戦国ちょっといい話40
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0794人間七七四年
2014/09/15(月) 23:39:17.67ID:y4jijLvH進藤三左衛門正次と言う者ただ一人であった。
正次は秀家にこう申し上げた
「日頃、君が御身に付けられし鳥飼国次の脇差は衆人の知るところです。
これを私に賜れば、私は徳川殿の元に参りこれを謀りたいと考えています。
御身はこの地を逃れ、薩摩方に下ってください。」
そう勧めて、正次はその脇差を持って本多忠勝の陣へと参り、
「私は主人の秀家を手に掛けその市街を深く埋め、差料の鳥飼国次の脇差しを
持参しました。」
忠勝は「なにゆえ検使を受けずして、密かに死骸を埋めたのか?」と問うと、
「厚恩の主でありますから、例え我が手にかけるといえども、どうしてその首級を
的に渡し、梟木にかけることが出来るでしょうか?
この脇差は、秀家が常に愛して身から離さなかったことは、内府公(家康)にご存知のはずです。
これを御覧にお入れください。」
忠勝がこれを家康の御覧にれると
「たしかにこれは本物の秀家の脇差である。彼も秀家を害さなければ、よもや当家に降ることはないだろう。」
そう言って進藤正次を御家人に召抱えた。
しかしその頃の人々これに、「主人を害して己が功にするとは、後にはいかなる御誅伐に遭うか図りがたし。」と
囁き合った。
さて、秀家は虎口を逃れ、かろうじて薩摩へと逃れたが、後にそれが発覚し、薩摩へと仰せ言が下り
秀家は召喚された。そして進藤正次の前言との齟齬も究明された。
正次はこれに
「いかにも、はじめは秀家を逃すために偽りを申し上げました。主人のためにこの身を失うことは
元より期しております。この上はいかなる重罪にも処し給われ。」
この事家康も聴き
「己が一命を捨てて主人を救おうというのは、天晴忠義の者ではないか。」
そう賞賛して俸禄をそのまま与えた。
秀家が八丈島へと遠流された後も、正次は旧恩を忘れず、しばしば船舶の便に米金を送っているということも、
後にまた家康の耳に入り、御感に預かり五百石が加増された。
(武家閑談)
進藤三左衛門正次の節義
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これの別パターンですね
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