戦国ちょっといい話40
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0849人間七七四年
2014/09/21(日) 19:09:40.25ID:xjz5QUXq0850人間七七四年
2014/09/21(日) 19:30:32.98ID:Lpg/YPD5ある時、伊達政宗より自筆の書状が届いた。その内容は、
『今朝そちらから遣わされた書状についてだが、宛名は私になっているが、その文面は、
他の人に遣わされるものであった。これは書いた者の誤りだと推察したので、この書状は
返信いたす。』
これを読んで忠勝は激怒し、家司を呼ぶとこの事を話し
「この書状を書いた者に切腹を申し付ける!」
そう大声で言いつけ、そのまま江戸城に登城した。
その後、家司衆は評議した上で、先ず祐筆頭である北条三四郎を呼び、今度の事態を聞かせ、
これを書いた者を糾明するようにと伝えた。
三四郎はこれを聞くと
「御存知の通り我々祐筆の者達は毎日数十通の書状を分担して書いています。ですので、伊達殿への書状を
誰が書いたのかは解りません。筆跡を引きあわせて、その上で判断したいと思います。」
そう申して退出した。この時、三四郎はこう思ったのだ
『今朝、主人である忠勝様が声高に切腹のことを言われたのは、深慮せねばならないことだ。
だいたい人を罰するのに、どうして声高に申し渡すのだ。』
そのようなことを考えつつ密かに忠勝の居間に入って見ると、政宗から返されてきた書状が
床の上にあった。「これか」と取って見たところ、紛れも無く同役の某の筆跡であった。
そこで三四郎は、すぐさまこの書状を引き破り、更に焼き捨てて、そのまま知らぬ顔をしていた。
程なく酒井忠勝が帰宅し、家司衆に「今朝申した書状の事はどうした」と尋ねた。
「その件についてですが。北条三四郎に尋ねた所、数十通を数人で書いているため、
誰の書いたものだとすぐには解りかね、そのため筆跡を引きあわせて書いた者を認定したい、
と申していました。」
「それは尤もの事である。ならば、あの書状をここに持ってくるように。」
そう命じたが、どれほど探しても書状は見つからなかった。そのことを申し上げると
「詮議があるのを知って紛失させたか!不埒者め。」と言ったが、この事はそれで相済んだ。
伊達政宗には、忠勝が自筆で返答をした。
「人の志も立て、また人命を失うこと無く事済んだのは、北条三四郎の仁義忠信の為す所である。
君臣合体とはああ言う事を言うのだ。」
これは酒井忠勝が死去した後、ある人が語った言葉である。
(明良洪範)
0853人間七七四年
2014/09/21(日) 20:53:21.16ID:dVF6Y+ZT親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる
0857人間七七四年
2014/09/22(月) 20:03:52.66ID:fLwZXY1g修理して居城とし、”大御所”と称した。
その頃、朱や玳瑁(タイマイ)の柄の槍は、殊更武功の有る者でなければ持ってはならないとの仰せがあった。
さて、この駿府城の修理を担当した諸大名の内、細川越中守忠興の持ち場に、皆朱の槍を持ち、菖蒲革の
立付を履いて、下使30人ばかりを召し連れて指揮する者があった。目付のものがこれを見咎め、
その名を問うたところ「細川家中、澤村大学なり!」と答えた。
その事が報告されると、家康は
「澤村…、ああ、その澤村は若き頃は才八と言った男だ。
あれは小牧の合戦の時だ。太閤は二重堀に砦を構え、数多の人数を籠め置いていた。
私が長久手の戦に撃ち勝ったので、太閤も二重堀の砦を保つことは出来ないと退こうとしたが、
もし私が小牧より追い打ちをかけてこないかと恐れ、自ら数万の兵を率いて青塚というところに備え、
二重堀の砦を明けて引き退いていたのを、織田信雄が追い打ちを仕掛け、彼は敗北してしまった。
この時信雄と戦ったのは、殿を担当していた細川越中であったが、その澤村が一番に、信雄の軍に対し
槍を合わせたのを、私は目の当たりに見及んだ。
あのような剛勇の者にこそ、皆朱・玳瑁の槍を持たせるために、並々の者には禁ずるべしと命じたのだ。」
この家康の言葉に、澤村大学は面目を施し、有り難さのあまり感泣したという。
(天元実記)
0858人間七七四年
2014/09/22(月) 20:12:30.03ID:oBCZtMrn0859人間七七四年
2014/09/22(月) 20:25:27.64ID:tcxUFePh権現様記憶違いという逸話は無いのだろうか?
0860人間七七四年
2014/09/22(月) 21:49:36.11ID:hER1rlWxhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6021.html
が既出だが、以下のようなものもある。
「細越中 いつ様 御報
猶々、貴様のかやうに御心入御座候ところは、我ら余の人の千度より忝なく候、以上
貴札拝見仕り候、新キ人ねん◇◇(不明)送り下され候、思し召しより御心さし浅からず候、
いまだにしかしかと御座なく候て、薬をたへ申し候。天キ故かしらいたく候て、ねてい申し候、恐々謹言、
(花押)」
(なおなお、あなた様のこのようなお心遣いは、私たち余人の千回よりもかたじけなく思います。
お手紙を拝見しました。新しい人ねん◇◇をお送り下さり、あなたのお思いになるより立派な贈り物です。
いまだに体調がしっかり致しませんで、薬を飲んでいます。天気ゆえか痛みがあり、寝ている次第です。)
(年次不明、真田家文書)
忠興、信之からの病気見舞いに対する礼状である。
(一行目は↑のタケノコの手紙の追伸と全く同じ文なので、その手紙の最後の一枚が
この手紙の一枚目と間違えられているのかもしれないが、原典のままとした)
0861人間七七四年
2014/09/22(月) 22:15:54.99ID:mld1qJgw0862人間七七四年
2014/09/22(月) 23:09:04.45ID:R+fUIXZj後半部分のみならこうらしい
羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候
0863人間七七四年
2014/09/23(火) 13:41:49.60ID:R4jIaMgzすぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか
0864人間七七四年
2014/09/23(火) 23:02:58.58ID:S8utVFQP浅野長晟にお命じになった。加藤家は森本儀太夫(一久)が奉行を行った。
さて、この付近一円は沼だったので、石垣の土台を固める時に森本は指図して
人夫を大勢出し、武蔵野の萱をおびただしく刈り取らせ、それを沼に入れた。
そして、10歳から13,4歳までの子供を集めて、その沼の上で遊ばせた。
子供たちは面白く思って踊り狂った。そうして日を送るうちに、浅野家方では
石垣が大方出来上がった。諸人は皆、森本の指図の埒が明かぬのを笑っていた。
森本は諸人の嘲笑には全く構わず、前述の沼がよく固まったのを見て石垣の
築き立てにかかったので、浅野家方よりはかなり遅れて出来上がった。
ところがある日、大雨が降り、この時に浅野家方が築き立てた石垣は、
土台がよく固まっていないので所々崩れ、再び築き直した。一方で、
加藤家方が築き立てた石垣は、よく固まっていたので少しも崩れなかった。
これを見て諸人は、森本の指図に感心した。浅野長晟はこれを聞いて森本を
招き、そのやり方を問うた。森本は答えて、
「沼などを固めるには、急に固めては完全にはならない。そこで萱を踏み込み、
童子らに踊り狂わせて、自然と固めたのである」
と言った。後世に至っても、沼などを埋めるには、この森本の工夫を用いる
ということである。この森本は加藤家において中老であった。かつ、武勇の
聞こえある良士である。
――『明良洪範』
0865人間七七四年
2014/09/23(火) 23:16:38.11ID:BlCXq4j60866人間七七四年
2014/09/23(火) 23:31:50.04ID:4z+jW3CR0867人間七七四年
2014/09/24(水) 02:25:32.15ID:msEfpLVX0868人間七七四年
2014/09/24(水) 08:56:00.63ID:V1jcRmr60869人間七七四年
2014/09/24(水) 09:13:46.39ID:eBqypMLF0870人間七七四年
2014/09/24(水) 13:54:10.30ID:FJwfTTB00872人間七七四年
2014/09/24(水) 21:34:46.67ID:lB0y2ti4丸亀城の石垣を作った羽坂登(重)三郎は石垣の出来を褒められた際にその攻略法を披露したら生駒親正に井戸に埋められました。
0873人間七七四年
2014/09/25(木) 00:35:57.51ID:sF5YtMXUそれにさえ教えを請わせるような人間がいる加藤家って恐ろしいな
0874人間七七四年
2014/09/25(木) 02:48:25.51ID:HBI3MB18その頃土井大炊頭利勝は未だ家康のお側近くに使えており、家康より「今度の事で頼宣邸に先に向かい、
頼宣の家老・安藤帯刀直次が準備を指揮する様子を見学するように。」と仰せ付けられ、利勝は
毎日出向しその様子を見た。
ところが頼宣邸では、諸役人が帯刀の前に出て「この事はどうしましょうか?」と議する時、
帯刀が自分の意に適うことはそのまま了承し、そうでない事には「いや、それは良くない」とだけ
言って、内容について何の指示もしなかった。よってその者は同僚と重ねて相談し合った上で再び
帯刀の前に出てこれを伺うが、また意に適わない内容であれば幾度も前のようにし、終に納得すると
これを許諾した。
利勝は帯刀にこのように感想を漏らした
「私が思うに、物を問われたのに『良くない』とばかり言うよりも、直に『このようにせよ』と指揮したほうが
物事も早く終わるのではないでしょうか?」
帯刀これを聞いて
「私は犬馬の歳もすでに長けて、後はもう死ぬだけです。あのように諸役人を遇するのは、
まだ若き殿に、人物を作っておいて進ぜたいためなのです。
私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
良き人物は出来ないものです。」
利勝はこの言葉に大いに感じ入り、「これが家康公が見習えと仰せになったことなのだ。」と気付いた。
そして後々機務を司るようになると、下僚より質問があった時、我が意に敵わない時は
「それはそうかもしれないけど、他に何かやり方がないかな?同僚と相談してもう一度言いに来て。
同僚と話し合いできないのなら、親族か家臣とも相談してみなさい。」
そうしていよいよ議論を重ねて、理にかなう内容になれば
「いかにも尤もである。その通りに行うように。」と言ったという。
(古諺記)
0875人間七七四年
2014/09/25(木) 11:42:59.89ID:ZTk2Q6/Aまたいい話だなと思う
0876人間七七四年
2014/09/26(金) 22:05:15.59ID:PSfpCP45>私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
ジャン・リュック・ピカード大佐の組織論かよ
0877人間七七四年
2014/09/26(金) 23:02:02.17ID:CNduRI7D0878人間七七四年
2014/09/27(土) 06:40:25.20ID:3WTG5zYD放浪時代の事って成り上がってからほとんど口にしてないんだっけ
あの自慢したがりのラスボスが口にしないって相当悲惨だったんだろうな
0879人間七七四年
2014/09/27(土) 09:16:12.06ID:5yzCdqTL0880人間七七四年
2014/09/27(土) 09:58:43.90ID:vx3j+Dpeだとしたら元春は似合いそうだけど隆元や隆景はちょっとイメージ変わるかも
0881人間七七四年
2014/09/27(土) 10:04:11.55ID:iuSKcHDU毛利の場合は、関ヶ原後転封した山口県の萩の言葉が、毛利家中の方言を相当保存していると言われてる
0882人間七七四年
2014/09/27(土) 10:37:10.13ID:iPkEM/Cw三河弁が標準語になったって話もあったな
0883人間七七四年
2014/09/27(土) 11:22:10.23ID:lnIqKtBo0884人間七七四年
2014/09/27(土) 11:25:02.03ID:Hb3z/6K1少数派の武士言葉こそ原住民の言葉に飲み込まれると思った
0885人間七七四年
2014/09/27(土) 11:28:55.94ID:sOhf8o4p0886人間七七四年
2014/09/27(土) 11:58:07.16ID:vMOSrvkX0887人間七七四年
2014/09/27(土) 12:10:50.52ID:mt4VDkHo0888人間七七四年
2014/09/27(土) 12:56:19.30ID:JK9ARCPT下級武士で庶民の間で生活してれば影響受けるだろうけど。
勝海舟とか。
0889人間七七四年
2014/09/27(土) 15:14:06.39ID:Boe3dW1q0890人間七七四年
2014/09/27(土) 17:03:51.55ID:AmO+dV8k0891人間七七四年
2014/09/27(土) 17:11:04.61ID:30VWer0Q0892人間七七四年
2014/09/27(土) 18:11:03.84ID:JK9ARCPT征服者の言葉と、現地語が混ざった感じ
0893人間七七四年
2014/09/27(土) 21:05:50.91ID:2IBCdfLj0894人間七七四年
2014/09/27(土) 21:36:32.87ID:wtFgQfDw0895人間七七四年
2014/09/28(日) 08:19:17.43ID:/FZtx0c9「先祖が善かったか悪かったのかは子孫の行い如何で決まる」
(先祖の善悪は子孫の請取手次第)
と仰せになられた。
先祖の悪事は外に出さぬよう、善事を成した者の子孫のはずだと思われるようありたいものだ。
これが孝行である 【葉隠】
0898人間七七四年
2014/09/28(日) 21:35:54.60ID:X+E/DPQ/0899人間七七四年
2014/09/28(日) 22:44:51.19ID:Yrm7osCw0900人間七七四年
2014/09/28(日) 23:01:04.84ID:Fkn7+NjH眞房州様 白以
貴札快然の至りに候、然る処久しく御意を得ず、御床しさにて候、御茶法御手前相極め候哉、
拙者式漸く相済み候条、御隙に於いては一夕おぼしめし□□(不明)候はば、本望たるべく候、
積欝御事、面上を以て申し承るべく候間、書中具にせず候、恐々謹言、
十二月九日 (花押)
(お手紙をいただき快然の至りです。このところ長い間お会いせず、お懐かしい気持ちです。
お茶の作法、お手前を極められたのでしょうか。私の用事はようやく済みましたから、
お暇な時には一晩思し召して□□くだされば本望です。
御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。)
眞房州様 白以
明朝、成らるべき旨忝く存じ候、尤も参を以て御礼申し入るべく候へども、
却って御六ヶ敷(むつかしく)思し召さるべくと其の儀なく候、常之御食時分に御出で成らるべく候、
何さま是より御左右申し入るべく候、恐々謹言、
十一月朔日 (花押)
(明朝、お出でになる旨嬉しく思います。もっともこちらが伺ってお礼を言うべきなのですが、
かえってわずらわしく思し召すと思いそれは致しません。いつものお食事時にお出でください。
いずれにせよこれよりこのお知らせを(注:家の者に?)伝えるつもりです。)
舅同士けっこう交流していたようだ。
0901人間七七四年
2014/09/29(月) 01:02:59.02ID:ex4PbjiF0902人間七七四年
2014/09/29(月) 01:09:09.07ID:24dHlvKC手紙は史料としての価値は高いけどこれが困る、後々の人の為にもっと詳しく書いて。
0903人間七七四年
2014/09/29(月) 01:13:09.64ID:RWi86YPV0904人間七七四年
2014/09/29(月) 01:18:44.02ID:vH8Rg91z0905人間七七四年
2014/09/29(月) 01:19:38.65ID:hxlk00UX0906人間七七四年
2014/09/29(月) 02:24:59.53ID:dJvQXJbK93歳じゃ天寿を全うしたとは言えん
0907人間七七四年
2014/09/29(月) 05:15:53.01ID:hwXjMjDR徳川に抗った親を持つと短命で死んでしまうんだな
0908人間七七四年
2014/09/29(月) 08:09:37.05ID:ttFKPJD9蜂須賀 茂韶「………」
0909人間七七四年
2014/09/29(月) 09:22:14.59ID:QZ0oP+xjhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3819.html
どっかで見たと思ったら一応は既出だったか
まあ何年も続いてるからネタも出そろってるよなあ
0910人間七七四年
2014/09/29(月) 15:32:39.08ID:DQjemt6O0911人間七七四年
2014/09/29(月) 20:45:27.62ID:1BBydUsO武田信玄公は国法・軍法を、このよう物に例えられた。
「御大将とは大工であると考えるべきである。その下の侍大将、足軽大将、および一切の物頭は
くさび・釘である。彼らは大将の命令を伝える。
出頭衆、あるいは大将の言葉を承って御使に走りめぐる衆は、才槌、金鎚である。
諸奉行は鉋、ノミ、鋸、錐である。
御目付、横目の二十人衆、御中間頭は、京砥、上野砥のごときものである。道具の刃物が切れなくなれば、
砥石を以って刃を研ぐ。
さてまた、総人数は材木である。備は家である。
そうして、よき御大将の分別というのは、番匠箱より思案、工夫という名の壺金を取り出し、
古今に栄え、あるいは衰えた家の軍立の例に引きあわせて自軍の備を見て、材木が腐った家の柱を抜き替え、
また新しい柱であっても、やがて折れるであろう所は、使わずに火にくべるように、
随分と思慮して全体を見ることが必要なのである。」
(甲陽軍鑑)
0912人間七七四年
2014/09/29(月) 22:29:02.73ID:+SrwTmVi0913人間七七四年
2014/09/29(月) 22:34:21.26ID:JPew2WhF0914人間七七四年
2014/09/29(月) 23:35:38.70ID:DQjemt6O情けは味方 仇は敵の方が短くてわかりやすいな
0915人間七七四年
2014/09/29(月) 23:43:17.71ID:BYTve94f0917人間七七四年
2014/10/01(水) 01:07:41.85ID:DQrcN7M6ということで厳しく吟味された。そんな折に博奕の訴人が出たので、同心たちを
差し遣わし、60人を召し捕らえた。
その中に50歳ほどの坊主が1人いた。弾正はその者に向かって「其の方は頭を
丸めた身であるから、とりわけ不届きである。もともとは医者か? 出家か?
何者なのだ」と、尋ねた。坊主が言うには、
「私の親は、武州忍の城主・成田殿のもとで、連歌の執筆を勤めていました。
そんな折に成田殿の身の上は果てられ、その後、親も浪人のまま相果てました。
それ故、私は浪人となりまして、渡世のやりようがないので、博奕仲間へ入り、
灯心を?き出し、湯茶を持ち運ぶのを役目に致して食事を貰い、世を送りました。
博奕というものを、どのように行うのかは存じません」
とのことだった。そこで、博奕仲間たちに尋ねると、坊主の言う通りだった。
弾正は坊主に「其の方は連歌師の子か。確かならば、そこで一句仕りなさい」
と言った。坊主は「朝霜や まだ解けやらぬ 縄手道」と詠んだ。
弾正はこれを聞き、この句に応じて縄を解いて許し、「これからは博奕の座での
交わりを止めて、食物なくば町年寄たちのところへ回って、何なりと貰うように
しなさい」と、申し渡した。それ故、坊主は彼方此方と徘徊し、心安く渡世した
ということである。
――『責而者草(君臣言行録)』
0919人間七七四年
2014/10/01(水) 11:41:59.76ID:c6gbH1Y10920人間七七四年
2014/10/01(水) 11:48:22.38ID:bRhnWkEj0921人間七七四年
2014/10/01(水) 12:58:48.12ID:7JEovelS香川方景の代から安芸武田家に仕え始めた。
方景の曾孫にあたる香川光景という者がいた。
彼が安芸香川家の当主として君臨していたころ、安芸武田家の重臣である熊谷家が離反し滅亡へまっしぐら、家中は分裂状態であった。
そんな中、武勇優れていた武田光和(何故か蒼天録では政治20統率12知略9)が病死してしまった。(光和死亡年は1535年とも1540年とも)
ここにきて香川光景は品川家と対立し、完全に安芸武田家は分裂してしまう。
光景は安芸国内を駆けずり回り、奇跡的に光和の庶子(三男)・小三郎(のちの武田宗慶)を見つけだし、毛利元就に助力を乞い、安芸武田家の復興を目論んだ。
光景は結局これ以降子と共に毛利家に仕えることになり、安芸武田家の復興もできなかった。
しかしながら、武田宗慶は元就によく仕え、その子孫は周防武田家となり今日東広島市と呉市に学校を経営している。
滅亡してしまった仕えた家を後世まで命脈を伝えさせた忠臣のいい話。
と、話はこれだけで終わると思っただろうが、ここで俺は1つ驚きの事実を発見した。
香川光景が国司元相・平賀元相の99歳コンビより長く生きた可能性が出てきたからだ。
光景の次男・春継は1545年生まれ。
弟ともされている勝雄は1515年生まれ。
光景自身は1605年に没したとされている。
彼の生年がわかる史料が見つかればもしかすると新たなる100歳超武将と判明するかもしれない。
たとえ80代・90代と判明しようが、十分長寿だけどね。
宗慶は玖珂町誌より一部抜粋。
0922人間七七四年
2014/10/01(水) 13:04:37.28ID:7JEovelS経景承久の乱勲功1180〜1190生?
景光 1210? 弟景則子孫讃岐香川家
安景 なし?
清景(景信?) なし?
行景 なし?
景光 なし?
遠景 1240
景春南北朝 1280 兄行景あり
景信足利尊氏仕 1320
師景今川貞世属1391明徳の乱 1370?
方景応仁の乱時当主 1420?若くても1440生 かの播磨屋では二代欠落と見ている
吉景 1450〜1460生?
元景兄行景1517戦死 1480?
光景?-1605 1505?蒼天録1502生 武田元繁・光和・信実、毛利家仕 伝弟勝雄(学雄と同一人物か)1515生
広景弟春継1545生 毛利家仕
安景〜景光の4代は略されて無い場合あり
0923人間七七四年
2014/10/01(水) 19:51:55.33ID:9IR4zcwCやっぱり真田のお兄ちゃんは短命だったんやな(白目)
0924人間七七四年
2014/10/01(水) 19:55:33.11ID:qgXSRqJk0925人間七七四年
2014/10/01(水) 20:48:53.33ID:qh3k8BE1人を変え、話を変え色々あるけどこれには異論もあるようだ。
本多正純と石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由、本多正純に仕へし老兵のいひたりと語る人あり。
是れ正説なるに於ては、石田と対談の説に偽なるにや。(関原軍記大成)
黒田が小袖かけてやったのも、藤堂がアドバイス求めたのも嘘だけど
正則君が罵倒したという話も嘘なんだよ!正則君は本当はいい子なんだよ!!!
という話
0926人間七七四年
2014/10/02(木) 00:08:44.04ID:dysr96r5龍造寺家兼
1454年〜1546
真田信之
1566 〜 1658
国司元相
1492年〜1592
北条幻庵
1493〜1589
成沢道忠
1505?〜1624?
松平忠輝
1592〜1683
滝川益氏
1527〜1635
石田重家
1583〜1686
三好政勝
1536〜1632
南光坊天海
1536?〜1643
木幡高清
1537〜1642
上条政繁
1545〜1643?
没年については1625年説もあり
大島光義
1508〜1604
多羅尾光俊
1514〜1609
須田盛秀
1530〜1625
立石正賀
1565〜1659
竹内久盛
1503〜1595
順不同でだいたいこんな感じ?
0928人間七七四年
2014/10/02(木) 15:46:02.87ID:qWEqMJ6G0929人間七七四年
2014/10/02(木) 16:05:06.77ID:bp8VYrNr何歳以上?90歳異常なら放牛さんも入れてあげて
0930人間七七四年
2014/10/02(木) 16:15:33.86ID:dysr96r5おまけ
島津義弘
1535〜1619
一栗放牛
1500〜1591
鬼庭綱元
1549〜1640
大道寺直英
1552〜1642
山田有栄
1578〜1668
有志の方、追加補填をお願いします
0931人間七七四年
2014/10/02(木) 16:15:58.69ID:aa7IVZBs0933人間七七四年
2014/10/02(木) 16:18:50.94ID:aa7IVZBs0934人間七七四年
2014/10/02(木) 16:31:18.24ID:EXrCN5+J0935人間七七四年
2014/10/02(木) 16:45:36.09ID:aa7IVZBs何かとネタにされる一条兼定。
そんな兼定にも歴史に残す人物に仕える娘がいた。
崇源院(江)に仕える按察使局であった。残念ながら正式な名前は不詳である。
一条兼定を父にもち、宇都宮豊綱の娘を母にもった女性である。
彼女は1603年に千姫の婚礼の際に上洛した崇源院に仕えた。
何故彼女がそんなところにいるのかと言うと、関ヶ原の戦いによる長宗我部氏による没落で甥・政親と共に京都あるいは大和国に随伴したためであった。
その後家光・家綱と仕えたという。
そして1669年に死去したとされる。
wikiでは『彼女が生まれた数年後に両親は離縁している。』としていながらも1565年生まれとしている。
しかし、上の一文が正しいのであれば生年が間違いとなる。何故なら両親が離婚したのは1564年である。
つまり、彼女が生まれたのは実際よりもその前となる。
元来同腹の兄とされている内政が1562年(1557年説あり)なのでもしかすると内政が同腹の弟となる可能性もある。
ま、もしかしたら1561年生まれとなる可能性もあるんだけどね。
でもよくよく考えたら仮に本当だったら化け物じゃね?
0936人間七七四年
2014/10/02(木) 16:49:23.55ID:aa7IVZBsなんかおかしいと思ったけど朝倉宗滴は79歳
>>934
これだね
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166436284/
0937人間七七四年
2014/10/02(木) 16:50:19.86ID:bp8VYrNr0940人間七七四年
2014/10/02(木) 23:04:32.22ID:IjPnu16sしたと聞けば、にわかに様子が変わり、しばらくの間は言葉も発さず、
人によっては涙を落として、そのまま奥に入ることもあった。
このように人々を手足のように思っていたため、下の下に至るまで、
その情け深い心に、慣れ親しまぬ者はいなかったのである。
――『徳川実紀(名将名言記)』
0941人間七七四年
2014/10/02(木) 23:13:01.39ID:t81y990Iトクホン先生は?
1513年-1630年ってギネス記録並み…
>>933
志道広良兄さん応仁の乱生まれかぁ
0943人間七七四年
2014/10/03(金) 21:59:23.08ID:Y3CfXWJHまとめ見たら以外にもまだ出てないようだったので投下、もしも既出だったらす万谷。
1539年(天文8年)11月、尼子晴久は祖父・経久や一族衆らの反対を押し切り、毛利元就の
居城である吉田郡山城攻めを決意、翌1540年(天文9年)8月、尼子晴久は自ら3万の兵を
率いて月山富田城を出陣し、毛利家の吉田郡山城を包囲した。城に籠る毛利勢は近隣住民
も城に入り、総勢はおよそ8千。
尼子勢は城下に度々付け火したりして毛利方を城から誘い出そうとしたが毛利方は兵も民
も誘いに乗らず、逆に尼子勢を時には奇襲し、時には地の利を活かして戦い、寄せ手の尼
子勢に一歩も譲らぬ姿勢を見せた。
そうこうしている内に同年十二月初めには毛利元就からの支援要請を受けた多々良(大内)
義隆から派遣された陶隆房・杉重政・内藤興盛を大将とする兵2万が到着。
これを受け尼子勢は将兵共に士気が下がり、毛利勢は大いに息を吹き返した。とは時節柄
寒さ風雪も強く、両軍ともに決戦に至ることなく年明けを迎えることとなる。
そして翌1541(天文9年)年1月12日、毛利元就から援軍の3大将に手紙が届く。
元就「翌13日に、宮崎に陣取る高尾豊前守・黒正甚兵衛・吉川治部少輔(興経)の陣を私の
愚息に命じて切り崩させます。敵に背後に回られては大事となりますので城近くへ兵を出
していただき、備えを堅めて尼子勢を防いでください。」
これを受けた山口の3大将はこれを承諾。元就は更に3将の使いと綿密に打ち合わせをし
て城へ戻った。
さて、翌13日卯の刻(午前6時)のことである。城内の兵3000余騎が堀の際まで打って出
た。元就はこの日、鎧を着ずに小袖を着て床几に腰かけ敵軍を見まわしていた。
そこに一人の少年が駆け寄ってきた。名を少輔次郎元春、後の吉川元春。当年12歳の少年
であった。
0944人間七七四年
2014/10/03(金) 22:00:21.70ID:Y3CfXWJHがお許しのないまま、むなしく控えておりました。今日は、ぜひともにお許しをこうむり、
お供いたしましょう。」
元就「先々にも言い聞かせてきたとおり、お前はまだ若輩だ。まずこのたびは留まってお
かれ。かさねて合戦のときには、必ず相具してやろうぞ。」
元春「弓矢取る身の幼いからとて、敵に向かわぬことがございましょうか。是非にお供い
たします。」
引かぬ元春に、元就は井上河内守に「少輔次郎を連れて帰れ」と命じるも、元春は大いに
腹を立て
元春「いやいや大人にも劣るまいものを、何という情けない仰せごとか」
元春は世にも恨めしげに元就を見やり、涙をはらはらと流した。これを見た井上河内守は
井上「少輔次郎殿は獅子翻睨の眼を具し、龍駒千里の威を抱いておられる。さすが元就さ
まのご子息よ。ご成長なされたならば、天下一の大剛将になられよう。さ、帰りますぞ」
と、大いに感じ入った後城内へ連れ戻そうとしたが、
元春「お前はわたしをやるまいとするのか!」
と言って、太刀を抜いたので、そののちはあえて留める者もいなかった。
元春は士卒を引き連れて、父元就に追いつき
元春「このうえは是非共にお許しをこうむり、お供いたします。」
と言った。
元就「お前はまだ幼いくせに大不敵者だ!」
と言いながらも、いかにも嬉しげに元春を見て「ここまで来たのなら、もはや連れてゆこう」
と、元春の初陣を許した。
陰徳太平記、文の大半は原本現代訳より
0945人間七七四年
2014/10/03(金) 22:30:33.23ID:OMHXnWeX何故か原哲夫の影武者徳川家康に出た秀忠で脳内再生されました。
0946人間七七四年
2014/10/03(金) 23:04:39.34ID:vJn9PIXE以外 と 意外 の意味を理解してくれ
確立 と 確率 (2日前のミヤネ屋で間違い犯していた)もそうだけど、誤字に気づかないのが一番いけん
0947人間七七四年
2014/10/03(金) 23:40:04.19ID:u5DFSmdZなんか本多鍋之助の初陣を巡り元康に拒否られたのを彷彿とさせるな
鍋之助は確か10歳で拒否られたんだったか
0948人間七七四年
2014/10/04(土) 02:20:15.27ID:wVFWqpyVレス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。