慶長10年4月、徳川家康は征夷大将軍の職を嫡子秀忠へ譲り、秀忠は江戸にあり、家康は駿府の古城を
修理して居城とし、”大御所”と称した。

その頃、朱や玳瑁(タイマイ)の柄の槍は、殊更武功の有る者でなければ持ってはならないとの仰せがあった。

さて、この駿府城の修理を担当した諸大名の内、細川越中守忠興の持ち場に、皆朱の槍を持ち、菖蒲革の
立付を履いて、下使30人ばかりを召し連れて指揮する者があった。目付のものがこれを見咎め、
その名を問うたところ「細川家中、澤村大学なり!」と答えた。

その事が報告されると、家康は

「澤村…、ああ、その澤村は若き頃は才八と言った男だ。
あれは小牧の合戦の時だ。太閤は二重堀に砦を構え、数多の人数を籠め置いていた。

私が長久手の戦に撃ち勝ったので、太閤も二重堀の砦を保つことは出来ないと退こうとしたが、
もし私が小牧より追い打ちをかけてこないかと恐れ、自ら数万の兵を率いて青塚というところに備え、
二重堀の砦を明けて引き退いていたのを、織田信雄が追い打ちを仕掛け、彼は敗北してしまった。

この時信雄と戦ったのは、殿を担当していた細川越中であったが、その澤村が一番に、信雄の軍に対し
槍を合わせたのを、私は目の当たりに見及んだ。

あのような剛勇の者にこそ、皆朱・玳瑁の槍を持たせるために、並々の者には禁ずるべしと命じたのだ。」

この家康の言葉に、澤村大学は面目を施し、有り難さのあまり感泣したという。

(天元実記)