戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0553人間七七四年
2014/08/17(日) 14:36:45.69ID:sit330gk(一久)は流れ矢に肘を射られてしまった。
このようなところに、庄林隼人(一心)が馳せて来るのを見た森本は、
「もしもし、手負いしてしまった。この矢を抜いてくだされ」
と言った。庄林が馬から下りて矢を抜き捨てると、森本は、
「なんとまあ、快いことだ!」
と言うや否や、馬にひらりと打ち乗り、一鞭打ってさっと駆け出し、
「庄林殿、続かれよ!」
と言い捨てて、敵に出会い、首を得た。二人とも清正の士大将にして、
大剛の者である。森本の槍は白鳥毛を鞘とし、庄林は黒鳥毛を鞘とした。
世の人は、黒鳥毛、白鳥毛、と言い合った(渾名したという意味か)。
――『常山紀談』
0554人間七七四年
2014/08/17(日) 14:48:56.56ID:XnkegDf9ストレートだなw
0555人間七七四年
2014/08/17(日) 14:51:59.73ID:VVjdKVfzアンコールワット落書きしたやつの父親か
0556人間七七四年
2014/08/17(日) 17:20:21.80ID:LA87lVqN森本義太夫が乗った馬ってまさかとは思うが庄林隼人が乗ってた馬じゃないよね?
森本義太夫が助けて貰った上に馬盗…拝借して活躍した様に見えるんだが…
0558人間七七四年
2014/08/19(火) 01:13:12.98ID:NVBzc2vDhttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5263221.jpg
0559人間七七四年
2014/08/19(火) 02:18:27.62ID:a53UwM3Q0560人間七七四年
2014/08/19(火) 03:31:41.79ID:d7FygVCn武蔵国岩渕まで移動し、そこで井伊直政を召して「汝は軍装整い次第出陣し、蒲生、浅野に協力して、九戸での
軍事を相計るように」と命じた。
この命令に対し、本多正信が御前に出て、この様に意見した
「井伊直政は当家の執権の一人です。なので今回の討ち手には、先ず彼よりも下位の者を遣わされ、
それで事がうまく行かなかった時にこそ、直政を遣わされれば、その事態に充当することになるのでは
ありませんか?」
しかしこれを聞いた家康はこう答えた
「それは思慮の無い者の言うことだ。我が婿であった北条氏直も、そのような事をしていたよ。
よいか、事のはじめに軽き者を遣わし、それで埒が明かないからといってまた重き者を遣わせば、
初めに遣わした者は面目を失い、討ち死にするより外無くなるであろう。
つまり、故なくして家臣を殺してしまうわけである。惜しむべきことではないだろうか?」
後年(慶長13年(1608))、筒井伊賀守定次の改易があった時、その居城である伊賀上野城受け取りのために、
本多忠勝、松平忠政を始め徳川家の重臣ら数名遣わされた。この時家康は
「伊賀守は江戸に有り、上野の城は家人らのみが守りいたのであるから、あのように多人数を遣わすには
及ばないのであるが、事の初めに厳かにしたものを、今更手軽くするというのも、事態において終始が符合しなくなる。
物に例えれば、今回のことは、膝を隠す程度の川を徒歩で渡るのに高尻かかげて渡るようなものである。
これは余りに用心が過ぎた事ではあるが、少なくとも溺れる心配は無い。」
と仰せになった。
(岩淵夜話)
徳川家康の、人の使い方に関しての逸話である。
0561人間七七四年
2014/08/19(火) 06:31:19.28ID:/OcyhjoA0562人間七七四年
2014/08/19(火) 09:59:46.57ID:Wepqw2CM0563人間七七四年
2014/08/19(火) 11:49:49.35ID:qBlS8TRv0564人間七七四年
2014/08/19(火) 12:36:09.77ID:1w8EhYMz>初めに遣わした者は面目を失い、討ち死にするより外無くなるであろう。
これだな。
0566人間七七四年
2014/08/19(火) 18:59:42.05ID:GxCbKM3k0567人間七七四年
2014/08/19(火) 20:53:01.10ID:Qb4sfRkvhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1408446258/
0568人間七七四年
2014/08/19(火) 23:18:10.60ID:OXAmeywB「信州のお年寄りが語る生活の知恵三六五日」という本に
「どうさん湯」という、古くから「どうさんころばし医者泣かせ」と呼ばれていた風邪の治療薬について書かれていた。
(味噌大さじ1杯、きざみねぎ大さじ2分の1、のりまたは生姜か柚子少々。これに沸騰したお湯をカップ三杯入れて、
熱いところを飲むと風邪の初期に効果あり)
この「どうさん」というのが、隣国美濃の斎藤道三か、はたまた医者の曲直瀬道三かと思って調べたら、
三田村鳶魚「未完随筆百種 第三」享和雑記述巻2 17「道三湯の事」に
食後に湯を飲む時、味噌汁を混ぜて飲むのを世の中の人は「道三湯」と言っている。
(曲直瀬)道三は太閤秀吉公の名医で、病気に対して薬を投与したところ、効果が必ずあったということで、
食後の湯に味噌汁を加えれば薬となること、曲直瀬道三の薬と同様に効果があるというので
このような名前がついたのだろう。
と書かれていた。戦国時代の名医の名が広く知れ渡っていたということで書いとく。
0569人間七七四年
2014/08/20(水) 04:03:32.05ID:vePvP3rc0571人間七七四年
2014/08/20(水) 23:49:43.10ID:SIND0Lufウンコ食べてる姿しか想像出来ないや
0572人間七七四年
2014/08/21(木) 00:43:50.99ID:b74Q9C160573人間七七四年
2014/08/21(木) 05:22:39.73ID:chxQT8CQ当時としては味噌なんて従軍時以外にはそうそうに手に入るもんではないのでは
0575人間七七四年
2014/08/21(木) 09:45:31.91ID:WIa9Dm610577人間七七四年
2014/08/21(木) 11:49:12.82ID:aqMLrz8E0580人間七七四年
2014/08/21(木) 19:32:36.27ID:4u75mfED0581人間七七四年
2014/08/21(木) 20:15:02.20ID:Q+baSbzc0582sc→net未反映分のコピー
2014/08/21(木) 23:37:38.35ID:wxSgOPL/延沢光昌は大豪で知られた延沢満延の息子であったが、まだ年端も往かぬ頃に父を亡くし、老臣に育てられていた
光昌は有路但馬・笹原石見といった重代の家老らから生前の父の武勇談を聞くのが好きだった
有路「亡き殿(満延)は、18歳のときに山形両所宮の鐘を1人で外し、鶴子(尾花沢市)まで担いで帰って来ましてな」
笹原「人々はその剛力にほおと感嘆の声を上げたものですじゃ」
慶長の時代になり、光昌も立派な若武者へと成長した
光昌「父に出来た事、父の血を引き有路と笹原に武芸を教えられたこの身なら、やってやれない事は無いのではないか?」
光昌は中山長崎の円同寺といった寺の鐘が名宝と聞き、住職に「それがしがこの鐘を持ち上げる事が出来たら、鐘を譲っては頂けないか」と掛け合ってみた
住職「お父君は生きる伝説として勇力で名を馳せましたが、この鐘は半端な重さではございませぬ
まぁ、見事持ち上げられたらそれは天命という事ですので差し上げましょう」
光昌「どれ」
ひょい
住職「!」
光昌「う〜ん。ま、持って帰れない重さじゃないな」
住職「お約束でしたので、その鐘はご自由になされてくだされ」
光昌「手で持つにも疲れるな…かぶって行くか」
光昌は親指で鐘乳をえぐると鐘に覗き穴を開けた
この鐘は現在山形市長谷堂の清源寺に
「慶長時代に最上の重臣延沢某が中山から持って帰って来たもの」とした寺伝と合わせて現存している
※光昌ではなく、父の満延が中山から長谷堂に持って来たといった伝承もあり
0583sc→net未反映分のコピー
2014/08/21(木) 23:59:58.21ID:wxSgOPL/奥州の大守輝宗の北の方※は 義光大守とは姉君※なれば 義光の嫡子修理太夫へ異国の珍物の名も知れぬ織物巻物武具の類迄 折々進せらる
政宗御幼君のころ 義光へ御使札の有りしに衣更着半ばの事成るに
頃日 鶯の初音を聞き侍りき 最上は雪深き所なれば 如何床敷思し召るらめ
と仰せ遣わされば
義光も御心根はいと優しく思召けめと 甥子の事なれば 武士の習い 月花に心とろけては 後は公家のやうに気高きばかりにて 世を鎮る用心に疎しとや思召けん
其返事に鶯の声二月中に初音御聞候事 珍希思召けん
吾等は去年の春聞置申候得ば 毎年聞度共不存候
と仰せ越されけるとかや
政宗にも御親しみの中なれば 御腹立を無かりしとかや
『奥羽軍談』
※最上義光の妹の義姫(お東の方・保春院)は、義光の姉といった説もある
0584sc→net未反映分のコピー
2014/08/22(金) 00:00:53.11ID:k/wP8bZN政宗最上へ御越し有りし時 たまたまの御対面にも 互に律義の魏々として 下々の出合の如く和かなる交りにも無りけり
義光珍希思召 三国の珍物を調べあり 御馳走て 武具太刀の名作等お慰みとして集め置き玉ひて 嫡子修理太夫 彼是咄し相手に成り申しされけるは
此重宝の内 何れにも御意に入候はば 何にても進上申すべく候 殊に左文字長銘の正宗 蛇切丸 石割刀 其外焼物甲冑の類にても 御望次第札御候得かし
と仰せければ
政宗からからと御笑い
吾等も相応に宝多く持ち候得ば此様なり 物に望み之無し
と仰らる
義康其時
貴殿の御宝物何々にてか哉
問いければ
政宗宣ひけるは
名取 亘理 柴田 刈田の国郡と伊達 片倉など申す侍共 松島 塩釜など申す名所に候得ば 我等に外の望なし
と仰せける
是は孔子 所謂君子の三宝とは土地 人民 政事なり 金銀を財にするは小人の下愚なり とありしを聞き玉へるなるべし
義光大に喜び玉ひて
貴殿(政宗)は頃日学文を勤らるると見へたり 実や三日向顔をされば旧時の思ひをなすなという事あり 頼もしきはべる
と誉め玉ひけるとかや
『奥羽軍談』
0585sc→net未反映分のコピー
2014/08/22(金) 00:02:17.53ID:k/wP8bZN政宗が山形城を訪れての夕刻過ぎ、義光の近臣らが行き来する中に、政宗は壮年武士の中にただならぬ雰囲気を纏わせた伊良子宗牛と成沢道忠といった老武者の姿を見つけた
政宗が「伯父上、あの者たちは?」と問うと
義光は「あの左側にいるのが伊良子宗牛と(堀喜吽の従兄弟の)山名一吽で、わし(義光)の七宝のひとつだよ。右に座っているのが成沢道忠と氏家守棟に延沢満延。ふたつとない、かけがえのない国の宝だ」と破顔して答えた
政宗「…(あれが柏木山の戦いで父の輝宗が苦汁を舐めさせられた伊良子と成沢か!)」
政宗は義光の言にキッと二人を睨めつけたと言う
その晩の政宗の機嫌は頗る悪かったと伝わる
『奥羽軍談』
0586sc→net未反映分のコピー
2014/08/22(金) 04:12:22.03ID:k/wP8bZN日光の鉄燈籠に関する政宗の手紙
(●∀・)「よぁ、忠宗元気か?急ぎ用件に入るよ。家康のとっつあんの法要に合わせて、日光に諸大名が燈籠を献じるんだって?
江戸では噂になってるんだろうが、仙台にいる俺のとこにはそんな話はなかなか届かなかったよ。
ちぃ!油断した!
だがしか−し!そんなイベントを知らなかったじゃ済まされんだろ?
話を聞いてすぐに土井利勝を脅…、いや土井に頼んで伊達家が燈籠を設置するのに相応しい場所をゲットしたぜ!
石の燈籠じゃ期限に間に合わんから、みんなが驚く様な鉄製の燈籠を職人にオーダーしたよ!
手当を弾んで急がせて、10日くらいで作らせる。
完成次第日光に送らせるから安心しろ。」
(●∀゚)「(今井)宗薫よ、おめえとはマブダチだと思ってたのに、なんでこんな重要な話を手紙の端にも書かねえんだ?
危うく他家の笑い者になるとこだったじゃねえか!?」
(●∀・)「あ、(桑山)左近さん、江戸の噂話を知らせてくれてありがとう!政宗助かったよ!」
家康の一周忌に合わせ
政宗は鉄燈籠を献じに日光と江戸へと上がった
政宗の性格がよくわかる、日光の鉄燈籠献上の手紙にまつわる話
0587sc→net未反映分のコピー
2014/08/22(金) 04:14:21.80ID:k/wP8bZN義光公は(肌の)色が白く冷静そうな目をしており
珠の様な御声は威厳と慈愛を含まれていた
若き頃に多賀湯(蔵王高湯)で盗賊の首魁をお討ちになられたが
その際に敵に馬乗りにされ、お顔にいくつか刀傷を負われた
傷は平素は目立たぬものの、終生跡として遺り、殿が喜悦破顔をなされた際には瞼(まぶた)や頬(ほお)等にそのときの傷がうっすらと浮かび上がったものである
「最上家伝」等
0589人間七七四年
2014/08/22(金) 22:52:49.96ID:+DBCS/sn連投せずに日を分けて投稿しろよ
改行変で読みにくいし、人に読んでもらう気無いだろ
0590人間七七四年
2014/08/22(金) 23:08:38.61ID:4meds4pl名前欄「sc→net未反映分のコピー」です
4月の2ちゃんねる騒動でnet(従来の2ちゃんねる)とsc(ひろゆきサイト)を混同したまま、時折sc側からも話の投下やコメントをしておりました
連投になりましたが、現行スレで自分が投下した逸話についてはこれでおおよそ従来の2ちゃんねるに移行が終わりました
(コメントについては時期外れのものや他の方のコメントもありますのでコピー&ペーストは行いません)
まとめ管理人様・サイト利用のみなさまにはご迷惑をお掛け致します
一連の投稿の後に悪い話に書かれた文章
あちらでscから転載するようになってるの?という質問にやるならやれば?って返答があり引っかかった人(この最上関連の逸話を投稿した人)がいた模様
つまり最初から読ませる気もコメントさせる気もない
再投稿だからね
0591人間七七四年
2014/08/22(金) 23:27:58.28ID:+DBCS/snマナー悪いしやたら浮いてるし最上のこと大っ嫌いになってきた
0592人間七七四年
2014/08/22(金) 23:30:25.94ID:J53LQJZg0593人間七七四年
2014/08/22(金) 23:48:01.44ID:k/wP8bZN従来の2ちゃんねるが4月にしばらくの間一切パソコンからも携帯からも書き込みが出来ず、
2ちゃんねるの管理人を名乗るひろゆき氏のscへの誘導のスレッドがトップ付近にあったために、
規制やタイムラグが少ないscの方が投下には楽なケースがままあり、そちらを時折利用しておりました
ただ、まとめサイトの話もコメントの番号も今となっては当然の事ながら、まったくscの物が反映なされなかったために、
スレが終わる前に現行スレで自分が以前に同スレに書いた物だけをscから移行した具合になります
※2ちゃんねるの物はscでそのまま見られますが、scは別サイトのために、そちらに書込んだものは2ちゃんねる本板にはまったく記載されない事を知りませんでした
0594人間七七四年
2014/08/22(金) 23:52:53.29ID:/iavdTcx0595人間七七四年
2014/08/23(土) 00:32:01.95ID:Nh75DstQそうじゃねぇだろオイ
0596人間七七四年
2014/08/23(土) 01:00:51.59ID:wTv4dMXI0597人間七七四年
2014/08/23(土) 01:10:15.88ID:XKRqQQbs0598人間七七四年
2014/08/23(土) 01:11:39.78ID:SBZr1q8x朝鮮より帰国した一人の男が、天草にイエズス会のコレジオ(学院)に来訪した。
彼はその出身地である田舎に小さい教会を建て、そこで一生を捧げたいとの殊勝な望みを抱いて
やってきたのであった。
その動機を尋ねられると、彼は「デウスが驚くべき異常な方法で私を死から救ってくださったからだ。」
と答えた。
この男は朝鮮で重病を患い、人間的なあらゆる救助の道を絶たれ、完全に人々から見捨てられていた。
その窮状から身を救い得るものも、何一つなかった。
その時、彼はキリシタンであったので、以前に元気であった頃に祈っていたコンタツ(ロザリオ)を
思い出し、それが彼の身体を養い、健康を授ける力を秘めているように思えた。そこで見捨てられていた彼は
非常な信心を抱きながら、そのコンタツを食べ始めたのである。
我等の主なるゼウスは、彼に憐れみの目を注ぎ給い、口にはコンタツ以外何も入れなかったにもかかわらず、
彼を数日間養い、この風変わりな薬だけで、その病気を癒やし健康を回復することを嘉し給うたのである。
(ルイス・フロイス『日本史』)
ロザリオを食べて重病を直した男のお話。
0599人間七七四年
2014/08/23(土) 01:40:52.31ID:CO0cZlew0600人間七七四年
2014/08/23(土) 06:01:54.26ID:VGxedgaW彼はロザリオに偽装した食料を持っていたのだ!(どや!)
0601人間七七四年
2014/08/23(土) 06:53:39.17ID:lCeyV+k80603人間七七四年
2014/08/23(土) 08:13:50.79ID:0IosOAsG0604人間七七四年
2014/08/23(土) 09:43:10.38ID:e/PyDSiw兵糧丸などという物は全く関係ありません
0605人間七七四年
2014/08/23(土) 12:00:58.34ID:/gJNbv0q生野織部孝時はいつもこう言っていたそうだ。
「奉公というものは、今日一日限りだとさえ思えば、どんなことでも出来る。
一日のことならがまんも出来る。
明日もまた、今日一日と思えばよい」 【葉隠】
0606人間七七四年
2014/08/23(土) 15:55:56.27ID:5lrlOEhB既出
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5752.html
0607人間七七四年
2014/08/23(土) 16:32:37.54ID:RLbRkTeE0608人間七七四年
2014/08/23(土) 17:14:18.74ID:Ww2GlhIc『 其返事に鶯の声二月中に初音御聞候事 珍希思召けん
吾等は去年の春聞置申候得ば 毎年聞度共不存候
と仰せ越されけるとかや』
誰かこの部分の現代訳お願い致します
0609人間七七四年
2014/08/24(日) 01:12:47.61ID:X1lQPXma其返事に鶯の声二月中に初音御聞候事 珍希思召けん
吾等は去年の春聞置申候得ば 毎年聞度共不存候
と仰せ越されけるとかや
その返事に うぐいすの初鳴きを(雪も残る)二月中にお聞きになられた事は非常に珍しく思います
(しかし)私たちは去年の春に聞き貯めて置きましたので
特に毎年聞かなくても構いませんよ それほど気にしないでください とおっしゃったとか
…でいいのかな?
0610人間七七四年
2014/08/24(日) 01:20:13.88ID:X1lQPXma0612人間七七四年
2014/08/24(日) 10:10:52.99ID:0arsK0cDガソリンイラクシリア渋谷民怪獣視察忠告SIM無料サービス結婚はがきドラパーティーしょうゆトンコツ酒ディレクター人形光金パスニューヨーク森林火災塩海苔マックスさむらい中華かくし味ラーメン
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0613人間七七四年
2014/08/25(月) 02:23:11.35ID:1ZNZCFfk秀吉の近習の者達が、徳川家康のことを言い出し、種にして悪口をし大いに笑っていた。
秀吉はこれを聞くと、このように言い出した
「家康の藝は3つあり、それは常人の及ぶものではない。
第一に、武略が衆に優れている。
第二に、思慮良き人物である。
第三に、金銀を多く持っている。
この三つは人に笑われるべきではない大藝である。
お前たちは一体、何を笑っているのか?」
しかし近習達はこれを聞いて
「いったい徳川殿の何が良くて、殿下はいつも贔屓をされるのか?」
と言い合ったそうである。
(徳川実紀)
0614人間七七四年
2014/08/25(月) 13:22:21.73ID:9K4T4MFw蒲生氏郷の死により越後の上杉景勝が会津に移封されると、直江兼続は米沢城主として国境にある城の整備に取り掛かった
兼続配下の中津川彦七が荒砥城に入り、早速城域の整備の一環として八幡神社の社殿の修繕を試みた
上方では情勢が緊迫し、兼続は長期の自給戦闘を見据え山形攻め(最上陣)を決定
自ら二万五千の軍勢を率いて米沢を発った
はじめに最上の支城の畑谷城を攻撃しようと間道を探るのに、霧の中荒砥城の守護神である御楯稲荷神社の白狐が直江軍の先に現れ、その誘導に従い直江軍は畑谷城の搦手に至った
畑谷城主江口道連は剛の者であったが、搦手を直江・色部の鉄砲隊に押さえられ、同城はわずか二日で落城してしまった
「八乙女八幡神社縁起」「白鷹町の昔話・狐越街道」ほか
0616人間七七四年
2014/08/25(月) 17:53:32.16ID:15yqjOSp既出
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6859.html
0617人間七七四年
2014/08/26(火) 02:46:45.19ID:mFadfzs30618人間七七四年
2014/08/26(火) 06:53:14.62ID:Eu0g8OYB0620人間七七四年
2014/08/26(火) 19:45:33.93ID:z6GT5VCN有馬豊氏の陣の井楼に登った。
しかしその辺りの豊臣方は将軍の馬印を見知っていたので、そこの将軍がいると、井楼に向かって火矢を
射掛け大筒を打ちかけた。この状況に秀忠の近臣達は「ここは危ない、どうか降りて下さい!」と
諌めたが、秀忠はこれを聞き入れなかった。
ここに、水野日向守勝成が馳参り、この有り様を見て、秀忠にこう申し上げた
「斥候は一口を見切るものですが、巡視は全体を判断することが要の行為です。一ヶ所に長くとどまる
べきではありません。鴫野の方へもお出であって然るべきでしょう、」
秀忠はこれに「尤もである」と答え、鴫野方面へと移動した。
この時、鴫野にあった上杉の陣では、今から将軍秀忠が参らせられると聞くと同時に、直江山城守兼続が下知し、
早々に城に向かって鉄砲を打ちかけた。
この上杉勢の攻撃で、城中の者達は先手を打たれ対応せざるを得ず、将軍秀忠が通行する時、そちらに向かって
鉄砲を放つことはなかった。
この事に秀忠は、「上杉の陣法さすがなり」と感じ入ったという。
(校合雑記)
0621人間七七四年
2014/08/26(火) 21:50:10.38ID:ZvXxC2kb0622人間七七四年
2014/08/27(水) 13:33:38.38ID:BIQ3geQA0623人間七七四年
2014/08/27(水) 14:45:17.62ID:a0Amvvn80624人間七七四年
2014/08/27(水) 15:59:00.57ID:KrZabrnT0625人間七七四年
2014/08/27(水) 17:40:48.60ID:ZwnCDNgH0626人間七七四年
2014/08/27(水) 19:56:58.10ID:pO7Zi7iM0627人間七七四年
2014/08/27(水) 21:10:04.56ID:kH36n6ob「天下の政治とは、どのように考えて執り行うべきか?」
忠興はこう答えた
「四角い器に丸い蓋をするように執り行うのが、宜しかろうと存じます。」
これに秀忠も「尤もである」と言った。
また、この時は重臣たちが列待していた折でもあったので、次にこのように尋ねた
「人はどのような者を善人と言うべきであろうか?」
これに忠興は
「明石浦の牡蠣殻の如きを、よき人と申すべきでしょう。」
秀忠はこの返答に大いに感じ入った。
後で秀忠は重臣たちに、「先に忠興が言ったことを、お前たちはどのように心得たか?」と尋ねた。
しかし何れも「何とも解りませんでした」と申し上げた。
そこで秀忠は
「明石は世に聞こえた風浪激しい場所である。その浦に生きる牡蠣の殻は、波にもまれ姿が良い。
人もまたそのように、様々な辛き目にあって、人にもまれたものが良い。ということだ。」
と仰せになられた。
(葛藤別紙)
ちなみに「四角い器に丸い蓋」というのは、「四隅に隙間ができるが、それを許容するのが支配者としての余裕だ」
という意味とのことです。
0628人間七七四年
2014/08/27(水) 22:27:04.61ID:pvDEam2g0629人間七七四年
2014/08/27(水) 22:42:06.55ID:wMWtxOuO0630人間七七四年
2014/08/28(木) 07:32:42.03ID:WPRpFlsYそいつが無職スロプーで
母親と二人暮らしなんだけど母親が突発性の緑内障になり
今すぐ病院に行かないと失明する、ってくらいヤバいときに
金がないんで放置してたら そいつに別居してる兄貴がいて
「とにかくすぐに病院連れて行けよ!」って20万置いて行った
兄貴も忙しいんで金置いて仕事に戻ったらしいんだけど
そのバカは置いていった金に手をつけて「押忍 番長!」を打ち
結局20万全部負けた
母親には適当にドラッグストアで買った目薬を与えて寝かせておいた
母は地獄の苦しみの中で
「ああ、ありがとう、XXちゃんが目薬買ってきてくれたんで楽になったよ」
と言いながら食事もとらず ボロ布団のなかで徐々に失明していった
衰弱しきった母を兄が救急車で運んだときには完全に失明し極度の栄養失調
に陥ってたらしい
0631人間七七四年
2014/08/28(木) 11:21:19.63ID:PA/lRxib高虎が二案だしたのと同じようなことだろ
答えそのものを言ってしまうと、忠興が将軍に「教えた」ことになってしまうから
0632人間七七四年
2014/08/28(木) 21:13:22.38ID:4zOv+m4zさて、天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の結果、蒲生氏郷が伊勢松坂十二万石から、
会津四十二万石を賜った。氏郷は俄に大大名と成ったため、この時毛屋主水に、一万石で
自らに仕えるようにと密かに書状を送った。
しかし、主水はこれに
「只今私に高禄を賜るとのことですが、朝鮮への出兵をひかえて他家に移るというのは、
私の本意ではありません。
もし、つつがなく帰朝できましたら、御意に従うでしょう。」
と、断った。
氏郷と主水の間には、かつてこのような事があった
羽柴秀吉による播磨三木城攻めの頃、毛屋主水は山崎源太左衛門(片家)に仕えていた。
この頃彼は、田原金十郎と名乗っていた。
さて、その三木城攻めの最中、秀吉の軍は敗北し、これに参加していた蒲生氏郷の部隊は郎従ら皆逃げ去り、
氏郷の身も危うし、との時、毛屋主水が馳来て近づく敵を追い散らした。
そして氏郷に向かって言った
「私は田原金十郎と申して、山崎家の家人です。貴公と我が主君とは不和ですが、
只今の急難、見捨てがたきによって救い奉る!」
これに氏郷は感激し、主水に向かい「今日の芳志、絶対に忘れない!」と叫んだ。
これ故に、氏郷は兼ねてから毛屋主水の武勇をよく知っており、かつ、昔の忠節を思い出し、
あのような書状を出して、大禄を遣わして召し抱えたいと言ってきたのである。
(黒田家臣伝)
0634人間七七四年
2014/08/28(木) 22:19:22.23ID:WPRpFlsYそいつが無職スロプーで
母親と二人暮らしなんだけど母親が突発性の緑内障になり
今すぐ病院に行かないと失明する、ってくらいヤバいときに
金がないんで放置してたら そいつに別居してる兄貴がいて
「とにかくすぐに病院連れて行けよ!」って20万置いて行った
兄貴も忙しいんで金置いて仕事に戻ったらしいんだけど
そのバカは置いていった金に手をつけて「押忍 番長!」を打ち
結局20万全部負けた
母親には適当にドラッグストアで買った目薬を与えて寝かせておいた
母は地獄の苦しみの中で
「ああ、ありがとう、XXちゃんが目薬買ってきてくれたんで楽になったよ」
と言いながら食事もとらず ボロ布団のなかで徐々に失明していった
衰弱しきった母を兄が救急車で運んだときには完全に失明し極度の栄養失調
に陥ってたらしい
0635人間七七四年
2014/08/28(木) 22:20:06.89ID:8aXF40D20636人間七七四年
2014/08/29(金) 01:23:04.92ID:tayKb6Jk元和8(1622)最上氏が改易となり、庄内には酒井忠勝が入部した
忠勝は酒田湊を取り締まる有力商人である三十六人衆を城に呼び
「そなたらを酒井家の御家人として召し抱よう」と伝えた
しかし彼らの中から鐙屋の池田惣左衛門や本間・二木某らといった者たちが立て続けに
「二君仕えずと古くからの言葉にございます
一合の米も酒井家から貰う筋合いはございません
また我々は暮らしに困る程飢えている訳ではなく、地所も株も田地も持っております
だからあなた様のお世話にならる必要はありません」と答えた
『夢宅年代記』
三河武士以上にめんどくさそうな、酒田の自治に誇りを持っていた商人衆たちのお話
0637人間七七四年
2014/08/29(金) 01:25:59.82ID:tayKb6Jk○元和8(1622)年
×だからあなた様のお世話にならる必要はありません」と答えた
○だからあなた様のお世話になる必要はありません」と答えた
編集が終わる前にうっかり投稿してしまいました…
0638人間七七四年
2014/08/29(金) 03:31:03.06ID:m+Yjh9js0639人間七七四年
2014/08/29(金) 04:07:21.43ID:tayKb6Jk職業上・営業上の特権
「相撲の年寄の−」
江戸時代に売買の対象とされた名跡や役職など
「御家人−」
独自の流通網
0640人間七七四年
2014/08/29(金) 07:22:31.86ID:tayKb6Jk慶長6(1601)年、志村光安の軍が上杉領東禅寺城を攻めたときの話である
城攻めの最中、光安は城下で上杉軍の哨戒部隊と遭遇し、交戦の末一人の眉目麗しい若武者を捕縛した
若武者は光安に「死んだ仲間に申し訳がない。武士の名誉を知るならどうか殺してくれないか」と涙ながらに頼んだが、光安は「(東禅寺)城は(最上軍に囲まれ)孤立無援で間もなく落ちる。せっかく生き永らえた命を粗末にせぬ様に」と説得をした
しばらくし東禅寺城は最上軍に降伏し、開城
最上義光の命で庄内にいた上杉兵は米沢への帰途についたが
眉間に皺を寄せ、米沢行きに葛藤を覚える様に見えた若武者に光安は
「上杉家に戻るのに後ろめたさを感じるのなら、我が下で働かぬか?」と彼を勧誘した
光安は彼を気に掛け、若武者も光安に次第に心を開き、酒田三万石に加増となった光安は彼を常に近くに置き可愛がった
1609年、死の枕元で光安は彼に「儂が死んだ後も子の光惟を頼む」と言伝をして逝世した
しかし1614年
彼が別の用事で庄内を空けている間に一栗の反乱により志村光惟が暗殺された
光惟の葬儀が終わり
慶長19(1614)年暮秋、一人の士が酒田青原寺の志村光安の墓の前で腹を斬った
かつての若武者の名は力丸所左衛門。上杉の重臣で東禅寺城主であった志駄義秀の甥の話である
『奥羽永慶軍記』ほか
0642人間七七四年
2014/08/31(日) 10:45:12.88ID:ROZLsEFt『論語』にも、
「犬はよく見張り役をつとめ、馬は労働を尽くしてくれる。
犬馬といえども人の仲間である」
とある
武田信繁
(信玄家法より)
動物にも優しい誠の武士な弟さん
0643人間七七四年
2014/08/31(日) 11:13:27.87ID:wWZHwm8F0644人間七七四年
2014/08/31(日) 11:23:25.62ID:bNfl38y/「今の奴らは親を養えば孝行だと思っていやがるが、犬や馬だって養ってるじゃねえか、どう違うんだおい」
てのなら為政第二であるけど
0645人間七七四年
2014/08/31(日) 11:24:52.53ID:4+Xin9oD0647人間七七四年
2014/08/31(日) 17:51:55.21ID:1X3OZN8Cあったために、ある夜、陣に虎がやって来た。
虎は馬を宙に引っ提げ、虎落の上を飛び出て行った。これに清正が、
「口惜しきことだ!」と怒っていると、また虎がやって来て、小姓の
上月左膳をも噛み殺した。
清正は夜が明けると、山を取り巻いて虎を狩った。すると、一匹の虎が
生い茂る萱原を掻き分けて、清正目掛けて近づいて来た。
清正は大きな岩の上にいて、鉄砲を持ち、虎を狙う。その距離は三十間ほど。
虎は清正を睨んで立ち止まった。人々は鉄砲を揃えて虎を撃とうとするが、
清正は命じて撃たせない。自ら撃ち殺そうという意志である。
そして虎は近くまで猛り来たり、口を開けて清正に飛び掛かった。その時、
清正は鉄砲を撃ち、弾丸は虎の喉に撃ち込まれた。虎はその場に倒れ、
起き上がろうとしたが、痛手だったために、最後には死んでしまった。
――『常山紀談』
0648人間七七四年
2014/08/31(日) 18:06:12.27ID:i+Z3YF2j0649人間七七四年
2014/08/31(日) 18:25:21.61ID:udAZ+Tf3一応既出ではある
0650人間七七四年
2014/08/31(日) 21:15:12.05ID:7kjw5D5s0651人間七七四年
2014/08/31(日) 22:09:05.23ID:v7OmkEM20652人間七七四年
2014/08/31(日) 22:17:44.16ID:m7QtZXsZ言上の旨があった。家康は毛屋主水を御前に召し物語をした折、彼に「敵はどれほど居るか」と問うた。
主水は御陣の縁の端に寄りながら申し上げた
「それがしが見たところ、2,3万もあるだろうか、と思われます。」
「それは思いの外の小勢であるな。他の者達は10万もあると言っているが、汝一人そう見積もった
理由は何か?」
「仰せのごとく、総勢は10余万も居るでしょう。しかし実際に敵として存在しているのは、わずかに
2,3万に過ぎません。」
これは毛屋主水が、金吾(小早川秀秋)、毛利の人々が内通していることを内々に聞いていたため、
このように申し上げたのである。
家康も内心思っていたことを毛屋主水が言い当てたため、これを聞いて大変機嫌よく、御前にあった
饅頭の折を主水に与えた。主水はこれを頂き、縁に腰を掛けてその饅頭を尽く食して後、陣へと帰っていった。
その後に成って家康は側の者達にこう言った
「忘れていた。彼の本氏を聞いておくべきだった。」
「彼は毛屋主水と申す者ですが…」
「いや元々はそうではない。毛屋とは越前の地名であり、彼が毛屋を氏としたのは、毛屋にて軍功があったため、
地名を以って氏としたのだ。」
側の者達は家康が、末々の陪臣のことまでそのように覚えている事に、大いに驚いたという。
(落穂集)
実際に、毛屋主水は元は田原金十郎と言い、柴田勝家に使えていた時代、越前の毛屋で活躍したため
名字を毛屋に変えたとされています。
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