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戦国ちょっといい話40

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0071人間七七四年2014/06/02(月) 22:35:45.49ID:7QTempDG
鬼武蔵を知らない友人に説明したいんだが
「森蘭丸の兄で信長からは多少の罪があっても許される程愛され秀吉や家康をも恐れさせ、
近年の戦国ファンからは伊達政宗や細川忠興と同じくらいの評価を受けてる武将」
って言えばOKですかね?
0072人間七七四年2014/06/02(月) 22:54:46.88ID:iREklhN7
1:チェリーピッキング
チェリーピッキングとは、以前ソメイヨシノの韓国起源説の事を書いたときにも少し取り上げましたが、複数の情報元の中から自身に都合のいいもののみを取り上げ或いは更にそこから部分的に改変し、内容を再構築して本来の意味とは全く別の内容にしてしまう詭弁です。
語源はさくらんぼの熟した部分のみをより分ける、或いは抓み食いする行為から。
0073人間七七四年2014/06/02(月) 23:12:39.54ID:qvJCAb4L
ソメイヨシノもいいけれど、侍は山桜もしくは梅でしょう
0074人間七七四年2014/06/03(火) 00:17:36.98ID:gwsQQFuW
>>71
ヒャッハーな人

でOK
0075人間七七四年2014/06/03(火) 00:27:41.29ID:P14xpoBA
>>71
嘘は言ってないはずなのに嘘っぽい説明w
0076人間七七四年2014/06/03(火) 00:32:23.45ID:Bg+hURHI
椿はお嫌いですか?
0077人間七七四年2014/06/03(火) 09:21:58.39ID:VVbkRbHl
秀忠さまが椿好きだったんだよな
というか椿は春にさきがけて咲く花だから武士のイメージもっとあってもよさげ
椿は花が丸ごと散るから首が落ちることを連想して戦場では避けられたって俗説があるけど、
Wikipediaによると根拠のない俗説で椿自体は職分にかかわらず人気は高かったみたい
0078人間七七四年2014/06/03(火) 09:58:20.47ID:upVIkkCR
佐々成政「百合」(ボソッ!
0079人間七七四年2014/06/03(火) 20:13:26.95ID:PcGyk8Cb
>>70
伊達家はとりあえず訳ありの子供がいたら匿って育ててるイメージがある
0080人間七七四年2014/06/03(火) 21:14:22.74ID:HqctO1nh
まーくんって子供好きなイメージがある
0081人間七七四年2014/06/04(水) 00:15:10.68ID:kjB8zATs
もう一戦ねえかなぐらい思ってたんだろう
0082人間七七四年2014/06/04(水) 19:54:47.23ID:8o5FeML3
幻の東国寺

秩父の小鹿野町に、権現堂原と呼ばれる丘がある。
元はここに東国寺という、大きな修験道場があったと言われているが、
永禄12年、甲斐の武田軍が秩父に侵入し、寺社に対して焼き打ちを行った際に、
東国寺も戦火に遭い、幻の寺となってしまった。
村人たちは、燃え上がる東国寺をただ唖然と見つめているしかなかった。
その焼き打ちの際、武田軍の「風林火山」の旗にも火が燃え移りそうになったので、
近くの池に旗を浸してはまた旗を押し立てていたという。
寺を焼いて勢いづいた武田軍であったが、寺の焼け跡に立ち尽くす村人たちを見ると、
流石に気がとがめた。

そこで武田軍は、
「武田の天下になった時には、必ず立派な寺を立ててやろう。その証だ。」
と言って幟旗を池のほとりに埋めて立ち去ったという。この旗を埋めた塚は「旗塚」と呼ばれるようになった。

その当時、秩父を治めていた鉢形城主・北条氏邦は信仰心に厚く、寺社の修理や再建を行っていた。
この氏邦には東国丸という名の息子がいたが、惜しくも早死してしまった。
息子を失って嘆き悲しんでいた氏邦は、同じ名前を持つ東国寺が焼き払われたと聞き、
今の寄居町(鉢形城下)へ再建し、下吉田赤柴の金剛院4世・酒雲全伯和尚を招いて、東国丸の冥福を祈ったという。


「秩父の伝説」
0083人間七七四年2014/06/05(木) 07:06:50.75ID:dNlZtKzI
村人「あの、ここ、ここへは誰も何も建ててくれないの、、、」
0084人間七七四年2014/06/05(木) 10:12:45.86ID:hAmTCFwS
村人の怒りを晴らせない、いつものヘタレ北条...

http://i.imgur.com/ptVOEXx.jpg
http://i.imgur.com/g0ds8UT.jpg
http://i.imgur.com/a5GMGhc.jpg
0085人間七七四年2014/06/05(木) 16:25:19.08ID:8lLDvrMJ
アホか
北条地黄八幡の旗を見れば上杉軍も身構えるだろ
0086人間七七四年2014/06/06(金) 05:23:21.59ID:WQc45Zw+
黒田長政が江戸参勤の帰り、伏見へと到着すると、近辺の御代官衆、その他親しい人々が
数人見舞いとして訪問し、そのまま晩の料理が出た。

この前にある方より川鱸が贈られていたので、長政はこれを見て、「見事な魚を贈ってくれた」と、
料理人を召し、「この魚を今晩の料理にして客人たちを饗し、その余りはよくよく塩に浸け置いて、
船中で用いる料理にせよ」と仰せ付けた。
座中の人々はこれを聞くと、「大名に似合わぬ、吝嗇なことを仰せに成るものだ」と思った、

さて、晩食も過ぎて長政は一人、奥の間に入っていた所、御代官衆の一人が参り、密かに申し上げた

「私は先年、御代官所の勘定が不足し、もはや身上滅亡しか無い、という時に、貴方様から
金子をお貸しいただけたたため、勘定滞り無く相整い、身上も安堵いたしました。誠に
ご厚恩であると考えています。しかしその後とやかくとしてしまい、金子の返納も今まで
引き延べにしてしまいましたが、ただ今ここに、ご持参いたしました。」

そうして懐中より金子を取り出し、長政の前に差し置いた。長政はこの話を聞いて

「さてさて、貴殿は愚かなる人ですな。この長政の身上で、その程度の金子を取ったからといって
どれほどの役に立つでしょうか?しかし貴殿の身上では、この程度であっても、ひとかどの助けに
なるでしょう。

あなたは久しき友人であるのだから、身上が難儀に及ぶのを気の毒に思い、先の金子によって
勘定の不足を償っていただいたのです。ですから元より、返納していただくなど考えもしませんでした。
ですが、初めから差し上げると言ったならば、あなたも受け取りにくいと思い、あえて借用として
受け取っていただいたのです。ですのでこれは、早々にお持ち帰られよ。」

この言葉に代官は涙を流しその深志を忝なく思った。
長政がその後次の間に出た所、そこに居た人々は障子越しに、先の代官との事をほのかに聞いていて、
このように言った

「先程、鱸の余りを塩に着けおけと仰られた時は、あまりに吝嗇なことだと思いました。
ところがただいま、大分の金子をお受け取りにならなかった事、これらは大いに違っていますね」

長政これに
「それはあなた方の心得違いです。この長政の台所にも魚はいくらでもあり、少しも事欠くわけではありません。
先ほどの鱸は人の志にて贈られたものです。それ故今日のもてなしに用いたその余りを、塩に着け
船中に持って行かせ、何度も少しずつ料理に用いれば、それを食すたびに贈ってくれた人の志を
思い出して、少しの恩恵であっても忘れないためなのです。決して魚を惜しんでそうしたのではありません。

また、某の持参した金子を受容しなかったのは、先年、彼の生涯の一大事を救うために遣わした金子ですから、
その時から返納を望む気はありませんでした。私が平生倹約を専らにするのも、ああいう人の難儀を
救うためでもありますから、たとえ大文の金銀であっても、分に叶う限りは惜しむべきではありません。

その上、彼は一旦先の金子によって勘定の不足を補填しましたが、きっと自分の財貨もその勘定のために
用い尽くしたはずですから、それ以後自身は困窮していると推察します。そんな所に、今身上に過分なる
金子を返納のためといって出してしまっては、いよいよ困窮の度が増してしまいます。
そうなっては先に金子を貸した心入も無益なことになります。だからこそ、あの金子を受け取らなかったのです。

総じて倹約というものは、少しの費えもいとい、用に立つものは高額になっても惜しまず用いる事こそ、
道理に叶うのです。あなた方も、そのように心得られるべきです。」

これに満座の人々、さても名将のお心持ちは格別のことだと、各々感服したそうである。

(黒田家譜)
0087人間七七四年2014/06/06(金) 06:16:45.13ID:HiHhG8ed
こういう話を聞くと、やはり親子だなと思うね。
0088人間七七四年2014/06/06(金) 09:23:10.51ID:dGCBqO3V
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7046.html
如水と日根野さんの逸話そっくりだなほんと
0089人間七七四年2014/06/06(金) 12:21:12.29ID:luexEAcD
ケチとしみったれの違いですな
0090人間七七四年2014/06/06(金) 12:45:03.52ID:mJMqus83
黒田家臣団「ちっ、これじゃあ今日は諫言できねーじゃん。」
0091人間七七四年2014/06/06(金) 15:06:03.14ID:/uQ6tiSR
家来になりたくなる
0092人間七七四年2014/06/06(金) 16:01:40.73ID:01lZ0Ze5
使い込まれたお下がりを買い取れるしね
0093人間七七四年2014/06/06(金) 19:32:17.31ID:9fNhDHhT
諫言できないといいつつ顔は嬉しそうにしてそうだな、又兵衛以外の黒田家家臣w
0094人間七七四年2014/06/08(日) 19:10:40.55ID:z+Y76WGw
藤堂高虎が大切なことを考える時はいつも、その日の未明に起床して衣装を整え、
両刀を帯び、正座して思念を凝らしていた。

「帯を解いてくつろいで、平臥などしていては、思慮が放漫に流れて、
重大事案の勘考は成るものではない。」

そのように人に語っていたそうである。

(西島八兵衛留書)
0095人間七七四年2014/06/08(日) 23:19:34.27ID:+gRhQzS3
血行が悪くなるのはいただけないな
0096人間七七四年2014/06/09(月) 12:52:17.63ID:U5Pf77D7
健康がかえって不健康に走らせることもある
若いときの無茶飲みとかね
0097人間七七四年2014/06/09(月) 23:43:51.66ID:A9aeiAEM
それって座禅では
0098人間七七四年2014/06/10(火) 00:08:34.42ID:Xe1ie4AI
帯刀して正座と結跏趺坐はまた違うんでは…
0099人間七七四年2014/06/10(火) 00:17:33.25ID:2n7CF6eh
幕末まで家が残ってた家系のいい話が多いのは当然なんだけど、蒲生って残って無かったよね
武田は家康にババ漏らさせたから神格化されてもいいけど、長宗我部も残って無かったよね
0100人間七七四年2014/06/10(火) 00:22:13.71ID:P/HIkA3+
>>99
蒲生も武田も長宗我部も徳川旗本として残ってる
0101人間七七四年2014/06/10(火) 01:36:02.13ID:cE66Xx8D
小早川家はお家断絶したけど、小早川家家臣団は豊臣家から派遣されてきた面子で
元々の一門・譜代は毛利家に引き上げているから、隆景のいい話が伝わっているのかなぁ。
0102人間七七四年2014/06/10(火) 01:48:21.20ID:Vi4Wh5hA
隆景の評価だと、黒田家譜の影響もありそう
0103人間七七四年2014/06/10(火) 01:53:07.85ID:124LvAcB
江戸時代の毛利家では吉川・小早川はあまり良く思われなかったって本当?
0104人間七七四年2014/06/10(火) 01:55:25.56ID:xXL01Z4V
>>103
本当。そりゃ関ヶ原であんな扱い受ければそうなるって。
0105人間七七四年2014/06/10(火) 04:20:01.65ID:8OXkcZh0
本家と吉川の仲は悪くなかったらしいが
0106人間七七四年2014/06/10(火) 08:58:49.23ID:P/HIkA3+
毛利と吉川(と毛利秀元の長府毛利家)の確執は、輝元の息子の毛利秀就の時代になって出てくる話だからなあ。
秀就が毛利宗家への支藩の統制強めようとして、それに吉川や長府毛利が反発して独立騒動まで起こって、
この時の関係悪化が、毛利の方では後に関ヶ原の時まで遡らせて理屈付けされちゃう。
0107人間七七四年2014/06/10(火) 09:50:26.03ID:71UMl7bS
秀元はともかく吉川とは仲悪くはない。
0108人間七七四年2014/06/10(火) 18:42:03.62ID:3SWQ1Lw8
井戸十郎は筒井順慶の家来で武功の優れた人である。御家(徳川家)へ
召し出されて若狭守といい、剃髪して覚斎と号す。十郎は物語って、

「只今などに何事かでもあれば、それがしなどは弁慶くらいの働きさえも
することであろう。その理由は、それがしは年寄って命が惜しくないからだ。
一日も早く死にたいだけである。この心ならば比類の無い働きさえもする
ことであろう」

と笑ったそうである。

――『武功雑記』
0109人間七七四年2014/06/10(火) 19:18:57.95ID:XRjFCw+N
>>103
小早川家自体は秀秋死後に断絶して、江戸時代は消滅状態で明治に毛利から養子入れて復活したんじゃなかったっけ?
秀秋存命時代に毛利宗家と仲が悪かったって事?
0110人間七七四年2014/06/10(火) 21:25:18.37ID:P/HIkA3+
黒田長政は普段、異見会といって、毎月1回づつ本丸釈迦の間に釈迦の像を懸け、夜話を催した。
それに出席する会衆は、家老の他、思慮があり談合の相手に良き者、また主君の為をとりわけ思う者、
そういった人々で、5〜7名以上にはならなかった。

その物語のやりようは、他の人々を退けて、先ず長政がこう発言する
「今夜は何事を言ったとしても、重ねて意趣に残してはならない。また、他言してはならない。もちろん
この場で腹を立ててはならない。思っていることは、必ず発言を控えてはならない。」
このように誓言すると、一座の者も残らず、同じ誓言をする。

その後一座の者達は、長政の身の上の悪しきこと、諸士への対応や国中の仕置の道理に違っていること、
何れも底意を残さず語った。
あるいは過ちあって出仕を止められ、又は扶助を離れた者の詫び言、その他何事であっても、通常では
言いにくいことを言った。

また家老の間、傍輩の間に心にかかる事があり、それを言いたく思っても、もし相手の受け取りようが
悪ければ遺恨になり、そうなっては主君の為にも宜しからざる事だと遠慮して控えていたことも、
心に思うことを、相共に残さず言い合い、互いに心底に滞らないようにした。誠に心の底からの
議論である。

その場でもし、長政に少しでも怒るような雰囲気が見られると、他の者達は
「おやおやこれは一体どういうことですか!怒り給えるように見えますぞ!」
と申し上げる。すると長政は
「いやいや、心中には少しも怒りはない!」
と、顔色を和らげるのだ。

上下ともに、悪しき事は繰り返し、幾度も合点の行くように、互いの心を残さず言い出すので、
甚だ益のある会合と成るのである。

この会は、何日の夜という決まりがあるわけではなく、長政が思いついた時に、
「今夜は例の腹立たずの会をするぞ。会衆を呼ぶように。」
と、俄に申し付けるのである。長政もこの会合を甚だ益あるものだと考えていたため、逝去の前、
息子忠之への遺言の中にも
『我等致来候様に、異見会の儀、毎月一度釈迦の間にて催可被申候』
と書き置かせたのである。

(黒田家譜)

黒田長政の『腹立たずの会』についての記録である。
0111人間七七四年2014/06/10(火) 21:26:55.11ID:dlkF3Qhg
三兄弟の仲が悪かったというのは良く聞くが、輝元・広家・秀秋はどうだったのだろうか
0112人間七七四年2014/06/10(火) 22:17:36.48ID:PX050qQT
>>110
>「おやおやこれは一体どういうことですか!怒り給えるように見えますぞ!」
ここが煽るようで腹立つなw
0113人間七七四年2014/06/11(水) 00:14:22.39ID:rCUtvSNS
>>111
隆元 「おかしなこと言ってますなあ、父上。」
0114人間七七四年2014/06/11(水) 01:28:12.69ID:/XylVbSE
「おこなの?激おこぷんぷん丸にございまするか!?それは烏滸がましうございましたな!」
0115人間七七四年2014/06/11(水) 05:15:14.59ID:aMrST7fs
「おやおやこれは一体どういうことですか!怒り給えるように見えますぞ!」

なにこの煽っていくスタイル
0116人間七七四年2014/06/11(水) 07:48:54.43ID:O77Snhyu
>>111
広家は終始、輝元を主君として尊重してる。
秀秋は秀吉死後には、毛利から貰った嫁を離縁したりして関係自体は切れてる感じ。
0117人間七七四年2014/06/11(水) 09:59:25.93ID:XYJNrgNj
>>112
それを言う役はあいつだな。w
0118人間七七四年2014/06/11(水) 10:53:04.32ID:Vi8l3I0T
それ、絶対しちゃアカンやろ…
0119人間七七四年2014/06/11(水) 15:51:46.11ID:bxMR8kFA
>>100
なるほど
0120人間七七四年2014/06/11(水) 20:19:27.82ID:XvoYaYGZ
                        ∩___∩
     __ _,, -ー ,,             / ⌒  ⌒ 丶|     おやおやこれは一体どういうことですか!
      (/   "つ`..,:         (●)  (●)  丶        怒り給えるように見えますぞ!
   :/       :::::i:.        ミ  (_●_ )    |
   :i        ─::!,,     ハッ  ミ 、  |∪|    、彡____
     ヽ.....:::::::::  ::::ij(_::●    ハッ    / ヽノ      ___/
    r "     .r ミノ~.      ハッ   〉 /\    丶
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  :`.|    ::::| :::|_:                    /⌒_)
   :.,'    ::(  :::}:                    } ヘ /
   :i      `.-‐"                    J´ ((
0121人間七七四年2014/06/12(木) 17:08:24.61ID:VJRjT6Db
三河武士とどっちがめんどくさいんだろw
0122人間七七四年2014/06/12(木) 17:53:06.52ID:5z/NxK9u
三河武士ではこんな会合を開くこと自体できないだろうな
0123人間七七四年2014/06/12(木) 18:13:23.53ID:YFPK8zkC
長政って粗忽な所もあるけど大物だよなぁ
0124人間七七四年2014/06/12(木) 18:33:54.08ID:VJRjT6Db
まーくんあたりだと同様の会を開いても途中で忘れて抜刀して追い回しそうだしな
0125人間七七四年2014/06/12(木) 20:09:50.29ID:fE22LjaL
他の大名家で同じ様なことやったとして有りがちそうな事

途中から恒例のロシアンルーレット酒宴に移行する島津家
参加者からお1人様、当主の深夜個人レッスン(むしろコレがメイン)が待ってる大内家
大乱闘スマッシュmikawa's発展の徳川家(浜松時代)
議長の説教だけで9割9分が終わる毛利家(元就時代)
ブラック企業もビックリ吊るし上げ織田家
0126人間七七四年2014/06/12(木) 21:18:57.40ID:NWxk2prC
悪久は反乱分子の炙りだしに利用するだろ
不平不満を述べた奴をきっちり覚えておいて後日、東郷重位をデリバリー。
0127人間七七四年2014/06/12(木) 22:25:42.79ID:23y2bt/W
>>126
毛沢東の必殺技だよな
無礼講炙り出し作戦
0128人間七七四年2014/06/12(木) 23:00:17.12ID:BMAorBTt
毛「無礼な奴は餓死しろ!」
0129人間七七四年2014/06/13(金) 01:11:28.17ID:dnYyHZMn
>>126
東郷さんはヤバいんじゃないの
確か手打ちにしようとして凄まれた話あったよね
0130人間七七四年2014/06/13(金) 10:27:11.24ID:pNswNdi7
むしろ義久、強兵衛のコンビが思い浮かんだ
0131人間七七四年2014/06/14(土) 00:02:15.14ID:xjLwZ/tj
>>126
用件を聞こうか・・・
0132人間七七四年2014/06/14(土) 16:04:01.80ID:bFC8NySH
さて、慶長年中に秀頼公と神君(徳川家康)との御対顔があり、
その時、秀頼公が大坂城から神君の御在所の二条の城へ行く途中、
加藤清正と浅野長政とが高股立ちの姿で秀頼公の乗輿の左右に付いた。

二条の城から御迎いとして神君の御子息の義直卿、頼宣卿の御両人が
途中まで出られたのだが、日傘を使っておられたのを清正は見て、
「無礼です。その日傘をお止めなさい」と言って止めさせた。

当時、神君の御威勢に向かってそんな事を申す者が他に誰がいるだろうか。
万一申す者がいるとしても両卿がどうしてその言葉に従いなさるだろうか。
清正だからこそ、そのような事をも申し、両卿もその言葉に従いなさって
日傘を止められたのである。

この一事で清正が尋常ではないことを万事察知できる。
だからこそ、神君も常に清正を御褒めになったのである。

――『明良洪範続編』
0133人間七七四年2014/06/14(土) 16:44:56.69ID:Fbc8clkM
だからこそ、次の代で家を御滅ぼしになったのである。
0134人間七七四年2014/06/14(土) 20:26:44.94ID:Nz+VFiol
本多出雲守(忠朝)という人が四五年ほど前、上総国の”おたぎ”という所を知行した。
そこを実地検分し、「”おたぎ”とは何と書くのか?」と問うと、里の翁が
「仔細は知りませんが、昔より”小瀧”と書きます。」と答えた

出雲守はこれを聞いて「小を捨て大を取ると古人も言っている。前々はそうであっても
今からは”大瀧”と書くべし!」と申し付けた。このため領主の考えに従い
大瀧と書くようになった。在所の者達も、「確かに小より大が勝る」と言っているとか。

(慶長見聞集)
0135人間七七四年2014/06/14(土) 20:33:30.53ID:MOyKLytE
愛宕(おたぎ)かとおもった
0136人間七七四年2014/06/14(土) 23:24:46.99ID:yFh4eWdD
>>135
もしその字だったら、地名はそのうち「あたご」に変わっていたに100カノッサ
0137人間七七四年2014/06/14(土) 23:29:51.97ID:PqZO9B7B
ああ、そういえば小多喜は本多が入ってだんだな
息子の代に字を変えたのか
0138人間七七四年2014/06/15(日) 00:46:36.05ID:c8509mK3
えっ、おおたきのことなのか
0139人間七七四年2014/06/15(日) 00:53:55.56ID:6+OL2oYZ
大多喜と非常に演技のいい字でまとまったというオチが付くわけですな。
0140人間七七四年2014/06/15(日) 07:22:17.59ID:7ARKo848
へーあそこ地名変わってたんだ。
0141人間七七四年2014/06/16(月) 05:59:35.25ID:tfFgUliP
やたらと地名に「松」を入れたがる人もいるが
0142人間七七四年2014/06/16(月) 08:58:50.51ID:04L+/68s
>>141
再生工場「松」
0143人間七七四年2014/06/16(月) 19:28:57.42ID:PZYVtx6C
一、朝はまだ暗いうちに起きて、燈にて髪を結び所用を申し付けるようにしなさい。
  夜は五つ(午後9時頃)を限りに休むようにしなさい。
  こんな風に条文にしてまで行跡についてのことを言うと、あなたもきっと迷惑にも感じるでしょう。
  しかし、私は小身より成り立ち、苦身して今の身上に成りました。ですので、こういった事を
  伝え聞かせることがその身にとって必要なことであると考えるのです。

(藤堂和泉守高虎教誨・息大学頭高次に示す条々)

この条々は全部で一九条ありますが、それについての高虎の思いを述べた一節です。
0144人間七七四年2014/06/16(月) 23:27:26.42ID:3q+tutrt
朝はともかく、夜更かしする人けっこういたのかねぇ
0145人間七七四年2014/06/16(月) 23:35:50.28ID:qQQB8R6O
夜更かしと言や宴会とかって結構遅くまでやって飲んでたりするけど当時はどうだったんだろ?
0146人間七七四年2014/06/17(火) 00:37:42.02ID:ZCjU5JiM
徹夜する庚申待ちなんかは談合の場として用いられたんじゃないかって考察があるね
0147人間七七四年2014/06/17(火) 01:22:49.60ID:iNssuo7b
結城氏新法度には一杯飲んだら糞して寝ろ的な事が書いてある
庭木にゲロ吐くなとか、わしに宴で飯椀一杯以上の酒振る舞ったら怒って帰るからな!とかあるのを見るに
おそらく当時も夜更けまで鯨飲してるのが沢山いたのではないか
0148人間七七四年2014/06/17(火) 01:56:12.40ID:qDcIIbtO
酒飲ませたら槍持って行かれました
0149人間七七四年2014/06/17(火) 07:43:08.46ID:VThhnZL/
酒飲んでたので首持っていかれました
0150人間七七四年2014/06/17(火) 10:42:16.29ID:RyJrocz7
飲んでるときの命令は朝に確認しろだっけ?
0151人間七七四年2014/06/18(水) 00:31:04.26ID:C2UHL/dd
蜂須賀忠英の家老の増田豊後(益田長行)という者は主人を恨むことがあって
無実の事を企んで江戸へ訴えた。(海部騒動)

公儀の役人の糾問があるので、罪の無いことだが忠英は憚って閉門し慎んでいた。
その折に有り合わせの金銀が尽き、諸用に差し支えがあったが遠国なので取りに
遣わすけれども早急の用に間に合わなかった。

また人の疑いもどんなものだろうかと係りの者は非常に心配して頼みとするところも
無く、井伊直孝(蜂須賀家政の婿)のもとへ内々の使者を借りに行かせた。

井伊家の家老たちはこれに同意せず「公儀に対して憚りがあるので貸すことはならん」
と言った。すると岡本半助は「人の急難を救うのは義です。もし後難を恐れて急難を
救わなければ信義を失うことになります。それは井伊家の恥ではないでしょうか?」
と、言った。家老たちは「ならばその事を主人へ伝えよう」と言った。これに岡本は、

「伝えるのはよろしくありません。貸した後に道理に背くことに与したと公儀から
御咎めを受けた時には、主人は少しも存じておらず、それがし一人の判断であると
言って切腹しましょう。あるいは貸した後に急難を救ったとして御誉めに預かった時には、
主人の判断ということにいたしましょう」と言い、倉を開け千金を出して貸し与えた。

後に直孝はこれを聞いてたいへん感心したということである。

――『明良洪範』
0152人間七七四年2014/06/18(水) 20:41:15.46ID:ziurZZ56
天正七年(1579)九月、荒木村重は密かに伊丹の城を脱出して尼崎の城に入り、後に毛利家に行って
従った。十月、信長は滝川一益を大将として有岡の城を攻め、十一月これを攻め破った。
この時黒田孝高(官兵衛)は有岡の獄中にいたが、家臣の栗山善助が尋ね来て、孝高を牢より出した。

荒木村重が没落したため、それと一味していた小寺政職も、その科逃れ難く思い、にわかに御着の城を
出奔し、中国の所々を流浪し、その後備後の鞆に居住して、天正十年に卒した。
男子一人父祖の後を継いで、加賀守氏職と称した。また姉妹が数人あった。

小寺の家が滅び、その子がかくの如く零落したことを、黒田職隆・孝高親子は深く嘆き、
秀吉に「その父の罪を許され、その子を私の養子にさせて頂きたい。」と詫び言をして赦しを蒙り、
備後の鞆に家臣を迎えに遣わし、小寺氏職、並びにその姉妹を姫路に招き寄せた。
彼らが海より着岸した時は、官兵衛ならびに舎弟達全員が、海辺まで迎えに出た。
かねてより姫路の海辺、飾磨津に新宅が作ってあり、ここに小寺を居住せしめ、情深く養育された。

その旧好を忘れず、いとも懇ろに憐憫されること、誠に恩を以って仇を報ずるとはこの事であると、
世の人々は感じ思ったそうである。

(黒田家譜)
0153人間七七四年2014/06/18(水) 21:47:05.83ID:p2WwIVyy
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7981.html
細部が多少異なるが黒田家譜、てのも含めて既出のような
しかし、「黒田家譜」話は同じ人が書いてると思ったら複数いるんだな
0154人間七七四年2014/06/18(水) 22:36:13.56ID:voF9v9KB
黒田家譜はなんでも載ってるな
0155人間七七四年2014/06/18(水) 23:52:15.99ID:+WQhUVu9
本願寺ゆかりの名菓「松風」
京都山科に本願寺が建立され(文明十五年、西暦1483年)、
「寺中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と言われた頃から本願寺に仕え、
供物や諸事に携わってきた亀屋陸奥(屋号は後年名乗る)は、
顕如上人の時代、元亀元年(1570年)に始まった織田信長と
石山本願寺の戦いの間も本願寺に従っていた。

織田の攻撃が激しくなるなか、糧道もしだいに閉ざされ
城内には食料が不足しはじめる。
そこで亀屋陸奥三代目大塚治右衛門春近が
試行錯誤して兵糧代わりとなる菓子を創製し、
この菓子は法城を守る門徒衆の貴重な食料として用いられた。
しかし、11年間続いた戦の趨勢は織田に傾き、
本願寺は織田と和睦することになった。

顕如上人は織田との和睦後に京都六条下間(しもつま)邸にて
「わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風」と歌を詠んだ。
この歌から「松風」銘を賜ったのが前出の菓子だった。
天正十九年(1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、
亀屋陸奥も御用達の御供物司として本願寺の寺内に移った。
そして「松風」はその後も作り続けられ、四百年余りの洗練をへて
現代まで続く名菓「松風」になったという。


ちなみにこのお菓子は司馬遼太郎の「燃えよ剣」「関ヶ原」にも
登場しているとのこと。

出典は「松風」の袋及び亀屋陸奥のウェブサイト
0156人間七七四年2014/06/19(木) 07:09:47.53ID:v+zgn3ub
兵糧がなければお菓子を食べればいいじゃない byマリー・アントワネット
0157人間七七四年2014/06/19(木) 09:40:39.71ID:4sF6OMto
それって本当に元ネタあるんかね
ルソーの作り話なんかなあ
0158人間七七四年2014/06/19(木) 10:12:29.15ID:l2mT80Av
恵帝「米がないなら肉を食えばいいじゃない」
0159人間七七四年2014/06/19(木) 14:13:43.77ID:aXHq4YyQ
顕如と教如が菓子食いながら降伏する・降伏しないで言い争いしてたと思うと草
0160人間七七四年2014/06/19(木) 14:54:05.81ID:NFDi6Zt+
菓子だと思うから滑稽に感じるだろうけど、門主と新門がレーションやカロリーメイトで
食い凌ぎつつと置き換えると切迫感ある
0161人間七七四年2014/06/19(木) 15:45:08.16ID:EfOmYfAw
>>157
作り話だよ
0162人間七七四年2014/06/19(木) 16:35:37.20ID:u8m4c7Ry
水がないなら米で馬を洗えばいいじゃない
0163人間七七四年2014/06/19(木) 21:15:56.66ID:LcxLAkoG
藤堂高虎公の軍装は一定していなかった。前立ては多くの場合水牛を用いた。

大阪の陣以前には、藤堂家において『角衆』と称する、同じ水牛の前立てを許された者は
6,7人だけであったが、大阪出陣の時には、鉄砲頭、母衣衆にもこれを許したため、その人数は
激増して、いったい何人いるのかわからぬほどになった。

それから高虎公の頬当は黒塗りで、具足は小札黒糸の毛引きであった。
小手、佩楯は越中流を用いられた。

関ヶ原では鳥毛袖なしの具足羽織、大阪の陣ではもみの広袖の小袖を時々着用されていた。

幟は大阪の陣で三布の折懸、地紺に白餅三であったが、これも関ヶ原の時は白地に朱の丸三であった。
大馬印は、大阪冬の陣では白の三布の大四半に朱の丸一、夏の陣では赤い吹貫であった。

(西島八兵衛留書)

藤堂高虎の軍装についてのお話し。大阪の陣で藤堂家に水牛の前立て軍団が生まれていたのですね。
0164人間七七四年2014/06/19(木) 22:40:05.18ID:OrbnQCsw
黒田水牛軍団は知ってたけど藤堂もだったのか
確かにあれ威圧感すごいしな
0165人間七七四年2014/06/20(金) 00:39:16.72ID:eh/iMmQC
>>157
物の本によると、いろんな王族の女性に対する、庶民の暮らしをわかってないネタのテンプレだったとか
最後の女王であり、最後にこのネタを使われたせいでマリーのエピで固定化した。
0166人間七七四年2014/06/20(金) 18:51:49.80ID:fy2gy0BQ
戦国時代、女は婚姻要員の奴隷でしかなかった
……何てのは昔の学説で、それなりに強かに生きていたのである

気の荒い戦国大名と言えど、奥向きの事には口を出せなかった
特に女の聖域たる台所には……
その禁を破り盗み酒をしたとある大名
奥方に見つかり城中追いかけ回された挙句城門で追い詰められ、家臣の監視の中、頭を下げて謝った

豊臣軍団切っての猛将、福島正則の逸話である

って話を雑談系の雑誌で読んだ記憶があるが本当かねえ
なんか、混ざってるような…
0167人間七七四年2014/06/20(金) 22:02:57.23ID:tFkW0/pA
寛永の初年、藤堂高虎はいささか老衰を感じ、国務を世子大通公(高次)に託した時のことである。

高虎は立花飛騨守(宗茂)兄弟、佐久間備前守(安政)兄弟、丹羽五郎左衛門(長重)、脇坂淡路守(安治)、
朽木卜斎(元綱)等を招待し、その席で家の系図、知行の朱印、水牛の兜、金の傘の馬印などを
取り出して高次に譲渡し、先祖代々、一門末々までの武功の次第を語り聞かせ、最後に言葉を改めて
このように言った

「大学(高次)は惣領筋であるから、武勇が私に劣るとは思わない。しかし現在は
静謐の世の中であるので、そなたは合戦を実地に経験する機会はなかった。それに付いて申すが、
武勇には、稽古という言葉は無い。ただ、心がけ一つが重要である。

一朝有事の場合に、『この度は第一の殊勲を』と考えただけでは人並みの働きも出来ない。
『今度は一番に討ち死にするのだ』と決心してかかってこそ、いささか人に優れた働きは
成るものである。

武勇の心得は、これ以外に無い。」

これを聞いた列席の客人たちは、思わず姿勢を正して傾聴し、深くその言葉に感服したという。

(木且子集書)

藤堂高虎の「武勇の心得」である。
0168人間七七四年2014/06/21(土) 10:09:20.49ID:eRxLfPkC
毛利家四男の法則

毛利家って大事なところでは四男がリレーしてた
偶然なのか、何か狙いがあったのかは知らん

毛利 季光 大江広元の四男。初代毛利
毛利 経光 毛利季光の四男。宝治合戦で一族全滅するが唯一生き延びる
毛利 時親 毛利経光の四男。安芸吉田庄に移住。安芸毛利氏の祖
穂井田元清 毛利元就の四男。子孫が毛利家の嫡流となる(テルの系統は途絶えてないのに)
0169人間七七四年2014/06/21(土) 11:50:50.40ID:R1+Fqyge
四男の技です
0170人間七七四年2014/06/21(土) 13:59:54.36ID:Ed2cun0h
穂井田はそこにカテゴライズできないだろ
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