戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0663人間七七四年
2014/09/01(月) 17:04:29.91ID:Bq6cj/Aqかつての門番の自宅の家屋の建替(改築)時に「然るべき場所に寄贈する」といった約束での購入者といった表現になるらしいので、悪い意味ではないはず
0664663
2014/09/01(月) 17:51:15.32ID:Bq6cj/Aq○かつての門番の子孫の方の家屋
…やってしまった…
0665人間七七四年
2014/09/02(火) 22:30:00.18ID:gLSh0Sgh申し出す者は居なかった。
重臣である本多安房守(政重)は、出張の土産として鏡を進上し、
また近習の者達に申し付け、夜詰めの際には利常の前でわざと鼻毛を抜かせ、
それとなく気付いてもらうようにしたが、まったく気にする様子はなかった。
この頃、利常の近くで仕えている掃除坊主が湯治に行った。これに横山左衛門佐が指図して、
鼻毛抜きを土産として利常に捧げた。彼はこれを見ると老臣以下を呼び集めた
「私の鼻毛が伸びているのを、何れもおかしな事だと思い、世上にては『鼻毛の伸びたうつけ者』などと
言われている事は、この利常も心得ておる。
近頃安房守が鏡を送ってきたり、近習の者達が懐に顔を差し入れて鼻毛を抜き、痛そうな顔をしていたり、
今度この坊主が鼻毛抜きを持参してきたりしたのも、お前たちが指図しなければどうしてこのような
事があるだろうか。
私は全て解った上で、そのまま差し置いていたのだ。その意味をお前たちに申し聞かすため、
今呼び集めたのである。
私は現在、大名の上座にして、官禄も日本有数の存在である。
この利常が利口を鼻の先に顕すようなら、人々は気を使い大いに疑いを持ち、考えもしないような難儀を
被ることもあるだろう。
私がたわけであると人に知らせてこそ、心やすく三ヶ国を領し、何れも楽しむことが出来るのだ。」
(明良洪範)
前田利常の、鼻毛を伸ばす理由、である。
0666人間七七四年
2014/09/03(水) 01:31:59.51ID:a31q1JhWある日、家康が代官等がいる前で、言った。
家康 「道路工事させていたんだけど、今日開通したさ」
代官たち「道路工事? どこのことっすか?」
家康 「こないだ丹沢と喧嘩したところwwww」
代官たち「ああwwwwww 例のガケっすかwwwwww」
家康 「(グフフ、丹沢め。次の鷹狩りでは目にもの見せてくれるww)」
それは、こんな出来事からであった。
武田遺臣・丹沢正忠は鷹に詳しかったので、家康はいつもお供に加えていた。
ある日の鷹狩のことである。
丹沢「家康様、この先は谷で、ガケになってて通れないっすよー」
家康「何を言う丹沢、この先にそんな場所はないぞ。わしは駿河に育ったんだから、
甲州人のお前なんぞよりこの辺りはよっぽど詳しいのだ」
と、丹沢の言葉を無視して進んで行くと・・・
丹沢「ほらwwww 通れないじゃないっすかwwwww」
家康「ば、馬鹿なっ!? ……おい丹沢!! 何故通れないと言わなかった!!」
丹沢「言ったじゃないっすかwwww ひでえwwww」
家康は道を変えてから丹沢に命令した。
家康「よし丹沢、この先に鳥はいるか見て来い」
丹沢「行ってきました。鳥の姿は見えなかったっすね」
しかしその道を進むと、鳥がたくさん舞い降りていた。
家康「丹沢、どうだwwww お前の目にはこれが見えんのかwwww」
丹沢「さっきはいなかったんですよ!! サボってたわけじゃありません! 今来たんでしょう!」
家康「ププwwww そんなことは、言わんでもとっくに分かっとるわwwww」
丹沢「(ビキビキビキビキ)」
家康は帰ってから「今日は一日中、丹沢と喧嘩して愉快だったwww」
などと周囲に言ってはみたものの、まだ根に持っていたのかもしれない。
ついに谷を埋めさせて、実際に通れるようにしてしまったのである。
0667人間七七四年
2014/09/03(水) 01:33:40.45ID:a31q1JhW『このように家康公は、お遊びの際のこともよくお心にとめられる方で、
「誰とはあの時あそこで酒を飲んだ」「誰にはあの時あそこで飯をおごった」
などと覚えてらっしゃり、そのことを話題にされることが常々あったのである。』
と綺麗にまとめているが、誰に飯をおごったか覚えているとかすっごいケチくさい。
家臣と他愛ない口喧嘩をして楽しんでいた、君臣の情も美しい良い話?
ケチのくせにムキになって道路工事までやらかしてしまった、悪い話?www
(原文)丹沢七右衛門正忠といひしは。武田が家人なりしが。
関東へうつらせたまふころより當家に参り。元より鷹の事に精しければ。いつも御供にめし加へらる。
ある時ならせたまふに。正忠この路筋には田切(谷の両側がガケになっている場所)のあれば。御路をかへ給へと申す。
君われ幼きより駿河にて生長したれば。路の案内よくしりたり。この路にさる所なしと宣ひて成せ給ふに。
はたして路絶たれば笑はせ給ひながら。丹沢かゝる田切のあるを。何とてしらさぬとて咎め給ふ。
また鳥の有無を見せにつかはされしに。かへりて来て見えずと申。
やがてその筋通御有に。鳥あまた下り居たれば。丹沢いかに汝には見えぬかと宣へば。
先にはなかりしが。たゞ今入懸しなりと申せば。そはわれもとくよりしりたりとてまた/\咎め給ふ。
還御のゝち。今日は日ひとひ丹沢とあらがひて。いとおかしかりしと仰らる。
後に、其日ならせられし道路の経営の事仰出されしに。代官等いづれの地かと伺へば。
先日丹沢とあらがひし所よと仰られしにて。速に分りたりしとぞ。
かく御遊行の折の事も。よく御心にとめられ。
誰はいつの時いづれにて酒のみし。膳給はりしなどゝ。おぼしいでゝ仰られし事つね/\″おはしましき。
東照宮御実紀附録巻二十四
ttp://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/tosyogu-h24.html
0668人間七七四年
2014/09/03(水) 07:12:03.36ID:pRFXYSMW0670人間七七四年
2014/09/03(水) 12:56:01.43ID:Ld2NlI/90671人間七七四年
2014/09/03(水) 13:27:39.13ID:hdRQjglp0672人間七七四年
2014/09/03(水) 13:50:08.03ID:7vh4XO9I現在全五巻で発売中です!
0673人間七七四年
2014/09/03(水) 14:38:34.13ID:bmxlt6U4誰にご馳走したか覚えてる奴なんて普通に執念深いっていうんだよ
0674人間七七四年
2014/09/03(水) 15:28:58.62ID:9YxrKypWへうげものの爪噛み権現さまで脳内再生
家康公「よし!たらふく食うがいい!」
○○「この量は…馬の餌???」
0675人間七七四年
2014/09/03(水) 16:58:20.83ID:C3Ulxmm/0676人間七七四年
2014/09/03(水) 17:01:41.07ID:BSYju9A5まあ皮膚とかと同じ物から出来てるから食べれない事はないんだろうけど…
0677人間七七四年
2014/09/03(水) 19:47:54.23ID:9YxrKypW慶長5(1600)年9月13日、畑谷城を落とした直江兼続は山形盆地へ向け進軍。14日に富神山を抜け、菅沢の丘に現れると早速長谷堂城を攻めた
長谷堂には最上方の守将志村光安と増援の鮭延秀綱が兵1200〜1300ほどで詰めていた
鮭延秀綱「お出で早々に攻めて来るとは上杉ん奴腹め、あがすけが(お調子者が。調子に乗りやがって)!」
志村光安「人馬で菅沢が埋まり、山の裾野まで陣が張り出してますな。どんだけの軍兵を連れて来てんだが」
秀綱「いっそ夜襲を掛けてやりますか?まさか初っ端から大軍の上杉に寡兵の吾等が攻めるとは思いますまいに」
光安「秀綱殿、殿(最上義光)の命令では『安易に討って出る事を自重し、なにがあっても城を守れ』が命令だったのでは?」
秀綱「200くらいの兵をお貸し頂ければ私がやって来ます。夜襲の成否に関わらず、上杉の目をしばらくは長谷堂に引き付ける事は出来るでしょう」
光安「これは尤もな策でありますな。では一撃だけを食らわし、深追いだけはなされないと約束くだされ。それとくれぐれも慎重に」
その夜鮭延隊は闇に紛れて奇襲を掛け、上杉兵百以上の首級を挙げて凱旋した
秀綱「ご覧の通り、まずは重畳」
光安「これで怒り狂った上杉兵は長谷堂を意地でも落としたくなるでしょう」
翌日上杉方の春日元忠の隊が再び長谷堂城を攻めた
光安「寄せて寄せて、畠の畔(あぜ)を越えて来たら射かけよ。さすれば外れ矢玉少なく、敵を数多く討ち取れようぞ」
城に近付いた春日隊を数百の鉄砲と弓が釣瓶撃ちに襲い、上杉軍にはまた多くの被害が出た
直江兼続「篭城されたままでは厄介だ。野戦に持ち込み殲滅しよう」
上杉兵は弓や鉄砲の射程外で苅田狼藉をはじめた
長谷堂城兵「ぐぬぬ…わしらの田が…稲が…」
血気盛んな若い兵らが光安に出陣を願ったが、光安は兵らを宥(なだ)めて言った
志村光安「吾等の役目は如何に直江隊を足止めするかである」
光安は筆を取ると矢文を拵え、弓の得意な者に上杉兵へ向けて射掛けさせた
兼続「これがその矢文か」
上杉兵「は」
兼続が矢文のこよりを解くと、紙にはただ二文字「笑止」とだけ書かれていた
0678人間七七四年
2014/09/03(水) 19:52:19.62ID:9YxrKypW○では一撃だけを食らわし、深追いはなされないと約束くだされ。
で訂正をお願い致します
0679人間七七四年
2014/09/03(水) 20:13:55.23ID:45eDskxa0680人間七七四年
2014/09/03(水) 20:30:02.97ID:chQfmHAE0681人間七七四年
2014/09/03(水) 20:35:36.35ID:+5Z98Y210682人間七七四年
2014/09/03(水) 20:36:21.99ID:9YxrKypW文禄2(1593)年2月、最上義光は朝鮮出兵の後陣として肥前名護屋にいた
その頃の京都
里村紹巴は最上義光に文を綴った
「義光殿も遠方でなにかと気苦労なされている事でしょう。気分直しに当方主催の連歌会の発句を頂戴できませんか?」
義光(´・ω・`)「!お師匠さまから重要な役割をもらったんよ!これは責任重大なんよ!」
義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし(梅の清々しい匂いが溢れている)」
氏家守棟「幾重霞のかこふ垣内(ここは霞のかかった屋敷内)」
(´・ω・`)「守棟、なに脇句作ってるの?」
守棟「拙者とて歌を書いていけない道理はありますまい?」
江口道連が京都の紹巴に義光の発句を届けた
里村紹巴「ほぅ、これは良い発句です。では私も続けて『春深きかげの山畑道見えで(春霞に山道も溶けていく)』」
紹巴は義光の発句が気に入ったのか、夏に義光が帰京した時に最上屋敷を訪れ、改めて自らが脇句を添えて歌衆を揃えて、百韻に仕立てた
義光にとっては連歌が評価された良い話
守棟にとっては「これはちょっと…」と暗にダメ出しをされた悪い話
※氏家守棟は1591年頃に政治文書の減少から死亡したと考えられていたが、脇句から1592年の初頭までは生存が再確認されたという意味では良い話?
0683人間七七四年
2014/09/03(水) 20:39:44.25ID:9YxrKypW○脇句から1593年
でした…
0684人間七七四年
2014/09/03(水) 21:36:22.15ID:chQfmHAE0685人間七七四年
2014/09/03(水) 21:38:50.60ID:9YxrKypW慶長8(1603)年、志村光安の所領である酒田湊そばの庄内浜に、人の上背を越える巨大な大亀が上陸した
漁民たちは「これは縁起が良い」と大亀を荷車に載せると各村を鐘や太鼓を打ち直して着飾って廻った
亀は孔雀の様な声で鳴いたという
志村光安「これは珍しい事だ。吉兆かも知れないから山形の殿(最上義光)に知らせよう」
光安は義光に手紙をしたためた
義光(´・ω・`)「それだけ巨大な亀だとかなり長寿な事だろう。酒田の神様かも知れないから余り無茶をしないで、丁重に海にお返ししてね。
そうだ!東禅寺もこれを機会に『亀ヶ崎』に地名を変えよう!」
改称記念に人々には餅や酒が振る舞われた
ついでに大宝寺も呼応して「鶴ヶ岡」と縁起の良い名前にされた
『奥羽軍談』ほか
0686人間七七四年
2014/09/03(水) 21:52:55.23ID:clwobd570688人間七七四年
2014/09/03(水) 22:23:51.69ID:9YxrKypW海に面してるから「崎」
海から離れ、丘陵地帯の後者は「岡」
ついで「亀が(見つかった方が)先(崎)」
0689人間七七四年
2014/09/03(水) 23:11:47.22ID:chQfmHAE0690人間七七四年
2014/09/04(木) 02:35:59.79ID:MqisPoNo全くの不思議。
0691人間七七四年
2014/09/04(木) 03:38:29.06ID:CNyl6IWU0693人間七七四年
2014/09/04(木) 06:53:17.95ID:u2I46lAI発句一首目・義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし」
(梅の清々しい匂いが溢れている)
脇句二首目・守棟「幾重(いくかさね)霞のかこふ垣内(かきのうち)」
(ここは霞のかかった屋敷内)
続句三首目・紹巴「春深きかげの山畑道見えで」
(春霞に山道も溶けていく)
この江口さん、義光の発句と守棟の脇句(発句に続く二句目)を届けるついでにちゃっかり紹巴の連歌会にそのまま参加して、五首ほどが選ばれている
0694人間七七四年
2014/09/04(木) 10:09:11.98ID:pzwcs+fV0695人間七七四年
2014/09/04(木) 10:18:37.50ID:3BMT0+fL0696人間七七四年
2014/09/04(木) 12:16:44.79ID:KiVL6D/E田澤七右衛門正忠は。もとは武田が末にて。丹沢久助と名のり。信玄をよび勝頼につかへ。天正十年武田没落のゝち。八月二十一日召し給ふ。
長久手御陣にしたがひたてまつり。井伊兵部少補がそなへにありて。首級を獲て高名ありしかば。舊領に加へ新恩をたまひ男を召され。そのゝちも。たび/\戦功ありしにより。御陣にしたがはせ。
またもろ/\の故実に精しければ。出御・入御の折。あるひは御上洛の折にも。御かたわらに供奉して。日夜をこたらざれば。御腰物・御馬并に黄金を賜ふ。
正忠元より鷹の事に精熟せしかば。御鷹野のさき/\へも。いつも御供にめし加へらる。
ある時ならせたまふに。正忠この路筋には田切のあれば。御路をかへ給へと申す。
君われ幼きより駿河にて生長したれば。路の案内よくしりたり。この路にさる所なしと宣ひて成せ給ふに。
はたして路絶たれば笑はせ給ひながら。丹沢かゝる田切のあるを。何とてしらさぬとて咎め給ふ。
また鳥の有無を見せにつかはされしに。かへりて来て見えずと申す。
やがてその筋通御有に。鳥あまた下り居たれば。丹沢いかに汝には見えぬかと宣へば。
先にはなかりしが。たゞ今入懸しなりと申せば。そはわれもとくよりしりたりとてまた/\咎め給ふ。
正忠われ不徳の身なれど。君の御仁徳のかしこさに。鳥も御路に伏すものなりと申せば。御喜色快然たり。
さればとて。正忠俄かに鳥を追ひて。御殺生やめさせ給へと申せば。丹沢汝は三国一の不埒者なりとて叱り給ふ。
還御のゝち。今日はひねもす丹沢とあらがひて。いとおかしかりしと仰らる。
致至のゝちも。しば/\″召し給へば。人々怪しみて。いかにして御気色にかなふか問ふ。正忠わが不埒故と申せば。ますます怪しむ。
大久保長安逆心のゝち田澤と改む。元和七年七月二十二日死す。
訳は任せた
0697人間七七四年
2014/09/04(木) 14:32:34.69ID:rxz6zNIy0699人間七七四年
2014/09/04(木) 23:48:15.20ID:PM/Lut0Z情けない
とかいいつつ出御入御とかところどころわからないので>>698教えてw
0700人間七七四年
2014/09/05(金) 00:32:47.42ID:aN0gU4KM>>696をざっと訳すと
田澤七右衛門正忠は。もとは武田の家臣であり丹沢久助と名のり。信玄および勝頼に仕えた。
天正十年の武田滅亡の後、同年八月二十一日に徳川家に召し抱えられた。
長久手の戦いにも従い、井伊兵部少補(直政)の備えに属して戦い、首級を獲て高名があったので。旧領に加えて
新恩を賜い、さらに息子も家康の元に召された。
その後も度々戦功があったので、御陣に従わせた。また諸々のの故実にも詳しかったので、お出かけやお帰りの際、
あるいは上洛の折にも、傍らに供奉していた。彼はこの勤めを日夜怠らなかったため、家康より御腰物、御馬、並びに黄金を賜った。
また正忠は元より鷹の事に詳しかったので、家康が鷹狩を行う各地の猟場へも、いつも御供に召し加えられた。
ある時、家康が鷹狩に出かけた際、正忠が「この路筋は先が田切(両側が崖状に成って寸断されている場所)になっているので、
路を変えるべきです」と申し上げた。
しかし家康は、「私は幼き頃からこの駿河で成長したのだから、路の案内もよく知っておる。この路にそんな場所はないよ。」と言って
そのまま進んだが、はたして路は絶たれていた。家康はこれを見て笑いながら「丹沢よ、田切のあるのをどうして知らせなかったのだ!?」
と咎めた。
また、鷹狩の際鳥の有無を見るため遣わされた時、帰ってきて「鳥は居ません」と答えた。
その後、家康が正忠に確認させたあたりを通ると、数多の鳥が地面に降りて居た。そのため家康は「丹沢どうした?お前には
あれが見えぬのか?」と言うと、「先程は居りませんでしたが、たった今ここにやって来たのでしょう。」と答えた。これに家康も
「私はお前がそう答えるだろうということはとっくに解っていたよ。」と、またまた咎めたのである。
しかし正忠、「私は不徳の身ではありますが、家康公の御仁徳の有り難さに、鳥も路に平伏しているのでしょう。」と答えると、
家康も快さげに喜色を表した。
ところがここで、正忠は突然その場に居た鳥を追い払い、「どうか、御殺生はおやめ下さい」と申し上げた。
家康はこれに「お前は三国一の不埒者だ」と叱った。
家康は帰った後、「今日は一日丹沢とケンカして、大変面白かった。」と仰せになった。
正忠は隠居した後も、家康にしばしば彼を召し寄せられた。この事を人々は不思議に思い、
「どうして家康公のお気持ちに叶うのか?」と問うた。すると正忠は「私が不埒なためですよ。」と答えたので、人々はさらに
不思議に思った。
彼は大久保長安事件の後、田澤と名字を改めた。元和七年七月二十二日に死去した。
0701人間七七四年
2014/09/05(金) 00:57:28.37ID:QeRVVbAx正忠は小牧長久手の戦いに参加して、井伊直正の部隊で戦い、敵の首をとって高い評判を得たので、家康公は、正忠の昔からの領地に加え、新たに領地を与えられ、さらに息子をご登用なさった。
そのあとも、たびたび戦で功績を立てたので、家康公のご本陣に編入されることとなった。
また、正忠はいろいろな昔の慣わしについて精通していたので、家康公がお城へ上がるとき、下がるときや、ご上洛のときにも、家康公のかたわらにお供して、日夜励んだので、家康公は刀や馬、黄金をお与えになった。
正忠はもともと鷹の事に詳しかったので、家康公がお鷹狩に行くさきざきへは、いつも御供に加えられていた。
家康公が鷹狩に出たあるとき、正忠が「この先には急流がありますから通れません。道をお変えください」と申し上げた。
家康公は、「私は幼いころから駿河で育ったので、このあたりの道のことはよく知っている。この道にそういったところはない」とおっしゃったが、実際に行ってみると通れなかった。
家康公はお笑いになって、「丹沢、このような急流があるのを、どうして知らせなかったのだ」とお咎めになった。
また、道の先に鳥がいるかどうか、正忠に見に行かせたところ、正忠は帰ってきて「おりません」と申し上げた。
ところが、その道を行くと地面に降りている鳥がたくさんいたので、家康公は「丹沢、どうだ。お前にはこの鳥が見えないのか」とお聞きになった。
正忠は「先ほどはいなかったのですが。ただいま来たのです」と申し上げた。
すると家康公は「そんなことは、私もとっくに知っている」と言ってまたまたお咎めになった。
すると正忠は「私は仁徳がありません(から私が見に行ったときには鳥も身を隠していたのです)が、家康公のご仁徳のありがたさに、鳥もやってきて平伏しているのです」と申し上げた。
家康公は非常にうれしそうにされた。
正忠は「そういったことですから」と言って、急に鳥を追い払ってしまうと、「(ご仁徳を慕って平伏している鳥を)お殺しになるのはおやめください」と申し上げた。
すると家康公は「丹沢、お前は、日本・中国・インドでも一番けしからん奴だ」とお叱りになった。
家康公はお帰りになってから、「今日は一日中、丹沢とけんかをして、とても楽しかった」とおっしゃった。
正忠が引退した後も、家康公はしばしば正忠をお呼びになったので、いろいろな人が不思議に思って、「どうやったらそのように気に入られるのだ」と質問した。
正忠は「私がけしからん奴だからです」と答えたので、人々はますます不思議がった。
正忠は、大久保長安が家康公に背いた後、苗字を丹沢から田沢に改めた。正忠は、1621年の7月11日に亡くなった。
いじめないでね!
0702人間七七四年
2014/09/05(金) 00:58:55.94ID:QeRVVbAxごめんなさい。
0703人間七七四年
2014/09/05(金) 01:02:48.31ID:XUeoxQbj0704人間七七四年
2014/09/05(金) 06:58:35.04ID:7UtAiZiN0705人間七七四年
2014/09/05(金) 09:30:57.91ID:pb2HMIwR0706670
2014/09/05(金) 13:48:09.62ID:H4nhC5oH670だがさすがにカチンと来たわ
おまえが訳知りたいがためにダシに使ってんなよ
あのさ、悪意ある訳することをケチて言ってんだよ
0707人間七七四年
2014/09/05(金) 13:52:57.43ID:pb2HMIwR0710人間七七四年
2014/09/05(金) 15:30:13.40ID:VjAuS3Bl0711人間七七四年
2014/09/05(金) 17:41:30.50ID:f7PHqXLIある時、代官を勤める家士に私曲があるということで、淡路守はその者を禁獄し、私曲の虚実を
正さずにその妻子を始め、忌み掛かる者(親族)を皆召し捕らえた。そして庭に穴を掘らせて、
妻子らを首だけ出してその穴へ埋めさせ、その首に小桶を被せておいた。淡路守は毎日小桶を
取って見て回り、それを慰みになさった。
妻子らが追々死んでいく中で、代官を勤めた者だけは未だに死ななかった。その時、淡路守は
「妻子を始め、類族どもは皆死んだというのに、お前一人未だ死なないとは、よくよく因業深き
奴だな」と、言って嘲弄した。その者はそれまで目を閉じていたが、その言葉を聞くと両目を開き、
「今までは何とかして存命し、この恨みを報じようと思っていた。だが、妻子や類族まで死んだ
以上は、もはやこれまでだ。そのうえ、例え私に罪があっても、刑罰のやり方は法もあること
なのに、こんな刑罰のやり方をしたことこそ、恨みに思うぞ。見よ見よ、今に思い知らせてやる」
と言うと、はたと白眼で舌を噛み切って死んでしまった。
それからの淡路守は乱心して狂い回った。そしてある日、自ら我が身を鉄砲で撃ち貫いて死んだ。
そのため、家は断絶に及んだ。家士は皆淡路守を疎んでいたので、すぐに思い思いに退散した。
その中で種田勘九郎という者は一人残り、納戸の道具類やその他の物をともに、自分の預かりの
分はことごとく同姓の大助のところへ贈り、翌慶長2年(慶安2年の誤り)8月20日の亡主
1周忌の折に、廟前で自殺して果てた。書き置きが残され、「去年以来の殉死の存念を遂げた」
とのことである。また「曇りなき 月の光りに 誘はれて 浮世の雲も 晴てこそ行け」という
辞世の歌があった。
菩提所は雑花院(雑華院)で、水南和尚は石碑に俗称を彫り、法号を『義嶺祖高』となさった。
当座の殉死は簡単なことだが、このように一年の月日を過ぎても志を翻さず、廟前で殉死すること
こそ、大丈夫の忠臣というべきである。
このような悪君にもまた、このような忠臣がいたのである。『忠臣は亡国に現れる』とは本当に
もっともである。同姓の大助はその至忠を感じ、勘九郎の一子を呼び出し、厚く扶持なさった
ということである。
――『明良洪範』
0714人間七七四年
2014/09/05(金) 20:16:39.27ID:+6sy/bN00715人間七七四年
2014/09/05(金) 20:21:58.44ID:fo9ML5UZ0716人間七七四年
2014/09/05(金) 21:06:10.87ID:VjAuS3Bl0717人間七七四年
2014/09/05(金) 23:23:03.49ID:+twIys+Wググってたら凄い事がわかった!
伊達政宗爆誕・1567年9月5日
駒姫京で刑死・1595年9月5日
最上義康暗殺・1603年9月5日
最上家にとっては魔の9月5日…
0718人間七七四年
2014/09/05(金) 23:25:32.99ID:Go1NGoOK家康が道路工事させた下りは、こっちのバージョンにはないんだね。
しかし田澤正忠って人も過激だね、殿様によってはその場で無礼討ちされてもおかしくない行動だ。
ちょっかいを出されて、イラっとしたんだろうなあww
でも、素敵なやり返しの方法だ。
お互い信じているからできることだよね。
君臣相信じ相親しむというのは、家康存命中の徳川の素晴らしいところだよね。
そうでもなきゃ、天下は治められないのかもしれない。
0719人間七七四年
2014/09/05(金) 23:54:26.57ID:aN0gU4KMこの時、秀忠は悲嘆激しく、涙を流し嗚咽していた。
家康はこの様子を見て
「秀忠よ、人の生死は定められた運命なのだから、そのように嘆くものではない。
今より後、天下の人々は御身を月とも太陽とも戴き、仰ぐことになるのだから、よく天下大小の機務に
勤め、些かも怠らないように。
ただし、当家が天下を治めてから日が浅く、今まで創建した所の法規や政令は、未だ全備したものではない。
私も近年の内にそれぞれ改修したいと考えていたのだが、今は、残念ながらそのことも遂げられなく成ってしまった。
私が死んだ後に、御身は些かもはばかること無くそれらを改正せよ、それこそが私の志を継ぐとも申すべき
孝道である。」
そう申し残した。
この言葉について、後にこの当時の幕僚の中に、こう評したものがあった
「家康公は元々、将軍家(秀忠)と考えや認識に違いがあるので、自身が死んだ後は必ず新政の数々が
行われると予想されていた。
しかし前代に建て置かれた決まりを俄に改めるようなことをすれば、『当代の将軍は不徳である』などと
世の中に持ち騒がれる事にもなるかと考えられた。
そのため、秀忠公が思うように政務を行えるよう、予めこのような御遺命を残されたのである。」
(徳川実紀)
0720人間七七四年
2014/09/06(土) 09:34:30.01ID:EkIbGPLQ0721人間七七四年
2014/09/06(土) 11:41:55.21ID:3Q6lDSEc反骨だが有能で、家康が大好きそうなタイプではある。
それと、ちょっと調べたら寛政重修諸家譜に資料あった。
田澤正次 庄兵衛
田澤七右衛門正忠が二男。
鳥見役をつとめ、のち東福門院の御所に附属せらる。
正次
木工右衛門
父が遺跡をつぎ、のち鳥見役をつとむ。これより子孫御家人たり。
ざっと見ただけだけど、本家には鷹に関する記述はない。
鷹の特技は、分家が継いでいったみたい。
0723人間七七四年
2014/09/06(土) 18:15:05.53ID:86QuRaOJ0724人間七七四年
2014/09/06(土) 18:31:01.41ID:IKPv6NBa0725人間七七四年
2014/09/06(土) 20:48:32.15ID:Zibgnl2J既出なんだなあ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3726.html
0726人間七七四年
2014/09/06(土) 23:59:14.92ID:mc2AAiZ00727人間七七四年
2014/09/07(日) 01:23:19.56ID:QqURm2zp以前丹沢正昌のエピソード(信虎の命で北条から鷹をぶんどる)を書いたものですが、
私も正忠に関してももう一つエピソードを持っているので、悪い話スレに書きます。
0729人間七七四年
2014/09/07(日) 20:55:48.08ID:S9b8+mKr「忠臣は亡国に現れる」って例とはちょっと違う気がするよな
何にしろ、良い話とは全然思えない・・・
0730人間七七四年
2014/09/08(月) 07:16:18.45ID:WufHteIh狂人にたいして諫死するよりも殉死したほうが名誉と考えたかもしれんし
0731人間七七四年
2014/09/08(月) 09:28:49.09ID:BauNpNjk月見を口実に延沢屋敷へ
最上義光「力の分においてはおそらく我随分世に越たるように人にも謂われし故、
あわれ対體の族もあれかし力比べをなさんと願う所に、幸い今度能登守の働きを見聞するにあっぱれ我に優る程の事なり
いざや力を試して遊ばん」
『最上記』(天正年間、旧暦の7月15日)
義光(´・ω・`)「殿はかなり力の持ちですよ。おそらく世の中に殿を越える力持ちはそうは居ませんよ、と人にも言われるし自分でもそう思うんよ
今まで自分と同じくらいの力持ちと力比べをしたいと願ってた所に、幸い今度味方になった延沢満延が、見事に義光を越えるくらいの力持ちなんよ
さあ、どれくらいの力持ちなのか、満延の力を試して遊ぼうww」
月見を理由に延沢満延宅を訪問すると使者を送った鮭様の密かな楽しみ
結果:鮭延秀綱から借り受けて来た高橋英国(裸武太之助ほか、志村藤右衛門や小関加左衛門といった武勇の士らがこっぴどく満延に投げ飛ばされた
0732人間七七四年
2014/09/08(月) 09:37:33.44ID:cjypXYP90733人間七七四年
2014/09/08(月) 09:48:26.62ID:QMquSI9P0734731
2014/09/08(月) 17:28:28.20ID:BauNpNjk×殿はかなり力の持ちですよ。
○殿はかなり力の持ち主ですよ。
×高橋英国(裸武太之助ほか
○高橋英国(裸武太之助)ほか
でお願いします
0735人間七七四年
2014/09/08(月) 17:56:03.51ID:M3Mmz6fl突然の大量投稿や誤字脱字を文句ひとつ言わずしてくれるんだからw
0736人間七七四年
2014/09/08(月) 18:33:14.02ID:CsP7b96V0737人間七七四年
2014/09/08(月) 18:40:29.85ID:vhO9Nd0K0738人間七七四年
2014/09/08(月) 22:03:30.64ID:9OSnhbOm0739人間七七四年
2014/09/08(月) 22:14:18.09ID:ZFE1Y9L7陰湿な努力の一端は垣間見えるね
0740人間七七四年
2014/09/08(月) 22:15:09.57ID:Vbnr5xpN真性のキ○ガイどもに比べれば夢のように無害な存在だし
0741人間七七四年
2014/09/08(月) 22:26:32.14ID:X0GLBWLDよく会話調になってるけど本当にそう書いてあるのか?
0742人間七七四年
2014/09/08(月) 23:03:42.86ID:RDw68GwG地元愛?と最上家愛は感じるから
0743人間七七四年
2014/09/08(月) 23:32:09.81ID:GEQNFXDG0744人間七七四年
2014/09/08(月) 23:37:16.88ID:KWCMqsdg0745人間七七四年
2014/09/08(月) 23:39:29.35ID:9OSnhbOm欠点は幾度も指摘されてるのに頑なに直さない(直せない)のはやはりそういうことかな
悪意の有無はさておき、そういう類の人に広報する使命感を抱かれてしまった最上家と他の最上ファンこそ憐れよの
0746人間七七四年
2014/09/08(月) 23:56:26.68ID:S/JcgjJl0747人間七七四年
2014/09/08(月) 23:59:49.00ID:/p87a4ux逸話を投稿する分、最上の方が遥かに良い。
0748人間七七四年
2014/09/09(火) 00:05:08.52ID:tMjUXVnz0749人間七七四年
2014/09/09(火) 00:43:14.87ID:wqe4ekIH当人wwwwwwwww
0750人間七七四年
2014/09/09(火) 01:10:56.45ID:8xohpBZZ旅館にて寝ていた時、近臣達は御傍に在って四方山の話をしていた。
その中の一人の話に
「先に通行していた時に、御中間のなにがしと言うのが剛の者で、三島の神池のウナギを蒲焼きにして食したそうです。
常には神のウナギなどと言って、現地の人々は手も出さぬそうですが、『上様のお供であれば何の祟があるべきか!』
と言って食ったそうで、何とも剛の者ではないでしょうか。」
これを耳にした秀忠は俄に起き上がり、
「どういうことだ、もう一度言え!」
と、重ねてその話をじっくりと聞き、「本多佐渡を呼べ!」と、本多正信を召すと同じ話を聞かせ、
正信に命じて
「その中間を糾明し、事実ならば明日、その者を町端で磔にかけよ!そして札にその理由を書いて晒すのだ。
私の権威を借りて霊神を軽んず様に成っては、今後誓詞の文なども徒になってしまう。
これは小事のように思うかもしれないが、それによって与える悪影響は、容易ならぬものだ。」
そう言って、終に法の如くこれを処置したそうである。
(徳川実紀)
0752人間七七四年
2014/09/09(火) 07:48:41.74ID:hqzWiD2W0753人間七七四年
2014/09/09(火) 08:16:58.16ID:N0huRNoW0754人間七七四年
2014/09/09(火) 09:40:13.41ID:qnikwDg10755人間七七四年
2014/09/09(火) 13:40:14.70ID:+tT+ONL+0756人間七七四年
2014/09/09(火) 13:42:37.95ID:D5f4vWY70757人間七七四年
2014/09/09(火) 14:04:03.04ID:SYUCtubi0758人間七七四年
2014/09/09(火) 17:40:38.76ID:Uhlc6+Ql右の方の木戸から、本丸へ入ろうとした。しかし、敵方が大石を激しく
投げたので、少し退いて堤の陰に立ち、様子を見ていた。
そこへ、立花勢がその堤の上に上り、敵方へ激しく鉄砲を放った。
そのため、敵兵は少し猶予したので、
伝蔵は十文字槍を取り直して本丸の下まで突入した。その時、傍らの
洞穴から敵兵が出て鉄砲を差し向け、伝蔵が近寄れば撃とうと構えた。
伝蔵には前もって柳生但馬守(宗矩)に聞いておいた心得があったので、
彼は敵兵の鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。敵兵は伝蔵が近付く
のを見て、鉄砲を撃ち放った。
その弾丸は槍に当たり、それて伝蔵の肘をかすり、外側へ飛んで行った。
そして、伝蔵はそのままその敵を一槍で突き伏せたということである。
――『明良洪範』
0759人間七七四年
2014/09/10(水) 06:39:47.84ID:c+C10CCG0760人間七七四年
2014/09/10(水) 07:25:06.47ID:xVOMU0vb「特に支障なし」
「腹据えて進むのみ
0761人間七七四年
2014/09/10(水) 19:19:37.98ID:xVOMU0vb虎の威を借る何とやらってーヤツだな
エスカレートして「俺は上様のお供じゃー」で乱暴狼藉働かれたら困るしな
0762人間七七四年
2014/09/10(水) 19:44:20.59ID:I/gLwwtb彼はいつも正言を申すため、まだ歳若き家光には煩わしく思い、忠世に何か言われた時は、
いつも機嫌が悪かった。
ある日家光が大手前を通った時、「あの家は誰の家か」と尋ねると、「雅楽頭の家で御座います」と答えられた。
そのとたん、家光は顔をしかめた。それほど酒井忠世を嫌っていたのである。
ある年の事、八朔の賀に御三家はじめ諸大名江戸城に登城した時、家光は前夜より二の丸に在って、未だ
還御無かった。
酒井忠世は二の丸に渡り、「拝賀の者は皆集まりました。早くお還りあって賀儀を受けられますように。」
との言葉を伝えるよう家光の御傍の者達に言ったが、彼らは家光の事を憚って、誰も取り次ごうとしなかった。
そのため忠世は直接家光の御前に出て、その旨を言い聞かせた。この事に家光は激怒した
「忠世、取次なしに私の前に出るのは推参である!必ず咎めを与える!」
「それがしの事は後日、どのようなお咎めも蒙りましょう。今朝はとにかくお還りください。」
これに家光も拒否できず、やがて本丸へと還り諸大名の拝謁を受けた。
その後何の沙汰もなく数日が過ぎたが、忠世は西の丸の大御所秀忠の元を訪れ
「私は性質愚鈍であるのみならず、歳も取り、また殊に御前もよろしからねば、老職を
お許しありますように。」
そう、大老職の辞任を申し出、また八朔の日のことも申し上げた。秀忠はこれに何も言わなかった。
間もなく、家光が西の丸の秀忠のもとに渡ることがあり、忠世も召され左右に侍った。
そこで秀忠が
「忠世は年老いて、さぞ本丸での職務にも労しているだろう。今日は殊に冷気が強い。
これを取らせる。」
そうして自らかぶっていた頭巾を取ると、手ずから忠世に与え「直ぐにこれを被るように」と言ったが、
忠世は御前を憚り被ろうとしなかった。家光はこれを見て
「上意であるぞ。何故被らないのか」
と言ったため、終にこれを被ると「良く似合っている」と笑った。
その時、秀忠は家光に向かい
「将軍は雅楽頭を気に入らぬそうだな。彼は東照宮(家康)このかたの旧臣であり、天下大小の
政事に熟練しているので、私が将軍職を譲った時、それに添えて彼を遣わした。
それを気に入らぬというのは。御身の我意というものである。
よいか、天下を治めるものに、我意はならぬものだ。」
そう言い、また八朔の日のことも取り上げ強く教諭し、これを家光も畏まって聞いたが、何の答えも
しなかった。
忠世は、この後どんなお咎めを受けるかも解らないと思っていたが、家光は本丸に帰ると直ぐに
忠世を召して
「今日は御隠居様(秀忠)より殊の外お叱りを受けた。よく考えて見れば、お前が天下の政道を大事と思って
言う言葉を、私は悪しざまに聞いていた事は、今更悔いても甲斐のないことである。
雅楽頭よ、今後は尚更に、思うことを残さず言ってほしい。」
そう、さわやかな表情で言った。その後城構えの工事御覧のため出かけたが、この時家光が
「雅楽、先にいけ、先にいけ」と言うので忠世が先に回った所、さらに「頭巾!頭巾!」と
先に秀忠より頂いた頭巾を被るよう促した。しかし忠世が被りかねた様子だったので
「御免であるぞ!否むこと無かれ!」と言って、終に被らせたという。
(葛藤別紙)
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