤怒の表情になり、歯を食いしばり拳を握った。

その時、毛利輝元、前田利家、上杉景勝などが、その気色に恐れ口々にいった
「甚だ然るべき、誠に神功皇后以来の大事業です!武将と呼ばれるほどの人物の中で、兵威を
異朝に輝かせるのは、秀吉公にあらずして誰が及ぶでしょうか!」

このように阿ると、秀吉はたちまち喜びを表情に表し、すぐに九鬼嘉隆に命じて、伊勢の浦にて
巨大な艦船数百艘を作るよう命じた。その中で最も巨大なものは日本丸と号した。また中国四国九州の
諸大名は、秀吉の命に従い戦船を調え粮米を集め、兵を動員した。このように、当座の狂言とばかり
思われたものが、終に実際の出来事となり、大小名に至るまで興を覚ます思いをした。

こうして御前伺候の者たちが退出する中、浅野長政一人、見舞いと称して徳川家康の屋敷を訪ねた。
長政は聞いた

「今日の、秀吉公が韓朝を攻めるという話をどう思うか?」

「…名を末代に留めようとする者は、これを是とするだろうか?はっきり言えば、全く益のない企てである。
仮に三韓を攻めて日本に従わせたとしても、それから得られる利益はない。みな日本の費えになってしまう
だろう。
また、大明を日本の国力で従わせることが出来るとは思いもよらない。年月を経ても大明は雌伏するだろう。
10年も20年も戦えば、日本は兵力が尽きて、却って異国に奪われてしまう。
また大明を攻めてその兵を撤退させる時、大明の国王が、どうしてそれをそのまま置いておくだろうか?
彼らを見捨てることは出来ないのだから、撤退させるためにさらに軍を派遣しなければならない。
そうなれば日本の民はさらに疲弊し、亡国となるだろう。

あの時私は、秀吉公が怒ってその仔細を問うて来たなら、叶わぬまでも問答して押し止めようと思っていた。
ところが輝元たちが秀吉公に阿って非を是とした。忠臣の法ではないよ。
秀吉公は愛子に別れ、狂してああいう心が出たのだろうが、3年5年も過ぎずに後悔するだろう。
去年、北条が滅んでようやく静謐と成ったのに、今また朝鮮への企てを成す。是非を論ずるまでもない。

おおよそ、天下の主は万民の父母である。天下は一人の天下ではない。それなのに我意にまかせ名利を
貪り、民を苦しめる。本人は果報によって安穏に居られるかもしれないが、子孫は覚束ないだろう。
惜しいかな、秀吉公は、士を恵み民を慈しめば武運長久であるのに。」

長政はこれを聞くと言った「願わくば、秀吉公を諭していただけないだろうか?」

しかし家康
「皆が一同揃って然るべからずと諌めれば、もしかすれば説得することも出来ただろう。
だが、私一人が何度言っても、承服するような性格ではないだろう?
曲がった言葉を出す者は、また人の言葉も曲げて入るという。言わぬほうがマシだ。」

これに長政も「その通りだ」と答え、夜になって帰っていった。

(伊逹秘鑑)
0298人間七七四年2016/03/11(金) 19:10:28.83ID:IF10bqjj
>>297
家康が反対しても潰されるだけだろうしなぁ…。
五大老全員反対してれば秀吉も内乱で負けると思って止めるかも?
0299人間七七四年2016/03/11(金) 19:54:37.49ID:vSo0yAL7
>>297
プロバイダ臭い話だなぁ…
まぁ戦前のジャップに聞かせてやりたくはあるな
0300人間七七四年2016/03/11(金) 21:41:13.17ID:qQZv496K
プ、プロバイダ・・・
0301人間七七四年2016/03/11(金) 22:30:03.85ID:hLsw5c9k
プロの売女(バイタ)といえばあれか
0302人間七七四年2016/03/11(金) 23:23:51.80ID:QmcX+9hA
ご・・五大老
今の時代に五大老っすか
0303人間七七四年2016/03/12(土) 01:20:28.36ID:UuO6uAQQ
プロバイダ?
0304人間七七四年2016/03/12(土) 02:20:14.43ID:8i4G8LAa
お、OCNとか?
0305人間七七四年2016/03/12(土) 10:35:48.14ID:Hphtd2wu
                                              ヾ~ソゝ
                       >゛<                     ,.ゝ゛く
                      // ヽ\        ,.-―-、        (   )
        /|    /|         < / ハ >、`>       (_,,.......,,_)       ヽ_ソノ
       | .|   / .|          `'`..'┃'         \V/        ノソゝ
      /(,...).lノ /          _,,....,,_┃        _,,....,,_┃      ,(_)、....,,,┃
     _(‘ー‐'ノヽノ―、       ///ハ ヽ        ///ハ ヽ      `()'ハヽヽ
  _∧ソ゚Д゚ィ^’l '´  ヽ  _∧∠/二ヽっl    _∧∠/二ヽっl   _∧∠二ヽっ l
 (_・ |7(・_・ ヽ ヽ ー | (_・ |/(・_・ ヽ=ヽ  (_・ |/(・_・ ヽ=ヽ (_・ |/(・_・ ヽ=ヽ
    |\Ю ⊂)|√ヽヽ,/    |\Ю ⊂),√ヽ   |\Ю ⊂),√ヽ   |\Ю ⊂),√ヽ
   (   ̄ ~∪ )^)ノー‐'    (   ̄ ~∪ )^)ノ   (   ̄ ~∪ )^)ノ  (   ̄ ~∪ )^)ノ
    ||` || ( | ( |        ||` || ( | ( |      ||` || ( | ( |      ||` || ( | ( |
    '~ ~ '~ '~         '~ ~ '~ '~      '~ ~ '~ '~      '~ ~ '~ '~
    '~ ~ '~ '~         '~ ~ '~ '~          '~ ~ '~ '~       '~ ~ '~ '~
   桜井左吉       糟谷助右衛門     平野権平     加藤孫六

プロバイダ臭い話だなぁ…         プロパティ臭い話だなぁ…

           プロパンガス臭い話だなぁ…        プロパガンダ臭い話だなぁ…



正解は誰?
0306人間七七四年2016/03/12(土) 17:32:37.08ID:mQ0JMx2g
 昔々、建部宗右衛門正遠という戦国武将がいました。
正遠は領内に重税を課し、領民からは悪評でした。
一揆が起きても全く聞く耳を持たず、武力で弾圧し、
さらなる重税を課すほどでした。
 ある時、そんな正遠の前に美少女が現われました。
彼女は領内の百姓の娘でした。
正遠はすっかり少女に一目惚れしました。
そんな正遠に彼女は言いました。
「領民を苦しめるのは、お止めなさい」と。
正遠は、「それならば、私の妾になるのなら、
その願いを聞いてやろう」と言いました。
そして、2人は結婚し、すぐに子供ができました。
正遠は子供に、「我が家は正が通字だから正の字と、
妾の名前の貴恵(きえ)から恵の字で、名前は正恵
(まさやす)と名付けよう」と言いました。
しかし、これには貴恵も猛反対しました。
「あなたの家の通字の正の字と、私の家の通字の氏の字で、
正氏(まさうじ)にしなさい」と言いました。
既に貴恵に逆らえない状況になっていた正遠は、
それをすんなり承諾しました。
領内から一揆がすっかり無くなり、税金も殆ど課さず、
領民に対するいじめも無くなりました。
 ある日、突然、貴恵と正氏が家を出ていきました。
驚愕した正遠は城を留守にし、妻子を探しに向かいました。
主をなくした城では、「隣国から敵が向かっている」と大騒ぎになりました。
それは建部家の長年の敵である、今川佐渡守近氏の軍勢でした。
近氏は正遠の城を包囲しました。主がいなく、また、
これまで減税して武力に補強していなかった城はすぐに陥落しました。
建部の城に近氏が入城しました。なんと、そこには貴恵と正氏も一緒でした。
実は貴恵は近氏の妾で、正氏は近氏の実子でした。
こうして、正遠がいなくなった建部の城は、今川の城となり、
領内に重税を課しました。領民は一揆を起こしましたが、すぐに鎮圧。
正遠の首を持ってきて、仕官しようとした領民も現われましたが、
それも無視しました。
こうして、近氏と貴恵と正氏は幸せに暮らしましたとさ。
0307人間七七四年2016/03/12(土) 17:54:02.73ID:5hIwlm3z
建部正遠可哀想
0308人間七七四年2016/03/12(土) 17:55:50.96ID:5hIwlm3z
俺の子供の名前、正恵にするわ。
0309人間七七四年2016/03/12(土) 18:54:34.74ID:gTxoU8K6
創作?
0310人間七七四年2016/03/12(土) 19:00:39.20ID:y5ta8Keg
創作だな
0311人間七七四年2016/03/12(土) 22:13:44.06ID:mQ0JMx2g
戦国武将・建部宗右衛門政遠公

 昔々、建部宗右衛門政遠という戦国武将がいました。
政遠は領内に重税を課し、領民からは悪評でした。
一揆が起きても全く聞く耳を持たず、武力で弾圧し、さらなる重税を課すほどでした。
 ある時、そんな政遠の前に、美少女が現われました。
彼女は領内の百姓の娘でした。
政遠はすっかり少女に一目惚れしました。
そんな政遠に彼女は言いました。
「領民を苦しめるのは、お止めなさい」と。
政遠は、「それならば、私の妾になるのなら、その願いを聞いてやろう」と言いました。
そして、2人は結婚し、すぐに子供ができました。
政遠は子供に、「我が家は『政』が通字だから『政』の字と、妾の名前の貴恵(キエ)から『恵』の字を取って、名前は政恵(まさやす)と名付けよう」と言いました。
しかし、これには貴恵も猛反対しました。
「あなたの家の通字の『政』の字と、私の家の通字の『胤』の字で、政胤(まさたね)にしなさい」と言いました。
既に貴恵に逆らえない状況になっていた政遠は、それをすんなり承諾しました。
領内から一揆がすっかり無くなり、税金も殆ど課さず、領民に対するいじめも無くなりました。
 ある日、突然、貴恵と政胤が家を出ていきました。
驚愕した政遠は城を留守にし、妻子を探しに向かいました。
主をなくした城では、家臣たちが「隣国から敵が向かっている」と大騒ぎになりました。
それは建部家の長年の敵である、椎名越後守親胤の軍勢でした。
親胤は、家臣の阿部平八郎と斎藤与五左衛門に命令し、政遠の城を包囲しました。
山名与三郎と南部七郎兵衛ら、政遠の家臣らも必死に抵抗しましたが、主がいなく、また、これまで減税して武力を補強していなかった城は、すぐに陥落しました。
政遠の城に親胤が入城しました。
なんと、そこには貴恵と政胤も一緒でした。
実は貴恵は親胤の妾で、政胤は親胤の実子でした。
こうして、政遠がいなくなった建部家の城は、椎名家の城となり、領内に重税を課しました。
領民は一揆を起こしましたが、すぐに鎮圧。
政遠の首を持ってきて、仕官しようとした領民も現われましたが、それも無視されました。
こうして、親胤と貴恵と政胤は幸せに暮らしましたとさ。
0312人間七七四年2016/03/13(日) 00:43:33.66ID:Dlmlh6PJ
戦国武将・建部宗右衛門政遠公

 駿河国の戦国大名・今川氏の家臣、遠江国の戦国武将・井伊氏の家臣・建部宗右衛門政遠は、領民に重税を課し武力を補強していました。
そのため領民は困窮を極めていました。
反対に建部氏の家臣らは贅沢を極めていました。
政遠は武力を極めることで、今川氏や井伊氏らの家臣の中で力をつけようと企てており、領内の政治のことには無関心でした。
ですから領民が声を上げても、政遠の耳には全く届きませんでした。
主がこの様なありさまなので、政遠の家臣らは腐敗堕落していきました。
領民に因縁をつけては、その場で刀を抜き領民を刺し殺したり。
領内の民家に強盗しては、良さそうな娘を強姦して拉致して監禁したりしていました。
この状況に異議を唱えた家臣もいました。
それが山名与三郎と南部七郎兵衛ら戦国武将です。
素行の悪い家臣らを捕まえては、その場で首を切り落としたりしました。
仲間が山名らに斬られたのをみた他の家臣らは、喧嘩を売られたと政遠の所に訴えに行きました。
政遠は山名らを罪人としました。
山名と南部らは濡れ衣だと訴えました。
しかし、政遠は領民に優しい山名らよりも、民家を強盗して得た金品や、拉致して嬲った後の女を分け与えてくれる家臣らを優遇しました。
山名と南部らはどうしようもできません。
そんなときでした。
隣国の赤佐源太夫直孝が、政遠の領内の酷さを噂に聞き、偵察しに来ました。
領内の現状をみた直孝は酷く憤りを感じました。
すぐに政遠を呼びつけ叱咤しました。
しかし、政遠は逆に直孝に恨みを持つようになりました。
政遠は家臣らの腐敗堕落を利用して、さらに領民を苦しめました。
領民には既に抵抗する気力もありません。
領内には女もいなければ、食べ物もなく、餓死者であふれていました。
そうこうしているうちに、領民の人口は1/10にまで減少。
しかし、家臣らの子孫だけは増えていきました。
人口が減り、領民から搾取できなくなった政遠は、武力も低下して、望み通りにいかなくなっていきました。
そんなときです。
山名と南部らが檻から脱出し、隣国の赤佐氏の領内に逃げ込みました。
そして、赤佐氏の軍勢は建部氏の領内に向かいました。
政遠や腐敗堕落した家臣らには、武力もありませんでした。
直孝は、家臣の阿部平八郎と斎藤与五左衛門らに指示し、建部氏の城を包囲させ、すぐに陥落しました。
腐敗堕落した家臣らは、一族共々全員が斬首されました。
政遠は、自らの元の家臣である山名与三郎と南部七郎兵衛らの下役として、赤佐氏の家臣に取り込みました。
建部氏の腐敗堕落した家臣ら一族を斬首したこともあり、家臣らの子孫ばかりだった領内の人口も、さらに減っていた状況でした。
しかし、直孝は、政遠の旧領を山名与三郎と南部七郎兵衛らに治めさせ、彼らに領内の復旧を任せました。
こうして、領内には、山名与三郎と南部七郎兵衛の子孫だけが増えましたとさ。
0313人間七七四年2016/03/13(日) 01:39:22.08ID:Dlmlh6PJ
戦国武将・建部宗右衛門政遠公

 時は戦国、六角氏が治める近江国に、宗次郎という百姓のせがれがいました。
宗次郎は本を読むことが好きで、仕事をしながら勤勉に励みました。
ある時、近辺を治める、六角氏の家臣・後藤越後守祐豊が、宗次郎の前を通り過ぎました。
宗次郎は祐豊に仕官を望みました。
祐豊は、宗次郎の勤勉さにひかれ、彼を家臣としました。
その後、宗次郎は、建部宗右衛門と名乗り、建部朝臣政遠という名前を持ちました。
政遠は祐豊の家臣として、300石を拝領しました。
その後、政遠は戦で次々と戦功を得てきました。
政遠は、祐豊の家臣の中でも、次第に頭角を現すようになります。
政遠のことは、祐豊の主である六角氏にもとどろく様になりました。
その後、政遠は、祐豊の下役として、六角氏の家臣となり、10000石を拝領するに到りました。
そして政遠は、今の地位に安住してしまい、幸せに暮らしましたとさ。
0314人間七七四年2016/03/13(日) 05:23:41.44ID:J76LvMUu
この年、天正19年は改元して、文禄元年となった。
諸国の軍兵は豊臣秀吉の命を受け、筑紫に赴き、朝鮮に入る準備をした。

12月28日、近江中納言豊臣秀次は関白に任じられ、天下の政治を掌握した。
そして秀吉は太閤と称した。

秀次はこの日参内し、日本中の大小名の内在京しているものは、尽くこれに供奉した。
その行列は予め定められ、1番に蒲生氏郷、2番に伊達政宗、3番が山形(最上)出羽守義光であった。
ところがこの事に対し、蒲生氏郷が秀吉に訴え出た

「山形は源氏の末裔であり、また伊達政宗に対して母方の伯父であります。それなのに義光が
政宗の跡に立つのは本意に非ずと、出羽守は頻りに嘆いています。」

秀吉はこれを聞くと
「誠に私の過ちである。山形は源氏、政宗は藤原氏。山形は伯父、政宗は甥である。
また山形は忠節人、政宗は降参人であるので、山形を先にするのが道理である。」

こうして義光が政宗の先に立つことに決まった。
義光は大いに喜び、蒲生氏郷に対し
「天下に面目を立てることが出来ました。一生この恩は忘れません。もし会津に一乱有れば、
必ず義光が救いに参ります。」
その証人として、息子の駿河守を人質として会津まで送ったが、氏郷はこれを丁重に送り返した。

さて、伊達政宗は、これに間に合うよう年内に上洛していたのに、その甲斐もなく義光が
行列の2番に立つことになった。政宗はこの顛末を聞くと、蒲生氏郷を憎むこと骨髄に至るほどであった。

蒲生氏郷と伊達政宗の関係が、水と火の如くであることを、秀吉はよく知っていた。
だからこそわざと隣同士においてその境を守らせたのである。

(伊逹秘鑑)

蒲生氏郷と伊達政宗の悪関係、実は秀吉が煽っていた、というお話
0315人間七七四年2016/03/13(日) 19:24:19.35ID:aCW8pZdW
中日新聞福井版2月21日
県庁前に秀康が“2人”? 結城会が新設に動く
現在の像「容姿」に異論
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/CK2016022102000199.html
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/images/PK2016022102100124_size0.jpg
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/images/PK2016022102100125_size0.jpg
江戸時代初期に福井藩の初代藩主を務めた徳川家康の次男、結城秀康(一五七四〜一六〇七年)の騎馬像について、
結城家のゆかりの福井市民らが違和感をもち、新像の設置を模索している。福井城跡である市内の県庁前に立つ
現在の像には子孫関係者からも異論が出ており、インターネット上で「中国風」「日本の美意識がない」と批判
されたのを機に動き始めた。今の像を計画した市側は静観するが、二つの像が並び立つ日が来るかもしれない。 (中場賢一)

馬にまたがり、手綱を持つ姿で、県庁の来訪者を迎える秀康の石像。越前国北ノ庄(現福井市)入りから四百周年を
二〇〇一年に迎えたのを記念し、福井市と、市の歴史や文化を紹介する公益財団法人「歴史のみえるまちづくり協会」が
城跡を管理する県に贈呈し、〇二年に除幕された。

制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。

建立直後から、結城家の家臣の子孫の市民らでつくる「福井結城会」には、秀康の子孫の結城松平家や結城家の関係者から
「イメージに合わない」と異論が届き、撤去するよう要請があった。ネット上では「中国風にデフォルメされている」
「日本独自の美意識が感じられない」と評されている。
会の片岡賢三副会長兼事務局長(67)は「不評や失笑どころか怒りを買っている」と新像を計画。秀康に関する資料を精査し、
銅像制作を手掛ける富山県高岡市の「竹中銅器」に昨年十二月にデザインを発注し、一月に完成した。

その姿は秀康が愛用していた唐冠形兜(とうかんなりかぶと)をかぶり、手には天下三名槍(めいそう)の誉れ高い
「手杵(てぎね)の槍(やり)」が握られている。顔は「ナマズに似ていた」ともされているが、イケメン風にアレンジ。
ただ、片岡さんは「あくまでたたき台」と強調する。
0316人間七七四年2016/03/13(日) 19:44:56.84ID:mmYKOCFu
容姿に異論、ていうからギイに似ているとか鼻が欠けた姿にしていたのかと思いきや
0317人間七七四年2016/03/13(日) 19:53:36.58ID:Q9hijGnh
>>315
>「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」
キックバック?公益財団法人の悪い話…。
0318人間七七四年2016/03/13(日) 20:46:50.74ID:xNctmjgV
>>297家康の本音「キマシタワ〜!これで豊臣も終わり、次は儂のターン( ̄▽ ̄)bニヤリ」
0319人間七七四年2016/03/13(日) 21:14:50.13ID:/SDAcKHs
>>315
>制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
>協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。

態々、浙江省の石像作家に頼むからこんな中華風な像なるんだよな
国内の製作者でも戦国の騎馬武者像を正しく作れる人がどれくらい居るかも分からんのに
0320人間七七四年2016/03/13(日) 23:42:28.69ID:AcXeEgg+
>>315
御手杵を馬上で使える訳無いだろw
関係者に馬鹿しかいねぇwww
0321人間七七四年2016/03/13(日) 23:59:30.17ID:wbpvzEpq
はい草
0322人間七七四年2016/03/14(月) 01:14:31.04ID:Vz9aN3QN
>>320
変に関羽みたいになっとるw
0323人間七七四年2016/03/14(月) 15:55:50.98ID:X6LOFWbh
戦国時代騎馬武将の写真なんてあるわけないし
当時かかれた絵もおもいっきりデフォルメされてるので細部は全くの不明
誰も本当の姿なんて知らないし県庁前とおるほとんどの通行人も興味もないししりたいとも思わないので
わざわざ作り直す必要性もないだろう
0324人間七七四年2016/03/14(月) 17:24:28.52ID:fT7s1wsQ
左手にサイコガン付けようぜ
0325人間七七四年2016/03/14(月) 17:38:31.19ID:lbTjKK+/
ヒューッ!
0326人間七七四年2016/03/14(月) 17:54:03.61ID:Yc5G3ZeV
天正壬午の乱の結果、信州一国は徳川家康に属することになったが、ここで天正11年6月、
真田安房守昌幸は国中を従えんと企て、先ず室賀を討つべしと一門を一手に引き連れ
室賀の館に押し寄せた。

しかしこれに、室賀兵部太夫(正武)は自ら打って出て、篠山において火が出るほど激しく戦い、
互いに多くの郎党が戦死したため、双方ともに引いた。しかし翌日、真田は再び取って返して押し寄せ、
これに室賀より和睦を請うてきたため、これを許して帰国した。

室賀入道は真田に従属したことを無念に思い、翌天正12年6月、高井彦衛門尉を通じて
遠州の徳川家康に訴えた。これに対し家康は、「謀を以って真田を討つべし」との返答を得た。
室我入道はこれに大喜びし、それから上田に見舞いに参ること甚だ頻りとなった。

ある時、上方より囲碁の上手が上田へと参り、これに室我入道は招待された。
室賀は「よき時節なり」と考え、日限を定め、一門の室賀孫右衛門を以って
「来月7日、真田の居城に囲碁に参りますが、この時真田昌幸を討ち取ります。
ですのでご加勢下さるように。」
と、徳川家臣の鳥居氏に申し送った。

ところが、この室賀孫右衛門は内々真田昌幸に通じていたため、その書状を直に上田に持って行き、
その内容を語った。真田昌幸は大いに喜び、孫右衛門を馳走して反した。

一方、室我入道は全てうまく行っていると思い、家の子である桑名八之助、相澤五左衛門尉、
堀田久兵衛などを従えて上田に参ると、昌幸は兼ねて用意してあった通り、書院に招いて
囲碁を始めた。
この時、長野舎人、木村戸右衛門が討ち手に決められており、合図を出すのは禰津宮内太輔、麻利子藤八郎、
長命寺、安楽寺であった。

長野、木村は次の間より太刀を抜き出し、室が入道を無常にも殺した。
室賀の家臣である桑名、相澤、堀田はこの騒ぎを聞くより早く殿中に斬り入り、散々に戦った。
しかし、たとえこの3人が項羽の勇を顕したとしても、多勢に取り巻かれ、最後には生け捕りにされた。
この3人は後には心を変じて真田に仕え、無二の忠を成した。
この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀の妻子たちはこのことを聞くと、取るものも取りあえず早々に甲州へと落ちていった。

(加沢記)
0327人間七七四年2016/03/14(月) 20:04:24.99ID:xlMMQtnb
>>323
鎧とかなら残ってるんじゃないのかな
0328人間七七四年2016/03/14(月) 20:36:53.05ID:Yol0YFF+
馬具も馬術書もある
0329人間七七四年2016/03/14(月) 20:58:58.14ID:egIkNCog
中華風にプロレタリア感が加わった何とも言えない石像だなとは思った
まあ結城秀康といえばあの脇立がなきゃって気もするし、どっちもあっていいんじゃないの
0330人間七七四年2016/03/14(月) 23:37:11.54ID:GrsOdL9+
「逮捕されたタレント女医・脇坂英理子は、自称”元華族”のお嬢さま」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160309-00474864-jspa-life

江戸時代に入って途中で養子が入ってたっけ、この家
0331人間七七四年2016/03/14(月) 23:58:02.07ID:9EJeGu8Y
>>330
(※追記:3月10日、脇坂安治の末裔=16代当主が、経営する会社のHPで「脇坂英理子容疑者と、弊社社長・脇坂とは一切関係ございません」と声明を発表。脇坂容疑者は、今まで複数のメディアで大名・脇坂家の出だと自称していた)
0332人間七七四年2016/03/15(火) 00:02:05.99ID:YZC0J5fU
脇坂安治がクズ扱いされてて可哀想

脇坂安治は周りを西軍に囲まれていやいやいただけ
本当のクズは事前連絡して無かったのに、流れをみてどさくさ紛れに
裏切った小川、赤座、朽木
0333人間七七四年2016/03/15(火) 00:09:48.70ID:C+XESIHS
脇坂家は江戸時代に堀田家から二度養子をとったんだったか
で幕末最後の当主は藤堂家から、と
0334人間七七四年2016/03/15(火) 00:13:42.74ID:fCODIKy5
バリバリの武功派で武功派のなかでも家康派なのになぜに決戦場に連れて行ったのかレベル
0335人間七七四年2016/03/15(火) 00:48:12.30ID:eS7+vOIg
そんな事一々気にしてたら兵数が激減するので
0336人間七七四年2016/03/15(火) 00:53:38.69ID:r9VV4Cyo
 天下の政もあまり厳しくしますと、我が朝は勇智が鋭い国ですので、役についている者が安心せず、
思いもよらぬ自害をする事も出てくるでしょう。
 権現様が毎度仰せられていたことに、天下の政は『重箱を擦子木で洗う』(細かなことまで詮索しない)
ようにするのがよろしいとのものがあります。
この御上意は末代の亀鑑だとと思われます。

 また何の役であろうと、自分の仕事が済むとすぐに立ち去るように考えている人がございます。
これは先祖からの知行に疵が付かないようにとの心で、
先祖へは奉公の様に聞こえましても、君への不忠かと思われます。
これは上の情は下へ通らず、下の情が上へ通じないことから出てくるのだと思われます。

 そのうえ権現様が御他界されてからわずかな年月しか経っておりませんのに、自然と華麗になっていますので、
私も人もこれを心に忘れないように、上様の御恩を子孫の者どもへ申し聞かせるのでございます。
(本阿弥行状記)

仕事の引継ぎを準備せず放り投げてくる人っているよね(´;ω;`)
0337人間七七四年2016/03/15(火) 01:00:25.82ID:iW5qRqqm
>>332
朽木家は改易されないで生き残ったね

避難してきた将軍義輝匿ったり、信長が困ってるとき助けたり
良い事してきたからかな
0338人間七七四年2016/03/15(火) 02:14:07.84ID:w/y3/YAv
一族に犯罪者が出れば縁を切るのは今も昔も変わらんだろ
豊臣方についた某とかなw
0339人間七七四年2016/03/15(火) 10:28:25.24ID:4eCAY+2k
中華風にリアリィティないというなら各地の駅前とかにある馬上戦国武将像もあれだろ
ポニーサイズの馬に変更しないと・・・
0340人間七七四年2016/03/15(火) 11:56:53.07ID:NidQDkNs
>>332
実際クズだろw
長宗我部なんかきっとまだ恨んでるぞ
0341人間七七四年2016/03/15(火) 13:38:45.21ID:utlpfOlk
>>339
ポニーだって体高150くらいあるの知ってる?
0342人間七七四年2016/03/15(火) 13:42:56.47ID:vNIvEO5E
>>315
たぶん、碌な資料も渡さずに発注したんだろうな。
秀康像の困惑顔は作家の本心を表してるに違いない。
0343人間七七四年2016/03/15(火) 20:11:29.35ID:iW5qRqqm
根岸にある馬の博物館に在来馬とサラブレッドの
骨格標本が展示されてたけど、思ってたほど在来馬は
小さく無かった
ってかサラブレッドが思ってるよりも大きい
0344人間七七四年2016/03/16(水) 10:57:19.82ID:Mr0glBl3
サラでも三冠馬ディープインパクトなんか体高164だで
現代競馬の祖のノーザンダンサーで157、サラの代表的な祖のハイペリオンなんか152だ

いつまでもサラガーサラガーいってるバカは物知らなさすぎだべ
0345人間七七四年2016/03/16(水) 11:50:01.50ID:E/Z+ByCm
そっだらごどいっだっでよ
0346人間七七四年2016/03/16(水) 13:16:21.91ID:T/2Dqs4v
だいたい戦国時代は蹄鉄という概念がなかったんだろ
宣教師が日本の馬は人乗せると少ししか移動できないとかなんとか書いてなかったかな
甲冑装備の武将が馬に乗ってたのかも怪しい
0347人間七七四年2016/03/16(水) 15:11:11.20ID:kB3DZJB7
原種が水辺棲種の西洋馬は蹄が柔らかい蹄鉄必須だが
草原産のモンゴル馬と同種である和馬は蹄が固いので必須ではない
また馬の足裏は第二の心臓として機能してるので本来は余計なものは付けない方が良く
モンゴルでは現代も蹄鉄は付けない
0348人間七七四年2016/03/16(水) 19:50:36.70ID:AOgP06Dt
天正12年の正月上旬のこと。
上州白井長尾の家中には、百人衆と呼ばれる徒歩の侍の集団が有った。
その頃、真田昌幸の家臣であった沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、
私曲の事があって沼田を立ち退き白井に属し、白井においてこの百人衆に組み入れられた。
しかし、この3人はどうにかして昌幸に忠節を立て、故郷に立ち返りたいと考えていた。

この3人、談合してその事を昌幸家臣の高橋右馬充に伝えると、右馬充はこれを金子美濃に相談した。
金子美濃は「其方、上田に参り注進すべきだ。」と勧めたため、右馬充は上田に参り、丸山土佐守、
木村戸右衛門を通じて申し上げると、真田昌幸は大喜びした
「神妙のことである!卒爾無きように謀るべし!」
そして高橋右馬充は戸鹿野へと戻った

さて、かの3人は白井において、傍輩の者たちをたぶらかした
「沼田、戸鹿野には有徳(金持ち)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか!」
こうして130人ほどが申し合い、この林、吉野、井上を案内として、戸鹿野へと忍入った。

彼らが侵入し終わると、かねてからの計略通り、橋を外し、彼らを四方より取り巻き、討った。
突然の事に、瞬く間に白井の者達は120人余が討ち取られ、水練の達者の者5,6人だけが助かり、白井へと
逃げ帰った。

この忠節により、高橋右馬充には知行が与えられた。

(加沢記)
0349人間七七四年2016/03/16(水) 21:18:51.91ID:3+IF7VJK
全盛期も今も浜崎だが?w

9位.「LOVEppears」   浜崎あゆみ
リリース:2001年4月9日

14位.「AMARANTHUS」   ももいろクローバーZ
リリース:2016年2月17日

15位.「白金の夜明け」   ももいろクローバーZ
リリース:2016年2月17日

http://itunes.pplepop.com/
0350人間七七四年2016/03/17(木) 10:24:48.53ID:ozVZcnDf
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Uma_yoroi_%28bagai%29.jpg

在来馬と鎧武者の再現画像あったぞ
0351人間七七四年2016/03/17(木) 10:59:03.88ID:6UzlzMVn
日本の在来馬 木曽馬みたいなやつ?は半レグアしか歩けなかったと宣教師は報告してるね
0352人間七七四年2016/03/17(木) 14:01:48.19ID:wDC9oqoH
まぁ仮にさその報告が正しいとしようよ
レグアも仮に6kmとしよう
半レグアってんだから3kmしか歩けないって話だ

そんな動物を乗物や動力にするバカが居ると思うか?
たった3kmのために飼育して3kmのために鞍とか馬具つくるバカがいたと思うか?

それがわからなくてしたり顔で「報告してるね」などと書いてしまう真のバカは
オレオレ詐欺にすら引っかかる素晴らしい能力があると思う
0353人間七七四年2016/03/17(木) 14:13:03.10ID:1RgEfUuQ
>>352
後半は言い過ぎだが、まあその通りだな
0354人間七七四年2016/03/17(木) 14:17:40.96ID:1YBUArYE
そもそも3km走れれば十分じゃね
0355人間七七四年2016/03/17(木) 14:25:11.44ID:PwD/CDv5
バテレンの報告だしな
それを迂闊に信じるほうがバカなのであって351本人はバカじゃないだろ、いわば釣り
そんなことも分からない352は池沼
0356人間七七四年2016/03/17(木) 14:51:06.34ID:wDC9oqoH
>>355
顔真っ赤だぞ>>351
これだけ書かれたら池沼でもわかったか
0357人間七七四年2016/03/17(木) 14:56:11.60ID:wDC9oqoH
>>354
現代人ですら時速5kmで歩いてる
3kmなら40分くらいだ

一人ならまだ使いみちもあるかも知れん
軍隊で千人単位で行動するのに3km歩いたら使えなくなる巨大なゴミを
連れて行く趣味人がいたのかな?
0358人間七七四年2016/03/17(木) 15:05:43.00ID:1RgEfUuQ
1日の軍の動きが記録されていてる信憑性が高い資料とグーグルマップを見比べてみるといいかもね、大返しなんかの特別なのは除いて
0359人間七七四年2016/03/17(木) 15:09:04.27ID:1YBUArYE
半レグアしか持たないのは馬草履であって馬自体じゃないってマジレスは要らん流れだと思って
0360人間七七四年2016/03/17(木) 16:47:55.75ID:PwD/CDv5
>>356
顔真っ赤にして連投している池沼w
そんなに悔しかったのか?惨めやのう
0361人間七七四年2016/03/17(木) 17:50:00.07ID:wDC9oqoH
次から木曽馬くん改めバテレンくんと呼んであげようw
0362人間七七四年2016/03/17(木) 18:30:36.78ID:SqIOMTiN
>>351
宣教師って具体的には誰の報告?
原文訳を見てみたい
0363人間七七四年2016/03/17(木) 18:32:01.16ID:3yaiYwEC
友達いなそう(小並感)
0364人間七七四年2016/03/17(木) 18:35:57.61ID:SqIOMTiN
近藤好和氏なんかはこの大きさはアジアの馬の特質であり日本の馬はその中でも標準サイズと
言っているね

日本の馬と同サイズの中国の軍馬やユーラシアを征した蒙古馬なんかも
数キロで歩けなくなるのかな?


近藤好和「弓矢と刀剣」
かかるわが国在来馬の特質(特にその小型であること)は、一見、特異なことのように
思われる。しかしそれは、競馬のために品質改良されたサラブレッドなどと比較するからである。
現在のモンゴルの馬をみればわかるように、実はわが国在来馬の特質は、アジアの草原馬全体の
特質であり、その中にあってわが国の在来馬はむしろ標準といえよう。古代中国でも
軍馬の条件は一三○センチ以上であり、有名な秦始皇帝の兵馬俑は実物大だが、
その馬俑の平均体高は一三二センチなのである。
0365人間七七四年2016/03/17(木) 18:40:38.29ID:SqIOMTiN
半レグアってのは何キロくらいになるんだっけ?

http://www.marvellouswings.com/Kattyuu/Review/Review.html
> 和種馬はその小柄な体型から甲冑武者を乗せるとよたよたとしか走れない、
と誤解されていますが、約3.5kmをノンストップで速歩、駈歩で問題なく
走り続けられることを確めました。
0366人間七七四年2016/03/17(木) 19:36:44.80ID:3yaiYwEC
わかってると思うけど ID:SqIOMTiNじゃないからね
0367人間七七四年2016/03/17(木) 19:46:01.90ID:9Qv7iut3
ID:wDC9oqoHだろ
0368人間七七四年2016/03/17(木) 20:10:09.50ID:E19qjm7b
サラとアラブの血が混じったアングロアラブでもポニーサイズになるのもいる
↓の馬は体高146センチで日本でいえば南部馬の平均よりやや大きい程度の
ポニーになるが小柄な印象だろうか

アラブ馬視察
http://yohcan.a.la9.jp/20040111-sisatsu.html
>マゼッタ、マゼ、賢双、賢双の2、達の父親です。
体高は146センチと小ぶりだが子馬は大きいのが多い。
0369人間七七四年2016/03/17(木) 21:55:53.90ID:8yUpp46g
在来馬でひとくくりに語ってるけど木曽馬と南部馬でも全然大きさ違う

南部馬は最高級のブランド
0370人間七七四年2016/03/18(金) 13:04:24.83ID:L4Gc8Te7
>>366
バテレン君まだやってたのかwww
おっちゃんそんなに悔しかったの?
0371人間七七四年2016/03/18(金) 13:15:42.23ID:L4Gc8Te7
バテレン君みたいなちょっとアレがアレレな人でもわかる説明があったよ^^
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n350691
> 日本在来馬の馬格についてよくポニーサイズと言われますが、これは動物園や観光牧場で目にするシェトランドポニーなどと混同され、誤解される事も多いようです。
>特に日本在来馬を騎馬戦に堪えないと論じた歴史家の鈴木眞哉氏などはそのように感じます。

蒙古馬なんかでも一晩中走れるからね
半レグアなんてまじめに報告してた500年前の宣教師レベルの残念な頭だと理解できないかも?
これで理解できたらいい加減木曽馬ガー木曽馬ガーってバカの一つ覚えはやめようなw


あとこのページでサラが時速60kmって書かれてるけど
賞味その速度で走れる距離は知れてるからな
騎馬武者背負ったらそれこそ「半レグア程度」じゃないかなw

半レグアくんわかったかー?
0372人間七七四年2016/03/18(金) 14:08:11.57ID:+6yoYLyb
http://www.sukumizu.tv/wp-content/uploads/DSC_6066.jpg
0373人間七七四年2016/03/18(金) 14:22:22.03ID:eq4YuDat
この流れまだ続くの
0374人間七七四年2016/03/18(金) 15:26:08.68ID:JSDXJhF6
フロイスの日本覚書にわらぐつが半グレアしかもたなかったと記述してるやつじゃないの
0375人間七七四年2016/03/18(金) 16:45:32.98ID:exV8nKBg
必死になってるアスペがいるけど何で発狂してるの?
0376人間七七四年2016/03/18(金) 16:59:03.01ID:VVUR5ajM
薬が切れたんでしょ
保護者はちゃんと面倒見とけよな
0377人間七七四年2016/03/18(金) 20:23:36.79ID:q+d6RhPZ
ちょうど今NHKBSで在来馬の実験やってるな
0378人間七七四年2016/03/19(土) 05:04:58.12ID:ZJZgB71Y
馬がダメなら鹿に乗ればいいじゃない
どちらも4つ足!ってどっかの名将が言ってた
0379人間七七四年2016/03/19(土) 09:16:48.89ID:yCZ4HppW
番組見たけど、鎧が重くてお馬さんは動けませんでした
パネルの紙をめくる音だけでもびくっとして動けなかったし

コメンテーターの先生とスタジオの結論としては、馬も人も日頃から訓練してないと
源平時代みたいな動きは無理ってことに
0380人間七七四年2016/03/19(土) 23:11:31.28ID:tWYe0WnB
 運上の事で色々願います者が次第に出てくるでしょうが、古来から無かった事は御取り上げないことがよろしいかと思われます。
とにかく国々では昔から何事にも古掟等があるでしょう。甲州一分は今をもって信玄公の御代の通りにその国限りで使われており、
国の掟も信玄公の御定めの通り権現様はお聞き届け、そのように治めなされたといいます。
以上のように考えますと、新法は当分便利でも良い事は無いと思われます。
(本阿弥行状記)

甲斐では他国との貿易に金を頼らざるをえないので、
信玄は持ち出し禁止にせざるを得なかったのでしょうね
0381人間七七四年2016/03/20(日) 12:21:35.70ID:swix58Wt
なんか雰囲気悪いスレだなあ
0382人間七七四年2016/03/20(日) 13:41:35.91ID:iW0m8qN2
そりゃ、ちょっと悪い話だからな
0383人間七七四年2016/03/20(日) 14:28:06.76ID:J1E8YcY8
バテレンに論破された坊主のごとく余程悔しかったとみえるな
ほんと見苦しいねえ
0384人間七七四年2016/03/20(日) 14:30:23.31ID:F0/pHG2I
鈴木信者いいかげんにしろ
スレタイを声出して読んでみろ
0385人間七七四年2016/03/20(日) 15:45:59.67ID:jqPquz/P
この荒れようだと 「性格かなり悪い話43」 に見える
0386人間七七四年2016/03/20(日) 16:36:06.85ID:iJ9fL99B
>>378
馬が駄目だから牛に乗ったでござる(某傾奇者)
0387人間七七四年2016/03/20(日) 16:54:13.65ID:7Dvgp6Gq
ちょっと煽るともう発狂wやはり血は争えないかw
0388人間七七四年2016/03/20(日) 18:14:24.22ID:cwST3XPD
鈴木氏の説をとなえると発狂する人が戦国板にはわんさかいるな
0389人間七七四年2016/03/20(日) 18:19:54.67ID:iTLUFB/X
この流れまだ続くの
0390人間七七四年2016/03/20(日) 19:33:39.78ID:kxzzr+WE
>>388
ID:wDC9oqoH

代表例ですねw
0391人間七七四年2016/03/20(日) 19:36:18.11ID:DHCePC7L
訓練してない馬で検証って何の意味があるんだろう
訓練された馬なら騎馬武者載せて半レグア()以上駆けていけるのは>>365にある通りだが
0392人間七七四年2016/03/20(日) 20:20:32.30ID:F0/pHG2I
鈴木信者(ひとり)
飛行機飛ばしまくりでスレ荒らし

「鈴木信者のちょっと頭の悪いスレ43」
0393人間七七四年2016/03/20(日) 20:24:19.57ID:BXYQTkpo
病人の収監スレに成り果てたか
0394人間七七四年2016/03/20(日) 21:15:52.83ID:iW0m8qN2
鈴木信者ってなんなん?
0395人間七七四年2016/03/20(日) 21:21:14.63ID:F0/pHG2I
【刀】鈴木眞哉史観を疑う 六太刀目【騎馬武者】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1412552249/
・戦国時代の馬はポニー程度
・日本刀はほぼ役にたたない飾り
ずっとこれを連呼してる
0396人間七七四年2016/03/20(日) 21:35:54.13ID:28PC8Ciw
伊達政宗がある夜、原田左馬助、片倉小十郎、茂庭石見が伺候したおり、小田原で初めて豊臣秀吉に
謁見した時のことを物語した

「私は兼ねてからこう考えていた。秀吉に謁見してもさほど恐れることはない、と。
しかしあの時、私は彼の、関白の位階に恐れ、そして凡下よりあのような雲上の高官へと昇った程の
勇武に、自然の威厳を感じ、心ならずも低頭した。
その時、私が感じた恐ろしさは、類ないものであった。」

(伊逹秘鑑)

伊達政宗が初めて秀吉に謁見た時の感想である。
0397人間七七四年2016/03/20(日) 22:17:16.61ID:iW0m8qN2
>>395
ポニーはともかく日本刀が飾りはうそくせえな。
0398人間七七四年2016/03/20(日) 22:29:18.59ID:iTLUFB/X
次の逸話来ててもまだやんのか、
わかっててやってる自演荒らしなんだろうけどさ
0399人間七七四年2016/03/21(月) 00:11:41.04ID:WI2DWjOe
 都の近所の丹波丹後などを見受けましたところ、山を開いて山畑を造り、水の便の良い所は畑年貢で米も作っている様子でございます。
それゆえ山津波と申すことが近年所々にあると承っております。
 その様子は山に木を無くしましたので、大雨等がとどまる所が少なくなり急に流れます。
すると、いくつかの川がつかえまして、水損と申すことが出てきました。
もちろん常に水がない川の者は新田を願い出、だんだんと新田が増えることでしょう。
両方が利益の追求に走ることで、かえって上等の田が損してしまうことになるかと思われます。
 きっと近国に限らず、皆このような類が数か所で発生していると思われます。
(本阿弥行状記)
0400人間七七四年2016/03/21(月) 02:50:01.47ID:CTRuR/43
戦国時代は、集落の近辺は禿山ばかりだったはずだしなぁ
0401人間七七四年2016/03/21(月) 07:36:20.97ID:YeOWXXly
>>400
燃料から資材として森林を使いまくっていたもんな
禿げ山だらけなんだよな
今の時代のほうが森林としては豊か
0402人間七七四年2016/03/21(月) 09:45:43.45ID:3uzQrhf5
           |
            |  彡⌒ミ
           \ (´・ω・`)また髪の話してる
             (|   |)::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \
0403人間七七四年2016/03/21(月) 10:54:37.96ID:gb6tx5ZK
昔はヒノキの大木なんてそこら中に林立してたんだろうね
0404人間七七四年2016/03/21(月) 11:17:12.46ID:497TVpTj
昔つっても大昔ならな
0405人間七七四年2016/03/21(月) 16:33:21.41ID:gWI1KZhW
集落の近辺がみんな禿山ってありえるのか?
それなら集落維持できなさそうだが
0406人間七七四年2016/03/21(月) 16:34:41.67ID:XdFMeAZt
京都がマツタケの名産地になったのは木材の需要が多い為
殆どの山が禿山になってしまい、その後アカマツしか生えなかったから
0407人間七七四年2016/03/21(月) 19:27:17.85ID:vepE1UGe
木曾とかはどうなんだろ
もともと制限かけて守ってきたのかな?
0408人間七七四年2016/03/22(火) 00:12:44.84ID:L2q8UnZ2
東海道53次の絵の背景はほどんど山に木がないのは実際そうだったからという話があるくらいだし
薪や家の木材としての消費量は凄かったんだろうな
0409人間七七四年2016/03/22(火) 00:47:22.61ID:d6BmmApU
北朝鮮は燃料で伐採→山崩れで大惨事を未だにやってる
0410人間七七四年2016/03/22(火) 06:37:23.96ID:RhZdWany
山の斜面にソーラーパネル並べて全滅させた画像思い出したw
ジャップもチョンと同じ思考だから安心しろよ
0411人間七七四年2016/03/22(火) 07:14:08.35ID:MDylwIZJ
>>410
ニホンゴ上手デスネ
0412人間七七四年2016/03/22(火) 08:34:24.41ID:v5R4mDdh
早く貴方も帰化するといいよ
一旦受け入れてもらえさえすればどうとでもなるから
0413人間七七四年2016/03/22(火) 10:06:45.18ID:Sv+Wg9UP
白河の、結城七郎藤原義親は、かつて暦応(1338-1342)の頃、南朝の勅によって、国司北畠顕家卿の
要請に従い、奥州より攻め上り伊勢国にて死んだ結城上野入道道忠(宗広)から十代あまりの末裔である。

であるが、義親の一族である中島上野介という者は、義親へこう諫言した
「豊臣秀吉公が鎮西南海北陸に威を振るわれている事は、ここ5,6年の間に耳に触れてきたことです。
殊に、今度は坂東一の首長である北条の一族も間もなく滅亡するだろうと、世間もはっきりと取りざた
しております。ですから、直ぐに小田原に参向あって、秀吉公の味方に属せば、まさに当家中興の先表になると
考えております。」

しかし義親
「私もそうは思っているのだが、家が貧しいため行程の旅費、土産の品も沙汰しがたく、徒に日を移して
しまっているのだ。」

上野介
「今度のことはお家の大事なのですから、旅費・土産は家中の面々に課役をかけ調達すべきです。
先ず、土産の品は、秀吉公も小田原まで遠路の陣中なのですから、米ニ百俵を献上すれば然る可きと
考えます。その内の百俵は私が調達します。残りの百俵を、家中にて調達して下さい。
しかし、もし遠方への旅程を苦労に思われるのでしたら、恐れながら私が代官と成って秀吉公の
もとに向かい、宜しく申し上げます。」

こう言われても、白河義親は結局はこれに同意しなかった。
彼は奸佞の近習たちを集め「この事どう思うか?」と評議させた。
面々は兵粮運送の課役を厭い、言葉巧みに申し上げた
「今の乱世に諸民は疲弊しています。その上に白米ニ百俵の課役運送の人夫の費えは、民にとっても莫大な
ものになります。
また、あの中島上野介は、普通の人間以上に利口で弁舌の立つ人物ですから、彼が代官と成って秀吉公の
御前に出れば、何を言い出すか解ったものではありません。」

等々讒言したことに、白河義親も同意し使者すら送らなかった事こそ、運の尽きであった。
その後秀吉公が会津に下向した際、義親は御迎えに出たものの、彼は許されず領地は没収され、その地は
伊勢の住人である関右兵衛に与えられた。

この後、白河義親は城西の金勝寺という禅寺に密かに居住したが、関右兵衛はこれに遣いを立て伝えた
『そこでは下郎の推参もおぼつきません。ひとまず何処へなりともお退きされますように。
こう申すのも痛わしい事ですが、公儀を恐れ、このように申し入れているのです。』

義親は
「私もそう思っているのだが、暫く住居を求めている間にこの様に引き延ばしてしまった。
追っ付け立ち退くであろう。」

そう返答し、やがて那須の内湯元という所に移っていった。
後には伊達の一族の由縁があったため、仙台の門下に降った。

(伊逹秘鑑)
0414人間七七四年2016/03/22(火) 10:25:05.84ID:mr3hUf0x
秀吉の脇坂へのお手紙も材木がああ本数がああ産地がああ早く送れええだからねw
どんだけ木に飢えてたことか
0415人間七七四年2016/03/22(火) 21:57:40.20ID:3dUL2Xni
そういえば戦国時代かどうかは知らないけど日本昔話の「箸蔵山の赤い火」というので
箸蔵山ってのは神聖だから入ってはいけない、となっていたのに
ある百姓が落ちている木を薪として売ったところ大儲け
そのうち落ちている木だけじゃなく立っている木もどんどん切って売ったため大富豪となり
山の麓に大きな屋敷をつくった
しかしある雨の日、箸蔵山から石がとんできて何者かの轟くような声が聞こえたとおもったら
山崩れが起きて屋敷は潰れてしまいましたとさ
こうして「やはり箸蔵山には神が住んでいる」とそれからは誰も木を取ろうとはしませんでした
てのがあったが、こういう教訓話で伐採を禁じてたんだろうか
0416人間七七四年2016/03/23(水) 01:09:40.50ID:iBFEBss3
 御大名方へ銀主と申す者達が御館入を務め、金銀の御借入れの事などを近年承っています事は甚だあってはならないことです。
万石取は町人風情の金銀を御借入れなくても、なさりようで毎年準備金を残すことができると思われます。
このような事等は誠に役人が物事を自らの仕事を済ますとすぐに立ち去るように取り扱うために起こるのであり、
この事情により御借入することが出てくるのであると思われます。
 銀主と申して館入を務めることは、秀吉公の御代から始まりましたことだそうで、
その余毒がただ今でも行われてきたことは、あってはならない事と思われます。
(本阿弥行状記)

天下一統により需要が増えたので借金しなければならなくなったのでは?
後、本阿弥家のある京阪では銀で、江戸では金なのですね
0417人間七七四年2016/03/23(水) 01:48:20.33ID:OqS4BgTD
>>67
”羽柴長吉は太閤の小姓、比類なき美少年也。太閤、或時、人なき所にて近く召す。日頃男色を好み給はぬに故に、
人々皆奇特の思ひをなす。太閤問ひ給ふは、『汝が姉か妹ありや』と。長吉顔色好き故也。”(老人雑話)

この話の羽柴長吉って、当時秀吉の養子だった池田長吉のことなんだよね
もし姉妹を紹介してたら、見目の悪い天球院が
0418人間七七四年2016/03/23(水) 18:05:18.90ID:69exh12o
賞の隠れたるはこれを探り、罰の顕れたるはこれを押さえる事こそ、名将の為す所である。
天下泰平の時代でさえ、人の心を疑い、善悪の偽説が往々に流言すること、これ世の常である。

いわんや戦国の人心、昨日は今日に替り、明日は今日に変ずる。これ乱世の常である。
おおよそ兵家において、その時によって虚偽を謀るのは一時の変であり、あえて不信不実の沙汰には
及ばない。ただ、君を欺き親を欺く徒のみその罪逃れる所なかった。

天下一定しない内は、諸侯互いにこれを謀ること、これは乱世の覇将たるもの専らすることであるので、
その事績においては虚実紛々である。

伊達政宗が豊臣秀吉の糾明によって私戦の伝評を立てられ、太閤の機嫌を損ね、首尾は他に異なる
ほどであったのに、合戦粉骨で得た地である仙道会津を召し上げられ、蒲生氏郷に与えられた事、
時の盛衰とは言いながら、時日も経ない眼前の賞罰に、伊達家の家臣たちは或いは怨み、或いは憤る者
多かったため、政宗自身の心中もああだろうと推察した者たちが言い広めたのだろうか、
ただ誰となく、このような話が唱えられた

『今度の奥郡発向を幸いに、大崎・葛西・南部の端々の者共一揆の結成を勧め、不日に蜂起すれば、
蒲生氏郷は兵を発してこれを制するであろう。その時政宗もかねてよりの先鋒であるから、出陣するも
一揆と密通して、時所を計り、土地の案内を知らない氏郷を引き入れ、包囲して討ち果たせ、
その後に自ら一揆を鎮めれば、氏郷は不運に滅亡したということに落ち着き、一揆を鎮めた功は
政宗に帰され、その賞として再び会津仙道を得る。その陰謀は実に巧みである。
見ていよ、不日に奥郡に一揆が起こるであろう。』

この話はここかしこにて囁かれ、会津仙道においては只事ではなく、この流言のみ飛び交っていた。

(伊逹秘鑑)

秀吉の奥州仕置の後の、風聞についてのお話。
0419人間七七四年2016/03/24(木) 00:20:02.39ID:qtiUgdxf
石田三成について伝わる話によると、太閤秀吉の寵臣である石田治部少輔三成は近江国石田村の地士、
佐五右衛門という者の子であったという。この佐五右衛門は久しくこの土地に住んでおり、村邑の長と
称していた。


この妻が解任し一子を儲けた。佐吉と名付けられ、両親から限りなく寵愛された。
弱冠に及んで智計群を越え、器量もまた類いなかった。父母の喜びはさらに増したが、その家貧しく、
育て難かったため近隣の真言宗の寺に扈従として預けた。

ある時、羽柴秀吉がこの寺に参詣した折、佐吉が容貌艶やかで、立ち振舞も勝れていたのを見ると、
秀吉は彼を召して、夜には閨を同じくし、玉枕を並べた。

それより次第に立身し、二十万石の大名と成ったのだという。

(伊逹秘鑑)

珍しい、石田三成が秀吉の寵童だったという記述である。
0420人間七七四年2016/03/24(木) 13:44:06.56ID:HBQcswxs
正澄が完全に無視されてるな
0421人間七七四年2016/03/24(木) 22:22:56.31ID:hbwHPgnY
ちょっと訳しきれなかった所あるからあやふやだけどご勘弁


毛利隆元のお風呂マナー講座 〜主人と一緒の時〜

一、目上の方とご一緒する時は、下にむしろを敷いてはいけません。

一、風呂の湯殿に入る時は、自分の垢をきれいに掻き落としてからむしろを敷きます。
  主人が上がったら、いつまでも湯殿の中に残っていないで上り殿へ上がりなさい。
  本当に上がる時もちゃんと上り殿にいて、主人が帰った後は小風呂に入りなさい。

一、元結やさくすは小者に言って取ってもらいないさい、自分で取り寄せるんじゃない。
  湯殿の衆が上り殿に出てきたのに、小者達を上り殿に上げずにいたらこういう用がこなせません。
  前もって小者を上げておくこと。


当時の風呂も裸の付き合いとか言いながら、
会社の慰安旅行みたいに色々気を遣わなきゃいけないとこあったんだろうなーと
悲哀を感じたので悪い話で。
こんなマナーをメモに残しておくなんて、お兄ちゃん何かあったの……?
0422人間七七四年2016/03/24(木) 22:29:41.72ID:gM8E/NV1
蒸し風呂とはいえあまりそこいらにあるものじゃないから、
使用方法に慣れてなかった人が多かったんじゃあるまいか
0423人間七七四年2016/03/24(木) 22:43:06.27ID:VMlfcDmH
さくすって何?
0424人間七七四年2016/03/24(木) 23:11:11.56ID:o+FjbNAE
さくすでググったらスクラマサクスって剣が出てきました
04254212016/03/24(木) 23:14:41.69ID:SiAtBDJm
>>423
すまん、自分もさくす分らんかった
元結と一緒に書かれてるから身の回りの品なんだろうとは思うんだが
0426人間七七四年2016/03/25(金) 11:13:55.44ID:OLtmf2Ma
サクスもだけど、元結ってなんでしょうか?
0427人間七七四年2016/03/25(金) 11:59:42.46ID:ZcUwe5A0
サクス…ザ・シンプソンズでリサが吹いてるやつだろ
0428人間七七四年2016/03/25(金) 12:03:06.67ID:tbZyYa43
文七元結という人情噺でしったが髷を縛る紐
0429人間七七四年2016/03/25(金) 13:25:17.28ID:10Tr2RE8
髷を結う紐だから、それに関係する物じゃないかな?
櫛とか椿かなにかの植物油とか、あるいは酢かもしれん
0430人間七七四年2016/03/25(金) 23:38:53.66ID:EHKpoSn5
戦国時代のお侍のお風呂って、普段は
小物や近習と入って世話してもらったりするんかね?


昔の偉い人のお風呂ってーと、なんかよく
薄着一枚の女の人に世話してもらうみたいな
ピンク気味の接待と直結してそーなイメージがあるんだがw
0431人間七七四年2016/03/25(金) 23:41:47.34ID:RsgRIGxx
蒲生氏郷「風呂は主人が焚くもの」
0432人間七七四年2016/03/25(金) 23:50:22.81ID:10Tr2RE8
その人によるんじゃないのか?
男好きな奴だっているし
0433人間七七四年2016/03/26(土) 00:22:19.25ID:uE+/Jy3t
細川政元「女じゃ刺客が来た時あてにならないから小姓の方が良いだろ」
0434人間七七四年2016/03/26(土) 00:44:22.84ID:EmgUfXaA
風呂には木刀があれば大丈夫
0435人間七七四年2016/03/26(土) 01:00:08.86ID:jRU1UnJO
竹光持って風呂入ろう
0436人間七七四年2016/03/26(土) 01:19:29.02ID:zhcQj6Rq
風呂で刺客に襲われて死ぬのは嫌だな
源義朝とか太田道灌とか最期がみっともないからいまいち評価されてない
0437人間七七四年2016/03/26(土) 02:07:41.44ID:B+a2Nk0M
風呂で小姓とイチャイチャしてるところを刺し殺されたんだっけ?
0438人間七七四年2016/03/26(土) 03:15:25.75ID:hU6z037w
>>433
家康「主人とよく似た女を使って、いざってときに影武者にすればいいじゃない」
0439人間七七四年2016/03/26(土) 04:40:26.45ID:3Pwn/aoY
式神でいいじゃん
0440人間七七四年2016/03/26(土) 05:29:49.44ID:kKXYlWLB
源義朝の暗殺の話読んだ時おもったのは周囲に警戒してる手下いなかったんかね?
だったな
0441人間七七四年2016/03/26(土) 07:49:44.86ID:I2IpVs83
剛毅な人ほど大胆に振る舞うからね
用心は臆病者のすること
0442人間七七四年2016/03/26(土) 07:56:58.47ID:enf1COfj
>>436
確かに信長の最期が風呂で襲われて
「是非もなし!」
だったら大河ドラマとか無理そう。
0443人間七七四年2016/03/26(土) 09:12:22.51ID:UjQLVa6U
世の中には厠で死んじゃった人だっているんですよ!
0444人間七七四年2016/03/26(土) 09:56:20.80ID:nqotctmz
>>442
イケメン俳優に湯船からザバーッと立ち上がらして裸で仁王立ちしたあとに是非もなし!なんかかっこいいw
0445人間七七四年2016/03/26(土) 10:41:07.94ID:HD0VYwLt
信長「昔より 主人を討つ身の 風呂なれば 報いを待てや 日向惟任」
と言って斃れる信長か
0446人間七七四年2016/03/26(土) 13:14:58.35ID:kiw4woY8
十河「馬から落ちて死ぬよりはマシ」
0447人間七七四年2016/03/26(土) 15:13:32.43ID:tBtQgp7s
佐竹義重「源氏として頼朝公に倣っただけだから・・・」
0448人間七七四年2016/03/26(土) 15:24:58.02ID:taSdLLLC
頼朝の死といえば、「東鑑」に頼朝の死亡あたりの年の記事がないもんだから
「頼朝にとって不名誉な死だったため、頼朝を崇拝していた権現様が削ったのだ」
と語られていたけど、択捉島に「日本の領土」という碑を立てた近藤重蔵が
「戦国末期の時点の写本でも欠落しているため、江戸に入って削られたものではない」
と考証したという話があるな
権現様が頼朝、東鑑を参考にしてたというのは有名だったんだな。
0449人間七七四年2016/03/26(土) 23:16:31.64ID:y6nwLLrA
 秀吉公の御代から知行は四ツ物成(年貢が四割)になりまして、甚だ御禄のものが払底しております。
なにとぞ他のなされかたもあるのではないかと思われます。

 また公家方は三十石取といった御身上は、はてさて、恐れながら気の毒だと思われます。
多くの商人達の十人に九人は、公家方と申すと鬼神のように心得て掛売もしない。
なにとぞなされようがあってほしい事と思われます。
今は関白殿下を始めとして、揚名の官(名ばかりの官職)でして政に関与なさることはなく、
明け暮れ歌を詠み、香車風流ばかりを弄びなさっています。
きわめて小禄の公家衆は歌も詠まず、おおかた無理に飲むことで酒をたしなみ、身軽いので密かに勝負事の場所へ入り込まれています。
あるいは貧しい売女のような者に恥とも思わず馴れ通って、果てにはその売女を本妻にされる類も内内に聞いております。
 これは貧しいから起こることで、なんとも気の毒でございます。
なにとぞ全公家衆のもとへ三万石ばかり贈られれば、お行儀も直せるのではないでしょうか。
かつ禁裏様の御守護も重くなるのではないのでしょうか。
(本阿弥行状記)

全ての公家に三万石はきついでしょうねえ
0450人間七七四年2016/03/26(土) 23:29:32.27ID:tBtQgp7s
合計で三万石ってことでしょうね
0451人間七七四年2016/03/27(日) 02:28:56.27ID:IdgiLpGz
ああ、そうですね
公家の数を約130家としますと、一家に約230石ぐらいとなりますね
0452人間七七四年2016/03/27(日) 07:56:29.16ID:vQfV29B3
実力で成り上がった秀吉は利用する価値もない泡沫公家なんか大嫌いだろw
0453人間七七四年2016/03/27(日) 09:03:00.89ID:edYvsl2/
これ猪熊事件の頃の話じゃないのか
0454人間七七四年2016/03/27(日) 09:18:58.21ID:pZZ2/1xg
織豊以前はもっと困窮してたろ
0455人間七七四年2016/03/27(日) 09:33:37.01ID:7Jein4zk
この後に和子入内で秀忠が増やしてやってるんだよね
0456人間七七四年2016/03/27(日) 09:35:50.11ID:U/uXeUMx
関白も政治に関与してないって事から
徳川幕府成立後の話なんでは。
秀吉公の〜ってのは予防線としての前置きみたいなもんだと思う。
0457人間七七四年2016/03/27(日) 11:31:47.93ID:9X1WzsL8
4割と定まってるならそれ以上多額の税をかけるわけにもいかないということか
貧乏をこじらせてやることといったら飲む、打つ、買うってのは確かに哀れなんだよなあ
逆に戦乱で京都から亡命してた頃のほうがいい暮らしができてた人もいるんじゃないか
0458人間七七四年2016/03/27(日) 11:59:36.91ID:Qwl0utdK
公家領は武士に対しては存在する軍役・賦役が無く、税収がまるまる懐に入るので実は武士より恵まれていた面がある
0459人間七七四年2016/03/27(日) 13:17:44.94ID:9X1WzsL8
>>458
あー、言われてみればそれもそうか
でも同額面の武家の知行の数倍相当だとしても決して高くはないのでは
0460人間七七四年2016/03/27(日) 13:29:35.72ID:7Jein4zk
亡命出来るくらいの公家は手に職持ってるからそれなりでは
亡命時代の日記みても今度は小姓に六韜講義しろって言われためんどくさとかいってたり
やっぱそれなりに大変そうやでw
0461人間七七四年2016/03/27(日) 13:42:50.81ID:9X1WzsL8
>>460
確かにそれもそうだ
0462人間七七四年2016/03/27(日) 18:00:19.13ID:4Aczxb8v
>多くの商人達の十人に九人は、公家方と申すと鬼神のように心得て掛売もしない。

どういう意味だろうと思ったら、ローンで買わせてくれないってことか。
金を返してくれない存在と商人たちが思ってたってことで。
0463人間七七四年2016/03/27(日) 19:03:16.74ID:eo7a1+Z9
>>448
全く関係無いけどロシアの標識引っこ抜いて
大日本恵土呂府の標識建てた事は内緒な
0464人間七七四年2016/03/27(日) 19:33:31.92ID:L8xTmexW
もっと関係ないけど、日本に「大」ってつけるようになったのっていつ頃?
戦国の頃はまだついてなかったような
0465人間七七四年2016/03/27(日) 19:56:18.88ID:DDvpgp/d
大和だって「大」がついているわけで
独立国とか中華の皇帝に従わず独自の皇帝を持つという意思表示の一環では
0466人間七七四年2016/03/27(日) 21:53:16.39ID:/od626cG
>>462
ローンじゃなくて現金払いかどうかって事。

クレジットカードに近いけど、集金するのがクレジット会社じゃなくて
商店自身がやらないといけないので、踏み倒す危険性が高い人は
掛け売りを断られてしまう。
0467人間七七四年2016/03/27(日) 23:00:42.57ID:bRpg+Au9
なお細川家…
0468人間七七四年2016/03/27(日) 23:45:07.53ID:4Aczxb8v
武家は武器で脅して踏み倒していたけど
公家はどういう理由で踏み倒し得たんだろ・・・
0469人間七七四年2016/03/27(日) 23:49:49.56ID:4Aczxb8v
あー、公家は武家と違って一度不渡りを起こしたら二度と貸してもらえないんだ。
自分で解決した。武家が刀で脅すのは二度目ですね。
0470人間七七四年2016/03/28(月) 03:32:00.26ID:kKHIffK9
???「借金?そんなもんは一揆起こせばチャラになるから怖くねーぜ!」
0471人間七七四年2016/03/28(月) 20:01:43.88ID:V/JoKbcb
>>417
天球院の肖像画が残っているが普通に美人さんだよ
0472人間七七四年2016/03/28(月) 21:18:00.92ID:DemqXdSQ
北条討伐により、豊臣秀吉は小田原城を攻め立てたものの、小田原は音に聞こえた名城であり、
落城する様子は見えなかった。秀吉は小早川隆景を召して言った

「この城を数ヶ月攻めているが、未だに陥落しない。この上は総攻めにしようと思っているが、
お主はどう考える?」

隆景答えて
「総攻めと命ぜられましたら、即座に攻め落とす事でしょう。ただし、味方も多くの死傷者が出るでしょう。

私の父である毛利元就は、数か国を乗っ取った者でありますが、父は城を囲んで弱らせる時は、
城中を割る謀を巡らせました。この時、仮に我らと語らった者共が、我々に同心しなかったとしても、
語らったという事実は漏れ聞こえ、城内の者達にに疑心暗鬼を生じさせ、程なく落城におよび、
人も損ないません。

殊更、この小田原城は大軍が立て篭もっていますから、必ず人心を統制することは出来ません。
籠城において人が多すぎるのは保ち難いものであると聞き及んでいます。
御計略によって、程なく落城させることが出来るでしょう。」

秀吉はこれを聞くと「兼ねて聞いていたことに増して、毛利元就とは謀略深厚な人物であることだ。」と
感心した。

そうして秀頼は富田将監を召し
「汝は北条氏政の老臣、松田尾張守と親しいのだから、これこれの通り松田に申し伝えよ。」

富田は松田に遣いを立て、『御味方に属せば伊豆相模両国を与える。』と密かに伝えた。
松田はたちまち心を変じ、味方する旨を返事し、嫡子新六郎、次男左馬助を呼び寄せ斯くと語った。
しかし次男左馬助は思う仔細有り、密々に主君氏政・氏直にこの事訴えた。

氏政は大いに驚き、松田を誅殺した。しかしこれにより隆景が考えた通り、城中の諸将兵士、
軽卒に至るまで、各々が疑心を持つようになり、城中騒乱して、今や諸軍の心は個々に立ち隔たる
有様と成った。

このように成っては防戦を遂げることも出来そうになく、城を保つことは難しい事態と追い込まれたため、
氏政・氏直父子は独夫の義勢も尽き果て、是非なく剃髪して秀吉の軍門に下った。
これによって関八州は併呑され、小田原に滞留し残党を征した。

(伊逹秘鑑)
0473人間七七四年2016/03/28(月) 21:23:21.47ID:JZcHoAiY
本阿弥「親や兄を裏切るなら松田憲秀が誅殺された時点で自害しろよ」
0474人間七七四年2016/03/29(火) 01:10:47.44ID:30ED7ZkZ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6829.html
しかしまとめの逸話と大河を比較するといろいろ面白いな
加沢記の室賀や信幸や昌幸の娘の話とか、↑の春日信達の話とか
天地人とか江では比較する気にもならなかったけど
0475人間七七四年2016/03/29(火) 13:49:51.82ID:ERoemA1V
大河見てないから分からねえ
どう違うのか教えてくれると有り難い
0476人間七七四年2016/03/29(火) 19:07:39.68ID:ldznlRBE
>>472
まとめのほうで読んでて気がついたけど、中段で秀頼が富田将監を召してる
0477人間七七四年2016/03/30(水) 00:34:23.46ID:6rIyf3Q2
 諸国に銀札と申す事があります。この事について思いもよらぬ刑罪の人が出てきています。
国々に銀札の替わりに銭を拵える事をお許しなされたら、日本国中でゆとりが生じ、万民がありがたがることができると思われます。

 ただしこの一事で承っております事に、秀吉公の御賢慮により
「随分色々と臨時の事を申しつけて、とにかく払底させることが天下太平の基」
と仰せられましたことは、一応その利が無いわけではありませんが、国々の困窮が甚だしくなり下々に響き総じて日本国の
弱みとなるかと思われます。民は国の元と承っております。
 秀吉公はあまつさえ千枚分銅とやら申して、黄金を数限りなく貯えられましたという。
秀頼公の御代で新たにお召し抱えた大名小名へ金子で知行を下されましたと聞いておりますが、
いかほどの名城でも日本国中の大名小名を敵にしましては、千枚分銅もだた当座逃れの事でついに落城しました。

 なにとぞ諸国で銭を鋳る事をお許しなされて、その下地の鉄を粗末にしないようにしたいことです。
鍋銭(寛永通宝鉄銭)では悪だくみの者が似せまして、銀札の偽札と同じようになるでしょう。

 ならびに銭の相場も下がるのではないかと思われます。とにかく金銀ともに相場と申すことなく、
銀六十目で金一両、銀十五匁で銭一貫文にしたいことです。
(本阿弥行状記)

札のほうが銭より手頃でいいのにね
0478人間七七四年2016/03/30(水) 17:51:43.46ID:8Xmg7lP3
名古屋城天守閣の復元、竹中工務店案を採用 総事業費500億円
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFD29H3Q_Z20C16A3CN8000/
http://www.fnn-news.com/news/jpg/sn2016032913_60.jpg
http://www.sankei.com/photo/images/news/160329/dly1603290032-f1.jpg

うーん…

どうしたものか
0479人間七七四年2016/03/30(水) 18:29:34.45ID:YbXYRxtz
アメリカに請求すべき
0480人間七七四年2016/03/30(水) 19:14:19.92ID:XQdkBBbY
織田の普請奉行が竹中工務店の創業者か
いっそ一夜城を
0481人間七七四年2016/03/30(水) 19:49:12.66ID:5Y+KrJkh
公務員の給与カットするなら許す
0482人間七七四年2016/03/30(水) 20:56:56.94ID:jnB2xSGc
>>478
あそこは市長も県知事もコスプレしょっちゅう披露してるような

それはそうと木造ではあるもののエレベーターを付けるのか
なんとなくいいんだか悪いんだかわからねえ
まあ鉄筋天守自体に価値が出てしまう前にやらないと木造再建できない気もする
0483人間七七四年2016/03/30(水) 23:03:21.28ID:cMn3eGOe
犬山城の方を大事にしたら良いのに
江戸城の話はどうなったんだろう
0484人間七七四年2016/03/31(木) 05:18:15.10ID:D7dfEllj
武田家滅亡の後、織田信長は武田の分国への仕置をなし、関東の管領として滝川左近将監一益を
上野国群馬郡厩橋の城に移した。武蔵・上野の旧武田分国の武士は残らずこれに出仕した。
真田昌幸は信州、上州両国に領地が在ったため、厩橋にも出仕した。

滝川一益は厩橋城で昌幸と対面した時、こう声をかけた

「あなたは承った所によると、以前は武藤喜兵衛と名乗っていたそうだ。しかし今回、つつがなく
武田が没落した以上は、鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきかな?」

そう、座興として言ったそうである。(喜兵衛を音が似ている金兵衛とかけた駄洒落である。)

その頃沼田の城は甲州の乱によって北条殿に横領され、藤田信吉は越後に浪人していた。
そこで一益は沼田の城に甥の滝川義太夫を城代として入れた。
一益は国中より人質をとったが、真田からの人質はなかった。これは真田信幸の姉が、人質として
安土に遣わされたためである。

(加沢記)
0485人間七七四年2016/03/31(木) 11:05:32.88ID:8cICybwo
>>483
屏風絵とかから想像するしかない『僕の考えた江戸城天守』なんていらんわな
0486人間七七四年2016/03/31(木) 12:37:15.33ID:JD4Uqr+I
現状の皇居がすでに歴史的遺物なので手を加える必要はないとは思う
そびえたつクソの大坂城名古屋城は好きにして
0487人間七七四年2016/03/31(木) 22:43:16.68ID:5sfjcNmS
大阪城を作ったのは大林組ってのはネタになるけど、法隆寺を作ったのは金剛組ってのはネタにならんよな
0488人間七七四年2016/03/31(木) 23:45:58.71ID:h5aaAhzw
江戸城天守造りたいなら千葉にでも建てとけ
0489人間七七四年2016/04/01(金) 00:03:45.33ID:q8KEpmAM
フランシス・カイロンは、彼が江戸に有った時に起こった一事件に関して語った。曰く、

エムベロム(将軍)の一領地を支配する貴族があった。その領地における借地人に、
エムベロムが命じたもの以上の借地料を課していた。この方法によって彼は自己を富ませたが、
人民はその負担に耐えることが出来ず、団結して内閣に至って領主を訴えた。

内閣はこれを調査してその罪有ることを知るや、該当の貴族は家族とともに切腹して自ら死刑に
就かせることと定めた。

彼には一人の同胞があって、肥後の王に仕えていた。肥後は江戸から離れること西方247リーグである。
またそこから30里隔てた薩摩に一人の伯父が有った。
第2子は江戸より東に隔てること110リーグに住してマッサマ(Massama)の王に仕え、第3子は
インカノ(Inquano)のエムベロムの城に在った。末子は大阪の裕福なる商人の娘と結婚していた。
兄弟2人はエムベロムの近衛であった。

これらすべての人々は、彼らの兄、弟、又は父の罪のために、同一の日時に切腹することと成った。

処刑者の為すべきことは次の物である。
第一に、死の使者が悲報を最も遠くにある親戚に伝えるべき日時を計算し、これを最終時間として、
それ以上の執行猶予を許さない。最も近くにある者も、最も遠くの者と同日に正午を期して厳命に従い、
各々が自己の残酷なる破壊者となる。

然れどもその日、大阪の商人となった末子は自殺をしなかった。大いなる恐怖に打たれた彼は、
知らせを聞くや直ちに死んだためである。

彼の唯一の子であった女児は罰せられることはなかった。しかし自殺せんと欲し、自ら食を絶って
11日目に死んだ。

ただし、これらの人々に関係ある婦人が、如何にしてこの数家族の破壊中に身を脱したのかは、
カイロンは語らなかった。

(モンタヌス日本誌)
0490人間七七四年2016/04/03(日) 15:18:51.96ID:s1yGAbCK
大坂城の女中が集まる三の間に大砲の弾が撃ち込まれ茶箪笥を打砕き、淀殿の居間まで悲鳴が聞こえるようになるにつけ、
淀殿の口も和らぎ、織田有楽斎、大野修理へ「何卒和談を取り付けたい、秀頼の為なら自分が江戸へ下向してもいい」と言ったが、
秀頼が承知せず、この上は近臣の出頭の者に諫言させようと相談した。

渡辺内蔵助は鴫野の一戦以後秀頼の前を損し、
薄田隼人も博労淵の出曲輪を取られ、日頃の力量自慢ほどではないと城中のひとに取沙汰されているのを恥じて万事控えめになっている。
木村重成は後藤又兵衛が今福の戦いを秀頼に報告し、以前の倍も信頼を受けている、木村から言ってもらうのがいいだろう、と
有楽斎、大野が木村を招いて、和談の上淀殿を江戸へ差し出すことを秀頼へ提言するように言ったが、これを聞いた木村は
「今の話は片桐が最初に話したことと少しも違いはなく、今さらそのような申し上げはできない。
各々に幾度でも言うが、このような次第になったのは畢竟秀頼さまのご運の末と嘆くほかない」
と言うので、二人ともあきれ果てた。
その後後藤から強く申し付けたことで秀頼も得心し、和議の相談が進むようになった。
この話は難波戦記等にはないが、牧尾是休斎が語ったことである。

落穂集から抜粋

木村重成がいかにも若いな〜って感じだ
0491人間七七四年2016/04/04(月) 20:37:29.38ID:c0Q39Gk6
1646年8月15日、平戸にて起こった一連の事件は、日本の婦人の貞操を証明するに足るだろう。
ヤカタイ(jakatai)と称する身分有る一男子がとある婦人と結婚し、間もなく要務のため都に赴いた。

この事より以前、ある一貴族はこのヤカタイと結婚した若き婦人に求婚を申し込んでいた。
彼は「もし承諾なくば他の婦人を娶らない!」とまで言ったが、彼女より拒絶されていた。
しかしこの機会に乗じて、多数の従者を従えこの婦人の家に押し込み、強いて情欲を満足させた。

彼女は、このような害を受けた以上復讐せんと決心し、彼を引き止めて再度の享楽を有すべき希望を
抱かせたが、そのような間にヤカタイは都より帰宅した。

主人の帰宅の歓迎のため、家人たちは家の最上階にて宴を設けた。そして彼女は自分の友人、
およびかの貴族を招くようにと命じた。

こうして宴たけなわの頃、ヤカタイの妻は立って問うた
「近頃一婦人あって狼藉に遭いました。彼女は如何なる罰を受けるべきでありましょうか?」
席の者達は口々に言った
「その曲事の主を殺すべきである」
彼女は声高に叫んだ

「私は実にその女である!そして之を行った者もあそこに座している!
乞う、私の生命を奪え!このような行為を忍ぶという恥辱が、外の婦人を汚さないよう、
私のような劣悪な者が人間の中に生存せぬように!」

一同はこの告白を皆意外に思ったが、特に驚いたのは夫のヤカタイであった。彼は婦人を慰撫し、
「今後、この事を忘れるのだ。」と説得したが、彼女はその言葉に満足せず

「郎君は私の被った恥辱に対する復讐をされないのか!?ならば私自ら為すべし!」

言うやいなや、その家の最上階より飛び降り、頸を折って死んだ。
客中にあった暴行者も、生前愛した者と死を共にしようと、階下に降り、切腹して婦人の死骸の上に倒れた。

(モンタヌス日本誌)
0492人間七七四年2016/04/05(火) 23:06:15.09ID:OD6R1q59
関ヶ原により家康の天下となると、自然諸国の大名はみな駿府へと参勤した。慶長10年の春、徳川家康は
上洛、大納言徳川秀忠は3月27日に、前田利長、結城秀康を供として上洛した。
この時、徳川家康が伏見城の舟入の楼に上って秀忠の京着の行裝をご覧になるということだったので、
御供の面々は綺羅を輝かせ美麗を尽くし、見物の貴賎は巷に満ちて、目を驚かすばかりであった。

4月26日、徳川秀忠は参内し、叡感あって正二位内大臣征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者に宣下された。
この時、結城秀康にも正三位権中納言に任じられ、源家の繁栄は日比に越えた。
これより徳川家康は、大御所と称し、秀忠は新将軍と称し天下の大小名は何れも妻子を引き連れ、
江戸と駿府とに相詰めた。

このような中、豊臣家の衰退は日に顕れ、豊臣秀頼の権威も日に衰え、哀れなる有様であった。
殊に徳川家康は、関ヶ原以後は上洛しても大阪に下向すること無く、ただ使番などを以ってその旨を
伝えるだけであった。

大阪には摂津河内両国意外に蔵入地も無くなったため、諸国人は勿論、あるいは絵所、或いは四座の
猿楽に至るまでおおよそ技芸のある者達は、みな大阪を去って関東に罷り下った。
なかんずく、慶長12年、朝鮮国の信使が来朝した時も、直ぐに関東に下向して、大阪には登城すること
なかった。

豊臣秀頼、淀殿を始めとして豊氏恩顧の輩は、何れも憤慨を差し挟むこと少なくなかったが、独り
豊臣家執権の片桐且元が時々に異見していたため、これによって表面化するに至っていなかったのである。

(慶元記)

豊臣家の不満を片桐且元が抑えていたという、慶元記の記事である
0493人間七七四年2016/04/05(火) 23:14:19.67ID:QEURfml4
秀忠は源氏長者にはなって無いんじゃなかったっけ?
0494人間七七四年2016/04/06(水) 11:18:32.94ID:dN10VpVF
源家って河内源氏の嫡流(頼朝の家系)に使う言葉じゃねえの?
0495人間七七四年2016/04/06(水) 11:26:50.48ID:zjgig030
イエヤスのはわけわからないほど末流の詐称だしな
0496人間七七四年2016/04/06(水) 11:36:33.71ID:gjRGJ1K1
twitter やってないんでこっちに書き込むけど行軍速度は

ttp://goo.gl/OZPwIw

のようにきちんとした軍勢で率いているときは、世界トップクラスで1日20km強。
10km程度でも一般兵混ざってるなら上々。
40kmは普通の軍隊なら強行軍。

まあ南北朝の連中をみると感覚が麻痺するけど。こいつら最低ラインが20kmなんで。
0497人間七七四年2016/04/06(水) 11:48:23.55ID:gjRGJ1K1
もちろん供回りだけのような少人数で後方がほとんどないならば40kmはそこまで無茶じゃないけど。それでも戦国時代の平均行軍速度が40km/日はありえん。
0498人間七七四年2016/04/06(水) 12:16:02.98ID:njOBvGKX
馬の話しの蒸し返しか
それとも全く関係ない話しか
0499人間七七四年2016/04/06(水) 12:40:54.54ID:gjRGJ1K1
>>498
いや、
ttps://goo.gl/6vgop8
とか
ttps://goo.gl/0M7qmA
の反論。
供回りだけで40km/日ならあり得なくないけど、軍勢率いているときに40km/日は十分強行軍。10km/日でも普通なら良質な軍勢の行軍。
0500人間七七四年2016/04/06(水) 12:57:24.97ID:yeSLQlMd
>>498
唐突にこういうこと書くのは往々にして基地外だから、放置でそ。
0501人間七七四年2016/04/06(水) 13:17:47.98ID:4iFAKkPp
まぁせめて関連スレでやれと。基地外に言ってもアレだが
0502人間七七四年2016/04/06(水) 13:47:18.22ID:zdeMXY5Y
変なきたなー
0503人間七七四年2016/04/06(水) 13:54:06.32ID:lxIl+MXh
生まれてきて恥ずかしいと思わないのかねこのゴミクズ
0504人間七七四年2016/04/06(水) 23:41:39.93ID:CKPeu+PL
どうもゴミんなさい
0505人間七七四年2016/04/07(木) 20:20:35.10ID:rYUEzry+
>>504
【審議中】
    |∧∧|       (( ) )   (( ) )  ((⌒ )
 __(;゚Д゚)___   (( ) )   (( ⌒ )  (( ) )
 | ⊂l     l⊃|    ノ火.,、   ノ人., 、  ノ人.,、
  ̄ ̄|.|.  .|| ̄ ̄   γノ)::)  γノ)::)   γノ)::) 
    |.|=.=.||       ゝ人ノ  ゝ火ノ   ゝ人ノ
    |∪∪|        ||∧,,∧ ||∧,,∧  ||  ボォオ
    |    |      ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
    |    |      ( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
   ~~~~~~~~     | U (  ´・) (・`  ). .と ノ
              u-u (    ) (   ノ u-u
                  `u-u'. `u-u'
05061/22016/04/07(木) 22:53:45.27ID:p5esZawi
慶長16年、上洛した徳川家康は二条城での秀頼との対面の要求を伝え、この知らせが届くと
大阪城では「これ容易の事に非ず、評定を遂げるべし」と、大寄合を開催した。
列座したのは、織田信雄入道常真、織田有楽斎、大野道犬、大野治長、大野治房、渡辺糺、浅井長房、
織田出雲守、中島氏重、速水甲斐守時之、真野頼包、青木信重、伊藤長実、堀田勝吉、野々村雅春。
郡主馬介良列、生駒正継、三浦義世、千石宗也斎、祝尚玄ら、都合30人であった。
これがこの当時、評定衆と呼ばれた面々である。
しかし、これほどの大事であるのに筆頭の家臣である片桐且元が何故除外されているかといえば、
片桐は大野一族と不和だったためにこれに招かられなかったのである。

このような所に、加藤清正は前日に熊本から大阪へと到着し、この日に大寄合があると聞いて押して
登城した。清正の性質は勇敢にして且つ智謀が有り、故太閤の前であっても心に違うことは憚り無く
発言する人物であった。

暫くして秀頼が大寄合の行われる千畳敷に御出でになった、母堂淀殿も簾を隔てて聴聞した。
しかしこの事は誠に豊家の一大事であったため、何れもお互いに譲り合い、発言するものが
居なかった。

が、ここで大野道犬進み出て
「今回、大御所が秀頼公に御上洛を勧められた事、そこに道理は一つもありません!
どういう事かといえば、官位昇進の御礼を禁裏に仰せ上がるのに、大御所への御対面のついでのように
仰せ上がるのは道に背いています。また、縁者への御礼というのなら、直接の御義父である将軍(秀忠〉を
差し置いて御祖父への御礼とはその意を得ません。
豊国大明神への参内もまた、この対面の理由とすべきではありません。大明神への参拝といっても、
今どうしてもしなくてはならないわけではありません。
であれば、兎に角理由をつけて御上洛の事を引き伸ばし、大御所がどうしても御対面したいのであれば、
以前のように大阪に御下向あるべきです。以上の儀を以ってご返答されるべきです!」

この様に余儀なく言い切ったが、誰もその意見に一言も申しだそうとしなかったので、道犬は声高に叫んだ
「太閤殿下の他界以降も、いつも家康公は大阪に御下向あって対面されていました。それなのに今回に限って
御上洛を促されるというのは、その由緒も全くありません!」
05072/22016/04/07(木) 22:54:17.38ID:p5esZawi
この時、加藤清正が座の中央に進み出た
「道犬の今の言葉、理が有るに似て非ざる物なり!
大御所も前々のようならば大阪に下向すると言うだろう。だが、庚子の兵乱(関ヶ原〉以後、天下の権勢は
皆関東に帰した。である以上、以前を以って見るべきではない!

殊に我が君(秀頼〉は未だ帝都の土を踏まれておらず、その上外の世界で天下の武士と交わりが無いため、
人はみな、君を懶惰の将軍と言っている。今度の大御所からの招きにも上洛なければ、いよいよ以って
比興の君と評価され、そうなれば一体誰が志を当家に寄せるだろうか?

一方で関東の両将軍は常に天下の大小名に御入魂の事を心にかけられている為、先君の鴻恩深き
大小名も、今は皆関東に帰伏して大阪の廃亡を心にかける者はいません。
今回は、仮にお招きがなくても、久方御対面が無い事に寄せて、御上洛あるべきなのです。
それを幸いにもお招きがあったのですから、速やかに御上洛有るのが当然です!
清正は不肖では有りますが、御供仕ります。その折、藤堂高虎は有馬の湯治からの帰路、天満の屋敷に
滞在していると聞いていますので、彼もお召しあって扈従を仰せ付けるべきです。高虎は先君の御恩を
山よりも高く蒙った者ですから、違背することは無いでしょう。仮に辞退するようなことに成っても、
私が共々に申し勧めます。

もし今、今回上洛しなければ、御難題を仰せかけられ、その禍目の当たりに来るでしょう。ただ一日も早く
御上洛のご返答あってしかるべきです!」

しかし大寄合は両論に別れ結論を出せなかった。清正は居丈高になって言い放った
「道犬は元は浅井家の臣!今は淀の方様に従って当城に在りといえども先君の御代では部屋住み同然にて
評定の席などで見る人物ではなかった!それなのに、いかに当城に人物が無いと言って、このような
重要な評議に、歴々を差し置いて彼のような者が加わっているのはどういうことか!?
その上発言も一々道理に叶っていない。
この清正は人々もご存知のように先君お取り立ての者であるが、既に御門葉にも列しており、どうして
おため悪しき事を申すであろうか?

道犬のような輩の評定は皆以ってこのようだから、それ故に関東の心象を悪くし、そして当家の御難儀と
なっているのだ!
そもそも今日の評議に片桐兄弟が座していないのは不審の第一である!」

そう荒々しく言うと、秀頼も「清正の言葉然り」として、直に片桐を召した。
(慶元記)
0508人間七七四年2016/04/08(金) 02:53:27.66ID:DcYidf8p
井伊兵部(直政)家中の木俣土佐の家来・何右衛門は九戸陣で首をひとつ取ったのだが、
その首を朝比奈左大夫が頻りに奪い取ろうとした。何右衛門は為す術なく奪い取られる
時に、その首の右耳の外れから左へ一刀を突き通した。

後に首実検の時、朝比奈はその首を持って出た。そこへ何右衛門はつるつると走り寄り、
「重いものをここまで御持参してもらいかたじけない」と、言うと、羽織を首へ被せて、

「この首をそれがしが取ったことは疑いない、 あの男が奪ったのだ! 証拠がある!」
と、言った。朝比奈は、「下がれ! 推参をぬかしおる!」と言うも、何右衛門は少しも
屈さずに、首の耳下の証拠を告げた。

朝比奈は終いに男(武士)をやめて法体となり、道無と名を改めて駿河様のもとへ出て、
その後に三河守殿に仕えた。

大須賀五郎左衛門(康高か)の家来・福岡太郎八は前述の朝比奈の甥である。太郎八の
取った首を朝比奈が奪ったことがあったが、太郎八は敵陣へ駆け込んで、別の首をまた
ひとつ取った。末頼もしき武辺であるというのに、太郎八は前述のことを最後まで一言も
人に語らなかったという。太郎八は加藤喜八の別腹の兄である。

――『武功雑記』
0509人間七七四年2016/04/08(金) 10:47:21.12ID:E4HK9LdF
毛利元就が厳島の合戦で陶氏の大軍を破った後、勢いに乗って次々と陶氏の城を落としていき、
ついには都濃郡須々万まで兵を進めたが、盆地にある須々万城は四方から川が流れ込む沼城で攻めにくい場所である。
毛利2万の軍勢を2つに分けて毛利元就が北側の緑山に陣を張り、息子の小早川隆景が正面から攻めることになったが、
城を守る大将の山崎伊豆守も勇将であったのでなかなか落ちなかった
弘治元年(1555年)の年末から攻め始めたが、にらみ合ったまま時は過ぎて、とうとう弘治3年の春となった

おぼろ月が見える春の夜、城のそばの沼地にあやしい人影が見えた。なんと水をたたえた沼の上を一人の若い女が
歩いていたのだ。それを見た攻め手の兵士たちは幽霊ではないかと騒ぎ立てたが、その若い女は沼の真ん中で立ち止まって
城へ向けて「おまえさまあ」と呼びかけ、「恋う人は 沼のかなたよ ぬれぬれて わたるわれをば とがめたもうな」と歌を詠んだ。
彼女は城内にいる恋人に会いにきたのである
相手が敵方の女と知った毛利側の兵たちは鉄砲でその女を撃とうとしたが、大将の小早川隆景はそれをやめさせて様子を見た。
すると城の中から鉄砲の音がして女は倒れて水しぶきがあがった。味方によって女は撃たれてしまったのだ。そこへ小早川隆景が
大声で、「みなのもの、見たか。女の通ったところが浅瀬だ」と叫んだ。
その声で我にかえった兵士たちは、女が通ったところに竹のすのこや むしろなどを重ねて道をつくり、一気に沼を渡って攻め入った。
あれほど守り続けていた城もこの攻撃には耐え切れず、とうとう須々万城は陥落した。
恋人に会いたい一心だった女の振る舞いが自分や恋人だけでなく、須々万城まで滅ぼす悲劇を招いたわけだが、この女性を憎む話は
伝わっておらず、誰もがあわれなことだと噂しあったそうである
0510人間七七四年2016/04/08(金) 21:46:41.33ID:wX2tR8C9
天正10年は、織田信長、武田勝頼のご生涯があったため、都鄙兵乱止むことがなかった。
信濃国には、徳川家康、上杉景勝が出兵し、上州には北条氏政・氏直父子が出兵した。

真田昌幸は徳川家康に出仕を遂げるべしとて、伊奈の家康陣へ父子にて出仕した。
そのほか。禰津、矢澤、室賀、八代、芦田、保科、常田といった人々、何れも伊奈に出仕し
御礼申し上げた。しかし当時、家康は秀吉との合戦の最中であったため、国々の地頭も居城に引き籠もり、
我が意に任せて大身は小身を掠め、強は弱を侵し領地を争ったため、片時も合戦は止まなかった。

ここに信州室賀の城主、室賀兵部大輔(正武)は文武智謀の勇将であった。
遠く先祖を尋ねるに村上源氏義清公の類葉であり、禰津宮内大元直の嫡子長右衛門尉利直の舅であり、
その上昌幸とは甲府数代の傍輩、知音の仲であったが、真田昌幸が甲州没落後、信濃衆が諸方へ行動を
起こす時、まるで大将のようにこれを取り仕切り、多くの一族はその通り、万事昌幸の指図を
受け入れていたが、室賀はそれに納得しない態度を見せたため、互いに疎遠になっていった。

このため真田昌幸は室賀を退治しようと、禰津に行った。
禰津の家臣である加澤与七郎、別府若狭の両人は、智謀の勇兵であった。彼らに昌幸は、
矢沢頼綱を通じて様々に指示を出し、これによって室賀の家来である室賀九右衛門、松江、堀田らに
調略を廻した。この際別府・加澤に昌幸が与えた証文によると

『おのおのの調略によって室賀家中の過半は我らに納得し、同意したこと、これは忠信の至りであり
感悦している。彼の地について本意を遂げれば、そこから一所を宛がうであろう。

天正十年四月三日                  昌幸
                   別府若狭殿
                   加澤与七郎殿


このような事があって、4月下旬、昌幸は室が城に攻め懸けたが、室賀も聞こえる兵であれば
打ち取ること出来ず、居城に戻り、互いに互いを討つことを計った。

(加沢記)
0511人間七七四年2016/04/09(土) 01:12:36.52ID:OQYVEnfc
>>507
極左グループの会議がだいたいこんな感じなんだよなぁ。違うのが加藤清正にあたる人物の発言が前者よりキチになるってだけで
0512人間七七四年2016/04/11(月) 16:11:56.56ID:IoCtMYLU
松永久秀が三好三人衆との戦いで南都多聞城に籠城した時、三人衆は三好日向守、岩成主税介を大将として
大仏殿に陣取っていたが、松永はここを夜討ちし、槍中村と呼ばれた中村新兵衛を討ち取って、大仏殿を
焼いたが、これは松永久秀が切腹したのと同じ10月10日であったという、不思議な事である。

所でこの中村新兵衛とは、当時隠れなき勇士であり、三好の一党が四国より攻め上がって、京都畿内での
合戦で、毎回のように先駆け殿の働きをし、寡を以って多に勝ち、万死一生を出ること多く、
槍中村と異名された。

後に三好一党が彼を大将に選出した時、固く誇示したがかなわず、大仏焼き討ちの時には大将の号を
得ていた。

彼は松永の攻撃から逃げようと思えば逃げることが出来た。しかし

「私を選んでくれたことに応じなければ、生きた印がない」

そう言って義名を清めて討ち死にした。その姿は誠に剛死と呼ぶべきである。

(甫庵信長記)
0513人間七七四年2016/04/11(月) 17:36:29.39ID:6nxEBH5I
東大寺を本陣とした三好と東大寺に夜襲した松永、どちらが卑怯だろう
生き残るために悪名を取った松永は偉いと思う
0514人間七七四年2016/04/11(月) 21:13:44.25ID:EBCmPijS
中村新兵衛ってどっかで聞いたなと思ったら
菊池寛の小説に出てくるやつか

自分の鎧だか陣羽織を貸してやった若武者が
新兵衛のネームバリューにビビった敵相手に無双して
普段と違う出で立ちの新兵衛は相手も気後れせず立ち向かってきて討ち取られるってやつ
0515人間七七四年2016/04/11(月) 21:48:53.58ID:6VygWZv8
「形」の元ネタ話なら数年前に出てた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-805.html
051612016/04/11(月) 23:05:09.37ID:IoCtMYLU
いわゆる方広寺鐘銘事件への対応で駿府の家康のもとに交渉に赴いた片桐且元は、家康よりの豊臣家への
糾弾に対し、本多正純へ次のように反論した

「今度御前において七ヶ条の仰せを蒙り、甚だ困惑しております。このこと、帰国を許されれば
秀頼公に委細申し上げたく思いますが、ここであなたにお尋ねしたいことが有ります。
問題がなければ、貴殿より大御所様にお聞かせして頂きたい。

一、慶長五年の関ヶ原合戦のあと、大阪の蔵入りを百万石と定められ、秀頼公を外様大名にように
  扱われていることは、御母子が常に憤られていることです。これが一つ。
一、七手組を警備に用いているのはひとえに大阪警護のためであって、専ら秀頼公を敬っているように
  見えますが、その実は却ってそうではなく、関東に対して別心のある者が出た時、それを速やかに
  防ぐためなのです。なので幕府の懸念は我々には理解できません。これが二つ。
一、我々兄弟は執事として大阪に在りますが、諸人はまったく心服しておらず、その職を全うできる
  状況ではありません。先に大仏殿再興に関する奉行をしていた時も、ただ空しく長い月日を
  浪費していただけでした。これらは家臣である私の身ではどうにも出来ることではなく、ただ
  困惑しながら日を送っている有様です。
  今の立場は私に対し、関東のご指図によって俄に仰せ付けられた物ですから、そのせいでも有るでしょう。
  一体私に何の過怠があって、大阪に付けられたのでしょうか!?今はただ、御役御免して頂くことを
  ひとえに願い奉るところです。これが三つ。
一、二代将軍(秀忠)の将軍宣下、ならびに氏の長者の御綸紙が関東に下りましたが、この際大阪には
  一応のお届けもありませんでした。大御所の将軍宣下の際は、秀頼公も未だ弱冠にも至っていません
  でしたから話もわかりますが、秀忠公においては大阪へのお届けの儀も有るべき筈なのに、絶って
  その御沙汰はありませんでした。
  そもそも古今の武将たるもので、この征夷大将軍の職を重要視するのは、一人秀頼公に限ったものでは
  ありません。誠に、枯骨が蘇生した喜びも、この職に勝るものではないでしょう。だからこそ秀頼公は
  これを常に羨み、母君はまた憤っていますが、これもあながち理のないことではありません。
  先日、御前において左近中将様(松平忠吉)が亡くなられた時、そのお悔やみに日にちを得て後に
  平侍を以って御追悼を申し上げたのは失礼であると、ごもっともな仰せが有りました。然るに、
  将軍の宣下があったのに大阪に在る大小名に、皆駿府、江戸への参勤をすべしというお届けが無かったのは、
  何れに用捨があるのでしょうか?これ四つ。
一、太閤殿下が薨去のみぎり、五大老三老五奉行、そのほか列侯牧伯には各々盟約を捧げ、秀頼公15歳に
  成られたら天下の政を知らしむべしとのこと、これ天地にあるもの皆知らぬということありません。
  ですが殊更に虚談を構えて、秀吉公が
  『秀頼公15歳とならば天下の政道を任すべし。但し、もしその器に非ずんば譲ってはならない。
  天下は一人の天下にあらざるなり。』
  そう遺言されたと云々されています。
  はっきり言いますが、秀吉公は堯舜のような君主ではありません!どうして我が子を捨てて他人にこれを
  与えるでしょうか!?このことは最も大切な儀であります。これ五つ。
一、朝鮮人、オランダ人らが来訪の時も、直に皇都へ至りそこから江戸駿府に下って礼をなしました。
  異域からは長らく来朝の事ありませんでしたが、太閤の武威を以って朝鮮人を日本に来訪させることを
  得ました。であるのに先年の来訪の時も大阪へは入りませんでした。また毎年オランダ人が来ていますが、
  大阪に来ることはありません。これらの事、秀頼公の恥辱は日本ばかりか外国までの恥辱です。これも
  母子が常に鬱屈しているところです。これ六つ。
一、この事は砂を噛むような瑣末な事であり、もとより言うに足らぬものですが、四座の猿楽から絵所に至るまで
  皆駿府に呼び寄せられ、大阪には一人も置かれません。これらも御無礼と成るのではありませんか?
051722016/04/11(月) 23:05:36.34ID:IoCtMYLU
一、先日御前において、秀頼公に対し、福島正則、加藤清正、黒田長政、浅野長晟、加藤嘉明といった
  諸大名が別して御入魂である事は、秀忠公に対して無礼であるとの仰せが有りました。ですが、彼らは
  あなたも御存知の通りみな太閤お取り立ての大名であり、今は数少ない大家です。であれば、禽獣は
  いざしらず、いやしくも人倫たる者は誰が秀吉公の御恩を忘れる者が在るでしょうか?故に
  秀頼公には四季時々の御礼、又は国の産物を差し上げるのです。関東でもし、譜代の輩が突然
  ご奉公を怠ればそれをお許しないでしょう?大阪であってもそれは同じです。太閤の御恩を厚く
  蒙った人々の内、秀頼公に粗略になった者達には、秀頼公も処罰を仰せ付けたいと思っているのですが、
  現在の状況はただ穏便にしようという他なく、時勢を守っているのです。
  この件に関してこの且元の心底には、少しも弁じ難い所はありません。これ八つ。
一、兵具を調え武芸を習っているという指摘は御尤もですが、鎧の毛を抜き、鞍の損じを繕い、
  武具馬を整えて常に武芸を学ぶことは治に乱を忘れざるの所であり、古来良将が常に兵を鍛錬するのも、
  一旦事ある日に即座に備えられるようにしている為です。ただし、徳川の御家には、弓を袋にし
  太刀を鞘に納め、飽煖の安きに居て金革を布くの苦しみ、矢石を侵す危うき等を知らざるを以って
  善とされるのでしょうか?
  軍の勝敗は瞬間の間にあって、治世の政とは異なるものです。だからこそ武芸のことは常に鍛錬しなければ
  ならないのです、であるのに、独り大阪城中の士ばかりは女童の勤めのみを成せばよいのでしょうか?
  これ九つ
一、将軍御父子には、秀頼公に対し御粗略にすることはないと仰せに成りましたが、近年御上洛あっても
  大阪へは御下向の御沙汰これなく、殊に秀頼公と御台所(千姫)との御仲不和の事を、昼夜思召して
  忘れずと仰せに成ったことは、これは御孫姫君の事ですから勿論のことですが、大阪よりは毎年、
  念頭の御礼として七手組の内一人と、淀殿の御使として局一人、姫君の御使として女中一人は必ず
  関東へ下っています。これは御縁者たるの礼儀を重んじているためです。一方、関東からは旗本の士
  一人を登らされますが、女房の御使はかねて沙汰すら聞いたことがありません。姫君がいらっしゃるの
  ですから、これは在るまじきことです。
  また去々年の秋、大阪の河口が、舟入が悪いため川床を浚っていたところ、江戸よりお咎めあれば
  工事半ばにして中止しました。その時、泰平には要害はいらぬという仰せでした。ならば、現在の
  江戸城の御普請は一体何の為なのでしょうか?これ十。
一、江戸城普請の人足には天下に千石夫を仰せ付けられ、また遠近につき五百人夫を仰せ付けられました。
  ところが大阪はそこから除外されました。しかしこれは大阪を敬しているようで、その奥に深い
  意味があります。武威を示す為に諸侯に仰せ付けられるだけでは、太閤の時代に大阪、伏見城を
  築かれたのと変わりません。
  また大阪城では仮に少しの破損があっても、そのままにして差し置いています。これは関東に対しての
  御遠慮なのです。これ十一。」

以上の十一ヶ条の外は末代への規範にも成らず、また豊家の瑕瑾にもならざる事ですから差し控え、
今この条々は現在天下の人の知るところです。しかしこれを直に申し上げるのは甚だ恐れある事ですから、
あなたからお伝え下さい。但しこれは、先に仰せに成られた七ヶ条への、豊臣家としての返答ではありません。
ただ全く、この愚臣が考えたことです。」
051832016/04/11(月) 23:05:56.35ID:IoCtMYLU
この発言にさすがの本多正純も且元の識量にとりひしがれたのか、否の問答もなく、暫くして言った
「結局、この議論に関しては太閤の御遺言についてだけが大切であり、その他は枝葉のことです。
しかしその実情を知る人は一人加賀利家でしたが、彼も亡くなってしまった以上、どうにも出来ません。
ただし、天下の政道は人力でどうなるものではありません。必ず天道の能くするところなのです。
天下万民の父母と成り、万機を心に任せる将軍の宣う所は、もとより常人の行いが及ぶべくもありません。
神明とても知るや知らずや、ただ天道の自然と存ずる所です。

その器に非ざるにして天下の政道を取ろうとすれば、どうして終始を全うできるでしょうか?
秀頼公を始め、その他の諸臣もここに気づいて頂ければ、却って幸甚です。
昔秀吉公の、岐阜中納言(織田秀信)へのなされ方をみれば、秀吉公はよくその事を知る人物であったと
存ぜられますが、こういった事は総じて容易のことではなく、私の判断の及ぶべきものではありません。
今、貴殿の申された十一ヶ条は詳細に大御所に言上いたします。そうすれば必ず、近いうちに
召しだされるでしょう。その時は御前において、貴方からさらに詳しく申し上げるべきです。」

こう伝えて正純は帰っていった。
(慶元記)

大坂の陣の前、徳川との交渉での、片桐且元による反論についての記事である。
05191/22016/04/13(水) 11:54:58.69ID:9iw9dGpA
片桐且元が駿府にて幕府との交渉にあたっていた時、大阪においては、「今回は秀頼公の御使者(且元)
ばかりにて淀様からの御使者が無い」と、前々より関東に下った経験があり物馴れた女中三人を下し、
ご機嫌伺いとして江戸駿府の様子を見てくるようにと、大蔵卿局(大野治長母)、二位局(淀殿女中頭)、
正栄尼(渡辺糺母)の3人を八月二十三日に出発させた。八月晦日に駿府に到着すると、この三女は
早速片桐且元と対面し、そこから下向の理由を家康側室・阿茶局へと連絡すると、明日登城すべき旨
申し来たため、三女は喜んで用意した。

九月朔日、八つ時(午後2時頃)三女は徳川家康の御前に召し出された。家康は三女の口上を直に聞き、
「秀頼公夫婦、並びに母儀にも恙無く大慶に思う。」と答えた。
三女は謹んで申し上げた
「今度、鐘銘において韓長老が不調法を行ったため御機嫌宜しからず、供養などまで延期を仰せられた事は、
御母子も殊更困惑されています。」
これに対し、家康
「それは世上の聞こえを憚って一段と申し付けたまでの事であり、苦しからず思っておる。」
こう言う家康は機嫌も常と変わらなかったため、三女は大いに喜んで宿舎に帰り、早速飛脚を以って
大阪へ注進。翌日、江戸へと出発した。

そして江戸への御礼を終え、十一日に再び駿府へと戻り阿茶局と対面して江戸の様子を報告した。
阿茶局は御前より下されたという御菓子を贈りながら言った
「今後はあなた方とも、しばしばこの様にお付き合いできますね。ほんとうに嬉しい。」
「…は?どうしてそのように仰るのですか?」

阿茶局は意外そうに
「ご存知ありませんか?しかじかの事により、淀様が関東に下向なさること、片桐且元が大方お請けして、
品川表にて御屋敷の地までも願いの通りに許可されましたから、おっつけ御下向あるでしょう。
その折にはあなた方もお供として同行されるでしょうから、このように申したのです。

さらに且元は本多正信の縁者に仰せ付けられましたし、尚以ってめでたい事です。」

三女は聞くごとに耳驚き、挨拶もそこそこに暇乞いをして、十二日の早朝、駿府を立ち退いて道を急ぎ
遠州浜松の付近で且元に追いついた。三女は先ず万事を知らぬふりをして申した

「かねて案じていたのと違い、大御所の御機嫌も甚だ宜しく、互いに安堵いたしました。」
且元
「そうではない。関東には様々な思惑があって、今回且元には御難題を仰せ出され、私は甚だ迷惑している。」
三女が強いてその訳を尋ねると、且元は三ヶ条の趣き(豊臣家の大阪からの転封、もしくは秀頼の江戸への参勤、
又は淀殿の江戸への下向)を以ってこれを語った。三女は問うた

「この内何れを関東の意に任せるのでしょうか?」
05202/22016/04/13(水) 11:56:09.09ID:9iw9dGpA
且元は胸中に深慮有りといえども、天下の大事であるからここで軽々しく女に語るべきではないと考え、
あえて「これ皆天下の御大切である。であるが御所替にもまた御参勤にも及ばぬよう、淀様が御下向の儀さえ
御得心あれば、事済むものである。各々帰られれば、この段たって申し上げて欲しい。」と申した。

三女は心に思った。『且元は駿府で既にこの事をお請けし、その上本多正信の縁者になったので、万事関東の意に
叶うよう取り計らうのも当然だ。』そう察すると、先ず「尤もの事です」と同意したふりをして、
そこからいよいよ且元の所存を聞き出そうと同道して上った。近江国土山に宿した夜、且元は三女に申した
「私は去る八月大仏供の延期についての交渉で関東に下り、久しく駿河に逗留していたため、今度の駿府の模様を
板倉伊賀守殿に報告すべきことがある。次の機会にしようとすればまた延びのびになってしまうので、ここから
直に京都に立ち寄り用事を済ませて大阪に下る。あなた方は先に大阪に上られよ。」

こうして三女は土山から直に大阪に登り、九月十九日到着。そして関東のあらまし、また且元の方針を
散々に讒言した。
日頃から関係の悪かった且元の事であるから、三女は言葉を揃へ、中でも正栄尼が申したのは、
「仄かに聞いたことによると、淀様を大御所の御台にもなされるとか。将軍の御台所と御連枝の淀様が
左様な儀は人倫の道にあるまじきこと!これも且元が申し勧めているそうです。その証拠に、淀様が
関東へ下ることが決定すれば品川にて御屋敷地を下さると固く約束なされたとのことです。これは
阿茶局が申していました。その上且元は、君にも伺うこと無く本多佐渡守と縁者に成りました。
これは上を蔑ろにする行為です!」

このように言葉巧みに申し上げると、淀殿も甚だ怒り「私は賤しくも織田信長の姪、浅井備前守長政の娘であり
秀吉にまみえたことさえ常々口惜しく思っていたのに、今関東に人質として下される事思いもよらぬ!
その上家康の妻と成るなど、無念の至りである。秀頼、もし私を関東に下すというのなた、生きて恥を
抱えるより、ここで剣に伏せるにしかず!」そう涙を流して訴えた

秀頼も「母を売って何の面目があるだろうか。それは考えもできないことだ。片桐が登城すれば
その実否を正そう」と発言した。

大野治長、渡辺糺といった奸臣たちは、普段から且元を強く憎んでいたため、折を得たと様々に
讒言を構えた。

是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり。

(慶元記)
0521人間七七四年2016/04/13(水) 12:35:16.71ID:DXJxl1hv
自分の等身大の気持ちを声に出して本人に伝えたら、怯えててワロタ。
0522人間七七四年2016/04/14(木) 02:08:21.73ID:DDb6sdaQ
横町の由来

天童合戦で野辺澤信景(延沢満延)を味方に率いれた最上義光はその喜びの余り、山形城下の定期市町の名称である「九日町」の名を満延に上げてしまった

それを知った重臣の氏江尾張のなにがし(氏家守棟)といった者が眉間に皺を寄せ、義光に窺った

守棟「城下には一(日)から十(日)までの数を冠した市町がありましたかな。
嗚呼、誰かが能登殿(満延)にその一つを差し上げられたので、今は歯抜けがありましたか。
ーそれで、欠けた『九日町』の代わりになる様な素晴らしい名前を我が殿は用意なされているのでしょうか?
満月も一つを欠いてはままなりませぬ。
思いつきや勢いで町名を上げたり等という事はまさかありませんよな?」

義光は守棟を宥める様に口を開いた

(´・ω・`)「いくら儂でもノリだけで迂闊な事はそうはしない。九日町の名を満延に与えたのはそれだけ彼を買っての事。
…九日町は七日町の南隣(つまり横)
かつ十日町の北隣(つまり横)
九の字は四(よ)と五(こ・ご)を足した数だから旧九日町の地の町の名には四と五で横町なんてどうだろう!
…なんつって!」

守棟「…」

(´・ω・`)「…(やばい…怒ってる?)」

かい摘まんでますが、本当に横町の由来がこんな鮭様のおやじギャグが発祥とされています

「山形細見」
0523人間七七四年2016/04/14(木) 02:30:18.62ID:DDb6sdaQ
一栗豊後誕生

山形の最上義光は目を掛けた家臣に「光」の字や受領名を与えていた

しかしあるとき市来隆春(一栗高春)といった侍が苦虫を潰した様な顔で義光に尋ね出た

高春「周りに人がいないので殿に直にお聞きしますが、何故に私の受領を豊後守になされたのでしょう?
いくさに後(おく)れ(油断や遅れ)を取る事が多い、もっと精進せよとでもいった意味でもあるのでしょうか?」

義光は高春に即座に返答した

(´・ω・`)「否、そちはなにか思い違いをしておる。そちは兵の道の他に歌や文の道にも長けておる。
豊後はいくさで遅れを取るのが多いといった意味ではなく、文悟(武道だけでなく文才もある一角の人物だよ)といった言葉遊びを含めてのもの。
難しく考えず、受領を授けるだけ気に入ってると考えてほしいんよ」

「山形の昔話」

裸武太之助や鶴ヶ岡・亀ヶ崎のネーミングと連歌の豊かな表現とのギャップとで、鮭様の普段のセンスが正直わからなくなってきた…
0524人間七七四年2016/04/14(木) 02:49:01.91ID:DDb6sdaQ
山形市横町(現山形市民会館付近)
http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&;d01=10558417622106&c=10

●九は四たす五、だから四五町に。語呂が悪いから「横町」

…義光公時代に「九日町」は尾花沢の延沢城にくれたという。町人は、四と五を加えて九日となるので、九の日に市を開きたいので四五町(よご町)にし、語呂が悪いから「横町」というようにしたと語り伝える人も見られた。
0525人間七七四年2016/04/14(木) 07:32:45.86ID:GMsMng5l
家康「安直じゃな」
0526人間七七四年2016/04/14(木) 08:00:54.98ID:9jR94Tq+
ノブ「子供の名前に使わせてもらおう」
0527人間七七四年2016/04/14(木) 19:33:28.52ID:VVpbIm0a
また最上の病気が再発したか
0528人間七七四年2016/04/14(木) 21:18:29.99ID:1ByHse5H
>>522
せっかく1から10まで揃ってるのに9あげちゃうのかよw
それだけ買ってるってことなのかも知れんが、もらう方も微妙な気が…
0529人間七七四年2016/04/14(木) 21:51:26.97ID:biJM3Xtr
一戸から九戸までのうち四戸は縁起が悪いせいか今はないのに
四日市はいろんなとこにあるな
0530人間七七四年2016/04/15(金) 00:49:20.25ID:aV2luiL4
そもそも町の名前ってあげちゃっていいものだったのか
0531人間七七四年2016/04/15(金) 11:24:57.02ID:toTFfKWq
犬ころに娘を差し出す奴だっているしねえ
0532人間七七四年2016/04/15(金) 17:59:53.48ID:Qv6X6gsX
大阪冬の陣の直前、片桐且元がその大阪屋敷から退去した時、その屋敷の床の中央に一通の書状が
置かれていたという。それは織田有楽斎宛のものであった。中を見てみると、こう書かれていた

『且元、計らざる災いにかかり、城中を追い出されてしまいました。
私は関東に対して、力を尽くして豊臣家を守ろうとした、その寸忠は全て仇となってしまいましたが、
私は、秀頼公の御身の上が今後もつつがなく渡らせられることを望むばかりです。

今、且元が大阪を退いたことが関東に聞こえれば、定めて御不審を持たれるでしょう。或いは乱の
基とも成るかもしれません。

この上は、外に策もありません。ただ御台所(千姫)を早々に本丸へと引き取ることが肝要です。
夢々ご油断あるべからず。』
しかし、大野治長らは早々にこの策を用いず、終にその意図を外してしまったのである。

御台のことは、難波戦記やその他の書にも、大阪落城の時に坂崎出羽守が盗みとって岡山の御陣へ
お供した、とあるが、その説は否定されるべきものである。

(慶元記)
0533人間七七四年2016/04/15(金) 19:57:40.22ID:2Zf6qsnq
(´・ω・`)「港の45〜45浜45須賀〜♪」
0534人間七七四年2016/04/16(土) 17:32:27.72ID:eKrsW2py
豊臣秀頼家臣の石川伊豆守貞政は、片桐且元の討ち手の役を仰せ付けられていたが、且元と一味して
襲撃に先立って知らせたため、大阪において且元を討ち漏らす事となった。
そのため大阪では

「ならば石川貞政も誅するべし!」

との風聞が頻りであった。貞政は之を聞くと、元来武勇の聞こえある武士であったので、
ある日の暮れ頃に出仕し、大野治長、渡辺糺らを討ち果たさんばかりの勢いで殿中に上がり、
座中を睨み付けて言った

「この貞政、逆意有るに依って誅せられると承り、参上いたした!
誰でも、その命を承った者は貞政の頸を刎ねて上覧に備えるが良い!」

そう大音声を発し、仁王立に立った。
しかしそのような命令は出ておらず、誰も彼に立ち向かって勝負しようという者は居なかった。

貞政は暫く待ったが、大野、渡辺も姿を見せぬので、宿所へ帰り若党一人に薙刀を持たせて
玉造口から泉州堺まで移動した。家来たちは取るものもとりあえず、武具馬具のみを整えて
あとから追いついた。
そこから河内路を経て片桐且元の茨木城に向かい、且元に会ってこう言った

「大野、渡辺らが寄り来たらば、私も貴方とともに籠城してこれを防ぎたい。」

しかし且元は、この提案に肯かなかった

「傍輩と相語らって籠城すればこれは反逆である。私は謗臣たちが寄せくれば、恨みの矢一つを
射てから切腹し、武夫の名を汚すまじと思っている。であれば、あなたが当城に在るのは、
義において外れた所である。
幸いなことに織田常真が京都に居るので、これより直に上京するといい。」

貞政もこれに信服し、それより茨木を出て京都に上り、板倉伊賀守と対面して大阪の有様を語ると、
板倉は

「大阪には、既に御反逆の用意がある中、あなた方はこれを知って京都に逃れられたこと、
両将軍も定めてご満足でしょう。」

そういって屋敷を与え、日々の賄いも申し付けた。こうして織田常真、石川貞政の両名を京に留まらせることが
出来たのは、板倉伊賀守の智謀の深さゆえであった。

(慶元記)
0535人間七七四年2016/04/16(土) 22:32:07.65ID:9mBkuUZ9
殿に媚びへつらう者のなかに、気力が強く悪賢い人間が現れたときは、
殿を騙し、己が出世することばかりに力を使うものだ。
なにをすれば殿が喜ぶかというツボを心得た者は、少々のことでは奸臣だと見破られないものである。
非常に見破りにくいものだからこそ、大賀弥四郎という奸臣は、あの家康公をさえも騙しぬいたのだ。
このような奸臣は新しく召抱えられた成り上がり者に多く出てくる傾向がある。
譜代や高禄の武士には稀であるということである 【葉隠】
0536人間七七四年2016/04/16(土) 23:25:23.32ID:8GBmpV1E
直茂「広橋とか勝屋とかね」
0537人間七七四年2016/04/17(日) 03:02:18.74ID:G10yzVRE
>>887
その後、どうなったか気になっていました。報告してくれてありがとう。
私も銀英伝好きだからその台詞知っているよ。
「いい人」で終わるというのはある意味、嫌われなくて済むということでもあるよね。
あなたの魅力を理解できる人が現れるといいね。
部署を変えてまで彼女の近くにいたかったくら好きだったんだから、
気持ちは簡単に整理できないと思うけれど、月曜日からお仕事頑張ってね!
0538人間七七四年2016/04/17(日) 08:00:17.76ID:3rXgx+Bj
忠興のラブレター?
0539人間七七四年2016/04/17(日) 09:33:58.35ID:WytbZ4y4
その頃、後藤助三という金物師がいた。生国は都の者であったが、打ち続く京の惣劇に家も貧しくなり、
身を置くのも難しくなったため、縁を頼り中国地方に下り、安芸の吉田・甲立あたりをあちらこちらと巡り、
彼は非常に弁舌が立ったので、古今の事を語って人の気持ちを慰め糊口を得ていた。

その中でも宍戸元家は東国で生まれた人であるので、都あたりの物語珍しく、この助三を常に近くに呼んで
洛中洛外の名所旧跡の事などを訪ね聞いた。

ある夕暮れ、欄干において、残暑も過ぎ涼しい風に元家が半醒半睡となっている所、助三はいつにも増して
熱心に語り、元家の膝近くまで近寄った。

が、ここで元家の左右の手が助三の手足を掴んだ!そして
「汝の今の音声は常成らぬものであった。間違いなく殺意の音があった。汝は虎狼の心を抱くと覚えたぞ!
詳細に白状いたせ!」

そう責め立てると、初めのうちは弁舌を尽くして弁じていたが、百人力、千人力と言われる元家に締め上げられ、
眼も飛び出し骨も砕かれんばかりになると、終に

「この上は有りの儘に申します!この程、北野入道浄真、中山弾正、只菅某に頼まれたのです。

『その方は上方者であり、殊に武道を学ぶ人でもないのだから、いかに宍戸元家が人の表情を悟る人間
だとしても、お前に用心することは無いだろう。そこで隙を伺い、元家を殺せば、紀州において百貫の地を
お前に与え、そのほか望みのままだ。』

そう言われたため、卑賤の身の浅ましさ、君の御恩を忘れ哀れにもこの事を行い、紀州にて報奨の地を得て
故郷に帰り、妻子を安楽に育み、数年の浪々の艱苦を忘れようという嗜欲にほだされ、時を伺っていたところ
今日さいわい、君が御休息されていたので、御睡眠を待っていたのですが、因果不昧の断り免れず、
却ってこのようなことに成りました。

ですが!これらは皆奥家の寵臣たちの陰謀であって、私の野心ではありません!
日頃のお情けに、どうか命だけはお助けください!」

元家、にやりと笑って
「そういう事なら糾明には及ばぬ。汝が望みであるのだから、紀州以上の大国の土地を与えよう。
その名は”無限地獄”。子々孫々にまで与える!入部せよ!」

そう言って左右の手を一つに寄せると、後藤助三の背骨が折れ果てた。彼の懐中には刀が有った、

その後、この刺客を放った北野入道浄真の一族、北野心右衛門、中山弾正が周田五郎によって
討ち果たされ、彼ら一味の残党は或いは逐電し或いは討たれた。その折、城に在った者達は
逃げる道なく倉庫に取り籠もり、内より火を放ち自害して滅んだ。

(宍戸記)
0540人間七七四年2016/04/18(月) 17:52:09.61ID:FNLmB20G
伝に曰く、真田左衛門佐幸村は真田安房守昌幸の次男であり、兄は伊豆守信之という関東伺候の
大名である。幸村は父の昌幸とともに石田三成に与し、信州上田城に在った。
関ヶ原の時、将軍家(秀忠)は東山道を上っていたが、その道を塞いだため、将軍家は
五万騎あまりにてこれを攻めたが、幸村父子は八百人で能く防ぎ、終に落城しなかった。
そのため将軍家は伊豆守信之、および森右近大夫(忠政)を以ってこの城の押さえとして置き、
自身は上ったが、これによって関ヶ原の合戦には間に合わなかった。

その後上田城は兵糧が尽きて城を明け渡した。この時将軍家は、大切な合戦に遅れたのは
真田父子の為であるのだから、かの父子を死罪にも仰せ付けたいと思っていた。
しかし大御所(家康)はこう言った

「彼らが当家に敵対することは、既に野州の小山において、信之を義絶し私にも断って
西軍に与したのだ。その様は誠に豪傑の士である。現在、誰が彼らに比肩するだろうか?
また、信之の奉公の労にも代えて、先ずそのままに差し置くべし。
年を経て招けば、また来ることもあるだろう。」

こうして昌幸父子は紀州高野の内、九度山の麓の宿に潜居したが、常に、もし豊臣秀頼と
関東との合戦があれば大阪に与して関東を滅ぼすことを志していた。しかし昌幸は慶長15年に
死去し、それ以後は幸村一人ここに在ったが、この度秀頼より『早々に入城すべし。一方の大将に
付け、利運の上は信州一国を与える』との招きを受け、幸村は畏まって籠城した。

この幸村は良将であった。もし、彼の諫言が用いられ鍛錬調っていたなら、関東にとっても
困難なことになったであろうが、大野渡辺の如き未熟者のために、せっかくの幸村の良策も
遂に皆、徒となったのである。惜しい哉。

(慶元記)
0541人間七七四年2016/04/18(月) 18:44:21.06ID:1WhIiklT
>>540
へえー家康がどうしても死罪にしたいって言うのを、忠勝他が身を張って止めた逸話の方が有名だが
0542人間七七四年2016/04/18(月) 20:14:22.23ID:IgokwSi/
>>536
広橋「貴殿、ブーメランを御存知か?」
0543人間七七四年2016/04/18(月) 21:21:30.22ID:I9wKNc0i
>>541
この話もその話も嘘だよ。
実際は真田昌幸程度だと流罪が妥当。
徳川方の被害もたいしたことなかったし。
0544人間七七四年2016/04/18(月) 22:13:17.31ID:1x/2qN4b
>>543
悪い話ダナー
0545人間七七四年2016/04/18(月) 22:22:34.83ID:noPVwmW4
もう、真田幸村で定着しちゃってるんだな
0546人間七七四年2016/04/19(火) 08:11:06.26ID:/FGASa5h
「幸村」って名前で出てくる時点で話に信憑性がないよね
0547人間七七四年2016/04/19(火) 10:18:28.26ID:0hzWkX3H
ここまで来ると信繁なのに幸村になっちゃった経緯が知りたいなあ
やっぱ憚かる意図でもあるのかな
0548人間七七四年2016/04/19(火) 12:42:49.99ID:7l9E/FCE
真田昌幸本人も本多正信が動いてくれてるからじき赦免されるだろと軽く考えてるから
流罪で妥当、十分重い刑という認識だからね。ただ赦免は結局かなわなかったが。
そして家康の意向を受けてるあるいは影響を与えられる正信が動いて好感触でも反故って事は
正信−家康ラインの外からの横槍があったと考えられ第一候補は将軍となる
大坂の陣で関ヶ原がトラウマになってる事を窺わせる書状と併せて考えれば
死罪は無いにしても秀忠激おこはあっただろうなとつらつらと
0549人間七七四年2016/04/19(火) 13:02:46.52ID:xIAoJ1OI
天正壬午の乱を思えば初陣さんには無理げー
0550人間七七四年2016/04/19(火) 15:23:07.70ID:ImIZUG93
逸話スレ見てると秀忠は賞罰に私情を挟むタイプではない気もするから、横槍を入れるとしたら将軍側近で親子で痛い目に合わされた大久保忠隣の方がありそう。
で、面子を潰された正信の讒言で大久保長安事件が…と妄想してみた。
0551人間七七四年2016/04/19(火) 18:59:20.57ID:WqevE3tP
「幸」の字はともかく「村」の字はなにか由来があるんだろうか
実名に使われることのない字ではないようなんだけど、なんとなく気になる
0552人間七七四年2016/04/19(火) 19:32:59.50ID:9VC/ICMp
>>551
徳川に仇なす「村正」から取った、と以前TVでやってた。
0553人間七七四年2016/04/19(火) 19:38:26.76ID:l9K9toaz
>>552
村正云々は、「幸村」という諱が出てきた難波戦記の成立よりもっと後の時代に出来た話だな。
0554人間七七四年2016/04/19(火) 22:23:10.92ID:2jFexQYU
村の字使った名前はこれ以前から見かける気がするが
0555人間七七四年2016/04/19(火) 23:49:51.90ID:dLfZ/8TK
赤松義村、浦上村宗か
0556人間七七四年2016/04/20(水) 02:58:45.77ID:VOlUpwvC
伊達家にもある
0557人間七七四年2016/04/20(水) 07:05:37.96ID:DCj7IRhz
>>546
ここは逸話の中身の信ぴょう性なんてどうでもいいスレだよ。
投稿者が自作した逸話はノーサンキューだけど。
0558人間七七四年2016/04/20(水) 10:48:42.16ID:9ODF2SZe
>>548
話聞かないけど昌幸って本多正信と交誼でもあったんかね?
0559人間七七四年2016/04/21(木) 21:37:42.23ID:OEGVZCkP
>>554-555
家康に縁あるの?
家康に不幸あれかしとつけてないだろ。そいつら
0560人間七七四年2016/04/23(土) 01:17:40.34ID:ty4x9LC+
何故か無視される荒木村重
0561人間七七四年2016/04/23(土) 04:26:39.19ID:skimD/64
道端ウンコさんはお黙りくださいまし
0562人間七七四年2016/04/23(土) 05:25:22.29ID:+ncgrbFk
おー
うんこく斎の元ネタは道糞さんやったんかー
0563人間七七四年2016/04/23(土) 23:57:22.30ID:eJxhz01o
>>1読んでないのがそもそも重大なマナー違反
0564人間七七四年2016/04/26(火) 05:12:43.08ID:g3d8honN
摂津国野里村の三右衛門は、農民ではあるが勇を好み勢い強き故にて、一度兵を起こせば
隣邑尽くこれに属した。

片桐且元が大阪を脱出し茨木城に入る時、大阪より摂州堺の政所を攻めると聞いて、
騎歩ニ百ばかりを遣わして政所を救おうとしたが、三右衛門は近隣の郷民を集め、
この且元の軍の大半を討ち捕った。これに且元は歯噛みをして怒ったが力及ばず、
後に大御所(徳川家康)が天下を定めた時に、且元はなお鬱憤解けず、これを訴え
それによって三右衛門を召しこの事を責めた。

三右衛門は且元をキッと睨むと
「貴殿は故太閤の重恩を担い、権を取り威をも逞しくされたのだから、死を以って忠を
尽くされるべきなのに、危難にあたって君を忘れ身を顧みた。これは武臣の本意に非ず!

我らその時は貴殿が敵であるのか味方であるのか、その心中すら計りかね、そのため
貴殿の士卒を討ち捕ったのであり、あながちに罪とするべきではありません。
道に叛くより義を守って滅亡するに敷かず。いま貴殿は、自らを恥じないどころか、
却って人を讒言するとは言語道断である!」

そう、憚ること無く申すと、且元も閉口した。

大御所は三右衛門の言葉を聞くと
「弁才勇義があり、只者ではない。統治において道があれば、彼は良き締りにもなるであろう。」
そういって三右衛門を宥免したという。

(慶元記)
0565人間七七四年2016/04/26(火) 09:55:02.01ID:Pv/ahYrZ
つ胃薬
0566人間七七四年2016/04/26(火) 19:20:45.39ID:Zj1szefR
武士が近隣の郷民に負けることも恥な気がするけど
0567人間七七四年2016/04/26(火) 19:37:16.93ID:g3d8honN
豊臣秀吉の、小田原進発の時に、伊達政宗は参陣がなかったことで、秀吉は甚だ怒った。
これを政宗聞き、小田原陣に至り、中村一氏に言った

「私は関白殿の御門下に、必ず馬を繋ぐべき筋目はない。これによって頃合い、日和を見て
いた所、北条滅びて後に奥州に御発向あるとの風聞を承った。然るにおいては、防戦危ういこと
必定と考え、日を継いで馳せ参じた。
昔頼朝公が、上総介広常の遅参を咎めた時のような御気色あるのは迷惑である!」

これを聞くと秀吉は笑い出し、「政宗はありのままの者である」と、その罪を免じた。

しかしその年の冬、奥州九戸に一揆起こり、政宗もその方人であるとの聞こえ有り、秀吉は
政宗を悪み、急ぎ上洛すべきと命じた。
政宗承り、「私ほどの者が磔にかかる時。並々にては口惜しい」と、金銀にて鍍金した磔柱を
先頭に持たせて上京した。その頃秀吉は伏見の城地を見ていたが、政宗の上洛を聞くと、
「ここに来るべし」と命じたため、政宗伏見に向かうと、側に招き、その日使っていた
杖にて政宗の首を押さえて言った。

「其方、上洛せねばこのように申し付けるべしと思っていたが、速やかに馳せ上がった上は
免ずべし。」

政宗畏まり、御前を退出したという。
(新東鑑)
0568人間七七四年2016/04/26(火) 22:12:11.40ID:u3nR6GLe
>>566
お前バカって言われるだろ
0569人間七七四年2016/04/27(水) 14:59:41.35ID:0CJH00Yp
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l
  |     |r┬-|       |  / <こいつ最高にアホ
  \     ` ー'´     //
  / __        /
  (___)      /
0570人間七七四年2016/04/27(水) 20:38:38.69ID:4qe9qUS8
伊達政宗が、将軍徳川家光の供奉として上洛した時、東福寺大雄庵の住持の入院(住職となって寺に入ること)
があった。政宗はこの寺の檀那であったため、辻固め(貴人の外出の際などに、辻々に立って
道筋を警戒すること)の警備の人数を出した所、建仁寺の態長老(細川幽斎の甥であるという)が聞かれて

『今日をはれと 檀那伊達して政宗が 辻片目をや光らすらん』

と戯れ歌を読まれた。これは政宗が片目により、辻固めと片目をかけたのである。
政宗はこの歌を伝え聞くと

『ともすれば 吾名におひと固めをも 光らす身のかかる迷惑』

と詠んだ。

(新東鑑)
0571人間七七四年2016/04/27(水) 21:30:29.55ID:EwIzzuRo
悔しいのぅ
0572人間七七四年2016/04/27(水) 22:12:10.00ID:K1fnOyC4
辻々で四の字固め?
0573人間七七四年2016/04/27(水) 22:45:20.24ID:YfPLe9G6
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6910.html?sp&;sp
同じ逸話がこっちでは
「熊」長老となっている
さてどっちが正しいのか
0574人間七七四年2016/04/28(木) 02:50:37.10ID:V0jy1STk
大納言(前田利家)様の御咄に、人を呪う事はあってはならないというものあります。
その理由として以下のお話をされました。

利家様が荒子を信長公の御意で前田蔵人(利久)殿から受け渡されたとき、
蔵人殿の御内様が腹を立てられて、色々呪う事をなされた。
屏風・障子にまでも呪いを封じさせてから退城されましたが、
結局大納言様にはいや増しに吉事があったとのことです。

村井豊後も同じことを語っていました。
(利家夜話)

なんで信長は利家に家督を相続させたんですかね
0575人間七七四年2016/04/28(木) 06:09:16.99ID:lAFOKSFt
そりゃもうアーッよ
0576人間七七四年2016/04/29(金) 00:54:22.03ID:GjfOD1XB
>>574
呪うと呪った相手にいや増しに吉事が訪れるから?
0577人間七七四年2016/04/29(金) 10:03:32.46ID:lNQCYFn2
「祝ってやる!」だろ?
0578人間七七四年2016/04/29(金) 17:06:55.08ID:ffZrOZ+L
大坂の陣が起ころうとする時、大阪の豊臣家は島津家に対して援兵を募ったと、浪華軍記、村越覚書等に
記されているが、これに対して島津家からの返答はなかったという。
そもそも島津家、伊達家、上杉家といった家は従来、自己の武功を以って治め来たりし国であり、
太閤秀吉の与えたものではなく、この点、加藤福島といった人々とは別である。故に秀吉自身も、
天下の武士の心を察して、自ら征夷将軍とはならず、関白に任官したのである。

これによって秀吉は、天下の大名に上洛を促し、聚楽へも参勤をさせた。
この国に在る者は、誰が神系(天皇家)を尊ばないものが居るだろうか?
故に、もし秀吉を疑って上洛を遂げぬ者があれば、直ちに朝敵であるとの名を付け
之を討とうとの謀であった。
小田原の北条父子の事などは、こういう視点で見るべきである。
これ故に、天下の諸侯もやむを得ず在阪するもの多かったのである。

(慶元記)
0579人間七七四年2016/04/30(土) 21:19:12.93ID:SZUuzKNG
大阪冬の陣が始まろうとする時、大阪城中では関東の出馬を聞いて、諸方の砦、その他外構え等の
普請に傭役を増やしてこれを急いだ。そして豊臣秀頼は、譜代新参の諸大将を召して評定を開いた。
その内容はこうである

「先に命じた各々の持ち口(担当部署)には善悪が有り、それに対して不満も出ている。
そのためもう一度、籤によって持ち口を定めたい。」

これを聞いた各持ち口の頭分の者達は
「最前既に仰せ付けられた持ち口ですから、それに善悪があろうとも今また変更すべきではありません。
また、兵家が籤を用いる時は、故実に従うべきです。
ともかく、そのままに差し置くべきです。」

そう、この件に反対した、

この時、大野治長、渡辺糺は籤奉行であったのだが、大野治長がこう発言した
「黒門口は平野口に近く大手の内の要害ですから、かの口三十間は治長がこれを堅めます。」

これを聞くや渡辺糺が怒鳴った
「治長殿のやり方は理解できない!いま、持ち口に善悪があるからと籤を用いようとしているのに、
黒門口は治長自ら堅めると言われる。ならば籤はしないのと同じではないか!?

総じて修理亮殿は万事ほしいままにして諸将を蔑ろにしている事、甚だ奇怪である!今後、慎まれる
べきである!」

しかし治長は少しも屈せず
「黒門口は内側が広ければ小勢を以っては担当できない。それ故にこの治長が、籤を執る前に
これを堅めたいと申したのであって、全く我意を挟んだものではない!
そもそもそのようにいう和殿こそ、却って秀頼公の思し召し良きをいいことに、常に諸士に対して
無礼であるため、人々もこれを悪んでいると聞くぞ!
この治長に意見する前に、先ず自身が謹しまれよ!」

そう荒らかに言い放つと、糺も激怒し
「普段のことはともかく、今度の黒門口は籤の上であれば、特別に治長に堅めさせるようなことはしない!
強いてというなら、余人には渡さぬ。この糺自ら請い取るべし!尚も言いたいことが有れば申してみよ!」

目を怒らし居丈高に成り、肘を貼って叫ぶ渡辺糺に、大野治長も立ち上がった所を、座中の人々が
慌てて両人の間に入り
「御両人はこの城の棟梁の臣なのですから、このような諍論は似合いません。殊に大事を控えながら
朋輩同士が口論するのは然るべからざる事です。第一君の御為になりません!」

そう制したことで渡辺は鎮まり、治長も「私も誤っていた」と謝罪し、各々はその座に帰った。
この諍論に時間を取られたため、籤の沙汰は無くなった。

籤が中止に成ったことを真田幸村は聞くと「さもあらん」と嘲笑った。
そして後藤基次は
「両人の喧嘩は大阪の幸いであったのに、どんな馬鹿者がそれを止めたのか。
この両姦人さえ討ち果たせば、城中の評議は思う様に整って、天晴花ある軍となっただろうに。惜しいことだ」
と、大いに腹を立てたという。

(慶元記)
0580人間七七四年2016/04/30(土) 23:16:14.42ID:q6uhGX3x
いつ見ても城内ばらばらやな
0581人間七七四年2016/04/30(土) 23:49:28.24ID:1l8pvDLb
目立った働きのなかった譜代が目立とうとして必死なんよ
0582人間七七四年2016/05/01(日) 00:06:04.93ID:x4B2WdUx
突出して凄いのが出てくればよかったんだろうけどねー
0583人間七七四年2016/05/01(日) 00:33:08.56ID:98MthrCf
そりゃまあそれほど戦慣れしてない譜代は浮足立ちもしそうなもんだ
0584人間七七四年2016/05/01(日) 20:05:27.45ID:uzWIQWnd
かなりマイルドになったわい
0585人間七七四年2016/05/03(火) 16:35:06.62ID:TAzz9KHo
今回の大河でも、秀吉は身内を大切にしたってことで、秀長と清正や政則との血縁関係の解説が入ったけど
小出氏の空気っぷりは相変わらずだな

平野長泰まできちんとした出番のある珍しい作品なのに
0586人間七七四年2016/05/04(水) 19:53:39.95ID:wIDEY8AF
徳川秀忠は関ヶ原合戦の時、真田安房守(昌幸)に防がれ、合戦の終わって後に
美濃に到着したことに、徳川家康は不快に思い、「持病の寸白を発した」と言って、
対面を許さなかった。

秀忠は「さては着陣が遅くなった為、故意に会おうとされないのだ」そう推量し困惑し、
幕の外に出たあと少しく落涙した。
この時、秀忠に従っていた榊原康政、大久保忠隣、本多正信、酒井備後守忠利を
はじめとした御家人たちを一人も召さず、下陣すると言い出した。

井伊兵部少輔直政は秀忠に仰せ言を述べて後に、榊原らに対し荒々と言い放った
「中納言様(秀忠)が遅く上らせ給い、大軍が合戦に間に合わなかったのは、各々の
不覚である!」

しかしこの発言に対し彼らは、家康の機嫌を憚り返答するもの一人もなく、それぞれ
退出した所、酒井忠利は御前であっても所存を臆すること無く言う人であり、
兵部少輔の言葉を聞いてこう思った

『秀忠公の御舎弟、下野守殿(松平忠吉)は井伊の婿であるため、今度の合戦に後見して
鮮やかな戦功があったと聞く。このため、直政はむやみに秀忠公の遅参を言い立て、
忠吉様の御手柄を吹聴しているのではないか?』

そして一人その座に居残り、直政に言った
「兵部殿の先の言葉は心得がたい!何故ならば、中納言様が遅参したのは正当な理由ある
事であり、内府公(家康)が機嫌を悪くされるような話ではない!
それなのに、若き殿の憤りを憚らず、粗忽のことを申されるのはいかなる心中に候や!?」

井伊直政はこれに冷笑した
「言っても返らぬ事だが、天下の人の口にそう懸かってしまう、その口惜しさに申すのだ。」

忠利は屈せず
「例え、本当に誤りがあって内府公の御機嫌よろしからずという場合であっても、格別の時期であるから、
御父子の対面があるように、貴殿こそ申し直すべきなのに、その計らいが無いだけでなく、今更無益の
批判を言うとは何なのか!?
この上も我らと争い、中納言様の御事を悪しく申すのなら、兵部少輔、覚悟せよ!」

そう言いざまに直政に向かって進み寄る所を、側にあった諸士が慌ててこれを止めた。

井伊直政が申す所は、秀忠の身にとって、心良からぬ事であった。並の気質であれば、直政は
秀忠の不審を被ったであろう。しかし秀忠は露ばかりも彼を悪む様子がなく、却って、彼が死去した
時には、深く惜しんでいたという。

(新東鑑)
0587人間七七四年2016/05/04(水) 19:57:53.36ID:Huu4TCor
家康「真田を無視しとけよ
寸白(サナダムシ)を理由に会わんことにする」
0588人間七七四年2016/05/05(木) 19:26:09.94ID:YyOFRyTP
毛利安左衛門は長宗我部宮内少輔(盛親)に属して大坂の陣で戦ったが、生命を助かり、
後に人々にこう語った

「戦場の事については、今時の壮士たちが畳の上で推量しているものとは違って、簡単に
高名手柄の成るものではない。

おおよそ戦場においては、昼夜の境なく心は苦しみ、寒暑を防ぐことも出来ず、兵粮と言っては
黒米を食い、おっ立て汁に塩を舐めてようやく飢えを助け、寄せ手は竹束の陰に武具を枕とし、
霜露に晒されながら夜を明かす。

城中ではなおさら、今や攻める、今や討ち死にすると寝食も忘れて緊張している中、色々な雑説が流れ、
何某は内通するとか、誰は敵を手引して今夜火を掛けるとか、様々な危ういことが、
毎日毎日言いふらされていた。そのため膝を並べる同僚の面々であっても油断できず、片時も
安き心で居られず、手柄高名を心がける以前の問題であり、勇気を折る事しか無かった。

普通の喧嘩であれば、互いの怒りから勇気も出て、死も顧みない心にも成れるが、合戦は敵に対して
私の怒りなど無く、ただ忠と義を盾にして争う事であるから、喧嘩ほどの勇気も出ない。
であるから、十人中九人までは、このような状況に日夜悩まされると、高名立身の望みも失せて、

『うまくこの戦争が終わったら武士を辞め、どんな賤しき業をしてでも、一生を過ごすのだ!』

そう思う者ばかりとなるのである。」

(新東鑑)

大坂の陣に、大阪方で参戦した武士の回想。大阪城内の雰囲気が見えるようです。
0589人間七七四年2016/05/05(木) 19:48:54.52ID:VjacA46w
織田頼長「せやろ?」
0590人間七七四年2016/05/05(木) 21:50:59.76ID:tNQfI0do
>>588
大阪の陣って、武士が必要とされなくなる世の中が目前に迫っていて、その恐怖から逃れるために死に場所を求めて参戦する場だと思ってたんだけど
0591人間七七四年2016/05/05(木) 22:23:31.74ID:jl9/eRDb
大坂の陣に参加する人の多くは、成功できなかった人たちがイチかバチかで行ったけど、
周りも似たような人ばっかりだからまとまらないんだよ
0592人間七七四年2016/05/06(金) 12:19:30.86ID:DFAR/Q3V
大坂の陣で大阪方に参加したのは、徳川家が改易しまくったせいで無職になってしまった武士たち
0593人間七七四年2016/05/06(金) 14:27:09.70ID:jeuPwFxy
いや再就職出来なかった奴等だろ
0594人間七七四年2016/05/06(金) 19:32:50.06ID:Y602gNMy
加藤肥後守清正は、武勇のみならず能く人を使ったそうだ。彼の家来に、飯田覚兵衛という武功の者があった。

ある本に、飯田覚兵衛ははじめは「角兵衛」と書いたが、朝鮮征伐の時、手柄があったため、
豊臣秀吉の命により、「覚」の字にした。これは文禄二年の事だという。

肥後加藤家が滅亡ののち、飯田覚兵衛は京へ引き込んで、再び奉公もせずに居た時の物語に、

「わが一生は清正に騙されたのだ。最初、武辺を仕った時、その場から帰ってみれば、
私の朋輩たちは皆々鉄砲に当たり、或いは矢にあたって死んでいた。
さてさて危ういことである。もはやこれ限りにて武士の奉公を止むべし。そう思って帰るやいなや、

『さても今日の働きは神妙、言う事無し!』

そう言われて清正より腰のものを給わった。
私はこのように、戦のたびに毎回武士をやめようと思っていたが、清正は時節を逃さず、
陣羽織、或いは加増、感状を与えられ、このため諸傍輩も羨み、讃嘆したため、その空気に
引っ込む事も出来ず、侍大将と言われるほどになった。

一生清正に騙されて、私は本意を失ったのだ。」

そう語ったという。

(新東鑑)
0595人間七七四年2016/05/06(金) 20:36:11.23ID:MGASwZu/
>>594
ツンデレ過ぎだろ
0596人間七七四年2016/05/06(金) 22:22:12.91ID:mUyupg5Q
>>588
俺この戦争が終わったら武士辞めるんだ(死亡旗)
0597人間七七四年2016/05/07(土) 11:50:16.78ID:yCZ3XLCc
>>594
なんつーかツンデレw
0598人間七七四年2016/05/07(土) 16:30:48.27ID:S0r/bwAA
>>594
部下のそういう気配をしっかり察知したのかw
0599人間七七四年2016/05/10(火) 01:43:25.42ID:qqwO0VTT
石川五右衛門という盗賊は、豊臣秀吉の時代、大小名および諸士群参の日になると、大阪並びに聚楽の
営中に紛れ入って、諸席に置かれた重代の宝刀、或いは鋭利な良刀を、己の鉛刀に代えて帯び、退き出た。
このため心ならず惰弱の汚名を被り、歯噛みして憤る輩多かった。

このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関において刀を従者に遣わし、短刀ばかりにて営中に登った。
衆人その才知を賛美し、これに習い、みな従者に刀を持たせるようにした。
これにより石川五右衛門の計略も絶たれ、その後営中に紛れ入ることはなくなった。
またここから、営中に入る時刀を従者に持たせるのが士風となったのだとか。

ある説に、石川五右衛門は盗賊の張本にて、暴悪のこと多かった。ここに京都松原通新町の西に居住していた
右筆の何某は、石川の友人であったので、命あって召し捕える事が仰せ付けられた。
そこで彼の者は計り、茶会に託して我家に石川五エ門を騙して招待し、これを生け捕った。
これによって、世に言う釜煮の刑が行われたと伝わっている。

(新東鑑)
0600人間七七四年2016/05/10(火) 13:04:56.47ID:WAFCxkCW
石川五右衛門ってホントに実在したのかねえ
0601人間七七四年2016/05/10(火) 15:04:10.98ID:xxaZFqTP
リアルで人に話さないほうがいいよ、笑われるから
0602人間七七四年2016/05/10(火) 17:50:14.70ID:X9mzWizN
どっちのことを言っているのだろう。
0603人間七七四年2016/05/11(水) 21:45:35.70ID:ktoz9UR/
当時から情弱って言葉があったのか
0604人間七七四年2016/05/11(水) 22:09:14.36ID:SSXCILYE
> 当時から情弱

つ、釣られないぞ
0605人間七七四年2016/05/11(水) 22:20:25.48ID:g/E9AOwZ
前から疑問があるんだが、水野信元とか水野忠重の逸話が
ここであまり語られていないのが不思議だ
この兄弟は忠重の息子である勝成に匹敵するDQNなのに
もっとDQNな逸話があってもおかしくないのに
0606人間七七四年2016/05/11(水) 22:35:16.39ID:tq5S8AnI
自分で上げればいいじゃない
0607人間七七四年2016/05/11(水) 22:41:30.15ID:ikB6nUOB
>>600
山本勘助と宇佐美定満も実在したか怪しい
0608人間七七四年2016/05/11(水) 23:48:42.72ID:6v4lEGzz
自分が調べて上げればいい
どうせ上げるならウィキペとかに頼らず
史料をちゃんと探した方が望ましいが
0609人間七七四年2016/05/12(木) 05:11:50.49ID:gh6Uam+Z
いろんな知識はあるようだが,このスレで上から目線で他人をバカにすることが楽しいのかね。
相手を誤解していじめているし,大体自分の名前書かないの?
いろいろ教えていただけるのはうれしいが,スレに参加する人間としてその辺はちゃんとしてほしい。
0610人間七七四年2016/05/12(木) 07:39:24.28ID:jJDifDTB
単発で吐き捨てるようなことを書く奴は
アホ
0611人間七七四年2016/05/12(木) 12:24:57.75ID:gh6Uam+Z
貴方は自分がアホだという自覚があるようなので、
もっとちゃんとしてほしい。
0612人間七七四年2016/05/12(木) 14:21:46.75ID:2HZR3jHL
薩摩には「しずのおだまき」と題名のある本が2冊あり、そのうちの一冊は「賤のおだまき」
「賤のおだまき」というのは、「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次(槍の達人)と、文武両道に秀でた吉田大蔵清家
(清盛ともいう、弓の名手)の男同士の愛の契りの物語である。
時代は関ケ原合戦の前年の慶長4(1599)年、島津家の筆頭老中だった伊集院幸侃が島津忠恒に伏見で上意討ちにされたため、
幸侃の嫡男忠真は都城を中心とする庄内12城にこもって反旗をひるがえした。庄内の乱である。
三五郎と清家はともに12城のひとつ、大隅財部城を攻める軍勢に加わった。出陣した2人は帖佐のあたりで辻堂のそばを通りかかり、
その柱に「共に庄内一戦旅(いちせんりょ)に赴く」と筆で書き、ともに千に一つも生きて帰らじと誓った。
庄内へ出陣の途中に門倉薬師堂(現在は醫師神社(いしじんじゃ))に立ち寄り兵士たちが堂の壁にそれぞれ志・辞世の句を書き残した。
そこへ遅れて平田三五郎と吉田大蔵が通り、2人も堂へ筆を入れた。しかしすでに堂には平田三五郎が筆を入れる隙も無く
吉田大蔵に抱えられ、堂の高い所に辞世の句を残した。
平田「書置くも 形見となるや 筆の跡 吾れは何処の 土となるらん」
吉田「命あれば 又も来てみん 門倉の 薬師の堂の 軒の下露」
 財部で2人は一緒に戦っていたが、ある日、乱戦のなかで離れ離れになってしまい、三五郎は清家の討ち死にを知らされる。
清家の遺骸をかき抱いて号泣した三五郎は「今は力なし、合戦に隙(ひま)なふ(なく)して後れしこと無念なれ、今生の対面是迄なり」
と告げると、馬にひらりと打ち乗り、敵陣に駆け入って古井(こい)原で討ち死にした。三五郎は清家との愛に殉じたのである。
この物語はほぼ史実に基づいており、三五郎も清家も実在の人物である。「本藩人物誌」は三五郎を
「時に十五歳にて卯花威(うのはなおどし)の鎧を着せると云々」、清家についても「慶長四年庄内乱ノ時於財部戦死二十八歳」と、
それぞれ記している。また「殉国名薮抄」という庄内合戦の戦死者名簿には、11月28日条に清家と三五郎の名前が並んで出ていることから、
2人は同日に亡くなったことがわかる。
2人の討ち死には島津方の間で静かな感動を呼んだらしい。歌詠みとしても知られる新納忠元も庄内合戦に出陣したが、
三五郎の死を聞いて「かれは無双の美童なり」と哀傷し、一首を手向けている(「盛香集」)。
「きのふ迄誰か手枕にみだれけん よもきが元にかゝる黒かみ」
(昨日まで誰かの手枕の上で乱れていた黒髪が、いまは荒れ果てた陣所に(遺髪として)かけられていることよ)−という大意だろうか。
 忠元が詠んだように、薩摩武士にとって衆道は不道徳なものではなく、士道の精華として称揚された面もあった。
その理想像こそ三五郎であり、二才たちの間で三五郎に仮託される形で遺風が伝わったのかもしれない。 
(さつま人国誌、薩摩琵琶歌の形見の桜など)

「賤のおだまき」は森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」にも登場しております。
「賤のおだまき」が明治17、8年に「美本仕立て」で出版されたが発禁になったことがその当時の新聞に書かれています
0613人間七七四年2016/05/12(木) 15:37:13.67ID:eE+Boc+x
逸話???
0614人間七七四年2016/05/12(木) 20:26:51.14ID:/ERpqdPG
薩摩厨もいい加減NG対象だな
0615人間七七四年2016/05/12(木) 20:36:13.50ID:lpkqYaEd
真田左衛門佐幸村(信繁、または信仍と有る)は、信州上田城主、安房守昌幸の次男である。
去る慶長5年、上杉景勝反逆の故に、徳川家康は上杉攻めとして、諸大名を召しつれ伏見を発向し、
関東に下向したことにより、真田昌幸、嫡男伊豆守信幸、次男左衛門佐幸村も、上州犬伏まで
打ち出た所、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継両人より、昌幸に書状が届いた。
その内容は、

『今度天下の御為に大老奉行相談し、内府(家康)を滅ぼすこととなった。真田父子も同意あって、
会津への出陣を止められよ。』
というものであった。昌幸は伊豆守、左衛門佐が先陣に在ったのを呼び返して言った

「たった今、石田、大谷より申してきた内容を見るに、上杉景勝が幼君に対し逆心の無いことは
明らかだ。この上は内府を敵とし、ここより引き返すべし。お前たちはどう思うか?」

伊豆守は答えた
「仰せ、誠に至極です。今回内府に従うのは、世上の批判も大きいでしょう。その上父上は石田治部と
御縁者(ある説によると、真田昌幸と石田三成は、ともに宇多下野守(頼忠)の婿であるとされる)です。
また左衛門佐は大谷刑部の婿であり、上方に筋目が有るのですから、先ずは御領内に帰って御思慮
あるべきでしょう。

しかし私は内府と御懇意であり、ことに本多中務(忠勝)と縁者のよしみがあり、お許しいただけるなら
徳川家の旗下に属したいと思います。そしてその上で、なお志す所があります。
もし、上方の軍が敗れ、城々に籠もった者達まで内府によって罰せられた場合、私が父と弟の罪を
謝し、如何にもして危難を救い、それのみならず、真田の氏族が断絶しないように私は計ります。」

これを聞くやいなや、左衛門佐は言った
「憚りながら兄上に、私がご意見申し上げます。
内府がどれだけ懇切だったとしても、それは太閤の御恩に及ぶものではありません。
また本多中務と縁者のよしみがあっても、それは私的な関係であり、公儀の事ではありません。
また、上方の軍が敗れたと時は父上と私の身命の危うきを救って下さるとのことですが、
おおよそ戦場に臨みて功なき時は、将より士卒に至るまで、必ず戦死する事となります。
然らば、父上と私が存命かどうかも計り難い。

それに御苗字のために内府に属すると言われるのも、あまりに難しい御思案です。
秀頼公のために一家尽く滅んでも、ご先祖への不孝とはならないでしょう。

事新しい儀ではありますが、天正年中に父上と内府が不和となった時、一旦は当家の武功によって
徳川家の軍勢を切り崩しました。しかし徳川、北条が手を結び、重ねて大軍によって攻められれば、
籠城も危うい状況であったのに、太閤の御下知によって和談と成りました。この時は上杉も、
越後より後詰を出されました。これらは浅からぬ恩義ではないのでしょうか!?

それ以降豊臣家の旗下に属すること十余年です。これで君恩を忘れ、景勝殿の志を捨て、
内府の味方をするというのは、人たる道ではありません!
兄上は御若年より器量も人に優れ、戦功も立てられた、一廉の御用に立たれる人なのに、
それがむざむざと敵になる事、残念至極です!」

これに信幸は大いに立腹し
「父上に先立って無用のことを言うのみならず、内府の旗下に属する者は人たる道に非ずなどと、
妄に私を軽んじ讒るとは!今一言を出すにおいては、即時に討って捨てる!」
そう太刀の柄に手をかけると、左衛門佐は少しも動ぜず返答した

「私は豊臣家のために死のうと思っている生命なのですから、ここにて御手にかけられる事、
御免あるべし。」

ここで昌幸が間に入り二人を制して
「伊豆守が言うことを考えたが、一応その理無きにしも非ずだ。秀頼公の御大事も、今回に
限ったことではあるまい。ただ自分の望みに従って、内府の味方をせよ。」

そう打ち解けて、免した。こうして伊豆守はここから徳川秀忠の手に属し、安房守・左衛門佐と
別れたのである。
(新東鑑)
0616人間七七四年2016/05/13(金) 12:51:11.61ID:E+gdZ11k
>>600
大阪府島本町にある水無瀬神宮の門には石川五衛門の手形がある

信じるか信じないかは人それぞれ
0617人間七七四年2016/05/13(金) 13:40:42.63ID:3Nb414DO
実在は信じるがそれは信じない
0618人間七七四年2016/05/13(金) 14:31:29.91ID:c/w+KYiQ
今川氏真の楽市令
「富士大宮で毎月6度開かれている六斎市において、
既得権益層(座)の押し買いや狼藉等の問題行動が横行し
市の運営に差し障りがあるとの申し出があったので、
今後は諸役を停止して楽市(誰でも商売しやすく)とすることを申し付ける。
また、近くの神田橋の通行料も停止させて、商人の通行もしやすくする。
もし違反する者がいたら訴え出なさい。」富士文書他

永禄九年に今川氏真が富士信忠(富士山本宮浅間大社の富士大宮司)宛に出した
この楽市令は、織田信長よりおよそ一年早く、信長も参考にしたと言われている。
さらに早く六角定頼が楽市を布いたという話もあるけれど、
ともかく今川氏真は義元ゆずりの名政治家だったのかもしれない。
0619人間七七四年2016/05/13(金) 15:25:50.57ID:kt7LzU2e
並以上の器量だったとしても、家康と信玄が同時に攻めて来たらな・・・
まあ、相手が悪かったよな氏真は
0620人間七七四年2016/05/13(金) 16:46:25.06ID:oqTRUCOe
家を潰した、領地を失った=無能
という評価方法もそろそろ見直される頃合いかもしれんね
0621人間七七四年2016/05/13(金) 20:46:22.05ID:SNQmTQv8
ある記録によると、豊臣秀吉在世の頃、長宗我部元親は京より帰国し、一門衆・家老を集めて言った

「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてから、未だ家督をだれに継がせるべきか定めていなかった。
しかし私も高齢となったので、信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、彼を家督に立てようと考えているが、
お前たちはどう思うか?」

一座の人々は盛親が不肖であることを知っていたが、あえて返答する者はいなかった。
しかし、元親の婿である吉良親実が進み出て

「信親様のご息女を右衛門太郎殿の奥方として、跡継ぎとされるというのは、御嫡子の筋目が立つに
似たりと雖も、三男の津野孫次郎(親忠)殿は既に秀吉公にも見知り置かれ、御器量も優れておりますから、
津野氏の家を誰か別の者に御相続おおせ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられるのが宜しいと
考えます。」

しかし元親はこれを聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、即ち家長久の基となるのだ!」
そう、いかにも不機嫌そうに反論した。

それでも親実は重ねて
「私は両者何れにも親疎があるわけではありません。私がこの様に申し上げるのは、国家静謐の基を
固く定めたく思っているからです!」

家老の比江山掃部助親興も最前よりこの座に在って控えていたが、進み出て
「只今、吉良氏の仰せられたことは、誰かのためというような依怙の沙汰ではありません。
御家繁盛、子孫長久を祈る良策であります。ですので、是非ともご了承なさるべきです!」

だが、元親は怒りの顔色にて、一言も発せず座を立ち奥へと入り、その日の談合は終わった。

しかし佞臣たちが元親の傍にあり、親実、親興の両人の事を様々に讒言うぃたことで、終に
天正16年10月14日、比江山親興に切腹申し付けられた。吉良親実もこれを聞き、同じく
切腹したと言う。
以後は誰一人元親を諌める者無く、思いのままに盛親を家督に立てた。

(新東鑑)
0622人間七七四年2016/05/14(土) 02:19:35.34ID:MAGd5jI6
一方武田では…
0623人間七七四年2016/05/14(土) 07:51:32.09ID:Qzbcp+k7
叔姪婚には特に反対はしないんだ
0624人間七七四年2016/05/14(土) 08:07:45.90ID:lMYQd5Fe
兄貴たちが死んでしまった表裏さんみたいに、一度別家に入った人間が家督を継ぐのは異例だと思うんだけど、盛親ってそんなに評判良くなかったのかな
0625人間七七四年2016/05/14(土) 09:12:04.97ID:b93BGPM7
改易されてしまった人を良いように書くわけにはいかんだろ
0626人間七七四年2016/05/15(日) 23:38:21.49ID:g0H9Yewj
大阪夏の陣が始まろうっとしていた慶長20年(1615)4月28日の昼、京都一条岩神に住む町人の
岡村喜左衛門という具足師が二条の京都所司代へと参り、

「神泉苑の傍に、怪しき者十余人が隠れています。」

との情報を板倉勝重に伝えた。これにより板倉は雑色を先に立て、与力10騎、同心20人を派遣し、
16人ほどを捕縛した。

板倉が彼らを糾明すると、その賊の中の一人で、年寄りの者が白状した。

「我々は、将軍が28日に御出陣と承りました。その時洛中に火を放つべきことを大野と約を定め、
私は十余人ほどを引き連れ京に潜伏しましたが、未だに御出陣の沙汰無く、このため仲間たちは皆々
落ち失せ、今はこの16人だけとなってしまいました。
ここ一両日は食に飢労し、体力も無くなっていたため、動くことも出来ずこのようにやみやみと
縄に懸かってしまったのです。
哀れと思し召され、御慈悲を以って、どうか生命をお助けください。」

これを聞いて板倉は
「下臈の事であるかあら、有体を申すにおいては上に伺い命を助けよう。
しかし、ここ一両日飢えていたというのはよく解らない。なにか買い求めて食おうとしなかったのか?」

「いかにも、代物があれば買い調えたでしょう。しかし一銭の貯えもなかったのです。」

「それは不審な事だ。このような大事を思い立つ者が、どうして用意をしていないのか?」

賊、重ねて言った
「我々も最初は、二十日あまりの計画を立て金銀を用意していましたが、
古田織部正の茶道である宗喜と友人でありますので、彼と合図を定め、城中に狼煙を上げるのを見れば
所々に火をかけると約束し、一両日分だけの糧を貯え置いたのです。
残りの者達は皆、古田織部正に従いました。」

この言葉に板倉は驚愕した
「お前は宗喜と何の由縁があるのか!?」

「博奕の友です。」

「博奕で、初めて出会ったのか?」

「いいえ、十年来の友人です。」

板倉は彼から篤と証言を聞いたうえで宗喜を捕え、双方を監禁し、この旨を言上した。
これによって古田織部正も、その後切腹を仰せ付けられたという。

(新東鑑)
0627人間七七四年2016/05/16(月) 04:46:55.42ID:/09Z0TN3
慶長3年、上杉景勝が会津へ移ることになる折、横田式部という者が召使いの茶坊主を斬罪にした。
そもそも誤りのないことだったので、坊主の親類が大勢決起し、国改めに京都より、前田玄以と
石田三成が下向した。親類らはこの両人へと訴えた。

これに玄以と三成は「その事は直江の方へ申せ」と指図したので、訴訟人らは直江兼続のところへ
詰め掛けた。兼続は対面し、「皆々の申し分はもっともである。それならば、主人の横田式部に、
詫び言のために銀50枚を出させるので堪忍せよ」と、仲裁した。

だが、訴訟人たちはますます怒って帰り、再び玄以と三成に訴えたが取り合ってもらえなかった。
そこでまた兼続のところへ詰め掛けると、兼続は「それならば銀70枚を出させよう」と仲裁した。

しかし、訴訟人たちは、「70枚でも700枚でも、死んだ人が帰るであろうか。とても道理に合わぬ
ことを御申しになる!」と、難癖を付けた。すると兼続は札を1枚取り寄せ、一筆書いてじかに持って
出ると、「訴訟人たちのうち、張本人は幾人いるのか?」と、尋ねた。

これに、「その坊主の兄と伯父がこれに」と、両人が出て来ると、兼続は「何と仲裁しても汝らどもは
承知しない。とかくこの上は、かの坊主を再び今生へ呼び還さなくては、汝らの心には叶うまい。
さりながら、誰も呼びに遣わす使いがおらぬので、その者の兄と伯父と2人で迎えに遣わすとする。
この高札を持って早々に地獄へ参り、閻魔主にこれを見せて、かの坊主を召し連れて帰るがよい。
すなわち、その文を聞け」と言い、高札を読んだ。

 『いまだ御目にかかってはおりませんが、一筆申し入れます。さて、横田式部の召使いの
 茶道坊主を親類どもが呼び戻し申したいと達て申しますので、こうして親類2人を迎えに
 寄越し申しました。きっと御返進してくださいませ。恐々謹言。

  二月十日     直江山城守兼続

  閻魔大主殿 参』

以上の書付を読み聞かせると、兼続はかの張本人2人をその場で斬罪にし、その高札を前に立てて、
2人の首を獄門にかけた。そのため、徒党は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、国中強訴は1人も
なく、静謐と相成った。

――『北越太平記』
0628人間七七四年2016/05/16(月) 11:49:03.91ID:Jbj4ZiH0
そんな皆知ってるエピ既出ちゃうん?
0629人間七七四年2016/05/16(月) 12:11:11.17ID:O2Ebagvq
>>627
村上さんで脳内再生された。
0630人間七七四年2016/05/16(月) 14:44:32.48ID:nUbR5OoY
あのブログバカじゃないんだから
そこまで気にせんでえーねん
0631人間七七四年2016/05/19(木) 01:53:11.53ID:Cwl6Ti/r
戦国時代って何で盾あんまり使わなかったの?
0632人間七七四年2016/05/19(木) 01:59:46.76ID:VIqbXPQx
>>631
つ スレ立てるまでもない質問スレ
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1410967231/
0633人間七七四年2016/05/19(木) 04:40:47.37ID:otyaGBAD
矢だろうが鉄砲玉だろうが気合で跳ね返すからに決まってるだろーがw
0634人間七七四年2016/05/19(木) 12:37:18.69ID:C+jA2yLf
>>631
日本では普及しなかった道具・文化、総合考察スレ
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1405604103/

ここで以前、盾の話は随分出た
0635人間七七四年2016/05/19(木) 14:17:24.74ID:5GvYRVnO
ググれよカス
0636人間七七四年2016/05/20(金) 11:48:23.50ID:rrdrU/1+
オラッ!
次スレ建ったぞ
スレ参加するなら唯一の義務くらい頑張ろうぜ!
0637人間七七四年2016/05/20(金) 23:16:15.99ID:PZ8kAf93
人物叢書『最上義光』巻末年表の慶長五年九月二十日に「お東、留守政景に早く出陣するようせつく」とある。
では具体的にはどのようにせついていたのだろうか? 
書状の文面からうかがえる。
「こちらに来て下さって本当にうれしいです!
 大変なことになっているから、ともかく一刻も早く山形に来て下さい。
義光父子もあなたを待っています!
とにかく早く早く、急いで急いで、本当にすぐに来てくださいね!
(九月十九日午前六時頃)」
「昨日はお返事ありがとう。
数を揃えてから山形入りするそうだけど、今日は戦闘になりそうだから、人数揃い次第山形に来て欲しいんです。
最上父子にも何か意見を言ってあげてください。
義光は相手にも都合がある等と口では申しておりますが、
ともかく早く来て欲しいんですよね。
全員揃わなくても、あとから来る部隊は誰かに任せてもよいのでは?
急いで来るなら、義光のあなたへの好感度もアップすることでしょう。
ともかく急いでください。今日の昼前には来て下さい。
一刻も早く来てください。
一戦交えたあとで遅れて来るのでは、あなたのためにもならないと思いますよ。
ともかく早く!(九月二十日午前四時頃)
「今日、使者は送ったけどお手紙遅れなくてごめんなさいね。
あなたの宿舎も窮屈で退屈ではありませんか。
こんな緊急事態で義光父子も何のお構いもできなくて、ごめんなさい。
でも、あなたと私は親しいんだし、義光の前だからって遠慮しなくていいんですよ。
義康はまだ若いから失礼があったらごめんなさい、
私はあなたと義康の間をとりもつから安心してください。
何かご意見ありませんか? 
そういえばあなたのご家族、元気にしていますか?
息子さんもきっと大きくなったでしょうね。様子を聞きたいものです」
さらには上杉撤退後。
「帰陣されるって聞きました。決着はついたから、帰るのもありですよね。
でもまだ籠城している残党がいることですし、まだ一戦ありそうでして。
だから、ちゃんと決着がつくまで戦って欲しいんですよね。
それから帰っても遅くはないでしょ。
義光も内心はそう思っています。
私にそう相談してきましたからね。
でも、あなたにとどまって欲しいというのはあくまで私が考えていることです。
政宗のおかげで最上が助かったことは天下に知れ渡っていますから。
だからこそもうちょっと最後まで見守ってもらえたらな、って。
遠くに行ってしまったら援軍を頼んでも仕方ないって、義光も言うんです。
もう三〜五日ですから、留まってください。
そうやって落ち着くまで滞在した方が政宗の評価もアップすると思います」
さらにはお東侍女・小宰相からもこんな手紙が。
「政宗(原文でも呼び捨て)が会津に向かうからあなたも早々に戻るそうですが、どういう理由かお聞かせいただけますか。
山形は敵が撤退したといえども、まだ近隣には残党がいます。
あげくには忍びやゲリラ部隊を使って活動させているとも聞きます。
まだ最上勢は少なく、城の奪還もできず、劣勢の中敵をくいとめている状態です。
最上家は滅亡の危機にあると、ここに伝えさせていただきます」

こうした必死の要請を受け、政景はその後も山形に滞在し、
最上家は危機を脱した。
それにしても、政宗からは深入りするなと釘を刺され、
一方でお東からこんな手紙が毎日のように届く政景の気持ちを想像すると、
胃が痛くなるかもしれない、ちょっと悪い話なのか。
それとも必死で手紙を書くお東のちょっといい話なのか? 迷うところ。
0638人間七七四年2016/05/20(金) 23:41:45.80ID:S7g6JhYO
 一学(市川一学)の兵書講義のとき予(松浦静山)は
「かつて浪花茶臼山の行って所々を眺めたが、御城とは近いように思われた」

と話しをしたら、一学は受けて以下の話をなされた。

「それがしもかつて遠遊したとき見ましたが、それに同じく思われました。
古人が伝え聞くには、この御陣のとき、茶臼山から真田丸までの間は三十丁余のつもりで御陣を構えたが、
実は十八丁であったそうです。そのときは人煙が覆って暗かったので、このような近いところも遠く見えたといいます。

 また長宗我部が守った所から、藤堂の陣までは、二十丁ばかりというが、実は六丁であったといいます。
これも人煙のためであったといいます。

 また冬の御陣のときは、城内を外堀の向かいから望むと、立て連ねていた旗幟の紋が、うちかすんで鮮やかでなかったといいます。
これも人煙がたってそうなったとのことです。
 夏御陣のときは、旗幟の紋が行燈の傍らの物を見るようによく見分けることができたそうです。
これはそのとき人気が一つでなかったためだそうです。」
(甲子夜話)

距離の測り間違えってけっこう致命的なような
0639人間七七四年2016/05/21(土) 00:02:11.96ID:PiBkDXt/
霧のせいで時間を計り間違えるとより悲惨
と相手方の又兵衛さんが
0640人間七七四年2016/05/21(土) 17:12:29.73ID:LAEUGsmI
>>637
お東って誰?と思ったら義姫のことなんだね。
これでもかと引き止めててワロタ、帰りづらいってレベルじゃねーw
0641人間七七四年2016/05/21(土) 18:39:05.74ID:MJ+Dsnbs
備前中納言殿(宇喜多秀家)御簾中(豪姫)が、最近産後のご病中に、物の怪が憑いたとあい見える。
きっと野狐の所為と太閤殿下は思し召され、御朱印を以ってこのように決定された。

日本の領域において、誰が公儀を軽んずるだろうか。天下において生命あるものから生命無きものまで、
すべて上意を重んじている。いわんや畜類がそれを畏れ従わないということが有るだろうか。
速やかに退去せよ。

こうなった上は、尚も取り憑き、この物の怪のために不慮の事態が出来すれば、当社(伏見稲荷社)は
即座に破却する。その上で日本国中に狐狩りを毎年かたく仰せ付けられ、その類を断ち、尽く殺し果たす
旨を御意として表明された。

社人はその旨をよく理解し、肝胆を砕いて御簾中が回復する為の祈祷をする事に専念すべきである。
恐々謹言


拾月廿日       石田治部少輔
               三成(花押)
           増田右衛門尉
               長盛(花押)

(伏見稲荷社宛文禄四年書状)

有名な秀吉による、豪姫狐憑きに対する反応である。
0642人間七七四年2016/05/21(土) 18:55:34.87ID:DObW0O0V
産後鬱だったんじゃないのかね
0643人間七七四年2016/05/21(土) 20:56:51.50ID:pHCqulG8
ラスボスの恫喝が怖い
0644人間七七四年2016/05/21(土) 21:53:32.60ID:teJVoUjd
犬千代がラスボスから 国宝大典太光世を借りパクする
ためのイベント
0645人間七七四年2016/05/22(日) 00:49:25.25ID:3/b36sce
>>642
今でいうとそういう医学的な言い回しがあることでも、
当時だと経験的にそういうことがあって原因は「物の怪じゃないかな」って話結構あるのかな
0646人間七七四年2016/05/22(日) 08:43:01.02ID:00wt5hra
レビー小体型認知症が知られたのって結構最近
幽霊見たって話は大抵これで説明出来る
0647人間七七四年2016/05/22(日) 22:41:55.91ID:Bf+Mj0o/
大阪冬の陣があって諸人漂白を踏む思いをなしていた所、和睦となったため人々は思いの外に
静かな春を迎え、安堵の思いをした。

ところがその頃、五畿内およびその周辺の国々では群盗が多く蜂起した。
彼らは「大阪籠城の浪人」と称し、民の財宝を奪い取り、旅人の衣装を剥ぎ取り、往還の人々まで
殺害した。

この時は四方より困窮した者たちも大阪浪人に与して集まってきたので、その数甚だしく、
諸国の庶民たちは大いに嘆き、大阪への恨みは日々大きくなっていった。
世間では『大阪城中の輩が申し合わせて、去年城郭を破却された報復として、このような非道をするのだ』
と言っていた。

板倉勝重、松平定勝はこのような都鄙の騒動に大いに驚き、これを放置すれば終には乱の元になると
考え、両人申し合わせ諸国の大名に申し触れた。

『大阪籠城の浪人が諸国に分散し、押し取り、強盗を行い国々の煩いとなっている。
各々の領分の範囲で、手柄次第に捕縛し、なお手に余るようであれば討ち捨てにもされよ。
その委細は関東に報告する。』

しかし、或いは百、ニ百、或いは三百五百と徒党していたため、以ての外に手に余り、一揆が起こったのと
異ならない状況であった。

板倉はこの状況を急飛脚を以って関東へ知らせ、畿内の世上物騒であることを両将軍(家康・秀忠)に
伝えた。また大阪に対してもこの事を申し送り
『秀頼公の御為にも然るべからざる事なので、大阪からもこれを鎮めるようにしてほしい』
と伝えた。

これに対し織田有楽、大野治長らの返答は
『去年集まった雑兵共は和睦のあと離散したため、何処に国に向かったかなど詮索も出来ない。
察する所、浪人によせて諸国の盗賊が集まったのだと見える。よくよくご詮議されるべきです。
秀頼公には毛頭和議を疎略にする考えはなく、この上何らかの雑説が流れても信用すべきでは
ありません、』

そう申し遣わしたが。上方ではこの年2月に神踊という事もはやり、貴賎老若動揺をなした。

(慶元記)

大阪冬の陣の和睦のあとも、安定しない上方情勢についてのお話
0648人間七七四年2016/05/22(日) 23:20:34.97ID:xreISi2k
古道三(初代曲直瀬道三)が洛中を歩いていたとき、
ある棚の傍らに青磁の香呂と思わしきものが合った。
立ち寄ってそれを見るとなかなか良さそうである。

そこでうつけのふりをして
「このコウロンはいくら?」
と問われると、中から
「なんと跳ねても銀子二枚」
とのことであった。
(醒睡笑)

跳ねる発音をすることで間抜けのふりしても、マケねーよ
0649人間七七四年2016/05/23(月) 23:49:54.24ID:dNUJBjsC
大阪冬の陣の和議が整ったものの、豊臣家においては前年の旱魃によって摂津、河内は
甚だしい不作となり、年貢収入が殆ど無い状態となっていた。
その上、大阪冬の陣のため招聘した諸士頭分の者達、並びに武功有る者達は和議のあとも
そのままに抱え置いたため、物入り多く財政難に陥っていた。

そこで大阪方では摂河泉三ヶ国に加えて加増をしていただきたいと、七手組の青木民部少輔(一重)、
伊藤丹後守(長実)の二人を駿府、江戸へと派遣した。

江戸では将軍秀忠より
「委細は大御所と相談し、宜しきようにお計らいなさるだろう。四月上旬には大御所は
上京されるので、その時にこれを解決されるであろう。両人が大阪に帰ればこの事を秀頼公に
申し上げるように。」

との言葉を頂き、これを受けて駿府の大御所家康も

「将軍がそのように言った以上、この件は事済んだ。早速大阪に帰り、秀頼公を安堵させるように。」
と仰せ下した。

両人は大いに喜び早速駿府を出立、道中を急ぐ所に、遠州浜松の入り口において
大阪より降ってきた三人の女性と行き会った。
大蔵卿局、二位局、正栄尼である。

彼女たちは、両人より駿府と江戸の様子を問い、彼らの首尾を聞くと安堵し
「我々は駿府に下り淀様の御口上を申し上げます。あなた方は帰路を急ぎ、大阪城に登り、
関東の様子を申し上げるように言った。

この時青木・伊藤の両人は思った

『去年、あの三女が関東に下向して、片桐且元を猜疑し、様々に讒言したことによって
終にはあの大乱が起こったのではないか。
それにも懲りず、またあの三女を下されるとは、是非もないやり方である。
今度もどんな災いを引き起こすか…』

二人はそう畏れ、「駿府に向かわず、あなた方もこれより直に大阪に戻るべきです!」と申したが、
「何故?」と三女は全く合点せず、青木・伊藤も持て余し、

「ならば、駿府においては御機嫌を伺う御口上のみも申し上げ、その他のことは一切秘密にして
話さないでください!何故なら秀頼公のお望みは既に落着いたしたからです!
絶対に他のことは申し上げないように。」

そう固く申し含めると、三女もついには納得して駿府へと下っていった。

本当に、去年の騒動もこの三女の口から起こったのである。なのにまた、今年も下されるというのは
浅智の極みではないか。前車の傾きは後車の戒めという言葉を知らないのだろうか。
二人はそう思うばかりであった。

(慶元記)
0650人間七七四年2016/05/25(水) 22:58:06.80ID:4/B3iYED
大阪冬の陣の講和に向けた動きが始まる中、大阪城の首脳である織田有楽、大野治長は
豊臣秀頼の御前にて、このように講和の受け入れを勧めた。

「両将軍家より、御和睦の事を再三仰せ遣わっています。その上意疎意あるまじと、
神文を進ぜられるとの事です。

この度の合戦においては、日本国中の軍勢が雲霞のごとく集まり昼夜攻め戦いましたが、
我々にはさほどまでの負けもなく、これによって君のご威光は天下に秀で、人々はその武威を
皆恐れるほどです。然れば、また重ねて時節到来の時期が来れば、味方に属するものも多いでしょう。
また大御所も既に七十余歳。御余名も久しくはないでしょう。彼が薨去すれば必ず変があります。
その時は天下の大名2つに分かれ、合戦が起こり我らの存在が大きくなること疑いありません。」

秀頼はこれを聞くと
「お前たちが申すこと、一々道理が有る。だがその内容は結局、この戦が始まる前に片桐且元が
私を諌めたものと同じではないか?

であるのに、その諌めを排除して今度の難儀に及び、ようやく今になって片桐の諫言に従うとは、
運の極まりである。
しかし運を天に任せ敵を討ち果たそうと思っても、今は皆和睦を好む。ここに至っては恥を忍んで
降を乞い、士卒の生命を継ぐ事を以って、軍勢の恩賞とするしかない。
早く和睦を調えよ。

片桐の忠言はこの時に顕れた。私は後世から嘲笑をうけ、その恥辱を雪ぐことも出来ない。」

そう、目に涙を浮かべて言った。有楽も治長も顔を赤らめたものの、秀頼が和睦を許諾したことに
喜悦して退出した。

(新東鑑)
0651人間七七四年2016/05/26(木) 00:09:41.77ID:36WfMBtD
その恥辱を雪ぐことも出来ないって断定しちゃダメでしょう。
家康の寿命尽きたら合戦になるって話てるんだから勝てばいいんだし、
そして結果がわかってる後世に書かれたってわかっちゃうという二重の意味で
0652人間七七四年2016/05/26(木) 09:29:40.29ID:kWfovEN6
0653人間七七四年2016/05/26(木) 09:56:11.27ID:o5U5k782
最初に且元の進言を退けたのに結局はそれに従うことになったからだろ
後に合戦に勝てばよいとかそういうことではない
0654人間七七四年2016/05/26(木) 23:09:30.66ID:YW3TXSxA
 大坂落城の時、豊臣秀頼は秘かに薩摩に行かれたという一説がある。
このことは異域でも聞こえていると見えて、『湧幢小品』に(明の朱国禎が著したもので、第三十に見える)
「秀頼が敗走して和泉に入り城を焚て死す。又逃て薩摩に入ると言ふ者有り。」
と書かれている。「和泉に入る」とは誤聴である。

 また何で見たのだろうか、落城の時、神祖は天守に火がかかっているのをご覧なされて、
「早く場所を他に移せ。」
と仰せられた。
左右からは
「まだ秀頼の安否が分かっていません。」
と言上があったが、
「天守に火がかかれば落城である。」
との仰せなので、すぐに場所を移されたという。

 またある人が言うに、秀頼が薩摩に行った後、大酒で所々で困ったという。
酒の負債が多くあったともいう。


因みに、今高崎候の居間の襖には秀頼の画というものがある。
金地に老松を描き、その上に一体に空き間もなく廉を描いてある。
廉外に見える体である。もっとも着色である。
その筆は雅楽助、山楽などと見える。
(甲子夜話)

秀頼作の絵というものを一度は見てみたいですね
0655人間七七四年2016/05/26(木) 23:33:24.77ID:aTn+OOyq
明の人「似たような話を聞いたことがあるな
父親が乞食から成り上がって天下とった後、子供のために粛清しまくったら
父親の死後、息子が叔父に(一応旭姫の夫だし)攻められ落城
焼死したということになってるが、実はどこかで生存しているという話を」
0656人間七七四年2016/05/27(金) 18:48:52.10ID:/TJu3MHx
>>654
秀頼作
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Maple_viewers.jpg/1280px-Maple_viewers.jpg







狩野秀頼だけど
0657人間七七四年2016/05/27(金) 19:30:34.87ID:8hj2j5oy
>>656
そっちは"すえより"なんだよなあ


秀吉公の御時、ならかし(均し・徳政)という事があった。
貸した者が原金を失った上になお、放埓を働いた罪科は軽くないと、
再び黄金を出させましたので、

奈良かしや この天下殿 二重どり とにもかくにも ねだれ人かな
(醒睡笑)



奈良坂や 児の手柏の二面 とにもかくにも ねだれ人かな

の本歌取り
06581/22016/05/29(日) 00:04:09.47ID:BEJ0ECpz
大阪冬の陣の和睦後も、畿内の情勢は安定せず、大阪勢が京都を襲うとの風聞が流れると
京は大混乱に陥った。この知らせを受け取った徳川家康は大いに驚き、これは未だ豊臣秀頼が
大阪城に在るために、大阪方諸浪人の者達の策動が収まらないのだと判断し、
秀頼に書状を送った

『連々考えるに、秀頼公が大阪城に在ることが、人々に疑心暗鬼を生んでいる。
であれば、国家安穏のためにひとまず大阪城を明け渡し、大和の郡山に移られよ。
その間に畿内を安定させ、大阪城も元通りに普請してお返しするだろう。
七十に余る私であるから、悪しきことは申し入れはしない。織田有楽、大野修理も
よくよく理解して秀頼公を諌めてほしい。

承知なければやむを得ず出馬となるだろうが、和睦から間もなく再び確執に及ぶのは
信を天下に失うに似たり。よくよく了解して、豊家の社稷を絶やさないよう計ってほしい。』

この知らせを受け取った大野治長は驚愕して秀頼に伝える。秀頼は諸士を千畳敷に集め評定を行ったが、
この時真田、後藤は思う所あって出席しなかった。

秀頼は今度の事態に「諸将の心底を聞きたい」と発言を促したが、一大事の儀であり、互いに目を見合わせ
誰も言葉を発せようとしなかった。

が、ここで長宗我部盛親が進み出た

「このように申すのは、思慮が短いかもしれません。ですが道理に合わなければ用いぬまでのことです。
去冬の扱いについて、天下の規範になるような証拠もなければ、和睦の儀は然るべからずと真田、後藤が
言っていたのは、つまりこの事であったのです。
あの時、和平が永く続かないことは、この私ですら解っていました。

今、関東の望みに任せてこの城を去って和州郡山にお移りあらば、一時的には穏便に済むでしょう。
しかし程なくまた難題を申しかけられ、さらに他境へ御座を移されることもあるでしょう。
そうなった時、七手組の者達は勿論、この城に集まった渡りの諸士たちまでも、郡山から他に移ると
成れば、どれほど志のある勇士であっても、望みを失い離散する者も多いことでしょう。
その頃になると今この城にある古老の者達は、寿命で尽く死に果てているでしょう。
であれば、一体誰があって君を守護するのでしょうか?御本懐を果たし申すべき者もなく、もはや
自滅より他ありません、

万一、十分な幸運を得たとしても、織田常真(信雄)と同程度の格式を得るくらいです。
秀吉公の時代、人はみな、この織田常真を卑怯の人として爪弾きにし、信長公の雄才までも、
この人のために罵られたのです。誠に口惜しきことではないでしょうか?

不義卑怯の名を被って生きるのは、武士としてこれ以上の恥辱は有りません。ならば潔く討ち死にして
武名を千歳に残すことこそ願うべきです。
ですが、この城の要害は既に破却され、ここで大敵を防ぐというのは不可能です。
去年、真田、後藤は、美濃尾張までも進出し、また宇治瀬田において防ぐと言上しました。
これも去年であればこの作戦で充分勝利を得ることが出来たでしょうが、今は勝利も覚束ない状況です。
同計同束にてその勝敗が変わることは時の勢いです。

ですが、もはや要害不堅固の城に敵を引き受けても、あたかも籠の中の鳥が殺されるようで無念の第一です。
ですから、何れも討ち死にと覚悟の上は、遠境へ切って出て、五度も十度も強戦して両将軍家の旗本と見れば
左右を顧みず駆け入って奮戦して死にましょう。
木村殿と森殿が言い合わせて二条城に向かえば、京都所司代の板倉も、頭を出すことすら出来ないでしょう。
伏見や茨木に至っては恐るるに足らず。
かくなる上は例えこの城で君には万一御生害あるも、豊家の御恥辱にはなりません!」

この言葉に一座の者達は目の覚めた覚えを成し、「潔し!潔し!」「しからばそのようにしよう!」
そう異口同音に言い合った。
06592/22016/05/29(日) 00:06:14.29ID:BEJ0ECpz
が、ここに小幡景憲があった。小幡は松平定勝、板倉勝重と申し合わせて大阪城に入っていた。
彼は武田二十四将の一人、小幡昌盛の次男であり武田兵法を良くすること、大阪城中に知られ、
大野主馬介治房が取り持って豊臣秀頼によって召し出された。
新参ではあったが弓矢の智識(合戦の専門家)であるとのことで、大野治長は彼を評定の席に
召し出し、その末座に在ったのだ。

彼は先程の盛親の言葉が、関東のために甚だよろしくないと判断した。
そこで進み出て申し上げた

「古参の歴々を差し置いて末座から異見するのは憚りあることですが、心頭に浮かんだことをそのまま
差し置くのは不忠の至りですから、その一通りを言上いたします。

徳川家康公は近代の良将たちと、あるいは敵対しあるいは従い、大いにその兵法を学ばれ、
治乱盛衰の機微を察し、欲を抑えることを心がけ、権謀に通じ、その知識の高さは現在において
万々の上に出ています。

聞いた所によると、京都伏見方面には既に段々と軍勢が登っているとのことです。
これは能く状況を知っているということでしょう。
大御所は必ず、盛親殿のような雄偉の将が京都を抑え、美濃の近くまで進出すれば
事難しくなると推察された事でしょう。それを知ったからこそ早速軍兵を登らせたのです。
そのような所にもし諸国の假武者(傭兵)を以って向かえば、敵のために捕虜にされに行くような
ものです。

この大阪城は、城郭の破却こそされたと言っても、七重の曲輪などはなお残っており、敵を防ぐに
便利です。そして八万の兵にその兵糧、玉薬は何れも欠けることなく、ことに城兵の武勇は、去年
両将軍にもみせつけたのですから、敵も簡単には攻め掛かって来ないでしょう。

城兵たちはただ、心を一つにして九死に一生の合戦を遂げるのです。そうすれば、特に西国の者達は、
去年の大阪の勝ち戦によって我々への見方を変えていますから、今度も暫く持久戦を遂げれば、その結果
我らに加担するものも多く出るでしょう。であれば、頼み有る戦となります。

それにこの大阪城本丸は、太閤御苦労の縄張りをして残した物ですから、仮に1,2の曲輪が
破却されても、この城を守衛する事こそ孝子の御本意というべきでしょう。」

そう雄弁を以って語った。
この時、大野治長は元から他境へ軍を出すことこ好まなかったため、小幡の意見に方針を決定した
のである。
これは秀頼公の不運であり、天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

(慶元記)
0660人間七七四年2016/05/29(日) 01:45:53.35ID:cAiDNTPK
 大阪落城のとき、秀頼が薩摩に行ったことは前にも言った。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.htm)l


 さてこの頃聞いたことに、初めは肥後の隈本に立ち退いたとのことである。
従者が五人いたが、三人はかの所で暇を出したそうだ。
肥後でも関東を憚り、薩摩に送り遣わしたという。
(この次第は、人名等を『白石紳書』に見えるという。予の書は戊寅(1818年・文化15年、文政元年)に焼亡したので、人がいうままに記す)


薩州でも関東を恐れて、内々にその実を申し上げると、

「すでに大坂落城して、秀頼生害と披露したので、生存したとて死と同じである。
そのままにしておけ。しかし他国へは出してはならない。」

との御沙汰があり、秀頼は91、92まで存命したという。
その子孫は、今四世ばかりになって、木下谷山村というところに住居して、次郎兵衛という百姓であるとのことだ。


 朝川鼎(善庵)が西遊したとき、まさしく会って聞いてきたという。
秀頼の墓というのも行って見てきたが、同村の普門寺という寺にあって、無銘の石塔であった。
(この谷山村は鹿子嶋から二三里にあるという)
 かの百姓の家に秀頼の鎧、太刀、刀が今でも残り、その他の物は一切無い。
それは、秀頼が亡くなった後、所持の品はことごとく売り払い、それで田畑を買い取り百姓になったためだという。薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
以上も次郎兵衛が鼎に話したことだという。
これは関東を憚ったためであろう。


 これらを思うと、今の天下の御勢を観ることができよう。
また豊氏の全盛の成果も憐れに思われよう。
(甲子夜話)
0661人間七七四年2016/05/29(日) 11:44:32.98ID:kKdVXExc
大野主馬って悪い話ばっかだね。いい話といったら逃げずに死んだことくらいか。
0662人間七七四年2016/05/29(日) 13:07:00.87ID:9kCyK6as
>>660
>薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
創作なのに妙にリアルだw
0663人間七七四年2016/05/29(日) 13:31:15.80ID:T5Pmts09
護衛や監視役はつかんのか
0664人間七七四年2016/05/29(日) 14:30:47.88ID:VOiYXJi4
こいつ勝手に勘違いしてムキムキしてんだ?
チンパンキッズは文をよく読んで理解することからはじめよう
0665人間七七四年2016/05/29(日) 14:45:42.87ID:9zW/C/i/
チンパンは安価の付け方すら知らないんだねw
0666人間七七四年2016/05/30(月) 22:08:45.97ID:v9uyzl3r
永禄八年頃のこと、日向の伊東義祐は鬼ヶ城の城代を小松兵部太夫に命じた。
その頃は真幸口、飫肥口両方に軍勢を出し島津などとの合戦がうち続き、山東の軍勢は
休息する暇もなく、五番代わり、三番代わりに交代した。この事は二十日番と呼ばれ、
この軍役に対する上下の難儀は一方ならぬもので、この件への訴訟が絶えることなく
上がってきた。

このような状況ではあったが、城代の小松兵部太夫はその訴訟を押さえつけ受付なかった。
そのためか非常に機嫌が悪く、常に顔を膨らませて気色荒げていた。
そんななか、ある日何者かがこのような狂歌を詠んだ

『葛の根は 小松ばかりに残れるや いつも腫れたり番代がつら』

これは飢饉の年、窮民たちが葛の根を掘って食うと顔が腫れるということから、
この様に詠んだのである。

(日向纂記)
0667人間七七四年2016/05/31(火) 11:42:44.20ID:zj+ISLhb
すべて島津が悪いんや
0668人間七七四年2016/06/01(水) 07:19:31.54ID:uEn4toO7
何言ってんだこのチンパンw
0669人間七七四年2016/06/01(水) 20:39:16.43ID:1B50yWuf
天正3年の正月、日向伊東家では元旦の賀儀も例年通りに行われ、出陣の沙汰もなく、国中無事にして
上下は喜悦している所に、贈於郡において大した理由もなく一つの騒動が起きた。
その元はこのような事であった

伊東右衛門佐(伊東加賀守祐安の弟)には二人の男子があった。嫡男は三河守といい、次男は金法師といった。
三河守は那珂郡の平等寺で教育を受けた。
金法師は伊東加賀守の嫡子・源四郎の養子となり、加賀守の名跡となった。
養父である源四郎は贈於郡の一乗院で教育を受けたので、金法師もここで教育されるべきだとされたが、
一方で金法師が三河守の弟なのだから、同じく平等寺で教育を受けるべきだとの意見も出て、贈於郡と那珂郡の
間で論争となった。

このような中、贈於郡の年少の者達36人が互いに連判し、那珂郡の者達と対決しその為には一命も投げ打つと
したが、このような行為を主君である伊東義祐が悪んだため、彼らは見の置き所がなくなり財部の落合を頼って
落ちていった。

彼らの首魁は落合丹後守、その他湯地又四郎、稲津又次郎、野辺孫次郎、杉尾甚兵衛、小山田掃部助、荒武某、
中村藤十郎、中村孫三郎、杉尾帯刀、八代新十郎、福永新七郎などをはじめとした36人であった。

しかしこの財部においてある夜、野辺孫次郎が小山田掃部に向かって
「我々がこんな事になったのは、全く落合丹後のせいだ!」
そう終夜にわたって語った。
この時落合丹後は黙って聞いていたが、遂に激怒し
「さてこそ、互いに恨まず一味同心と連判したのではないか!それを今窮迫したからと私一人を恨む事こそ
遺恨である!」
と、そのまま二人を討ち果たした。
この時杉尾甚兵衛も丹後に味方して戦い、手傷を負ったそうだ。

そして丹後は
「我ら流浪の身となっても、伊東家に帰参するつもりでいた。だがこのような事になってはもはや
生命助かる身ではない。ならば佐土原に駆け入って恨みの一刀をなそう!」

そう考え仲間とともに、伊東家の首府である佐土原へと向かった。
この事は早くも佐土原に聞こえ、丹波が来ると騒動に成り、武士たちは一斉に彼らと馳せ合わせ
戦った。落合丹後は大勢を負傷させ自分も数ヶ所傷を蒙り、島原右近と組み打ちに及び、
右近が組み伏せられ既に危うく見える時、杉田宗伴が馳せ来て丹後を刺殺した、
こうして徒党の乱は鎮まった。

この時の狂歌に
『金法を 一乗院と法印と くらびあまして田坪へおする』
とあった。

(日向纂記)
0670人間七七四年2016/06/02(木) 09:01:46.80ID:afek4XZV
たしか既出
0671人間七七四年2016/06/02(木) 23:39:25.10ID:2TWZEUxR
チンパンしかいないスレだなw
0672人間七七四年2016/06/02(木) 23:58:48.10ID:O+HgB1r6
そりゃこんなに露骨なアフィスレもないし
0673人間七七四年2016/06/03(金) 21:36:49.07ID:QWsdQD4s
日向伊東家の旧臣である長倉勘解由左衛門祐政は忠勇義烈の士であり、島津家に奪われた本国を
必ず回復すると、密書を以って日向に残った伊東家故旧の輩に作戦を授け、ここには3,40人、
あそこには5,60人と一味連判をして、天正6年10月10日、火の手を合図に蜂起し、
贈於郡に討ち入って一時に本国を乗っ取ろうとの謀りであった。

ところが、この同志の中から薩摩に心変わりしたものが出て、この計画を密告したため、
同月9日、一味の者達大勢が薩摩勢によって討ち取られた。
伊東旧臣たちを後援していた豊後の大友家は、兵員を載せた船を、内海折生迫まで乗り付け、
合図は今かと待っていたが、火の手は上がらず音もせず、手筈相違したため、空しく豊後へと帰っていった。

しかし長倉祐政の策によって、同月24日に平野や三納の兵たちが平郡粂田に火の手を上げ河原田へと
押し寄せ、贈於郡に討ち入ろうとした。

しかし諸方と当初の計画と違い、また既に多くの一味の者が討ち取られており、一方敵はますます大勢となり、
僅か千名に満たないこの軍勢は多くの死傷者を出し三納城へと挽き退いた。

三納城には八代駿河守を初めとして、佐土原摂津守、湯地三河守ら伊東家に忠烈なる人々立て籠もって、
少しも弛まず11月18日まで島津勢の攻撃を退けた。
そこで島津勢は策を設けた。彼らは六野原に伏兵を置き、三納城の囲みを解いて撤退した。
三納城の兵たちは敵地の中にあり、他に頼む援兵も無かったため、敵が退いたのを幸いと、城を出て
豊後へ向かった。そこで伏兵を受け、駿河守、摂津守、三河守以下、名ある忠臣30余人が討ち死にした。

この時は本国を回復する絶好の機会であったのだが、心変わりの者があってその事を成せなかったのは、
伊東家の運命拙き故とは言いながら、口惜しいことである。

(日向纂記)
0674人間七七四年2016/06/03(金) 21:59:58.87ID:PsfaBUpp
確かにこりゃ口惜しい
0675人間七七四年2016/06/04(土) 20:10:57.35ID:4NzI32HK
イギリス東インド会社のジョン・セーリスの航海日誌から
1613年、セーリスの乗ったグローブ号が平戸に着き、平戸藩主松浦隆信の大叔父の松浦信実が乗船してきた。
ついでにセーリスが何人かの身分の高い婦人を自分の船室に案内すると、壁には半裸のヴィーナスの絵。
その絵を見た婦人たちはひざまずき、ヴィーナスを(おそらくマリア像だと思って)拝み、
セーリスに小声で「実は私たちはクリスチャンです」と囁いた。
一方、信実や後で乗ってきた隆信といった殿方の反応は日誌に描かれてないが、セーリスはイギリス本国に
「日本では猥褻な絵や戦争の絵の需要が大きいからできるだけ大きいのを送ってくれ」
と書いているため、だいたいの想像は可能かもしれない。

一方、イギリスに帰国したセーリスは日本で個人用に枕絵(春画)を大量に購入し、周りに見せて回ったのがばれ
東インド会社の顰蹙を買ってしまい、なくなく枕絵を焼却したという。
0676人間七七四年2016/06/05(日) 01:37:55.04ID:EebVO3wP
古今東西男というのは変わらないな
0677人間七七四年2016/06/05(日) 10:05:32.73ID:/0DFBIH6
大内義隆「そうなの?」
0678人間七七四年2016/06/05(日) 23:53:05.02ID:uGuy/QER
生身の女をいくらでも手に入れられる立場にいながら、それでも絵が欲しいってホント現代とかわんないな
0679人間七七四年2016/06/06(月) 02:45:04.77ID:NtgvmjWl
ある人の言ったことには、

「私はこの世に生まれて嬉しいことが3つある。1つ目は
男に生まれたことである。2つ目は下戸に生まれたことだ」

とのことで、もう1つは言わなかった。しかし、強いて
問われた後にその人は、

「大名の子に生まれなかったことが嬉しい」

と言った。その理由は何故だと問えども問えども、その人は
秘密にして明かさなかった。どんな意味であったのだろうか。

――『備前老人物語』
0680人間七七四年2016/06/06(月) 06:54:13.70ID:DnmM45Zt
メフメト2世「せやな」
0681人間七七四年2016/06/06(月) 13:50:10.93ID:KkNZ28zy
毛利元就?
0682人間七七四年2016/06/06(月) 21:05:39.99ID:q6VDGptn
元就は親兄弟が飲酒で短命なのを見て
酒断ちだっけ
0683人間七七四年2016/06/07(火) 02:35:36.30ID:oFUqmr/s
多分、まだ出ていないかな。曽呂利新左衛門と秀吉の茶の話。

豊臣の秀吉の家臣、曽呂利新左衛門は、いつも絶妙の湯加減で茶を点てていた。
その極意が知りたくなった秀吉は、ある茶席にて、直に極意を確かめようとした。
新左衛門が次の間にて茶の用意を始めると、こっそりと後をつけて、ふすまの隙間から中を覗いてしまった。
すると新左衛門は、茶碗に釜の湯を注ぎ、自分の舌で湯加減を確かめていたのだ。

秀吉が急いで前の間に戻ると、早速新左衛門が次の間に案内してくれた。
いざ次の間に入ってみれば、秀吉の前に出されたのはなんと、新左衛門が口をつけた茶碗。
無論、濃茶ならば回し飲みをするものだが、それとこれとは話が別。そこで秀吉、新左衛門にこう告げた。

「お主、この世で最も汚い事は何と心得る?」

「覗き見をする心でござる」

新左衛門、覗き見されていた事をちゃーんと知っていた。
湯加減を見たら茶碗は変えるつもりだったのだが、秀吉の覗き見を嗜めようと、同じ茶碗を使ったのだ。

そんな、秀吉のばつが悪い話。
0684人間七七四年2016/06/07(火) 15:23:08.34ID:hLnkzSCo
好きな話だけど前に見た気がする
0685人間七七四年2016/06/07(火) 21:16:19.28ID:bDyBXs41
倍々ゲームの人だっけ?
0686人間七七四年2016/06/08(水) 00:49:24.05ID:fbNcmqXW
 芝の宿坊雲晴院は、増上寺で役を勤めた者で、年をとって引退し故里因州に帰っていたが、
故あってまた私の宿坊の住持としている。
 この僧はかつて方丈の虫干しに関わった者なので、よくそのことは知っている。
虫干しの品も数多いことゆえ、御朱印部類、御甲冑部類、御刀剣部類など唱えて、
御代々御寄附等の品々をよく干していたという。

 分けて御秘蔵の品として伝わる物は、方丈の書院に干す。
その中に、台徳院(徳川秀忠)が着られた御具足があった。その御背の所に、銃丸の痕が所々あったという。
恐れ入ることである。台廟は、神祖のように御戦場の話はあまり聞き及ばないが、どこでこのような危うい御事があったのだろうか。
これが御秘蔵の御物なのはしかるべきことであろう。

 宗耕曰く、『慶長外伝』に中に書いてあるそうだ。
『慶長五年九月七日、江戸中納言[台廟]、信州上田へ御出勢なされましたとき、
城中から真田勢が打ち出で、その他、山からの手勢と合わせまして、
御旗本へ鉄砲を撃ち掛けましたので、御勢は三町まで繰り上げましたという。』
これによれば、この御具足は正しくはこの時のものである。
この時御側の輩にも、不慮の討ち死に等が有った。
との話である。

(甲子夜話三篇)

今でも残ってはなさそうですねえ
0687人間七七四年2016/06/08(水) 01:16:10.80ID:vr887YWi
当たっただけで貫通はしてないのかな
0688人間七七四年2016/06/08(水) 05:35:28.46ID:YdrSKFuN
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3852.html
遺骨調査によると骨まで達した銃創痕があったとか
真田のせいだとしたらそりゃ九度山下山を許されませんわ
0689人間七七四年2016/06/08(水) 10:03:38.48ID:YCJF0dkB
>>688
第二次上田合戦で秀忠が負傷した記録は、伝承も含めて一切存在しないし、
仮にそんな重症を負ったら、逆にあんなに早く家康のもとに駆け付けられない。
0690人間七七四年2016/06/08(水) 11:41:35.45ID:8tzKO/kN
隠蔽したんじゃないの?ひと揉みに攻めたら反撃くらって負傷とか跡目相続に関わる事件だわ
0691人間七七四年2016/06/08(水) 12:36:54.76ID:CmxE+Ops
隠蔽って便利な言葉だな。
0692人間七七四年2016/06/08(水) 13:07:12.04ID:mrEuZqdb
まあ、この話も甲冑に弾の痕とはあるけど怪我したとは書いてないね
軽傷くらいは負っていそうだけど、骨に残るような銃創ていつ負ったんだろうね
0693人間七七四年2016/06/08(水) 15:40:34.79ID:EuFT9BDA
>>688
こういう逸話を思わせるのいいね、ロマンだわ(実話とはいってない
0694人間七七四年2016/06/08(水) 21:37:51.16ID:fbNcmqXW
 前に、増上寺虫干しのとき、台廟(徳川秀忠)の御具足を出し、
その御鎧に銃丸の痕が所々有ることを言った。
予は台廟は御戦場でこのように銃を蒙りなされたこと無かったと疑った。

 然る後に、軍講者の宗耕に会う。このことを語ると、
「不審もっともでございます。それは関が原の御合戦の時、
小山御陣で台廟が御物見として通りなさったところを、真田が山上から銃を連ねて撃ったときのものです。
このとき御側衆には、討ち死にの人が二、三人有ったとの事です。」
と話した。

予は聞いて歎息し恐れ入った。これらは(坂本)天山が伝える所の、道器一致の旨にかなう。
(甲子夜話三篇)

道器一致ってなんでしょうかね
0695人間七七四年2016/06/08(水) 22:01:15.68ID:etFF9G+S
道器、道具、甲冑
0696人間七七四年2016/06/08(水) 22:06:27.62ID:xCyA6pUL
同母弟のがほぼ同時期に狙撃されたのは偶然なのか
0697人間七七四年2016/06/09(木) 12:03:16.65ID:Acm8aK/8
暗殺だよ。
0698人間七七四年2016/06/10(金) 21:21:03.04ID:hbwty/xh
稲津次兵衛尉重房は、永正の頃、綾の地頭であった稲津越前守重頼の孫であった。
伊東家の日向没落の時は僅かに14歳であり、伊東義祐への供奉に遅れ、心ならずも
薩摩島津家の幕下に属し、その後、島津家大阪邸に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いていた。

そのような所に、伊東祐兵に日向国飫肥が拝領されたとの話を聞き、「累代の旧君を他所から見るのは
快からず。たとえ死すとも帰参せねば」と思い立ち、譜代の郎党たちを呼び

「私の心底はこの通りだ。お前たちは早急に薩州に下り、母と妻を連れて飫肥へ脱出せよ。
私はその頃合いを合わせて、この邸を立ち退き飫肥に到着するようにしよう。」

こうして郎党たちに早船を求め、薩摩に向かって下らせた。そして稲津は、郎党たちが薩摩の近くまで
行ったであろう頃合いに、にわかに邸を脱出した。

薩摩邸の番頭は稲津が逃亡したことに気がつくと、すぐに早船を仕立ててこの事を国元に報告した。
ところが、稲津の郎党たちが乗った船ははるか以前に大阪を出たのに、海上が風波悪しく、殊の外
到着が延び、却って番頭からの注進の船より1日遅れて薩末に着いたのでbった。

この時島津家では「この事について寛大な処置を取れば、家中の他の、旧伊東家の者達への差し障りとなる。」と、
稲津重房の母と妻は殺されるに至った。

稲津重房は飫肥に帰参し、これに伊東祐兵はニ百石を与えた。
その後慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。37歳であった。

(日向纂記)
0699人間七七四年2016/06/11(土) 09:15:35.13ID:Y560JUK/
最近熊に三斎取りに行って襲われて死亡者が出たってニュースでハッとしてしまう
いやまあ本当は山菜なんだけど
0700人間七七四年2016/06/11(土) 09:48:36.99ID:lS4coEcf
肥後ぅの死を遂げてしまったんか
0701人間七七四年2016/06/11(土) 11:41:42.75ID:N9GWttvD
虎狩りは聞くが熊狩りはきかんね
0702人間七七四年2016/06/11(土) 11:48:31.18ID:/xz9nhOV
奥方と目を合わせてしまったか
0703人間七七四年2016/06/11(土) 12:44:18.20ID:YhwbplKI
俺の奥方は松茸を探してる
0704人間七七四年2016/06/11(土) 20:03:28.08ID:s+ecTLZB
殴られただけで致命傷になりかねんし、大きな熊相手は洒落にならん気がする

てか、被害が出てるのを知っていても山に入ってしまうもんなんだな
0705人間七七四年2016/06/11(土) 21:03:12.83ID:TAS59Rdp
良家久「沖田畷で熊狩りや」
0706人間七七四年2016/06/13(月) 02:04:39.09ID:ZCjPkN6A
 或る人より聞いた。
駿海産の甘鯛を生干しにたのは”おきつ鯛”と称して名品の一つである。
今は興津鯛と書いて、興津の産であるなどと考える人もいるが、誤りである。
これは駿城に烈祖が在られたとき、奥女中のおきつと云う者が宿下りして戻ったとき生干甘鯛を献じた。
これが非常に御口にかない、戯れに”おきつ鯛”と御定めあってから名高くなり、その地で専ら”おきつ鯛”と呼ぶに至ったという。

このようなことにさえ転訛は多いものである。

 また楽翁(松平定信)が話されたことに、
世に”一富士二鷹三茄子”という事がある。この起こりは、神君が駿城に御座いましたとき、
初茄子の価が高く、数銭を払わなければ買えなかったので、
その価の高さから

「まず一に高いは富士の山だ。その次は足高山だ。その次は初茄子である。」

と言われたという。
かの土俗は、足高山をタカとのみ略語で言ったので、今では鷹と訛り、
その挙句には三物はめでたいものを寄せる等と考え、画に描いて掛けてもてあそぶとまで至るのは
余りあることである。

(甲子夜話)
0707人間七七四年2016/06/13(月) 02:13:55.79ID:OcMckIT/
うっかり信じてしまいそうなホラ話だな
0708人間七七四年2016/06/13(月) 03:33:09.48ID:Ymp9C8Dm
そんなやついねーよバーカw
0709人間七七四年2016/06/13(月) 05:46:50.58ID:lfL2wtaG
鏡みろよチンパンw
0710人間七七四年2016/06/13(月) 14:09:26.65ID:WDc3Al78
権現様また命名してる・・・(´・ω・`)
0711人間七七四年2016/06/13(月) 17:15:53.28ID:ZCjPkN6A
信長公に対し、公方が御謀反された時、
信長公が御出馬されて、上京を放火なされたことがあった。
その後連一検校が御前に出て
「このたびの御陣の洛中での騒ぎで、上下が怖がり恐れることは前代未聞のことです。」
と申し上げれば、信長公が
「そうであろう。さてその恐れたる様子とは?」
と仰せられたので、連一検校は以下の話をされた。

「上京に火がかかったと見ると、二条にいた者の妻が、
まず我が子だけでも連れて逃げればすむと思い、
三つか四つの子を背中に負い、慌てて走り、四条の橋のたもとまで逃げきった。
あまりに苦しくて、ちょっと子を降ろして休もうと思って地面の上にどっと置いてみると、
石臼でございました。」
(醒睡笑)
0712人間七七四年2016/06/13(月) 18:27:43.12ID:rxTBNthZ
>>711
落語みたいw
0713人間七七四年2016/06/13(月) 20:03:03.72ID:ceKeV3cO
>>711
>信長公に対し、公方が御謀反された時、

謀反ってw
0714人間七七四年2016/06/13(月) 21:36:16.80ID:tavheLe0
天皇御謀反ともいうんだから公方が謀反したっていいだろ
0715人間七七四年2016/06/13(月) 21:53:46.47ID:F7+1vUHt
室町将軍が都を追い出されるのはよくあった事だけど
義昭の場合、昵近公家衆がついて行かなかったんだよな。
0716人間七七四年2016/06/13(月) 23:48:29.32ID:xgZWF6Y2
義輝の時点であまりついていかなかったそうだ
正確には京を退去するまでは従ったが、亡命先までは付いて行かなかった
0717人間七七四年2016/06/13(月) 23:54:02.95ID:zYwTxKAt
>>713
信長公なんだから信長が主人公、公方は敵役
0718人間七七四年2016/06/14(火) 00:12:22.96ID:twXBwpVX
東洋史学の岡崎文夫は魏の皇帝である曹髦が臣下のはずの司馬昭に対してクーデタを図ったのを
「浪漫的な反抗」と評してたが
義昭に対してそういう言葉を使う人はいないんかな
それともナポレオン3世の自己クーデタ(こっちは成功)のような喜劇扱いだろうか
0719人間七七四年2016/06/14(火) 02:53:59.02ID:MKd78BCA
すでに傀儡だったじゃん。実権ねえから謀叛なんだって。
0720人間七七四年2016/06/14(火) 20:20:08.45ID:dzuNT2ui
文禄の役でのこと。

文禄元年10月18日、朝鮮に派遣されていた伊東祐兵は駐屯していた鐵原より出陣、19日早朝に
朔寧の城を攻め落とし、400名余を討ち取った。

するとその後、日本軍が占拠している王城(ソウル)において、朝鮮人が群集し、痛く泣き
哀しんでいた。不審に思った石田治部少輔(三成)が彼らに理由を尋ねると、このように答えた

「鐵原の上官(伊東祐兵)によって、朔寧の監司を討ち取られたとの事なのです。それ故に嘆いて
いるのです。」

石田はこの事を伊東祐兵に伝え、急ぎこの監司の首を送るように言った。
この使いに伊東祐兵は大いに驚いた

「夜懸けであったので切り捨てにしたため、大将を討ち取ったことも知らなかった!
急ぎその首を探すのだ!」
そして落合九右衛門尉、川崎又右衛門尉両人に、士卒70を付けて朔寧城に派遣した。

両人は朔寧に住む朝鮮人二人を捕え、監司の死骸について問うたが、彼らは有無の返答も
しなかった。この態度に落合、川崎は大いに怒り、即座に一人を惨殺した。
すると残った一人は大いに怖れ、死骸のある場所を知っていると白状した。
そこで彼を先に追い立て案内をさせた所、朔寧城から三里ほど奥にある松山に入った。
ここには墳墓が多くあったのだが、監司を埋めた所は墳も築かず、上に木の葉などを撒き散らして
何事もない体に偽装していた。

落合たちは士卒に命じてこれを掘り出し、死骸は長持に入れ、金襴の類にて包んだ。
冬のことであったので、色もほとんど損じていなかった。
そして首を斬って持ち帰ると、すぐに王城へと送った。

この首は中台門に曝されたが、朝鮮人はこの首の前を通る時、必ず再拝して泣いたという。

(日向纂記)
0721人間七七四年2016/06/15(水) 15:03:58.67ID:WbFdR36L
今頑張ってるのコイツだけ?
0722人間七七四年2016/06/15(水) 21:08:19.93ID:0Q9E5mRm
明応2年(1493)4月22日、明応の政変が起こり、将軍足利義材が細川政元によって廃され、義澄が新将軍となった。

4月28日、新将軍義澄が細川政元の邸を将軍御所として移った事を祝う宴が行われ、それが終わり人々退出し、
四半時ほども経った頃である。

大館尚氏がこの屋敷から出て半町ほど過ぎた頃、退去した屋敷の方から、数百人が騒ぐような声を
尚氏とその供の者達全員が聞いた。しかし程なく、そのまま静かになった。
ところがこの騒ぎの中、尚氏の被官である松本蔵人という者が、主人の太刀を預かっていながら
忽然と姿を消した。

翌日、尚氏は人を出して方々を探させた所、松本蔵人は京の外れの野の中にある、小さな庵で
発見された。何故こんな所にいるのか尋ねたが、松本は「鞍馬の僧正が、谷に所用がある」と言い捨て
出て行ってしまった。探索の者達は松本の後を追い捉えると、松本は

「僧正は谷まで行ってまた戻ってきたが、その時、桐の小枝を持っていた。彼はそれを指し示し
『これは枝が枯れている。細川家に難儀が降りかかるであろう。』と言った。」

そう語った。

この後、松本蔵人は京に連れ戻されたが、一向に正気を取り戻さなかった。これらはすべて天狗の所業であると
言われた。

(後法興院記)
0723人間七七四年2016/06/15(水) 21:19:44.81ID:ZSZT4DHF
>>722
わけわからんwそりゃ天狗のせいにするわ
0724人間七七四年2016/06/15(水) 22:29:25.01ID:ktDOEWmB
京兆家では良くある事
0725人間七七四年2016/06/15(水) 22:29:32.40ID:3H7wGKyS
細川政元→飯綱の法→飯綱三郎天狗→八天狗→鞍馬山僧正坊


なんとなく話は繋がってる
0726人間七七四年2016/06/15(水) 23:47:26.13ID:rHhvGcTa
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー----−' |__////
          松本蔵人
0727人間七七四年2016/06/16(木) 00:17:28.80ID:/6VPyBFD
>>726のAAが出てきて一安心
0728人間七七四年2016/06/16(木) 02:06:35.99ID:gKmKYVve
お前みたいな阿呆がいてくれてこっちも助かるよ
0729人間七七四年2016/06/16(木) 18:39:03.32ID:jdI/7Ysw
リアルが報われないから匿名掲示板で噛み付くスタイル
0730人間七七四年2016/06/17(金) 05:30:35.83ID:w1OyvURJ

自己紹介ご苦労
0731人間七七四年2016/06/17(金) 10:59:49.07ID:OJqRvfu3
ほら我慢できなくて巣穴から出てきたw
0732人間七七四年2016/06/17(金) 11:15:30.85ID:GEmWGYBE
三成の柿の話は綿考輯録(細川家譜)だろうからたしかに違うがこのコメント4も訂正しないので自分が
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-886.html

慶長4(1599年)年3月26日家康は向嶋の屋敷に移動した。
これより以前三成はどうしても忠興を味方にしないと家康を倒せないと考え、多くの人に頼みその中には前田玄以もいて
「忠興と仲が悪いのは大いなる誤りで何とかして和睦できるよう、お頼み申す」とひたすら頼まれたので玄以は忠興の所に行き、このことを告げた。
しかし忠興は許さないので玄以は重ねて「太閤の大恩をもし忘却してなければ私恨を捨て三成と和睦してください」と再三説得してきたのでついには納得して三成と会うことを決めた。

長束大蔵大夫(正家)は和睦のことを聞き大いに喜び、「忠興から三成の所に行くのも、三成から忠興の所に行くのもどうかと思うので、我が屋敷にて共に会って和解するといいでしょう」と
と玄以を通して申し入れたので、日を定めて行くことになった。

三成は早くから来ていて手には盤上の柿を忠興の前に仲直りの挨拶もせずに置き、三成は「以前好物だと聞いていたので持ってきました。
お先に召し上がりください」と言うので忠興は挨拶してから柿を食した。
その席にて三成が内府の専横を数えあげては言い「これをそのままにしては天下は穏かならずことになり終いには天下は内府を主とするに至るでしょう。
まことに遺憾で何とかして秀頼公に奉公仕り権勢を欲する内府をを討ち果たべきと決意しました。
太閤への大恩を忘れてなければ我々に味方してはくれないでしょうか
秀頼公への忠節に対しては、お望み次第にどこでも好きな国を二ヶ国を拝領することを三成が周旋することをお誓いしよう」と丁重に言うと
(忠興も)「我々に目をかけてそのようなことを頼むことに大変嬉しく思う。この上は不肖を捨て一命をかけ、お味方しよう。さて、内府を討つ手立ては?」
(三成は)「こんな時のために、太閤存命の頃から内府の屋敷を取り巻き、味方の面々の屋敷を変えさせました。
今夜即夜討ちをするつもりで宮部善祥坊(宮部継潤)と福原右馬助(福原長堯)は家康の近隣で屋敷が高いところにある。
これらのところから火矢を打ちかければ火が出て何の備えもない家康方は慌てて屋敷を出るところを井楼から一人一人鉄砲にて討ち取る。
僅か二千の兵と聞いているので仮に逃げだす者がいても、こちらの多兵をもって討ち取る算段なので何の手間もいらないので(忠興にも)兵を出していただきたい」
0733人間七七四年2016/06/17(金) 11:20:29.37ID:GEmWGYBE
忠興もこれはもっともな手段だと思ったが、少しも合点がいかないふりをして、
「いやいやそれでは駄目だろう。火矢を打つのは地の高下とは限らない。
内府も堀裏に走り、櫓などを付け、火矢の用意もあるだろう。その上近辺の諸将には、常に忍を置いていると聞くので今夜の企みもはやくから知っているだろう。
こちらから火矢を10射出す時、向こうからは100も射かけてくるだろう。そうすると、敵の屋敷より味方の屋敷が先に燃えてしまいます。
内府は数度の武名を顕し、場数の勇士も多い。2000人が心を一つにして必死の働きをすれば、討つことは難しい。
その内に彼と親しい諸大名が聞き付けて駆けつければ、却って御味方の敗北は疑いようがない。
例えその状況でなんとか勝利を得ても、『弱きの巧みな臆病なる手立』などと後々まで嘲りを受けるのは大変悔しい。

しかしながら、それほどまでに思い定めているのなら、私に一策があるので聞いていただきたい」と言い三成も「その意見を承る」と返した
「今夜の先手を私に命じろ。無二無三に切り入るから各々は二の目を取れ。そうすれば内府を討ち取ることもあるだろう。
例え敗死したとしても、潔い英名は後代に残る」

と申したところ三成はそれを聞かず「あなたを捨て駒にしてそのようなことはできません。お願いだから最初に私が提案した意見にしてください」というが
忠興は納得せずお互いに意見を引かないため論争になった
「忠興殿もあのように言うしどのような意見でまとめるにしろ時間も大分過ぎて夜も深いし、今夜はお開きにしませんか」と提案があったのでそのとおりとなってその日は皆帰った。

後日この話を聞いた小西行長の反応は
「なんて口惜しいことだ。五奉行は世間事には賢い者達だが軍事には拙い。だから、越中(忠興)に謀られたのだ。もはや内府を討つ事など思いもよらないことだ」と、言い頭を抱えて悔いたと聞いた。

忠興はその夜、幽斎を通して「このような事があったので、向嶋に立ち退くように」と言ったが、「彼らにどのようなことができるのか」との返事だった。
翌日忠興自ら家康の所に赴き、そのことを全て話して早く向嶋に立ち退くようにと提案した。
家康はその計画を知り大いに驚き、「命を落とす所だった。この御恩は子々孫々までも忘れない」と語ったという。
0734人間七七四年2016/06/17(金) 12:04:51.00ID:b3JbJE3+
【BS11:紀行・教養】 <ワインめぐりの旅>放送時間:詳しい放送時間はEPG(電子番組表)をご確認ください http://www.bs11.jp/education/86/
0735人間七七四年2016/06/17(金) 20:37:22.89ID:quiHw0RT
伊東祐兵が豊臣秀吉によって飫肥に封ぜられた時、石高は2万8千石であった。
しかし文禄2年、朝鮮の役に参戦する中、軍費が足りないと、増高を願って検地を行った。
これによって伊東家の石高は3万6千石となった。

しかし、それでも猶、軍功成し難いとして、文禄4年、再び増高を思い立ち、飫肥、清武にて
検地を行った。だがこの時は目的通りの高にはならず、僅かに4万5百石の数字が出ただけであった。
当初の予測に及ばなかった事で、この時の増高は中止されたという。

(日向纂記)
0736人間七七四年2016/06/17(金) 20:52:18.95ID:qGvkDOSE
ワロタ。隣みたいに無理やり嵩上げ石高出さなかっただけマシだな
0737人間七七四年2016/06/17(金) 20:59:36.74ID:L9K8Eq0L
島津のこと?
0738人間七七四年2016/06/17(金) 21:25:25.91ID:5P/de7pp
>>735
信長の野望じゃないんだからそんなに簡単に石高増えないだろw
0739人間七七四年2016/06/17(金) 21:55:50.54ID:qGvkDOSE
申告漏れを掘り起こしてる状態だから増えるんだなこれが
0740人間七七四年2016/06/18(土) 02:12:54.78ID:gdW/4aF4
柳生の隠し田ですか?
0741人間七七四年2016/06/18(土) 06:50:55.40ID:DPUQJOLE
実際には石高大幅増は検地した場合でも石盛や等級を操作してるケースばかり。
指し出しに一定の率を掛けるという雑なものも多いな。

関ヶ原後の毛利くらい逼迫すると、荒地扱いだった土地を無理やり組み込んだり
無茶することもあるけどさ
0742人間七七四年2016/06/18(土) 10:02:28.50ID:fZr4YD9T
最後、どの位を期待してたんだろ?
0743人間七七四年2016/06/18(土) 11:06:57.52ID:YWmczOZ9
最上義光の武者修行(複数説あり)

座王高湯(蔵王温泉)で賊を退治した最上義守・義光父子が山形城に帰って後、義光は昼夜問わずに寝食を忘れ武芸の鍛錬に勤しんだ。
そんな義光は城を訪れた者から「越後の主上杉謙信は世にも知られた名将ですが、幼少の時から修業に明け暮れ、国中のあちこちに忍び旅をされたと言います」といった話を聞いた。
また近習が言うには「天下に名前を知られる大将に愚かなる者は一人もいません。
小田原の北条氏康の祖父の早雲公は昔伊勢国で友達数人と巡礼の如く武者修行を行い、旅の途中の駿河で今川氏親に仕え両上杉を追い払い、伊豆相模は素より関八州の棟梁ともなりました。」と話をされた。
義光は幼心に英雄譚に想いを馳せ、父義守に暇乞いもせず親しい者わずか二・三人と語らい、書き置きを残して夜のとばりに山形城から忍び旅立ってしまった。

明くる朝若殿(義光)がいない事に気付いた山形城内は騒然となり、最上義守に近臣が義光の書き置き状を差し出した。

義守が紙を開いて見ると

義光(`・ω・´)「義光はいやしくも清和天皇の流れの武門の家に生まれ、おとん(義守)の慈しみを受けて成長してもう立派な若者なんよ。
…なのに未だ武勇の徳が足りずにご先祖様の名跡にふさわしい行いができていないからこれは歎き悲しむだけではダメなのでなんとかしようと考えたんよ!
だから天童街道から大石田を抜け庄内から越後方面へと武者修業するんよ!
名刹・古戦場を見学して修行の旅を通じて人馬の運用や地形と戦術を身につけるんよ!
あ、とりあえず七年くらい武者修行してくるんよ」

義守「・・・」

近習の者が殿(義守)を見るには微動だにせず、その内心を窺い知る事はできなかった。

「奥羽軍談」
0744人間七七四年2016/06/18(土) 11:39:34.08ID:knxNHmPT
最後の一文も書いてあるのかな、それとも投稿者の創作?
最上は見極めづらい
0745人間七七四年2016/06/18(土) 12:33:02.22ID:Ljbl26nA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8510.html?sp&;sp
これだと自分より強い者を探しに全国で武者修行するぞ!ととりあえず隣の越後行ったら
軍神様がいて自分の弱さを思い知ったとかなんとか
0746人間七七四年2016/06/18(土) 12:49:24.85ID:s4ObcymM
馬鹿だねぇ
0747人間七七四年2016/06/18(土) 13:46:22.71ID:YWmczOZ9
義守ヒラキテ見玉フニ其文「…先ツ七年ノ御暇玉ハリ候得カシ(義光書置)」ト有シトカヤ。義守気色少驚カセ玉ハズ。
0748人間七七四年2016/06/18(土) 13:59:37.20ID:YWmczOZ9
(´・ω・`)雰囲気で
0749人間七七四年2016/06/18(土) 14:39:23.92ID:NzW65WpW
いつも同じ顔文字つけるといろんな解釈できる逸話も一様に印象偏るんだけどわざとやってんのかな
0750人間七七四年2016/06/18(土) 14:43:24.11ID:t7BOj0bT
立花道雪足疵

 立花宗茂の父は〔名は忘れた。道雪斎か〕は足の病で馬上におれず、
歩行も不自由なので、出陣のときは台に乗り士卒数人で担がせていた。
戦場に及ぶと、持っている青竹〔これは采配の代わりである〕で台のふちを叩きたてて、
台ながら敵中に持ち込んで、投げこめなげこめと下知したという。

 また上杉謙信の采配も三尺ばかりの青竹で、臨戦のときは鞍の前輪を叩きたてて下知したそうだ。

 神祖も御戦に及ばれるときは、采配を御鞍に打たれて士衆を下知されて、
御指の血が、御鞍に染みたという。

 家法印殿(松浦鎮信)の采配の柄も竹であったが、戦陣では士卒を下知されるとき、
常にらちがあかないと、鞍を打ち口にくわえなさったので、
采配の柄は歯痕で見苦しいほどに傷ついていたそうだ。
(甲子夜話)

行儀が悪い話
0751人間七七四年2016/06/18(土) 21:12:25.78ID:Yw8Kk2C+
爪を噛むよりええやん
0752人間七七四年2016/06/19(日) 14:19:32.54ID:jsVozfSA
最上義守逝去の事

天正拾八歳三月中旬より義守公違例の心地とてうちふし給ふゆへ様々の治術有けれ共終其験なく五月十七日七拾歳にて逝去給ひ法名宋林サイリン(栄林えいりん)とそ申しける
兼而建立し給ひつる龍門寺にて様々の御弔残所もなかりけり

「奥羽永慶軍記」「奥羽軍談」等

最上義光はこの葬儀により小田原参陣が遅れたが、事前に徳川家康に執り成しを依頼していた為に豊臣秀吉に本領を安堵された。
0753人間七七四年2016/06/21(火) 00:24:29.16ID:sc6DvSW+
今月三田侯〔九鬼長州隆国〕が隠荘を訪れられて、物語をした中で
かの臣に福島正則が除国の後に来て仕えた者が四、五家ある。
その家の何れにも村正の刀を所持している。
その刀は皆、正則から賜ったという。 
どういう故であろうか.
 
と語られたことがあった。
(甲子夜話)

当時の大量生産品だからね、仕方ないね
0754人間七七四年2016/06/21(火) 07:36:13.81ID:Y/t1TMOa
甲子夜話ができた頃には村正が公儀に差し障りがある、って認識ができてたのか
0755人間七七四年2016/06/21(火) 20:23:19.09ID:QnhTDb55
村正の逸話は家康存命時代からあったんじゃなかったっけ
0756人間七七四年2016/06/21(火) 20:25:20.99ID:BeJhKfHh
>>755
無いね。村正が云々言われるようになったのは江戸中期以降。
0757人間七七四年2016/06/21(火) 20:36:07.02ID:P9+DT3Zu
注記どころか江戸初期
寛永11年に長崎奉行が村正所持で切腹
0758人間七七四年2016/06/21(火) 21:13:22.65ID:qBcS+riJ
>>757
それ「村正持ってたから」ってのは、後世の解釈じゃなかったっけ?
0759人間七七四年2016/06/22(水) 12:18:41.72ID:m7j9aCCZ
>>756-757
ファミコン版ウィザードリィが流行ってからじゃね?
0760人間七七四年2016/06/22(水) 14:46:53.32ID:cUFFAOL9
大阪夏の陣直前、後藤基次と大野治長の間で口論となり、一触即発という事態が起きた。
その後基次は真田の陣屋に行き、「今陣中にてかくかくの口論が有った」と伝えた。
真田はこれを聞くと、

「そういう事は人を選ぶべきだ。それを蒼蠅に向かって、後藤殿は大人げない。
蒼蠅という虫は、いかなる貴人高官の首にも上がるが、素より蝿虫だと思っていれば気にならぬ。
だからこそ昔の君子も、悪人を蒼蠅に例えたのだ。

近頃私は、あやつを蒼蠅だと思っているので、奴の行動に対して無念と思わなくなった。
後藤殿は生まれつき堪えられない性分であるから、闘論にも及んだのだろう。
今後はそのようにお心得あるといい。」

これに基次も笑い出し
「仰せ至極である。ただ、戦の出鼻をくじくような言動に腹が立って、若輩のようなことを
言ってしまったのだ。しかし、我々が討ち死にするのも間近なのだから、蝿に出会う機会も
もはや稀であろう。
ああそれにしても、あの蝿を払う唐国団扇があれば、千金を以ってしても求めるのになあ。」

「なあに、おっつけ落城の時は、どんな蒼蠅も駿河団扇によって払われるだろう。」

二人は大いに笑い、基次は宿所へと帰っていった。

(慶元記)
0761人間七七四年2016/06/23(木) 10:10:37.15ID:03GZzFDX
獄門に晒された首に蝿が止まりますがなw
やせ我慢するから九度山いくんだ
0762人間七七四年2016/06/23(木) 11:12:23.18ID:30ZeMVQb
しょせん後藤は陪臣出身、豊家の家老級から見ると見下す対象だったのだろう
0763人間七七四年2016/06/23(木) 20:09:32.12ID:MjtEezd7
大野治長佞臣説は悲しいなあ
0764人間七七四年2016/06/24(金) 02:12:15.04ID:dd6ReUWt
全くだな、本当の佞臣は落城前に逃亡するもんだ。
0765人間七七四年2016/06/24(金) 08:15:17.70ID:bKV/JtHm
片桐「んだんだ」
0766人間七七四年2016/06/24(金) 09:55:06.45ID:bB1GLsRN
>>764
織田宗家のワシを愚弄する気か!
0767人間七七四年2016/06/24(金) 18:26:00.32ID:AODPDf4a
一体誰が詠んだ歌?

数年前に新聞にも載ったから北陸地方の人は知ってると思うお話しです。


越前と若狭の国境近くにある国吉城。その城主粟屋勝久は若狭武田家の重臣であったが、
主家の内紛に乗じて同じく武田家重臣の逸見氏と結んで叛乱を起こす。独力で鎮圧できない
と見た武田家では、縁戚である朝倉義景に助力を要請した。朝倉軍は永禄6年(1563年)から
元亀4年(1573年)まで足かけ10年にわたり国吉城に籠る勝久を攻撃したが、遂に落城させる
ことはできず、勝久と国吉城の名を世に知らしめる結果となってしまった。

その3回目の籠城戦の時のこと。永禄8年(1565年)8月、朝倉勢は若狭に侵入し、中山という
所に付城を築き国吉城下を荒らしまわった。この頃になると、朝倉方では直接城を攻める
よりは収穫期を狙って侵攻し、略奪を繰り返すことで相手の力を徐々に削ぐという戦法に
変えてきたようである。領内を荒らされた勝久は、逆に相手の付城を襲い奪われた穀物を
奪い返すことを計画、夜討ちを仕掛けて見事これを成功させる。付城に残された兵糧や武器
を国吉城に運ぶとき、次のように書かれた一枚の短冊が見つかった。

「武士の 鎧の袖を 片敷きて 枕に近き 初雁の声 9月2日 朝倉太郎左衛門」

敵の主将朝倉太郎左衛門の詠んだ歌だった。勝久も歌の嗜みがあったので「朝倉殿も武勇
ばかりでなく歌道にも通じておったか…」としばし瞑想したという。



と、籠城戦を記した『国吉籠城記』に書かれ、福井県ではこの歌は朝倉氏の詠んだ歌と
思われていたのでした。ところが、時代はくだって平成21年(2009年)、若狭国吉城歴史
資料館の職員さんが富山県の魚津城跡を訪れた際、城跡に建てられた碑に朝倉氏が詠んだ
とされる歌と全く同じ歌が刻まれているのを発見。傍らの説明文には天正元年(1573年)、
上杉謙信が魚津城に陣した際に詠んだ歌と記されておりました。この職員さんが更に
調べたところ、謙信が信濃に出陣した際に戦勝祈願のため詠んだ歌にもほぼ同内容の歌
(「武士の 鎧の袖を かきたして 枕に近き 初雁の声」 ―長野市豊野町川谷日影に
伝わる民話「陣場山」より)があることが判明。同じ北陸でありながら福井・富山両県
とも、更には長野県も加え、一つの歌にそれぞれ異なる伝承があることを知らなかった
ということがわかりました。発見した職員さんに感謝敬礼!


さて、この歌の作者は一体誰が詠んだのでしょうか?残念ながら現段階では誰かわからず
もやもやしますので悪い話に投稿します。個人的には朝倉太郎左衛門が誰かということにも
興味あります。
0768人間七七四年2016/06/24(金) 18:36:41.16ID:Ks3dfeuz
>>767
無名だから気づかれてないだけで全国に同じようなことありそうだなぁ。
0769人間七七四年2016/06/24(金) 18:49:17.75ID:6TIcVgos
季語を変えるだけで割と応用が利きそうな歌だし何らかのテンプレが存在したとか
紛争地域の武士にはよくありそうなシチュだから、みんな詩想が似ていたとかかね
0770人間七七四年2016/06/25(土) 02:07:24.24ID:t+feyNi7
>>767
朝倉太郎左衛門は宗滴だけど没した後だし、
養子の景紀は九郎左衛門なんだし、
その息子で長男の景みつの可能性が「太郎」だから
高いと言えるけど前年に切腹しちゃってるし、


と考えると消去法で景恒かなと思う。
太郎左衛門と名乗ったかどうか確実じゃないけど。
0771人間七七四年2016/06/25(土) 04:20:33.79ID:BkXP1c/6
「駿府城の御堀には蛙はいない。
俗伝では、神君が御在城のときに、騒々しいので蛙がいないほうがよいだろうとの仰せがあったので、
それ以来一匹もいないという。

また御城の地に生息する鈴虫は羽根の表に葵の御紋がある。
御城の外の鈴虫は鳴き声が悪く、御城の中のは細く長く美音である。
これらのことを当地の人は言う。」



「この駿府の御城の鈴虫は葵の御紋があり、蛙がいないというのは
かの地の御番衆の長田藤十郎(三十年来駿府に居る人という)の話では
確かなではないとのことであった。

ならば俗間の浮説に違いない。」

(甲子夜話)

確かに隣に田んぼがある家に住むと、この季節だと本当にうるさいんですよね
今ほど夜に音がない時代なら、尚更うるさく思ったでしょうね
0772人間七七四年2016/06/25(土) 10:34:55.05ID:IUXL45iW
中国の皇帝ならカエル排除したり、鈴虫一匹一匹に絵を挿れさせるぐらいやってても違和感はないが
0773人間七七四年2016/06/25(土) 10:37:09.49ID:ypVPLKq8
スズメはお米食べちゃうから駆除したら大躍進だね!
0774人間七七四年2016/06/25(土) 12:24:16.94ID:MXbV8OFW
>>773
毛首席乙
0775人間七七四年2016/06/27(月) 13:14:32.30ID:/MqLJVh3
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160627-00050028-yomidr-soci
「小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?」

肝臓は大切にね!
0776人間七七四年2016/06/27(月) 13:35:48.54ID:3JLjvA8Y
これなら関ヶ原後数年で死んだのも説明つくな
0777人間七七四年2016/06/27(月) 14:31:31.81ID:KCWhgknx
というか医者の記録で酒飲みすぎで死んだって判明してなかったっけ
0778人間七七四年2016/06/27(月) 15:45:50.91ID:/MqLJVh3
三成の亡霊に悩まされたってのもあったよね。
0779人間七七四年2016/06/27(月) 18:16:22.03ID:+qPXwI3K
>>775
今年の真田丸だと三成と大谷の霊が交互に襲いそうなんだがw
0780人間七七四年2016/06/27(月) 18:55:27.76ID:TO7QrSDN
亡霊になって呪えるなら家康の方にいけばいいのに
そんなんだから関ヶ原で負けるんだ
0781人間七七四年2016/06/27(月) 19:58:33.34ID:FwSunThd
亡霊=アル中の妄想だったか
0782人間七七四年2016/06/28(火) 15:40:48.51ID:uBSLhsAz
>>775
ドラマの秀秋役というと色白びょうたんてのが定番だったけどこれからは色黒になるのかな

たいめいけんのシェフとか?
0783人間七七四年2016/06/28(火) 22:42:25.66ID:HtJd3PKa
鳥羽候[稲垣氏]の邸は麹町八丁目にあった。
伯母光照夫人がここにいましたので、予は中年の頃まではしばしばこの邸を訪れていた。
邸の裏道を隔てて、向こうは彦根侯[井伊氏]の中荘で、高崖の上に大きな屋が見えた。
千畳鋪と人はいう。

この屋は以前加藤清正の邸であった時のもので、
屋瓦の面にはその家紋、円中に桔梗花が出てくるという。
この千畳鋪の天井に乗物[駕籠だという]を釣下げてあり。人が開き見ることを禁じているという。
清正の妻の屍を入れてある、
もしくは、中に妖怪がいて時として内より戸を開いているのを見ると、老婆の形である者が見える、
といった話を幾人かから聞いた。

しかしその後かの荘も火災の為類焼して、千畳鋪も存在しなくなった。
きっと天井の乗物も焚亡したのだろう。
妖も鬼も共に三界火宅であった。
(甲子夜話)
0784人間七七四年2016/06/30(木) 00:04:29.52ID:3X+PEQ8D
伊達政宗が金箔の十字架背負って上洛したのは有名ですが、それより先に金箔十字架背負って
秀吉に降伏した人がいるのをご存知でしょうか?

上記の話は、うっかり戦国漫画かいこ様サイトで知ったことですが、「逸話文庫」という本に載っていて

伊達政宗、奥州一揆の時、秀吉の疑を受け、金箔打ちたる磔柱を荷はせ、上京せしと云ふ。よく人の知る所なり。
然るに是より先き秀吉九州を征せし時、島津義久、磔の木に金塗りして持たせ降参し
『若し赦さゞる時は此の磔の木にかゝるべし』と云へる由、南海道記に見えたり。(逸話文庫)

南海道記を探してみたのですが見つからず、この話の出典元はわからなかったのですが、
島津家に関する展示があるところで九州征伐での黒田如水の紹介文に
「黒田家の記録に島津義久が金の磔木を持ち、秀吉に降伏したことが書かれている(後略)」
とあるので、学芸員の方に聞いてみると、
「この話は黒田家譜に書かれていて、初出も(おそらく)黒田家譜です」と言われました。

島津義久髪をそり、墨の衣を着して、名を隆伯と号し、磔木を金みがきにして眞先に持せ、
太平寺に行て秀吉公の陣へ降参し、その罪を謝す。(原文ママ)
若御憤ふかく、御免有まじく候はゞ、此磔木かゝり申べき為、持せ参て候と申上ける。
秀吉公是を感じ給て、其罪をゆるし、却て御懇意を加へらる。(黒田家譜巻之四)

教えていただいた学芸員の方に「何故このようなことをしたのでしょうか?」と聞いてみると
あくまで個人の考えですがと言われた後、
「薩摩は海外の貿易が盛んだったので、金の磔木を見せることでそのことを豊臣方に
思い起こさせ、降伏を認めた方が(豊臣方の)得になると思わせようとしたのでは」と・・・

義久だと違和感あるから、やっぱり金箔十字架は伊達政宗の方が似合うな。
0785人間七七四年2016/06/30(木) 15:29:25.74ID:9buU24br
【社会】長野県出身の男性(61)、妻子と別れてセックス・ドールの「さおり」と暮らし始める(画像あり)

現代の秋田実季
0786人間七七四年2016/06/30(木) 16:04:13.10ID:sv5Jc6ie
>>784
島津の家紋が十字だしただの偶然?でも宣教師九州に多いし知ってて当然か。
政宗がこれをまねしたのかな?
0787人間七七四年2016/06/30(木) 16:21:18.83ID:O2r7q+WV
まさむねが初めてじゃなかったんだね
0788人間七七四年2016/06/30(木) 19:08:58.40ID:/HemqasI
高橋元種の宮崎城は慶長5年10月朔日に、伊東祐慶の兵によって攻め取り、翌年8月まで確保していたが、
徳川家康の上意として、高橋元種に返却すべきと片桐市正(且元)より伊東家に使者が送られた。
またその頃、大阪に在った伊東家家臣の松浦久兵衛尉も、奉行所に召され、その趣を申し渡された。
この時久兵衛尉は一言の弁明もせずおめおめと退いてきたので、同じく伊東家重臣の稲津掃部助は
大いに怒り、

「いかに内府公の命だからといって、侍の槍先にて攻め取った場所をおめおめと敵に返すなど
ありえようか!」
そうして自ら上洛し、

「宮崎城の事は、井伊兵部少輔(なおまさ)殿の内意があり、また黒田如水老よりも検使宮川伴左衛門を
差し下され、内府様への忠節のために、幼年ながら左京亮(伊東祐慶:関ヶ原当時11歳)は、
父(祐兵)が病中なのも顧みず、日向に下り一命を捨てて太刀下に切り取った所なのです!そこを
今更返せと言われるのは迷惑でござる!」

そうしきりと訴えたが、奉行所は許容せず
「宮崎落城は10月朔日。ですが高橋が寝返ったのは9月15日ですから、前後決断の理においては、
例え忠節として攻め取った太刀下勲功の地であっても、帰さねばならない。」
そう重ねて言明が下ったため、是非無く慶長6年8月、高橋家に返還された。

伊東家では宮崎城を落とした後、諸軍の手柄を逐一吟味し、それを三巻に記して、
飫肥に一巻、大阪に一巻、清武に一巻を置き、占拠した宮崎四万石の地を割って、それぞれに
賞与あるべき旨を沙汰しており、これに諸士は言うに及ばず、百姓らに至るまで勇み喜んでいた。
そのような所に、返還を命ぜられ、一旦の勤労もたちまち水の泡となった。

こうして国中の上下は皆力を落とし、内府様の沙汰も当てにならず、黒田如水の取り持ちも頼みに成らぬと
恨みを含まぬものは居なかった。

その後、黒田如水父子の取り持ちによって、伊東家は井伊直政に様々に内訴したが、これに直政は言った

「石田ら逆徒は、或いは滅亡し或いは降参して、天下一統内府公に従い奉った。
だが、天下の諸侯のうち十に三つは、治部少輔の佞悪を疑い、一旦は内府公に随身したようにしているが、
それは誠の心服ではない。

である以上、今度内府公に降参した諸大名の領地を割って忠功の者達に恩賜あれば、それは再びの
逆乱への端緒となるだろう。
天下は一人の天下ではない。天下の天下なのだから、内府公と雖もその思し召し通りには成り難い。
先ず暫く、天下の安否を見定められる間は、穏便の沙汰を行うのだ。

左京亮殿が幼年の身でありながら、父が重病なのも顧みず大敵の中に下向あって、一命をかけ
類のないほど、御味方として無二の忠功を立てられたことに対して、内府公はたいへん御感悦されている。
なので、終には御報謝あるだろう。
伊東家においてはどうか、その意をくんで、これ以降も遺恨無く、専ら勇義を励まされる事が肝要です。」
そう懇々と示し諭したため、伊東家もその旨を受け、恨みを捨て奉公丹誠を成されたのである。

(日向纂記)
0789人間七七四年2016/06/30(木) 19:13:21.97ID:sv5Jc6ie
>>788
いい話じゃないかw
0790人間七七四年2016/07/01(金) 19:47:21.30ID:7FXrbvnO
>>784
嘘くさい
0791人間七七四年2016/07/01(金) 20:50:17.92ID:+Z/oQOdg
伊東家家臣、稲津掃部助は、関ヶ原後、宮崎城を空しく高橋家に返還することを残念骨髄に徹して
思っており、その後も度々黒田如水に嘆き訴えた。如水としても、一旦検使まで差し下し、内々に
下知して伊東家に取らせた事でもあったので、様々に考え、伊東祐慶が江戸に在府の時、掃部助に
内々にに申し含めた

「これは本多佐渡守(正信)とも、かねて内談致しおいている。今度、九州の大名が暇を賜って
帰国が許される。だがその時左京亮(祐慶)殿は江戸に残り、将軍家の小姓として奉公を勤められるようにせよ。」

稲津掃部助は「畏まって候」と申し上げたが、内心こう思った
『武士が槍先にて攻め取った城地さえ空しく敵に返す程の事なのだから、如水の指図も頼み少ない。
ならば帰国したほうがいいだろう。』

そして帰国が許されると直ぐに祐慶に供奉して国元に下ってしまった。

このことを聞いて黒田如水は激怒し、
「掃部助は武功の者であるから捨て難いが、以後江戸に召されることは然るべからず!」
そう、伊東家に通告した。

伊東祐慶の母公である松寿夫人はその頃、かねてから稲津掃部助に対して心情を悪くしていたのであるが、
如水の一言を聞いて更に彼を憎むように成り、それは後の誅殺の原因ともなるのである。

(日向纂記)
0792人間七七四年2016/07/02(土) 03:49:42.28ID:JcIZKTr9
 徳島侯の中に、阿波の公方と号する者が久しくいた。
近頃この公方の子を又太郎と称すると聞く。
この公方のことを高家の方々に話として出すと、

「これも初めは私達の同族である。この又太郎は今も存命で、年は八十余りと聞く。」


 と答えられた。それにつき、この公方のことをこれまでかれこれ人から聞いた。
初めは尊氏正統の種であり、蜂須賀氏がまだ家を興す前、
遂には世の隙を窺って一旗挙げようと思っていたが、
家柄が低いのでは人心が服従できないだろうと慮り、将軍の種を擁立して、自分の家を耀かせようとするため匿っていた。
しかし、神君の御輝きが盛んなので将軍の種の光は消え、
蜂須賀もその御恵みを受けているので、言い出せる状況でもなくなっていた。
歳月が移るにしたがって初めの尊崇のようではなくなり、おのずから公方も意のようにならず、
後にはしばしば不足を言い出した。
蜂須賀も家に不自由がないので、ろくに阿波公方の望みに取り合わなかった。
阿波公方はきっと蜂須賀氏は自分を留めるだろうとして居場所を去ったが、
思いは外れ、今は厄介となった公方を留めもしなかった。
〔宮原の話では、このとき蜂須賀氏から出奔届を官に出したという。
この前までは、蜂須賀氏は参勤や帰国とかのときは、定例として金四百両とかを
土産として贈っていという〕
 
 こんなことなので阿波公方も心当て違いとなり、ついに阿波に帰らず、京
か大阪かの政所に出訴した。
政所は関東へ伺ったが、喜連川をはじめとした足利氏も多くは御養われてるので、
もはや御用にもなく、取り上げるものはなかった。
阿波公方は仕方がないので、いよいよ流浪の身となり所々漂流することとなった。
食べる道もなかったので、縁のところと相国寺を頼んで身を寄せてみたけれど、
阿波公方には、子又太郎、娘等数人おられるので、
相国寺も困り十三の塔頭の院に順番に食住させることとした。

 あるとき等持院の番の時に、阿波公方一行がこの院に集まっていると家内から失火し、
持ち伝えていた尊氏の甲冑、後醍醐帝の綸旨、大塔宮の令旨等、古文書、旧来の武具等が、
ことごとく焼亡したという。
正しい尊氏の後胤として場所があっただろうに、等持院にいて自ら火を出し、
これらの物を焚亡させたのは、鬼の怒りか、あるいはまた南帝の御祟か。

 この又太郎というのは、身長六尺を超え、勇力がありよく強弓をひく。
女は容色優れていて和歌に達し、かつ伎舞ができる。
ある人が言うに、流浪の日々で、華洛の間を徘徊してこの技を為せることができたと。
あるいは歌学の師となって児女に教えたこともあったという。

今はいかがしているのだろうか。
(甲子夜話続編)

う〜ん、もったいないですねえ
0793人間七七四年2016/07/02(土) 13:11:01.91ID:huSMXRyr
>>792
創作だろうにロマンも何もない…。
0794人間七七四年2016/07/02(土) 13:18:32.12ID:K/6jmK5/
>>793
こいつ最高にバカ
0795人間七七四年2016/07/02(土) 13:19:35.04ID:UKVf4hzE
敏感なアホw
0796人間七七四年2016/07/03(日) 18:48:52.16ID:h0JGpIkg
義栄って子供か弟がいたんだっけ?
0797人間七七四年2016/07/03(日) 20:45:01.19ID:YWWS8QRs
実際には蜂須賀さんが…
0798人間七七四年2016/07/03(日) 21:02:44.48ID:mNniwc6S
桑名弥次兵衛貞敬は、元は長宗我部耳目の臣であったが、関ヶ原の後浪人していたのを、
武勇のほまれが有ったので藤堂高虎が招き物頭とした。

大坂の陣が起こると、長宗我部盛親は家臣の山崎与助に命じて再三にわたって桑名を招いたが、
桑名はそれに従わず、

「盛親公は先主です。恩を被ること厚かったといっても、私もまた、度々の戦功をいたして
それを謝する所ありました。
一方、現在の主人より恩を被ることも、また莫大です。その上近年天下治平にして合戦無く、そのため
新主への奉公は未だ勤まっていません。
ですので、お招きに従うことは出来ません。

ただし、私を招いて頂いたこと、世に忝なく存ずる所です。
ですので、御陣と見れば一番に駆け入って、討ち死にいたしましょう。
これはそちらと敵対を為すに似ていますが、物頭をも仕る私が御手にかかり討ち死にすれば、
御武辺の飾りともなるでしょう。
また、現在の主人に対しても、死を以って恩に報いるという道に叶います。
であるため、今、お召に応じることは出来ませんが、どうぞ死後をご覧下さるべし。」

そう返答したという。

(慶元記)
0799人間七七四年2016/07/03(日) 21:19:49.86ID:vqIfI3Im
喜連川なんて鎌倉公方の末裔で男系だとさらに傍流の小弓御所の子孫
だから足利とか名乗るのは恥ずかしいレベルだけど
だからこそ担がれてる感じがする
0800人間七七四年2016/07/03(日) 21:23:43.43ID:br89QJVi
吉成の別名で貞敬なんてあったっけ?
0801人間七七四年2016/07/04(月) 02:16:52.39ID:q/sXRUjK
鎌倉公方は関東では威勢を振るったし、衰えてからも神輿としての役割は非常に大きかったよ。
0802人間七七四年2016/07/05(火) 00:01:06.88ID:vt/+c1Fu
稲津掃部助(重政)の妻は、豊後大友家の一族である田北相模守の娘であり、任世政成の妹である。
慶長2年、大友家滅亡の時、任世政成は年齢11歳で、母妹とともに、周防国柳井という所に流れ着いた。
母は土佐の一条安房守房基の娘であり、伊東義益の奥方であった於喜多夫人と姉妹であり、現当主たる
伊東祐慶の母、松寿夫人にとっては伯母であったため、周防国に漂泊したとの話を聞くと、松寿夫人は
使いを周防国に遣わし、母子供に招いた。その頃、伊東家重臣の川崎大膳亮祐賢が妻を失い独身で
あったため、この母を娶って後妻となした。その時、この女児も母に従って大膳亮の養女となり、
後に稲津掃部助の嫁いだのである。

だが、程なく伊東祐慶は、稲津掃部助を誅すると決めた。この事を知らされていた実家の
川崎氏は、「母が病気になったので、帰ってきてほしい」と迎の者を遣わした。
妻は本当に病気になったのだと思い急いで飫肥へと向かったが、途中、山假屋に至った時、
迎の者達は真実を告げた。

妻はこれを聞くと大いに驚き嘆き、迎の者達に向かい叫んだ
「私はこれより、再び夫の元に帰るので、駕籠を返しなさい!」

しかし迎えの若党たちはこれを聞こうとせず、無理にでも母のもとに伴い帰そうとした。
妻は大いに怒り、薙刀の鞘を外し

「我が下知に従わざる者はみな、斬って捨てる!」

そう叫ぶと、若党たちも何も出来ず、踵を返して清武へと戻った。

帰ってきた妻を見て、稲津掃部助は
「女の身なのだから、母のもとに帰るのだ!」
そう勧めたが、妻は承知せず
「私は女として生まれましたが、夫の最後を見捨てて帰るような存念は有りません。」
妻には少しも怖れる色無く、今日こそ討ち手の軍勢が押し寄せると聞こえれば、心しずかに
身支度を整え、掃部助に付き添い、最後の様子も、いかにも勇ましかった。

これを聞いた人たちは、涙を流さぬもの居なかったという。

(日向纂記)
0803人間七七四年2016/07/05(火) 03:08:44.08ID:Przl9z/j
島左近は石田三成の寵人である。この左近の勧めによって石田は逆意までも起こした
のである。左近の心の奥に潜む考えは、石田が天下を取ったなら、つまるところ天下は
自分のものだと思っていたのだという。左近の知行は三千石である。

(島左近ハ石田カ寵人ナリ此左近カススメニヨリテ石田逆意モオコリタリ左近底意ハ
石田天下ヲトリタラハ畢竟我モノト存タル由左近知行ハ三千石ナリ)

――『武功雑記』
0804人間七七四年2016/07/05(火) 10:30:33.63ID:45F8YWkQ
恵林寺の蔵、信玄甲冑の事

先年、甲州恵林寺の僧が信玄の遺物甲冑等を携えて江戸に出てきたことがあった。
予はこれを見たいと思い、月桂寺に行ってかの僧と面会し、
その戎器を見た。
兵火の燃え残りかと疑い尋ねると、
「そうではありません。
かつてこの寺は兵乱で焼かれた後に、甲州は神祖の御領となって、寺を御修造されました。
そのときこれらの甲冑は元は信玄の遺物であるので、長く寺に大切におさめよ
と、神祖から賜わったと、伝わっています。
神祖の御文であろうか、時の老職の添え状であろうかといったものが付いてあった思われます。
明細に写して大切に収めて置いてましたが、戊寅(1818年)の火事で焼亡ました。」

惜しいものだ。
(甲子夜話)

火事大杉
0805人間七七四年2016/07/05(火) 14:22:01.58ID:7YH5mLzL
贋作だから焼失しても無問題
0806人間七七四年2016/07/06(水) 03:00:14.63ID:vu4jWaA7
細川忠興は、袖から出して撃つ鉄砲を徳川家康に差し上げた。

すると家康は、「武士はこのようなことはせぬものである」と言って、即座に
その鉄砲を返したという。

これは小幡景憲が物語ったことである。

(細川三斎袖ヨリ出候テ打鉄砲ヲ権現様ヘ被差上候処武士ハ加様ノ事ハ
セヌモノト被仰候テ則坐ニ御カヘシ被成候由小幡勘兵衛物語)

――『武功雑記』
0807人間七七四年2016/07/06(水) 03:44:30.70ID:fSBYD8il
タクシードライバーのスリーブガンですねわかります
0808人間七七四年2016/07/06(水) 07:28:53.05ID:noUy087A
撃てば歴史変わったのにな
0809人間七七四年2016/07/06(水) 13:12:42.43ID:jk5WTJCv
>>806
暗殺用の鉄砲?なんでそんなもんもっててんだ忠興w
0810人間七七四年2016/07/06(水) 19:30:02.01ID:6gWpd17c
嫁に近づく庭師を遠くにいても討てるようにだろう
0811人間七七四年2016/07/06(水) 23:01:43.74ID:FPpJUk7/
刃物でたたき切らなきゃ満足できなさそうだが
0812人間七七四年2016/07/07(木) 07:43:03.82ID:kmCuUSy0
越前と加賀の一向宗が取り合いをしていた時、朝倉殿がある会下僧に向かって
「敵も八幡大菩薩、味方も八幡大菩薩と念じている。
その一念は同じでも、御利益はどうであろうか?」
と問うと、僧は
「味方は現世安穏、敵は後生善処と守りましょう」
と答えた。
(醒睡笑)
0813人間七七四年2016/07/08(金) 00:12:31.15ID:oBNrbXic
本願寺は阿弥陀如来だろと思ったけど、
八幡大菩薩の本地仏が阿弥陀如来なのか
0814人間七七四年2016/07/08(金) 09:41:10.15ID:lO69aRU1
[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160708-00000021-asahi-soci

本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れた後、後継をめざした次男・信雄(のぶかつ、1558〜1630)
が羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状を、中京大の村岡幹生教授らが入手し、7日発表した。日付は信長の後継者を決
めた清洲会議の3日前。秀吉に指示を仰ぐ内容で、慌てた様子もうかがえるという。
書状は、縦29・4センチ、横40・1センチ。古書市場に出品されていた。日付は6月24日。年は書かれてい
ないものの、共同で分析した播磨良紀教授が、時代で変遷した信雄の花押(サイン)の形を分析して特定した。
「そちらの様子でよきように決め、連絡して下さい。近くへ陣を寄せます」といった内容が書かれていた。本能寺
の変が6月2日。13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破っており、信雄が秀吉軍に加わろうとしたとみられる。

・・・古書市場で出品って誰が?
0815人間七七四年2016/07/08(金) 13:32:55.55ID:eVs+Krws
所有者
0816人間七七四年2016/07/08(金) 14:09:34.84ID:uhV5wMs+
だいたい価値の分からない遺族が一括して業者に渡すので
業者が市場に売りに出す
0817人間七七四年2016/07/08(金) 14:51:47.07ID:lTB88R8t
もはや暗号だろ。読める奴て俺の周りに一人もおらん。
0818人間七七四年2016/07/08(金) 16:10:51.53ID:EZmvQCNr
>>814
こういうのいいなぁ、もっとでてきて欲しい。
0819人間七七四年2016/07/08(金) 19:38:29.86ID:aOa++CsB
飫肥の伊東家においては、去る文禄元年に領内の検地があって、石高3万6千石と定められた。
しかし伊東祐兵はこの石高では軍功成し難いと、同四年、秘密裏に検地の沙汰を行ったが、その結果
出てきた数字は僅かに4万5百石に過ぎず、目的の石高に満たなかったため、これは公表せず、
石高を上げることはなかった。

伊東祐兵が卒去のあと、伊藤家家臣である落合九右衛門尉、山縣太郎右衛門尉両人が談合の上、
伏見において「石高6万石」と披露に及んだ。

このことを聞いて国元の家老たちは驚愕した。

「これでは万一、国替えの沙汰など有った時、引き渡すべき帳面も無い。急ぎ検地して高上げより他手段がない!」

そう評議の上、川崎主水、三谷作右衛門尉、平川分右衛門尉の三人を奉行として、慶長9年、三度目の
検地が有り、この時5万7千80石余りの石高と成り、明けて10年3月、平川分右衛門尉はこの
検地帳を伏見に持参して、奉行所にて披露した。

(日向纂記)
0820人間七七四年2016/07/08(金) 22:35:40.50ID:CWAhEhPC
やればやるだけ石高が増える
それが検地
0821人間七七四年2016/07/09(土) 09:33:18.62ID:LRd9WXBI
長崎諏訪明神の事


 長崎の諏訪神社は長崎が始まったころ、耶蘇宗が制禁となった事で建立されたという。

 慶長元和の頃だったか、長崎はとかく耶蘇に帰依していて、
数々の制禁があったが役に立たなかった。
 そこである修験者か又は神職かが思いつき、
諏訪明神を勧進して国俗を清道に導きたいと願い出た。
 その願いに任せて御入用で御建立されたが、
なにぶん耶蘇を信仰している輩なので、諏訪の社頭へ参る者がなかった。
 時の奉行は、市中に大きな穴を掘って薪炭を積み火を放ち
「長崎中で耶蘇信仰の者は残らず焼き殺すべし」
と念を押した。
 長崎の者は初めて死を恐れ改宗して諏訪明神の氏子となったという。

 これからこの諏訪明神には三度の祭礼の時も、奉行は今でも出席し
祭礼が済んだことを江戸へ注進する。
 まことに厳重な事だという話である。
(耳袋)
0822人間七七四年2016/07/09(土) 10:02:40.01ID:tmLfPf9a
>>819
松倉勝家「私なら10万石にしてみせますぞ」
真田信直「ならば、私は15万石にしてみせましょう」
0823人間七七四年2016/07/09(土) 10:29:36.27ID:E+Obyybb
毛利「え、うちは36万石しかないですよ。内高100万石+貿易収入なんてとんでもない。
    密輸?そんな恐ろしいことするわけないじゃないですか」
0824人間七七四年2016/07/09(土) 10:39:35.72ID:gkfn/0Es
毛利の検地も家臣の俸禄を下げる為にやった水増し型が多いのて゜
内高で国力は測れない。

年貢を増やすと一揆・逃散になるから慶長検地のような増税狙い以外で
大幅に水増しする際は税率もガッツリ下ってる。

なんと江戸時代初期までの73%から江戸時代後半には40%へ。
0825人間七七四年2016/07/09(土) 23:33:14.18ID:K/D0/nSy
慶長19年6月29日、去る22日に禁裏において御能を仰せ付けられた所に、
この日、立ちながら見物する狼藉者が有った。警護の者が制しこれを門外に追い出したが、
彼の者は羽織の下に抜いた刀を隠して再び門内に入り、警護の者を斬り殺した。
しかしこの者も殺され、禁裏のお庭に血を流した。これ故に、その日は快晴だったのがにわかに曇った。

この狼藉者は兼房(憲法)剣術の者で、京の町人であった。

(玉露叢)

吉岡憲法の門人が禁裏で騒動を起こした、という記録である。
0826名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 10:58:02.66ID:XVJeDwE+
あれ、このときに憲法も怪我してなかったっけ?
0827名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 11:18:38.73ID:zWr1uLj/
憲法って普通にけんぽうって読むんだな
訓読みならノリノリ?
0828名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 11:29:35.65ID:XVJeDwE+
名は直綱
号して"けんぽう"
足利将軍家の剣術師範であり染物屋さん
大坂に籠城経験あり
0829人間七七四年2016/07/10(日) 21:39:37.80ID:D2uxPW+2
こういうのって誰かが責任取らされるの?
両方死んだからこれでおしまい?
0830人間七七四年2016/07/10(日) 22:50:51.40ID:WoaxVO/c
三方ヶ原合戦の時の事、徳川方は敗北を悟って引き退き始めたが、
内藤正成の息子・正貞は敵陣奥深くにいたため味方の撤退を知らないまま戦っていた

正成は息子の生死を知るために敵陣に突入し、正貞が数人の敵と血戦しているのを見ると
かたわらから槍をふるって敵を突きのかせ、その馬を奪い、正貞を捨てて引き退いた

『寛政重脩諸家譜』より内藤正成、息子を助けた上で見捨てるの巻
途中までは息子を助ける話だと思ってたのに「正貞を棄て引退く」(原文)って……
0831人間七七四年2016/07/11(月) 13:52:57.83ID:y9QtxI0+
息子が助からないのを確認して撤退
こういう冷徹さも戦場では必要
0832人間七七四年2016/07/11(月) 19:40:46.88ID:EKvZ1Uei
>>804とよく似た実話がある。
武田氏の肖像画などを高野山の寺院に収めてあった。
江戸時代も供養されていたのだろうが、支払いが滞ったのか、武田の子孫に遺物を一括返却する
ことになった。武田の子孫は上杉家に仕えていた。そこへ荷物一式を届けたのだが、
武田の子孫はそれを見もせず、受け取りもしなかった。そのため、武田氏の肖像画などは勝手に
処分されたのか、離散。
武田信玄像の太った画像とよくにた別の画像が信玄だと勘違いされて、現在に伝わる。


http://kelog2010.up.n.seesaa.net/kelog2010/image/joukeiin.jpg?d=a0

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/023/201/01/N000/000/001/139716657024254085226.jpg
0833人間七七四年2016/07/11(月) 20:12:49.89ID:K7vw0omF
>>831
そういう話でもないだろ
0834人間七七四年2016/07/11(月) 20:16:11.30ID:c7/Arcse
>>833
いや、内藤正貞は三方原で戦死してるので、そういう話でいいと思うよ?
0835人間七七四年2016/07/11(月) 21:56:27.29ID:jB33rLC1
>>830の後日談

内藤正成が息子・正貞を放置して撤退した後、なんとこの正貞はそのまま敵の首級を得て生還した

しかしこの正貞、天正元年に村越左吉と争論したことが父の逆鱗に触れ、内藤家を放逐されてしまったという
0836人間七七四年2016/07/11(月) 23:12:55.44ID:CMj+2j7o
まーた生還したのかよ
鈴木久三郎といい正貞といい
夏目さんみたいに戦死した方が子孫が目をかけてもらえるのに
0837人間七七四年2016/07/11(月) 23:32:24.51ID:nhZQIK5f
夏目さんはむしろ、親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしてそう
0838人間七七四年2016/07/12(火) 00:21:40.85ID:b0mUZDs6
堀越御所の事

伊豆国下田から北に二里半ほど隔てたところに、堀の内村がある。
そこが堀越御所の旧跡である。
御所跡は田畠になり、堀の内村のかたわらに法本寺(報本寺)という寺があって、
堀越の御所で追福供養を今も毎年日時をきめて執行しているという。
法会を怠ると疾病などが流行すると、土俗の者は言い習わしているとか。

この堀越公方と申すのは足利将軍の氏族政知が堀越の初代で、
その子義通が将軍を相続したともいう。(義澄か?)
その子の茶々丸が、北条早雲に追われて堀の内村の紅花畠の内に隠れていた時に、
北条の追手に紅の中から鶏が飛び出すのを見られたことから、
紅花畠を疑われ、
ついには茶々丸は見つけ出されて害された。
このことから、今はこの村で鶏は飼わず、紅花は作らないそうだ。

ただし茶々丸は政知の子とも義通の子ともいわれる。
茶々丸は代々幼名で名乗っている。もしかしたら次男だったのだろうか。
『中古治乱記』という書には、茶々丸は北条勢に追われて、山のふもとの寺で自害したという。
(耳袋)
0839人間七七四年2016/07/12(火) 07:33:32.07ID:Poe8qw0x
あの時代に伊豆で紅花か
0840人間七七四年2016/07/12(火) 07:37:04.44ID:Poe8qw0x
と思ったら対岸の千葉では平安の頃から栽培していたのか
てっきりもっと北の植物かというイメージがあった
0841人間七七四年2016/07/12(火) 19:34:26.95ID:jgitUDjR
>>804
そういえば海音寺潮五郎が「史談と史論」で
謙信は戦に勝つことだけを考えてる性急な活動家だから高血圧
実際中風で死んでるから高血圧で間違いない
信玄は勝った後の領土保全をしっかりやる沈着で相当非活動的だから低血圧
死も肺病らしいから低血圧っぽいと書いた後で

「現在普通に行われている信玄の肖像画は、大兵肥満、アゴは二重にくくれ、口ヒゲ頰ヒゲを生やし、赤ら顔らしく、いかにも高血圧患者的だ。
これは松平楽翁の「集古十種」に収録されているものがもとで、さらにそのもとは高野山の成慶院所蔵の画像から出ているらしいのだが、果して信用出来るものであろうか。
早稲田大学出版部から出ている「通俗日本全史」の「甲越軍記」の巻頭にかかげられた永井如雲氏所蔵の画像は、まるでこれと違う。瘦せてシワ深く、いかにも胸でも病んでいる人らしく見える。」
と肖像画の真贋を考察してた
0842人間七七四年2016/07/12(火) 19:35:14.49ID:jgitUDjR
安価間違えた
上のは>>832あて
0843人間七七四年2016/07/12(火) 22:20:30.81ID:hV/Nn9+Z
>>832
>誤
> http://kelog2010.up.n.seesaa.net/kelog2010/image/joukeiin.jpg?d=a0

畠山なんとかさん!
0844人間七七四年2016/07/12(火) 22:40:09.01ID:Poe8qw0x
>>832
下のは逍遙軒が描いたものなんだね
0845人間七七四年2016/07/12(火) 23:38:54.48ID:hNYAJEGJ
>>841>>842>>843>>844
下のは逍遙軒(信玄の弟)が描いたものだ。武田菱もぎっしり描き込んであるぞ。

上のは畠山なんとかだ。二引両の家紋が書いてある。
http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/283.png←でかい!
二引両といってもどこに描いているか全然わからんけどな。
http://www2.harimaya.com/takeda/html/tk_zou.html
腹の脇差しの、握りのところにある。それでもわからんけどな。
拡大して見たとしても、菱形になっている。
武田菱じゃないよ。糸で斜めに交差して柄を撒いてあるから、菱形に見えるだけであって、
その下地には、○の中に二 と書いてある。それが二引両。超拡大しないとわからんわ。
0846人間七七四年2016/07/12(火) 23:50:21.21ID:hNYAJEGJ
これが一番解像度が高かった。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/cb/4edaf550d76c97fd831ece21f5463310.jpg
でも二引両がよく見えない。左の太刀にも二引両の家紋があるという。
0847人間七七四年2016/07/13(水) 10:53:53.47ID:Bb/k+4A7
>>846
写実的な絵だな、こんなんあったんだ
0848人間七七四年2016/07/13(水) 20:10:55.53ID:xsHWUkSu
>>832とは別だが
やっぱり若い頃?を描いた信玄像(もうちょっとヒョロッとしてる)と
目鼻立ちが似てるw どっちにしてもちょっとモッサリした印象の顔立ちなんだよなあ
0849人間七七四年2016/07/13(水) 21:26:00.07ID:ICEpYfFT
>>832
武田信清の子孫に一括返納されたのか?
江戸時代に竜芳系の子孫が武田嫡流ってことになったのになんで米沢武田家に返ってきたんだ
それまで高野山に金を納めてたのが米沢武田家だったからだろうか
0850人間七七四年2016/07/13(水) 22:04:22.68ID:yswUSqBa
竜芳系流罪になって金もらえなくて米沢武田家に持ってたんじゃね
0851人間七七四年2016/07/13(水) 22:48:09.91ID:nZuFrBJI
大将の兜、鉛痕

 今冬、赤穂老侯〔美濃守忠賛〕が予の荘を訪ねられた。
そのときの談中で、
「私の祖の三左衛門〔可成〕が着られた兜が今も伝わっている。
鉢の側には銃鉛が半ば打ち込まれた痕がある。
上の方にも十文目の鉛痕がある。これは上にすべったかと思われる。
このような事に遭っても、やはり着ておられたものなのか。」
と話された。

 先年仁正寺侯〔下総守長昭〕の祖の長勝〔初め平左衛門、後に下総守〕が着られた
一谷と称する兜の図を侯が示したものを写しおいた。
この兜には後立がある。大きな版のようなものであった。
これにも銃鉛の痕があると聞いた。

 聞き伝わることには、板倉内膳正(重昌)は、正月元日に天草の城を攻めたとき、
城中の賊が、十文目筒で内膳正の兜を打つと、真向かいに当たり、
内膳はすぐに落馬して死んだ。
徒士は内膳を負って退き、兜を脱いで見てみると、鉢に弾が当たったが貫通していなかった。
内膳の頭は砕けて腐肉のようになっていたという。

(甲子夜話)
0852人間七七四年2016/07/14(木) 08:00:13.60ID:gsTyxJTG
>>848
さいとうたかおが描いた武田信玄のコミックは、太ってなくてイケメンだ。

http://www.suruga-ya.jp/database/pics/game/wg3023.jpg
http://www.suruga-ya.jp/database/pics/game/wg646.jpg
http://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/ra177/users/3/1/9/3/minitika0628-img600x437-1411277796f4fqin15029.jpg

当時は太った姿が信玄だと信じられていたので、さいとうたかおのアレンジだったが、
予想に反してじつはヒョロッとしてる方が真実だったようだ。
ちなみにこのマンガ作品は屈指の名作。
0853人間七七四年2016/07/14(木) 08:10:44.19ID:gsTyxJTG
>>849>>850
米沢武田家に持っていったのに「受け取らなかった」んだ。(原文は、見もしなかった)
困った高野山は、手紙を書いて、荷物一式の名前をそこで記している。
この手紙が現存しているから、武田信玄の画像はその当時、はっきり現存していた。

このあとがややこしい。受取人拒否によって行き先に困った品物の数々は、
つまり、しょうようけんの書いた信玄の肖像画は、江戸の別の寺の所蔵品となってしまった。
そこで、その絵の箱に、吉良頼康だという名札をつけてしまったものだから、混乱のきわみ。
0854人間七七四年2016/07/14(木) 08:15:58.66ID:gsTyxJTG
三回忌とか七回忌とか百回忌とか、
いちいちすげーカネを坊主から請求されるからな。
米沢武田家では今までたまった滞納分を、品物交換と一緒に要求されて嫌になったんだろ(推測)
0855人間七七四年2016/07/14(木) 12:49:32.68ID:FYArAkRa
あっはい
0856人間七七四年2016/07/14(木) 19:14:16.71ID:GagDrAPh
慶長19年、東禅公(伊東祐慶)は江戸に出府され、9月7日、江戸詰の諸大名と同じように、
坂井讃岐守邸にて会合があり、徳川家に対して二心無き誓書を奉った。

10月、両将軍は大阪へと出陣され、祐慶も陪従にて、同月26日、京都に到着した。
この時伏見の伊東邸には平部長右衛門尉俊直が在番していたが、祐慶が京都に到着したと聞くと、
手元にあり合わせた金銀などを取り集め夜中に邸を忍び出て、かろうじて京都にこれを届けた。

しかしこの持参した金子も多分というわけではなく、軍用には大きく不足していた。
当面の軍費として伏見邸の金銀を当てにしていた伊東家の人々は困り果て、どうするべきかと相談していた所、
大阪邸に出切りしていた商人に、尼ヶ崎屋七右衛門という者があり、彼を尋ね出して才覚をしよう、
という事となり、様々に尋ねようやく見つけ出した。

召しだされた尼ヶ崎屋七右衛門に、伊東祐慶は直に対面し、金子の才覚を頼んだ。
しかし七右衛門はこれを断った

「金銀は所持しているものの、今回の騒動を受けて、或いは人に預け、或いは深く蔵し、
或いは遠国へと運び置いて、分散して避難させていますので、急にこれらを集め、参らせる
手立てが有りません。」

これを聞いて祐慶は深く憂慮した様子を見せ、それに対し七右衛門も忍びがたく思い、
金の椀10人分の揃いを近所の人家に預け置いていたのを持参して

「こればかりの品では、御軍用の費えにはならないでしょうが、せめての志の印として
この品なりとも献じさせてください。」

このような事が有り、伊東家の者達はそこから京都を発って山崎澤に一宿したが、
大阪に到着するまでの用意すら心もとない状態であり、いかがすべきかと再び評議して、
京都の金融業者である岸辺屋、金屋の両人に相談する以外にないと結論し、借家原源左衛門尉満実を
京都に派遣した。この時、名のある品ではないものの、手元にあり合わせた墨跡・茶入れの二品があったのを、
先ずはこれを質として頼み談ずるよう命ぜられたので。源左衛門尉はこの二品を持参し、先の
尼ヶ崎屋七右衛門を案内者に頼み、岸辺屋、金屋の両人に申し入れた。

両人も初めは中々引き受けようとはしなかったが、七右衛門が間を取り持ち。様々に説得したので、
両人も「已むを得ない」と、判金10枚を差し出した。

こうしてようやく、一時の急を免れるという、実に哀れなる有様であった。

(日向纂記)

伊東家、大阪冬の陣に参陣し、お金がなくて大変だったというお話
0857人間七七四年2016/07/14(木) 19:39:48.68ID:gsTyxJTG
幕末のころの借金の多さは有名だが、江戸時代の初期から金欠だったんだな
0858御存じ豊後の大友さん家が、キリスト教にハマるきっかけ。2016/07/14(木) 20:31:40.10ID:VYAaTYrJ
宗麟パパは熱心なキリシタン信者として有名だが、それは彼が晩年になってから。
確かに若い頃からキリスト教に興味津々で、教会に対しても面倒見がよかったが、
1575年以前までは、本人がいちばん熱中していたのは禅の教え。
臼杵にでっかい禅寺(寿林寺)を造らせ、京の大徳寺から偉いお坊さんを招聘して、
次男の親家を、成長後はそこの住持にさせようと考えていたという。しかし…


「国主の若い息子(次男)はなんとしても仏僧になりたがらなかった。彼は僧院で書物から学ぶどころか、
 武器をとり、撃剣、相撲、その他それに類した修錬に専念して、
 もし国主が自分を無理やりに僧侶にするつもりなら、 切腹して果てるか海で投身自殺する、と言った。
 国主は息子がどんなに恐るべき、かつ激しい性格か知っていたので、彼にとって息子のことは
 重荷であり憂慮の種であった。そこで彼がこの件でフランシスコ・カブラル師に助言を求めた時に、
 司祭は彼に、その息子が冷静になり、その激しく頑固な性格が克服されるためには、
 殿下が彼をキリシタンにさせる以外の救済法とては思い浮かびませぬ、と説いた。
 この忠告は国主には望ましいものに思われ、フランシスコ・カブラル師はその息子に
 理解力に応じて教えを授けた後、臼杵において洗礼を授けた。
 そして彼にドン・セバスチアンの教名を与え、国主は受洗の際に列席した」 
 (フロイス日本史・豊後編U)


性格矯正のきっかけを与えられめでたしめでたし、と言いたいところだが、
結局この次男は「もともと性格が頑迷すぎる」上に虚栄心も強すぎたので
改宗も大して効果がなかった、と本書でバッサリやられてる。
親心を理解しない次男に対してもフロイスさんはじつに手厳しい。
0859人間七七四年2016/07/14(木) 23:19:46.26ID:60TOaBpq
そんなにバトル派だったのに
朝鮮で逃げた卑怯者って言われちゃうのか
0860人間七七四年2016/07/14(木) 23:27:58.79ID:MlRhcbH5
古兜に鉛痕ある事

前に赤穂侯の祖〔森三左衛門可成〕、仁正寺の祖〔市橋下総守長勝〕との兜に銃鉛の痕があることを言った。
後に聞くと津侯〔藤堂氏〕の祖高虎、大阪陣のとき着られていた兜をその家に伝わっている。
形は出っ張っていて、その高さは一尺を超えている。
目立つ兜であるが、鉢に鉛が二つ当たった痕がある。
一つは鉛弾がゆがんであるという。
かの侯の臣が正しく見た話である。

(甲子夜話)
0861人間七七四年2016/07/15(金) 00:44:28.04ID:YKycFMfZ
>>859
君主の命令は絶対だからね
0862人間七七四年2016/07/15(金) 01:49:02.09ID:62hdoRhR
>>859
朝鮮で逃げて、天下一のヘタレ言われたのは
例の長男じゃなかったけか?
この話の主役の次男も、朝鮮で一緒に逃げてたのか?
0863人間七七四年2016/07/15(金) 04:01:18.61ID:d7hDg5lw
酒井忠次は子息を連れて、徳川家康の御前で、「倅のことを頼み奉ります」と、
申し上げた。すると家康は、「子はかわいいものだ」と、言った。

これは、松平信康を生害の時、忠次は何とかして庇うべきであったのにという
嘆き恨む心から出た言葉ではないかと、その時分に申したとのことである。

(酒井左衛門尉子息ヲツレ権現様御前ニテセカレ事ヲ頼奉リ候ト申上ル権現様
子ハカハユキモノナリト御意ナサレ候コレハ岡崎様ヲ御生害ノ時左衛門尉何トソ
カカヘ奉ルヘキ事ヲト御歎恨ノ御心ヨリノ御諚カト其比申候由)

――『武功雑記』

周囲が噂したという話で、家康の真意は不明なのね。
0864人間七七四年2016/07/15(金) 07:06:25.47ID:wNqh77gK
出来上がった兜や鎧は、鉄砲で試しに撃って強度を確認することがあり、
その痕が残っているものが現存している。
でも実際の戦いで撃たれた痕だということにしといた方が、当時としても語られ易いだろうねえ。

遠距離からの弾なら跳ね返すこともあるので、しかし100m先から鎧兜に試し射ちしても
狙った真ん中に思うように当たらないので、わきっちょの不自然な場所に弾痕が残ったりする。
かといって近づいて撃つと容易に貫通してしまう。
0865人間七七四年2016/07/15(金) 21:07:49.80ID:TKcwYwA0
元和元年四月、関東と大阪が再び手切れと成り、両将軍家は関東より、大阪に出陣するとの由聞こえたため、
日向飫肥の伊東祐慶も早速軍勢を集め、五月八日、折生迫にて乗船し順風を待っていた所、
『早くも大阪は落城し、事既に静謐に及んだ』との報告が届いた。
そこで祐慶は軍勢を残して上洛した。

ところが、諸大名は程なく帰国の暇を賜ったのに、祐慶にはしばらく何の沙汰もなかった。
「これは重要な事態に遅れた故ではないか」
伊東家の人々はそう考えて心配していたが、幕府が、伊東家が遠く海上を隔てた遠国であるので
風波の便り、自由にならぬこと明確であると聞き届けたのか、ややあって暇を賜り、同年八月、帰国された。

この年、天下も大方静謐に治まったため、将軍家より一国一城の命があった。
これによって曽井、清武、紫波、洲崎、南郷、酒谷など、数ヶ所の城が破却された。

(日向纂記)

伊東祐慶、湊で風待ちの間に大阪夏の陣、終わる。というお話。
0866人間七七四年2016/07/15(金) 22:47:22.79ID:DLoXqMa1
ラスボスなら普通に改易だろ
仕事出来ないにも程がある
0867人間七七四年2016/07/15(金) 23:05:33.14ID:ZgAFpF8J
権現様「下手に手柄を立てさせると恩賞が大変」
0868人間七七四年2016/07/16(土) 02:52:37.83ID:+ouk6C8f
ある時、有楽公(織田長益)が千利休のところへお訪ねになった際、
折りしも茶入に古い蓋を取り合わせていたのだが、そのうちの

大ぶりな蓋がしっかりと合わなかったのを、「かえって趣がありますね」
と言って、利休は有楽へ見せ申した。

その後、有楽公が茶入に件の通り、古い蓋を取り合わせて利休へ
御見せになると、利休は、

「このような物数寄(趣向)を一概に良しとお思いになったのですか?
この茶入には、新しい蓋が良く合うものですよ」と、言った。

――『茶話指月集』
0869人間七七四年2016/07/16(土) 09:55:15.28ID:tMIgvJ5F
朝鮮の儒学者が、日本の武将が茶のわびさびを大事にして様子を見て
「ガラクタに大金を支払っている」
と茶碗をガラクタ呼ばわり。
0870人間七七四年2016/07/16(土) 11:49:16.05ID:aIf/hiix
そりゃそうだろ
茶碗として最上級にランクされる高麗茶碗なんて朝鮮では庶民の雑器だし

ルソンの壺に至ってはフィリピン現地人のトイレ説まである
0871人間七七四年2016/07/16(土) 13:29:41.62ID:uPjsOdFb
価値観の違いですよ。でもそのお陰で朝鮮は莫大な貿易黒字を叩きだし首都に下水道などインフラ整備をして栄華を極めました。
また対外的には對馬を併合して日本の兄貴分としての地位を確立したのです。
しかしながら兄に嫉妬した猿の王が反乱を起こし首都を焼き払い猿しか住めない地に変えてしまったのです。
こうしてみると李氏朝鮮時代の人民が竪穴などという粗末な家に住んでいたのも納得出来るね。
0872人間七七四年2016/07/16(土) 13:52:29.31ID:iUmjfQDL
つまり李氏朝鮮は
海禁政策をとりつつ貿易を大々的に行い、
貨幣が回らず物々交換ばかりなのに外貨獲得に成功したわけですか
0873人間七七四年2016/07/16(土) 15:23:35.52ID:TnXjiOXL
浮世絵もわれもの注意の緩衝材に使われてたし・・・
0874人間七七四年2016/07/16(土) 16:16:09.50ID:uPjsOdFb
>>872
ん?日本と朝鮮の歴史くらい直視しろよ倭猿w
0875人間七七四年2016/07/16(土) 22:10:56.87ID:yv6kakMb
かまってちゃん手段を選ばなくなってきたな
0876人間七七四年2016/07/17(日) 00:59:40.81ID:sgkG4rsU
陣中に人気たつ事

陣中には人気が立つものだという。
その気に生死吉凶があり、物馴れている人はよく見分けるそうだ。

大阪御陣のとき、冬陣に城中の気を望むと、
晴天の日でも薄暗くてものが見分けがつかないほどであったそうだ。

夏陣には、曇った日も望み見ると城中が白けて全体が一目でよくわかったという。
これが生死の気である。

(甲子夜話)
0877人間七七四年2016/07/17(日) 10:05:32.32ID:T2MKq6+b
どす黒いオーラってやつね
0878人間七七四年2016/07/17(日) 10:20:03.64ID:WlS5rEZ3
逆だろ。冬の陣でまだまだ戦える頃は気が濃くて見晴らしが効かないぐらいだったのに、
夏の陣では気も薄れ、白けてしまっててた、って話だろ。
0879人間七七四年2016/07/17(日) 11:13:37.16ID:AY6uwIpG
水蒸気
0880人間七七四年2016/07/17(日) 12:29:09.99ID:ttCH50fC
コミケ雲みたいなもんかい
0881人間七七四年2016/07/17(日) 19:03:57.12ID:JId7a0hS
桶狭間で信長が「かかれ!」と号令かけたときは
軍勢が一気に走り出したので黒煙が上がったぞ
0882人間七七四年2016/07/17(日) 19:08:57.38ID:gjkNhh9Q
講釈師見てきたような嘘を言う
0883人間七七四年2016/07/17(日) 23:10:12.50ID:vJp+rgH5
栗山備後(利安)がある時、こんな話を聞いた

「何某が高い馬を買ったそうだよ。」

備後が「いか程で買ったのだ?」と尋ねると

「銀二十枚ばかりだそうだ。」

これを聞いた備後はたちまち不機嫌と成った
「それほどたわけた奴とは思わなかった!沙汰の限りだ!
馬というものは、どれだけ高値でも二匹の役はせぬものだ!ことに死にやすく、また怪我もしやすく、
少しのことで捨てることになるのが馬だ。
是非に及ばぬ沙汰の限りの分別違いである!」

そう罵ったので、言った者はなんとかその場を取り繕うとした
「いやいや、何某は身代も続き、とりわけ財産も多くあるので、たいていの損では痛みはないよ。」

「勿論あいつはそうだろう!しかし彼より知行の少ないものたちは、擦り切れ疲弊している。
そんな中そのような話を聞けば、少しの貯えであっても自分のために使い捨てるような事の出来ない
者達は気をくさし、事によっては、面目ない事態にもなるかもしれない。
彼のはらった馬の代金を、宜しき衆に分配してやりたいよ。
各肝入に売らせれば、銀2,3枚にて3年5年役を果たせる馬などいくらでもあるだろうに!」

そう語った。

(古郷物語)

栗山備後、高額の馬を買った同僚に憤る、というお話。
0884人間七七四年2016/07/17(日) 23:30:13.68ID:7EQPQjUy
優秀な牡馬なら種牡馬にして何頭もいい馬を得る事が出来る

目先の事しか分からない脳筋かっぺの浅はかさよ
0885人間七七四年2016/07/18(月) 04:18:19.80ID:B8ZnNnMP
競馬シミュレーションゲームっすか?w
0886人間七七四年2016/07/18(月) 08:06:16.00ID:fhWzRjtw
末端消費者がなぜか繁殖を試みると考える不思議脳だなる
0887人間七七四年2016/07/18(月) 08:21:41.87ID:smVtlRxu
>>881 桶狭間で信長が「かかれ!」と号令かけたときは
    軍勢が一気に走り出したので黒煙が上がったぞ
>>882 : 講釈師見てきたような嘘を言う

黒煙が上がったことを講釈師が見てきたような嘘、と指摘しているのなら、
黒煙は、これは信長公記に載っている実話だよ。
「すは、かゝれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かる」太田牛一は桶狭間合戦に参加した模様。
0888人間七七四年2016/07/18(月) 08:27:26.27ID:smVtlRxu
>>883
現代に例えるなら、1000万円の高級車を旦那が買うのを、聞いた他人が憤って、
100万か150万の軽自動車をその奥さんや子供達に各自買ってやればいいのに!
というようなものか。ごもっともである。
0889人間七七四年2016/07/18(月) 08:57:37.96ID:YLmNOK4Z
>>887
最前線にいた太田が後ろを振り返って黒煙をねえw
逃げてた途中に見たんじゃねえの?
0890人間七七四年2016/07/18(月) 09:43:57.82ID:9EjVIEAy
後の戦国ブリーダーである
0891人間七七四年2016/07/18(月) 12:01:58.59ID:smVtlRxu
>>最前線にいた太田が後ろを振り返って

はあ?。よくそんな連想ができるねえ。
最先頭にいたんじゃなくて、集団の中ごろにいたんだろ。
部隊の先陣から突っ走りだしたら、後続の部隊は土煙の中を走ることになるわけよ。

グラウンドで集団がいっせに走り出す運動会(マラソンとか)を思い出せばすぐわかると
思うけど。うしろを振り返って、土煙がでてると気付くってか。ぷぷっ
0892人間七七四年2016/07/18(月) 13:56:01.77ID:Jho+/2z/
>>883
馬を車に変えれば現代でも通用するね、いつの時代も変わらないなぁw。

>>881
まあ軍勢が動けばそりゃ土煙上がるよね。
0893人間七七四年2016/07/18(月) 14:06:10.74ID:YLmNOK4Z
>>891
お前って想像力豊かだね(笑)
いつもそうやって妄想してるのかい?
0894人間七七四年2016/07/18(月) 16:35:03.52ID:F5clezwo
桶狭間て直前まで豪雨だったろうに土煙あがるもんだろか
泥はねまくりてのならわかるけど
0895人間七七四年2016/07/18(月) 17:05:11.98ID:qAIDD37Y
>>888
その例えで行くと、繁殖して云々っていうのは高級車を買ってコピー品作れば元取れるぜっていうのに近いな
特許とか著作権的なものは置いておいて、1エンドユーザーにそれだけの技術と設備があるのかっていう
0896人間七七四年2016/07/18(月) 19:34:47.95ID:7YsXxWIT
所詮太田も講釈師と変わらんってこった
0897人間七七四年2016/07/18(月) 20:28:10.19ID:MTCAvQpS
>>895
馬産はコピーとは違うと思うがの
ま、どこかみたいに品種改良したつもりが体が小さくなっていっちゃうこともあるだろうけど
0898人間七七四年2016/07/19(火) 00:52:27.28ID:7WZz4ZTv
隠逸の気性の事

坂和田喜六(佐川田昌俊)は、大猷院様(家光)御代までには世にその名が広まっていた。
その頃諸家で文武両道の達人を吟味して、こちらには一人、あちらには二人等と調べることがあった。
そのころ公けでもその御評議があり、

「文武の達人といえば坂和田喜六であろう。」

との上意があり、永井家を召されて

「そちの家来の坂和田は文武の英才である。
眼をかけて遣う様に」

との御意があったので、永井も大いに面目を施して、立ち帰ってさっそく喜六を呼び出した。

「今日、かくかくの上意があった。誠にその方のおかげで家に光輝をなせた。」

と殊のほか喜ばれたので、喜六はこれを聞いて

「未熟な私めにそのように御褒めがあったことはありがたいことです。」

と厚く喜んだ気色であったが、その翌日にどこに行ったのか妻子にも言わず、
家宝を捨て置いて、遁世したという。

どのような所存があったのか、一時の英名があれば、偏執の誹りも出てきて、
かえって英名を落とすことになるとの心であろうか。

(耳袋)
0899人間七七四年2016/07/19(火) 12:40:58.35ID:z7VvuQ5M
>>898
草だったのかな?
0900人間七七四年2016/07/19(火) 13:27:09.16ID:8lILfdzV
そのうち大猷院に召し出されるかもしれないのが嫌だったんでしょ
0901人間七七四年2016/07/20(水) 02:01:05.37ID:zmeUVn88
今の小普請衆か、もしくはわずかな知行の人の中に、清康様の御後胤がいる。
家紋には一つ引をつく。この家には常に何たることもないが、
不幸があって跡目を仰せつけられたときは、
必ず弔い料として金子百金かを賜ることという。
『林子(術斎)曰く、妄説であるとか』


(甲子夜話続編)


この頃になると、こういったゴシップも流れるようになるのか
0902人間七七四年2016/07/20(水) 08:16:14.81ID:Gh41KMSN
水戸光圀公は、産まれるとき水子として処分されそうになった。
でも命は助けられて、成長して、名君?となった。

で、水戸光圀公はイケメンでモテまくっていたが、女に手をつけて妊娠させると
その子は水子にして処分した。
でも全員処分ではなくて、産まれた子もおり、大きな農家(武士ではない)に
あげちゃったりしている。
0903人間七七四年2016/07/21(木) 09:30:10.82ID:Ev0izHpn
ん?普通じゃね?
0904人間七七四年2016/07/21(木) 23:09:29.91ID:6X1DPJep
 雪舟等楊は室町から戦国にかけて活躍した画家であり、明国で修業した後に帰国してからは
日本各地を旅して多くの水墨画を残した。
 明応8年(1499年)の頃の雪舟は山口の大内氏に仕えて、明国から購入した絵画の鑑定をするようになった
 その年の夏、雪舟は主君の大内義興に呼び出されて一幅の山水画を見せられたが、その絵を見た雪舟は
なぜか何も答えなかった。
「この見事な絵は先日、明国から大金を支払って取り寄せたものだが落款(作者の署名、印)が無いので、
誰が描いたか分からぬ。そなたはこの絵をどう見る?」
 大内義興はそう言って意見を求めると、雪舟は口を開いた。
「おそれながら、この絵は私が明国にいたころに描いたものでございます。自分の絵について
とやかく意見を申すのはひかえとう存じます」
 これを聞いた義興は激怒して、「落款がないからといって、自分の絵などと言うとは不届き者め!
もうよい、さがれ!」と叱りつけた。
 それから、雪舟は石見の国へ旅立ったまま山口へ戻ることはなかった。
 ところが、その後になってこの絵の裏側を剥がしてみたら、雪舟の僧名の「等楊」の字が見つかった。
この山水画はまぎれもなく雪舟の作であったのだ。
0905人間七七四年2016/07/21(木) 23:14:53.21ID:NvgDwZXH
昔日本の偉人を一ページずつ漫画にした学習漫画があって
雪舟の話がこれだったのを思い出した
0906人間七七四年2016/07/21(木) 23:51:26.85ID:/tuRtWGf
雪舟はアーッじゃなかったからか?
0907人間七七四年2016/07/22(金) 00:29:53.71ID:VyMMLeHY
>>906
息子と勘違いしてる?
0908人間七七四年2016/07/22(金) 01:29:56.82ID:+EHNhqgx
なんで剥がしてみようと思ったんだろ
0909人間七七四年2016/07/22(金) 05:55:13.27ID:RlPreye2
相剥ぎしようとしたんだろ
0910人間七七四年2016/07/22(金) 07:12:34.27ID:i21XoMp7
>>905
涙で描いたネズミが縄切った話だろ
0911人間七七四年2016/07/22(金) 15:18:09.83ID:8ZNSG2+n
>>908
仕立て直しでしょ
0912人間七七四年2016/07/23(土) 21:52:05.19ID:kT6IfWmu
中国産のDNAなめんな
0913人間七七四年2016/07/24(日) 04:12:28.94ID:Ny5WpbVL
宗易(千利休)は花の頃(春)に、ある侘(茶人)を伴って東山へ参られ、
道中でその人に「その方は宿に釜を仕掛けて出なさったのか?」と問うた。

これにその人は、「今日は早朝から御供いたすので仕掛けておりません」
と、答えた。これに宗易は、

「いやはや、そのような嗜みで侘びがなろうか。これから帰って、仕掛けて
いらっしゃい。晩に誰が寄るかも分かりませんよ?」と、言った。

――『茶話指月集』
0914人間七七四年2016/07/25(月) 02:35:17.88ID:8T2sXMC4
滝川一益が武蔵野合戦(神流川の戦い)に打ち負けて撤退した時、
極暑の頃だったために馬はたいへん疲れ、全身が汗にまみれた。

川を馬に乗って渡る時、馬に水を与えた者と与えなかった者がいた。
水を与えた者の馬は、10町ほどでみな行き倒れたのだが、与え
なかった者の馬は、別段の支障はなかったという。

――『武将感状記』
0915人間七七四年2016/07/25(月) 07:38:19.20ID:qe87IzyC
体育教師「よし、運動中は水飲むなよ!」
0916人間七七四年2016/07/25(月) 07:44:13.86ID:Ej7RqOj7
>>914
なんでだ?
0917人間七七四年2016/07/25(月) 07:47:28.36ID:qe87IzyC
人間なら水だけで塩分与えないと帰って血中の塩分濃度が低くなり、
血中の塩分濃度を高くするために体外に水分を出そうとして
水を飲むとよけいに脱水状態になるとか
0918人間七七四年2016/07/25(月) 08:02:43.74ID:JZ2D5XOT
水中毒ってやつか
水ばっかり飲んでるとバテるぞとよく言われたっけか
0919人間七七四年2016/07/25(月) 17:20:06.39ID:8xAJT9gO
ノドが乾いても水を飲ませてもらえず
疲れたら馬針で脚をブスブス刺される
戦国時代の軍馬は地獄だぜぇ
0920人間七七四年2016/07/25(月) 17:53:34.18ID:yFDPg3Ct
大阪城の夏の陣にて真田の兵も壊滅して、あとは城内へいよいよ押し寄せてくるばかりになった。
そのときいた「おきく」は、危機感にも気付かず、そばを食べようとして下女に調理を命じた。
下女は台所に行ったところ、城内のあちこちが燃え出しているのをみてびっくり。おきくも
ようやく事態のヤバさを知り、脱出することになった。
出ようとしたら黒い鎧に身を固めた武田(竹田)永翁がいた。出てはいけない、と言ってたが
おきくたちは無視した。武田(竹田)永翁はこのあと2時間以内に自害して死ぬことになる。
建物から出たおきくたちは、豊臣家の立派なひょうたんが、地面に投げ捨てられているのを
発見。敵にとられたら恥ずかしいので、ひょうたんをバラバラに打ち壊した。
回りは味方の武将も敵兵もおらず、シーンとしていた。(本能寺の本城惣右衛門覚書のよう)
そのとき銃弾除けの竹柵のかげから、敵兵がひょっこりと顔を出し、サビだらけの刀を突きつけて
カネを出せといった。金塊(70万円相当)を2つ持っていたので、一個あげて、藤堂の陣まで
連れて行ってくれるよう頼んで、着いたらもう一枚あげると言ったら、その兵は道案内して
くれることになった。地獄の沙汰もカネ次第、とはまさにこのことである。
道案内されて歩いていたら、淀君の妹の常高院を発見!。大阪城が落城するというまさにそのとき
脱出をしていた最中であった。淀君らは別の建物に退避していって翌朝、発見されて死ぬ。
おきくは常高院らに付いていくことにした。サビ刀の兵にカネを払ったかどうかは知らない。
常高院は兵士におんぶされていた。別の兵士が常高院の足を抑えていたというが、当時は着物
なので、常高院の足が剥き出しになるのを防ぐため、足をかかえて隠していたのかもしれない。
高貴な身分の人なので。常高院一行は教われることもなく、家康の軍勢の方にて保護された。
処刑される恐れもあったので覚悟を決めるよう言われたが、家康から自由を保証されたので
助かった。以上、大阪城からの脱出体験記でした。カネは必要で6文銭では全然足りない。
0921人間七七四年2016/07/25(月) 19:42:19.90ID:T9VmpO8Z
>>920
面白かったけど読みにくい、改行してくれると助かる。
0922人間七七四年2016/07/25(月) 23:20:28.70ID:Yfnqv6S2
小野次郎右衛門出身の事附伊藤一刀斎が事

 伊藤一刀斎は剣術を広めようと諸国を修行していた。
淀の夜船で大坂へ下っていたときのことである。
船の船頭は力量が優れていた者であり、一刀斎が刀を携えていたのを見て

「御身は剣術でも修行されているのか。
剣術は人に勝つ道理だというが、我の力にはあまねく剣術の達人でも敵うとは思えない。手合わせできないだろうか。」

と言う。一刀斎は様子を見て、かなりの強剛に見えたので、どうかと思ったが、
どうせ剣術修行の出てきたのだから、たとえ命が果てることとなっても手合わせを辞退をするのは本意ではないと、
互いに死を約束して陸に上がった。
 船頭は櫂を片手で持って拝み打ちで一刀斎を打ちにいったが、身をかわされ外してしまい、
力が余ったためだろうか大地へ櫂を打ち込んでしまった。
引き抜こうとしたところを、木刀で櫂を打ち落とされ両手を押さえられたので、船頭は降参し弟子となって諸国へ付き随った。

 元来力量が優れていたので、国々で立ち合いの時も一刀斎は手を下さず、大抵は船頭が立ち合い、いずれも降参させて、門弟とさせる者も多かったという。
 しかし元来は下賤の者で、その上、心ざまは真っ直ぐではなかったので、一刀斎に降参したのを遺恨に思っていたと見え、
立会いでは敵わないと夜陰に旅泊していたときに一刀斎が眠っているとみたら、付け狙う事数回に及んだが、
一刀斎の身の用心に隙間がなく、むなしく江戸へ随ったていたという。

 江戸では将軍家から一刀斎を召抱えたいとの話もあったが、諸国修行の望みがあるのでとお断り申し上げた。
門弟の内にふさわしい者はいないかとお尋ねがあったので、小野次郎右衛門を推挙して、召抱えることに決まった。
 これに、かの船頭は大きく恨み

「我は最初から一刀斎に随い、共に流儀を広めた功がある。
このたび、将軍家の御召しに末弟の次郎右衛門を推挙した事は心外である。
全く生きてきて良いことが無い。次郎右衛門と真剣の試合で生死を決めたい。」

と申し上げると、一刀斎は

「その方は、最初から随身していたが、これまでたびたび我を付け狙ってきた事は覚えているだろう。
今まで生かしておいたのは格別の恩徳のためだというのに。
しかし次郎右衛門と生死を争いたいといのは望みに任せるとしよう。」

と次郎右衛門を呼んでこれまでの委細を話し、勝負せよと申し渡した。
同時に次郎右衛門へ伝授の太刀を許した。

立会いのとき、次郎右衛門の一刀で船頭は露と消えた。

 さて次郎右衛門は召しだされて、牢内の罪ある剣術者を選んで立ち合いを仰せ付けられた。
これもまた次郎右衛門が妙術を顕わして勝ったので、千石で召抱えられたというそうだ。

(耳袋)

船頭の命までは奪わない甘い展開はなかったわけだ
0923人間七七四年2016/07/26(火) 07:02:44.90ID:I4E7S5xh
牢内の罪ある剣術者を選んで立ち合い って最初から処刑前提で選んでいるだろ。
グラディエーターという映画では、皇帝が勝てるように最初から対戦相手にはケガを負わせてから
出場させていたけど。
0924人間七七四年2016/07/27(水) 04:44:40.19ID:Kwaz3sVL
(本能寺の変の時、)尾張国の水野監物(守隆)は明智(光秀)に
従い、翌日に明智が安土城の殿守へ上った時もこれに伴った。

その為、当時の人は“非人”と言ってこれを非難した。明智の死後、
終いには監物は牢人となったのであった。

――『当代記』
0925人間七七四年2016/07/27(水) 13:25:08.35ID:K9rTlUr0
>>923
こういうのは死にもの狂いの人間相手に勝てるか、っていうある種定番のテストだよ
死刑囚に「勝ったら無罪放免にしてやる」って言って戦わせるの

家中の人間に本気で相手させると遺恨が残ったりするけど
死刑囚なら使い捨てに出来るから適任なの
0926人間七七四年2016/07/28(木) 11:41:38.66ID:X8KUo6QX
 駿府宮ケ崎という所の町人滝善左衛門は、常に神祖の御囲碁の御相手として御側近くに出ていた。
ある日神祖が鷹狩を御遊ばせられていたときに、途中にその者の家の前を通られた。
不意に中へ入られると、ちょうど家族皆で飯を食べていた。
そこで、直々に御共に参るべしとの仰せで、善左衛門は召し連れられた。

 翌日善左衛門はいつものように囲碁の御相手として出かけたら、
いつにもなく神祖の御面色が荒々しい。

「お前は後々家の相続が上手くいかないだろう。」

と仰せがあり、善右衛門は大いに驚いた。

「どうしてそのような仰せをなさせるのか」

と伺うと、

「お前達の身分で白米の飯を食べる心得では、なかなか相続ができないだろう。」

と仰せであった。善右衛門はすぐにたくらんで

「さすがは身分の高いお方であられる。身分の低い者の食物を御存じでない。
昨日の飯は、豆腐かすをかて飯としたもので、とりわけ白くも見えるものです。」

と欺きますと

「そうであるならよし。」

と仰せられて、御面色も解けられて、いつものように御相手を仕り退出した。

善右衛門は家に帰って、

「不届きにも上を欺いてしまったので、この後は必ずその言葉を違えてはならない。」

と米にかすを混ぜて炊き、そうでないときは膳にかすを付けて出すことに決め
子孫へも言い贈った。

 その子孫も豪商で、近い比まで代々栄えていたが、ついにその家は絶えたという。
絶えた者は奢侈が分を超えたことも多く、能舞台をも建てたほどであるという。
このような御教戒に背いて、自分の祖の訓示も忘れたら、このような事も有る事であろう。

(甲子夜話)
0927人間七七四年2016/07/28(木) 23:49:24.36ID:8e8udGw4
ポケモンGOプレイヤー、公園が閉門し閉じ込められる 車20台が出口で立ち往生…山形

スマートフォン向けのゲームアプリ「ポケモンGO」が人気を集めるなか、山形市中心部の公園で27日夜遅くまでゲームをしていた人たちが、門が閉じられたため一時、出られなくなるトラブルがありました。

山形市中心部にある霞城公園には、「ポケモンGO」のアイテムを獲得できる「ポケストップ」と呼ばれる場所が複数か所、設定されています。

この公園を管理する山形市によりますと、27日午後10時ごろ、いつもどおり公園の門を閉めましたが、その後「公園から車を出せず困っている」という連絡が相次いで寄せられたということです。

当時、車が出入りできる公園の北門には20台ほどの車が立往生していたということで、市は急きょ、警備会社に連絡しておよそ1時間後に門を開放する措置を取りました。

最上義光の罠か…
0928人間七七四年2016/07/29(金) 00:42:50.57ID:qYW8xHbD
武勇実談の事

戦国が治まり太平に成りました頃まで長生された老人が、
〔此の老人の名を聞いたが忘れてしまった。問い質したうえで追って申し伝えたい、と川尻氏は言った。〕
集会にでて雑談していたとき、年若い輩が戦場に出て功をなしたいとの事を狂い語ると、
かの老人は笑った。

「それは大きな了見違い違いじゃ。
我らは数度戦場に出たが、なかなか恐ろしくて、かねての心がけはできないものじゃ。
我らはある日の戦で、伏勢の中に組み入れられて草が高い林の中に埋伏しておったが、
その時の心に、
『ぜひとも、敵よこの道を過ぎてくれ...』と思っておった。
遥かに馬煙が見えた頃には、いよいよ恐ろしくなり、
『今度の合戦が済みましたら武士を辞めましょう。』
とまで思うが、
敵兵が通り過ぎる頃に合図が出て打ち出るに至ると、さほど恐ろしく思わず、
味方の馬に踏まれたり、打ち者に当たったりして討ち死の数に加わる者もあるが、
その期に至っては何とも思わん。
籠城にも数度行ったが、このときも再び武士にはなるものかと思い詰めた事もあったが、
戦が散った後は、また辞めようなどという気は失せるんじゃ。」

と語ったという。

そうでもあろうという実情の物語だと、聞いたままに記した。
かの老人の物語に
「我が臆した心底だから、こうなのじゃろうと思われるだろうが、
そのときの同輩の者はいずれも同様なのじゃ。」
と話したという。

(耳袋)

いかにもなお話ですね
0929人間七七四年2016/07/29(金) 03:19:32.15ID:stCyV8p8
慶長17年7月11日、黄昏後に駿府御城下の市町において、飯田伝吉(元高麗人)
と、朝比奈甚太郎ならびに松野勘助(徳川頼宣の近臣)が喧嘩した。

その子細は、朝比奈と松野が飯田に対して悪口を吐き、あまつさえ帯刀を抜いて
切りかかったため、伝吉はこれを黙ってはおれず、松野と従僕をともにたちまち
殺害した。朝比奈も3ヶ所傷を受けて倒れ伏したので、飯田は退き行方をくらませた。

町司・彦坂九兵衛(光正)は、この旨を大神君(徳川家康)のお耳に入れ、大神君は
飯田の神妙の働きを感心なされて、速やかに飯田を呼び戻しなさった。

また、朝比奈の過言の咎と未熟の振る舞いに御不興なされ、朝比奈に切腹を仰せ
付けなさったということである。

――『関難間記』
0930人間七七四年2016/08/03(水) 04:44:07.30ID:J5G5X7Nr
天守とは以前は天主と書いて、櫓の上層に天帝を祭ることであったとか。
しかし上杉謙信は天主の称を憎んで、これを改めて天守とし、
須弥の天守は毘沙門であるとして、この神を祭ったことから、今は皆天守と書いてきていると。
(甲子夜話)

謙信が天主を憎んだというのは、バテレンの事ですかね
天守は南蛮の影響?
0931人間七七四年2016/08/03(水) 06:55:06.85ID:vkcP4WKm
井上章一「南蛮幻想」だと
江戸時代から明治にかけて「安土城はキリスト教の大聖堂だった」
という説がかなり信じられていて、「天守閣」は「天主(デウス)」を祀っていたと思われていたとか。
0932人間七七四年2016/08/03(水) 22:22:16.50ID:tICbxLYQ
徳川家康公はこう仰った

「昔から、代官と徳利の首にはついに縄の付くもの、と言われる。

代官役をする者というのは、大名狂言の役者のようなものだ。
烏帽子直垂を着けて、太郎冠者次郎冠者を召し連れて舞台に出れば、本物の大名にように見えるが、
その狂言が終われば、元の何右衛門何兵衛に戻る。代官もまたそういうものだ。

代官としての任地を自分の知行のように思ってしまい支配する。、
また任地の百姓たちも代官を『殿様殿様』と呼び、その女房に対しても『奥様、御前様』などと尊敬して呼ぶ。
そういった環境故に自然と奢りが出て、家内が万事大名風となり、その豪華な生活のため預かりものである
年貢金などを使い散らし、3年目の勘定には4年目の収入を取り越し、そうやって先繰りで間に合わせてしまう。

負債というのは直ぐには影響を与えないから油断して、そのうちに代官の任期が切れ総勘定の時になって
はじめて、巨額の負債に驚き、親類縁者に助力を頼み、自分の財貨を売り払ってもその返済に間に合わない。
そうなった時、首に縄が付くのだ。」

(松のさかへ)

徳川家康による代官職につく者への忠告である。
0933人間七七四年2016/08/04(木) 13:55:52.25ID:3bWxkFl3
>>932
桝添…いやいつの時代も変わらないということか
0934人間七七四年2016/08/04(木) 16:41:05.40ID:kfD42Jl/
>>926 じつは玄米だの豆と混ぜたメシの方が、健康にいいのだが、
当時は白米だけの方が高級だと思われていたという話ですね
0935人間七七四年2016/08/04(木) 23:11:51.42ID:1eH1imrE
分不相応な行いが身を滅ぼすと言ってるんだから、この場合に健康がどうとか関係ないでしょ
0936人間七七四年2016/08/05(金) 00:32:23.34ID:4NC1gATx
沢庵壁書の事

沢庵の書いた壁書を、山村信州(良旺)が所持していたので写させてもらった。

「飯は何のために食うのか。ひもじさを止めるために食うのか。
ひもじい事がなければ食わなくてもよいものを。
さらば、さても、しかるに、添え物がなくては飯は食えぬと皆人のが言うのは僻事である。
ただただ、ひもじさを止める為のはかりごとである。
「役」のために食う飯ではない。
添え物がなくては飯が食えないというのは、まだ飢えが来ていないのだ。
飢えがこなかったら一生食わなくてもいい。
もし飢えがきたら、その時には酒のかすやあらぬかのような粗末なものでも嫌わない。
ましてや飯ならなおさらである。何の添え物がいるであろうか。
『食を受けることは薬を服するようにせよ』と仏も遺教されている。
衣類もまたこのようである。
人は衣食住の三つで一生を苦しむ。
このことを心に留めているので我は三つの苦しみが薄いのだ。

これは我の落書きに過ぎない。錬金法印が書けというので書いたのだ。」

元和の酉の冬に  宗彭

(耳袋)

バランスよく食べなきゃダメよ
0937人間七七四年2016/08/05(金) 03:09:20.23ID:UldHySRU
・この年(慶長13年)の2,3年前から、たばこというものが南蛮船により
我が国へもたらされ、日本の上下の身分とももっぱらこれを使った。

諸病がこれのために治るという。ところが、この頃はこれのために病んだ
者が悶絶して急死することが多かった。

また、南蛮から日本へ来た医師曰く、「このたばこを吸う者に発病する者
がいるのだが、薬を与えようにもどうしていいものか分からない」という。

たばこのことについて、医書には書かれていないから、このように言った
のである。我が国の医者もこれと同じであった。

・(同年11月、)土方河内守(雄久)が江戸で病死した。日頃、たばこを
使っていたので、喉が破れて相果てたという。

この人は、もともと尾州内府信雄(織田信雄)の無双の臣下である。当時、
江戸の将軍(徳川秀忠)の進士(御伽衆か)だった。

――『当代記』
0938人間七七四年2016/08/05(金) 07:09:17.03ID:rk97Jy4V
病んだ者が悶絶して急死

ってひでえな。タバコ。喉が破れるまで吸うなよ
0939人間七七四年2016/08/05(金) 16:05:36.77ID:7vxlFaRG
そんな時代にタバコの害がわかってたのに
なんで昭和まで気にされなかったんだろう…。
0940人間七七四年2016/08/05(金) 18:50:02.21ID:UDHootWr
>>939
江戸時代に何度も禁止令が出てるじゃないか
0941人間七七四年2016/08/05(金) 21:14:45.70ID:Qz2iXZq6
毒草でも炙ってたんじゃねーの?
0942人間七七四年2016/08/05(金) 23:36:52.22ID:a2qxPZNm
白い粉か
0943人間七七四年2016/08/06(土) 00:27:45.47ID:hcNqNndv
政宗御茶水の堀をほる事

御茶ノ水の堀は、伊達政宗が助役して掘った。
これは猷廟(家光)と政宗が将棋をしていたとき、
政宗の癖で、駒を取ろうとするときはいつも独言を言うのだが、
そのときも
「城の後ろから這い入るぞ、這い入るぞ」
と度々言ってしまった。
この言葉から、かの堀の助役を政宗に命ぜられたという。
(甲子夜話)
0944人間七七四年2016/08/06(土) 00:52:16.78ID:CFE9dNO3
>>943 ああ、それは本当の話だ。
政宗が将軍と将棋を指しながら、「城の後ろから這い入るぞ、這い入るぞ」 という意味の
ことを言った。「本郷台」と言ったとされる資料もある。
ともあれ、言った言わないはともかくとして、下記の画像の上部にある水道橋のあたりだ。
http://blog-imgs-62.fc2.com/k/a/h/kahoo0516/201308031538564a5.jpg
水道橋のあたりの台地が、江戸城を攻めるときに本陣としてかまえる最適地だった。

というのは、江戸城というのは武蔵台地の東の突端に位置しており、その下は海だったが、
埋め立てられて低地の陸地と化したが、江戸城の本丸は台地の先端のせいか、やや標高が低くて、
本郷台地というか水道橋のあたりに(政宗の?)敵陣が構えると、江戸城を見下ろすことが
できるからだ!。
その対策として、北東の位置にも堀を作ることにした。政宗に命じられた。北国から攻めるなら
政宗が本郷台地に本当に陣をかまえそうだ。
小石川門から真下へ向かって流れる川があったが、江戸城本丸下の埋め立て地に
洪水時に大量の水が流れ込んで被害を与えていたので、
堀を作るのも兼ねて、本郷台地を横断して運河を作成して、真東の川(隅田川)へ直結する
大工事をやった。これが御茶ノ水の堀。大工事すぎて、政宗死後も工事をやってじつに40年も
かかった。というか舟が入れるように追加工事で川幅を広げる工事を何度もやったから。
0945人間七七四年2016/08/06(土) 01:06:45.81ID:CFE9dNO3
御茶ノ水の堀は、台地を横断して海抜0メートル以下まで掘り下げるわけで、絶壁のような深さ
まで掘る大工事になった。断崖となったので渓谷みたいになって、その後、紅葉の名所となった。
http://blog-imgs-26.fc2.com/m/o/r/moriizou/20040906e3f8c5d9.jpg
標高差は15メートルから20メートルぐらい、長さは200mほどらしい。

この運河開削工事は成功したからいいけれども、じつは失敗したのもある。仙台藩の米は
水戸の那珂湊を経由してくるが、鹿島灘や九十九里浜の砂浜地帯が長過ぎて危険だからということで
那珂湊から那珂川→涸沼→北浦→利根川→江戸川 という河川ルートもあった。急な天候悪化が
あっても河川交通だからすぐ陸にあがれる(長い砂浜だとこうはいかない)。
でも涸沼から北浦まで陸路があるから、これを運河でつなぐ開削工事に着手!。これは水戸藩がやった。
しかし、台地の高低差がじつに30mもあり、長さはじつに10倍の2キロも必要で、
苦難の末に頓挫。膨大な損失を出してこの運河工事は失敗してしまった。仙台藩の米倉庫は
涸沼の岸辺にあったが(後年は、大型舟で直接江戸入りしたが。)、馬に載せて陸を越えて北浦まで
運んだ。
まあ、運河失敗といえば印旛沼の工事はさらにすさまじいい大失敗をするが説明は省略する。
0946人間七七四年2016/08/06(土) 01:18:15.33ID:QDI2VukF
ブラタモリっぽくて面白いね地形と合わせてみると
地形好きと歴史好きの交わりがなんとも言いがたい
軸足は歴史と地形で別々なんだろうけどね
0947人間七七四年2016/08/06(土) 08:48:34.29ID:CFE9dNO3
>>946 ブラタモリでも神田川(御茶ノ水の堀)のことを取り上げたみたいだけど、
ビルが多すぎて展望が効かなくて、土地の高低差はわかりづらいね。
http://stat.ameba.jp/user_images/20091204/18/chablis/18/2e/g/o0716059510329169732.gif
神田川の渓谷の南側が駿河台。駿河のときの家臣を集めて住ませていた。神田明神あたりから
江戸城を望遠するのを防ぐためだから、神田山(本郷台地の先端)を全部削って埋め立てに使うわけにもいかない。
0948人間七七四年2016/08/06(土) 12:16:19.37ID:UwkeAlEw
>>945
失敗した運河ってもの今残ってるん?
0949人間七七四年2016/08/06(土) 20:05:29.16ID:CFE9dNO3
>>948 涸沼と印旛沼の失敗した運河はどちらも今残っているよ。荒れ地だけど。
http://1.bp.blogspot.com/-SKu9JCeBN30/TY3hNdZIEuI/AAAAAAAAAl4/caJS43PUS5Y/s1600/kussaku.jpg
↑この絵は印旛沼堀割(運河)の工事中のものだけど、御茶ノ水の堀もこのようなものかもしれない。
この作業の過酷なのは、堀の底で土砂を取ってかついで(40キログラムくらい)、
それを断崖の上まで運んで登ってから土を捨てなくてはならないことだ。御茶ノ水の堀(神田川)は
掘る箇所が200mほどだから崖の上まで登らずに、周囲の低湿地の埋め立てに使ったと思うけどな。

印旛沼の運河工事をやっている最中に、利根川で豪雨により大増水して、利根川から印旛沼へと
逆流した大水が、印旛沼周囲で開拓していた農民の田んぼを水没全滅させたうえ、工事中の運河へ
も流れ込んで破壊しつくした。工事を割り当てた藩もまた財政破綻し、幕府の要人も失脚するという
破滅だらけの工事だった。
0950人間七七四年2016/08/06(土) 21:12:12.35ID:pjRJ3qg5
失敗したのは3回だっけ?
もともと香取海の一部だったわけだしやり難かったんだろうね
それに昭和の時代で30年近くかかってもいるし
0951人間七七四年2016/08/06(土) 21:55:50.51ID:LR7Jo9ea
>>949
こんなことやってたのか。昔の人に感謝。
0952人間七七四年2016/08/06(土) 22:02:40.16ID:CFE9dNO3
>>950 そうだ。
http://livedoor.blogimg.jp/ynakamura1/imgs/4/6/46d6b0cb.jpg
二つに分かれた印旛沼をつなぐバイパスの水路で、これは昭和の時代に作られたが、
標高差ありすぎ。隋の時代の運河建設で国がほろんだ事例みたいだ。
運河で大成功の事例としては、神田川と、島根県の佐陀川だな。
戦国時代と離れ過ぎててすまん。
0953人間七七四年2016/08/06(土) 22:25:42.67ID:CFE9dNO3
>>951 政宗による御茶ノ水の堀は、人夫にゼニを払って作っただろうけどな。
その場合は、昔の人に感謝だね。
水戸藩の涸沼運河は、カネが無くて、無給で無理矢理に強制労働で運河開削をやらせた。
怨恨ひどく、一揆がおこり首謀者殺害で領民に辛苦させただけで終わった。

なお、江戸の普請工事を、各地の大名に命じたというのは有名ではあるが、江戸時代初期
はともかく、後期ともなると、自分の藩から人夫をつれてきて江戸の工事をやらせるのではなく、
カネだけ出して、江戸の人夫を雇って工事するようになっている。その方が効率もいい。
神田川の工事で、政宗が仙台藩の人夫を江戸まで運んできたかどうかは知らないが、
印旛沼開削工事では、九州の秋月藩が命じられている。九州からでは遠過ぎるので、カネだけ
出した。難工事のため財政は壊滅した。(幕末)
庄内藩も印旛沼工事にたずさわったが、例外的なことに地元から遠路はるばる江戸近郊まで
何千人も出かけていって工事したが、当時としては珍しくなっていた。黒鍬衆という、江戸の
土木工事専門部隊にカネを払ってやってもらった方が効率いいし、むしろ安かったから。
なお、江戸の普請工事に参加することで、地元に帰って、そのときの技術を地元に伝えるという利点があった。
0954人間七七四年2016/08/07(日) 08:44:45.04ID:IbWqzhts
小田原攻めのあと、秀吉は北条氏の領地を家康に与えることにした。
ただ、家康に小田原ではなく、江戸にするようにと秀吉は言った。家康は承知したという。

というわけで、江戸の有利性を秀吉はすでに気付いたいた。尾張や大阪で
舟運の便利さを知っていたからだ。

入り江や湾があると良いが、それでも舟は大風や波浪で破損しやすいので、
江戸の櫛歯状の堀は最適。すぐ両脇が倉庫だ。
http://wako226.exblog.jp/iv/detail/?s=17977693&;i=201307%2F19%2F42%2Fa0277742_12104158.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/201607/20/42/a0277742_18262972.jpg
日本橋というのも、人工的に掘られた運河ではある。
0955人間七七四年2016/08/07(日) 10:10:38.07ID:Nn4WTR4+
高坂弾正の再来と言われた黄後藤こと、後藤信康の逸話がタグから外れて埋もれているので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-315.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-318.html
この人、至る所で自殺した逸話が残ってます。
@桧原城主であった時、あまりに退屈なので城主じゃなく現場(戦場)に赴かせて欲しいと政宗に訴えたが
拒否され、悲観した信康は戦支度を整えたのち政宗愛馬の五島の背に跨り、諸共崖下へ身を投げた。
A大坂冬の陣に漏れた事に嘆き悲しみ、政宗愛馬の五島に跨り青葉城本丸より崖下に飛び降り死亡した(馬上蠣崎神社)
B亀岡の断崖絶壁から広瀬川に投身自殺した(亀岡八幡宮)

どうも大阪冬の陣の頃(10月)に政宗の愛馬「五島」が亡くなり、それと近い時期に亡くなった(8月)のは事実のようで、
五島黒(後藤黒)も後藤家からの献上品の汗血馬。ということで、話が混ざったのでしょうか?
ただ、その10年前に政宗から改易されたりして、何かいじけて本当に飛び降りてそうな気もします。
0956人間七七四年2016/08/07(日) 12:39:05.62ID:n1yQmG27
三河武士もめんどくさいけど仙台も大概だな。
0957人間七七四年2016/08/08(月) 11:44:29.18ID:NfEhADzu
今まで数度申し上げましたが、お忘れに成ったのか、強がっているのか、お聞き入れありません。
軍勢を押し上げる時も、そのお姿や馬印、御馬も常と同じようにされていますが、それは宜しく有りません。

我らの古主である武田信玄は、自分と同じ出で立ちの者を3人用意し、自分も含めて同じ格好の者が4人、
軍勢を押し出す時も同じような馬に乗り、いかにも目立たないようにされていました。これにより、数度
危うい所を逃れました。

上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。
その時分は越後勢から甲州勢へ忍びを入れ、もしくは甲州勢が越後勢を探って、大将の出で立ちを伺っても、
両将共に見定めることが出来ませんでした。
この両人に限りません。関東の北条、尾張の織田信長、何れも見定められた事はありません。

殿(井伊直政)は無類に強気ですから、こういった事は悪しきと思うかもしれません。ですがそれは若気と
言うものです。心得の無い者たちは、敵味方ともに殿を『雄々しき大将だ」と言うかもしれませんが、
武功の者達は笑っているのですよ。

尤も、大将というものは前線の様子を、自身の目で知りたいものです。その時は、ご自身の具足と違わぬよう
拵えたものを予め用意しておき、近習の者に着せて、旗本に置き、馬印もそのまま置いて、大将は目立たぬ
姿に着替えて前線にてご下知なさるべきです。

殿は、朝霧の深い時でも前線に馬で乗り入れます。あまつさえ馬印まで持って。
今後、絶対にそういうことはなさらないで下さい。(向後かたく御無用に御座候)
霧深い中、敵が伏兵を置いて居た場合、鉄砲などで狙われる例は多いのです。そうして過ちが起これば、
それは末代までの落ち度です。

それから、先年家臣一同をご覧になった時も、組頭、使番、物頭、そのほか頭の者たちばかりにお声を
かけられ、残る士にはお言葉をかけられませんでした。これは殿がご若年だからでしょうが、
諸人に恨みを残す行為です。皆に声をかける嗜みがあるべきです。
御用に命を捨てる武士はというものは、たった一言の言葉にも感じ入り、一心を定めるものなのですから。

(松のさかへ)

井伊直政へ家老一同からの諫言書より。この内容だと銀の鯰尾兜であえて目立っていた蒲生氏郷なんかも
落第ですね。
0958人間七七四年2016/08/08(月) 13:51:16.10ID:XNi8I1Od
>>957
総大将じゃないのに影武者作る習慣はあったんだろうか
0959人間七七四年2016/08/08(月) 14:30:14.03ID:/fNKafdB
諫言の甲斐なく狙撃されちゃったねー
バカだねー
0960人間七七四年2016/08/08(月) 15:45:04.93ID:9iHxHcZM
>上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。


謙信所用と伝えられる甲冑がわりと残ってるのは
そういうわけなのかな?
0961人間七七四年2016/08/09(火) 17:52:04.92ID:l6YB/CQe
大坂の陣、道明寺の戦いにおいて後藤基次が孤立し、討死しましたが
その原因は濃霧で後続の軍が遅れたからだけではなく、見殺しにされたという説があるみたいですね

・いくら霧が発生したとはいえ、半日近く経っても誰も到着しないのは不自然である
・基次は和睦派で主戦派の信繁らと折り合いが良くなかった
・後続隊は本当なら間に合うはずだったが、基次隊からの報告を受けて不利を悟り、穏健派の基次がいなくなるだけならと進軍をさらに遅らせた

以上の理由からだそうなんですがどうなんでしょう?
本当ならいつまで経っても大阪方の仲が悪い話になるかなと思い書き込みました
0962人間七七四年2016/08/09(火) 19:46:39.51ID:aCP8MmRj
それだと配属された将兵はたまったものではない
0963人間七七四年2016/08/09(火) 23:43:04.22ID:Zz8FXBR0
スレ的にはそういった逸話が欲しかった
単純にそういう話がしたいなら該当スレでええんじゃないかな
0964人間七七四年2016/08/09(火) 23:46:39.88ID:btdLeMF6
国により、人の善悪に生まれつきがあると言われます。仕置のため、諸士の本国を聞かれることもあるでしょう。
武田信玄の或夜の話に

「他国の大将について、その国の上下の人々の心を見ず、聞かずに知ることが出来るだろうか?」

そう尋ねられたことが有ります。伺候の面々「どうすれば知ることが出来るでしょうか?」と言うと、
信玄は言われました

「よくよく考えた結果、十に八、九は、その国の人々の作法とその国主の作法は違わないと私は思っている。
日本の内にて、山城、播磨、近江、伊勢、越前、これら五ヶ国の人々は心定まっていない。その他は
国主の作法から考えればだいたい当たる。

私は常々、国々に人を置いて観察しているが、先の五ヶ国の人の心、その他日本国の人の心を、
西明寺殿(北条時頼)が記された秘書を、羽州の家に伝わっていたのを所望して見てみると、その趣
斜めならず。その書は『人国記』と名付けられ、その後羽州は国々を廻り、貞治元年(1362)の頃、
これを見合わせるようにと書き留められたのだ。

さて、古から今にいたる変化は、末世となるほど悪しきことはあるが、善事はなかなか無い。
この話をするため、先ほど質問をしたのだ。

これは西明寺殿が書かれた書の抜き書きである。これを見よ。」

そう仰せに成り、腰から扇を抜き出して見せられました。その扇には、先の五ヶ国の人の心の善悪が
記されていました。

「西明寺殿の書面にも、関東武者勇なり、京武士は風流なりと書かれている。また、我が甲信の者の心は
真っ直ぐではなく、食料に昼夜心を労するとある。総じて大将は、その国の人々の心から免れない。

諸士の目利きは第一に大切なことだ。義理と非理を知らぬほど恐ろしいことはない。
欲深き士と佞人が交われば、国の乱となる。ただ、恥を知る人を用いなければならない。」


(松のさかへ)

武田信玄が人国記について語った事についての証言である。
0965人間七七四年2016/08/10(水) 01:12:47.60ID:jGae0GlH
>>963
そちらで改めて聞いてみることにします。失礼しました
0966人間七七四年2016/08/10(水) 03:06:52.40ID:AlG4uG7A
武田信玄「秘密のケンミンSHOW面白いな」
0967人間七七四年2016/08/10(水) 06:30:29.84ID:KNtupSJv
石田三成、長曽我部

石田治部少輔三成は世では"みつなり"と唱えている。
しかしかつて三成に懇ろにしていた伊勢の一身田高田派の一向宗の寺
[この寺の名は忘れた。大寺である。今の上人は先帝の御弟で、奥方は津候の伯母である]
(※専修寺だそうです)
には、三成自筆の仮名文数通あり、皆"かずしげ"と書いてあった。
三を"かず"と訓じ、成を"しげ"と訓じていたのを、今は知る人もいない。
以上は津候の臣、藤堂主計、及び儒臣石川貞一郎の話である。

また津候の家に伝わる石田の仮名文一通にも、"かずしげ"と書いてあるという
津候の祖は三成と同時期の人であり、文通があってもおかしくないので、いよいよ世の誤りを知ることができる。

また長曽我部元親も、その時は"長曽かめ"と唱えていたと聞く。
長曽我部を仮名で"かめ"と書き、またはその四字に仮名をつけた書に、我部に"かめ"の傍書がある。
また拠るところでは、我部をそのころの書に亀と書いた物もあるという。
以上を朝川鼎が語った。

林述斎はこれに関して、以下の話をした。

今人の苗字も近頃唱え違いが多い。
増山は"ましやま"である。建部は"たけべ"である。
なのに人々は、"ますやま"、"たてべ"という。
この類はいかほども有る。松浦は"まつら"であるのに、世では"まつうら"という。

(甲子夜話)
0968人間七七四年2016/08/10(水) 07:10:30.76ID:1kSLhF/I
ワタベとワタナベ
ソガワとソゴウ
0969人間七七四年2016/08/10(水) 07:25:31.19ID:GVKjmEBJ
>>967 三成が「かずしげ」?。うーん本当かな。

囲碁マンガで「ヒカルの碁」の中で、藤原佐為というのがいるが佐為=さい ではなく、
当時の読み方からいえば、「すけため」である、という説があった。音読みと訓読みと
当時の慣例により。
0970人間七七四年2016/08/10(水) 07:29:35.77ID:jh0yf/bh
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5177.html
これにも、「かつしげ」と読むとあるな
0971人間七七四年2016/08/10(水) 07:31:34.11ID:jh0yf/bh
次スレってまだだっけ、立てられるか試す
0972人間七七四年2016/08/10(水) 07:39:25.32ID:jh0yf/bh
立てられなかった、誰か頼みます
タイトル>戦国ちょっと悪い話44
>>1
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話43 [無断転載禁止]©2ch.net・
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話44 [無断転載禁止]©2ch.net・
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
0973人間七七四年2016/08/10(水) 07:50:25.85ID:N3newNEx
>>972
いってみる
0974人間七七四年2016/08/10(水) 07:54:35.67ID:N3newNEx
できた。ここが埋まったら移動して下さい

戦国ちょっと悪い話44 [無断転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470783230/
0975人間七七四年2016/08/10(水) 11:05:38.54ID:jh0yf/bh
ありがとうございます
0976人間七七四年2016/08/10(水) 11:49:14.43ID:rtLQ2F/l
>>961
もう開戦しているこの期に及んで穏健派も糞もなかろう
意見が違うからと言って味方見殺しに何の意味もないどころか
自分達がより不利な立場になるだけだろ
0977人間七七四年2016/08/10(水) 13:30:50.37ID:5oRQ+Ych
個々の感情的な対立が理性を超越して滅びるのが駄目な勢力の特徴ではないかな
0978人間七七四年2016/08/10(水) 14:29:14.11ID:BlSChZfX
>>967
この時代でさえわからなくなるんだから、まして現代ではなぁ。
0979人間七七四年2016/08/10(水) 16:23:02.25ID:bEkGN4Oq
にしこりとにしきおり
0980人間七七四年2016/08/11(木) 21:25:11.55ID:ZBwrP2oU
>>974
おつ
0981人間七七四年2016/08/13(土) 02:23:58.37ID:XOn3Kfve
信長公が関東へ御下向の時、岡崎で下馬なされた。

そのため仮の御留守居衆が信長公に「これはこれは」と申し上げた。

すると信長公は、

「いやいや、あなたたちへの敬意ではない。このような名城の前では
下馬するものである」

と、仰せられた。

――『武功雑記』
0982人間七七四年2016/08/13(土) 02:51:43.66ID:Z6becbVX
いつの話だ?
0983人間七七四年2016/08/13(土) 03:14:01.75ID:ERS+AaJQ
既出かな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2375.html
0984人間七七四年2016/08/13(土) 11:51:11.99ID:rl2wYpvT
どこが名城なんだよw創作くせえ
0985人間七七四年2016/08/13(土) 12:14:58.95ID:9B6+WjJA
信長が岡崎通ったのって長篠かわざと遅れた高天神救援ぐらい?
0986人間七七四年2016/08/13(土) 13:38:24.16ID:p0rDY1E3
甲州征伐の帰り道とか
0987人間七七四年2016/08/13(土) 16:33:24.30ID:NCE+6xBd
甲斐って関東だったのか
0988人間七七四年2016/08/13(土) 17:38:36.97ID:yMJL0d14
>>987
鎌倉時代は確か、三河まで「関東」
0989人間七七四年2016/08/13(土) 22:37:42.37ID:G8zOYl60
不破、鈴鹿、愛発の3関から東側が関東
まあ東国ってことやね
0990人間七七四年2016/08/13(土) 23:33:16.18ID:u4CWcm61
関東管領の支配領域が関東8か国+おまけの甲斐・伊豆なのに
ドヤってる馬鹿

関東は今の関東と同じだ馬鹿w
0991人間七七四年2016/08/13(土) 23:41:19.65ID:yMJL0d14
>>990
「関東」の地理概念は時代によってそうとう違うぞ。
現在の関東、というか日本の地域概念が固まったのは江戸時代だ。
0992人間七七四年2016/08/14(日) 00:18:19.04ID:KXK+mx2w
関東管領じゃなくて鎌倉公方だろ
0993人間七七四年2016/08/14(日) 10:02:57.60ID:h37D70JG
>>990
支配地域なんて関係ないだろ
0994人間七七四年2016/08/14(日) 15:28:10.49ID:A/vrM2xk
>>993
突っ込むのはそこじゃないだろ
0995人間七七四年2016/08/15(月) 16:59:24.22ID:h0oOoPki
宗易(千利休)が太閤の命に背く頃、予(千宗旦)が大徳寺から京へ出る
時に、山門の前で利休が乗り物に乗って内へ入るところに出会った。

利休は乗り物のすだれを上げて挨拶なさった。思えばそれが永遠の別れ
だったのである。

――『茶話指月集』
0996人間七七四年2016/08/17(水) 10:00:01.01ID:DrAt9iHp
大将というものは、大きなことも小さなことも、小人の善悪をよく見知って置かなければ、
何の意味も有りません。
召し使う侍たちであっても、義心直道の者も、軽薄佞人のたぐいも同じように見られ、悪しき士に
家権を取らせてしまえば、軍合戦するまでもなく、平穏な世の中でもその家は破滅してしまうでしょう。
老若によらず、心のしれた親しい者を御取立すべきではありません。
第一、佞人は人を妬み、心中賤しく人をたばかり、諸事に付け悪口を申すものです。

武田信玄が甲州にあった頃、三河牢人の山本勘助と申す片端者が、軍の道をよく知っている者ということで、
信玄はこれを召し抱えました。この新参者に対し、家中では悪口に、彼の体を見て、山本を「半体」と呼び、
城中においても後ろ指を指して笑い草にしました。

この事は目付けが、信玄に報告しました。
信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を、その一門まで追放したのです。

(松のさかへ)


井伊直政への重臣たちからの諫言書より、武田信玄が、山本勘助の障害を笑った者を追放したというエピソード。
0997人間七七四年2016/08/17(水) 10:38:51.88ID:IEKNGEwp
山縣についてはふれてないな
顔より体つきが重んじられてたのか
0998人間七七四年2016/08/17(水) 20:21:36.12ID:OB5zO7Rj
SEALDs15日に解散へ!進学・就職へ向かう!

被曝問題に一切触れることを拒否して、体制に埋没の道を選んだ

コンビニでレジ待ちしていて前の高校生
「期末テストの社会で「原発は賛成か反対か意見を書け」ってあったんだよ。だから俺、「反対」って書いたらバツで返された。意見書けってのにバツっておかしくねえ?」
https://twitter.com/guchirubakari/status/759515386014334976
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信。これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある。書けばツイッターで速攻削除されている。
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272


「さんまのまんま」9月いっぱいで終了…31年6ヶ月の歴史に幕

反原発、反安倍を表明している芸能人が、片っ端から芸能界を追放される電通によって
サンマ以降のバラエティ芸人の大半が、暴走族出身で極右思想。原発反対派を「放射脳」と嘲笑する連中。
芸能界極右は石原慎太郎一家を筆頭に、上田晋也 草野仁 津川雅彦 向井理 松本人志 宇多田ヒカル マツコ 春日俊彰 田村淳 北村晴雄
https://twitter.com/tokaia mada/status/630627400552845312


            【何なんだ】   被爆回避を妨害する裏切者たち   【こいつら】


千葉麗子    「科学的根拠も示さず福島には住めないなどと風評被害をまき散らしている」
奥田知志    「薄い放射能〜大丈夫だっぺ〜食べて応援」 NPO法人抱樸理事長 SEALDs奥田愛基氏の父親
副島隆彦    「ホテル 放射能」を建設しよう。また、愚かな「放射能コワイ、コワイ」派の敵どもが、ギャーギャー騒ぐでしょう。 福島では、誰も死なない。[1792]
リチャード輿水 「なぜ、福島が安全なのか、10月11日(日)のRK佐久講演を聞けば、全部、わかるよ。」
ベンジャミンF  フクシマが大変だ大変だって、あれはもうプロパガンダ、嘘八百なにもない。26分40秒〜
https://www.youtube.com/watch?v=KRd6O5bwN9M
名無し      食べて応援で人が何人死んだみたいな無茶苦茶なこと、福島県の人に対してよく言えるな…。見苦しい。
https://twitter.com/tok aiama/status/720726309240836097
0999人間七七四年2016/08/18(木) 21:31:30.30ID:9LrN1NBU
うめ
1000人間七七四年2016/08/18(木) 21:35:46.83ID:Qos634J9
1000なら万事、上手くいく!
10011001Over 1000Thread
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
 / | |iゝr;ァ--‐''"   〃/./  l  |         戦国時代(仮)@2ch掲示板
./  | | ',ヾ゙      / / /  /  l        http://hobby9.2ch.net/sengoku/
life time: 215日 3時間 54分 17秒
10021002Over 1000Thread
2ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 2ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 2ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
http://premium.2ch.net/
http://pink-chan-store.myshopify.com/
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。