戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0796人間七七四年
2014/09/16(火) 08:38:03.33ID:OWUdJ06Mいい話だけどパッと見ただけでも誤字が多すぎるね。
「市街」→「死骸」
「的に渡し」→「敵に渡し」
「御覧にれると」→「御覧に入れると」
今少し推敲希望
0797人間七七四年
2014/09/16(火) 10:40:34.89ID:9ccJHYrq0798人間七七四年
2014/09/16(火) 14:57:44.73ID:86qLHPKL(慶長5年9月14日に富山口を抜け長谷堂北方の山形盆地に進軍した直江兼続だったが
15日の楯岡光直と清水義親の夜襲を受けて、菅沢丘陵へと後退して陣を構えた)
其比(此)、長谷堂には志村伊豆守(志村光安)在城しける間
加勢として(鮭延秀綱の援軍)旗本百騎に小筒の足軽二百餘人籠りける
然るに九月十六日直江山城守(直江兼続)長谷城へ押寄、城十一町を隔て、菅澤山に陣をとれば
春日左衛門(春日元忠)は山の尾崎に備を立、既に春日は仰を窺、明日未明んり可責と也
然は城中の若者一々次第に打而出んとはやりける所に、伊豆守(光安)同加勢(秀綱)と申合壱人も柵より外へ、□(※耳の右側に卯の字)爾に出さず
悉静りかへつて居たりけるが、其夜伊豆守家来に大風右衛門佐、横尾勘解由を大将として兼而夜討に馴たる若者二百人撰び出し互いに相ことばを定め二手に分け
十六二の曉春日左衛門尉が備へたる陣中へ忍入す
こへま立ず、追伏々切ける間、思ひよらざる事なれば陣中上を下へと返しけり何れをかたき共味方共わけざれば同士討する事数多なり
去るに左衛門も馬に乗るべき隙さへなく漸く太刀斗追取て山城守陣中さして逃行ける
然る所に夜打の勢共は左衛門が陣を思ひの儘に打破り討捕し首共を百十五持来り
伊豆守実検に入ければ喜悦其限なく、夜討の大将は不及申其外のもの共に迄ほうびをえさせけり
其夜味方にも八人打死しけるとなり
0799人間七七四年
2014/09/16(火) 15:22:57.92ID:86qLHPKL(義光)「長谷堂の城へは最前より加勢を丈夫に遣し置といへ共いまだ心もとなき間
其方は急長谷堂へ行伊豆守合力後事の評定を致べし
かまへてかまへて日来申付ごとく城中の勢兵を壱人も柵より外不可出」
と有ければ
(秀綱)「畏て候」
とて手勢引くし長谷堂へ行、伊豆守に対面して御意の趣委申渡ける
然るに春日左衛門、十六日の敗軍口惜存、同十八日に先陣にて惣堀へ攻寄るといへども、城中には少もさはがず
四方の矢ぐらより鉄砲を一同あられのごとく打ければ時の間に多の死人出たりけり
寄手是を見て責めあぐんでや有けん、先手負共を助よとて本陣へ引返しける
然ば城の内にてはいよいよ悦就中はやりをの若もの共勝に来ていざや打て出追討なさんとていさみにいさんで打出んとせし所に伊豆守抑へ申けるは
(光安)「何とてかたかたは不入若げを働候哉
此城堅固にして数日送りなば必ず義光公後詰可有之間
其時内外よりもみ合戦候はば立所に勝利を得べし
然るに今卒爾に打て出付入などにせられてはあしかるべし
さて付入と申は昔よりも上杉家のえものとこそ聞及也
殊更義光公鮭延に被仰含候通城中の勢兵返々壱人成共柵より外へ不出可と
委細被仰越候所に卒爾成働共返々無用」
と申けれども若手の者聞も不入
0800人間七七四年
2014/09/16(火) 15:56:55.00ID:86qLHPKL上山、長谷堂とて同様に寄来るに上山にてはかたきを追払、分捕高名せし處に、此城なればとてなんぞ一戦もせざらんやは無念の次第なり」
と口々に申ける所節かたきの方には足軽共をあまた放し散らし作物を苅はこばしむるを越前守
(秀綱)「あれあれ御覧候へ苅田をなすとみへたり
さいわい若手者あまりにいくさ所望の上は我伴ひ出し一いくさすべき間引入候はん時あやうからぬ様に取計候へ」
とて既に打而出んとしけるを伊豆守申けるは
(光安)「かまへて足早に引き給ふべし何程かたき追たるとも返し合給ふ事合やめられて可然候
其後の事はともかくも我々に被任置候へ」
と申ければ越前守につこと打わらひ
(秀綱)「引入ての後は貴殿に預置候。唯今の合戦は随分とはげみ可申の間剛腕の程御見物候へ」
とて旗本組百騎許伴ひ大手の間を押ひらき、いさみにいさんで打て出
苅田をいたす足軽共を追立山際に備たる直江山城守が本陣へ切て入れば寄手も願ふ所の幸と入みだれ追つ返しつ一時程戦ひけるに
とかく味方の軍のつよきにや敵の物頭数多討取ける間、終にさぐり立られ後陣の勢へ逃入ける
味方の兵勝に乗て猶もつづひて入らんとしたりしを
越前守押留、日既に夕陽にかたぶけりとて軍兵る間
寄手是に利を得て更ば付入に乗とれとて手しげく追欠けれども
内々伊豆守と申合たる事なれば少もかまはず足早に引而入にけり
又寄手方よりも透間もなく追て乗入らんとしける所に
伊豆守兼てかく可有とおもひ足軽三百余人引具し大手の口より壱町程斗出し道を中にはさみ
弓手めてに備を立流かけたる事なれば
五間七間引離て三百丁の鉄砲を一度に放かけければ
先にすすむ兵共将□たをしをする如くやにわに三拾騎斗ばらばらと打たをす
後陣共に辟易して進み兼たる内に伊豆守足軽共を下知して手がろく引て入ける間
寄手も力およばずして本陣へ引返しけるなり
『義光物語』
0801人間七七四年
2014/09/16(火) 16:11:10.28ID:86qLHPKL0802人間七七四年
2014/09/16(火) 16:15:16.50ID:5XGUkI4Aとりあえず書きたくてしようがないって感じだ
0803人間七七四年
2014/09/16(火) 17:03:56.32ID:+YLeutM/0804人間七七四年
2014/09/16(火) 17:17:46.65ID:fKsLrd640805人間七七四年
2014/09/16(火) 19:22:42.80ID:dxgkw30U0806人間七七四年
2014/09/16(火) 19:25:22.63ID:W1MFzK9U0807人間七七四年
2014/09/16(火) 19:52:08.07ID:dspFTjQc0808人間七七四年
2014/09/16(火) 19:58:32.88ID:xirEvTHWコピペ指摘された結果、まとめには載らなかった
0809人間七七四年
2014/09/16(火) 22:53:30.84ID:bNwPi0Uw0810人間七七四年
2014/09/16(火) 22:57:37.35ID:KnyN6jA2ある時、松平陸奥守(伊達忠宗)が七尺の金屏風を二隻拵え、淡幽を招きこれに絵を望んだ。
探幽は「これには墨絵が然るべきです」と、この日は屏風を見ただけで帰り、翌日早朝に来て
墨を多く摺らせ、馬の沓を取り寄せ墨に浸し、これを金屏風へ幾つも押し、また大筆で筋を幾つも
引いた。
陸奥守はこの様子を見ていたが、「どうしていいか解らなくなって乱心したか」と言いながら
奥へと入っていってしまった。近習の者達は主人の機嫌が悪いことを淡幽に伝えたが、彼は
「書く時見物は無用です。書き終わってから御覧あるべし。」
そう答えつつ、小筆を取って書き添えると、馬の沓を押した所は蟹と成り、大筆で筋を引いた所は
葦となり、葦間の蟹の絵となった。
もう一隻には柳に燕を書いた。これも始めは墨をこぼしたように書き始めたが、書き終わってみれば
柳に燕となった。
二隻とも無類の屏風と成り、これに陸奥守は大いに喜び、厚く褒美を与えたという。
(明良洪範)
0811人間七七四年
2014/09/17(水) 01:47:26.45ID:nBvDAtiC⇒原文転載。
2>「読みづれえ。」「訳しろよ。」
⇒1に戻る。
おまえらただ最上厨を叩きたいだけだろ。
0812人間七七四年
2014/09/17(水) 03:13:24.56ID:eJbeg7S4お前もモガミンも極端しか無いのかね
0813人間七七四年
2014/09/17(水) 06:31:12.40ID:N9I6qb4L0814人間七七四年
2014/09/17(水) 10:40:27.32ID:TpX5kAqg0815人間七七四年
2014/09/17(水) 13:19:17.90ID:UkZhnkgw0816人間七七四年
2014/09/17(水) 14:12:41.22ID:3z3e6TIG0817人間七七四年
2014/09/17(水) 14:30:00.44ID:8qB5q3kh0818人間七七四年
2014/09/17(水) 16:49:31.77ID:QrV5H72j0819人間七七四年
2014/09/17(水) 20:20:12.45ID:9Masx/Is0820人間七七四年
2014/09/18(木) 15:35:33.40ID:nbKXQu3q0822人間七七四年
2014/09/18(木) 23:43:29.98ID:t9HAUqx3これを見て信玄は総人数を三島にまとめ、駿河に入り建築途中の城の普請を申し付けていた所、
北条も三島の北三十町ばかりに総勢をおろした。そこで北条は3万7千あまりの人数を50備あまりで
立て、武田は総勢2万3千で21の備を立て押し出した。
信玄は、馬場、山縣、小幡、真田、内藤、朝比奈駿河守、岡部次郎右衛門、原隼人、その他侍大将を
老若ともに引きつれ、合わせて百四、五十騎あまりを、味方総軍を5町ほど押し出しておいて
大物身を行った。そこで信玄は
「ここで必ず合戦を行い氏政を討ち、明後日には小田原へ入る。」と仰せ付けた。
しかし馬場はこれを聞き申し上げた
「敵、味方の防戦の地形をご存じなくては、それはいかがかと思います。」
「それについては皆、心やすく思うように。私の両眼の如き者を既に向かわせた。」
その場に居た上下・老若共に、信玄公の御両眼というのは誰人かと不審に思っていた所、
敵近くで物見をしてきた二名の者が帰ってきた。
それを見ると、曽根内匠(昌世)と真田喜兵衛(昌幸)の両名であった。
そこで信玄は地形について両名に尋ねると、「一段の場よしであります。」と申し上げた。
信玄はこれを聞き
「現在は八つ時(午後2時頃)であり、これから合戦を初めると、日が暮てしまい、北条家の者達にとって
おのれの国であるため、山の案内もよく知っている。彼らが夜に紛れて落ち行き、氏政を討ちのがして
しまう事にもなるだろうから、明日の卯の刻(午前6時頃)から合戦を行うべきだろう。」
そう言って、三島へと備を入れた。
しかしその夜、北条氏政は軍勢を、一人も残さず小田原へと引き上げさせた。
この時も信玄は、あらかじめ小田原勢に、夜に紛れて退散する色を見て取っており、なお以ってその様子かと、
曽根内匠、真田喜兵衛両人に自分の観察を教えた。
これより以来、曽根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門の三人にはこのような事が多く、
「あれなら当然弓矢巧者になるはずだ」と、諸人が羨んだのも理であろう。
(甲陽軍鑑)
甲陽軍鑑より「信玄の両眼」についての記述である。
要は弟子みたいなものなんですね。
0823人間七七四年
2014/09/19(金) 02:39:35.25ID:vfaynnTJ若手将校だね
0824人間七七四年
2014/09/19(金) 08:31:45.00ID:AgaFWwwC0825人間七七四年
2014/09/19(金) 09:04:32.06ID:sUxkV9mz甲陽軍鑑だからってのを置いといてもつっこみ所じゃなくね
0826人間七七四年
2014/09/19(金) 10:57:07.85ID:QQjhu4dG何言ってんのお前
0827人間七七四年
2014/09/19(金) 11:09:47.58ID:QonwU8PQ0830人間七七四年
2014/09/19(金) 12:05:28.13ID:sUxkV9mz0832人間七七四年
2014/09/19(金) 17:12:57.31ID:sUxkV9mz0833人間七七四年
2014/09/19(金) 17:16:50.12ID:FDoaW1L50834人間七七四年
2014/09/19(金) 17:29:43.23ID:Qhvf2k0O0835人間七七四年
2014/09/19(金) 21:00:27.58ID:7cJG68K8名前は統一したほうが読み手には分かりやすくていいじゃねえか
0836人間七七四年
2014/09/20(土) 05:21:41.29ID:5hFl6qT+だからそうだと言ってる
甲陽軍鑑に記してある、高坂弾正が書いたものをまとめた、のではなくね
基本的な知識もないなら黙ってた方がいいよ
0837人間七七四年
2014/09/20(土) 06:34:31.06ID:uiPh98o00838人間七七四年
2014/09/20(土) 09:03:55.06ID:BsnFwSVg0839人間七七四年
2014/09/20(土) 09:17:18.34ID:Gj3LEvmJ0842人間七七四年
2014/09/20(土) 16:33:14.11ID:IBikRN6F「人と付き合う時に、どれほど懇意な朋友のところへ行くとしても、
必ず礼義を正しくしなければならない。
しかしながら、あまりにも礼義にばかり心が片寄っては和親が薄くなる。
なので、入る時と出る時の始終を礼義正しくして、対座中はできるだけ
打ちくつろいで談話するとよい。
また、知己のところへ行くと、長座して夜が更けるのも気が付かない
ものである。そんな時は、その家の従者たちが迷惑してしまう。
それゆえ、夜に入ったならば、小便などに立って空を見るものである。
空を見る時は心が改まって、時刻などにも気が付くものだ」
と言った。
――『明良洪範』
0843人間七七四年
2014/09/20(土) 16:58:14.24ID:fqb2tt9nなんてことに気がつくくらいなら
0844人間七七四年
2014/09/20(土) 17:22:26.34ID:t+j5ymUu善い事したかも
0845人間七七四年
2014/09/20(土) 17:34:43.31ID:k6DcBn6N0846人間七七四年
2014/09/20(土) 18:34:24.44ID:JQrtcsQg0847人間七七四年
2014/09/20(土) 21:47:35.10ID:LJ4+hyCPその土地の一部を称名寺という寺に売却した際、代金の一部が未払いのままになった。
寺と武家のやり取りだから、借金の証文(のようなもの)が作られ、官兵衛側が保管していた。
その後、称名寺はちゃんと代金を支払った。
そうなると証文を寺に渡すのが決まりだが、どういうわけか官兵衛、
その証文をなくしてしまった。探したらしいが見つからなかったそうだ。
仕方なく官兵衛「この手紙を、本来そちらに渡す証文の代わりにして欲しい」と書いた手紙を
称名寺に送った。
-----その手紙が、今年の大河ドラマ特別展で展示されていた。
0848人間七七四年
2014/09/21(日) 17:33:03.35ID:Y7ZVFnF2そなたはとてもよくやってくれている。
ワシにはもうそなただけが頼りなんじゃ。
それはそうと、
福島正則と黒田長政が毛利の為に立ち回ってくれているようだが
こいつらはおべっか遣いも有るから頼りにはならないんだよ。
つうか、いまだ井伊直政に対面叶わずでお頼み入り出来てないみたいじゃん?
これはヤバいよ。
毛利家どうなっちゃうの?
とても心配だよ・・・。
(吉川家文書)
0849人間七七四年
2014/09/21(日) 19:09:40.25ID:xjz5QUXq0850人間七七四年
2014/09/21(日) 19:30:32.98ID:Lpg/YPD5ある時、伊達政宗より自筆の書状が届いた。その内容は、
『今朝そちらから遣わされた書状についてだが、宛名は私になっているが、その文面は、
他の人に遣わされるものであった。これは書いた者の誤りだと推察したので、この書状は
返信いたす。』
これを読んで忠勝は激怒し、家司を呼ぶとこの事を話し
「この書状を書いた者に切腹を申し付ける!」
そう大声で言いつけ、そのまま江戸城に登城した。
その後、家司衆は評議した上で、先ず祐筆頭である北条三四郎を呼び、今度の事態を聞かせ、
これを書いた者を糾明するようにと伝えた。
三四郎はこれを聞くと
「御存知の通り我々祐筆の者達は毎日数十通の書状を分担して書いています。ですので、伊達殿への書状を
誰が書いたのかは解りません。筆跡を引きあわせて、その上で判断したいと思います。」
そう申して退出した。この時、三四郎はこう思ったのだ
『今朝、主人である忠勝様が声高に切腹のことを言われたのは、深慮せねばならないことだ。
だいたい人を罰するのに、どうして声高に申し渡すのだ。』
そのようなことを考えつつ密かに忠勝の居間に入って見ると、政宗から返されてきた書状が
床の上にあった。「これか」と取って見たところ、紛れも無く同役の某の筆跡であった。
そこで三四郎は、すぐさまこの書状を引き破り、更に焼き捨てて、そのまま知らぬ顔をしていた。
程なく酒井忠勝が帰宅し、家司衆に「今朝申した書状の事はどうした」と尋ねた。
「その件についてですが。北条三四郎に尋ねた所、数十通を数人で書いているため、
誰の書いたものだとすぐには解りかね、そのため筆跡を引きあわせて書いた者を認定したい、
と申していました。」
「それは尤もの事である。ならば、あの書状をここに持ってくるように。」
そう命じたが、どれほど探しても書状は見つからなかった。そのことを申し上げると
「詮議があるのを知って紛失させたか!不埒者め。」と言ったが、この事はそれで相済んだ。
伊達政宗には、忠勝が自筆で返答をした。
「人の志も立て、また人命を失うこと無く事済んだのは、北条三四郎の仁義忠信の為す所である。
君臣合体とはああ言う事を言うのだ。」
これは酒井忠勝が死去した後、ある人が語った言葉である。
(明良洪範)
0853人間七七四年
2014/09/21(日) 20:53:21.16ID:dVF6Y+ZT親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる
0857人間七七四年
2014/09/22(月) 20:03:52.66ID:fLwZXY1g修理して居城とし、”大御所”と称した。
その頃、朱や玳瑁(タイマイ)の柄の槍は、殊更武功の有る者でなければ持ってはならないとの仰せがあった。
さて、この駿府城の修理を担当した諸大名の内、細川越中守忠興の持ち場に、皆朱の槍を持ち、菖蒲革の
立付を履いて、下使30人ばかりを召し連れて指揮する者があった。目付のものがこれを見咎め、
その名を問うたところ「細川家中、澤村大学なり!」と答えた。
その事が報告されると、家康は
「澤村…、ああ、その澤村は若き頃は才八と言った男だ。
あれは小牧の合戦の時だ。太閤は二重堀に砦を構え、数多の人数を籠め置いていた。
私が長久手の戦に撃ち勝ったので、太閤も二重堀の砦を保つことは出来ないと退こうとしたが、
もし私が小牧より追い打ちをかけてこないかと恐れ、自ら数万の兵を率いて青塚というところに備え、
二重堀の砦を明けて引き退いていたのを、織田信雄が追い打ちを仕掛け、彼は敗北してしまった。
この時信雄と戦ったのは、殿を担当していた細川越中であったが、その澤村が一番に、信雄の軍に対し
槍を合わせたのを、私は目の当たりに見及んだ。
あのような剛勇の者にこそ、皆朱・玳瑁の槍を持たせるために、並々の者には禁ずるべしと命じたのだ。」
この家康の言葉に、澤村大学は面目を施し、有り難さのあまり感泣したという。
(天元実記)
0858人間七七四年
2014/09/22(月) 20:12:30.03ID:oBCZtMrn0859人間七七四年
2014/09/22(月) 20:25:27.64ID:tcxUFePh権現様記憶違いという逸話は無いのだろうか?
0860人間七七四年
2014/09/22(月) 21:49:36.11ID:hER1rlWxhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6021.html
が既出だが、以下のようなものもある。
「細越中 いつ様 御報
猶々、貴様のかやうに御心入御座候ところは、我ら余の人の千度より忝なく候、以上
貴札拝見仕り候、新キ人ねん◇◇(不明)送り下され候、思し召しより御心さし浅からず候、
いまだにしかしかと御座なく候て、薬をたへ申し候。天キ故かしらいたく候て、ねてい申し候、恐々謹言、
(花押)」
(なおなお、あなた様のこのようなお心遣いは、私たち余人の千回よりもかたじけなく思います。
お手紙を拝見しました。新しい人ねん◇◇をお送り下さり、あなたのお思いになるより立派な贈り物です。
いまだに体調がしっかり致しませんで、薬を飲んでいます。天気ゆえか痛みがあり、寝ている次第です。)
(年次不明、真田家文書)
忠興、信之からの病気見舞いに対する礼状である。
(一行目は↑のタケノコの手紙の追伸と全く同じ文なので、その手紙の最後の一枚が
この手紙の一枚目と間違えられているのかもしれないが、原典のままとした)
0861人間七七四年
2014/09/22(月) 22:15:54.99ID:mld1qJgw0862人間七七四年
2014/09/22(月) 23:09:04.45ID:R+fUIXZj後半部分のみならこうらしい
羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候
0863人間七七四年
2014/09/23(火) 13:41:49.60ID:R4jIaMgzすぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか
0864人間七七四年
2014/09/23(火) 23:02:58.58ID:S8utVFQP浅野長晟にお命じになった。加藤家は森本儀太夫(一久)が奉行を行った。
さて、この付近一円は沼だったので、石垣の土台を固める時に森本は指図して
人夫を大勢出し、武蔵野の萱をおびただしく刈り取らせ、それを沼に入れた。
そして、10歳から13,4歳までの子供を集めて、その沼の上で遊ばせた。
子供たちは面白く思って踊り狂った。そうして日を送るうちに、浅野家方では
石垣が大方出来上がった。諸人は皆、森本の指図の埒が明かぬのを笑っていた。
森本は諸人の嘲笑には全く構わず、前述の沼がよく固まったのを見て石垣の
築き立てにかかったので、浅野家方よりはかなり遅れて出来上がった。
ところがある日、大雨が降り、この時に浅野家方が築き立てた石垣は、
土台がよく固まっていないので所々崩れ、再び築き直した。一方で、
加藤家方が築き立てた石垣は、よく固まっていたので少しも崩れなかった。
これを見て諸人は、森本の指図に感心した。浅野長晟はこれを聞いて森本を
招き、そのやり方を問うた。森本は答えて、
「沼などを固めるには、急に固めては完全にはならない。そこで萱を踏み込み、
童子らに踊り狂わせて、自然と固めたのである」
と言った。後世に至っても、沼などを埋めるには、この森本の工夫を用いる
ということである。この森本は加藤家において中老であった。かつ、武勇の
聞こえある良士である。
――『明良洪範』
0865人間七七四年
2014/09/23(火) 23:16:38.11ID:BlCXq4j60866人間七七四年
2014/09/23(火) 23:31:50.04ID:4z+jW3CR0867人間七七四年
2014/09/24(水) 02:25:32.15ID:msEfpLVX0868人間七七四年
2014/09/24(水) 08:56:00.63ID:V1jcRmr60869人間七七四年
2014/09/24(水) 09:13:46.39ID:eBqypMLF0870人間七七四年
2014/09/24(水) 13:54:10.30ID:FJwfTTB00872人間七七四年
2014/09/24(水) 21:34:46.67ID:lB0y2ti4丸亀城の石垣を作った羽坂登(重)三郎は石垣の出来を褒められた際にその攻略法を披露したら生駒親正に井戸に埋められました。
0873人間七七四年
2014/09/25(木) 00:35:57.51ID:sF5YtMXUそれにさえ教えを請わせるような人間がいる加藤家って恐ろしいな
0874人間七七四年
2014/09/25(木) 02:48:25.51ID:HBI3MB18その頃土井大炊頭利勝は未だ家康のお側近くに使えており、家康より「今度の事で頼宣邸に先に向かい、
頼宣の家老・安藤帯刀直次が準備を指揮する様子を見学するように。」と仰せ付けられ、利勝は
毎日出向しその様子を見た。
ところが頼宣邸では、諸役人が帯刀の前に出て「この事はどうしましょうか?」と議する時、
帯刀が自分の意に適うことはそのまま了承し、そうでない事には「いや、それは良くない」とだけ
言って、内容について何の指示もしなかった。よってその者は同僚と重ねて相談し合った上で再び
帯刀の前に出てこれを伺うが、また意に適わない内容であれば幾度も前のようにし、終に納得すると
これを許諾した。
利勝は帯刀にこのように感想を漏らした
「私が思うに、物を問われたのに『良くない』とばかり言うよりも、直に『このようにせよ』と指揮したほうが
物事も早く終わるのではないでしょうか?」
帯刀これを聞いて
「私は犬馬の歳もすでに長けて、後はもう死ぬだけです。あのように諸役人を遇するのは、
まだ若き殿に、人物を作っておいて進ぜたいためなのです。
私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
良き人物は出来ないものです。」
利勝はこの言葉に大いに感じ入り、「これが家康公が見習えと仰せになったことなのだ。」と気付いた。
そして後々機務を司るようになると、下僚より質問があった時、我が意に敵わない時は
「それはそうかもしれないけど、他に何かやり方がないかな?同僚と相談してもう一度言いに来て。
同僚と話し合いできないのなら、親族か家臣とも相談してみなさい。」
そうしていよいよ議論を重ねて、理にかなう内容になれば
「いかにも尤もである。その通りに行うように。」と言ったという。
(古諺記)
0875人間七七四年
2014/09/25(木) 11:42:59.89ID:ZTk2Q6/Aまたいい話だなと思う
0876人間七七四年
2014/09/26(金) 22:05:15.59ID:PSfpCP45>私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
ジャン・リュック・ピカード大佐の組織論かよ
0877人間七七四年
2014/09/26(金) 23:02:02.17ID:CNduRI7D0878人間七七四年
2014/09/27(土) 06:40:25.20ID:3WTG5zYD放浪時代の事って成り上がってからほとんど口にしてないんだっけ
あの自慢したがりのラスボスが口にしないって相当悲惨だったんだろうな
0879人間七七四年
2014/09/27(土) 09:16:12.06ID:5yzCdqTL0880人間七七四年
2014/09/27(土) 09:58:43.90ID:vx3j+Dpeだとしたら元春は似合いそうだけど隆元や隆景はちょっとイメージ変わるかも
0881人間七七四年
2014/09/27(土) 10:04:11.55ID:iuSKcHDU毛利の場合は、関ヶ原後転封した山口県の萩の言葉が、毛利家中の方言を相当保存していると言われてる
0882人間七七四年
2014/09/27(土) 10:37:10.13ID:iPkEM/Cw三河弁が標準語になったって話もあったな
0883人間七七四年
2014/09/27(土) 11:22:10.23ID:lnIqKtBo0884人間七七四年
2014/09/27(土) 11:25:02.03ID:Hb3z/6K1少数派の武士言葉こそ原住民の言葉に飲み込まれると思った
0885人間七七四年
2014/09/27(土) 11:28:55.94ID:sOhf8o4p0886人間七七四年
2014/09/27(土) 11:58:07.16ID:vMOSrvkX0887人間七七四年
2014/09/27(土) 12:10:50.52ID:mt4VDkHo0888人間七七四年
2014/09/27(土) 12:56:19.30ID:JK9ARCPT下級武士で庶民の間で生活してれば影響受けるだろうけど。
勝海舟とか。
0889人間七七四年
2014/09/27(土) 15:14:06.39ID:Boe3dW1q0890人間七七四年
2014/09/27(土) 17:03:51.55ID:AmO+dV8k0891人間七七四年
2014/09/27(土) 17:11:04.61ID:30VWer0Q0892人間七七四年
2014/09/27(土) 18:11:03.84ID:JK9ARCPT征服者の言葉と、現地語が混ざった感じ
0893人間七七四年
2014/09/27(土) 21:05:50.91ID:2IBCdfLj0894人間七七四年
2014/09/27(土) 21:36:32.87ID:wtFgQfDw0895人間七七四年
2014/09/28(日) 08:19:17.43ID:/FZtx0c9「先祖が善かったか悪かったのかは子孫の行い如何で決まる」
(先祖の善悪は子孫の請取手次第)
と仰せになられた。
先祖の悪事は外に出さぬよう、善事を成した者の子孫のはずだと思われるようありたいものだ。
これが孝行である 【葉隠】
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