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戦国ちょっといい話40

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0001人間七七四年2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0633人間七七四年2014/08/28(木) 22:09:17.22ID:6ZpOri4S
>>632
さすが工場長。いつでもスカウトを忘れないな。
0634人間七七四年2014/08/28(木) 22:19:22.23ID:WPRpFlsY
知り合いの話なんだけど
そいつが無職スロプーで
母親と二人暮らしなんだけど母親が突発性の緑内障になり
今すぐ病院に行かないと失明する、ってくらいヤバいときに
金がないんで放置してたら そいつに別居してる兄貴がいて
「とにかくすぐに病院連れて行けよ!」って20万置いて行った
兄貴も忙しいんで金置いて仕事に戻ったらしいんだけど
そのバカは置いていった金に手をつけて「押忍 番長!」を打ち
結局20万全部負けた
母親には適当にドラッグストアで買った目薬を与えて寝かせておいた
母は地獄の苦しみの中で
「ああ、ありがとう、XXちゃんが目薬買ってきてくれたんで楽になったよ」
と言いながら食事もとらず ボロ布団のなかで徐々に失明していった
衰弱しきった母を兄が救急車で運んだときには完全に失明し極度の栄養失調
に陥ってたらしい
0635人間七七四年2014/08/28(木) 22:20:06.89ID:8aXF40D2
いつも断られてる気がするが。
0636人間七七四年2014/08/29(金) 01:23:04.92ID:tayKb6Jk
酒田三十六人衆

元和8(1622)最上氏が改易となり、庄内には酒井忠勝が入部した
忠勝は酒田湊を取り締まる有力商人である三十六人衆を城に呼び
「そなたらを酒井家の御家人として召し抱よう」と伝えた
しかし彼らの中から鐙屋の池田惣左衛門や本間・二木某らといった者たちが立て続けに
「二君仕えずと古くからの言葉にございます
一合の米も酒井家から貰う筋合いはございません
また我々は暮らしに困る程飢えている訳ではなく、地所も株も田地も持っております
だからあなた様のお世話にならる必要はありません」と答えた
『夢宅年代記』

三河武士以上にめんどくさそうな、酒田の自治に誇りを持っていた商人衆たちのお話
0637人間七七四年2014/08/29(金) 01:25:59.82ID:tayKb6Jk
×元和8(1622)
○元和8(1622)年

×だからあなた様のお世話にならる必要はありません」と答えた
○だからあなた様のお世話になる必要はありません」と答えた

編集が終わる前にうっかり投稿してしまいました…
0638人間七七四年2014/08/29(金) 03:31:03.06ID:m+Yjh9js
株……?
0639人間七七四年2014/08/29(金) 04:07:21.43ID:tayKb6Jk
>>638
職業上・営業上の特権
「相撲の年寄の−」
江戸時代に売買の対象とされた名跡や役職など
「御家人−」
独自の流通網
0640人間七七四年2014/08/29(金) 07:22:31.86ID:tayKb6Jk
とある士の死

慶長6(1601)年、志村光安の軍が上杉領東禅寺城を攻めたときの話である

城攻めの最中、光安は城下で上杉軍の哨戒部隊と遭遇し、交戦の末一人の眉目麗しい若武者を捕縛した

若武者は光安に「死んだ仲間に申し訳がない。武士の名誉を知るならどうか殺してくれないか」と涙ながらに頼んだが、光安は「(東禅寺)城は(最上軍に囲まれ)孤立無援で間もなく落ちる。せっかく生き永らえた命を粗末にせぬ様に」と説得をした

しばらくし東禅寺城は最上軍に降伏し、開城

最上義光の命で庄内にいた上杉兵は米沢への帰途についたが
眉間に皺を寄せ、米沢行きに葛藤を覚える様に見えた若武者に光安は
「上杉家に戻るのに後ろめたさを感じるのなら、我が下で働かぬか?」と彼を勧誘した

光安は彼を気に掛け、若武者も光安に次第に心を開き、酒田三万石に加増となった光安は彼を常に近くに置き可愛がった

1609年、死の枕元で光安は彼に「儂が死んだ後も子の光惟を頼む」と言伝をして逝世した

しかし1614年
彼が別の用事で庄内を空けている間に一栗の反乱により志村光惟が暗殺された



光惟の葬儀が終わり
慶長19(1614)年暮秋、一人の士が酒田青原寺の志村光安の墓の前で腹を斬った



かつての若武者の名は力丸所左衛門。上杉の重臣で東禅寺城主であった志駄義秀の甥の話である

『奥羽永慶軍記』ほか
0641人間七七四年2014/08/30(土) 09:17:20.16ID:ojhfRzwC
>>639
へぇ〜、そうだったのか
0642人間七七四年2014/08/31(日) 10:45:12.88ID:ROZLsEFt
動物に対しても、よく手入れをして、可愛がることを忘れてはならぬ。
『論語』にも、
「犬はよく見張り役をつとめ、馬は労働を尽くしてくれる。
犬馬といえども人の仲間である」
とある

武田信繁
(信玄家法より)

動物にも優しい誠の武士な弟さん
0643人間七七四年2014/08/31(日) 11:13:27.87ID:wWZHwm8F
猫苦手なのに役に立つからって猫飼い始めたりするしな
0644人間七七四年2014/08/31(日) 11:23:25.62ID:bNfl38y/
論語にそんなのあったっけ
「今の奴らは親を養えば孝行だと思っていやがるが、犬や馬だって養ってるじゃねえか、どう違うんだおい」
てのなら為政第二であるけど
0645人間七七四年2014/08/31(日) 11:24:52.53ID:4+Xin9oD
武田信繁家訓は小学校で教えてもいいレベル
0646人間七七四年2014/08/31(日) 11:55:34.44ID:ROZLsEFt
>>644
立派な人ってのはそういうもんなんだろ
論語本場の王陽明もかなり改造して読んでるし
0647人間七七四年2014/08/31(日) 17:51:55.21ID:1X3OZN8C
朝鮮においてどの場所でのことだったのか、加藤清正の陣が大山の麓に
あったために、ある夜、陣に虎がやって来た。

虎は馬を宙に引っ提げ、虎落の上を飛び出て行った。これに清正が、
「口惜しきことだ!」と怒っていると、また虎がやって来て、小姓の
上月左膳をも噛み殺した。

清正は夜が明けると、山を取り巻いて虎を狩った。すると、一匹の虎が
生い茂る萱原を掻き分けて、清正目掛けて近づいて来た。

清正は大きな岩の上にいて、鉄砲を持ち、虎を狙う。その距離は三十間ほど。
虎は清正を睨んで立ち止まった。人々は鉄砲を揃えて虎を撃とうとするが、
清正は命じて撃たせない。自ら撃ち殺そうという意志である。

そして虎は近くまで猛り来たり、口を開けて清正に飛び掛かった。その時、
清正は鉄砲を撃ち、弾丸は虎の喉に撃ち込まれた。虎はその場に倒れ、
起き上がろうとしたが、痛手だったために、最後には死んでしまった。

――『常山紀談』
0648人間七七四年2014/08/31(日) 18:06:12.27ID:i+Z3YF2j
まーた虎が現れたのか
0649人間七七四年2014/08/31(日) 18:25:21.61ID:udAZ+Tf3
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-626.html
一応既出ではある
0650人間七七四年2014/08/31(日) 21:15:12.05ID:7kjw5D5s
ちょっちゅね
0651人間七七四年2014/08/31(日) 22:09:05.23ID:v7OmkEM2
何代目の虎よ?
0652人間七七四年2014/08/31(日) 22:17:44.16ID:m7QtZXsZ
慶長5年(1600)9月14日、関ヶ原の決戦前夜、徳川家康の元に、黒田長政より家臣・毛屋主水(武久)を以って
言上の旨があった。家康は毛屋主水を御前に召し物語をした折、彼に「敵はどれほど居るか」と問うた。

主水は御陣の縁の端に寄りながら申し上げた
「それがしが見たところ、2,3万もあるだろうか、と思われます。」

「それは思いの外の小勢であるな。他の者達は10万もあると言っているが、汝一人そう見積もった
理由は何か?」

「仰せのごとく、総勢は10余万も居るでしょう。しかし実際に敵として存在しているのは、わずかに
2,3万に過ぎません。」

これは毛屋主水が、金吾(小早川秀秋)、毛利の人々が内通していることを内々に聞いていたため、
このように申し上げたのである。

家康も内心思っていたことを毛屋主水が言い当てたため、これを聞いて大変機嫌よく、御前にあった
饅頭の折を主水に与えた。主水はこれを頂き、縁に腰を掛けてその饅頭を尽く食して後、陣へと帰っていった。

その後に成って家康は側の者達にこう言った
「忘れていた。彼の本氏を聞いておくべきだった。」

「彼は毛屋主水と申す者ですが…」

「いや元々はそうではない。毛屋とは越前の地名であり、彼が毛屋を氏としたのは、毛屋にて軍功があったため、
地名を以って氏としたのだ。」

側の者達は家康が、末々の陪臣のことまでそのように覚えている事に、大いに驚いたという。
(落穂集)

実際に、毛屋主水は元は田原金十郎と言い、柴田勝家に使えていた時代、越前の毛屋で活躍したため
名字を毛屋に変えたとされています。
0653人間七七四年2014/08/31(日) 23:14:03.85ID:8Duv/Xh3
>>652
権現様はカリスマ性があるな
絶妙に心を掴むね
0654人間七七四年2014/09/01(月) 00:07:32.23ID:G7ZpfY8D
一瞬、命名シリーズになるのかと思った
0655人間七七四年2014/09/01(月) 00:44:04.16ID:acnxzFJE
権現様の記憶力は驚異
0656人間七七四年2014/09/01(月) 00:55:58.92ID:lW9XLkck
孕石「忘れてくれても良かったのに・・・・」
0657人間七七四年2014/09/01(月) 03:39:25.25ID:Bq6cj/Aq
長谷堂城の門の話

元和の最上家信(義俊)改易により、山形南西の支城・長谷堂城は幕府の命令により上杉家に接収される事になった

出羽の各城も小国城は戸沢氏、延沢城・鮭延城は伊達氏により前後に兵糧庫を押さえられ収公された


上杉の代官「これが慶長の折に当家の山城守(直江兼続)が苦汁を呑まされた長谷堂城ですか。こうなってしまうと呆気ないものですな」
最上方の代官・坂上重内(坂光秀の子、坂光重か?)「平和な御世、当地は「長谷堂館(だて・たち・やかた)」や「亀山の御楯(かめやまのみたて)」と呼ばれております。城ではなく、館、楯ですよ」
上杉の代官「…それがしには立派な城に見えますがな」


上杉の代官は兵糧庫を押さえると、米沢から連れて来た兵や人足らに城山の建物の破却を命じ、さっそく作業に取り掛かった

長谷堂城には代々門番を勤めていた某(なにがし)といった者があった

某「坂上様、上杉の奴腹が無茶苦茶をしております!狼藉を止められないのですか?」
坂上重内「接収というのは、普通は乱取をしてはいけないのが約束事だが、上杉家にとってこの長谷堂の「城」は因縁深い場所だからな」
某「最上家が改易されたからと言っても余りに酷うございます」
坂上重内「そちは重代この城を守り、その想いは海よりも深く、水と魚の様に切り離せぬ関係だものな。
…なにがあっても俺が責任を取るから、お前は城の門を持って帰れ」
某「ええんだが?」

某は長谷堂城門の扉戸を外し自宅に持ち帰ると、囲炉裏の梁上に隠した

門扉は代々その子孫に受け継がれた

門扉は左右2枚で、幅は合わせて約2メートル、高さは約1.9メートル
上杉軍が放ったとされる鉄砲の銃弾の跡も残る

1955年に紆余曲折を経て山形大学資料館に収蔵され、今に伝わる

「上杉家御年譜」「山形古話」ほか
0658人間七七四年2014/09/01(月) 10:15:25.66ID:4Q13TtUX
近くの名古屋城の門扉を思い浮かべてどうやって持ち帰ったんだ?
と思ってたら案外小さいんだな。
0659人間七七四年2014/09/01(月) 14:25:27.80ID:N1E0Jmmn
そら小さいほど守り易くなるからな
0660人間七七四年2014/09/01(月) 14:29:30.83ID:PZq97E5O
大きさが倍だと、16倍突破されやすくなるらしい

流体力学の本によれば、なんて
0661人間七七四年2014/09/01(月) 15:17:34.46ID:QP9K5ZN6
そうか、城門をにじり口にすればいいのか
0662人間七七四年2014/09/01(月) 16:39:13.58ID:Bq6cj/Aq
イメージをするなら長谷堂城門の扉戸一枚の大きさは襖(ふすま)やアパート・マンションの戸と同じくらいのもの
戸板周りの門柱や梁、屋根も揃えばそこそこのサイズにはなる

(2010年10月5日)山形大学は、高感度加速器質量分析装置を用いた年代測定で、伝・長谷堂城大手門扉が15世紀半ばから17世紀前半のものであると発表した

年代測定の結果、正面扉の回転支柱は文安2年(1445)から寛永9年(1632)に、また右側の回転支柱は寛正4年(1463)から寛永13年(1636)に伐採された木である確率が極めて高いことが示された

この扉は城の門番を務めた人物の子孫が代々保存してきたが、昭和30年(1955)に購入者が山形大学博物館に寄贈した

長谷堂城そのものは元和8年(1622)に最上氏が改易となると、廃城となっている(一部を編集)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4657519&;id=57449661
0663人間七七四年2014/09/01(月) 17:04:29.91ID:Bq6cj/Aq
>>662
かつての門番の自宅の家屋の建替(改築)時に「然るべき場所に寄贈する」といった約束での購入者といった表現になるらしいので、悪い意味ではないはず
06646632014/09/01(月) 17:51:15.32ID:Bq6cj/Aq
×かつての門番の自宅の家屋
○かつての門番の子孫の方の家屋

…やってしまった…
0665人間七七四年2014/09/02(火) 22:30:00.18ID:gLSh0Sgh
前田利常は鼻毛が伸び過ぎていた。それは大変見苦しいものであったが、誰もこれを
申し出す者は居なかった。

重臣である本多安房守(政重)は、出張の土産として鏡を進上し、
また近習の者達に申し付け、夜詰めの際には利常の前でわざと鼻毛を抜かせ、
それとなく気付いてもらうようにしたが、まったく気にする様子はなかった。

この頃、利常の近くで仕えている掃除坊主が湯治に行った。これに横山左衛門佐が指図して、
鼻毛抜きを土産として利常に捧げた。彼はこれを見ると老臣以下を呼び集めた

「私の鼻毛が伸びているのを、何れもおかしな事だと思い、世上にては『鼻毛の伸びたうつけ者』などと
言われている事は、この利常も心得ておる。

近頃安房守が鏡を送ってきたり、近習の者達が懐に顔を差し入れて鼻毛を抜き、痛そうな顔をしていたり、
今度この坊主が鼻毛抜きを持参してきたりしたのも、お前たちが指図しなければどうしてこのような
事があるだろうか。

私は全て解った上で、そのまま差し置いていたのだ。その意味をお前たちに申し聞かすため、
今呼び集めたのである。

私は現在、大名の上座にして、官禄も日本有数の存在である。
この利常が利口を鼻の先に顕すようなら、人々は気を使い大いに疑いを持ち、考えもしないような難儀を
被ることもあるだろう。
私がたわけであると人に知らせてこそ、心やすく三ヶ国を領し、何れも楽しむことが出来るのだ。」

(明良洪範)

前田利常の、鼻毛を伸ばす理由、である。
0666人間七七四年2014/09/03(水) 01:31:59.51ID:a31q1JhW
家康、例のことをまだ根に持っていたのか


ある日、家康が代官等がいる前で、言った。
家康  「道路工事させていたんだけど、今日開通したさ」
代官たち「道路工事? どこのことっすか?」
家康  「こないだ丹沢と喧嘩したところwwww」
代官たち「ああwwwwww 例のガケっすかwwwwww」
家康  「(グフフ、丹沢め。次の鷹狩りでは目にもの見せてくれるww)」
それは、こんな出来事からであった。

武田遺臣・丹沢正忠は鷹に詳しかったので、家康はいつもお供に加えていた。
ある日の鷹狩のことである。

丹沢「家康様、この先は谷で、ガケになってて通れないっすよー」
家康「何を言う丹沢、この先にそんな場所はないぞ。わしは駿河に育ったんだから、
    甲州人のお前なんぞよりこの辺りはよっぽど詳しいのだ」

と、丹沢の言葉を無視して進んで行くと・・・

丹沢「ほらwwww 通れないじゃないっすかwwwww」
家康「ば、馬鹿なっ!? ……おい丹沢!! 何故通れないと言わなかった!!」
丹沢「言ったじゃないっすかwwww ひでえwwww」

家康は道を変えてから丹沢に命令した。

家康「よし丹沢、この先に鳥はいるか見て来い」
丹沢「行ってきました。鳥の姿は見えなかったっすね」

しかしその道を進むと、鳥がたくさん舞い降りていた。

家康「丹沢、どうだwwww お前の目にはこれが見えんのかwwww」
丹沢「さっきはいなかったんですよ!! サボってたわけじゃありません! 今来たんでしょう!」
家康「ププwwww そんなことは、言わんでもとっくに分かっとるわwwww」
丹沢「(ビキビキビキビキ)」

家康は帰ってから「今日は一日中、丹沢と喧嘩して愉快だったwww」
などと周囲に言ってはみたものの、まだ根に持っていたのかもしれない。
ついに谷を埋めさせて、実際に通れるようにしてしまったのである。
0667人間七七四年2014/09/03(水) 01:33:40.45ID:a31q1JhW
この後、
『このように家康公は、お遊びの際のこともよくお心にとめられる方で、
「誰とはあの時あそこで酒を飲んだ」「誰にはあの時あそこで飯をおごった」
などと覚えてらっしゃり、そのことを話題にされることが常々あったのである。』

と綺麗にまとめているが、誰に飯をおごったか覚えているとかすっごいケチくさい。

家臣と他愛ない口喧嘩をして楽しんでいた、君臣の情も美しい良い話?
ケチのくせにムキになって道路工事までやらかしてしまった、悪い話?www

(原文)丹沢七右衛門正忠といひしは。武田が家人なりしが。
関東へうつらせたまふころより當家に参り。元より鷹の事に精しければ。いつも御供にめし加へらる。
ある時ならせたまふに。正忠この路筋には田切(谷の両側がガケになっている場所)のあれば。御路をかへ給へと申す。
君われ幼きより駿河にて生長したれば。路の案内よくしりたり。この路にさる所なしと宣ひて成せ給ふに。
はたして路絶たれば笑はせ給ひながら。丹沢かゝる田切のあるを。何とてしらさぬとて咎め給ふ。
また鳥の有無を見せにつかはされしに。かへりて来て見えずと申。
やがてその筋通御有に。鳥あまた下り居たれば。丹沢いかに汝には見えぬかと宣へば。
先にはなかりしが。たゞ今入懸しなりと申せば。そはわれもとくよりしりたりとてまた/\咎め給ふ。
還御のゝち。今日は日ひとひ丹沢とあらがひて。いとおかしかりしと仰らる。
後に、其日ならせられし道路の経営の事仰出されしに。代官等いづれの地かと伺へば。
先日丹沢とあらがひし所よと仰られしにて。速に分りたりしとぞ。
かく御遊行の折の事も。よく御心にとめられ。
誰はいつの時いづれにて酒のみし。膳給はりしなどゝ。おぼしいでゝ仰られし事つね/\″おはしましき。


東照宮御実紀附録巻二十四
ttp://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/tosyogu-h24.html
0668人間七七四年2014/09/03(水) 07:12:03.36ID:pRFXYSMW
「膳給はり」を「飯を奢った」と訳すのはかなり無理がある
0669人間七七四年2014/09/03(水) 07:17:05.83ID:9YxrKypW
>>667>>668
ご馳走した、が適当?
0670人間七七四年2014/09/03(水) 12:56:01.43ID:Ld2NlI/9
悪意のある現代訳をする自分自身の『ケチ』さに早く気づいてもらいたいと思ったw
0671人間七七四年2014/09/03(水) 13:27:39.13ID:hdRQjglp
ケチのくせに、ってなあ
0672人間七七四年2014/09/03(水) 13:50:08.03ID:7vh4XO9I
そんな人におすすめ!吉川弘文館より出版されている、徳川実紀を現代語訳した「家康公伝」!
現在全五巻で発売中です!
0673人間七七四年2014/09/03(水) 14:38:34.13ID:bmxlt6U4
ケチならワリカンにするか財布を忘れた振りをする
誰にご馳走したか覚えてる奴なんて普通に執念深いっていうんだよ
0674人間七七四年2014/09/03(水) 15:28:58.62ID:9YxrKypW
>>673
へうげものの爪噛み権現さまで脳内再生

家康公「よし!たらふく食うがいい!」
○○「この量は…馬の餌???」
0675人間七七四年2014/09/03(水) 16:58:20.83ID:C3Ulxmm/
爪って結構歯ごたえがあっておいしいよ
0676人間七七四年2014/09/03(水) 17:01:41.07ID:BSYju9A5
お、おう…
まあ皮膚とかと同じ物から出来てるから食べれない事はないんだろうけど…
0677人間七七四年2014/09/03(水) 19:47:54.23ID:9YxrKypW
志村光安「吾等の役目は如何に直江隊を足止めするかである」

慶長5(1600)年9月13日、畑谷城を落とした直江兼続は山形盆地へ向け進軍。14日に富神山を抜け、菅沢の丘に現れると早速長谷堂城を攻めた

長谷堂には最上方の守将志村光安と増援の鮭延秀綱が兵1200〜1300ほどで詰めていた

鮭延秀綱「お出で早々に攻めて来るとは上杉ん奴腹め、あがすけが(お調子者が。調子に乗りやがって)!」

志村光安「人馬で菅沢が埋まり、山の裾野まで陣が張り出してますな。どんだけの軍兵を連れて来てんだが」

秀綱「いっそ夜襲を掛けてやりますか?まさか初っ端から大軍の上杉に寡兵の吾等が攻めるとは思いますまいに」

光安「秀綱殿、殿(最上義光)の命令では『安易に討って出る事を自重し、なにがあっても城を守れ』が命令だったのでは?」

秀綱「200くらいの兵をお貸し頂ければ私がやって来ます。夜襲の成否に関わらず、上杉の目をしばらくは長谷堂に引き付ける事は出来るでしょう」

光安「これは尤もな策でありますな。では一撃だけを食らわし、深追いだけはなされないと約束くだされ。それとくれぐれも慎重に」

その夜鮭延隊は闇に紛れて奇襲を掛け、上杉兵百以上の首級を挙げて凱旋した

秀綱「ご覧の通り、まずは重畳」

光安「これで怒り狂った上杉兵は長谷堂を意地でも落としたくなるでしょう」

翌日上杉方の春日元忠の隊が再び長谷堂城を攻めた

光安「寄せて寄せて、畠の畔(あぜ)を越えて来たら射かけよ。さすれば外れ矢玉少なく、敵を数多く討ち取れようぞ」

城に近付いた春日隊を数百の鉄砲と弓が釣瓶撃ちに襲い、上杉軍にはまた多くの被害が出た

直江兼続「篭城されたままでは厄介だ。野戦に持ち込み殲滅しよう」

上杉兵は弓や鉄砲の射程外で苅田狼藉をはじめた

長谷堂城兵「ぐぬぬ…わしらの田が…稲が…」

血気盛んな若い兵らが光安に出陣を願ったが、光安は兵らを宥(なだ)めて言った

志村光安「吾等の役目は如何に直江隊を足止めするかである」

光安は筆を取ると矢文を拵え、弓の得意な者に上杉兵へ向けて射掛けさせた

兼続「これがその矢文か」

上杉兵「は」

兼続が矢文のこよりを解くと、紙にはただ二文字「笑止」とだけ書かれていた
0678人間七七四年2014/09/03(水) 19:52:19.62ID:9YxrKypW
×では一撃だけを食らわし、深追いだけはなされないと約束くだされ。
○では一撃だけを食らわし、深追いはなされないと約束くだされ。

で訂正をお願い致します
0679人間七七四年2014/09/03(水) 20:13:55.23ID:45eDskxa
その前に謝罪と賠償を要求する
0680人間七七四年2014/09/03(水) 20:30:02.97ID:chQfmHAE
続きがあるのかと思ったけどそうではないのか
0681人間七七四年2014/09/03(水) 20:35:36.35ID:+5Z98Y21
千万とかいて下の句とした。
0682人間七七四年2014/09/03(水) 20:36:21.99ID:9YxrKypW
義光と守棟と連歌

文禄2(1593)年2月、最上義光は朝鮮出兵の後陣として肥前名護屋にいた

その頃の京都
里村紹巴は最上義光に文を綴った
「義光殿も遠方でなにかと気苦労なされている事でしょう。気分直しに当方主催の連歌会の発句を頂戴できませんか?」

義光(´・ω・`)「!お師匠さまから重要な役割をもらったんよ!これは責任重大なんよ!」

義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし(梅の清々しい匂いが溢れている)」

氏家守棟「幾重霞のかこふ垣内(ここは霞のかかった屋敷内)」

(´・ω・`)「守棟、なに脇句作ってるの?」

守棟「拙者とて歌を書いていけない道理はありますまい?」

江口道連が京都の紹巴に義光の発句を届けた

里村紹巴「ほぅ、これは良い発句です。では私も続けて『春深きかげの山畑道見えで(春霞に山道も溶けていく)』」

紹巴は義光の発句が気に入ったのか、夏に義光が帰京した時に最上屋敷を訪れ、改めて自らが脇句を添えて歌衆を揃えて、百韻に仕立てた

義光にとっては連歌が評価された良い話

守棟にとっては「これはちょっと…」と暗にダメ出しをされた悪い話

※氏家守棟は1591年頃に政治文書の減少から死亡したと考えられていたが、脇句から1592年の初頭までは生存が再確認されたという意味では良い話?
0683人間七七四年2014/09/03(水) 20:39:44.25ID:9YxrKypW
×脇句から1592年
○脇句から1593年

でした…
0684人間七七四年2014/09/03(水) 21:36:22.15ID:chQfmHAE
毎回訂正するな
0685人間七七四年2014/09/03(水) 21:38:50.60ID:9YxrKypW
亀と鶴

慶長8(1603)年、志村光安の所領である酒田湊そばの庄内浜に、人の上背を越える巨大な大亀が上陸した

漁民たちは「これは縁起が良い」と大亀を荷車に載せると各村を鐘や太鼓を打ち直して着飾って廻った

亀は孔雀の様な声で鳴いたという

志村光安「これは珍しい事だ。吉兆かも知れないから山形の殿(最上義光)に知らせよう」

光安は義光に手紙をしたためた

義光(´・ω・`)「それだけ巨大な亀だとかなり長寿な事だろう。酒田の神様かも知れないから余り無茶をしないで、丁重に海にお返ししてね。
そうだ!東禅寺もこれを機会に『亀ヶ崎』に地名を変えよう!」

改称記念に人々には餅や酒が振る舞われた

ついでに大宝寺も呼応して「鶴ヶ岡」と縁起の良い名前にされた

『奥羽軍談』ほか
0686人間七七四年2014/09/03(水) 21:52:55.23ID:clwobd57
最上をローカルNGしとくといいよ
0687人間七七四年2014/09/03(水) 22:10:04.77ID:+5Z98Y21
>>685
そこは亀ヶ岡じゃないんか
0688人間七七四年2014/09/03(水) 22:23:51.69ID:9YxrKypW
>>687
海に面してるから「崎」
海から離れ、丘陵地帯の後者は「岡」

ついで「亀が(見つかった方が)先(崎)」
0689人間七七四年2014/09/03(水) 23:11:47.22ID:chQfmHAE
大宝寺への突っ込みじゃないんかな?
0690人間七七四年2014/09/04(木) 02:35:59.79ID:MqisPoNo
直江の評価ってなんで高いんだろうな
全くの不思議。
0691人間七七四年2014/09/04(木) 03:38:29.06ID:CNyl6IWU
そのあたりの時代の奴らは評価がしづらい
0692人間七七四年2014/09/04(木) 04:23:53.07ID:1Sl+5Ehd
>>666

バージョン違いのやつ知ってる
もっと毒吐いてた
0693人間七七四年2014/09/04(木) 06:53:17.95ID:u2I46lAI
>>682
発句一首目・義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし」
(梅の清々しい匂いが溢れている)

脇句二首目・守棟「幾重(いくかさね)霞のかこふ垣内(かきのうち)」
(ここは霞のかかった屋敷内)

続句三首目・紹巴「春深きかげの山畑道見えで」
(春霞に山道も溶けていく)

この江口さん、義光の発句と守棟の脇句(発句に続く二句目)を届けるついでにちゃっかり紹巴の連歌会にそのまま参加して、五首ほどが選ばれている
0694人間七七四年2014/09/04(木) 10:09:11.98ID:pzwcs+fV
そりゃ家康が最も恐れた男だからさ
0695人間七七四年2014/09/04(木) 10:18:37.50ID:3BMT0+fL
家康「ワシが恐れる男は百八人までおるぞ」
0696人間七七四年2014/09/04(木) 12:16:44.79ID:KiVL6D/E
あったあった

田澤七右衛門正忠は。もとは武田が末にて。丹沢久助と名のり。信玄をよび勝頼につかへ。天正十年武田没落のゝち。八月二十一日召し給ふ。
長久手御陣にしたがひたてまつり。井伊兵部少補がそなへにありて。首級を獲て高名ありしかば。舊領に加へ新恩をたまひ男を召され。そのゝちも。たび/\戦功ありしにより。御陣にしたがはせ。
またもろ/\の故実に精しければ。出御・入御の折。あるひは御上洛の折にも。御かたわらに供奉して。日夜をこたらざれば。御腰物・御馬并に黄金を賜ふ。
正忠元より鷹の事に精熟せしかば。御鷹野のさき/\へも。いつも御供にめし加へらる。

ある時ならせたまふに。正忠この路筋には田切のあれば。御路をかへ給へと申す。
君われ幼きより駿河にて生長したれば。路の案内よくしりたり。この路にさる所なしと宣ひて成せ給ふに。
はたして路絶たれば笑はせ給ひながら。丹沢かゝる田切のあるを。何とてしらさぬとて咎め給ふ。

また鳥の有無を見せにつかはされしに。かへりて来て見えずと申す。
やがてその筋通御有に。鳥あまた下り居たれば。丹沢いかに汝には見えぬかと宣へば。
先にはなかりしが。たゞ今入懸しなりと申せば。そはわれもとくよりしりたりとてまた/\咎め給ふ。

正忠われ不徳の身なれど。君の御仁徳のかしこさに。鳥も御路に伏すものなりと申せば。御喜色快然たり。
さればとて。正忠俄かに鳥を追ひて。御殺生やめさせ給へと申せば。丹沢汝は三国一の不埒者なりとて叱り給ふ。
還御のゝち。今日はひねもす丹沢とあらがひて。いとおかしかりしと仰らる。

致至のゝちも。しば/\″召し給へば。人々怪しみて。いかにして御気色にかなふか問ふ。正忠わが不埒故と申せば。ますます怪しむ。
大久保長安逆心のゝち田澤と改む。元和七年七月二十二日死す。

訳は任せた
0697人間七七四年2014/09/04(木) 14:32:34.69ID:rxz6zNIy
怖い奴筆頭って信玄さんでいいのかな?
0698人間七七四年2014/09/04(木) 15:57:02.10ID:bbZQConB
>>696
この程度なら訳さずとも読めると思う
0699人間七七四年2014/09/04(木) 23:48:15.20ID:PM/Lut0Z
読めない奴が>>670みたいなことを言うんだよな
情けない





とかいいつつ出御入御とかところどころわからないので>>698教えてw
0700人間七七四年2014/09/05(金) 00:32:47.42ID:aN0gU4KM
>>699
>>696をざっと訳すと

田澤七右衛門正忠は。もとは武田の家臣であり丹沢久助と名のり。信玄および勝頼に仕えた。
天正十年の武田滅亡の後、同年八月二十一日に徳川家に召し抱えられた。
長久手の戦いにも従い、井伊兵部少補(直政)の備えに属して戦い、首級を獲て高名があったので。旧領に加えて
新恩を賜い、さらに息子も家康の元に召された。

その後も度々戦功があったので、御陣に従わせた。また諸々のの故実にも詳しかったので、お出かけやお帰りの際、
あるいは上洛の折にも、傍らに供奉していた。彼はこの勤めを日夜怠らなかったため、家康より御腰物、御馬、並びに黄金を賜った。

また正忠は元より鷹の事に詳しかったので、家康が鷹狩を行う各地の猟場へも、いつも御供に召し加えられた。

ある時、家康が鷹狩に出かけた際、正忠が「この路筋は先が田切(両側が崖状に成って寸断されている場所)になっているので、
路を変えるべきです」と申し上げた。
しかし家康は、「私は幼き頃からこの駿河で成長したのだから、路の案内もよく知っておる。この路にそんな場所はないよ。」と言って
そのまま進んだが、はたして路は絶たれていた。家康はこれを見て笑いながら「丹沢よ、田切のあるのをどうして知らせなかったのだ!?」
と咎めた。

また、鷹狩の際鳥の有無を見るため遣わされた時、帰ってきて「鳥は居ません」と答えた。
その後、家康が正忠に確認させたあたりを通ると、数多の鳥が地面に降りて居た。そのため家康は「丹沢どうした?お前には
あれが見えぬのか?」と言うと、「先程は居りませんでしたが、たった今ここにやって来たのでしょう。」と答えた。これに家康も
「私はお前がそう答えるだろうということはとっくに解っていたよ。」と、またまた咎めたのである。

しかし正忠、「私は不徳の身ではありますが、家康公の御仁徳の有り難さに、鳥も路に平伏しているのでしょう。」と答えると、
家康も快さげに喜色を表した。
ところがここで、正忠は突然その場に居た鳥を追い払い、「どうか、御殺生はおやめ下さい」と申し上げた。
家康はこれに「お前は三国一の不埒者だ」と叱った。

家康は帰った後、「今日は一日丹沢とケンカして、大変面白かった。」と仰せになった。

正忠は隠居した後も、家康にしばしば彼を召し寄せられた。この事を人々は不思議に思い、
「どうして家康公のお気持ちに叶うのか?」と問うた。すると正忠は「私が不埒なためですよ。」と答えたので、人々はさらに
不思議に思った。

彼は大久保長安事件の後、田澤と名字を改めた。元和七年七月二十二日に死去した。
0701人間七七四年2014/09/05(金) 00:57:28.37ID:QeRVVbAx
田澤七右衛門正忠は、武田氏の末裔であって、もともと丹沢久助と名乗って武田信玄と勝頼に仕えていたが、天正10年に武田家が滅亡した後、家康公は8月21日にお招きになった。
正忠は小牧長久手の戦いに参加して、井伊直正の部隊で戦い、敵の首をとって高い評判を得たので、家康公は、正忠の昔からの領地に加え、新たに領地を与えられ、さらに息子をご登用なさった。

そのあとも、たびたび戦で功績を立てたので、家康公のご本陣に編入されることとなった。
また、正忠はいろいろな昔の慣わしについて精通していたので、家康公がお城へ上がるとき、下がるときや、ご上洛のときにも、家康公のかたわらにお供して、日夜励んだので、家康公は刀や馬、黄金をお与えになった。
正忠はもともと鷹の事に詳しかったので、家康公がお鷹狩に行くさきざきへは、いつも御供に加えられていた。

家康公が鷹狩に出たあるとき、正忠が「この先には急流がありますから通れません。道をお変えください」と申し上げた。
家康公は、「私は幼いころから駿河で育ったので、このあたりの道のことはよく知っている。この道にそういったところはない」とおっしゃったが、実際に行ってみると通れなかった。
家康公はお笑いになって、「丹沢、このような急流があるのを、どうして知らせなかったのだ」とお咎めになった。

また、道の先に鳥がいるかどうか、正忠に見に行かせたところ、正忠は帰ってきて「おりません」と申し上げた。
ところが、その道を行くと地面に降りている鳥がたくさんいたので、家康公は「丹沢、どうだ。お前にはこの鳥が見えないのか」とお聞きになった。
正忠は「先ほどはいなかったのですが。ただいま来たのです」と申し上げた。
すると家康公は「そんなことは、私もとっくに知っている」と言ってまたまたお咎めになった。

すると正忠は「私は仁徳がありません(から私が見に行ったときには鳥も身を隠していたのです)が、家康公のご仁徳のありがたさに、鳥もやってきて平伏しているのです」と申し上げた。
家康公は非常にうれしそうにされた。

正忠は「そういったことですから」と言って、急に鳥を追い払ってしまうと、「(ご仁徳を慕って平伏している鳥を)お殺しになるのはおやめください」と申し上げた。
すると家康公は「丹沢、お前は、日本・中国・インドでも一番けしからん奴だ」とお叱りになった。

家康公はお帰りになってから、「今日は一日中、丹沢とけんかをして、とても楽しかった」とおっしゃった。

正忠が引退した後も、家康公はしばしば正忠をお呼びになったので、いろいろな人が不思議に思って、「どうやったらそのように気に入られるのだ」と質問した。
正忠は「私がけしからん奴だからです」と答えたので、人々はますます不思議がった。

正忠は、大久保長安が家康公に背いた後、苗字を丹沢から田沢に改めた。正忠は、1621年の7月11日に亡くなった。



いじめないでね!
0702人間七七四年2014/09/05(金) 00:58:55.94ID:QeRVVbAx
げっ、1時間かかって訳したのにダブった。

ごめんなさい。
0703人間七七四年2014/09/05(金) 01:02:48.31ID:XUeoxQbj
許す。大義であった(鼻毛プチー
0704人間七七四年2014/09/05(金) 06:58:35.04ID:7UtAiZiN
わかりやすい訳ありがとう。
0705人間七七四年2014/09/05(金) 09:30:57.91ID:pb2HMIwR
君達はやれば出来る子だと思ってた
07066702014/09/05(金) 13:48:09.62ID:H4nhC5oH
>>699
670だがさすがにカチンと来たわ
おまえが訳知りたいがためにダシに使ってんなよ
あのさ、悪意ある訳することをケチて言ってんだよ
0707人間七七四年2014/09/05(金) 13:52:57.43ID:pb2HMIwR
さくざが
0708人間七七四年2014/09/05(金) 14:01:37.58ID:haXjAPkv
>>706
はいはい、わかったから消えてね
0709人間七七四年2014/09/05(金) 14:32:40.60ID:H4nhC5oH
>>708
はいはい
ゲスな訳した本人じゃないなら黙っててね
しつこくする気はないから
0710人間七七四年2014/09/05(金) 15:30:13.40ID:VjAuS3Bl
喧嘩すんな
0711人間七七四年2014/09/05(金) 17:41:30.50ID:f7PHqXLI
稲葉淡路守紀通は丹州福知山の城主である。生まれつき無道残忍にして限度を超えた悪行をした。

ある時、代官を勤める家士に私曲があるということで、淡路守はその者を禁獄し、私曲の虚実を
正さずにその妻子を始め、忌み掛かる者(親族)を皆召し捕らえた。そして庭に穴を掘らせて、
妻子らを首だけ出してその穴へ埋めさせ、その首に小桶を被せておいた。淡路守は毎日小桶を
取って見て回り、それを慰みになさった。

妻子らが追々死んでいく中で、代官を勤めた者だけは未だに死ななかった。その時、淡路守は
「妻子を始め、類族どもは皆死んだというのに、お前一人未だ死なないとは、よくよく因業深き
奴だな」と、言って嘲弄した。その者はそれまで目を閉じていたが、その言葉を聞くと両目を開き、

「今までは何とかして存命し、この恨みを報じようと思っていた。だが、妻子や類族まで死んだ
以上は、もはやこれまでだ。そのうえ、例え私に罪があっても、刑罰のやり方は法もあること
なのに、こんな刑罰のやり方をしたことこそ、恨みに思うぞ。見よ見よ、今に思い知らせてやる」
と言うと、はたと白眼で舌を噛み切って死んでしまった。

それからの淡路守は乱心して狂い回った。そしてある日、自ら我が身を鉄砲で撃ち貫いて死んだ。
そのため、家は断絶に及んだ。家士は皆淡路守を疎んでいたので、すぐに思い思いに退散した。

その中で種田勘九郎という者は一人残り、納戸の道具類やその他の物をともに、自分の預かりの
分はことごとく同姓の大助のところへ贈り、翌慶長2年(慶安2年の誤り)8月20日の亡主
1周忌の折に、廟前で自殺して果てた。書き置きが残され、「去年以来の殉死の存念を遂げた」
とのことである。また「曇りなき 月の光りに 誘はれて 浮世の雲も 晴てこそ行け」という
辞世の歌があった。

菩提所は雑花院(雑華院)で、水南和尚は石碑に俗称を彫り、法号を『義嶺祖高』となさった。
当座の殉死は簡単なことだが、このように一年の月日を過ぎても志を翻さず、廟前で殉死すること
こそ、大丈夫の忠臣というべきである。

このような悪君にもまた、このような忠臣がいたのである。『忠臣は亡国に現れる』とは本当に
もっともである。同姓の大助はその至忠を感じ、勘九郎の一子を呼び出し、厚く扶持なさった
ということである。

――『明良洪範』
0712人間七七四年2014/09/05(金) 18:50:10.02ID:XzIG2GYi
>>709
消えろって言われたんだからおとなしく消えろ阿呆
0713人間七七四年2014/09/05(金) 19:23:10.54ID:pPVZOv5w
>>712
お前も消えろ
おとなしくなw
0714人間七七四年2014/09/05(金) 20:16:39.27ID:+6sy/bN0
ギャハハw
0715人間七七四年2014/09/05(金) 20:21:58.44ID:fo9ML5UZ
はい草
0716人間七七四年2014/09/05(金) 21:06:10.87ID:VjAuS3Bl
喧嘩すんな
0717人間七七四年2014/09/05(金) 23:23:03.49ID:+twIys+W
雑談・今日のその日

ググってたら凄い事がわかった!
伊達政宗爆誕・1567年9月5日
駒姫京で刑死・1595年9月5日
最上義康暗殺・1603年9月5日
最上家にとっては魔の9月5日…
0718人間七七四年2014/09/05(金) 23:25:32.99ID:Go1NGoOK
>>701
家康が道路工事させた下りは、こっちのバージョンにはないんだね。

しかし田澤正忠って人も過激だね、殿様によってはその場で無礼討ちされてもおかしくない行動だ。
ちょっかいを出されて、イラっとしたんだろうなあww
でも、素敵なやり返しの方法だ。
お互い信じているからできることだよね。

君臣相信じ相親しむというのは、家康存命中の徳川の素晴らしいところだよね。
そうでもなきゃ、天下は治められないのかもしれない。
0719人間七七四年2014/09/05(金) 23:54:26.57ID:aN0gU4KM
大御所・徳川家康が死の床に付いた時、将軍秀忠を側に呼び、様々な遺言をした。
この時、秀忠は悲嘆激しく、涙を流し嗚咽していた。
家康はこの様子を見て

「秀忠よ、人の生死は定められた運命なのだから、そのように嘆くものではない。
今より後、天下の人々は御身を月とも太陽とも戴き、仰ぐことになるのだから、よく天下大小の機務に
勤め、些かも怠らないように。

ただし、当家が天下を治めてから日が浅く、今まで創建した所の法規や政令は、未だ全備したものではない。
私も近年の内にそれぞれ改修したいと考えていたのだが、今は、残念ながらそのことも遂げられなく成ってしまった。

私が死んだ後に、御身は些かもはばかること無くそれらを改正せよ、それこそが私の志を継ぐとも申すべき
孝道である。」

そう申し残した。

この言葉について、後にこの当時の幕僚の中に、こう評したものがあった
「家康公は元々、将軍家(秀忠)と考えや認識に違いがあるので、自身が死んだ後は必ず新政の数々が
行われると予想されていた。

しかし前代に建て置かれた決まりを俄に改めるようなことをすれば、『当代の将軍は不徳である』などと
世の中に持ち騒がれる事にもなるかと考えられた。

そのため、秀忠公が思うように政務を行えるよう、予めこのような御遺命を残されたのである。」

(徳川実紀)
0720人間七七四年2014/09/06(土) 09:34:30.01ID:EkIbGPLQ
この逸話は秀忠、家光のバージョンの方が有名だけど家康、秀忠もあったのか…
0721人間七七四年2014/09/06(土) 11:41:55.21ID:3Q6lDSEc
>>701
反骨だが有能で、家康が大好きそうなタイプではある。

それと、ちょっと調べたら寛政重修諸家譜に資料あった。

田澤正次 庄兵衛
田澤七右衛門正忠が二男。
鳥見役をつとめ、のち東福門院の御所に附属せらる。

正次
木工右衛門
父が遺跡をつぎ、のち鳥見役をつとむ。これより子孫御家人たり。


ざっと見ただけだけど、本家には鷹に関する記述はない。
鷹の特技は、分家が継いでいったみたい。
0722人間七七四年2014/09/06(土) 16:49:25.10ID:0w7yHmTh
正次の息子も正次って変だな。

>>700
>>701
武田の末ってのは、末裔って意味でいいのかね?
0723人間七七四年2014/09/06(土) 18:15:05.53ID:86QuRaOJ
上総武田系らしい
0724人間七七四年2014/09/06(土) 18:31:01.41ID:IKPv6NBa
てことは信長系か
0725人間七七四年2014/09/06(土) 20:48:32.15ID:Zibgnl2J
>>666
既出なんだなあ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3726.html
0726人間七七四年2014/09/06(土) 23:59:14.92ID:mc2AAiZ0
ドヤ顔www
0727人間七七四年2014/09/07(日) 01:23:19.56ID:QqURm2zp
>>666
以前丹沢正昌のエピソード(信虎の命で北条から鷹をぶんどる)を書いたものですが、
私も正忠に関してももう一つエピソードを持っているので、悪い話スレに書きます。
0728人間七七四年2014/09/07(日) 18:25:54.56ID:WjP/WeLG
>>711
腹切るくらいなら早めに止めろや、というのは言っちゃダメか
0729人間七七四年2014/09/07(日) 20:55:48.08ID:S9b8+mKr
>>728
「忠臣は亡国に現れる」って例とはちょっと違う気がするよな
何にしろ、良い話とは全然思えない・・・
0730人間七七四年2014/09/08(月) 07:16:18.45ID:WufHteIh
主君ではなく主家に対して忠義を尽くしたとか
狂人にたいして諫死するよりも殉死したほうが名誉と考えたかもしれんし
0731人間七七四年2014/09/08(月) 09:28:49.09ID:BauNpNjk
今日は中秋の名月という事で月見に関するお話

月見を口実に延沢屋敷へ

最上義光「力の分においてはおそらく我随分世に越たるように人にも謂われし故、
あわれ対體の族もあれかし力比べをなさんと願う所に、幸い今度能登守の働きを見聞するにあっぱれ我に優る程の事なり
いざや力を試して遊ばん」

『最上記』(天正年間、旧暦の7月15日)

義光(´・ω・`)「殿はかなり力の持ちですよ。おそらく世の中に殿を越える力持ちはそうは居ませんよ、と人にも言われるし自分でもそう思うんよ
今まで自分と同じくらいの力持ちと力比べをしたいと願ってた所に、幸い今度味方になった延沢満延が、見事に義光を越えるくらいの力持ちなんよ
さあ、どれくらいの力持ちなのか、満延の力を試して遊ぼうww」

月見を理由に延沢満延宅を訪問すると使者を送った鮭様の密かな楽しみ

結果:鮭延秀綱から借り受けて来た高橋英国(裸武太之助ほか、志村藤右衛門や小関加左衛門といった武勇の士らがこっぴどく満延に投げ飛ばされた
0732人間七七四年2014/09/08(月) 09:37:33.44ID:cjypXYP9
やっぱまーくんのDQNの半分は最上の血なんだろうなw
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