戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0223人間七七四年
2014/06/29(日) 04:51:10.55ID:IN8XrTCj小西行長は一番に朝鮮の都に入り高名をしようとして、その道筋の城には手をかけず、直に入ろうとしている、
という情報が聞こえてきた。
そのため黒田長政は小西が通りすぎた道に残された城を攻め落とし、後続の味方が安心して通過できるようにしようと
大道筋に進軍した。中でも昌原の城には大勢が籠城していたのを、長政は昼夜これを攻め、数度の戦いの後ついに乗っ取り、
500余人を討ち取った。
長政が道筋の城々を攻略した事により、後続の軍勢は難なく都の攻め入ることが出来たのである。
(黒田家譜)
黒田長政、小西の進軍の後で後続勢のためのフォローをしていたんだよ、というお話。
0224人間七七四年
2014/06/29(日) 09:43:42.52ID:dXKwuvBU0225人間七七四年
2014/06/29(日) 12:51:37.41ID:KEm12Ldq彼は長篠河で甲州の芋川鳶之介に槍をつけた。
藤五郎の若党両人は敵(鳶之介のこと)を抱きすくめて河の中へ
押し倒した。この時、鳶之介は三度まで頭をあげて名乗った。
このことを城和泉は聞き、涙を流して、
「なんとまあ、武士の一言は大事なものである。鳶之介はかねがね、
『私が討死する時は三度までは名乗るつもりだ』と申していた」
と言った。
――『武功雑記』
0226人間七七四年
2014/06/29(日) 16:09:51.25ID:xLVXVpMqしかし名前が創作臭いですね。
0227人間七七四年
2014/06/29(日) 18:51:07.90ID:47uQVnTF【歴史】 織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1404025559/
0228人間七七四年
2014/06/29(日) 19:44:17.35ID:UUOtv5du0230人間七七四年
2014/06/29(日) 21:16:05.73ID:msf4Uuq50232人間七七四年
2014/06/29(日) 22:14:43.39ID:IN8XrTCj本当に救いがないな。
0233人間七七四年
2014/06/29(日) 22:47:44.70ID:oEbfPn8g0234人間七七四年
2014/06/29(日) 23:10:55.37ID:UUOtv5du0235人間七七四年
2014/06/29(日) 23:14:07.14ID:LlsMIStj0236人間七七四年
2014/06/30(月) 06:38:02.86ID:lbu0h+Ij0237人間七七四年
2014/06/30(月) 21:18:01.15ID:WRZJjB4J0238人間七七四年
2014/07/01(火) 08:36:20.95ID:shhIQofKこの九曜紋の殿様は誰かね?駕籠の豪華さだと大名っぽい
0239人間七七四年
2014/07/02(水) 12:26:43.79ID:8AGAwg9Y「常徳院内大臣義尚公(将軍・足利義尚)は天性歌のお好きな方で、武芸の暇には和歌を心がけ、
その才能も年齢以上に大きなものでした。
高官昵近の公家が参った時は、仮初にも雑談などはせず、歌についての方法論のみを談じていたと
いうことです。その頃の歌の達者として有名だった某大納言は、始めは歌の形についてなど
心やすくご指南申し上げていましたが、御年二十歳を過ぎられてからは、かの卿はかえって、歌の
風情について義尚公にお尋ねになるほどでした。
このように義尚公はいみじき国主でありましたが、ただただ、ご年齢が壮年に満たず亡くなられた事は
口惜しいことだと、当時も皆口々に言っていました。
義尚公がかつて、近江に久しく滞陣されていた時、ある日お遊びとして湖水のほとりに出御され、
多くの船を飾り饗膳も珍しやかに調えて、諸道の達人を数人供奉しました。
公方は湖水の水際を眺めながら、童子二人が小舟に乗って遊んでいるのに気が付き、「あれは何者か?」と
尋ねると「梅ケ原の者です」との答えが帰ってきた。これを聞いて心にふと浮かんだ句があった
『湖辺自異山林興 童子尋梅棹小船』
この二句が心に浮かび、その対句についてしばし思案されましたが、ついによろしき句も浮かばず
還御され、その夜、夢の中に男装した人が現れて、先の句に足して七言四句とし、義尚公は
夢の中に喜び、程なく目が覚められた。その句は近習の人に仰せになり書き留めさせたということですが、
その後人々はみな、その二句を失念し、詮無き事になったそうです。大変残念なことです。
これだけではなく、かつて、また逆敵が近隣に侵入した時に、いそぎ出陣されたことがありました。
その時は炎天の時期で、五万ばかりの軍兵を召しつれられましたが、士卒はこの暑さに耐えかね、
滝のように汗をかき、馬もこらえかねて多くは跪き、人々はこのことに大いに混乱しました。
この時軍勢は鑑山の麓にありましたが、義尚公はここで
『けふばかり くもれあふみのかがみ山 たびのやつれの影のみゆるに』
(近江の鏡山よ、今日くらいは曇ってほしい。皆に旅の疲れの様子が見えるではないか)
と詠まれ、暫く木陰で休むように命じた。そこで少しすると天曇り、涼風おもむろに吹き始め、
軍勢はまるで中秋の夕暮れの中に居るようにように感じ、たちまち元気を蘇らせた、と言われます。
これなど歌における、上古末代までの高名の誉れでしょう。
まことに一句の力で数万の軍兵の苦しみを止めるなど、天感不測の君であったと言うべきです。
(塵塚物語)
歌人・飛鳥井雅親による、将軍・足利義尚の歌についての思い出である。
0241人間七七四年
2014/07/03(木) 06:42:18.40ID:R/nXxM+J歌で全てを解決する将軍か
0242人間七七四年
2014/07/03(木) 08:42:54.41ID:RsSJEXGt六角退治に躍起になったのは親へ反動か?
0243人間七七四年
2014/07/03(木) 21:00:00.17ID:OzddS/te豊 18
臣 6
秀 7
吉 6
天運24:大吉
人運13:大吉
地運13:大吉
外運24:大吉
総運37:吉
陰陽(偶偶奇偶):大吉
ちょっとどころか、とんでもなく縁起のいい話!
これはさすがにやり過ぎだろww
0244人間七七四年
2014/07/03(木) 23:29:09.25ID:GQBIVGxe0245人間七七四年
2014/07/04(金) 08:54:48.75ID:OvpIbfGP0246人間七七四年
2014/07/05(土) 14:39:04.96ID:0jGY9S5x「甲冑は丈夫なものをよしとはするけれども、あまりに重いものはよろしくない。
井伊直政は大力で重い甲冑を着てもものともしないが、戦場でたびたび傷を受けた。
(井伊直政は大力にて重き甲冑を着て重しとせざれど戦場にて度々疵を受たり)
本多忠勝は直政ほど力も無く、甲冑も軽いものを用いたが戦場で傷を受けたことは一度も無い。
(本多忠勝は直政ほど力もなく甲冑も軽きを用ひたれど戦場にて疵を受し事一度もなし)
だから、甲冑は着る者の働きやすいものこそがよいのだ。
また、下輩には鉄の薄い笠を着せるのがよい。場合によっては飯をも炊けることだろう」
(又下部には鐵の薄き笠を着せるがよし其時によりては飯をも焚かるべし)
――『明良洪範』
0247人間七七四年
2014/07/05(土) 15:49:33.17ID:9zHshRiz0248人間七七四年
2014/07/05(土) 18:59:59.57ID:NnkLvtji箕輪城方は1500ほどしか兵士が集まらず、若き城主の長野業盛は諸将を集め、防御の方法を議した。
甲は「城を固守して上杉謙信に救援を乞うべきだ」と主張した。
乙は「属城がことごとく敵方に落ち、将兵は死ぬか背くかした。そのような中で謙信に助けを乞うのは
かえって世の笑いを受けてしまう。万死を期して決戦あるのみ」と主張した。
すると日頃城主の信任が厚かった丙が「我が先君(業正)は上杉氏のために最後まで身命を賭して
尽くした。しかし憲政は愚者であり、先君を用いず、遂には国を失い、謙信を頼る様となった。
かような次第なので、今我々の幼君(業盛)も犬死することがあっては先君に申し訳ない。
むしろ武田家に降りお家を残すのが適切だろう」と主張しだした。
皆はこれを聞いて驚き、「昨日まで我が主家の棟梁豪勇の忠臣であったのが、なぜにわかに
臆病者になったのか!」と声をあげ涙を流し、甲などは憤然として刀に手をかけ丙を斬ろうとした。
すると業盛は諸将を制して、そのまま奥の間に行き、業正の位牌を奉じて上座に安置して拝礼したので、
諸将もこれに従い拝礼したが、どういった意味なのかわからなかった。
業盛はその様子を見て、おもむろに「丙が降伏の議を説いたのは皆の心底を知ろうと私が命じたものだ。
今、皆の心が鉄石の如く堅いのを見ることができ、これ以上喜ばしいことはない!」
と言ったので、皆再び驚き、業盛の用意周到なるに敬服したという。
その後業盛率いる箕輪衆は、若田原へ打って出た後に箕輪城に立てこもり、そこで業盛は散った。
享年19歳
アカツキ9巻12号(1934)より
0249鈴木右近の切腹
2014/07/06(日) 14:33:08.50ID:2nLgC1Ujでもちょっと触れられてるけど出典があったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4040.html
の逸話で
「どんなに死出の山が険しくても、わたしが御手を引いて差し上げますよ」
と真田信之と殉死の契約をした鈴木右近。
木村縫殿に殉死の際の介錯を頼んでいたのだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4806.html
の逸話のように縫殿が死んだためその息子の渡右衛門に改めて介錯を頼むことになる。
0250右近の切腹
2014/07/06(日) 14:34:10.32ID:2nLgC1Uj鈴木右近は十八日に殉死すると言ってたのにどうしたのか、自室に篭ったままであった。
嫡男の治部右衛門は江戸にいて不在であり、次男の弥左衛門は気が気でなかった。
家老以下、真田家家中に父の殉死の予定を伝えてきたのに、万一、長引くようなことがあれば
どうしたらいいのだ、と心配でしょうがなかったが、
右近の日頃の気性を思うと、たとえ天地がひっくりかえっても自分をまげない男なので、
意見もできないとあきれ果てていた。
右近は長年妻子にも触らせなかった箱を開けて書付をいちいちとりだしてことごとく
焼き捨て、残りを入納したそうだが、何が書かれているかを知る者はいなかった。
なんだかんだで十八日夜になって右近は正眼山法泉寺に移ったようだ。
隣家の竹内親兵衛、長谷川善兵衛が法泉寺に訪ねていくと、
右近「殉死の見届けをしてくださること、ありがたいことです。
私が焼かれる火葬場の様子をみたところ、山のようになって見苦しかったため
平らにならすよう指図をしてきたところです。」
ずいぶん念のいったことだと思っていると、同族の弥左衛門がやってきて、
切腹が遅れていることを問いただした。
0251右近の切腹
2014/07/06(日) 14:34:59.30ID:2nLgC1Uj取り寄せた棺桶のできを見、内外の寸法も十分だと満足していた。
そうこうしているうちに、介錯人の羽田六右衛門を木村渡右衛門が召し連れて
右近と対面した。切腹前の儀式が終わった後、
右近「まことに申し上げにくいことですが、このようなことをしたことがなく、この歳になるまで
殉死を見たこともないため、作法を心得ません」
木村「わたしも心得ているわけではありませんが、近藤平之丞に聞いたところでは
主君の御位牌に拝礼するのはもちろんですが、拝礼の後、御位牌に背を向けて切腹するのが
作法だそうです」
右近「若いのにそこまで調べてくださったこと、言葉に尽くしがたいほど感謝しております。
ところで、どうせなら後世に残るように立ったまま切腹したいのですが、いかがでしょうか」
木村「冷淡なように聞こえるでしょうけど、ご老衰の身でそんなことをしてもしかたないでしょう」
右近「ともかくも指図通りいたしましょう」
右近は気色にも死の恐怖というものをいっさい見せなかった。
0252右近の切腹
2014/07/06(日) 14:37:46.29ID:2nLgC1Uj切り口を主君に見せようと思ったのか、霊前(位牌)の方へ振り返った所、介錯人の羽田六右衛門が
振り下ろした刀が肩骨に打ち込まれてしまったため、木村渡右衛門はすかさず右近の首を
自分の膝の上に引き寄せて、首を掻き切った。
木村は慌てた様子もなく手早くことをなしたものだ。
この物語はその時同席していた長谷川善兵衛から直接聞いて書き置いたものである。
「真武内伝 附録」より
用意周到にしたのに最後の最後できれいに運ばなかった気もしますが、全体的に考えていい話ってことで
0253人間七七四年
2014/07/06(日) 15:05:15.07ID:2nLgC1Uj0254人間七七四年
2014/07/06(日) 17:58:09.47ID:nhVGFlMZ昔からの家臣で殉死するほどつきあい長い人って相当限られてたんだろうなあ
0255人間七七四年
2014/07/06(日) 20:08:27.89ID:Umjsc1MS0256人間七七四年
2014/07/06(日) 20:57:10.07ID:qSzwb+rS0257人間七七四年
2014/07/06(日) 21:16:24.09ID:C7mlVC+m0258人間七七四年
2014/07/06(日) 21:57:49.48ID:lkckB1fN新参で寵愛されていたとかならわかるけどさ
0259人間七七四年
2014/07/06(日) 22:03:27.39ID:74f8CjY50260人間七七四年
2014/07/06(日) 22:07:04.57ID:ceGbtxhr主君より8歳も若いのに
0261人間七七四年
2014/07/07(月) 00:27:31.43ID:0lSG9xVp0262人間七七四年
2014/07/07(月) 01:15:23.93ID:P0qED9OS0264人間七七四年
2014/07/07(月) 13:19:57.16ID:9Bf/qtyn一応用心してりゃ用意しとくだろ。天下泰平でも生水に当たってこてっと逝ったり赤穂浪士に討たれたりキチガイにタマ取られたりってアクシデントもあるわけだし
0265人間七七四年
2014/07/07(月) 13:24:33.27ID:g8GLLUXD0266人間七七四年
2014/07/08(火) 00:23:38.29ID:Jof1AIYs0267人間七七四年
2014/07/08(火) 00:40:10.81ID:yNf5Xzp90268人間七七四年
2014/07/08(火) 02:00:12.72ID:CGapS9WN0269人間七七四年
2014/07/08(火) 02:30:32.26ID:bKa214Jq0270人間七七四年
2014/07/08(火) 19:51:00.15ID:JyLMitQJこれは豊臣関白秀吉公の所縁となられて後、未だ御対面がなかったためである。
長丸君はこの時12歳になられていた。井伊兵部少輔直政、酒井右兵衛太夫忠世、
内藤弥三郎清成、青山藤七郎忠成が供奉をした。
13日、都に入られた。関白からは長束大蔵大輔正家が迎えに出された。
15日、聚楽城に上り御対面があった。関白秀吉の喜びは大変なものであった。
その後孝蔵主の案内で後閣へと誘われた。そこでは秀吉の母である大政所自ら、
長丸君の髪を結い直され、御衣装も新たな物を進められた。そして長丸君は関白より
諱の一字を授けられ、秀忠と称されることになった。
関白は自ら秀忠公の手を引いて外殿に出られ、井伊直政らを近くに召して言った
「大納言(家康)には良き子を持たれた。年頃よりも大人のように見え、大変喜ばしいことである。
このように田舎風を変えて、都ぶりに改めてお返ししよう。
大納言もさぞ待ちかねているだろうから、急ぎ帰国するように。」
そして井伊直政、酒井忠世、内藤清成、青木忠成らにも金や衣服を数多与えられ、各々暇を賜った。
彼らはまた秀忠公の供奉をし、17日に京を出立し、25日駿府に帰られた。
2月24日には甲冑始めがあった。この頃関白は小田原の北条を征せんがため、関西の大軍を率い
3月には相模の国まで攻め下り、29日には湯元堂で諸将を集め酒宴を開き、軍議を行っていた所、
関白は家康公に向かって「秀忠を呼んでこの大軍を見せるように」と言われたため、しばらくして
ここに招かれた。大久保新十郎忠常はこの時11歳であったが、一人供奉して参った。
その時、関白は自ら甲冑を取り出し、秀忠公に「それを着られ、我が武運にあやかるように」と
公の背中を撫でられた、とのことである。
(台コ院殿御實紀)
徳川秀忠が豊臣秀吉に初めて対面した時と、小田原の役での模様である。
0271人間七七四年
2014/07/09(水) 03:57:34.26ID:nw6cHqxv0272人間七七四年
2014/07/09(水) 06:50:10.23ID:KnwmyW2Sわしの頼りない息子でもなんとかなりそうとか思えたのかな
0273人間七七四年
2014/07/09(水) 18:40:54.00ID:Kss2d3LI信長傅役:林秀貞・ 平手政秀・ 内藤勝介、青山信昌
内藤と青山は傅役コンビ?
0275人間七七四年
2014/07/09(水) 21:26:56.78ID:F/OqKnxx0276人間七七四年
2014/07/10(木) 01:35:01.83ID:xXgk6MdB権六といい藤吉郎といい、お前らも
それクリトリスなんだろ?
0278人間七七四年
2014/07/10(木) 05:38:02.00ID:TnF/OBsGトランペットの才能があるが金がなくて伸ばしてやれんのが口惜しい
0279人間七七四年
2014/07/10(木) 12:11:33.43ID:MkHxQsmN0284人間七七四年
2014/07/11(金) 07:23:11.10ID:N+c+eHskこの時、太閤秀吉と関白秀次の間に事が起こった(秀次事件)。
秀次は目前の危険から逃れるために、秀忠を拉致し人質としようと謀り、早朝、特使を参らせ
朝餉に参るようにと迎えた。しかし留守居の大久保忠隣はその謀を察し、土井利勝を始め5,6人に
お供をさせ、密かに伏見の館へと移動させた。この時、利勝のすすめにより、竹田路を通らず、
大路を経てつつがなく伏見に到着したという。
伏見に到着した秀忠は太閤秀吉の元へと渡ると、秀吉は大方ならず喜んで、
「誠に新田殿(家康)の子である。」
と、大いに賞賛した。
これは、父・家康が都を出立する前、秀忠を密かに呼んで
「私が東に向かった後、必ず太閤と関白の間に事が起こるであろう。
その時お前は必ず、太閤の御方に参るように。」
と言いおいたためであったという。
(徳川実記:台コ院殿御實紀)
秀次事件の時の徳川秀忠の脱出劇。秀吉が家康を「新田殿」と呼んでいるのが印象的である。
0285人間七七四年
2014/07/11(金) 19:09:45.13ID:zCem73+m0286人間七七四年
2014/07/11(金) 19:28:03.08ID:CplVdxw50287人間七七四年
2014/07/11(金) 20:13:05.63ID:xrqO5+4h0288人間七七四年
2014/07/11(金) 22:34:57.93ID:zCem73+mいい意味でも悪い意味でもラスボスを更に強化したようなお方がいるんだし問題はない
0289人間七七四年
2014/07/11(金) 23:01:39.09ID:N5Xc6OWK実はその跡継ぎには生存説があるのも似てなくもない
どっちかというと大友皇子に近いが
0290人間七七四年
2014/07/11(金) 23:19:35.57ID:NNvyJC9s0291人間七七四年
2014/07/11(金) 23:21:18.28ID:P79Fed1yということに一応なってるから
0292人間七七四年
2014/07/13(日) 08:50:27.09ID:foBlReUX由良「家系図強奪したったwwwこれで家系図繋げられるわwww」
岩松「もう家系図は渡さないぞ・・・」
徳川「くーださい」
0293人間七七四年
2014/07/13(日) 10:45:58.03ID:409e/6Nw「石田三成からの手紙」を読んだら興味深い書状が載っていた
『内々進上するつもりで先日お目にかけた鷹ですが、その時には
獲物を取ることができず、残念でした(昨、御覧候所にて取飼い申さず候、遺恨)。
今日は私の鷹師を遣わして雁を一つ取らせたので、鷹と一緒に進上します。
この鷹は申し上げた通り私の秘蔵の鷹です(我ら秘蔵に候、)。青鷺を取るということで来たのですが、
私のところでは雁に力を入れてこの春、菱喰(別名オオガリ)を入れて雁を二十ほど取りました。
その手際は同行した城州(山城守)がご存知ですのでお聞きになってみてください。
(中略)
ところで先日貴方の手から飛ばせた若鷹は、私の手からは雁を二つ、鷹師からは七つ、
大崎方では青鷺を二つ取りました。この鷹は次の秋に確かに鶴を取るでしょうから、大崎方へ残しています。
夏の間は青鷺を取ってお遊びになるといいでしょう。秋に鶴を取ったらお返しください。
(いったん渡したものを返せと言うのは)おかしなことですが(鶴取り候ハバ御返しあるべく候、おかしく候、)。
恐々謹言 廿六日 三成(花押)』
(「年代未詳 某中納言宛て書状」 下条文書)
三成は真田信幸にも鷹をもらったことに対する礼状を送っているので、鷹狩が好きだったのは確からしい
「中納言」「山城守」と言えば思い浮かぶのは上杉景勝・直江兼続主従だが、
三成がこれほどくだけた手紙を景勝に送るのは考えにくいということで、
著者はこの書状は岐阜中納言(織田秀信)宛てではないかと推測していた。真相はいかに。
鷹について熱く語る三成が微笑ましいのでいい話に
0295人間七七四年
2014/07/13(日) 13:31:33.64ID:9Q5ZG96i旨の注進の状が二月二日午の刻に京都から出て、飛脚は同三日子の刻に秀吉公
の陣所に到着した。
これにより、秀吉公は腹心の者たちを呼び、ひそかに書状を見せて各々の了見を
お尋ねになった。皆々は不意の変事故に然と(「確と」に同じか。はっきりと)
した返事にも及ばず、ただ当惑した様子であった。
その中で黒田孝高はその書状を見て、差し当たってのことなどは一言も申さず、
秀吉公の膝元に這い寄りなさり、坐を叩き打ち笑って、
「なんとまあ、天の加護を得られなさった! もはや御心のままになりました!」
と申した。衆人とは異なる器量である。
――『明良洪範続編』
0296人間七七四年
2014/07/13(日) 13:35:08.79ID:fBGDZq2o0297人間七七四年
2014/07/13(日) 16:40:34.90ID:yUMwnoXm0298人間七七四年
2014/07/13(日) 17:07:48.13ID:XKdLphx10299人間七七四年
2014/07/13(日) 17:19:29.32ID:UFBuHeXN0300人間七七四年
2014/07/13(日) 22:03:39.98ID:B1iJhDnX彼は始め、與八郎、又は猪之助と言った。
岡崎三郎(松平信康)に仕え、天正3年5月21日、三河長篠・有三原の戦いで三番鑓をして報償を得て後、
家康に仕えて、長久手の戦では岩ヶ崎の城に使いをしたが、はや落城しており、城主丹羽二郎助の首を
敵兵が取って去ろうとしていた所を、追いかけその首を取り返したことで御感を被った。
また、天正13年、徳川家康の吉良での鷹狩に供奉し、手負った猪が猛り向かってくるのを組み止めた。
家康はこれに大いに感じ入り、彼に『猪之助』という名前を賜った。
(徳川実記:台コ院殿御實紀)
大権現の安定のネーミングセンスを物語る逸話である。
0301人間七七四年
2014/07/13(日) 22:52:31.58ID:aab7x1lO0302人間七七四年
2014/07/13(日) 23:36:05.25ID:nkHQJv3r出典はないが既出のような
0303人間七七四年
2014/07/14(月) 03:25:25.51ID:YrWW/aMd勝女は京生まれで織田信行に仕え、生まれつき聡明で容貌も美しく寵愛されていた。
ある酒宴の際、信行は重臣津田八弥に
「お前もそろそろ妻をめとれ、わしが媒酌してやろう」
とその場で勝女の婚姻を決め、良日を選んで祝言をあげてやると約した。
この津田八弥というのは農民の生まれだが美男と才能のため信行にとりたてられ、織田一族の
「津田」を姓として与えられた者である。
しかし信長から信行につけられた老臣で佐久間七郎左衛門というのがあり、
八弥より待遇が悪いため大いに嫉妬し、両者のいさかいが絶えなかった。
とうとう七郎左衛門は八弥の屋敷に火を放ち、出てきた八弥を刺殺してしまった。
目付役が吟味すると、八弥の厩のそばに七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃が信長から下賜された正宗が落ちてあり、
また、火をつけた盗賊をとらえた所、七郎左衛門に命じられたと白状した。
信行が玄蕃に七郎左衛門をつれてくるよう命じた所、七郎左衛門は美濃に出奔し、斎藤道三に匿われてしまった。
0304人間七七四年
2014/07/14(月) 03:27:43.10ID:YrWW/aMd信行は「相手は勇士、お前は女だからここは尼にでもなって八弥の菩提を弔え」
とすすめたものの、結局八弥を刺したと思われる正宗を与え、暇を出した。
勝女は岐阜近在に住みつくと、鷹狩をしていた道三の嫡子龍興の目にとまり、そのまま道三夫人の侍女となった。
器量よしで歌道にもすぐれていたため寵愛されていたところ、翌年三月、競射の参加者の名簿に
佐久間七郎左衛門の名を認めたため、夫人に願って競射を拝見する許可を得た。
参加者25名中15番目の佐久間七郎左衛門が名乗った瞬間、勝女はおどりいでて短刀で七郎左衛門の脇腹を突き、
「津田八弥が妻勝なり。夫のために仇を報ずる!」と大音声で叫んだため、大騒動となった。
七郎左衛門は即死。道三、龍興も驚き経緯を尋ねると勝女は動ぜずありのままを答えたため、
道三の怒りは減じたものの
「お主の志には感動したが、織田信行から七郎左衛門を戻せと言われても今まで断ってきた。
わしを頼ってきたため隠してきたのだ。しかし女のためにむざむざ殺されたことが世間に知られれば
わしにとっては恥辱極まりない。かわいそうだが明日死刑に処す。それまで牢に入っておれ」
道三夫人は勝女を牢に入れるにしのびず、道三に懇願し、勝女を一晩あずかる許可を得た。
夫人「わたしはあなたの行為に感動しました。このまま逃げなさい」
勝女はそれでは夫人にとって申し訳ない、罰を受けましょう、と言ったものの、結局夫人に説得され、
夫人から路銀をもらい、未明に城外に逃亡した。
0305人間七七四年
2014/07/14(月) 03:30:38.58ID:YrWW/aMd康高はすぐに家康に報告し、貞烈に感動した家康は「男女に限らず万人の鑑である」と城に引き取った。
七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃は勝女が岡崎にいると知るや信長に勝女を尾張へ戻すよう願った。
信長は池田紀伊守恒興を使者として勝女を乞うたが、
家康は「勝は夫のために仇を討った貞婦です。おそらくこれは玄蕃の願いでしょう。
仇討は古今稀であり、しかもわたしを頼ってきたものをそちらに渡す理由がありましょうか。
信長殿は玄蕃の願いを叶えなければ玄蕃が謀反するとおそれているですか?
もしこの言葉が無礼と思われるのなら戦で決着つけましょう。
その場合こちらは信玄と同盟して尾張に攻め入りましょう」
と答えたため信長もあきらめた。
玄蕃は怒りを増し、金銀で勇士たちを雇い、岡崎に潜入させて勝女を殺そうとした。
勝女は物詣のため城外に出たが、警護していた大原左近右衛門惟宗、今村伝十郎が
曲者二人を見とがめ、生け捕り拷問。曲者二人は玄蕃に頼まれたと白状した。
即刻二人の賊は処刑。梟首の上、制札に書かれた文面は
「この者共、佐久間玄蕃に頼まれた由を白状すれども、盗賊ら己が難儀を逃れんために
いうことならん。よってここに梟首するものなり」
0306人間七七四年
2014/07/14(月) 03:32:46.06ID:YrWW/aMdしかも玄蕃の名前まで書くのは無礼であろう!」と使者を出したが
岡崎で老臣たちが使者に答えるには
「われわれも相談したのですが、貴国の老臣佐久間ともあろうものが
まさか一婦人に刺客をさしむけ殺害をはかるなどとは思われず、
おそらくこれは盗賊が自分の罪を免れようと嘘を言ったのだろうと判断したのです。
制札にもそう書いてますよね?」
これを使者より伝え聞いた信長はよけいに憤怒し、和平を破って戦闘におよぼうとしている、
という風説が岡崎までに届いたため、城の警護を固くすることになった。
勝女はこれを聞き
「わたくしめ一人のせいで、この国が戦になってしまうことは本意ではありません」
と今までの恩を感謝する書をしたため自殺。
この書を見たものはみな落涙し、家康も絶世の烈婦であると讃え、次第を信長に伝え、
大樹寺に葬り厚く弔った。
0307人間七七四年
2014/07/14(月) 03:36:45.81ID:YrWW/aMd時代から考えて盛政のはずはないし
0308人間七七四年
2014/07/14(月) 06:55:05.76ID:jOloNtFCこの辺のメンタリティーは500年前から変わらずか
0309人間七七四年
2014/07/14(月) 07:01:42.67ID:UdEexSsb0310人間七七四年
2014/07/14(月) 07:52:44.37ID:UGyojH9t0311人間七七四年
2014/07/14(月) 08:03:16.18ID:4unFyKeC桶狭間のあと家康が岡崎城を取り戻して
義龍が死ぬ前の1560年か1561年ごろか
清洲同盟はまだだがとりあえず小康状態ってことで和平、と言ってるのだろうか
でも信行生きてるってことは尾張を出た後数年岐阜に?
どこまでほんとかわからないから考察するだけ無駄な気もするが
0312人間七七四年
2014/07/14(月) 13:38:18.59ID:yk0AUsYP0313人間七七四年
2014/07/14(月) 21:37:42.78ID:J7/p7mbTこの夜、関白秀吉は密かに家康の旅館を訪ね、「長篠の戦い以来12年ぶりの対面です」と
大いに喜び、そして家康の耳元に口を寄せて、こう囁いた
「黄門(家康)もかねてから知っているように、秀吉は今官位人臣を極め、兵威四海を席巻しているが、
元々は松下なにがしの草履取りとして付き従っていた奴僕であることは、皆知っている。
やうやう織田殿に見立てられ武士の交わりを得た身であるから、天下の諸侯も表向きは畏服しているようでも、
心から帰順している者は居ない。また、今私の被官になっている者達も、元は同僚傍輩であり、実の主君とは
思っていない。
願わくば、近日大阪表で対面するときに、この事をよく心して対応していただきたい。
秀吉に天下を取らせるのも失わさせるのも、卿のお心次第ですぞ。
この事を頼みたくて、このように上洛を進めたのですよ。」
と、家康の背中を叩いた。
家康はこれを聞くと
「私は既に御妹と添い参らせ、またこのように上洛いたせし上は、ともかくも御為に悪しき計らいは
いたしません。」
そう答えると、関白もこれを喜んだ。
やがて大阪に渡り、厳しい作法にて御太刀・御馬。黄金百枚を進ぜられ、家康がこれにいたく敬服し
額ずいているのを見聞して、中国、筑紫の諸大名も
『大政所を人質として上洛された徳川殿ですらかくの如しである。我々がどうして秀吉を軽蔑することが
出来るであろうか』
と、これ以降国々の大名は関白を、以前に比べ10枚も尊敬するようになったと言われる。
(徳川実記:東照宮御實紀)
有名な秀吉と家康の、大阪城対面前の打ち合わせについてのお話し
0314人間七七四年
2014/07/14(月) 22:11:35.18ID:9++ZZLCs0316人間七七四年
2014/07/14(月) 23:33:45.73ID:hsweGQXa0317人間七七四年
2014/07/16(水) 22:16:02.06ID:i5spjsh6彼はかねてよりよく知られた武士であり、関ヶ原の合戦の後、秀家とともに逃亡したが、
やがて捕らえられ、家康より秀家の行方を尋問された。
正次は「私は秀家が敗走して後3日ばかり付き従いましたが、その後は主従別れ別れに隠れ忍んで
行方知れずと成りました。」と答えた。
家康はこれを聞くと「正次は君臣の義を重んじるが故に、その隠れる所を申さない事に疑いない。」と
却ってその忠義の志に感じ入り、金10枚を与え自分の元に留めおいた。
この時「秀家が秘蔵していた鵜飼國次の脇差しはどうなったか?」と尋ねたが、これに関しては
正次は関ヶ原の辺りで探し当て、家康に献上した。
さて、慶長8年8月、宇喜多秀家は潜伏していた薩摩から召し上げられた。
この時、本多正純、徳山則秀が彼を尋問したが、進藤正次に関して、彼は伊吹山中にて、
秀家を50日間に渡り深く隠し忍ばせたと、秀家は答えた。
先に正次は3日秀家に付き従ったと証言しており、その言葉と一致しない内容に、家康は
「その主を思うこと厚きが故に、己の美を殊更言い揚げなかったのだ」
と深く感じ入り、正次に500石を与え御家人に加えた。
(徳川実記)
徳川家康、宇喜多秀家の旧臣に感じ入る、というお話し。
0318人間七七四年
2014/07/17(木) 20:28:21.67ID:P0EZJS5Gこの時、秀吉配下の黒田官兵衛家来、母里太兵衛友信が一番乗りをし、これに羽柴軍は
勇を得て進み、城中が油断していたこともあって即座に攻め落とし、城兵尽く討ち取った。
さて、この戦果が信長に注進されると、信長は「彼の地が手に入ったのは秀吉の働き故である。」
と大いに喜び、褒美として秀吉に、鞍置きの馬を遣わした。
しかし、これを頂いた秀吉は
「今度の城攻めは、偏に孝高(官兵衛)の働き故である。」
と、鞍馬を官兵衛に与えた。
しかし、これを頂いた官兵衛は
「この度の戦功は、偏に太兵衛の一番乗りの功によるものである。であるからこの鞍馬は
私が拝受すべきものではない。」
と、これを母里太兵衛に与えた。
この鞍は、太兵衛の子孫に今も伝わっている。
(黒田家臣伝)
信長から秀吉への褒美が太兵衛の元に至った過程である。
0319人間七七四年
2014/07/17(木) 21:21:49.27ID:p5iyhZHH「そなたのおかげでいざという時にその弓を引いて恥をさらさずにすんでよかった」って逸話が誰の話か思い出せぬ
0320人間七七四年
2014/07/17(木) 22:23:42.80ID:7ORMQOgDこれだね
板倉重矩と板倉家伝来の弓・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2123.html
0321人間七七四年
2014/07/17(木) 23:46:38.62ID:p5iyhZHHサンクス!思い出せてすっとした
しかし加藤嘉明の小皿を割った家臣に対する話といいこういう話は胸がすくなあ
0322人間七七四年
2014/07/17(木) 23:48:52.07ID:x4tNtAoU■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています