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戦国ちょっといい話40

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0001人間七七四年2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0713人間七七四年2014/09/05(金) 19:23:10.54ID:pPVZOv5w
>>712
お前も消えろ
おとなしくなw
0714人間七七四年2014/09/05(金) 20:16:39.27ID:+6sy/bN0
ギャハハw
0715人間七七四年2014/09/05(金) 20:21:58.44ID:fo9ML5UZ
はい草
0716人間七七四年2014/09/05(金) 21:06:10.87ID:VjAuS3Bl
喧嘩すんな
0717人間七七四年2014/09/05(金) 23:23:03.49ID:+twIys+W
雑談・今日のその日

ググってたら凄い事がわかった!
伊達政宗爆誕・1567年9月5日
駒姫京で刑死・1595年9月5日
最上義康暗殺・1603年9月5日
最上家にとっては魔の9月5日…
0718人間七七四年2014/09/05(金) 23:25:32.99ID:Go1NGoOK
>>701
家康が道路工事させた下りは、こっちのバージョンにはないんだね。

しかし田澤正忠って人も過激だね、殿様によってはその場で無礼討ちされてもおかしくない行動だ。
ちょっかいを出されて、イラっとしたんだろうなあww
でも、素敵なやり返しの方法だ。
お互い信じているからできることだよね。

君臣相信じ相親しむというのは、家康存命中の徳川の素晴らしいところだよね。
そうでもなきゃ、天下は治められないのかもしれない。
0719人間七七四年2014/09/05(金) 23:54:26.57ID:aN0gU4KM
大御所・徳川家康が死の床に付いた時、将軍秀忠を側に呼び、様々な遺言をした。
この時、秀忠は悲嘆激しく、涙を流し嗚咽していた。
家康はこの様子を見て

「秀忠よ、人の生死は定められた運命なのだから、そのように嘆くものではない。
今より後、天下の人々は御身を月とも太陽とも戴き、仰ぐことになるのだから、よく天下大小の機務に
勤め、些かも怠らないように。

ただし、当家が天下を治めてから日が浅く、今まで創建した所の法規や政令は、未だ全備したものではない。
私も近年の内にそれぞれ改修したいと考えていたのだが、今は、残念ながらそのことも遂げられなく成ってしまった。

私が死んだ後に、御身は些かもはばかること無くそれらを改正せよ、それこそが私の志を継ぐとも申すべき
孝道である。」

そう申し残した。

この言葉について、後にこの当時の幕僚の中に、こう評したものがあった
「家康公は元々、将軍家(秀忠)と考えや認識に違いがあるので、自身が死んだ後は必ず新政の数々が
行われると予想されていた。

しかし前代に建て置かれた決まりを俄に改めるようなことをすれば、『当代の将軍は不徳である』などと
世の中に持ち騒がれる事にもなるかと考えられた。

そのため、秀忠公が思うように政務を行えるよう、予めこのような御遺命を残されたのである。」

(徳川実紀)
0720人間七七四年2014/09/06(土) 09:34:30.01ID:EkIbGPLQ
この逸話は秀忠、家光のバージョンの方が有名だけど家康、秀忠もあったのか…
0721人間七七四年2014/09/06(土) 11:41:55.21ID:3Q6lDSEc
>>701
反骨だが有能で、家康が大好きそうなタイプではある。

それと、ちょっと調べたら寛政重修諸家譜に資料あった。

田澤正次 庄兵衛
田澤七右衛門正忠が二男。
鳥見役をつとめ、のち東福門院の御所に附属せらる。

正次
木工右衛門
父が遺跡をつぎ、のち鳥見役をつとむ。これより子孫御家人たり。


ざっと見ただけだけど、本家には鷹に関する記述はない。
鷹の特技は、分家が継いでいったみたい。
0722人間七七四年2014/09/06(土) 16:49:25.10ID:0w7yHmTh
正次の息子も正次って変だな。

>>700
>>701
武田の末ってのは、末裔って意味でいいのかね?
0723人間七七四年2014/09/06(土) 18:15:05.53ID:86QuRaOJ
上総武田系らしい
0724人間七七四年2014/09/06(土) 18:31:01.41ID:IKPv6NBa
てことは信長系か
0725人間七七四年2014/09/06(土) 20:48:32.15ID:Zibgnl2J
>>666
既出なんだなあ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3726.html
0726人間七七四年2014/09/06(土) 23:59:14.92ID:mc2AAiZ0
ドヤ顔www
0727人間七七四年2014/09/07(日) 01:23:19.56ID:QqURm2zp
>>666
以前丹沢正昌のエピソード(信虎の命で北条から鷹をぶんどる)を書いたものですが、
私も正忠に関してももう一つエピソードを持っているので、悪い話スレに書きます。
0728人間七七四年2014/09/07(日) 18:25:54.56ID:WjP/WeLG
>>711
腹切るくらいなら早めに止めろや、というのは言っちゃダメか
0729人間七七四年2014/09/07(日) 20:55:48.08ID:S9b8+mKr
>>728
「忠臣は亡国に現れる」って例とはちょっと違う気がするよな
何にしろ、良い話とは全然思えない・・・
0730人間七七四年2014/09/08(月) 07:16:18.45ID:WufHteIh
主君ではなく主家に対して忠義を尽くしたとか
狂人にたいして諫死するよりも殉死したほうが名誉と考えたかもしれんし
0731人間七七四年2014/09/08(月) 09:28:49.09ID:BauNpNjk
今日は中秋の名月という事で月見に関するお話

月見を口実に延沢屋敷へ

最上義光「力の分においてはおそらく我随分世に越たるように人にも謂われし故、
あわれ対體の族もあれかし力比べをなさんと願う所に、幸い今度能登守の働きを見聞するにあっぱれ我に優る程の事なり
いざや力を試して遊ばん」

『最上記』(天正年間、旧暦の7月15日)

義光(´・ω・`)「殿はかなり力の持ちですよ。おそらく世の中に殿を越える力持ちはそうは居ませんよ、と人にも言われるし自分でもそう思うんよ
今まで自分と同じくらいの力持ちと力比べをしたいと願ってた所に、幸い今度味方になった延沢満延が、見事に義光を越えるくらいの力持ちなんよ
さあ、どれくらいの力持ちなのか、満延の力を試して遊ぼうww」

月見を理由に延沢満延宅を訪問すると使者を送った鮭様の密かな楽しみ

結果:鮭延秀綱から借り受けて来た高橋英国(裸武太之助ほか、志村藤右衛門や小関加左衛門といった武勇の士らがこっぴどく満延に投げ飛ばされた
0732人間七七四年2014/09/08(月) 09:37:33.44ID:cjypXYP9
やっぱまーくんのDQNの半分は最上の血なんだろうなw
0733人間七七四年2014/09/08(月) 09:48:26.62ID:QMquSI9P
鮭様は楽しい脳筋。
07347312014/09/08(月) 17:28:28.20ID:BauNpNjk
>>731

×殿はかなり力の持ちですよ。
○殿はかなり力の持ち主ですよ。

×高橋英国(裸武太之助ほか
○高橋英国(裸武太之助)ほか

でお願いします
0735人間七七四年2014/09/08(月) 17:56:03.51ID:M3Mmz6fl
モガミンはまとめブログ管理人に足向けて寝られないなw
突然の大量投稿や誤字脱字を文句ひとつ言わずしてくれるんだからw
0736人間七七四年2014/09/08(月) 18:33:14.02ID:CsP7b96V
推敲もできんからな
0737人間七七四年2014/09/08(月) 18:40:29.85ID:vhO9Nd0K
山形の人は携帯で書き込んでるみたいだから仕方ないね
0738人間七七四年2014/09/08(月) 22:03:30.64ID:9OSnhbOm
最上のイメージ下がる一方
0739人間七七四年2014/09/08(月) 22:14:18.09ID:ZFE1Y9L7
東北の人の歴史に残るねちっこさというか
陰湿な努力の一端は垣間見えるね
0740人間七七四年2014/09/08(月) 22:15:09.57ID:Vbnr5xpN
モガミンの人はADHDなだけだから許して差し上げろ
真性のキ○ガイどもに比べれば夢のように無害な存在だし
0741人間七七四年2014/09/08(月) 22:26:32.14ID:X0GLBWLD
どこまで原文準拠でどこから創作なのか分からないのがな
よく会話調になってるけど本当にそう書いてあるのか?
0742人間七七四年2014/09/08(月) 23:03:42.86ID:RDw68GwG
モガミンは根っからの悪い人ではないと思う
地元愛?と最上家愛は感じるから
0743人間七七四年2014/09/08(月) 23:32:09.81ID:GEQNFXDG
相変わらず間違いばっかだなぁ
0744人間七七四年2014/09/08(月) 23:37:16.88ID:KWCMqsdg
自分で投下した逸話にまとめで自演拍手付けてそう
0745人間七七四年2014/09/08(月) 23:39:29.35ID:9OSnhbOm
>>740
欠点は幾度も指摘されてるのに頑なに直さない(直せない)のはやはりそういうことかな
悪意の有無はさておき、そういう類の人に広報する使命感を抱かれてしまった最上家と他の最上ファンこそ憐れよの
0746人間七七四年2014/09/08(月) 23:56:26.68ID:S/JcgjJl
最上大好き朝鮮人は投稿する前に100回読み直せ
0747人間七七四年2014/09/08(月) 23:59:49.00ID:/p87a4ux
アンチくん粘着しすぎ。
逸話を投稿する分、最上の方が遥かに良い。
0748人間七七四年2014/09/09(火) 00:05:08.52ID:tMjUXVnz
最上乙
0749人間七七四年2014/09/09(火) 00:43:14.87ID:wqe4ekIH
最上ンは根っからの悪い人じゃないと思うってwwwwwwwwwww
当人wwwwwwwww
0750人間七七四年2014/09/09(火) 01:10:56.45ID:8xohpBZZ
将軍徳川秀忠が伊豆の三島を通行した時のこと。
旅館にて寝ていた時、近臣達は御傍に在って四方山の話をしていた。
その中の一人の話に

「先に通行していた時に、御中間のなにがしと言うのが剛の者で、三島の神池のウナギを蒲焼きにして食したそうです。
常には神のウナギなどと言って、現地の人々は手も出さぬそうですが、『上様のお供であれば何の祟があるべきか!』
と言って食ったそうで、何とも剛の者ではないでしょうか。」

これを耳にした秀忠は俄に起き上がり、
「どういうことだ、もう一度言え!」
と、重ねてその話をじっくりと聞き、「本多佐渡を呼べ!」と、本多正信を召すと同じ話を聞かせ、
正信に命じて

「その中間を糾明し、事実ならば明日、その者を町端で磔にかけよ!そして札にその理由を書いて晒すのだ。
私の権威を借りて霊神を軽んず様に成っては、今後誓詞の文なども徒になってしまう。
これは小事のように思うかもしれないが、それによって与える悪影響は、容易ならぬものだ。」

そう言って、終に法の如くこれを処置したそうである。
(徳川実紀)
0751人間七七四年2014/09/09(火) 02:15:39.26ID:P49om+No
>>747
顔真っ赤にして反応しなくていいんだぞ日本語不自由な朝鮮人よ
0752人間七七四年2014/09/09(火) 07:48:41.74ID:hqzWiD2W
0753人間七七四年2014/09/09(火) 08:16:58.16ID:N0huRNoW
最上の人ってまとめの管理人さんなんでしょ?
0754人間七七四年2014/09/09(火) 09:40:13.41ID:qnikwDg1
別人だぞ
0755人間七七四年2014/09/09(火) 13:40:14.70ID:+tT+ONL+
なぜ分かるんだw
0756人間七七四年2014/09/09(火) 13:42:37.95ID:D5f4vWY7
ヒ見りゃわかる
0757人間七七四年2014/09/09(火) 14:04:03.04ID:SYUCtubi
scに投稿して反映されてないとかいってただろ
0758人間七七四年2014/09/09(火) 17:40:38.76ID:Uhlc6+Ql
島原落城の時、牧野伝蔵(成純)は一番に進み、二の丸と本丸との境の、
右の方の木戸から、本丸へ入ろうとした。しかし、敵方が大石を激しく
投げたので、少し退いて堤の陰に立ち、様子を見ていた。

そこへ、立花勢がその堤の上に上り、敵方へ激しく鉄砲を放った。
そのため、敵兵は少し猶予したので、

伝蔵は十文字槍を取り直して本丸の下まで突入した。その時、傍らの
洞穴から敵兵が出て鉄砲を差し向け、伝蔵が近寄れば撃とうと構えた。

伝蔵には前もって柳生但馬守(宗矩)に聞いておいた心得があったので、
彼は敵兵の鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。敵兵は伝蔵が近付く
のを見て、鉄砲を撃ち放った。

その弾丸は槍に当たり、それて伝蔵の肘をかすり、外側へ飛んで行った。
そして、伝蔵はそのままその敵を一槍で突き伏せたということである。

――『明良洪範』
0759人間七七四年2014/09/10(水) 06:39:47.84ID:c+C10CCG
漫画みたいな心得だ
0760人間七七四年2014/09/10(水) 07:25:06.47ID:xVOMU0vb
心得
「特に支障なし」
「腹据えて進むのみ
0761人間七七四年2014/09/10(水) 19:19:37.98ID:xVOMU0vb
>>750
虎の威を借る何とやらってーヤツだな
エスカレートして「俺は上様のお供じゃー」で乱暴狼藉働かれたら困るしな
0762人間七七四年2014/09/10(水) 19:44:20.59ID:I/gLwwtb
酒井雅楽頭忠世は、徳川家光のもとで大老を務め、補導第一の良臣であった。
彼はいつも正言を申すため、まだ歳若き家光には煩わしく思い、忠世に何か言われた時は、
いつも機嫌が悪かった。

ある日家光が大手前を通った時、「あの家は誰の家か」と尋ねると、「雅楽頭の家で御座います」と答えられた。
そのとたん、家光は顔をしかめた。それほど酒井忠世を嫌っていたのである。

ある年の事、八朔の賀に御三家はじめ諸大名江戸城に登城した時、家光は前夜より二の丸に在って、未だ
還御無かった。
酒井忠世は二の丸に渡り、「拝賀の者は皆集まりました。早くお還りあって賀儀を受けられますように。」
との言葉を伝えるよう家光の御傍の者達に言ったが、彼らは家光の事を憚って、誰も取り次ごうとしなかった。

そのため忠世は直接家光の御前に出て、その旨を言い聞かせた。この事に家光は激怒した
「忠世、取次なしに私の前に出るのは推参である!必ず咎めを与える!」

「それがしの事は後日、どのようなお咎めも蒙りましょう。今朝はとにかくお還りください。」
これに家光も拒否できず、やがて本丸へと還り諸大名の拝謁を受けた。
その後何の沙汰もなく数日が過ぎたが、忠世は西の丸の大御所秀忠の元を訪れ

「私は性質愚鈍であるのみならず、歳も取り、また殊に御前もよろしからねば、老職を
お許しありますように。」

そう、大老職の辞任を申し出、また八朔の日のことも申し上げた。秀忠はこれに何も言わなかった。

間もなく、家光が西の丸の秀忠のもとに渡ることがあり、忠世も召され左右に侍った。
そこで秀忠が
「忠世は年老いて、さぞ本丸での職務にも労しているだろう。今日は殊に冷気が強い。
これを取らせる。」
そうして自らかぶっていた頭巾を取ると、手ずから忠世に与え「直ぐにこれを被るように」と言ったが、
忠世は御前を憚り被ろうとしなかった。家光はこれを見て
「上意であるぞ。何故被らないのか」
と言ったため、終にこれを被ると「良く似合っている」と笑った。

その時、秀忠は家光に向かい
「将軍は雅楽頭を気に入らぬそうだな。彼は東照宮(家康)このかたの旧臣であり、天下大小の
政事に熟練しているので、私が将軍職を譲った時、それに添えて彼を遣わした。
それを気に入らぬというのは。御身の我意というものである。
よいか、天下を治めるものに、我意はならぬものだ。」

そう言い、また八朔の日のことも取り上げ強く教諭し、これを家光も畏まって聞いたが、何の答えも
しなかった。

忠世は、この後どんなお咎めを受けるかも解らないと思っていたが、家光は本丸に帰ると直ぐに
忠世を召して

「今日は御隠居様(秀忠)より殊の外お叱りを受けた。よく考えて見れば、お前が天下の政道を大事と思って
言う言葉を、私は悪しざまに聞いていた事は、今更悔いても甲斐のないことである。

雅楽頭よ、今後は尚更に、思うことを残さず言ってほしい。」

そう、さわやかな表情で言った。その後城構えの工事御覧のため出かけたが、この時家光が
「雅楽、先にいけ、先にいけ」と言うので忠世が先に回った所、さらに「頭巾!頭巾!」と
先に秀忠より頂いた頭巾を被るよう促した。しかし忠世が被りかねた様子だったので
「御免であるぞ!否むこと無かれ!」と言って、終に被らせたという。
(葛藤別紙)
0763人間七七四年2014/09/11(木) 14:27:35.55ID:6EVqz2OS
最上義光から竹貫参河(岩城家重臣・竹貫重光)への手紙

「馳堂(長谷堂)と申し候地へ陣取り候
此方に於ても敵を押し詰め近陣仕り候いて一戦を遂げ候所、不思議の天道を以て勝利を得、会津宗徒五十騎討ち取り
且つ又後日に一戦を遂げ、此時また敵三十余騎討ち取り候」

『会津四家合考』

長谷堂合戦で
上杉の大軍を城を討って出た野外の陣で間近にも係わらずに寡兵で留められたのは
「不思議の天道を以て」と
幸運に救われたのです、と本音の垣間見える義光の手紙
0764人間七七四年2014/09/11(木) 14:59:47.69ID:Ma+XRQaQ
>>762
ダメだ、「頭巾!頭巾!」と言ってる家光の顔が、クマーのAAみたいになってるように考えちまうww
0765人間七七四年2014/09/11(木) 17:05:23.26ID:IcA/rOD/
どんな頭巾だったのだろうか。
0766人間七七四年2014/09/11(木) 18:46:40.63ID:DAvsj1i8
赤い頭巾だと思う
0767人間七七四年2014/09/11(木) 19:42:44.00ID:/aHn3j5H
悪代官風とか?
0768人間七七四年2014/09/11(木) 20:10:17.04ID:q2O+c4JI
観世小次郎が、将軍徳川秀忠の殿中において初めて猿楽を仕った時のことである。
この時、ワキを務めたのはは高安彦太郎といって、その頃名高きものであった。

この日、ワキの見所はなく、ただ小次郎の様子がいかにも優れているように見えたため、
見物の者達からは「藝は上手に収まるというが、この事だ。さすがの彦太郎も
小次郎に気圧されて見る影もない。」と囁き合った。

ところが秀忠は、猿楽が全て終わった後このように評した

「私は、彦太郎が名人だということを、今日こそは知った。
何故なら、小次郎は今日はじめて藝を見せるので、彦太郎はそれがしやすいように構えて、
己の藝をあえて抑えていた。これは上手の更に上であり、並々の者に出来ることではない、
格別の技である。

小次郎もさすが幕閑の子らしく、よく演じた。」

(明良洪範)

徳川秀忠が藝について語ったお話。
0769人間七七四年2014/09/11(木) 20:25:17.60ID:vMDjQhRR
面倒みてくれたアスペのお父さんがいる人は
うらやましい。
わたしの家も放置。歯磨きの仕方すらも教えてくれなかった。
あまりにひどくて
見かねた祖母が私のこと育ててくれた。
0770人間七七四年2014/09/11(木) 20:50:08.13ID:Fh9Jk2yU
この男、杉重良


杉重良は杉重矩の孫で重輔の子にあたる。
4歳の時に父が内藤隆世によって殺された。
しかし、重臣たちが毛利元就を頼ったことで大内家滅亡と相成った。

この一連の出来事がきっかけで毛利家は重良を気にかけるようになった。

重良もこれを気にしていたらしく、大友宗麟の豊前東部の所領安堵よりも居城を捨ててまでして大内輝弘討伐を優先した。
大友宗麟の重良へのラブレターを毛利家に送り、忠誠を示したほどである。

大内輝弘討伐の功で公領である徳地2000貫を与えようとしたくらいである。

重良も毛利家を継いだばかりの毛利輝元の期待に応え、軍功をあげるなどの活躍をした。

1573年、輝元により福原広俊(10代当主)の妹を妻に迎えた。
重良が毛利家にとってどういう立場なのかわかるであろう。

1578年、今度は豊前の高橋家(高橋重種かその一族か)から誘いがあった。
市川元教(経好の子)は誘いに乗り、山口で謀叛を起こして内藤元輔・雑賀隆利(隆和)に捕らえられ自殺した。
重良は同じく誘いを受けた吉見正頼と共にこれを拒否した。

まもなく大友家は耳川の戦いで島津家に大敗し、勢力を大きく衰退させた。
重良はこれをどう思ったのか、好機と見て秋月家を中心に外交で豊前・筑前の豪族との関係修復し、秋月家から人質を出させようと画策した。

秋月家は一旦これに同意したかに見えたが、人質に受け取りに毛利側から畑田右近が使者として向かった。
しかし、秋月家がこれを約束実行を気配を見せなかったため、畑田は『重良謀叛』と輝元に報告してしまった。
0771人間七七四年2014/09/11(木) 20:51:24.75ID:Fh9Jk2yU
これに驚いたのは重良である。
面目を秋月家らに潰されただけでなく謀反人とされたのである。

重良は千二百の兵を率い、秋月家らから人質を連れ帰ろうと豊前蓑島(行橋市)へ渡った。
しかし、これを見た秋月種実は豊前長野家や高橋家らと連合して五〜六千の兵で迎え撃った。

その結果、数で勝る秋月連合軍によって惨めな敗北を喫してしまった。


『重良謀叛』の報が毛利家に入ると、義兄の福原貞俊が毛利家中に詫びを入れるために奔走した。
これが功を奏したのか、1579年1月18日に毛利輝元は重良の行為を謀叛と認めつつも子・松千代丸の所領相続を認めた。

輝元が所領相続を認めた理由は以下の二点であった。
・重良の妻が重良に同意していなかったこと
・義兄の福原貞俊が丁寧に詫びを入れたこと

さて、輝元の裁断が下されるちょっと前の1月5日に益田藤兼は秋月種実にこんな手紙を送った。
「杉重良のことは我々が特別に相談してみる。先年からの筋目によって昵懇(入魂、じっこん)にされることが大切だ。」
といっている。
この手紙、何故か重良の子孫に伝わっているという。


重良が謀叛をしながらも、福原貞俊のフォロー・輝元が謀叛を大きく見なかったこと・益田藤兼が秋月種実をなだめたこと
毛利家が重良の謀叛を認めつつも一家断絶を免れさせたいい話


さて、謀叛起こした張本人の杉重良だが、1579年3月4日に高橋鑑種によって討たれているとされている。
異説では北部九州を転々とし、時には『田中源五郎』と変名したりし、最後は鍋島家の客分となったという。

1579年3月4日没としているのは子孫が憚ったのか、毛利家による杉家の名誉を守るための取り計らいかもしれない。

(杉新右衛門覚書)他
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』より一部抜粋
0772人間七七四年2014/09/11(木) 21:20:10.70ID:vMDjQhRR
面倒みてくれたアスペのお父さんがいる人は
うらやましい。
わたしの家も放置。歯磨きの仕方すらも教えてくれなかった。
あまりにひどくて
見かねた祖母が私のこと育ててくれた。
0773人間七七四年2014/09/11(木) 22:40:01.55ID:DAvsj1i8
>>768
幾つかの武道でやられ役は師匠が勤めるってのを思い出した。
0774人間七七四年2014/09/13(土) 02:00:46.84ID:1PjHXP8J
徳川家光がまだ若干の頃は怖いもの知らずで、内々に微行(こっそり城の外にでること)も
多くあった。

その頃、寒夜に俄に出かけた時、いつも草履が温かいことに家光は気がついた。
家光はこれを怪しみ、何故なのか注意していた所、酒井讃岐守忠勝がいつも草履を懐中に入れて、
肌で温めていることを知った。
そこで家光は悟った

「これは讃岐守が私の微行を危ぶみ、密かに付き従って私のために心を尽くしているのだ。」

この事があって家光は反省し、絶えて夜行を行うことはなくなった。

(空印言行録)

草履を温めていたのは秀吉だけじゃなかったというお話。というかどっちが先に出来たお話なんでしょうね?
0775人間七七四年2014/09/13(土) 04:24:34.17ID:hBVyp+A0
M宗「秀吉だろJK」
0776人間七七四年2014/09/13(土) 19:12:14.13ID:S569RaeD
内藤隆春のちょっとした親バカさ


内藤隆春は毛利家当主・毛利輝元の叔父にあたる。

毛利家に忠義を尽くし、一門格としても誇りをもっていた。
ところで隆春が気にかけていたことといえば、息子たちのことであった。
隆春には元家、元忠、親春の3人の男子がいたが、甥・元盛(宍戸元続の弟)を婿養子にしていた。
特に元家は隆春の実子として思いのほか溺愛していた。
というか壮年期を過ぎて老年期前にできた息子だったそうだ。

豊臣秀吉による朝鮮出兵が決定した際、毛利家においても渡海するメンバーが詮議された。

まず、隆春は老齢であるという理由で免除された。
免除の代わりに佐波川の架橋と防長両国の守備を命じられ、綾木役の半分を与えられた。

※綾木=美祢郡にある地名

また、子・元家もまだ若年だという理由でメンバーから外された。
このことに隆春は不服だったらしく、年甲斐もなく息子宛の手紙に親バカな一面を垣間見せた。
「近日小早川隆景様が来られるので、私のこと(元家を渡海メンバーに入れること)もよく申し上げてほしい。
あなたはとにかく渡海と定め、よくお願いするがいい。そして、家来の召集など諸準備に心配りを怠らないことが大切である。」
と述べた。

結局のところ元家が朝鮮渡海のメンバーに入れたのかどうかは不明だが、その後も元家の身を案じる手紙を送りまくったという。
信長の野望の列伝の内容にあることは大抵は元家に対してのことである。

隆春は1600年に病没し、元家も1612年に亡くなり、元忠が婿養子として入った林家から実家に戻った。

甥・元盛の事件はまた別のお話。


『山口県の歴史』、『楠町の歴史』から一部抜粋
0777人間七七四年2014/09/13(土) 22:53:07.71ID:Uftp3aAu
義元の討死の事を記した書物に『最期は机にかかり、少しも動かずにおられたところを
服部小平太と毛利新助が討ち取った』というのは、虚説である。元来、義元は勇将では
あるが、床机の周りを固める者もいないのに、一人で床机におられることだろうか。
もし、その通りならば無謀の死である。

信長は今川家の虚を察しなさり、本陣の後ろの山根を押し回って、後ろから攻め寄せ、
馬武者で義元の本陣を縦横に乗り破り、騒動に乗じて突き崩した。今川方はただ上下
とも驚いて慌てふためき、槍を取る間もなく、皆太刀打ちした。

織田方は槍を揃えて突き立てたので、真っ先に進んだ者たちは枕を並べて討死した。
その他にも、負傷や逃亡によってまばらになったことだろう。それまでも義元は
床机に腰をかけ、周りを命じておられた。そこに庵原左近と同庄次郎が馳せて来て、

「本陣の軍士は過半が討死し、備えもまばらになりましたので、何と思し召され
ましても叶いますまい。ここは一先ずお退きになってください」と、申し上げて
馬を引き寄せ、義元をかき乗せた。

この時、元康公がお付け置いた松平某も義元の前へ来て、「元康は大高の城に
おられますので、そこへお引き取りください」と申し上げ、庵原兄弟と松平某の三人が
供をして、大高を目指して退いて行った。

これを見て、島田左京、澤田長門守、岡崎十兵衛、上和田雲平、今井主馬、
平山十之丞、長瀬吉右衛門、平川左兵衛、福原主税らが馳せ来たり、同じく供をして
退いた。しかし、馬備えが散乱したため、馬に乗る手立てが無く、皆々歩行で従った。

義元は胸白の鎧に、金で八龍を打った五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着ていた。
また今川重代の2尺8寸の松倉卿(松倉郷)の太刀と、1尺8寸の左文字の脇差を
帯びて、5才の青毛の馬には金履輪の鞍を置き、紅の尻繋を掛けてお乗りになった
ので美しく、遠目にも「これこそ大将である」と思わぬ者はいなかった。

信長方は四方へ落ち行く者には目もかけず、「どこまでも逃がさぬ」と先を争って
追いかけた。そのため、島田左京や澤田長門守を始め12人の者たちはとって返して
戦うも、徒歩であるうえに戦いには疲れて皆々討死し、義元は一騎となられた。

そこへ服部小平太は一番に追い付き、言葉をかけて近寄った。義元も「心得た」と
馬を引き返しなさったところを、小平太は駆け寄って朱柄の長刀の槍で、義元の
弓手の脇腹をひどく突いた。

けれども、義元は聞こえた強将なので少しもひるまずに太刀を抜き、小平太の槍の柄を
切り折り、馬から下り立った。小平太が槍を捨てて組み合おうとすると、義元は抜き
放っていた太刀で払い切りになされ、太刀先が下って小平太の膝口を切り付けなさった。

小平太は少しも堪えられずに後ろに倒れたため、あわや討たれてしまうと見えた
ところに、毛利新助がすかさず横合から駆けて来て、むんずと義元と組み合った。
義元は初めに小平太が突いた槍で傷を負ったままで、最後には新助が組み勝って
義元を討ったということである。

――『明良洪範続編』
0778人間七七四年2014/09/14(日) 02:38:03.48ID:Ilnqnsko
「少しも」良く使うね
0779人間七七四年2014/09/14(日) 10:05:57.39ID:VFSr4d1f
今川義元はちゃんと馬に乗ってるな
良く言われる、今川義元が馬に乗れないなんてどっから出て来たんだろな
0780人間七七四年2014/09/14(日) 10:13:51.36ID:Wq8euVbd
室町幕府から有力大名として塗輿を許される
→輿に乗っているから馬に乗れない、と曲解される
0781人間七七四年2014/09/14(日) 12:03:47.44ID:pXZRTHXC
江口道連の出自

江口五兵衛道連(光清)は天文13(1544)年摂津の斯波頼宗の長男として生まれ初名を国時といい、後に姓を江口と改めた
永禄5年(1562)年18歳の頃、最上義光に仕え、33歳で戦功を立て、義光より「光」の一文字を賜り光清と名乗った

畑谷江口一族に伝わる江口道連の出自
0782人間七七四年2014/09/14(日) 14:26:41.53ID:uXQtl1ar
どこがいい話なんだか
0783人間七七四年2014/09/14(日) 16:59:05.95ID:K537axls
馬に乗れずに討取られたといえば肥前のクマー
0784人間七七四年2014/09/14(日) 17:33:10.78ID:6hnLWb5p
輿に乗ったら死亡フラグなん?
無知は黙ってろよwww
0785人間七七四年2014/09/14(日) 22:49:54.26ID:TVrdJZQq
逸話とか関係ねえ!なモガミ広報なら自前のHP作ってやったほうがみんなしあわせだぞ
0786人間七七四年2014/09/15(月) 00:51:41.78ID:q/gsrYqR
>>33歳で戦功を立て

武勲すげえ!いい話!!!


ってか?
0787人間七七四年2014/09/15(月) 00:56:42.53ID:nOmT0qUw
>>785
逸話(いつわ、英:anecdote)
世間や世人にあまり知られていない特定の人物や物事に纏わる興味深い話。エピソード。

あながち間違いでもない。

>>756
経歴がわかって一字を拝領した内容ではいい話とも。
0788人間七七四年2014/09/15(月) 06:40:28.06ID:y4jijLvH
大阪夏の陣の時のこと。

徳川家康は久世広宣と坂部の両人に物見を仰せ付けた。
坂部は仰せを受けると直ぐ様物見へ向かったが、久世は出て行くまで御前を立ちかねるような様子が見えた。
これに近習の者達が笑ったのを、家康は咎めた。
この時、畠山入道(義春)が御側に居たが、彼が「久世の武者振りについて笑ったのですよ」
と申し上げると、家康は激怒した

「汝は知らぬのか!坂部は生来ああいう勇猛な性質だが、久世は仁義の勇を持った
忠臣であることを。彼を笑うのは推参至極である!

今に両人は帰ってくる。しかし、坂部より久世は敵の状況をより間近まで近づき偵察して
帰ってくるだろう。何故なら、久世は物事を大切に、前後を考え、また常に主君のためにと
決意しているからだ。それを知らぬか!?」

そう怒鳴っている所に坂部が戻ってきて家康に報告した。次に久世が戻ってきて報告を行った。
すると案の定、久世は坂部よりも二丁(約200メートル)ほど敵近くまで進んで偵察していた。

(明良洪範)
0789人間七七四年2014/09/15(月) 07:35:08.21ID:r+QJpQHy
>>781
ほんとに摂津人なのかね
親父の名前でググると、別人かもしれんが山形での逸話があがってくるんじゃが
0790人間七七四年2014/09/15(月) 08:32:09.39ID:nOmT0qUw
>>789
光姫伝説の斯波頼宗は数代前の話だから、別人だと思われる。

江口氏の摂津出身の話は『畑谷城主・江口五兵衛光清四百回忌供養塔建建』記念誌が元か。
0791人間七七四年2014/09/15(月) 17:08:46.71ID:irorfXj1
石谷十蔵は八歳で父を失い、十六歳で元服して御奉公に出て大番に入り
土岐山城守組となった。

十八歳の時に辻忠兵衛の異見に「その方は器量骨柄は良いが武辺をする事
が出来ぬ生まれつきよ」と言われた。

十蔵は憤って「戦場に出たことはありませんから、出た時に事が成る成らぬ
は私自身にも判りません。それなのに他人に判る訳がないではないですか」
と答えた。

忠兵衛は「いやいやそういう事を言っているのではない。武辺を心がける
ものは命を惜しむものだ。その方の交友を見ると道具持ち或いは草履取り
などの類で、好む事と言えば博打や相撲。これでは大した事でも無いのに
命を軽く捨ててしまい、大事な戦いが来るまでに死んでしまうであろう。
惜しいことよ」と言った。

ここに至って十蔵は行跡を改めた。

(武功雑記)

石谷貞清、大坂の陣の前年に行跡を改めるという話
0792人間七七四年2014/09/15(月) 18:09:04.05ID:AbwVZa6w
ちょい雑談ですまん

昔の出典物だと斎藤義龍は6尺以上ある〜 とか
上杉謙信はどれくらいってあったけども

この姫は、この侍女の胸はでかかった、とかってないのかねえ?
0793人間七七四年2014/09/15(月) 18:24:14.78ID:gs1hf/H3
真柄十郎左衛門の母親、お秀は講談通りなら巨乳だったと思われる
0794人間七七四年2014/09/15(月) 23:39:17.67ID:y4jijLvH
宇喜多黄門秀家は関ヶ原の決戦に負けて後、伊吹山へ逃げ入った。この時付き従ったのは、家臣の
進藤三左衛門正次と言う者ただ一人であった。

正次は秀家にこう申し上げた
「日頃、君が御身に付けられし鳥飼国次の脇差は衆人の知るところです。
これを私に賜れば、私は徳川殿の元に参りこれを謀りたいと考えています。
御身はこの地を逃れ、薩摩方に下ってください。」

そう勧めて、正次はその脇差を持って本多忠勝の陣へと参り、
「私は主人の秀家を手に掛けその市街を深く埋め、差料の鳥飼国次の脇差しを
持参しました。」

忠勝は「なにゆえ検使を受けずして、密かに死骸を埋めたのか?」と問うと、

「厚恩の主でありますから、例え我が手にかけるといえども、どうしてその首級を
的に渡し、梟木にかけることが出来るでしょうか?
この脇差は、秀家が常に愛して身から離さなかったことは、内府公(家康)にご存知のはずです。
これを御覧にお入れください。」

忠勝がこれを家康の御覧にれると
「たしかにこれは本物の秀家の脇差である。彼も秀家を害さなければ、よもや当家に降ることはないだろう。」
そう言って進藤正次を御家人に召抱えた。
しかしその頃の人々これに、「主人を害して己が功にするとは、後にはいかなる御誅伐に遭うか図りがたし。」と
囁き合った。

さて、秀家は虎口を逃れ、かろうじて薩摩へと逃れたが、後にそれが発覚し、薩摩へと仰せ言が下り
秀家は召喚された。そして進藤正次の前言との齟齬も究明された。

正次はこれに
「いかにも、はじめは秀家を逃すために偽りを申し上げました。主人のためにこの身を失うことは
元より期しております。この上はいかなる重罪にも処し給われ。」

この事家康も聴き
「己が一命を捨てて主人を救おうというのは、天晴忠義の者ではないか。」
そう賞賛して俸禄をそのまま与えた。

秀家が八丈島へと遠流された後も、正次は旧恩を忘れず、しばしば船舶の便に米金を送っているということも、
後にまた家康の耳に入り、御感に預かり五百石が加増された。

(武家閑談)

進藤三左衛門正次の節義
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8615.html
これの別パターンですね
0795人間七七四年2014/09/16(火) 08:04:10.82ID:5XGUkI4A
>>793
上背も横幅も凄いけどな
0796人間七七四年2014/09/16(火) 08:38:03.33ID:OWUdJ06M
>>794
いい話だけどパッと見ただけでも誤字が多すぎるね。
「市街」→「死骸」
「的に渡し」→「敵に渡し」
「御覧にれると」→「御覧に入れると」

今少し推敲希望
0797人間七七四年2014/09/16(火) 10:40:34.89ID:9ccJHYrq
それは推敲とは言わない
0798人間七七四年2014/09/16(火) 14:57:44.73ID:86qLHPKL
長谷堂攻め本格化す

(慶長5年9月14日に富山口を抜け長谷堂北方の山形盆地に進軍した直江兼続だったが
15日の楯岡光直と清水義親の夜襲を受けて、菅沢丘陵へと後退して陣を構えた)

其比(此)、長谷堂には志村伊豆守(志村光安)在城しける間
加勢として(鮭延秀綱の援軍)旗本百騎に小筒の足軽二百餘人籠りける

然るに九月十六日直江山城守(直江兼続)長谷城へ押寄、城十一町を隔て、菅澤山に陣をとれば
春日左衛門(春日元忠)は山の尾崎に備を立、既に春日は仰を窺、明日未明んり可責と也
然は城中の若者一々次第に打而出んとはやりける所に、伊豆守(光安)同加勢(秀綱)と申合壱人も柵より外へ、□(※耳の右側に卯の字)爾に出さず
悉静りかへつて居たりけるが、其夜伊豆守家来に大風右衛門佐、横尾勘解由を大将として兼而夜討に馴たる若者二百人撰び出し互いに相ことばを定め二手に分け
十六二の曉春日左衛門尉が備へたる陣中へ忍入す
こへま立ず、追伏々切ける間、思ひよらざる事なれば陣中上を下へと返しけり何れをかたき共味方共わけざれば同士討する事数多なり
去るに左衛門も馬に乗るべき隙さへなく漸く太刀斗追取て山城守陣中さして逃行ける
然る所に夜打の勢共は左衛門が陣を思ひの儘に打破り討捕し首共を百十五持来り
伊豆守実検に入ければ喜悦其限なく、夜討の大将は不及申其外のもの共に迄ほうびをえさせけり
其夜味方にも八人打死しけるとなり
0799人間七七四年2014/09/16(火) 15:22:57.92ID:86qLHPKL
さて又かたきの方にはいよいよ無念を起し押付長谷堂へ取詰るのよし義光公被聞召鮭延越前守を召されのたまひけるは

(義光)「長谷堂の城へは最前より加勢を丈夫に遣し置といへ共いまだ心もとなき間
其方は急長谷堂へ行伊豆守合力後事の評定を致べし
かまへてかまへて日来申付ごとく城中の勢兵を壱人も柵より外不可出」

と有ければ

(秀綱)「畏て候」

とて手勢引くし長谷堂へ行、伊豆守に対面して御意の趣委申渡ける
然るに春日左衛門、十六日の敗軍口惜存、同十八日に先陣にて惣堀へ攻寄るといへども、城中には少もさはがず
四方の矢ぐらより鉄砲を一同あられのごとく打ければ時の間に多の死人出たりけり
寄手是を見て責めあぐんでや有けん、先手負共を助よとて本陣へ引返しける
然ば城の内にてはいよいよ悦就中はやりをの若もの共勝に来ていざや打て出追討なさんとていさみにいさんで打出んとせし所に伊豆守抑へ申けるは

(光安)「何とてかたかたは不入若げを働候哉
此城堅固にして数日送りなば必ず義光公後詰可有之間
其時内外よりもみ合戦候はば立所に勝利を得べし
然るに今卒爾に打て出付入などにせられてはあしかるべし
さて付入と申は昔よりも上杉家のえものとこそ聞及也
殊更義光公鮭延に被仰含候通城中の勢兵返々壱人成共柵より外へ不出可と
委細被仰越候所に卒爾成働共返々無用」

と申けれども若手の者聞も不入
0800人間七七四年2014/09/16(火) 15:56:55.00ID:86qLHPKL
(長谷堂城兵の若者達)「(9月17日に南の上山城の里見勢が上杉軍の本村親盛や椎名弥七、松下杢助・平岩石見、岩井備中を討ち取り、数百の首級を挙げた戦果を伝え聞き)
上山、長谷堂とて同様に寄来るに上山にてはかたきを追払、分捕高名せし處に、此城なればとてなんぞ一戦もせざらんやは無念の次第なり」

と口々に申ける所節かたきの方には足軽共をあまた放し散らし作物を苅はこばしむるを越前守

(秀綱)「あれあれ御覧候へ苅田をなすとみへたり
さいわい若手者あまりにいくさ所望の上は我伴ひ出し一いくさすべき間引入候はん時あやうからぬ様に取計候へ」

とて既に打而出んとしけるを伊豆守申けるは

(光安)「かまへて足早に引き給ふべし何程かたき追たるとも返し合給ふ事合やめられて可然候
其後の事はともかくも我々に被任置候へ」

と申ければ越前守につこと打わらひ

(秀綱)「引入ての後は貴殿に預置候。唯今の合戦は随分とはげみ可申の間剛腕の程御見物候へ」

とて旗本組百騎許伴ひ大手の間を押ひらき、いさみにいさんで打て出
苅田をいたす足軽共を追立山際に備たる直江山城守が本陣へ切て入れば寄手も願ふ所の幸と入みだれ追つ返しつ一時程戦ひけるに
とかく味方の軍のつよきにや敵の物頭数多討取ける間、終にさぐり立られ後陣の勢へ逃入ける
味方の兵勝に乗て猶もつづひて入らんとしたりしを
越前守押留、日既に夕陽にかたぶけりとて軍兵る間
寄手是に利を得て更ば付入に乗とれとて手しげく追欠けれども
内々伊豆守と申合たる事なれば少もかまはず足早に引而入にけり
又寄手方よりも透間もなく追て乗入らんとしける所に
伊豆守兼てかく可有とおもひ足軽三百余人引具し大手の口より壱町程斗出し道を中にはさみ
弓手めてに備を立流かけたる事なれば
五間七間引離て三百丁の鉄砲を一度に放かけければ
先にすすむ兵共将□たをしをする如くやにわに三拾騎斗ばらばらと打たをす
後陣共に辟易して進み兼たる内に伊豆守足軽共を下知して手がろく引て入ける間
寄手も力およばずして本陣へ引返しけるなり

『義光物語』
0801人間七七四年2014/09/16(火) 16:11:10.28ID:86qLHPKL
寡兵で上杉軍を翻弄した鮭延秀綱と、それをサポートした志村光安の記述
0802人間七七四年2014/09/16(火) 16:15:16.50ID:5XGUkI4A
もう読んでもらおうとか思ってないんだろうなw
とりあえず書きたくてしようがないって感じだ
0803人間七七四年2014/09/16(火) 17:03:56.32ID:+YLeutM/
まさにチラ裏って感じ
0804人間七七四年2014/09/16(火) 17:17:46.65ID:fKsLrd64
訳して
0805人間七七四年2014/09/16(火) 19:22:42.80ID:dxgkw30U
研究発表は自分のブログでやれ
0806人間七七四年2014/09/16(火) 19:25:22.63ID:W1MFzK9U
めんどくさいならやめちまえよ
0807人間七七四年2014/09/16(火) 19:52:08.07ID:dspFTjQc
ここコピペありなん?
0808人間七七四年2014/09/16(火) 19:58:32.88ID:xirEvTHW
ちょっと前にも義姫の毒盛り疑惑をコピペしてたのがいたが、
コピペ指摘された結果、まとめには載らなかった
0809人間七七四年2014/09/16(火) 22:53:30.84ID:bNwPi0Uw
キチガイだから何言われてもやめないし触るだけ無駄
0810人間七七四年2014/09/16(火) 22:57:37.35ID:KnyN6jA2
狩野探幽守信は、名誉の画工であった。

ある時、松平陸奥守(伊達忠宗)が七尺の金屏風を二隻拵え、淡幽を招きこれに絵を望んだ。
探幽は「これには墨絵が然るべきです」と、この日は屏風を見ただけで帰り、翌日早朝に来て
墨を多く摺らせ、馬の沓を取り寄せ墨に浸し、これを金屏風へ幾つも押し、また大筆で筋を幾つも
引いた。

陸奥守はこの様子を見ていたが、「どうしていいか解らなくなって乱心したか」と言いながら
奥へと入っていってしまった。近習の者達は主人の機嫌が悪いことを淡幽に伝えたが、彼は

「書く時見物は無用です。書き終わってから御覧あるべし。」

そう答えつつ、小筆を取って書き添えると、馬の沓を押した所は蟹と成り、大筆で筋を引いた所は
葦となり、葦間の蟹の絵となった。

もう一隻には柳に燕を書いた。これも始めは墨をこぼしたように書き始めたが、書き終わってみれば
柳に燕となった。

二隻とも無類の屏風と成り、これに陸奥守は大いに喜び、厚く褒美を与えたという。

(明良洪範)
0811人間七七四年2014/09/17(水) 01:47:26.45ID:nBvDAtiC
1>「創作なの?」「そんな台詞あるの?」
⇒原文転載。
2>「読みづれえ。」「訳しろよ。」
⇒1に戻る。

おまえらただ最上厨を叩きたいだけだろ。
0812人間七七四年2014/09/17(水) 03:13:24.56ID:eJbeg7S4
私感盛りすぎず普通に訳すりゃいい話だろ
お前もモガミンも極端しか無いのかね
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