>>699
>>696をざっと訳すと

田澤七右衛門正忠は。もとは武田の家臣であり丹沢久助と名のり。信玄および勝頼に仕えた。
天正十年の武田滅亡の後、同年八月二十一日に徳川家に召し抱えられた。
長久手の戦いにも従い、井伊兵部少補(直政)の備えに属して戦い、首級を獲て高名があったので。旧領に加えて
新恩を賜い、さらに息子も家康の元に召された。

その後も度々戦功があったので、御陣に従わせた。また諸々のの故実にも詳しかったので、お出かけやお帰りの際、
あるいは上洛の折にも、傍らに供奉していた。彼はこの勤めを日夜怠らなかったため、家康より御腰物、御馬、並びに黄金を賜った。

また正忠は元より鷹の事に詳しかったので、家康が鷹狩を行う各地の猟場へも、いつも御供に召し加えられた。

ある時、家康が鷹狩に出かけた際、正忠が「この路筋は先が田切(両側が崖状に成って寸断されている場所)になっているので、
路を変えるべきです」と申し上げた。
しかし家康は、「私は幼き頃からこの駿河で成長したのだから、路の案内もよく知っておる。この路にそんな場所はないよ。」と言って
そのまま進んだが、はたして路は絶たれていた。家康はこれを見て笑いながら「丹沢よ、田切のあるのをどうして知らせなかったのだ!?」
と咎めた。

また、鷹狩の際鳥の有無を見るため遣わされた時、帰ってきて「鳥は居ません」と答えた。
その後、家康が正忠に確認させたあたりを通ると、数多の鳥が地面に降りて居た。そのため家康は「丹沢どうした?お前には
あれが見えぬのか?」と言うと、「先程は居りませんでしたが、たった今ここにやって来たのでしょう。」と答えた。これに家康も
「私はお前がそう答えるだろうということはとっくに解っていたよ。」と、またまた咎めたのである。

しかし正忠、「私は不徳の身ではありますが、家康公の御仁徳の有り難さに、鳥も路に平伏しているのでしょう。」と答えると、
家康も快さげに喜色を表した。
ところがここで、正忠は突然その場に居た鳥を追い払い、「どうか、御殺生はおやめ下さい」と申し上げた。
家康はこれに「お前は三国一の不埒者だ」と叱った。

家康は帰った後、「今日は一日丹沢とケンカして、大変面白かった。」と仰せになった。

正忠は隠居した後も、家康にしばしば彼を召し寄せられた。この事を人々は不思議に思い、
「どうして家康公のお気持ちに叶うのか?」と問うた。すると正忠は「私が不埒なためですよ。」と答えたので、人々はさらに
不思議に思った。

彼は大久保長安事件の後、田澤と名字を改めた。元和七年七月二十二日に死去した。