戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっといい話39
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戦国ちょっと悪い話39
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0342人間七七四年
2014/07/24(木) 02:21:04.77ID:GaAOfrKi三河に派遣し、岡崎城の留守居とし、松平領の奉行は鳥居伊賀守忠吉と松平次郎右衛門重吉の二人に任せ、
そこから得られる租税は皆、駿河の今川家に横領された。
しかし鳥居伊賀守忠吉は一人辛苦して、長年かけて米や銭を数多貯め、将来の戦に備え置いた。
そして元康が今川義元の許しを得て岡崎に帰城した時、鳥居忠吉は喜びに耐えず、元康の手を引いて
蔵へと連れて行き、そこを開いて見せ、言った
「私は多年に渡り。今川の人々に隠してこのように貯め置きました。これは我が君が早く御帰国あり、
御出馬されることがあれば、御家人を育み、また軍用にも事欠かないように、備え置いたものなのです。
私は年齢も八旬の残端(80代後半)となりましたが、朝夕神仏に願い続けたかいがあって、このように
生きている間に再び、我が君の御尊顔を拝すことが出来ました。生涯の大幸、これに過ぎる事があるでしょうか」
そう、老いの目から涙を流した。
元康も、これに大いに感じ入った。
この時忠吉は、銭が十貫づつ束ねて縦に積み置いてあるのを指さし
「このように積み置けば、どれほど重ねても銭が割れる事はありません。世人のするように横に積むと、
たちまち割れてしまいます。」
そう元康に言い聞かせた。
後、家康は銭を積むときは生涯に渡り、そのとおりに行った。そして常々このように言った
「これは伊賀の教えなのだ。」
(鳥居家譜)
有名な、鳥居忠吉銭米を貯め置くというお話。
0343人間七七四年
2014/07/24(木) 16:07:05.83ID:RVGnSxlI0344人間七七四年
2014/07/24(木) 16:08:44.58ID:sTZdITJy0345人間七七四年
2014/07/24(木) 17:26:12.07ID:VVEqGrMOお乗りだった馬は牝馬であるとかいうことだ。
後年、信長は秘蔵なされた馬を画工に命じて屏風に描かせた時、
その牝馬も描き加えさせ、描かれた馬は総計十三匹であるそうだ。
その屏風は織田山城守長頼が所持されていたが、長頼死去の時に
遺物として尾州家(尾張徳川家)へ送られ、現在尾州家にあるという。
――『明良洪範』
0346人間七七四年
2014/07/25(金) 11:17:49.84ID:9zqZIUq70347人間七七四年
2014/07/25(金) 11:21:30.05ID:gwO/rgqW0348人間七七四年
2014/07/25(金) 12:26:24.13ID:7satxje+0349人間七七四年
2014/07/25(金) 12:31:59.91ID:Kk6EkVvo0350人間七七四年
2014/07/25(金) 12:48:54.94ID:KxD94hZB0351人間七七四年
2014/07/25(金) 13:49:57.99ID:50OarqEx0352人間七七四年
2014/07/25(金) 14:02:01.80ID:Kk6EkVvoそうと気づかず…ゴメン‼︎
0353人間七七四年
2014/07/25(金) 17:17:37.19ID:Pne0/Jjw0354人間七七四年
2014/07/25(金) 20:12:29.11ID:lxC8vdSp0356人間七七四年
2014/07/26(土) 08:10:32.06ID:NhOkfCQj赤松家の台所方とされる人物が、弘治元年に置塩城で繰り広げられた酒宴で出された料理について詳細に記した「播州置塩夜話 六花亭物語」を紹介したが、
今回はその下巻にあたる「屋形物語」で、その18年後に開かれた酒宴を追体験してほしい。
天正元年十月八日、赤松則房の置塩城に、宇野下野守(長水城の宇野氏の関係者)がやってきて、夜食が出された。
宇野からはホラ貝、鷹1羽、鯉2尾、鯛5枚、宝命酒(薬酒)5升、
家長(原文ママ)平瀬清左衛門からは鴨2羽、勝男(鰹節)10節が献上された。
宇野は広間、平瀬は次の間で御料理を下され、赤松家家老・山田助九郎や相賀道閑が相伴した。
装束は身分の上下ともに無刀、上下(裃)着用。宇野の太刀持ち原小才次、小太刀持ち村松は御縁に控えていた。
最初に出した膳は、右に澄まし汁が入った汁椀、左に茹でた蕎麦が入った食椀、
椀の前に小皿を置き、香頭(こうとう=吸い口・薬味)として唐辛子、ワサビ、ネギ、大根、鰹節、柚子などを刻んだものを盛ったものである。
客が食椀の蓋を取り、汁椀の蓋を取って澄まし汁に香頭を入れて好きなだけかき混ぜて、それを蕎麦にかけると、蕎麦の下から色々なものが出てくる。
鴨、鯛、椎茸、あわび、きくらげ、麩、セン、玉子、厚揚げ、凍み豆腐、凍みこんにゃく、雪餅、炒めニンジン、ゴボウ、カンピョウなどが出る。
具材を下盛りにしておいたのだ。
2〜3口で最初の膳を下げ、引替膳を出した。
その膳は鯉の刺身と、右に白鳥の味噌汁、左に白飯を配している。
次は、鯛の1コン焼き(尾頭付きの焼き物)、シギの焼き物、御酒。
玉子、あわび、ゴボウ、クワイ、蓮根、椎茸の葛煮に、酒1返し、いも巻きを供した。
ここで中入りとなり、酒宴が始まった。
盃は5合入りの椰子杯である。
料理の方は、スズキの青ヌタ、サザエの壺焼きと、酒1返し。
雀の焼き鳥と、酒1返し。
十六島(うっぷるい海苔)の漬け焼き、酒1返し、ふくら炒り。
「沖の石台」という5升入りの皿鉢に、酢と生姜を溜め、大根、人参、柚子、タコ、イカ、アワビなどを盛ったものも出した。
次に玉子のふわふわを出し、各自に抹茶、あん餅、干菓子を出した。
この酒宴で呑んだ酒は、宇野3升、平瀬4升、相賀3升、山田5升。
宇野は「相生」を謡って退出し、嵯峨山隼人と碁を3番打ったが、明朝はくたびれ果てて休んでいた。宇野は酒が不得手のようである。
昼食は菜食で、田楽、御酒、クシコ、御酒、カツオ炒り、御酒、御菓子、饅頭、干菓子という献立。
宇野達はその夕方、暇乞いして帰っていった。
以上、珍しい料理だったので抜き書きしておいた。永く家に伝えていってくれ。頼んだぞ!
天正二年正月一日
置塩・相賀永次郎重茂 同・毛野鶴次郎武盈
0357人間七七四年
2014/07/26(土) 08:29:48.96ID:NhOkfCQjhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1670.html
0358人間七七四年
2014/07/26(土) 08:33:00.39ID:Kkl3FKi0前回のはこれ?
0359人間七七四年
2014/07/26(土) 08:33:20.18ID:Kkl3FKi00360人間七七四年
2014/07/26(土) 08:37:34.85ID:ynTzV5w9史料上はこのころから蕎麦切りが現れはじめるから、まだ蕎麦がきのころかな?
蕎麦の下に具材があって汁を掛けてるからそうなのかなあ
0361人間七七四年
2014/07/26(土) 08:59:54.68ID:HguOHKq9だれか作って写真うpして。鷹って食えるのか?あいかわらず酒の単位が升wいまよりもアルコール薄いとはいえよう飲むわ。
0363人間七七四年
2014/07/26(土) 09:50:34.10ID:ENrhe7f50364人間七七四年
2014/07/26(土) 09:58:58.12ID:DdbAyVs10365人間七七四年
2014/07/26(土) 12:43:47.83ID:axf17gV40366人間七七四年
2014/07/26(土) 12:50:48.42ID:cF4X+d7l0367人間七七四年
2014/07/26(土) 15:22:17.91ID:KmwpVQjX0368人間七七四年
2014/07/26(土) 15:31:36.50ID:esuODCTo寛永13年3月隠居城若林にて伊達政宗は、寝所でうたた寝してると
小さな子が現れ「ホレ、出発の支度が整ったよ早く行こう」と催促してきた
政宗「ホウ、随分早いな。」と身体を起こそうとするが金縛りにあって
動けない。堪らず腰元を呼び起きたがその子は襖に消えていったのだ。
そして、最後の出府し江戸で引き取るのは3ヶ月後。政宗には座敷わらしが見えていた話
東北怪談全集より
0369人間七七四年
2014/07/26(土) 15:57:48.82ID:1co0NzCY0370人間七七四年
2014/07/26(土) 22:39:31.64ID:Co23d2UJ三宅角左衛門、木村又蔵、飯田覚兵衛、その他一騎当千の勇士らと同座で昔の
物語りをされた時、清正が、
「源義経の家士である武蔵房弁慶ほどの忠臣は、今も昔もいるはずがない」
と申されたところ、森本義太夫が
「いや、武蔵房弁慶ほどの忠臣は昔は知りませんが、今は幾人もいるでしょう。
ですが、その主君の源義経ほどの大将は、今はいるはずもありません」
と申したので、清正を初め家人一同は笑いなさったということである。
名将良士と言われる人は、皆君臣の間が睦まじかったそうだ。神君(徳川家康)
は人を引き立てなさることをよくなさった。ある時の御話の折、
「昔の鈴木三郎重家を忠義を兼ねた良士であると世に言うが、我が家には重家の
ような忠義の士が幾人もいる」
と、仰せられたそうである。
陶淵明の『渠も亦人の子也』(『此もまた人の子なり』)とは、本当に
格言というべきである。この言葉は高貴下賤ともによく人情に通じている。
名将良士が心を用いるところはここにある。
――『明良洪範続編』
0371人間七七四年
2014/07/26(土) 22:42:18.22ID:PPRdKStg0372人間七七四年
2014/07/27(日) 03:42:11.27ID:zLeQ/84T0373人間七七四年
2014/07/27(日) 03:45:59.82ID:mZBctROr0374人間七七四年
2014/07/27(日) 08:37:07.44ID:V+cZAXqT太平の世では早急に悪久すべき
0375人間七七四年
2014/07/27(日) 10:50:20.36ID:m510hudy0376人間七七四年
2014/07/27(日) 11:17:44.06ID:XnQ916Jd黒田武士は知らんが、三河武士にはある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2639.html
0377人間七七四年
2014/07/27(日) 12:20:12.06ID:+EQiIhCF0378人間七七四年
2014/07/27(日) 21:50:36.34ID:xw6A6oT70379人間七七四年
2014/07/28(月) 02:56:43.87ID:NuNQEtm40380人間七七四年
2014/07/28(月) 03:37:48.78ID:9WmG8ITM分かります
0381人間七七四年
2014/07/28(月) 03:54:52.65ID:BsmDQudM恐れ、どうにも怯えた様子を見せていた。
そこで家康は酒井忠次を呼んでこう命じた。「いつもの海老すくいの狂言をせよ。」
忠次畏まり、つっと立って海老すくいを舞った。これは有名な絶技の芸であったので、一座の者達は皆
笑いのツボに入り大爆笑した。
これによし徳川の三軍にあった武田への恐怖の念はいつの間にか一散したのである。
(忠次かしこまりつと立て舞けるが、兼ての絶技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と
笑い出しにより、三軍恐怖の念いつとなく一散してけり)
(東武談叢)
酒井忠次の妙技海老すくい、徳川軍から恐怖を払う。というお話。
0382人間七七四年
2014/07/28(月) 04:15:08.51ID:ieY8KXOP0383人間七七四年
2014/07/28(月) 04:43:26.31ID:0U1KnlTJ0384人間七七四年
2014/07/28(月) 07:02:38.28ID:g/gxe8er0385人間七七四年
2014/07/28(月) 09:44:31.66ID:yaZjXFV0これは歴史が動いた瞬間ですわ
0386人間七七四年
2014/07/28(月) 09:50:16.77ID:JPO4AgR60387人間七七四年
2014/07/28(月) 14:57:47.46ID:bY1WnWpb0388人間七七四年
2014/07/28(月) 15:11:02.63ID:ZKq6NRc70389人間七七四年
2014/07/28(月) 17:22:09.44ID:wBqsu5SX0390人間七七四年
2014/07/28(月) 19:09:03.66ID:hmwj7KpU真面目に答えると>>388の言う通り春秋時代の三軍(上軍中軍下軍)に倣い全軍を意味する
0391人間七七四年
2014/07/28(月) 20:45:46.48ID:0U1KnlTJ0392人間七七四年
2014/07/28(月) 22:39:54.15ID:OF6jLvwu戦国どころか、平家物語の有名なシーンでも使われてたりする。
大納言気色変はつて、さつと立たれけるが、御前に立てられたりける瓶子を、狩衣の袖に掛けて引き倒されたりけるを、
法皇叡覧あつて、あれはいかにと仰せければ、大納言立ち返かへつて、瓶子倒れ候ひぬとぞ申されける。
法皇も『笑壺に入らせおはしまし』、者ども参つて猿楽仕れと仰せければ、平判官康頼つと参つて、あああまりに瓶子の多う候ふに、もて酔ひて候ふと申す。
俊寛僧都、さてそれをば、いかが仕るべきやらん。西光法師、ただ首を取るにはしかじとて、瓶子の首を取つてぞ入りにける。
0394人間七七四年
2014/07/28(月) 23:17:39.03ID:JGXRelj80395人間七七四年
2014/07/28(月) 23:49:29.49ID:dd979FBFhttp://www.youtube.com/watch?v=FVvxOgmxeGA
横山光輝の「徳川家康」では天正壬午の乱後、北条との同盟の席で
海老すくいを披露し、徳川は大した事ないと北条を油断させてたw
万能技過ぎるwww
0396人間七七四年
2014/07/28(月) 23:58:28.40ID:ibhhCUUn0397人間七七四年
2014/07/29(火) 00:18:46.24ID:73ZyftsL0399人間七七四年
2014/07/30(水) 00:43:10.83ID:s9grfJZd0400人間七七四年
2014/07/30(水) 15:43:25.83ID:eu5p67WC豊臣秀吉の御前にて、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、蒲生氏郷、毛利輝元などが話していた時のこと
秀吉は
「たとえば昨今、織田上野介に兵五千、蒲生に兵一万をつけて合戦させたとする。どちらに味方すべきだろうか?」
と言った。
いづれも返答しかねていたが、秀吉は
「それがしは上野介につくべし。その故は、蒲生方より兜付きの首を五つ程も取るならば、その内に氏郷の首もあるだろう。
上野介方は四千九百まで討ち取られる分には、上野介は討死しないだろう。
然れば大将のはやく討ち取られたる方こそ、大きなる負けなり。」
と言ったという。
武功雑記
※織田上野介=織田信包
激しく既出の気がするけど、このパターンは無かった気がするので
0401人間七七四年
2014/07/30(水) 15:49:46.32ID:nayFSFDk0402人間七七四年
2014/07/30(水) 16:28:51.85ID:SgluMGfl・・・志村さんのお小言タイム?
0403人間七七四年
2014/07/30(水) 17:03:30.45ID:UsXN/Doc名無しんぼ@お腹いっぱい[] 2010/01/23(土) 21:00:26 ID:Le1hu93a0
所用で酒井家のご当主にご挨拶に伺ったのだが、つい弾みで「えびすくい」について聞いてしまった・・
ついかっとなってやった
今は反省している
へうげものという漫画があることはご存じなかったそうです。
名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 2010/01/23(土) 21:06:52 ID:E5ISRcS80
それでえびすくいの方はどうだったんですか
現代に至るまで踊りの秘伝が一子相伝で当主に伝わってたりするの
名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 2010/01/23(土) 22:20:49 ID:Le1hu93a0
酒井の太鼓は歌舞伎の演目になっているくらい有名な話だが、歴史上の出来事としては「史実」と言いきることができるものではなく、
「逸話」と呼ぶべきものでしょう。忠次公も踊り自体は知っていたかもしれないが、海老すくいの話も同じように「逸話」と言うべきだと
思います。とのことでした。
あ、それから、踊れないそうです(笑
0405人間七七四年
2014/07/30(水) 17:36:03.20ID:oYAnjCtXいや、これとそっくりな話で信長と氏郷のパターンがあるんだよ。
俺も信長のが誤って伝わったんだと思うが
0406人間七七四年
2014/07/30(水) 17:39:37.33ID:nayFSFDk有名なバージョンは信長だし
0407人間七七四年
2014/07/30(水) 21:46:31.09ID:vkO2DVH/0408人間七七四年
2014/07/30(水) 22:16:02.19ID:mSVmn9LE0409人間七七四年
2014/07/31(木) 00:13:35.60ID:2az/Ewhc0410人間七七四年
2014/07/31(木) 00:21:08.21ID:jq6ueLWV彼は関白の了承を得、すでに父から豊後国を渡されており、これを所有し統治している。
洗礼名をダミアンと称し、当時二十二歳、または二十三歳であった。
だが極めて優れた理解力と知識の持ち主で、その秀でた勇気と勤勉と相まって、日本で彼に優る者はごく僅かしかなく、したがって関白殿から気に入られ寵遇されていた。
五年前に父の官兵衛が関白の軍勢の武将として、一軍を率いて秋月を襲撃した時に、この息子は関白の命令により、戦場へ父に会いに来た。
当時、彼は十七歳であった。
その折、彼の父は彼がすぐにキリシタンになるように説得し、彼はその地で幾つかの説教を聞き、多くの家臣とともに受洗した。
だがこのたび関白の迫害が襲った時には、まだキリシタンとしては日が浅く、若輩で、我らの教えについてはほとんどなにも知ってはいなかった。
つねに自分がキリシタンであるとは公言していたものの、彼は聴聞したことに大いなる疑問を抱いていた。
特に人間が救われるためには、洗礼を受けてキリシタンになる必要があるということが納得できなかった。
彼には、人間は道理にしたがって正しく生きさえすれば、いかなる宗教によっても救われると思えたからである。
「フロイス日本史」より、1590〜1591年頃の黒田長政についての話
0411人間七七四年
2014/07/31(木) 00:29:46.71ID:ApMjhh460413人間七七四年
2014/07/31(木) 15:44:37.11ID:XOlX5q1B信長だったら戦いが始まる前に逃げてるよ
全滅しても生き残ってる身の振り方だったら本能寺で死んでないな
0415人間七七四年
2014/07/31(木) 21:29:54.66ID:NPJnKbx20416人間七七四年
2014/08/01(金) 02:08:45.02ID:a7OerG840417人間七七四年
2014/08/01(金) 08:23:13.85ID:OCqpYQAu0418人間七七四年
2014/08/01(金) 09:08:33.47ID:HVMVvfHT0419人間七七四年
2014/08/01(金) 10:57:36.83ID:GX53B0Pcこれに直次は、「こちらの者は皆麾下の縁りの人々なので、そのもとの仰せに
従うためには、皆々の依頼にも従いませねば叶い難いので、御容赦ください」
と言って、ただ何ということも無い様子であったという。
――『名将言行録』
0420人間七七四年
2014/08/01(金) 18:48:19.72ID:KiJaldDG0421人間七七四年
2014/08/01(金) 19:56:08.06ID:LDaddAct天庵様「ちくしょー!こうなったら討ち死にしてやる!」
菅谷さん「殿を止めろ!(ズルズル」
こうなるだろう
0422人間七七四年
2014/08/01(金) 20:29:38.90ID:Zrl4+mJj0424人間七七四年
2014/08/01(金) 22:22:40.24ID:Yi3BdW150425人間七七四年
2014/08/01(金) 22:24:45.94ID:47sCxrg+0426人間七七四年
2014/08/02(土) 05:49:37.74ID:eOslnO/20427人間七七四年
2014/08/02(土) 08:29:02.64ID:xE9j+uNr0429人間七七四年
2014/08/02(土) 11:11:43.53ID:NCUBK8vG合成?
0430人間七七四年
2014/08/02(土) 11:30:07.34ID:sZGLbLgx0431人間七七四年
2014/08/03(日) 11:29:24.66ID:nTp+xxm00432人間七七四年
2014/08/03(日) 15:00:02.63ID:AfNl1bl9「配下の伊賀者共々、織田家を叛き御当家に属したい。願わくば御書を賜らん。」
と申し上げた。しかし家康は
「当家は織田家と親交が深い。そのため御書を与えるのは難しい。今までのよう織田に属して、
本領を守るべきであろう。しかしどうしても我々に従おうというのなら、我が領国に移住するように。」
と答えた。
その後、伊賀の者達は皆織田家の命に従わなかったため、織田右府(信長)は大いに怒り、尽く誅伐
したため、みな山林に逃げ隠れ時節を伺った。
このような時に、本能寺の変が起こった。
伊賀越えをして三河へと帰ろうとする家康の元に拓殖清広は、一族の傳兵衛甚八郎宗吉、山中覚兵衛、
米地半助、その他甲賀の美濃部管三郎茂濃、和田八郎定教、武藤大炊茂秀らを引き連れ参上した。
彼らは皆人質を出して伊賀の道を案内し、鹿伏兎越の険難を経て伊勢までお供をした。
この時、伊勢までお供した輩は、後々召し出されて直参と成り、鹿伏兎越までお供して、途中で帰国した
二百人ほどの者達は、服部半蔵正成に属させ、伊賀同心として諸隊に配置された。
またこの年の六月に尾張において召し出された者達は、専ら陣中の間諜を勤め、後に後閣(大奥)の
番衛を勤めた。今も後閣に附属する伊賀者の先祖はこれである。
また甲賀者も武島、美濃部、伴などという者達は直参と成り、それ以下は諸隊に配置されて、与力同心と
なった者もあった。
(徳川実紀)
徳川の、伊賀者、甲賀者の由来についての逸話である。
0433人間七七四年
2014/08/03(日) 18:21:40.16ID:I6K+/Yrz0434人間七七四年
2014/08/03(日) 20:05:51.04ID:OBLY9kN30435人間七七四年
2014/08/05(火) 11:54:10.10ID:b8dJHAwn小幡城へと入った。
ここに榊原康政、大須賀康高らが御前に出て、この様に申し上げた
「今夜、敵陣の様子を伺いましたが、秀吉の軍は日中長途を駆けてきたので、皆疲れ果て
正体もなく倒れるように眠っています。ここで夜討ちをかけて辛き目を見せてやりましょう!」
しかし家康は首を振り、「いやいや」と言ってこれという仰せもなかった。
皆が御前を下がった後、家康は本田豊後守広孝を召して、
「お前は城門を巡視して、一人も門外に出さないように」
と命じた。
そして間もなく湯漬けを食すと、出陣を触れ、『なるべく物静かに揃え』と命じた。
このため皆『必ず夜討をかけるのだ』と思っていたが、そうではなく、家康は小牧城へと入った。
これに人々は、思いもよらぬことだと感じた。
後日、家康は浜松城において、この時のことを語った
「あの時、お前たちが夜討をかけろと言ったのは、秀吉を討つことが出来ると思ってか?
それとも、ただ戦に勝とうと言うまでのことか?」
一同、顔を見合わせて、ややあって
「秀吉を討ち取るまでは考えていませんでした。ただ、戦えば必ず勝利すると思って申し上げたのです。」
家康はこの答えを聞くと
「私もそのようには思った。だが、敵を皆殺しにしたとしても、秀吉一人を逃してしまえば
却って悪しき事態となったであろう。昼の合戦において池田・森の両人を討ったことさえ、
一人でも良かったと思っていたのだ。」
と言った。
(岩淵夜話別集)
小牧長久手合戦が、家康にとっても色々と難解な戦であったことを表す逸話である。
0436人間七七四年
2014/08/05(火) 12:37:03.44ID:TWdXO505これじゃ名人戦になるわけだわ。
0437人間七七四年
2014/08/05(火) 12:42:18.27ID:6W4uCpiW0438人間七七四年
2014/08/05(火) 13:29:39.39ID:TY4Krwfl…鬼武蔵だろうな
0439人間七七四年
2014/08/05(火) 14:12:25.81ID:nO8C0IrR0440人間七七四年
2014/08/05(火) 14:50:51.31ID:j9EDO2I9面倒くささも人一倍なのが家康
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