戦国ちょっといい話40
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0769人間七七四年
2014/09/11(木) 20:25:17.60ID:vMDjQhRRうらやましい。
わたしの家も放置。歯磨きの仕方すらも教えてくれなかった。
あまりにひどくて
見かねた祖母が私のこと育ててくれた。
0770人間七七四年
2014/09/11(木) 20:50:08.13ID:Fh9Jk2yU杉重良は杉重矩の孫で重輔の子にあたる。
4歳の時に父が内藤隆世によって殺された。
しかし、重臣たちが毛利元就を頼ったことで大内家滅亡と相成った。
この一連の出来事がきっかけで毛利家は重良を気にかけるようになった。
重良もこれを気にしていたらしく、大友宗麟の豊前東部の所領安堵よりも居城を捨ててまでして大内輝弘討伐を優先した。
大友宗麟の重良へのラブレターを毛利家に送り、忠誠を示したほどである。
大内輝弘討伐の功で公領である徳地2000貫を与えようとしたくらいである。
重良も毛利家を継いだばかりの毛利輝元の期待に応え、軍功をあげるなどの活躍をした。
1573年、輝元により福原広俊(10代当主)の妹を妻に迎えた。
重良が毛利家にとってどういう立場なのかわかるであろう。
1578年、今度は豊前の高橋家(高橋重種かその一族か)から誘いがあった。
市川元教(経好の子)は誘いに乗り、山口で謀叛を起こして内藤元輔・雑賀隆利(隆和)に捕らえられ自殺した。
重良は同じく誘いを受けた吉見正頼と共にこれを拒否した。
まもなく大友家は耳川の戦いで島津家に大敗し、勢力を大きく衰退させた。
重良はこれをどう思ったのか、好機と見て秋月家を中心に外交で豊前・筑前の豪族との関係修復し、秋月家から人質を出させようと画策した。
秋月家は一旦これに同意したかに見えたが、人質に受け取りに毛利側から畑田右近が使者として向かった。
しかし、秋月家がこれを約束実行を気配を見せなかったため、畑田は『重良謀叛』と輝元に報告してしまった。
0771人間七七四年
2014/09/11(木) 20:51:24.75ID:Fh9Jk2yU面目を秋月家らに潰されただけでなく謀反人とされたのである。
重良は千二百の兵を率い、秋月家らから人質を連れ帰ろうと豊前蓑島(行橋市)へ渡った。
しかし、これを見た秋月種実は豊前長野家や高橋家らと連合して五〜六千の兵で迎え撃った。
その結果、数で勝る秋月連合軍によって惨めな敗北を喫してしまった。
『重良謀叛』の報が毛利家に入ると、義兄の福原貞俊が毛利家中に詫びを入れるために奔走した。
これが功を奏したのか、1579年1月18日に毛利輝元は重良の行為を謀叛と認めつつも子・松千代丸の所領相続を認めた。
輝元が所領相続を認めた理由は以下の二点であった。
・重良の妻が重良に同意していなかったこと
・義兄の福原貞俊が丁寧に詫びを入れたこと
さて、輝元の裁断が下されるちょっと前の1月5日に益田藤兼は秋月種実にこんな手紙を送った。
「杉重良のことは我々が特別に相談してみる。先年からの筋目によって昵懇(入魂、じっこん)にされることが大切だ。」
といっている。
この手紙、何故か重良の子孫に伝わっているという。
重良が謀叛をしながらも、福原貞俊のフォロー・輝元が謀叛を大きく見なかったこと・益田藤兼が秋月種実をなだめたこと
毛利家が重良の謀叛を認めつつも一家断絶を免れさせたいい話
さて、謀叛起こした張本人の杉重良だが、1579年3月4日に高橋鑑種によって討たれているとされている。
異説では北部九州を転々とし、時には『田中源五郎』と変名したりし、最後は鍋島家の客分となったという。
1579年3月4日没としているのは子孫が憚ったのか、毛利家による杉家の名誉を守るための取り計らいかもしれない。
(杉新右衛門覚書)他
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』より一部抜粋
0772人間七七四年
2014/09/11(木) 21:20:10.70ID:vMDjQhRRうらやましい。
わたしの家も放置。歯磨きの仕方すらも教えてくれなかった。
あまりにひどくて
見かねた祖母が私のこと育ててくれた。
0774人間七七四年
2014/09/13(土) 02:00:46.84ID:1PjHXP8J多くあった。
その頃、寒夜に俄に出かけた時、いつも草履が温かいことに家光は気がついた。
家光はこれを怪しみ、何故なのか注意していた所、酒井讃岐守忠勝がいつも草履を懐中に入れて、
肌で温めていることを知った。
そこで家光は悟った
「これは讃岐守が私の微行を危ぶみ、密かに付き従って私のために心を尽くしているのだ。」
この事があって家光は反省し、絶えて夜行を行うことはなくなった。
(空印言行録)
草履を温めていたのは秀吉だけじゃなかったというお話。というかどっちが先に出来たお話なんでしょうね?
0775人間七七四年
2014/09/13(土) 04:24:34.17ID:hBVyp+A00776人間七七四年
2014/09/13(土) 19:12:14.13ID:S569RaeD内藤隆春は毛利家当主・毛利輝元の叔父にあたる。
毛利家に忠義を尽くし、一門格としても誇りをもっていた。
ところで隆春が気にかけていたことといえば、息子たちのことであった。
隆春には元家、元忠、親春の3人の男子がいたが、甥・元盛(宍戸元続の弟)を婿養子にしていた。
特に元家は隆春の実子として思いのほか溺愛していた。
というか壮年期を過ぎて老年期前にできた息子だったそうだ。
豊臣秀吉による朝鮮出兵が決定した際、毛利家においても渡海するメンバーが詮議された。
まず、隆春は老齢であるという理由で免除された。
免除の代わりに佐波川の架橋と防長両国の守備を命じられ、綾木役の半分を与えられた。
※綾木=美祢郡にある地名
また、子・元家もまだ若年だという理由でメンバーから外された。
このことに隆春は不服だったらしく、年甲斐もなく息子宛の手紙に親バカな一面を垣間見せた。
「近日小早川隆景様が来られるので、私のこと(元家を渡海メンバーに入れること)もよく申し上げてほしい。
あなたはとにかく渡海と定め、よくお願いするがいい。そして、家来の召集など諸準備に心配りを怠らないことが大切である。」
と述べた。
結局のところ元家が朝鮮渡海のメンバーに入れたのかどうかは不明だが、その後も元家の身を案じる手紙を送りまくったという。
信長の野望の列伝の内容にあることは大抵は元家に対してのことである。
隆春は1600年に病没し、元家も1612年に亡くなり、元忠が婿養子として入った林家から実家に戻った。
甥・元盛の事件はまた別のお話。
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』から一部抜粋
0777人間七七四年
2014/09/13(土) 22:53:07.71ID:Uftp3aAu服部小平太と毛利新助が討ち取った』というのは、虚説である。元来、義元は勇将では
あるが、床机の周りを固める者もいないのに、一人で床机におられることだろうか。
もし、その通りならば無謀の死である。
信長は今川家の虚を察しなさり、本陣の後ろの山根を押し回って、後ろから攻め寄せ、
馬武者で義元の本陣を縦横に乗り破り、騒動に乗じて突き崩した。今川方はただ上下
とも驚いて慌てふためき、槍を取る間もなく、皆太刀打ちした。
織田方は槍を揃えて突き立てたので、真っ先に進んだ者たちは枕を並べて討死した。
その他にも、負傷や逃亡によってまばらになったことだろう。それまでも義元は
床机に腰をかけ、周りを命じておられた。そこに庵原左近と同庄次郎が馳せて来て、
「本陣の軍士は過半が討死し、備えもまばらになりましたので、何と思し召され
ましても叶いますまい。ここは一先ずお退きになってください」と、申し上げて
馬を引き寄せ、義元をかき乗せた。
この時、元康公がお付け置いた松平某も義元の前へ来て、「元康は大高の城に
おられますので、そこへお引き取りください」と申し上げ、庵原兄弟と松平某の三人が
供をして、大高を目指して退いて行った。
これを見て、島田左京、澤田長門守、岡崎十兵衛、上和田雲平、今井主馬、
平山十之丞、長瀬吉右衛門、平川左兵衛、福原主税らが馳せ来たり、同じく供をして
退いた。しかし、馬備えが散乱したため、馬に乗る手立てが無く、皆々歩行で従った。
義元は胸白の鎧に、金で八龍を打った五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着ていた。
また今川重代の2尺8寸の松倉卿(松倉郷)の太刀と、1尺8寸の左文字の脇差を
帯びて、5才の青毛の馬には金履輪の鞍を置き、紅の尻繋を掛けてお乗りになった
ので美しく、遠目にも「これこそ大将である」と思わぬ者はいなかった。
信長方は四方へ落ち行く者には目もかけず、「どこまでも逃がさぬ」と先を争って
追いかけた。そのため、島田左京や澤田長門守を始め12人の者たちはとって返して
戦うも、徒歩であるうえに戦いには疲れて皆々討死し、義元は一騎となられた。
そこへ服部小平太は一番に追い付き、言葉をかけて近寄った。義元も「心得た」と
馬を引き返しなさったところを、小平太は駆け寄って朱柄の長刀の槍で、義元の
弓手の脇腹をひどく突いた。
けれども、義元は聞こえた強将なので少しもひるまずに太刀を抜き、小平太の槍の柄を
切り折り、馬から下り立った。小平太が槍を捨てて組み合おうとすると、義元は抜き
放っていた太刀で払い切りになされ、太刀先が下って小平太の膝口を切り付けなさった。
小平太は少しも堪えられずに後ろに倒れたため、あわや討たれてしまうと見えた
ところに、毛利新助がすかさず横合から駆けて来て、むんずと義元と組み合った。
義元は初めに小平太が突いた槍で傷を負ったままで、最後には新助が組み勝って
義元を討ったということである。
――『明良洪範続編』
0778人間七七四年
2014/09/14(日) 02:38:03.48ID:Ilnqnsko0779人間七七四年
2014/09/14(日) 10:05:57.39ID:VFSr4d1f良く言われる、今川義元が馬に乗れないなんてどっから出て来たんだろな
0780人間七七四年
2014/09/14(日) 10:13:51.36ID:Wq8euVbd→輿に乗っているから馬に乗れない、と曲解される
0781人間七七四年
2014/09/14(日) 12:03:47.44ID:pXZRTHXC江口五兵衛道連(光清)は天文13(1544)年摂津の斯波頼宗の長男として生まれ初名を国時といい、後に姓を江口と改めた
永禄5年(1562)年18歳の頃、最上義光に仕え、33歳で戦功を立て、義光より「光」の一文字を賜り光清と名乗った
畑谷江口一族に伝わる江口道連の出自
0782人間七七四年
2014/09/14(日) 14:26:41.53ID:uXQtl1ar0783人間七七四年
2014/09/14(日) 16:59:05.95ID:K537axls0784人間七七四年
2014/09/14(日) 17:33:10.78ID:6hnLWb5p無知は黙ってろよwww
0785人間七七四年
2014/09/14(日) 22:49:54.26ID:TVrdJZQq0787人間七七四年
2014/09/15(月) 00:56:42.53ID:nOmT0qUw逸話(いつわ、英:anecdote)
世間や世人にあまり知られていない特定の人物や物事に纏わる興味深い話。エピソード。
あながち間違いでもない。
>>756
経歴がわかって一字を拝領した内容ではいい話とも。
0788人間七七四年
2014/09/15(月) 06:40:28.06ID:y4jijLvH徳川家康は久世広宣と坂部の両人に物見を仰せ付けた。
坂部は仰せを受けると直ぐ様物見へ向かったが、久世は出て行くまで御前を立ちかねるような様子が見えた。
これに近習の者達が笑ったのを、家康は咎めた。
この時、畠山入道(義春)が御側に居たが、彼が「久世の武者振りについて笑ったのですよ」
と申し上げると、家康は激怒した
「汝は知らぬのか!坂部は生来ああいう勇猛な性質だが、久世は仁義の勇を持った
忠臣であることを。彼を笑うのは推参至極である!
今に両人は帰ってくる。しかし、坂部より久世は敵の状況をより間近まで近づき偵察して
帰ってくるだろう。何故なら、久世は物事を大切に、前後を考え、また常に主君のためにと
決意しているからだ。それを知らぬか!?」
そう怒鳴っている所に坂部が戻ってきて家康に報告した。次に久世が戻ってきて報告を行った。
すると案の定、久世は坂部よりも二丁(約200メートル)ほど敵近くまで進んで偵察していた。
(明良洪範)
0789人間七七四年
2014/09/15(月) 07:35:08.21ID:r+QJpQHyほんとに摂津人なのかね
親父の名前でググると、別人かもしれんが山形での逸話があがってくるんじゃが
0790人間七七四年
2014/09/15(月) 08:32:09.39ID:nOmT0qUw光姫伝説の斯波頼宗は数代前の話だから、別人だと思われる。
江口氏の摂津出身の話は『畑谷城主・江口五兵衛光清四百回忌供養塔建建』記念誌が元か。
0791人間七七四年
2014/09/15(月) 17:08:46.71ID:irorfXj1土岐山城守組となった。
十八歳の時に辻忠兵衛の異見に「その方は器量骨柄は良いが武辺をする事
が出来ぬ生まれつきよ」と言われた。
十蔵は憤って「戦場に出たことはありませんから、出た時に事が成る成らぬ
は私自身にも判りません。それなのに他人に判る訳がないではないですか」
と答えた。
忠兵衛は「いやいやそういう事を言っているのではない。武辺を心がける
ものは命を惜しむものだ。その方の交友を見ると道具持ち或いは草履取り
などの類で、好む事と言えば博打や相撲。これでは大した事でも無いのに
命を軽く捨ててしまい、大事な戦いが来るまでに死んでしまうであろう。
惜しいことよ」と言った。
ここに至って十蔵は行跡を改めた。
(武功雑記)
石谷貞清、大坂の陣の前年に行跡を改めるという話
0792人間七七四年
2014/09/15(月) 18:09:04.05ID:AbwVZa6w昔の出典物だと斎藤義龍は6尺以上ある〜 とか
上杉謙信はどれくらいってあったけども
この姫は、この侍女の胸はでかかった、とかってないのかねえ?
0793人間七七四年
2014/09/15(月) 18:24:14.78ID:gs1hf/H30794人間七七四年
2014/09/15(月) 23:39:17.67ID:y4jijLvH進藤三左衛門正次と言う者ただ一人であった。
正次は秀家にこう申し上げた
「日頃、君が御身に付けられし鳥飼国次の脇差は衆人の知るところです。
これを私に賜れば、私は徳川殿の元に参りこれを謀りたいと考えています。
御身はこの地を逃れ、薩摩方に下ってください。」
そう勧めて、正次はその脇差を持って本多忠勝の陣へと参り、
「私は主人の秀家を手に掛けその市街を深く埋め、差料の鳥飼国次の脇差しを
持参しました。」
忠勝は「なにゆえ検使を受けずして、密かに死骸を埋めたのか?」と問うと、
「厚恩の主でありますから、例え我が手にかけるといえども、どうしてその首級を
的に渡し、梟木にかけることが出来るでしょうか?
この脇差は、秀家が常に愛して身から離さなかったことは、内府公(家康)にご存知のはずです。
これを御覧にお入れください。」
忠勝がこれを家康の御覧にれると
「たしかにこれは本物の秀家の脇差である。彼も秀家を害さなければ、よもや当家に降ることはないだろう。」
そう言って進藤正次を御家人に召抱えた。
しかしその頃の人々これに、「主人を害して己が功にするとは、後にはいかなる御誅伐に遭うか図りがたし。」と
囁き合った。
さて、秀家は虎口を逃れ、かろうじて薩摩へと逃れたが、後にそれが発覚し、薩摩へと仰せ言が下り
秀家は召喚された。そして進藤正次の前言との齟齬も究明された。
正次はこれに
「いかにも、はじめは秀家を逃すために偽りを申し上げました。主人のためにこの身を失うことは
元より期しております。この上はいかなる重罪にも処し給われ。」
この事家康も聴き
「己が一命を捨てて主人を救おうというのは、天晴忠義の者ではないか。」
そう賞賛して俸禄をそのまま与えた。
秀家が八丈島へと遠流された後も、正次は旧恩を忘れず、しばしば船舶の便に米金を送っているということも、
後にまた家康の耳に入り、御感に預かり五百石が加増された。
(武家閑談)
進藤三左衛門正次の節義
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8615.html
これの別パターンですね
0796人間七七四年
2014/09/16(火) 08:38:03.33ID:OWUdJ06Mいい話だけどパッと見ただけでも誤字が多すぎるね。
「市街」→「死骸」
「的に渡し」→「敵に渡し」
「御覧にれると」→「御覧に入れると」
今少し推敲希望
0797人間七七四年
2014/09/16(火) 10:40:34.89ID:9ccJHYrq0798人間七七四年
2014/09/16(火) 14:57:44.73ID:86qLHPKL(慶長5年9月14日に富山口を抜け長谷堂北方の山形盆地に進軍した直江兼続だったが
15日の楯岡光直と清水義親の夜襲を受けて、菅沢丘陵へと後退して陣を構えた)
其比(此)、長谷堂には志村伊豆守(志村光安)在城しける間
加勢として(鮭延秀綱の援軍)旗本百騎に小筒の足軽二百餘人籠りける
然るに九月十六日直江山城守(直江兼続)長谷城へ押寄、城十一町を隔て、菅澤山に陣をとれば
春日左衛門(春日元忠)は山の尾崎に備を立、既に春日は仰を窺、明日未明んり可責と也
然は城中の若者一々次第に打而出んとはやりける所に、伊豆守(光安)同加勢(秀綱)と申合壱人も柵より外へ、□(※耳の右側に卯の字)爾に出さず
悉静りかへつて居たりけるが、其夜伊豆守家来に大風右衛門佐、横尾勘解由を大将として兼而夜討に馴たる若者二百人撰び出し互いに相ことばを定め二手に分け
十六二の曉春日左衛門尉が備へたる陣中へ忍入す
こへま立ず、追伏々切ける間、思ひよらざる事なれば陣中上を下へと返しけり何れをかたき共味方共わけざれば同士討する事数多なり
去るに左衛門も馬に乗るべき隙さへなく漸く太刀斗追取て山城守陣中さして逃行ける
然る所に夜打の勢共は左衛門が陣を思ひの儘に打破り討捕し首共を百十五持来り
伊豆守実検に入ければ喜悦其限なく、夜討の大将は不及申其外のもの共に迄ほうびをえさせけり
其夜味方にも八人打死しけるとなり
0799人間七七四年
2014/09/16(火) 15:22:57.92ID:86qLHPKL(義光)「長谷堂の城へは最前より加勢を丈夫に遣し置といへ共いまだ心もとなき間
其方は急長谷堂へ行伊豆守合力後事の評定を致べし
かまへてかまへて日来申付ごとく城中の勢兵を壱人も柵より外不可出」
と有ければ
(秀綱)「畏て候」
とて手勢引くし長谷堂へ行、伊豆守に対面して御意の趣委申渡ける
然るに春日左衛門、十六日の敗軍口惜存、同十八日に先陣にて惣堀へ攻寄るといへども、城中には少もさはがず
四方の矢ぐらより鉄砲を一同あられのごとく打ければ時の間に多の死人出たりけり
寄手是を見て責めあぐんでや有けん、先手負共を助よとて本陣へ引返しける
然ば城の内にてはいよいよ悦就中はやりをの若もの共勝に来ていざや打て出追討なさんとていさみにいさんで打出んとせし所に伊豆守抑へ申けるは
(光安)「何とてかたかたは不入若げを働候哉
此城堅固にして数日送りなば必ず義光公後詰可有之間
其時内外よりもみ合戦候はば立所に勝利を得べし
然るに今卒爾に打て出付入などにせられてはあしかるべし
さて付入と申は昔よりも上杉家のえものとこそ聞及也
殊更義光公鮭延に被仰含候通城中の勢兵返々壱人成共柵より外へ不出可と
委細被仰越候所に卒爾成働共返々無用」
と申けれども若手の者聞も不入
0800人間七七四年
2014/09/16(火) 15:56:55.00ID:86qLHPKL上山、長谷堂とて同様に寄来るに上山にてはかたきを追払、分捕高名せし處に、此城なればとてなんぞ一戦もせざらんやは無念の次第なり」
と口々に申ける所節かたきの方には足軽共をあまた放し散らし作物を苅はこばしむるを越前守
(秀綱)「あれあれ御覧候へ苅田をなすとみへたり
さいわい若手者あまりにいくさ所望の上は我伴ひ出し一いくさすべき間引入候はん時あやうからぬ様に取計候へ」
とて既に打而出んとしけるを伊豆守申けるは
(光安)「かまへて足早に引き給ふべし何程かたき追たるとも返し合給ふ事合やめられて可然候
其後の事はともかくも我々に被任置候へ」
と申ければ越前守につこと打わらひ
(秀綱)「引入ての後は貴殿に預置候。唯今の合戦は随分とはげみ可申の間剛腕の程御見物候へ」
とて旗本組百騎許伴ひ大手の間を押ひらき、いさみにいさんで打て出
苅田をいたす足軽共を追立山際に備たる直江山城守が本陣へ切て入れば寄手も願ふ所の幸と入みだれ追つ返しつ一時程戦ひけるに
とかく味方の軍のつよきにや敵の物頭数多討取ける間、終にさぐり立られ後陣の勢へ逃入ける
味方の兵勝に乗て猶もつづひて入らんとしたりしを
越前守押留、日既に夕陽にかたぶけりとて軍兵る間
寄手是に利を得て更ば付入に乗とれとて手しげく追欠けれども
内々伊豆守と申合たる事なれば少もかまはず足早に引而入にけり
又寄手方よりも透間もなく追て乗入らんとしける所に
伊豆守兼てかく可有とおもひ足軽三百余人引具し大手の口より壱町程斗出し道を中にはさみ
弓手めてに備を立流かけたる事なれば
五間七間引離て三百丁の鉄砲を一度に放かけければ
先にすすむ兵共将□たをしをする如くやにわに三拾騎斗ばらばらと打たをす
後陣共に辟易して進み兼たる内に伊豆守足軽共を下知して手がろく引て入ける間
寄手も力およばずして本陣へ引返しけるなり
『義光物語』
0801人間七七四年
2014/09/16(火) 16:11:10.28ID:86qLHPKL0802人間七七四年
2014/09/16(火) 16:15:16.50ID:5XGUkI4Aとりあえず書きたくてしようがないって感じだ
0803人間七七四年
2014/09/16(火) 17:03:56.32ID:+YLeutM/0804人間七七四年
2014/09/16(火) 17:17:46.65ID:fKsLrd640805人間七七四年
2014/09/16(火) 19:22:42.80ID:dxgkw30U0806人間七七四年
2014/09/16(火) 19:25:22.63ID:W1MFzK9U0807人間七七四年
2014/09/16(火) 19:52:08.07ID:dspFTjQc0808人間七七四年
2014/09/16(火) 19:58:32.88ID:xirEvTHWコピペ指摘された結果、まとめには載らなかった
0809人間七七四年
2014/09/16(火) 22:53:30.84ID:bNwPi0Uw0810人間七七四年
2014/09/16(火) 22:57:37.35ID:KnyN6jA2ある時、松平陸奥守(伊達忠宗)が七尺の金屏風を二隻拵え、淡幽を招きこれに絵を望んだ。
探幽は「これには墨絵が然るべきです」と、この日は屏風を見ただけで帰り、翌日早朝に来て
墨を多く摺らせ、馬の沓を取り寄せ墨に浸し、これを金屏風へ幾つも押し、また大筆で筋を幾つも
引いた。
陸奥守はこの様子を見ていたが、「どうしていいか解らなくなって乱心したか」と言いながら
奥へと入っていってしまった。近習の者達は主人の機嫌が悪いことを淡幽に伝えたが、彼は
「書く時見物は無用です。書き終わってから御覧あるべし。」
そう答えつつ、小筆を取って書き添えると、馬の沓を押した所は蟹と成り、大筆で筋を引いた所は
葦となり、葦間の蟹の絵となった。
もう一隻には柳に燕を書いた。これも始めは墨をこぼしたように書き始めたが、書き終わってみれば
柳に燕となった。
二隻とも無類の屏風と成り、これに陸奥守は大いに喜び、厚く褒美を与えたという。
(明良洪範)
0811人間七七四年
2014/09/17(水) 01:47:26.45ID:nBvDAtiC⇒原文転載。
2>「読みづれえ。」「訳しろよ。」
⇒1に戻る。
おまえらただ最上厨を叩きたいだけだろ。
0812人間七七四年
2014/09/17(水) 03:13:24.56ID:eJbeg7S4お前もモガミンも極端しか無いのかね
0813人間七七四年
2014/09/17(水) 06:31:12.40ID:N9I6qb4L0814人間七七四年
2014/09/17(水) 10:40:27.32ID:TpX5kAqg0815人間七七四年
2014/09/17(水) 13:19:17.90ID:UkZhnkgw0816人間七七四年
2014/09/17(水) 14:12:41.22ID:3z3e6TIG0817人間七七四年
2014/09/17(水) 14:30:00.44ID:8qB5q3kh0818人間七七四年
2014/09/17(水) 16:49:31.77ID:QrV5H72j0819人間七七四年
2014/09/17(水) 20:20:12.45ID:9Masx/Is0820人間七七四年
2014/09/18(木) 15:35:33.40ID:nbKXQu3q0822人間七七四年
2014/09/18(木) 23:43:29.98ID:t9HAUqx3これを見て信玄は総人数を三島にまとめ、駿河に入り建築途中の城の普請を申し付けていた所、
北条も三島の北三十町ばかりに総勢をおろした。そこで北条は3万7千あまりの人数を50備あまりで
立て、武田は総勢2万3千で21の備を立て押し出した。
信玄は、馬場、山縣、小幡、真田、内藤、朝比奈駿河守、岡部次郎右衛門、原隼人、その他侍大将を
老若ともに引きつれ、合わせて百四、五十騎あまりを、味方総軍を5町ほど押し出しておいて
大物身を行った。そこで信玄は
「ここで必ず合戦を行い氏政を討ち、明後日には小田原へ入る。」と仰せ付けた。
しかし馬場はこれを聞き申し上げた
「敵、味方の防戦の地形をご存じなくては、それはいかがかと思います。」
「それについては皆、心やすく思うように。私の両眼の如き者を既に向かわせた。」
その場に居た上下・老若共に、信玄公の御両眼というのは誰人かと不審に思っていた所、
敵近くで物見をしてきた二名の者が帰ってきた。
それを見ると、曽根内匠(昌世)と真田喜兵衛(昌幸)の両名であった。
そこで信玄は地形について両名に尋ねると、「一段の場よしであります。」と申し上げた。
信玄はこれを聞き
「現在は八つ時(午後2時頃)であり、これから合戦を初めると、日が暮てしまい、北条家の者達にとって
おのれの国であるため、山の案内もよく知っている。彼らが夜に紛れて落ち行き、氏政を討ちのがして
しまう事にもなるだろうから、明日の卯の刻(午前6時頃)から合戦を行うべきだろう。」
そう言って、三島へと備を入れた。
しかしその夜、北条氏政は軍勢を、一人も残さず小田原へと引き上げさせた。
この時も信玄は、あらかじめ小田原勢に、夜に紛れて退散する色を見て取っており、なお以ってその様子かと、
曽根内匠、真田喜兵衛両人に自分の観察を教えた。
これより以来、曽根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門の三人にはこのような事が多く、
「あれなら当然弓矢巧者になるはずだ」と、諸人が羨んだのも理であろう。
(甲陽軍鑑)
甲陽軍鑑より「信玄の両眼」についての記述である。
要は弟子みたいなものなんですね。
0823人間七七四年
2014/09/19(金) 02:39:35.25ID:vfaynnTJ若手将校だね
0824人間七七四年
2014/09/19(金) 08:31:45.00ID:AgaFWwwC0825人間七七四年
2014/09/19(金) 09:04:32.06ID:sUxkV9mz甲陽軍鑑だからってのを置いといてもつっこみ所じゃなくね
0826人間七七四年
2014/09/19(金) 10:57:07.85ID:QQjhu4dG何言ってんのお前
0827人間七七四年
2014/09/19(金) 11:09:47.58ID:QonwU8PQ0830人間七七四年
2014/09/19(金) 12:05:28.13ID:sUxkV9mz0832人間七七四年
2014/09/19(金) 17:12:57.31ID:sUxkV9mz0833人間七七四年
2014/09/19(金) 17:16:50.12ID:FDoaW1L50834人間七七四年
2014/09/19(金) 17:29:43.23ID:Qhvf2k0O0835人間七七四年
2014/09/19(金) 21:00:27.58ID:7cJG68K8名前は統一したほうが読み手には分かりやすくていいじゃねえか
0836人間七七四年
2014/09/20(土) 05:21:41.29ID:5hFl6qT+だからそうだと言ってる
甲陽軍鑑に記してある、高坂弾正が書いたものをまとめた、のではなくね
基本的な知識もないなら黙ってた方がいいよ
0837人間七七四年
2014/09/20(土) 06:34:31.06ID:uiPh98o00838人間七七四年
2014/09/20(土) 09:03:55.06ID:BsnFwSVg0839人間七七四年
2014/09/20(土) 09:17:18.34ID:Gj3LEvmJ0842人間七七四年
2014/09/20(土) 16:33:14.11ID:IBikRN6F「人と付き合う時に、どれほど懇意な朋友のところへ行くとしても、
必ず礼義を正しくしなければならない。
しかしながら、あまりにも礼義にばかり心が片寄っては和親が薄くなる。
なので、入る時と出る時の始終を礼義正しくして、対座中はできるだけ
打ちくつろいで談話するとよい。
また、知己のところへ行くと、長座して夜が更けるのも気が付かない
ものである。そんな時は、その家の従者たちが迷惑してしまう。
それゆえ、夜に入ったならば、小便などに立って空を見るものである。
空を見る時は心が改まって、時刻などにも気が付くものだ」
と言った。
――『明良洪範』
0843人間七七四年
2014/09/20(土) 16:58:14.24ID:fqb2tt9nなんてことに気がつくくらいなら
0844人間七七四年
2014/09/20(土) 17:22:26.34ID:t+j5ymUu善い事したかも
0845人間七七四年
2014/09/20(土) 17:34:43.31ID:k6DcBn6N0846人間七七四年
2014/09/20(土) 18:34:24.44ID:JQrtcsQg0847人間七七四年
2014/09/20(土) 21:47:35.10ID:LJ4+hyCPその土地の一部を称名寺という寺に売却した際、代金の一部が未払いのままになった。
寺と武家のやり取りだから、借金の証文(のようなもの)が作られ、官兵衛側が保管していた。
その後、称名寺はちゃんと代金を支払った。
そうなると証文を寺に渡すのが決まりだが、どういうわけか官兵衛、
その証文をなくしてしまった。探したらしいが見つからなかったそうだ。
仕方なく官兵衛「この手紙を、本来そちらに渡す証文の代わりにして欲しい」と書いた手紙を
称名寺に送った。
-----その手紙が、今年の大河ドラマ特別展で展示されていた。
0848人間七七四年
2014/09/21(日) 17:33:03.35ID:Y7ZVFnF2そなたはとてもよくやってくれている。
ワシにはもうそなただけが頼りなんじゃ。
それはそうと、
福島正則と黒田長政が毛利の為に立ち回ってくれているようだが
こいつらはおべっか遣いも有るから頼りにはならないんだよ。
つうか、いまだ井伊直政に対面叶わずでお頼み入り出来てないみたいじゃん?
これはヤバいよ。
毛利家どうなっちゃうの?
とても心配だよ・・・。
(吉川家文書)
0849人間七七四年
2014/09/21(日) 19:09:40.25ID:xjz5QUXq0850人間七七四年
2014/09/21(日) 19:30:32.98ID:Lpg/YPD5ある時、伊達政宗より自筆の書状が届いた。その内容は、
『今朝そちらから遣わされた書状についてだが、宛名は私になっているが、その文面は、
他の人に遣わされるものであった。これは書いた者の誤りだと推察したので、この書状は
返信いたす。』
これを読んで忠勝は激怒し、家司を呼ぶとこの事を話し
「この書状を書いた者に切腹を申し付ける!」
そう大声で言いつけ、そのまま江戸城に登城した。
その後、家司衆は評議した上で、先ず祐筆頭である北条三四郎を呼び、今度の事態を聞かせ、
これを書いた者を糾明するようにと伝えた。
三四郎はこれを聞くと
「御存知の通り我々祐筆の者達は毎日数十通の書状を分担して書いています。ですので、伊達殿への書状を
誰が書いたのかは解りません。筆跡を引きあわせて、その上で判断したいと思います。」
そう申して退出した。この時、三四郎はこう思ったのだ
『今朝、主人である忠勝様が声高に切腹のことを言われたのは、深慮せねばならないことだ。
だいたい人を罰するのに、どうして声高に申し渡すのだ。』
そのようなことを考えつつ密かに忠勝の居間に入って見ると、政宗から返されてきた書状が
床の上にあった。「これか」と取って見たところ、紛れも無く同役の某の筆跡であった。
そこで三四郎は、すぐさまこの書状を引き破り、更に焼き捨てて、そのまま知らぬ顔をしていた。
程なく酒井忠勝が帰宅し、家司衆に「今朝申した書状の事はどうした」と尋ねた。
「その件についてですが。北条三四郎に尋ねた所、数十通を数人で書いているため、
誰の書いたものだとすぐには解りかね、そのため筆跡を引きあわせて書いた者を認定したい、
と申していました。」
「それは尤もの事である。ならば、あの書状をここに持ってくるように。」
そう命じたが、どれほど探しても書状は見つからなかった。そのことを申し上げると
「詮議があるのを知って紛失させたか!不埒者め。」と言ったが、この事はそれで相済んだ。
伊達政宗には、忠勝が自筆で返答をした。
「人の志も立て、また人命を失うこと無く事済んだのは、北条三四郎の仁義忠信の為す所である。
君臣合体とはああ言う事を言うのだ。」
これは酒井忠勝が死去した後、ある人が語った言葉である。
(明良洪範)
0853人間七七四年
2014/09/21(日) 20:53:21.16ID:dVF6Y+ZT親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる
0857人間七七四年
2014/09/22(月) 20:03:52.66ID:fLwZXY1g修理して居城とし、”大御所”と称した。
その頃、朱や玳瑁(タイマイ)の柄の槍は、殊更武功の有る者でなければ持ってはならないとの仰せがあった。
さて、この駿府城の修理を担当した諸大名の内、細川越中守忠興の持ち場に、皆朱の槍を持ち、菖蒲革の
立付を履いて、下使30人ばかりを召し連れて指揮する者があった。目付のものがこれを見咎め、
その名を問うたところ「細川家中、澤村大学なり!」と答えた。
その事が報告されると、家康は
「澤村…、ああ、その澤村は若き頃は才八と言った男だ。
あれは小牧の合戦の時だ。太閤は二重堀に砦を構え、数多の人数を籠め置いていた。
私が長久手の戦に撃ち勝ったので、太閤も二重堀の砦を保つことは出来ないと退こうとしたが、
もし私が小牧より追い打ちをかけてこないかと恐れ、自ら数万の兵を率いて青塚というところに備え、
二重堀の砦を明けて引き退いていたのを、織田信雄が追い打ちを仕掛け、彼は敗北してしまった。
この時信雄と戦ったのは、殿を担当していた細川越中であったが、その澤村が一番に、信雄の軍に対し
槍を合わせたのを、私は目の当たりに見及んだ。
あのような剛勇の者にこそ、皆朱・玳瑁の槍を持たせるために、並々の者には禁ずるべしと命じたのだ。」
この家康の言葉に、澤村大学は面目を施し、有り難さのあまり感泣したという。
(天元実記)
0858人間七七四年
2014/09/22(月) 20:12:30.03ID:oBCZtMrn0859人間七七四年
2014/09/22(月) 20:25:27.64ID:tcxUFePh権現様記憶違いという逸話は無いのだろうか?
0860人間七七四年
2014/09/22(月) 21:49:36.11ID:hER1rlWxhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6021.html
が既出だが、以下のようなものもある。
「細越中 いつ様 御報
猶々、貴様のかやうに御心入御座候ところは、我ら余の人の千度より忝なく候、以上
貴札拝見仕り候、新キ人ねん◇◇(不明)送り下され候、思し召しより御心さし浅からず候、
いまだにしかしかと御座なく候て、薬をたへ申し候。天キ故かしらいたく候て、ねてい申し候、恐々謹言、
(花押)」
(なおなお、あなた様のこのようなお心遣いは、私たち余人の千回よりもかたじけなく思います。
お手紙を拝見しました。新しい人ねん◇◇をお送り下さり、あなたのお思いになるより立派な贈り物です。
いまだに体調がしっかり致しませんで、薬を飲んでいます。天気ゆえか痛みがあり、寝ている次第です。)
(年次不明、真田家文書)
忠興、信之からの病気見舞いに対する礼状である。
(一行目は↑のタケノコの手紙の追伸と全く同じ文なので、その手紙の最後の一枚が
この手紙の一枚目と間違えられているのかもしれないが、原典のままとした)
0861人間七七四年
2014/09/22(月) 22:15:54.99ID:mld1qJgw0862人間七七四年
2014/09/22(月) 23:09:04.45ID:R+fUIXZj後半部分のみならこうらしい
羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候
0863人間七七四年
2014/09/23(火) 13:41:49.60ID:R4jIaMgzすぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか
0864人間七七四年
2014/09/23(火) 23:02:58.58ID:S8utVFQP浅野長晟にお命じになった。加藤家は森本儀太夫(一久)が奉行を行った。
さて、この付近一円は沼だったので、石垣の土台を固める時に森本は指図して
人夫を大勢出し、武蔵野の萱をおびただしく刈り取らせ、それを沼に入れた。
そして、10歳から13,4歳までの子供を集めて、その沼の上で遊ばせた。
子供たちは面白く思って踊り狂った。そうして日を送るうちに、浅野家方では
石垣が大方出来上がった。諸人は皆、森本の指図の埒が明かぬのを笑っていた。
森本は諸人の嘲笑には全く構わず、前述の沼がよく固まったのを見て石垣の
築き立てにかかったので、浅野家方よりはかなり遅れて出来上がった。
ところがある日、大雨が降り、この時に浅野家方が築き立てた石垣は、
土台がよく固まっていないので所々崩れ、再び築き直した。一方で、
加藤家方が築き立てた石垣は、よく固まっていたので少しも崩れなかった。
これを見て諸人は、森本の指図に感心した。浅野長晟はこれを聞いて森本を
招き、そのやり方を問うた。森本は答えて、
「沼などを固めるには、急に固めては完全にはならない。そこで萱を踏み込み、
童子らに踊り狂わせて、自然と固めたのである」
と言った。後世に至っても、沼などを埋めるには、この森本の工夫を用いる
ということである。この森本は加藤家において中老であった。かつ、武勇の
聞こえある良士である。
――『明良洪範』
0865人間七七四年
2014/09/23(火) 23:16:38.11ID:BlCXq4j60866人間七七四年
2014/09/23(火) 23:31:50.04ID:4z+jW3CR0867人間七七四年
2014/09/24(水) 02:25:32.15ID:msEfpLVX0868人間七七四年
2014/09/24(水) 08:56:00.63ID:V1jcRmr6■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています