戦国ちょっといい話40
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0822人間七七四年
2014/09/18(木) 23:43:29.98ID:t9HAUqx3これを見て信玄は総人数を三島にまとめ、駿河に入り建築途中の城の普請を申し付けていた所、
北条も三島の北三十町ばかりに総勢をおろした。そこで北条は3万7千あまりの人数を50備あまりで
立て、武田は総勢2万3千で21の備を立て押し出した。
信玄は、馬場、山縣、小幡、真田、内藤、朝比奈駿河守、岡部次郎右衛門、原隼人、その他侍大将を
老若ともに引きつれ、合わせて百四、五十騎あまりを、味方総軍を5町ほど押し出しておいて
大物身を行った。そこで信玄は
「ここで必ず合戦を行い氏政を討ち、明後日には小田原へ入る。」と仰せ付けた。
しかし馬場はこれを聞き申し上げた
「敵、味方の防戦の地形をご存じなくては、それはいかがかと思います。」
「それについては皆、心やすく思うように。私の両眼の如き者を既に向かわせた。」
その場に居た上下・老若共に、信玄公の御両眼というのは誰人かと不審に思っていた所、
敵近くで物見をしてきた二名の者が帰ってきた。
それを見ると、曽根内匠(昌世)と真田喜兵衛(昌幸)の両名であった。
そこで信玄は地形について両名に尋ねると、「一段の場よしであります。」と申し上げた。
信玄はこれを聞き
「現在は八つ時(午後2時頃)であり、これから合戦を初めると、日が暮てしまい、北条家の者達にとって
おのれの国であるため、山の案内もよく知っている。彼らが夜に紛れて落ち行き、氏政を討ちのがして
しまう事にもなるだろうから、明日の卯の刻(午前6時頃)から合戦を行うべきだろう。」
そう言って、三島へと備を入れた。
しかしその夜、北条氏政は軍勢を、一人も残さず小田原へと引き上げさせた。
この時も信玄は、あらかじめ小田原勢に、夜に紛れて退散する色を見て取っており、なお以ってその様子かと、
曽根内匠、真田喜兵衛両人に自分の観察を教えた。
これより以来、曽根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門の三人にはこのような事が多く、
「あれなら当然弓矢巧者になるはずだ」と、諸人が羨んだのも理であろう。
(甲陽軍鑑)
甲陽軍鑑より「信玄の両眼」についての記述である。
要は弟子みたいなものなんですね。
0823人間七七四年
2014/09/19(金) 02:39:35.25ID:vfaynnTJ若手将校だね
0824人間七七四年
2014/09/19(金) 08:31:45.00ID:AgaFWwwC0825人間七七四年
2014/09/19(金) 09:04:32.06ID:sUxkV9mz甲陽軍鑑だからってのを置いといてもつっこみ所じゃなくね
0826人間七七四年
2014/09/19(金) 10:57:07.85ID:QQjhu4dG何言ってんのお前
0827人間七七四年
2014/09/19(金) 11:09:47.58ID:QonwU8PQ0830人間七七四年
2014/09/19(金) 12:05:28.13ID:sUxkV9mz0832人間七七四年
2014/09/19(金) 17:12:57.31ID:sUxkV9mz0833人間七七四年
2014/09/19(金) 17:16:50.12ID:FDoaW1L50834人間七七四年
2014/09/19(金) 17:29:43.23ID:Qhvf2k0O0835人間七七四年
2014/09/19(金) 21:00:27.58ID:7cJG68K8名前は統一したほうが読み手には分かりやすくていいじゃねえか
0836人間七七四年
2014/09/20(土) 05:21:41.29ID:5hFl6qT+だからそうだと言ってる
甲陽軍鑑に記してある、高坂弾正が書いたものをまとめた、のではなくね
基本的な知識もないなら黙ってた方がいいよ
0837人間七七四年
2014/09/20(土) 06:34:31.06ID:uiPh98o00838人間七七四年
2014/09/20(土) 09:03:55.06ID:BsnFwSVg0839人間七七四年
2014/09/20(土) 09:17:18.34ID:Gj3LEvmJ0842人間七七四年
2014/09/20(土) 16:33:14.11ID:IBikRN6F「人と付き合う時に、どれほど懇意な朋友のところへ行くとしても、
必ず礼義を正しくしなければならない。
しかしながら、あまりにも礼義にばかり心が片寄っては和親が薄くなる。
なので、入る時と出る時の始終を礼義正しくして、対座中はできるだけ
打ちくつろいで談話するとよい。
また、知己のところへ行くと、長座して夜が更けるのも気が付かない
ものである。そんな時は、その家の従者たちが迷惑してしまう。
それゆえ、夜に入ったならば、小便などに立って空を見るものである。
空を見る時は心が改まって、時刻などにも気が付くものだ」
と言った。
――『明良洪範』
0843人間七七四年
2014/09/20(土) 16:58:14.24ID:fqb2tt9nなんてことに気がつくくらいなら
0844人間七七四年
2014/09/20(土) 17:22:26.34ID:t+j5ymUu善い事したかも
0845人間七七四年
2014/09/20(土) 17:34:43.31ID:k6DcBn6N0846人間七七四年
2014/09/20(土) 18:34:24.44ID:JQrtcsQg0847人間七七四年
2014/09/20(土) 21:47:35.10ID:LJ4+hyCPその土地の一部を称名寺という寺に売却した際、代金の一部が未払いのままになった。
寺と武家のやり取りだから、借金の証文(のようなもの)が作られ、官兵衛側が保管していた。
その後、称名寺はちゃんと代金を支払った。
そうなると証文を寺に渡すのが決まりだが、どういうわけか官兵衛、
その証文をなくしてしまった。探したらしいが見つからなかったそうだ。
仕方なく官兵衛「この手紙を、本来そちらに渡す証文の代わりにして欲しい」と書いた手紙を
称名寺に送った。
-----その手紙が、今年の大河ドラマ特別展で展示されていた。
0848人間七七四年
2014/09/21(日) 17:33:03.35ID:Y7ZVFnF2そなたはとてもよくやってくれている。
ワシにはもうそなただけが頼りなんじゃ。
それはそうと、
福島正則と黒田長政が毛利の為に立ち回ってくれているようだが
こいつらはおべっか遣いも有るから頼りにはならないんだよ。
つうか、いまだ井伊直政に対面叶わずでお頼み入り出来てないみたいじゃん?
これはヤバいよ。
毛利家どうなっちゃうの?
とても心配だよ・・・。
(吉川家文書)
0849人間七七四年
2014/09/21(日) 19:09:40.25ID:xjz5QUXq0850人間七七四年
2014/09/21(日) 19:30:32.98ID:Lpg/YPD5ある時、伊達政宗より自筆の書状が届いた。その内容は、
『今朝そちらから遣わされた書状についてだが、宛名は私になっているが、その文面は、
他の人に遣わされるものであった。これは書いた者の誤りだと推察したので、この書状は
返信いたす。』
これを読んで忠勝は激怒し、家司を呼ぶとこの事を話し
「この書状を書いた者に切腹を申し付ける!」
そう大声で言いつけ、そのまま江戸城に登城した。
その後、家司衆は評議した上で、先ず祐筆頭である北条三四郎を呼び、今度の事態を聞かせ、
これを書いた者を糾明するようにと伝えた。
三四郎はこれを聞くと
「御存知の通り我々祐筆の者達は毎日数十通の書状を分担して書いています。ですので、伊達殿への書状を
誰が書いたのかは解りません。筆跡を引きあわせて、その上で判断したいと思います。」
そう申して退出した。この時、三四郎はこう思ったのだ
『今朝、主人である忠勝様が声高に切腹のことを言われたのは、深慮せねばならないことだ。
だいたい人を罰するのに、どうして声高に申し渡すのだ。』
そのようなことを考えつつ密かに忠勝の居間に入って見ると、政宗から返されてきた書状が
床の上にあった。「これか」と取って見たところ、紛れも無く同役の某の筆跡であった。
そこで三四郎は、すぐさまこの書状を引き破り、更に焼き捨てて、そのまま知らぬ顔をしていた。
程なく酒井忠勝が帰宅し、家司衆に「今朝申した書状の事はどうした」と尋ねた。
「その件についてですが。北条三四郎に尋ねた所、数十通を数人で書いているため、
誰の書いたものだとすぐには解りかね、そのため筆跡を引きあわせて書いた者を認定したい、
と申していました。」
「それは尤もの事である。ならば、あの書状をここに持ってくるように。」
そう命じたが、どれほど探しても書状は見つからなかった。そのことを申し上げると
「詮議があるのを知って紛失させたか!不埒者め。」と言ったが、この事はそれで相済んだ。
伊達政宗には、忠勝が自筆で返答をした。
「人の志も立て、また人命を失うこと無く事済んだのは、北条三四郎の仁義忠信の為す所である。
君臣合体とはああ言う事を言うのだ。」
これは酒井忠勝が死去した後、ある人が語った言葉である。
(明良洪範)
0853人間七七四年
2014/09/21(日) 20:53:21.16ID:dVF6Y+ZT親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる
0857人間七七四年
2014/09/22(月) 20:03:52.66ID:fLwZXY1g修理して居城とし、”大御所”と称した。
その頃、朱や玳瑁(タイマイ)の柄の槍は、殊更武功の有る者でなければ持ってはならないとの仰せがあった。
さて、この駿府城の修理を担当した諸大名の内、細川越中守忠興の持ち場に、皆朱の槍を持ち、菖蒲革の
立付を履いて、下使30人ばかりを召し連れて指揮する者があった。目付のものがこれを見咎め、
その名を問うたところ「細川家中、澤村大学なり!」と答えた。
その事が報告されると、家康は
「澤村…、ああ、その澤村は若き頃は才八と言った男だ。
あれは小牧の合戦の時だ。太閤は二重堀に砦を構え、数多の人数を籠め置いていた。
私が長久手の戦に撃ち勝ったので、太閤も二重堀の砦を保つことは出来ないと退こうとしたが、
もし私が小牧より追い打ちをかけてこないかと恐れ、自ら数万の兵を率いて青塚というところに備え、
二重堀の砦を明けて引き退いていたのを、織田信雄が追い打ちを仕掛け、彼は敗北してしまった。
この時信雄と戦ったのは、殿を担当していた細川越中であったが、その澤村が一番に、信雄の軍に対し
槍を合わせたのを、私は目の当たりに見及んだ。
あのような剛勇の者にこそ、皆朱・玳瑁の槍を持たせるために、並々の者には禁ずるべしと命じたのだ。」
この家康の言葉に、澤村大学は面目を施し、有り難さのあまり感泣したという。
(天元実記)
0858人間七七四年
2014/09/22(月) 20:12:30.03ID:oBCZtMrn0859人間七七四年
2014/09/22(月) 20:25:27.64ID:tcxUFePh権現様記憶違いという逸話は無いのだろうか?
0860人間七七四年
2014/09/22(月) 21:49:36.11ID:hER1rlWxhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6021.html
が既出だが、以下のようなものもある。
「細越中 いつ様 御報
猶々、貴様のかやうに御心入御座候ところは、我ら余の人の千度より忝なく候、以上
貴札拝見仕り候、新キ人ねん◇◇(不明)送り下され候、思し召しより御心さし浅からず候、
いまだにしかしかと御座なく候て、薬をたへ申し候。天キ故かしらいたく候て、ねてい申し候、恐々謹言、
(花押)」
(なおなお、あなた様のこのようなお心遣いは、私たち余人の千回よりもかたじけなく思います。
お手紙を拝見しました。新しい人ねん◇◇をお送り下さり、あなたのお思いになるより立派な贈り物です。
いまだに体調がしっかり致しませんで、薬を飲んでいます。天気ゆえか痛みがあり、寝ている次第です。)
(年次不明、真田家文書)
忠興、信之からの病気見舞いに対する礼状である。
(一行目は↑のタケノコの手紙の追伸と全く同じ文なので、その手紙の最後の一枚が
この手紙の一枚目と間違えられているのかもしれないが、原典のままとした)
0861人間七七四年
2014/09/22(月) 22:15:54.99ID:mld1qJgw0862人間七七四年
2014/09/22(月) 23:09:04.45ID:R+fUIXZj後半部分のみならこうらしい
羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候
0863人間七七四年
2014/09/23(火) 13:41:49.60ID:R4jIaMgzすぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか
0864人間七七四年
2014/09/23(火) 23:02:58.58ID:S8utVFQP浅野長晟にお命じになった。加藤家は森本儀太夫(一久)が奉行を行った。
さて、この付近一円は沼だったので、石垣の土台を固める時に森本は指図して
人夫を大勢出し、武蔵野の萱をおびただしく刈り取らせ、それを沼に入れた。
そして、10歳から13,4歳までの子供を集めて、その沼の上で遊ばせた。
子供たちは面白く思って踊り狂った。そうして日を送るうちに、浅野家方では
石垣が大方出来上がった。諸人は皆、森本の指図の埒が明かぬのを笑っていた。
森本は諸人の嘲笑には全く構わず、前述の沼がよく固まったのを見て石垣の
築き立てにかかったので、浅野家方よりはかなり遅れて出来上がった。
ところがある日、大雨が降り、この時に浅野家方が築き立てた石垣は、
土台がよく固まっていないので所々崩れ、再び築き直した。一方で、
加藤家方が築き立てた石垣は、よく固まっていたので少しも崩れなかった。
これを見て諸人は、森本の指図に感心した。浅野長晟はこれを聞いて森本を
招き、そのやり方を問うた。森本は答えて、
「沼などを固めるには、急に固めては完全にはならない。そこで萱を踏み込み、
童子らに踊り狂わせて、自然と固めたのである」
と言った。後世に至っても、沼などを埋めるには、この森本の工夫を用いる
ということである。この森本は加藤家において中老であった。かつ、武勇の
聞こえある良士である。
――『明良洪範』
0865人間七七四年
2014/09/23(火) 23:16:38.11ID:BlCXq4j60866人間七七四年
2014/09/23(火) 23:31:50.04ID:4z+jW3CR0867人間七七四年
2014/09/24(水) 02:25:32.15ID:msEfpLVX0868人間七七四年
2014/09/24(水) 08:56:00.63ID:V1jcRmr60869人間七七四年
2014/09/24(水) 09:13:46.39ID:eBqypMLF0870人間七七四年
2014/09/24(水) 13:54:10.30ID:FJwfTTB00872人間七七四年
2014/09/24(水) 21:34:46.67ID:lB0y2ti4丸亀城の石垣を作った羽坂登(重)三郎は石垣の出来を褒められた際にその攻略法を披露したら生駒親正に井戸に埋められました。
0873人間七七四年
2014/09/25(木) 00:35:57.51ID:sF5YtMXUそれにさえ教えを請わせるような人間がいる加藤家って恐ろしいな
0874人間七七四年
2014/09/25(木) 02:48:25.51ID:HBI3MB18その頃土井大炊頭利勝は未だ家康のお側近くに使えており、家康より「今度の事で頼宣邸に先に向かい、
頼宣の家老・安藤帯刀直次が準備を指揮する様子を見学するように。」と仰せ付けられ、利勝は
毎日出向しその様子を見た。
ところが頼宣邸では、諸役人が帯刀の前に出て「この事はどうしましょうか?」と議する時、
帯刀が自分の意に適うことはそのまま了承し、そうでない事には「いや、それは良くない」とだけ
言って、内容について何の指示もしなかった。よってその者は同僚と重ねて相談し合った上で再び
帯刀の前に出てこれを伺うが、また意に適わない内容であれば幾度も前のようにし、終に納得すると
これを許諾した。
利勝は帯刀にこのように感想を漏らした
「私が思うに、物を問われたのに『良くない』とばかり言うよりも、直に『このようにせよ』と指揮したほうが
物事も早く終わるのではないでしょうか?」
帯刀これを聞いて
「私は犬馬の歳もすでに長けて、後はもう死ぬだけです。あのように諸役人を遇するのは、
まだ若き殿に、人物を作っておいて進ぜたいためなのです。
私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
良き人物は出来ないものです。」
利勝はこの言葉に大いに感じ入り、「これが家康公が見習えと仰せになったことなのだ。」と気付いた。
そして後々機務を司るようになると、下僚より質問があった時、我が意に敵わない時は
「それはそうかもしれないけど、他に何かやり方がないかな?同僚と相談してもう一度言いに来て。
同僚と話し合いできないのなら、親族か家臣とも相談してみなさい。」
そうしていよいよ議論を重ねて、理にかなう内容になれば
「いかにも尤もである。その通りに行うように。」と言ったという。
(古諺記)
0875人間七七四年
2014/09/25(木) 11:42:59.89ID:ZTk2Q6/Aまたいい話だなと思う
0876人間七七四年
2014/09/26(金) 22:05:15.59ID:PSfpCP45>私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
ジャン・リュック・ピカード大佐の組織論かよ
0877人間七七四年
2014/09/26(金) 23:02:02.17ID:CNduRI7D0878人間七七四年
2014/09/27(土) 06:40:25.20ID:3WTG5zYD放浪時代の事って成り上がってからほとんど口にしてないんだっけ
あの自慢したがりのラスボスが口にしないって相当悲惨だったんだろうな
0879人間七七四年
2014/09/27(土) 09:16:12.06ID:5yzCdqTL0880人間七七四年
2014/09/27(土) 09:58:43.90ID:vx3j+Dpeだとしたら元春は似合いそうだけど隆元や隆景はちょっとイメージ変わるかも
0881人間七七四年
2014/09/27(土) 10:04:11.55ID:iuSKcHDU毛利の場合は、関ヶ原後転封した山口県の萩の言葉が、毛利家中の方言を相当保存していると言われてる
0882人間七七四年
2014/09/27(土) 10:37:10.13ID:iPkEM/Cw三河弁が標準語になったって話もあったな
0883人間七七四年
2014/09/27(土) 11:22:10.23ID:lnIqKtBo0884人間七七四年
2014/09/27(土) 11:25:02.03ID:Hb3z/6K1少数派の武士言葉こそ原住民の言葉に飲み込まれると思った
0885人間七七四年
2014/09/27(土) 11:28:55.94ID:sOhf8o4p0886人間七七四年
2014/09/27(土) 11:58:07.16ID:vMOSrvkX0887人間七七四年
2014/09/27(土) 12:10:50.52ID:mt4VDkHo0888人間七七四年
2014/09/27(土) 12:56:19.30ID:JK9ARCPT下級武士で庶民の間で生活してれば影響受けるだろうけど。
勝海舟とか。
0889人間七七四年
2014/09/27(土) 15:14:06.39ID:Boe3dW1q0890人間七七四年
2014/09/27(土) 17:03:51.55ID:AmO+dV8k0891人間七七四年
2014/09/27(土) 17:11:04.61ID:30VWer0Q0892人間七七四年
2014/09/27(土) 18:11:03.84ID:JK9ARCPT征服者の言葉と、現地語が混ざった感じ
0893人間七七四年
2014/09/27(土) 21:05:50.91ID:2IBCdfLj0894人間七七四年
2014/09/27(土) 21:36:32.87ID:wtFgQfDw0895人間七七四年
2014/09/28(日) 08:19:17.43ID:/FZtx0c9「先祖が善かったか悪かったのかは子孫の行い如何で決まる」
(先祖の善悪は子孫の請取手次第)
と仰せになられた。
先祖の悪事は外に出さぬよう、善事を成した者の子孫のはずだと思われるようありたいものだ。
これが孝行である 【葉隠】
0898人間七七四年
2014/09/28(日) 21:35:54.60ID:X+E/DPQ/0899人間七七四年
2014/09/28(日) 22:44:51.19ID:Yrm7osCw0900人間七七四年
2014/09/28(日) 23:01:04.84ID:Fkn7+NjH眞房州様 白以
貴札快然の至りに候、然る処久しく御意を得ず、御床しさにて候、御茶法御手前相極め候哉、
拙者式漸く相済み候条、御隙に於いては一夕おぼしめし□□(不明)候はば、本望たるべく候、
積欝御事、面上を以て申し承るべく候間、書中具にせず候、恐々謹言、
十二月九日 (花押)
(お手紙をいただき快然の至りです。このところ長い間お会いせず、お懐かしい気持ちです。
お茶の作法、お手前を極められたのでしょうか。私の用事はようやく済みましたから、
お暇な時には一晩思し召して□□くだされば本望です。
御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。)
眞房州様 白以
明朝、成らるべき旨忝く存じ候、尤も参を以て御礼申し入るべく候へども、
却って御六ヶ敷(むつかしく)思し召さるべくと其の儀なく候、常之御食時分に御出で成らるべく候、
何さま是より御左右申し入るべく候、恐々謹言、
十一月朔日 (花押)
(明朝、お出でになる旨嬉しく思います。もっともこちらが伺ってお礼を言うべきなのですが、
かえってわずらわしく思し召すと思いそれは致しません。いつものお食事時にお出でください。
いずれにせよこれよりこのお知らせを(注:家の者に?)伝えるつもりです。)
舅同士けっこう交流していたようだ。
0901人間七七四年
2014/09/29(月) 01:02:59.02ID:ex4PbjiF0902人間七七四年
2014/09/29(月) 01:09:09.07ID:24dHlvKC手紙は史料としての価値は高いけどこれが困る、後々の人の為にもっと詳しく書いて。
0903人間七七四年
2014/09/29(月) 01:13:09.64ID:RWi86YPV0904人間七七四年
2014/09/29(月) 01:18:44.02ID:vH8Rg91z0905人間七七四年
2014/09/29(月) 01:19:38.65ID:hxlk00UX0906人間七七四年
2014/09/29(月) 02:24:59.53ID:dJvQXJbK93歳じゃ天寿を全うしたとは言えん
0907人間七七四年
2014/09/29(月) 05:15:53.01ID:hwXjMjDR徳川に抗った親を持つと短命で死んでしまうんだな
0908人間七七四年
2014/09/29(月) 08:09:37.05ID:ttFKPJD9蜂須賀 茂韶「………」
0909人間七七四年
2014/09/29(月) 09:22:14.59ID:QZ0oP+xjhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3819.html
どっかで見たと思ったら一応は既出だったか
まあ何年も続いてるからネタも出そろってるよなあ
0910人間七七四年
2014/09/29(月) 15:32:39.08ID:DQjemt6O0911人間七七四年
2014/09/29(月) 20:45:27.62ID:1BBydUsO武田信玄公は国法・軍法を、このよう物に例えられた。
「御大将とは大工であると考えるべきである。その下の侍大将、足軽大将、および一切の物頭は
くさび・釘である。彼らは大将の命令を伝える。
出頭衆、あるいは大将の言葉を承って御使に走りめぐる衆は、才槌、金鎚である。
諸奉行は鉋、ノミ、鋸、錐である。
御目付、横目の二十人衆、御中間頭は、京砥、上野砥のごときものである。道具の刃物が切れなくなれば、
砥石を以って刃を研ぐ。
さてまた、総人数は材木である。備は家である。
そうして、よき御大将の分別というのは、番匠箱より思案、工夫という名の壺金を取り出し、
古今に栄え、あるいは衰えた家の軍立の例に引きあわせて自軍の備を見て、材木が腐った家の柱を抜き替え、
また新しい柱であっても、やがて折れるであろう所は、使わずに火にくべるように、
随分と思慮して全体を見ることが必要なのである。」
(甲陽軍鑑)
0912人間七七四年
2014/09/29(月) 22:29:02.73ID:+SrwTmVi0913人間七七四年
2014/09/29(月) 22:34:21.26ID:JPew2WhF0914人間七七四年
2014/09/29(月) 23:35:38.70ID:DQjemt6O情けは味方 仇は敵の方が短くてわかりやすいな
0915人間七七四年
2014/09/29(月) 23:43:17.71ID:BYTve94f0917人間七七四年
2014/10/01(水) 01:07:41.85ID:DQrcN7M6ということで厳しく吟味された。そんな折に博奕の訴人が出たので、同心たちを
差し遣わし、60人を召し捕らえた。
その中に50歳ほどの坊主が1人いた。弾正はその者に向かって「其の方は頭を
丸めた身であるから、とりわけ不届きである。もともとは医者か? 出家か?
何者なのだ」と、尋ねた。坊主が言うには、
「私の親は、武州忍の城主・成田殿のもとで、連歌の執筆を勤めていました。
そんな折に成田殿の身の上は果てられ、その後、親も浪人のまま相果てました。
それ故、私は浪人となりまして、渡世のやりようがないので、博奕仲間へ入り、
灯心を?き出し、湯茶を持ち運ぶのを役目に致して食事を貰い、世を送りました。
博奕というものを、どのように行うのかは存じません」
とのことだった。そこで、博奕仲間たちに尋ねると、坊主の言う通りだった。
弾正は坊主に「其の方は連歌師の子か。確かならば、そこで一句仕りなさい」
と言った。坊主は「朝霜や まだ解けやらぬ 縄手道」と詠んだ。
弾正はこれを聞き、この句に応じて縄を解いて許し、「これからは博奕の座での
交わりを止めて、食物なくば町年寄たちのところへ回って、何なりと貰うように
しなさい」と、申し渡した。それ故、坊主は彼方此方と徘徊し、心安く渡世した
ということである。
――『責而者草(君臣言行録)』
0919人間七七四年
2014/10/01(水) 11:41:59.76ID:c6gbH1Y10920人間七七四年
2014/10/01(水) 11:48:22.38ID:bRhnWkEjレス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。