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戦国ちょっといい話40

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0001人間七七四年2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0795人間七七四年2014/09/16(火) 08:04:10.82ID:5XGUkI4A
>>793
上背も横幅も凄いけどな
0796人間七七四年2014/09/16(火) 08:38:03.33ID:OWUdJ06M
>>794
いい話だけどパッと見ただけでも誤字が多すぎるね。
「市街」→「死骸」
「的に渡し」→「敵に渡し」
「御覧にれると」→「御覧に入れると」

今少し推敲希望
0797人間七七四年2014/09/16(火) 10:40:34.89ID:9ccJHYrq
それは推敲とは言わない
0798人間七七四年2014/09/16(火) 14:57:44.73ID:86qLHPKL
長谷堂攻め本格化す

(慶長5年9月14日に富山口を抜け長谷堂北方の山形盆地に進軍した直江兼続だったが
15日の楯岡光直と清水義親の夜襲を受けて、菅沢丘陵へと後退して陣を構えた)

其比(此)、長谷堂には志村伊豆守(志村光安)在城しける間
加勢として(鮭延秀綱の援軍)旗本百騎に小筒の足軽二百餘人籠りける

然るに九月十六日直江山城守(直江兼続)長谷城へ押寄、城十一町を隔て、菅澤山に陣をとれば
春日左衛門(春日元忠)は山の尾崎に備を立、既に春日は仰を窺、明日未明んり可責と也
然は城中の若者一々次第に打而出んとはやりける所に、伊豆守(光安)同加勢(秀綱)と申合壱人も柵より外へ、□(※耳の右側に卯の字)爾に出さず
悉静りかへつて居たりけるが、其夜伊豆守家来に大風右衛門佐、横尾勘解由を大将として兼而夜討に馴たる若者二百人撰び出し互いに相ことばを定め二手に分け
十六二の曉春日左衛門尉が備へたる陣中へ忍入す
こへま立ず、追伏々切ける間、思ひよらざる事なれば陣中上を下へと返しけり何れをかたき共味方共わけざれば同士討する事数多なり
去るに左衛門も馬に乗るべき隙さへなく漸く太刀斗追取て山城守陣中さして逃行ける
然る所に夜打の勢共は左衛門が陣を思ひの儘に打破り討捕し首共を百十五持来り
伊豆守実検に入ければ喜悦其限なく、夜討の大将は不及申其外のもの共に迄ほうびをえさせけり
其夜味方にも八人打死しけるとなり
0799人間七七四年2014/09/16(火) 15:22:57.92ID:86qLHPKL
さて又かたきの方にはいよいよ無念を起し押付長谷堂へ取詰るのよし義光公被聞召鮭延越前守を召されのたまひけるは

(義光)「長谷堂の城へは最前より加勢を丈夫に遣し置といへ共いまだ心もとなき間
其方は急長谷堂へ行伊豆守合力後事の評定を致べし
かまへてかまへて日来申付ごとく城中の勢兵を壱人も柵より外不可出」

と有ければ

(秀綱)「畏て候」

とて手勢引くし長谷堂へ行、伊豆守に対面して御意の趣委申渡ける
然るに春日左衛門、十六日の敗軍口惜存、同十八日に先陣にて惣堀へ攻寄るといへども、城中には少もさはがず
四方の矢ぐらより鉄砲を一同あられのごとく打ければ時の間に多の死人出たりけり
寄手是を見て責めあぐんでや有けん、先手負共を助よとて本陣へ引返しける
然ば城の内にてはいよいよ悦就中はやりをの若もの共勝に来ていざや打て出追討なさんとていさみにいさんで打出んとせし所に伊豆守抑へ申けるは

(光安)「何とてかたかたは不入若げを働候哉
此城堅固にして数日送りなば必ず義光公後詰可有之間
其時内外よりもみ合戦候はば立所に勝利を得べし
然るに今卒爾に打て出付入などにせられてはあしかるべし
さて付入と申は昔よりも上杉家のえものとこそ聞及也
殊更義光公鮭延に被仰含候通城中の勢兵返々壱人成共柵より外へ不出可と
委細被仰越候所に卒爾成働共返々無用」

と申けれども若手の者聞も不入
0800人間七七四年2014/09/16(火) 15:56:55.00ID:86qLHPKL
(長谷堂城兵の若者達)「(9月17日に南の上山城の里見勢が上杉軍の本村親盛や椎名弥七、松下杢助・平岩石見、岩井備中を討ち取り、数百の首級を挙げた戦果を伝え聞き)
上山、長谷堂とて同様に寄来るに上山にてはかたきを追払、分捕高名せし處に、此城なればとてなんぞ一戦もせざらんやは無念の次第なり」

と口々に申ける所節かたきの方には足軽共をあまた放し散らし作物を苅はこばしむるを越前守

(秀綱)「あれあれ御覧候へ苅田をなすとみへたり
さいわい若手者あまりにいくさ所望の上は我伴ひ出し一いくさすべき間引入候はん時あやうからぬ様に取計候へ」

とて既に打而出んとしけるを伊豆守申けるは

(光安)「かまへて足早に引き給ふべし何程かたき追たるとも返し合給ふ事合やめられて可然候
其後の事はともかくも我々に被任置候へ」

と申ければ越前守につこと打わらひ

(秀綱)「引入ての後は貴殿に預置候。唯今の合戦は随分とはげみ可申の間剛腕の程御見物候へ」

とて旗本組百騎許伴ひ大手の間を押ひらき、いさみにいさんで打て出
苅田をいたす足軽共を追立山際に備たる直江山城守が本陣へ切て入れば寄手も願ふ所の幸と入みだれ追つ返しつ一時程戦ひけるに
とかく味方の軍のつよきにや敵の物頭数多討取ける間、終にさぐり立られ後陣の勢へ逃入ける
味方の兵勝に乗て猶もつづひて入らんとしたりしを
越前守押留、日既に夕陽にかたぶけりとて軍兵る間
寄手是に利を得て更ば付入に乗とれとて手しげく追欠けれども
内々伊豆守と申合たる事なれば少もかまはず足早に引而入にけり
又寄手方よりも透間もなく追て乗入らんとしける所に
伊豆守兼てかく可有とおもひ足軽三百余人引具し大手の口より壱町程斗出し道を中にはさみ
弓手めてに備を立流かけたる事なれば
五間七間引離て三百丁の鉄砲を一度に放かけければ
先にすすむ兵共将□たをしをする如くやにわに三拾騎斗ばらばらと打たをす
後陣共に辟易して進み兼たる内に伊豆守足軽共を下知して手がろく引て入ける間
寄手も力およばずして本陣へ引返しけるなり

『義光物語』
0801人間七七四年2014/09/16(火) 16:11:10.28ID:86qLHPKL
寡兵で上杉軍を翻弄した鮭延秀綱と、それをサポートした志村光安の記述
0802人間七七四年2014/09/16(火) 16:15:16.50ID:5XGUkI4A
もう読んでもらおうとか思ってないんだろうなw
とりあえず書きたくてしようがないって感じだ
0803人間七七四年2014/09/16(火) 17:03:56.32ID:+YLeutM/
まさにチラ裏って感じ
0804人間七七四年2014/09/16(火) 17:17:46.65ID:fKsLrd64
訳して
0805人間七七四年2014/09/16(火) 19:22:42.80ID:dxgkw30U
研究発表は自分のブログでやれ
0806人間七七四年2014/09/16(火) 19:25:22.63ID:W1MFzK9U
めんどくさいならやめちまえよ
0807人間七七四年2014/09/16(火) 19:52:08.07ID:dspFTjQc
ここコピペありなん?
0808人間七七四年2014/09/16(火) 19:58:32.88ID:xirEvTHW
ちょっと前にも義姫の毒盛り疑惑をコピペしてたのがいたが、
コピペ指摘された結果、まとめには載らなかった
0809人間七七四年2014/09/16(火) 22:53:30.84ID:bNwPi0Uw
キチガイだから何言われてもやめないし触るだけ無駄
0810人間七七四年2014/09/16(火) 22:57:37.35ID:KnyN6jA2
狩野探幽守信は、名誉の画工であった。

ある時、松平陸奥守(伊達忠宗)が七尺の金屏風を二隻拵え、淡幽を招きこれに絵を望んだ。
探幽は「これには墨絵が然るべきです」と、この日は屏風を見ただけで帰り、翌日早朝に来て
墨を多く摺らせ、馬の沓を取り寄せ墨に浸し、これを金屏風へ幾つも押し、また大筆で筋を幾つも
引いた。

陸奥守はこの様子を見ていたが、「どうしていいか解らなくなって乱心したか」と言いながら
奥へと入っていってしまった。近習の者達は主人の機嫌が悪いことを淡幽に伝えたが、彼は

「書く時見物は無用です。書き終わってから御覧あるべし。」

そう答えつつ、小筆を取って書き添えると、馬の沓を押した所は蟹と成り、大筆で筋を引いた所は
葦となり、葦間の蟹の絵となった。

もう一隻には柳に燕を書いた。これも始めは墨をこぼしたように書き始めたが、書き終わってみれば
柳に燕となった。

二隻とも無類の屏風と成り、これに陸奥守は大いに喜び、厚く褒美を与えたという。

(明良洪範)
0811人間七七四年2014/09/17(水) 01:47:26.45ID:nBvDAtiC
1>「創作なの?」「そんな台詞あるの?」
⇒原文転載。
2>「読みづれえ。」「訳しろよ。」
⇒1に戻る。

おまえらただ最上厨を叩きたいだけだろ。
0812人間七七四年2014/09/17(水) 03:13:24.56ID:eJbeg7S4
私感盛りすぎず普通に訳すりゃいい話だろ
お前もモガミンも極端しか無いのかね
0813人間七七四年2014/09/17(水) 06:31:12.40ID:N9I6qb4L
最上にかみつくだけの人生
0814人間七七四年2014/09/17(水) 10:40:27.32ID:TpX5kAqg
最上を貶めてるのはどっちやら
0815人間七七四年2014/09/17(水) 13:19:17.90ID:UkZhnkgw
日本語が不自由な朝鮮人の学生が延々とコピペしてるようですねw
0816人間七七四年2014/09/17(水) 14:12:41.22ID:3z3e6TIG
最上にかみつくのは白鳥十郎の怨霊
0817人間七七四年2014/09/17(水) 14:30:00.44ID:8qB5q3kh
誰?
0818人間七七四年2014/09/17(水) 16:49:31.77ID:QrV5H72j
以上、実況・白鳥長久、解説・天童頼澄でお送りしました〜!
0819人間七七四年2014/09/17(水) 20:20:12.45ID:9Masx/Is
日付変わって怒りを噴出させる最上厨の醜さよ
0820人間七七四年2014/09/18(木) 15:35:33.40ID:nbKXQu3q
下手な最上の叔父貴プッシュが悪いんやで
0821人間七七四年2014/09/18(木) 16:03:59.92ID:SDG9sOvL
>>820
最上は伯父な。
0822人間七七四年2014/09/18(木) 23:43:29.98ID:t9HAUqx3
永禄13年9月初め、武田信玄が北条領である韮山に侵入すると、北条氏政もこれに対応し兵を出し、
これを見て信玄は総人数を三島にまとめ、駿河に入り建築途中の城の普請を申し付けていた所、
北条も三島の北三十町ばかりに総勢をおろした。そこで北条は3万7千あまりの人数を50備あまりで
立て、武田は総勢2万3千で21の備を立て押し出した。

信玄は、馬場、山縣、小幡、真田、内藤、朝比奈駿河守、岡部次郎右衛門、原隼人、その他侍大将を
老若ともに引きつれ、合わせて百四、五十騎あまりを、味方総軍を5町ほど押し出しておいて
大物身を行った。そこで信玄は
「ここで必ず合戦を行い氏政を討ち、明後日には小田原へ入る。」と仰せ付けた。

しかし馬場はこれを聞き申し上げた
「敵、味方の防戦の地形をご存じなくては、それはいかがかと思います。」

「それについては皆、心やすく思うように。私の両眼の如き者を既に向かわせた。」

その場に居た上下・老若共に、信玄公の御両眼というのは誰人かと不審に思っていた所、
敵近くで物見をしてきた二名の者が帰ってきた。
それを見ると、曽根内匠(昌世)と真田喜兵衛(昌幸)の両名であった。

そこで信玄は地形について両名に尋ねると、「一段の場よしであります。」と申し上げた。
信玄はこれを聞き

「現在は八つ時(午後2時頃)であり、これから合戦を初めると、日が暮てしまい、北条家の者達にとって
おのれの国であるため、山の案内もよく知っている。彼らが夜に紛れて落ち行き、氏政を討ちのがして
しまう事にもなるだろうから、明日の卯の刻(午前6時頃)から合戦を行うべきだろう。」

そう言って、三島へと備を入れた。
しかしその夜、北条氏政は軍勢を、一人も残さず小田原へと引き上げさせた。
この時も信玄は、あらかじめ小田原勢に、夜に紛れて退散する色を見て取っており、なお以ってその様子かと、
曽根内匠、真田喜兵衛両人に自分の観察を教えた。

これより以来、曽根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門の三人にはこのような事が多く、
「あれなら当然弓矢巧者になるはずだ」と、諸人が羨んだのも理であろう。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より「信玄の両眼」についての記述である。
要は弟子みたいなものなんですね。
0823人間七七四年2014/09/19(金) 02:39:35.25ID:vfaynnTJ
どこかの家の母衣衆みたいなものだよ
若手将校だね
0824人間七七四年2014/09/19(金) 08:31:45.00ID:AgaFWwwC
オヤジってこの頃は武藤じゃないの?とか言ってはあかんか?
0825人間七七四年2014/09/19(金) 09:04:32.06ID:sUxkV9mz
現代の歴史書だって最も有名な名前に統一してるのは普通じゃん
甲陽軍鑑だからってのを置いといてもつっこみ所じゃなくね
0826人間七七四年2014/09/19(金) 10:57:07.85ID:QQjhu4dG
いや甲陽軍鑑だからだろ
何言ってんのお前
0827人間七七四年2014/09/19(金) 11:09:47.58ID:QonwU8PQ
日記じゃないんだし別にええやん
0828人間七七四年2014/09/19(金) 11:50:02.08ID:sUxkV9mz
>>826
どういう意味?
0829人間七七四年2014/09/19(金) 11:51:34.80ID:ZV29nPde
>>828
甲陽軍鑑は時系列のおかしい記述が多いから
0830人間七七四年2014/09/19(金) 12:05:28.13ID:sUxkV9mz
信長公記や徳川実記でも実際の名乗りと表記が違いますが、みな時系列がおかしいのですか?
0831人間七七四年2014/09/19(金) 16:23:46.10ID:VCsVAwm8
>>830
違わないよ
0832人間七七四年2014/09/19(金) 17:12:57.31ID:sUxkV9mz
菅沼か
0833人間七七四年2014/09/19(金) 17:16:50.12ID:FDoaW1L5
一気に書くと名乗りとか間違えるのはよくあることじゃないのか?8月31日に書く日記じゃないがw
0834人間七七四年2014/09/19(金) 17:29:43.23ID:Qhvf2k0O
いつもは喜兵衛って呼んでるから武藤姓だったってことを忘れてたとか?
0835人間七七四年2014/09/19(金) 21:00:27.58ID:7cJG68K8
日記帳じゃねえんだしいちいち改名しました!って載せるのがうぜーんだよ
名前は統一したほうが読み手には分かりやすくていいじゃねえか
0836人間七七四年2014/09/20(土) 05:21:41.29ID:5hFl6qT+
>>833>>835
だからそうだと言ってる
甲陽軍鑑に記してある、高坂弾正が書いたものをまとめた、のではなくね
基本的な知識もないなら黙ってた方がいいよ
0837人間七七四年2014/09/20(土) 06:34:31.06ID:uiPh98o0
うぜぇ。痛い主張は余所でやれ余所で
0838人間七七四年2014/09/20(土) 09:03:55.06ID:BsnFwSVg
ニート織田厨がまた発狂してるのか
0839人間七七四年2014/09/20(土) 09:17:18.34ID:Gj3LEvmJ
ここまで菅沼遼太の自演
0840人間七七四年2014/09/20(土) 09:26:02.74ID:Pd/BXXEq
>>839
戦国武将かと思って検索しちまったじゃないか。
0841人間七七四年2014/09/20(土) 09:27:43.39ID:B86Odyjt
>>837
うざい主張乙
0842人間七七四年2014/09/20(土) 16:33:14.11ID:IBikRN6F
島田弾正入道幽也(利正)は曰く、

「人と付き合う時に、どれほど懇意な朋友のところへ行くとしても、
必ず礼義を正しくしなければならない。

しかしながら、あまりにも礼義にばかり心が片寄っては和親が薄くなる。
なので、入る時と出る時の始終を礼義正しくして、対座中はできるだけ
打ちくつろいで談話するとよい。

また、知己のところへ行くと、長座して夜が更けるのも気が付かない
ものである。そんな時は、その家の従者たちが迷惑してしまう。

それゆえ、夜に入ったならば、小便などに立って空を見るものである。
空を見る時は心が改まって、時刻などにも気が付くものだ」

と言った。

――『明良洪範』
0843人間七七四年2014/09/20(土) 16:58:14.24ID:fqb2tt9n
夜になったからトイレ行って時間確かめよう…
なんてことに気がつくくらいなら
0844人間七七四年2014/09/20(土) 17:22:26.34ID:t+j5ymUu
森 長可にちょっといい話って無いかなぁ? 人間だから魔が差して
善い事したかも
0845人間七七四年2014/09/20(土) 17:34:43.31ID:k6DcBn6N
奉行職で培った心配りなんだろうな
0846人間七七四年2014/09/20(土) 18:34:24.44ID:JQrtcsQg
人間なら魔が差すこともあるがアレは鬼だからない
0847人間七七四年2014/09/20(土) 21:47:35.10ID:LJ4+hyCP
黒田官兵衛がまだ播磨にいた頃、ある土地を没収した。
その土地の一部を称名寺という寺に売却した際、代金の一部が未払いのままになった。
寺と武家のやり取りだから、借金の証文(のようなもの)が作られ、官兵衛側が保管していた。

その後、称名寺はちゃんと代金を支払った。
そうなると証文を寺に渡すのが決まりだが、どういうわけか官兵衛、
その証文をなくしてしまった。探したらしいが見つからなかったそうだ。

仕方なく官兵衛「この手紙を、本来そちらに渡す証文の代わりにして欲しい」と書いた手紙を
称名寺に送った。

-----その手紙が、今年の大河ドラマ特別展で展示されていた。
0848人間七七四年2014/09/21(日) 17:33:03.35ID:Y7ZVFnF2
慶長五年九月二十五日、毛利輝元より吉川広家への書状

そなたはとてもよくやってくれている。
ワシにはもうそなただけが頼りなんじゃ。

それはそうと、
福島正則と黒田長政が毛利の為に立ち回ってくれているようだが
こいつらはおべっか遣いも有るから頼りにはならないんだよ。
つうか、いまだ井伊直政に対面叶わずでお頼み入り出来てないみたいじゃん?
これはヤバいよ。
毛利家どうなっちゃうの?
とても心配だよ・・・。

(吉川家文書)
0849人間七七四年2014/09/21(日) 19:09:40.25ID:xjz5QUXq
どこがいい話なの?
0850人間七七四年2014/09/21(日) 19:30:32.98ID:Lpg/YPD5
北条三四郎は酒井忠勝の祐筆であり、常にその居間へも立ち入ることを許されていた。

ある時、伊達政宗より自筆の書状が届いた。その内容は、
『今朝そちらから遣わされた書状についてだが、宛名は私になっているが、その文面は、
他の人に遣わされるものであった。これは書いた者の誤りだと推察したので、この書状は
返信いたす。』

これを読んで忠勝は激怒し、家司を呼ぶとこの事を話し
「この書状を書いた者に切腹を申し付ける!」
そう大声で言いつけ、そのまま江戸城に登城した。

その後、家司衆は評議した上で、先ず祐筆頭である北条三四郎を呼び、今度の事態を聞かせ、
これを書いた者を糾明するようにと伝えた。

三四郎はこれを聞くと
「御存知の通り我々祐筆の者達は毎日数十通の書状を分担して書いています。ですので、伊達殿への書状を
誰が書いたのかは解りません。筆跡を引きあわせて、その上で判断したいと思います。」

そう申して退出した。この時、三四郎はこう思ったのだ
『今朝、主人である忠勝様が声高に切腹のことを言われたのは、深慮せねばならないことだ。
だいたい人を罰するのに、どうして声高に申し渡すのだ。』

そのようなことを考えつつ密かに忠勝の居間に入って見ると、政宗から返されてきた書状が
床の上にあった。「これか」と取って見たところ、紛れも無く同役の某の筆跡であった。
そこで三四郎は、すぐさまこの書状を引き破り、更に焼き捨てて、そのまま知らぬ顔をしていた。

程なく酒井忠勝が帰宅し、家司衆に「今朝申した書状の事はどうした」と尋ねた。

「その件についてですが。北条三四郎に尋ねた所、数十通を数人で書いているため、
誰の書いたものだとすぐには解りかね、そのため筆跡を引きあわせて書いた者を認定したい、
と申していました。」

「それは尤もの事である。ならば、あの書状をここに持ってくるように。」

そう命じたが、どれほど探しても書状は見つからなかった。そのことを申し上げると

「詮議があるのを知って紛失させたか!不埒者め。」と言ったが、この事はそれで相済んだ。
伊達政宗には、忠勝が自筆で返答をした。

「人の志も立て、また人命を失うこと無く事済んだのは、北条三四郎の仁義忠信の為す所である。
君臣合体とはああ言う事を言うのだ。」
これは酒井忠勝が死去した後、ある人が語った言葉である。
(明良洪範)
0851人間七七四年2014/09/21(日) 20:14:36.63ID:Y7ZVFnF2
>>849
すまねえ
どうやら悪い話の方だったようだ
0852人間七七四年2014/09/21(日) 20:47:00.95ID:ayMSSC2t
>>849
TERUの調子のいい話
0853人間七七四年2014/09/21(日) 20:53:21.16ID:dVF6Y+ZT
吉川ってのは本当に空気が読めないよな
親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる
0854人間七七四年2014/09/21(日) 21:02:58.32ID:qjRlHk5I
>>850
切腹が軽すぎてもやっとする話
0855人間七七四年2014/09/21(日) 23:13:03.90ID:kGGh35yq
>>850
誰かが見ていたか、三四郎が喋ったんか
0856人間七七四年2014/09/22(月) 19:29:01.43ID:82Ys0sln
>>848
こういうのは原文も併記して欲しいな。
0857人間七七四年2014/09/22(月) 20:03:52.66ID:fLwZXY1g
慶長10年4月、徳川家康は征夷大将軍の職を嫡子秀忠へ譲り、秀忠は江戸にあり、家康は駿府の古城を
修理して居城とし、”大御所”と称した。

その頃、朱や玳瑁(タイマイ)の柄の槍は、殊更武功の有る者でなければ持ってはならないとの仰せがあった。

さて、この駿府城の修理を担当した諸大名の内、細川越中守忠興の持ち場に、皆朱の槍を持ち、菖蒲革の
立付を履いて、下使30人ばかりを召し連れて指揮する者があった。目付のものがこれを見咎め、
その名を問うたところ「細川家中、澤村大学なり!」と答えた。

その事が報告されると、家康は

「澤村…、ああ、その澤村は若き頃は才八と言った男だ。
あれは小牧の合戦の時だ。太閤は二重堀に砦を構え、数多の人数を籠め置いていた。

私が長久手の戦に撃ち勝ったので、太閤も二重堀の砦を保つことは出来ないと退こうとしたが、
もし私が小牧より追い打ちをかけてこないかと恐れ、自ら数万の兵を率いて青塚というところに備え、
二重堀の砦を明けて引き退いていたのを、織田信雄が追い打ちを仕掛け、彼は敗北してしまった。

この時信雄と戦ったのは、殿を担当していた細川越中であったが、その澤村が一番に、信雄の軍に対し
槍を合わせたのを、私は目の当たりに見及んだ。

あのような剛勇の者にこそ、皆朱・玳瑁の槍を持たせるために、並々の者には禁ずるべしと命じたのだ。」

この家康の言葉に、澤村大学は面目を施し、有り難さのあまり感泣したという。

(天元実記)
0858人間七七四年2014/09/22(月) 20:12:30.03ID:oBCZtMrn
はよ訳せや
0859人間七七四年2014/09/22(月) 20:25:27.64ID:tcxUFePh
相変わらずすごい記憶力だ
権現様記憶違いという逸話は無いのだろうか?
0860人間七七四年2014/09/22(月) 21:49:36.11ID:hER1rlWx
細川忠興から真田信之への手紙と言えば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6021.html
が既出だが、以下のようなものもある。

「細越中 いつ様 御報

猶々、貴様のかやうに御心入御座候ところは、我ら余の人の千度より忝なく候、以上
貴札拝見仕り候、新キ人ねん◇◇(不明)送り下され候、思し召しより御心さし浅からず候、
いまだにしかしかと御座なく候て、薬をたへ申し候。天キ故かしらいたく候て、ねてい申し候、恐々謹言、
(花押)」

(なおなお、あなた様のこのようなお心遣いは、私たち余人の千回よりもかたじけなく思います。
お手紙を拝見しました。新しい人ねん◇◇をお送り下さり、あなたのお思いになるより立派な贈り物です。
いまだに体調がしっかり致しませんで、薬を飲んでいます。天気ゆえか痛みがあり、寝ている次第です。)

(年次不明、真田家文書)

忠興、信之からの病気見舞いに対する礼状である。

(一行目は↑のタケノコの手紙の追伸と全く同じ文なので、その手紙の最後の一枚が
この手紙の一枚目と間違えられているのかもしれないが、原典のままとした)
0861人間七七四年2014/09/22(月) 22:15:54.99ID:mld1qJgw
同年代長生き同士でいたわりの手紙を交換してたかと思うと感慨深い
0862人間七七四年2014/09/22(月) 23:09:04.45ID:R+fUIXZj
>>856
後半部分のみならこうらしい

羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候
0863人間七七四年2014/09/23(火) 13:41:49.60ID:R4jIaMgz
黒甲ってのは黒田甲州なんだろうけど羽左太は羽柴左衛門大夫の略?
すぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか
0864人間七七四年2014/09/23(火) 23:02:58.58ID:S8utVFQP
江戸御城の石垣を築く時、桜田、日比谷付近の築き立てを、加藤清正、
浅野長晟にお命じになった。加藤家は森本儀太夫(一久)が奉行を行った。

さて、この付近一円は沼だったので、石垣の土台を固める時に森本は指図して
人夫を大勢出し、武蔵野の萱をおびただしく刈り取らせ、それを沼に入れた。
そして、10歳から13,4歳までの子供を集めて、その沼の上で遊ばせた。

子供たちは面白く思って踊り狂った。そうして日を送るうちに、浅野家方では
石垣が大方出来上がった。諸人は皆、森本の指図の埒が明かぬのを笑っていた。

森本は諸人の嘲笑には全く構わず、前述の沼がよく固まったのを見て石垣の
築き立てにかかったので、浅野家方よりはかなり遅れて出来上がった。

ところがある日、大雨が降り、この時に浅野家方が築き立てた石垣は、
土台がよく固まっていないので所々崩れ、再び築き直した。一方で、
加藤家方が築き立てた石垣は、よく固まっていたので少しも崩れなかった。

これを見て諸人は、森本の指図に感心した。浅野長晟はこれを聞いて森本を
招き、そのやり方を問うた。森本は答えて、

「沼などを固めるには、急に固めては完全にはならない。そこで萱を踏み込み、
童子らに踊り狂わせて、自然と固めたのである」

と言った。後世に至っても、沼などを埋めるには、この森本の工夫を用いる
ということである。この森本は加藤家において中老であった。かつ、武勇の
聞こえある良士である。

――『明良洪範』
0865人間七七四年2014/09/23(火) 23:16:38.11ID:BlCXq4j6
せいしょこさんの築城能力はよく知られているけどこういう中々表に出ない有能なスタッフの役割も大きかったんだろうなあ
0866人間七七四年2014/09/23(火) 23:31:50.04ID:4z+jW3CR
おばちゃん使う武将もいなかったけ?
0867人間七七四年2014/09/24(水) 02:25:32.15ID:msEfpLVX
沼地を固めるために子供たちと相撲とらせたって話だっけか?
0868人間七七四年2014/09/24(水) 08:56:00.63ID:V1jcRmr6
「へうげもの」の築城シーンにもあったな
0869人間七七四年2014/09/24(水) 09:13:46.39ID:eBqypMLF
堤防を作るときにも、わざわざ遠い側から土を持って行って、行き帰りに踏み固められるようにしたとか
0870人間七七四年2014/09/24(水) 13:54:10.30ID:FJwfTTB0
で用済みになったらズドンとやるとw・・・どこだっけ?
0871人間七七四年2014/09/24(水) 15:43:49.30ID:V1jcRmr6
>>870
石垣なら仙台城の政宗公に殺されまいと
石工らが踊ったのが起源とされる雀踊りがある
0872人間七七四年2014/09/24(水) 21:34:46.67ID:lB0y2ti4
>>870
丸亀城の石垣を作った羽坂登(重)三郎は石垣の出来を褒められた際にその攻略法を披露したら生駒親正に井戸に埋められました。
0873人間七七四年2014/09/25(木) 00:35:57.51ID:sF5YtMXU
浅野の所の奉行陣も全国指折りの有能揃いな気がするが。長晟も優れた人だし
それにさえ教えを請わせるような人間がいる加藤家って恐ろしいな
0874人間七七四年2014/09/25(木) 02:48:25.51ID:HBI3MB18
徳川家康が駿河において、その十男徳川頼宣の邸へのお渡りが行われる事となった。
その頃土井大炊頭利勝は未だ家康のお側近くに使えており、家康より「今度の事で頼宣邸に先に向かい、
頼宣の家老・安藤帯刀直次が準備を指揮する様子を見学するように。」と仰せ付けられ、利勝は
毎日出向しその様子を見た。

ところが頼宣邸では、諸役人が帯刀の前に出て「この事はどうしましょうか?」と議する時、
帯刀が自分の意に適うことはそのまま了承し、そうでない事には「いや、それは良くない」とだけ
言って、内容について何の指示もしなかった。よってその者は同僚と重ねて相談し合った上で再び
帯刀の前に出てこれを伺うが、また意に適わない内容であれば幾度も前のようにし、終に納得すると
これを許諾した。

利勝は帯刀にこのように感想を漏らした
「私が思うに、物を問われたのに『良くない』とばかり言うよりも、直に『このようにせよ』と指揮したほうが
物事も早く終わるのではないでしょうか?」

帯刀これを聞いて
「私は犬馬の歳もすでに長けて、後はもう死ぬだけです。あのように諸役人を遇するのは、
まだ若き殿に、人物を作っておいて進ぜたいためなのです。

私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
良き人物は出来ないものです。」

利勝はこの言葉に大いに感じ入り、「これが家康公が見習えと仰せになったことなのだ。」と気付いた。
そして後々機務を司るようになると、下僚より質問があった時、我が意に敵わない時は
「それはそうかもしれないけど、他に何かやり方がないかな?同僚と相談してもう一度言いに来て。
同僚と話し合いできないのなら、親族か家臣とも相談してみなさい。」
そうしていよいよ議論を重ねて、理にかなう内容になれば
「いかにも尤もである。その通りに行うように。」と言ったという。

(古諺記)
0875人間七七四年2014/09/25(木) 11:42:59.89ID:ZTk2Q6/A
土井にしても安藤のやった事をそのまま引き写したわけではないのが
またいい話だなと思う
0876人間七七四年2014/09/26(金) 22:05:15.59ID:PSfpCP45
>>874
>私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、

ジャン・リュック・ピカード大佐の組織論かよ
0877人間七七四年2014/09/26(金) 23:02:02.17ID:CNduRI7D
ラスボス「我々は豊家だぎゃ、おみゃあさんらを同化する、抵抗は無意味だぎゃ」
0878人間七七四年2014/09/27(土) 06:40:25.20ID:3WTG5zYD
ラスボスの場合青年時代東海地方を放浪してたから名古屋弁とは違う訛りになってるかもな

放浪時代の事って成り上がってからほとんど口にしてないんだっけ
あの自慢したがりのラスボスが口にしないって相当悲惨だったんだろうな
0879人間七七四年2014/09/27(土) 09:16:12.06ID:5yzCdqTL
ねねと二人でしゃべってる時に、周りの人が二人が何を言ってるか解らなかったって話があったような
0880人間七七四年2014/09/27(土) 09:58:43.90ID:vx3j+Dpe
方言と言えば毛利家は広島弁(安芸方言)しゃべってたのかな
だとしたら元春は似合いそうだけど隆元や隆景はちょっとイメージ変わるかも
0881人間七七四年2014/09/27(土) 10:04:11.55ID:iuSKcHDU
>>880
毛利の場合は、関ヶ原後転封した山口県の萩の言葉が、毛利家中の方言を相当保存していると言われてる
0882人間七七四年2014/09/27(土) 10:37:10.13ID:iPkEM/Cw
家康が関東へ行くときに三河人を連れて行ったせいで
三河弁が標準語になったって話もあったな
0883人間七七四年2014/09/27(土) 11:22:10.23ID:lnIqKtBo
標準語と江戸弁は微妙に違うんじゃなかったっけ?
0884人間七七四年2014/09/27(土) 11:25:02.03ID:Hb3z/6K1
僻地に大家臣団引き連れていくとそうなるんだな
少数派の武士言葉こそ原住民の言葉に飲み込まれると思った
0885人間七七四年2014/09/27(土) 11:28:55.94ID:sOhf8o4p
微妙じゃなくて全然別物
0886人間七七四年2014/09/27(土) 11:58:07.16ID:vMOSrvkX
島原は島原の乱からの復興のために各国から殖民を募ったからいろんな方言が混じっているらしい
0887人間七七四年2014/09/27(土) 12:10:50.52ID:mt4VDkHo
いや別に混じっちょらんけど?
0888人間七七四年2014/09/27(土) 12:56:19.30ID:JK9ARCPT
そもそも、武家の言葉と町人の言葉は違うから。
下級武士で庶民の間で生活してれば影響受けるだろうけど。
勝海舟とか。
0889人間七七四年2014/09/27(土) 15:14:06.39ID:Boe3dW1q
標準語は一番新しい方言とかなんとか
0890人間七七四年2014/09/27(土) 17:03:51.55ID:AmO+dV8k
山手言葉、京言葉、薩摩弁・長州弁のちゃんぽんってどんなキメラかと思う
0891人間七七四年2014/09/27(土) 17:11:04.61ID:30VWer0Q
沖縄の若者言葉は標準語と琉球語のチャンポンらしいが
0892人間七七四年2014/09/27(土) 18:11:03.84ID:JK9ARCPT
いわゆるピジョンイングリッシュみたいなもんじゃね?
征服者の言葉と、現地語が混ざった感じ
0893人間七七四年2014/09/27(土) 21:05:50.91ID:2IBCdfLj
備前、備後、安芸辺りはミャーとかジャーとか語尾についてるから尾張や三河の影響あったんだろうな。
0894人間七七四年2014/09/27(土) 21:36:32.87ID:wtFgQfDw
その辺は往来の関係で畿内の言葉に塗りつぶされそう
0895人間七七四年2014/09/28(日) 08:19:17.43ID:/FZtx0c9
直茂さまは、

「先祖が善かったか悪かったのかは子孫の行い如何で決まる」
(先祖の善悪は子孫の請取手次第)

と仰せになられた。
先祖の悪事は外に出さぬよう、善事を成した者の子孫のはずだと思われるようありたいものだ。
これが孝行である 【葉隠】
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