戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
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姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2014/05/20(火) 14:36:12.56ID:VP8jXHda>>1のスレ立て御照覧あれ
0003人間七七四年
2014/05/21(水) 11:08:22.51ID:XYhB37jT『一、先ごろ申し遣わしたように、作事総奉行のこと、弥二郎には入念に申し付ける。
いつも言っているように、酒は控えるのだぞ?
(いつもの如く酒をひかえ可申候事)
一、久助の負傷は苦しかるまじき事であるから、なお以って養生するように。
大工屋に居たままでは心も塞いでしまうだろうから、弥治郎の所に行かせて養生させるのが良いだろう。
だからといって、疵が本復するまで、女を側によせてはならんぞ。
(乍去疵本復之間はをんなそばへよせ申間敷候)
一、板島の作事がおおかた終われば、條太郎、五郎を呼び寄せ、万事相談するように。
仔細は内膳の方に申し遣わしておく。
九月五日 御判 』
藤堂高虎の、人情味あふれる家臣への書状である。
0004人間七七四年
2014/05/21(水) 21:21:50.21ID:ZMJJzs1O0006人間七七四年
2014/05/22(木) 01:11:01.90ID:L1xgAw440007人間七七四年
2014/05/22(木) 01:16:05.95ID:vwqCaGxs自分は投下出来るほど知らないからありがたい。
0008人間七七四年
2014/05/22(木) 06:38:21.32ID:RWbobTCwある日、高虎は道の途中で無礼を働いた農民を斬ってしまい、それを見た付近の農民たちが群集して
彼を包囲した。流石の高虎も数百の農民を尽く斬ることも出来ず、その場を立ち退いて櫻井家へと
逃げ込んだ。すると群衆は後を追って櫻井家を取り囲み、形成頗る険悪となった。
しかし櫻井林佐はこの地域の名望家であったので、百方なだめすかして群衆を退散せしめ、
高虎の生命を救った。
それから、40年余りの歳月が流れた。
藤堂高虎は伊賀伊勢30万石の国持大名となり、櫻井林佐は、依然山科の土豪であった。
高虎はその旧誼を懐かしみ、「五百石で召し抱えるからこちらに参ってほしい」と伝えた。
しかしこれに、林佐は
「ご好意は、身に余って忝なく存じます。しかし、」と、これを断った。その上で
「ですが、そこまで思召していただけるのなら、今後、私の子孫が零落することが有れば、
その時にお救いして下されたい。」
そう答えた。高虎はこれを快く承知し、林佐の二人の子供、利右衛門、平右衛門の両名を津城も呼び寄せ
面謁し『申出次第、何時でも扶助すべき旨』の黒印書を渡した。
後代、文化年中、藤堂家より櫻井林佐の子孫に、年々白銀5枚づつ下賜すべき旨の辞令を発したことがある。
また文政年中には、櫻井家の親族である津の町の医師、渡辺某が、櫻井家相続を藩庁に出願して
許可された顛末が、町年寄の日記に詳しく記されている。
(伊藤又五郎役用日記)
0009人間七七四年
2014/05/22(木) 14:12:11.40ID:ss+K9WNr0010人間七七四年
2014/05/23(金) 02:34:43.13ID:UhcbaXh0を呼び出して言うには「合戦で勝利を得て、このように美女を集めて楽しい」
とのことだった。
その時、下総守は刀を抜いて女どもを激しく追い立てたので、秀吉は驚いて、
「何事を仕るのか」と言った。すると下総守は申し上げて、
「まったくもって、ひたすらふざけた事をしているわけではありません。
天下の大敵にさえお負けにならない御大将が、あれら如き女どもにお負けになって
天下の政をもお聞きなされず、そのうえ御病身にさえもなられてしまいましたので
以ての外なことであり、あの女の中にきっと一人か二人敵がいるはずです。
そう思いましたのでただいま切り殺そうと思い追いかけましたが、大勢の中なので
どれがそれとも知り難く思いました」と諫言した。秀吉もこの道理に伏して笑った
ということである。
――『明良洪範続編』
0011人間七七四年
2014/05/23(金) 20:06:29.37ID:bY0iimsqその吉川家では、元春が天正15年(1587)に死去し、元長もその翌年に卒した。
家老たちは、元春の次男である元氏を立てようと協議していたが、この時、黒田如水が考えたことには、
『元氏は病弱であり、現在の戦国の時代に家を継ぐべき器量ではない。元氏の弟である広家は、
その家督となるべき器量がある。これに家を継がせるのが然るべきである。』
そして広家の家臣、香川又左衛門と相談し、豊臣秀吉へと言上して、終に広家は吉川毛の家督を
継承した。このころ広家の年齢は二十歳より下であった。
このように、吉川家が黒田家の恩意を被ったのは、関ヶ原で東軍への内通の頼みとしただけでなく、
以上のような由緒もあったのである。
吉川広家は寛永2年(1625)9月21日に死去したが、この時以下のように遺言した。
『私は如水・長政と多年約束をし、一生の間、互いに裏切ったことはなかった。私の没後、
子孫に至るまで親懇の筋目を忘れないようにと思う。
紫野大徳寺龍光院は、如水・長政の菩提寺である。両公の塔の傍に、我が遺骨を葬り、
収めるように。』
そして遺言のとおりに葬られ、石塔を建て、金光院中厳如兼と称した。
それ以後、代々の吉川家は黒田家対し心の入った篤心であること、その先祖の言葉を虚しくしていない、
と言うべきであろう。
(黒田家譜)
黒田家譜より、黒田家と吉川毛の関係についての記述である。
0012人間七七四年
2014/05/23(金) 20:17:49.12ID:+AyOeJaT0013人間七七四年
2014/05/23(金) 23:41:32.17ID:6NDjPT4e0014人間七七四年
2014/05/24(土) 09:00:57.28ID:6rgeaHRD一、主殿の煩いも、とにかく灸をしなければ根切(完治)は出来ないものである。
油断なく灸をするように。灸をしても悪化するようなら、それはもう時節が来てしまったものだと
考えている。
一、仁右衛門なども、油断なく灸をして、養生しているということだ。
一、先にも書いたが、灸をしても症状が悪化するようなら、もはや是非無き状況だ。
気ままを申し灸をせず、不養生いたすような者は、誰によらず跡継ぎを立てるわけにはいかない。
これはこの通り伊賀伊勢の家中にも相触れておくように。
右のとおり、何れも申し触れておくように。国元では耕作、米の販売、火の用心に、油断の無いように。
なお、その他は勘解由が申し遣わす。
卯月八日 いつみ(和泉)
百々太郎兵衛殿
馬淵半左衛門殿 』
藤堂高虎による、お灸のすすめである。
0015人間七七四年
2014/05/24(土) 19:59:58.95ID:E2iMKSOOと書かれた場合にも同様のことが言い得る。(=ヨーロッパと同じに考えてはいけないという意味)
それは日本では非常に一般的なことであって、よほど話を割り引いて解してもらいたい。
というのは、その「烙鉄」とは、当地では乾いた(空白)を豆粒もしくは大型のざくろ粒くらいの小球にしたもので、
その上部に点火し、肉体の上に置き、すべて燃え尽くすまで火をつけたままにする。
それは非常に手軽なことで、同じ場所に十五か二十個置いておくと、その箇所の肉はすでに厳しく鍛えられているから、
それ以上置いてもほとんど疼痛を感じなくなる。
従ってそれらは私たちヨーロッパ人が言うような烙鉄の如きものではない。
私自身、その日本のを試みたことがあって、種々の疼痛や眼病のために三千個以上、背中や膝にその小球を置いたのであった。
ルイス・フロイスによるお灸の解説である。
0016人間七七四年
2014/05/24(土) 20:09:20.21ID:XQ2q3thvそれって血行よくしてるだけなんだが
0017人間七七四年
2014/05/24(土) 22:54:38.61ID:jcM12/GDそのため河野氏は久万山に築城し「大いに敵を払い除く」という願いを込めて大除城(おおよけじょう)と名付けた。
また、大除城を中心に30もの支城を築き、城主として重臣の大野直家を置き、守りを固めた。
この大野直家の孫にあたる大野直昌のころ、大除城は長曽我部の軍勢に城を囲まれ落城の危機に瀕した。
大野直昌は信仰する山神に加護を求め、小姓衆に山神(ダイバ)の面を付けさせ、太鼓や樽を打ち鳴らし山神に奉納した。
すると俄かに大雨となり、大野勢は大雨に乗じて打って出て長曽我部勢を破った。
これ以来、大野直昌は山神への信仰を厚くし、山神への感謝と共に、仮面をつけ太鼓を打ち鳴らし奉納したという。
この大野直昌の故事に着想を得て、昭和59年に創作したものが久万山五神太鼓らしいです。
0018人間七七四年
2014/05/24(土) 23:15:08.50ID:vaqFf0dC0019人間七七四年
2014/05/25(日) 15:47:30.82ID:wPkIi9ip武士にとってこれは忘れてはならないことであり、
冥加のためなのだという。
同人の言によると「日本は日本流が良い。遠い唐の書物に
とらわれて物知りぶるのは悪いことだ」という。
(同人云。日本は日本流よし。遠き唐の書になづみて。
物知りだてはあしし。)
施薬院の親類の柏原可休という者は掃部殿のところにいた。
この者の話によると「掃部殿の平生の物語は、武や義の他には
まったく余計な事柄が無かった」という。
――『武功雑記』
0020人間七七四年
2014/05/26(月) 14:24:05.42ID:AnjE5Rax朝比奈弥太郎は大力無双の豪傑で、甲山城を築城したと言われている。
永禄元年、三好義賢(實休)が香川之景を攻めた善通寺合戦に際し、弥太郎は甲山南麓で三好勢を迎え撃った。
弥太郎は勇戦し、190人もの敵を討ち取った後に力尽き討死したという。
弥太郎の最期の地のそばには池があり、朝比奈池、弥太郎池と呼ばれ、その水利で田畑を潤していたが、どういうわけか池に落ちて死んでしまうものが後を絶たなかった。
これは討死した弥太郎の祟りではなかろうかと、村人は池の中州に弥太郎の墓を築き供養した。すると池に落ちる者はいなくなったという。
昭和のころに池は埋め立てられ、野球のグラウンドになった。
今では同地に記念碑が残されている。
また、甲山には朝比奈弥太郎を祀る朝比奈神社がある。
古くから力をくれる神様として親しまれ、今では試験や選挙の前に力をもらいにくる者も多いとか。
徳川の家来の朝比奈弥太郎は同名異人です。念のため。
0021人間七七四年
2014/05/27(火) 00:09:47.71ID:UZJ9zVGjフォークボールがよく落ちるようになるという祟りが起こるかもしれない
0022人間七七四年
2014/05/27(火) 06:54:31.25ID:R4x/uPLU0023人間七七四年
2014/05/27(火) 09:38:30.58ID:RpaT+Y89慶長のころのお話。
土佐の藩主、山内一豊が室戸岬の沖を航海中に突然の時化に襲われた。
船体が悲鳴を上げ、このままでは沈没してしまうと思われた・・・
まさにその時、何処からともなく一人の僧が現れ、巧みに船の舵を取り、船は無事に港へと辿り着くことができた。
一豊が礼を言おうと僧を探したが、すでに僧の姿はどこにもなかった。
近くの寺の僧であろうかと、一豊が探させると、なんと津照寺の御本尊が潮水で濡れているのが見つかった。
この寺の御本尊は地蔵菩薩であり、弘法大師が安置したと言われ、以来「舵取り地蔵」と呼ばれるようになった。
またこの地蔵菩薩は僧に身を変えて火事を村人に知らせ、火難を逃れたという物語もあり、今でも「水難、火難よけ」の仏さまとして親しまれている。
0024人間七七四年
2014/05/27(火) 11:18:33.07ID:fLUiDFvx0025人間七七四年
2014/05/28(水) 08:25:39.01ID:P9sCyWO2馬より速い、頬切孫右衛門
弓の名手、森久右衛門
190人殺し、朝比奈弥太郎
キャラも立ってるし、そこらへんの戦隊ヒーローより強そうだ。
0026人間七七四年
2014/05/28(水) 19:17:23.49ID:HRPgd+YQ「大将たる人には、威というものがなくては万人の押えにならぬものである。
しかしながら、これを悪しく心得て、わざと我が身に威をこしらえて付けようとするのは、
かえって大いなる害となるものだ。
何故かといえば、ただ諸人に恐れられるように身をつくろうのを威であると心得、家老に会っても
威高ぶり、何事もないのに目を怒らせ、言葉を荒くし、人の諌めを聞かず、自分に非がある場合でも
かさにかかって言い紛らわし、我意ばかりを押し通そうとする。
そんなふうだから家老も諌めを言うことをせず、自ずから身を引くようになっていくものである。
家老さえかくの如く成れば、ましてや諸氏末々にいたるまで、ただ怯え恐れているだけで、忠義の思いを
なす者は居なくなり、我が身を守ろうと汲々とするだけになって、奉公を心から務める事もなくなる。
このように高慢で、人を蔑ろにする故に、臣下万民はこれを疎み、それによって必ず家を失い、
必ず滅ぶのである。
だからこそ、よくよく心得ておくべきである。真の威というものは、先ずおのれ自身の行儀正しく、
理非賞罰が明らかであれば、強く人を叱り脅すことはなくても、臣下万民敬い恐れ、上を侮り
法をかろしむ者もいなくなり、自ずから威が備わるものなのである。」
(黒田家譜)
黒田如水による「大将の威」についての説明である。
0027人間七七四年
2014/05/28(水) 22:51:26.48ID:D0m0cEfyこれは現代に通ずる物があるよね
あと春秋戦国時代の孟子だかが言った「彼らは人の目を気にしてばかりの臆病者」みたいな表現を補足すると納得できる
他人から見下されたく無いから威を取り繕ってる時点で心の弱さが露呈する
0028人間七七四年
2014/05/29(木) 08:11:51.62ID:K1Dn54YV最上義光は幼少の頃から身体が人一倍大きかった。
ある日蔵王へ出かけたときの事、家来たちが神社の傍らで大きな石を見つけた。
家来1「おまえあの石が持てるか?」
家来2「わかんねえけど試してみんべ」
石は揺るぎはすれども誰一人担ぎ上げる事が出来なかった。
少年義光「試しにやらせてみて」
家来「若殿無理ですって。大の大人の私らだって持てないんですから」
義光「えい」
ひょい
家来「!」
だれも持ち上げられなかったこの大石を義光は軽々と持ち上げた
「羽源記」
この石は「義光公の力石(安山岩・約190キログラム)」と呼ばれ、今でも蔵王に伝わっている
義光「大人ってたいした事ないのかな?」
山形城に戻った義光は「俺より強い奴に遭いに行く」と書き置きを残し武者修行の旅に出かけたが
最初に立ち寄った国に毘沙門天の生まれ変わりと呼ばれる軍神様がいて
義光の短い旅は彼の帰国により早々に終わった
書き置きに気付いた家来たちによって連れ戻されたといった話もある
「山形の昔話」
0029人間七七四年
2014/05/29(木) 09:29:03.09ID:kydUYaKA0030人間七七四年
2014/05/29(木) 19:09:26.92ID:w8YPQq8w0031人間七七四年
2014/05/30(金) 00:46:44.87ID:LllYD7p80032人間七七四年
2014/05/30(金) 03:33:59.36ID:nOyEJ+RM関ヶ原も終わり徳川政権が確立した頃、江戸では鍋島家・桜田屋敷と、伊達家の屋敷が隣りだった。
佐賀から倉町宗伯という者、江戸へ医術修行に登っていたが、伊達政宗公と懇意になり、度々伊達屋敷を訪れていた。
ある時、伊達家へ、立花宗茂公がお出でになった。
話の始めに伊達政宗公が問われたのは、『関ヶ原後、立花殿と鍋島殿と合戦をしたというのは、我が屋敷の隣の鍋島殿であるか。』
立花宗茂公答えて曰く『いかにも。左様にございます。』
伊達政宗『その時は、勝利とはならなかったようだが、どの様な事だったのか。』
立花宗茂公答えて曰く『鍋島は、卑怯ものでござった。その為、あの一戦(江上八院の戦い)は我等勝利を得られぬ結果となりました』
伊達政宗公『時に、宗伯よ。立花殿の話は、その通りであるか?』
たまたまこの様な場に居合わせてしまった倉町宗伯、答えて曰く
倉町『いや、左様にてはあらず。かねて立花様と、あるじ鍋島家はご昵懇であった為、前もって使者を立て申した。
今度思いがけなく討伐の命を受けた為、近日中に柳川を攻める事になる。武具その他籠城の御用意をなされよ、
よく準備が整ったと知らせを貰えれば軍勢を差し向ける、かねてご懇意の間柄、事前に申し通しておきまする、と直茂公の意思を申し上げた所、
立花様はご返答に(用意と言っても特に無い。いつでも攻めて来られるがよかろう。)とあられた。双方合戦の日時を決めて一戦をしたのでござる。
この時の鍋島家の使者は、それがしが親族、倉町出雲(備前左衛門信秀)でござる。ただ今の立花様が仰せのお話は、納得できかねまする。』
倉町は、苦々しい気持ちで申し上げた。
すると立花宗茂公は大変、御不快な様子になられた。
後日、伊達政宗公が鍋島勝茂公と面談した時、政宗公が「先だってこういう事があってな」と、この時の話をした。
勝茂公は大変お喜びになられ、倉町宗伯へ50石の御扶持を与えられたそうだ。
(焼残反故:勝茂公譜考補二より)
もめごとがあった話だけど、オチが倉町の忠義を褒める話なのでいい話スレに
0033人間七七四年
2014/05/30(金) 07:51:56.94ID:HYw8PQtpどっちかというと悪い話っぽい
というか形式的な質問なのか知らないけど、
伊達政宗「その鍋島とは隣家の鍋島か?」
というのに驚いた。当時はまだ情報社会じゃないからそんな事も認知してなかったのか。
いかに北と南とは言え。
0034人間七七四年
2014/05/30(金) 08:00:57.94ID:86xlVFgA両家の返答はどちらも正しいでしょ
0035人間七七四年
2014/05/30(金) 10:23:42.23ID:hDYmQrCK主家の名誉のために意見をはっきり伝えて反論した忠義あふれる良い話だと思った
0036人間七七四年
2014/05/30(金) 11:11:01.17ID:PbtyJr34そういうの気にしないでズカズカ聞こうとする所が実に政宗
0037人間七七四年
2014/05/30(金) 11:25:28.65ID:DAxvciZu0038人間七七四年
2014/05/30(金) 11:41:32.86ID:nOyEJ+RMそれはさすがにうがち過ぎじゃあないかなあ
伊達が鍋島家を知らんってこともないだろう
肥前名護屋に赴いたこともあるわけだし、成富兵庫と陣張りでごちゃごちゃした話もあったし
ただ「あーお隣さんの鍋島さんね!」ぐらいの感覚じゃね
0040人間七七四年
2014/05/30(金) 19:44:46.75ID:QA3YBDljだったから、表立って宗茂が戦いに出るのはまずいって小野和泉が代わりに
戦ったんだよなあ
0041人間七七四年
2014/05/30(金) 19:53:42.42ID:86xlVFgA鍋島と立花は揉めたらダメ
なぜなら九州は修羅の国だから(笑)
0042人間七七四年
2014/05/31(土) 14:19:48.91ID:CcsG86Lwその後、二千石になって部将となる。
さらにその後、覚兵衛は清正の命に背くことがあって浪人し、
伏見に退居して草鞋や馬踏などを作って生計とした。
福島正則は以前から覚兵衛の武勇を知っていたので四千石で彼を
招くも、覚兵衛は正則に仕えなかった。その後、たびたび正則方から
使いが来た時、覚兵衛は答えて、
「それがしは清正の不興を蒙り、このように浪士の身となりましたが
二君に仕える心はありません。今にも清正が出陣するような時には
一番に馳せて付き従い、清正の馬前で討死いたす覚悟です」
と、言った。正則はこれを聞いて深く心を動かされ、さっそく清正に
その事を語ったので、清正はやがて覚兵衛を呼び戻して元の通りに
二千石を与えた。覚兵衛はその後、たびたびの武功によって六千石
にまでなった。
――『明良洪範続編』
0043人間七七四年
2014/05/31(土) 15:22:46.54ID:mCFaeIof0044人間七七四年
2014/05/31(土) 21:11:36.50ID:8zryTt9M「江戸において観世太夫に謡を習ってきた。観世太夫は、私の謡がとても良いと殊更褒めてくれた。
そこで、お前たちに歌って聞かせたいと思う。」
と、柏崎の一節を歌った。家老やその他の士はこれを聞くと皆、音曲の面白きことを褒め称えた。
ところが、毛利但馬だけは少しも褒めず、どころか頻りと落涙していた。長政はこれを怪しんで、
「但馬はどうして泣いているのか」
と聞いた。但馬はこれに
「鉢を開く(托鉢をすること。転じて乞食をすること)事になる悲しさに、泣いているのです。」
と答えた。
長政は「それはどういうことか?」と尋ねると、
「私が泣いたのは、殿の謡に感動したわけでは断じてありません!
よくよく聞いてみてください。殿の謡は節、拍子も間違っており、さらに面白くもなんともありません!
(我等泣申候事、更に御うたひを感じ申にては御座なく候。
能々御聞候へ。殿の御うたひ、節、拍子もちがいたる様にて、更に面白くも御座なく候。)
観世太夫が褒めたというのは、殿は大名でありますから、御意に入ろうとするためか、又は当座の挨拶として
褒めたのです。
それをまことの事だと思うべきではありません!
それなのにこの御列座の者共は、当家にては歴々の臣下であり、善悪共に正直に物を言い、殿を諌めるべき
者共であるのに、今、天下が無事となり面々の身の上も良くなって、保身ばかり考え、武勇も忠節も
忘れへつらいばかりを申している!
このように君は昏く臣下のへつらいを好み、臣下は君にへつらって忠を忘れ、腰が抜け、御用に立たなくなって
しまった以上、御家は滅亡し、私も浪人となり鉢を開いて生きていくことに成るでしょう。
その悲しさに泣いたのです!」
長政はこれを着いてたちまち興の冷めた顔となり、奥に行ってしまった。
列座の家老たちは「但馬は軽はずみなことを言ってしまった。」と、彼を叱りつけた。
しばらくして長政が、奥より脇差しを一腰持って出てきた。これを見た一同は
『長政様は怒って但馬を斬るために脇差しを持ちだしたのだ!』
と恐怖した。
ところが、長政は但馬の傍に座ると、感涙を流し
「汝が只今の諫言、私のためにおいて甚だ忠節であると思った。父・如水公が蘇って仰られたとしても、
これ以上の諫言はなかったであろう。感悦の至である。それにより、この脇差しを褒美として与える。」
と言ったのである。
(黒田家譜)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2037.html
こちらで既出ですが、出典などが無かったので、詳しいバージョンということで。
0045人間七七四年
2014/05/31(土) 22:06:57.86ID:rBlRcv3Cこれ言い方がきっついけど長政とお家を心配してるから許されてるんだろうなw
0046人間七七四年
2014/05/31(土) 22:15:06.03ID:o8pEomZt0047人間七七四年
2014/05/31(土) 23:14:47.69ID:7dCdP+Rz0048人間七七四年
2014/05/31(土) 23:23:11.73ID:/QKZq8XW0049人間七七四年
2014/06/01(日) 00:35:16.98ID:iyZcRjC20050人間七七四年
2014/06/01(日) 01:04:11.80ID:v8C0BWn+0051人間七七四年
2014/06/01(日) 01:28:50.48ID:mrXMJj300052人間七七四年
2014/06/01(日) 01:33:08.36ID:X5B7lJCD0053人間七七四年
2014/06/01(日) 01:42:04.87ID:lIJDTgVk「長政とは違って下手じゃないので」
0054人間七七四年
2014/06/01(日) 02:15:07.31ID:VS/050wnよく官兵衛の野望を見抜けず阻んだって言われてるけど、
関ヶ原の時点で親の庇護を脱して自分の足で生きてくって決意してたから自分で手柄立てて最善を尽くしたんじゃないのか
0055人間七七四年
2014/06/01(日) 05:20:07.72ID:ep0TcIJC0056人間七七四年
2014/06/01(日) 11:43:16.22ID:0qWw9ecGだいたい!、官兵衛が狙い通り天下奪取に成功しても、そのあと秀吉や家康以上に「うまくやれる」とは思えないよ。
0057人間七七四年
2014/06/01(日) 11:45:15.94ID:+UuoJmDB0059人間七七四年
2014/06/01(日) 13:45:12.03ID:dqbyhizp「兵法などは習っても無益だぞ。
戦場では、目を瞑ってでも、一足でも、敵方へ踏み込んで討つようでないと、役には立たない」
と言っていた。
弥永佐助も似たようなことを言っていた 【葉隠】
0060人間七七四年
2014/06/01(日) 17:47:27.52ID:qH+TuziZ0061人間七七四年
2014/06/01(日) 20:43:32.56ID:6mUbps39読んでみるとなかなか面白いぞ
0063人間七七四年
2014/06/02(月) 00:21:02.60ID:puKI2+3V0064人間七七四年
2014/06/02(月) 00:27:39.64ID:VCD0XFdH0065人間七七四年
2014/06/02(月) 01:01:37.16ID:qvJCAb4L葉隠には降伏後の開城和睦破りの方法が書いてあるし、
新城主が入ってから旧主を国に戻す方法までもが書いてあるw
戦術と戦略は語ってるんだよね
和睦破りの方法とか書いてるから焼いて欲しかったんだろうな
0066人間七七四年
2014/06/02(月) 01:09:15.67ID:5iWkicFr0067人間七七四年
2014/06/02(月) 02:46:35.31ID:puKI2+3Vメルカトル図法でも北のヨーロッパの方が小さいんだから、現実では中国>>>ヨーロッパだよ。
というか日本でさえイギリスの二倍くらいの面積あるんだから。
0068人間七七四年
2014/06/02(月) 09:01:40.62ID:I1vq6IaVでも始皇帝の前に商鞅が居なかったらもっと統一は遅れてるような気もするが
0069人間七七四年
2014/06/02(月) 09:42:39.86ID:gxXuGcsJ0070人間七七四年
2014/06/02(月) 21:10:37.77ID:TMq+qp0i片倉小十郎景綱が幼女をたすけた話(政宗はでてきません)
「高玉合戦の際、いよいよ落城というときになって高玉太郎左衛門は妻子を殺そうとした。
しかし乳母が必死にいうので、生まれ年三歳の女児を抱いて脱出させた。
すぐに略奪にあい、乳母は切られたが、女児を下に敷き、ふせて倒れた。
夜になって軍がひきあげたところ、傷が浅かったので乳母はおきあがり、高倉近江の処へ駆け込み、
助けを求めた。
近江はかくまって何か問題があると困ると思い、片倉小十郎景綱に詳細を告げた。
小十郎は「一度切られた者であるから、助けましょう。
もし政宗から尋ねられたら、御前でのことは私がどうにかしましょう」と言った。
助けられた女児は成長後蒲生源左衛門家中の妻となったと聞いた。」
by 伊達成実『成実記』他
後世に書かれた『治家記録』では、近江が男児を女児であると誤魔化したとあり、
成長後新左衛門と名乗った男児だったと記されている。
どっちかわからん。
0071人間七七四年
2014/06/02(月) 22:35:45.49ID:7QTempDG「森蘭丸の兄で信長からは多少の罪があっても許される程愛され秀吉や家康をも恐れさせ、
近年の戦国ファンからは伊達政宗や細川忠興と同じくらいの評価を受けてる武将」
って言えばOKですかね?
0072人間七七四年
2014/06/02(月) 22:54:46.88ID:iREklhN7チェリーピッキングとは、以前ソメイヨシノの韓国起源説の事を書いたときにも少し取り上げましたが、複数の情報元の中から自身に都合のいいもののみを取り上げ或いは更にそこから部分的に改変し、内容を再構築して本来の意味とは全く別の内容にしてしまう詭弁です。
語源はさくらんぼの熟した部分のみをより分ける、或いは抓み食いする行為から。
0073人間七七四年
2014/06/02(月) 23:12:39.54ID:qvJCAb4L0076人間七七四年
2014/06/03(火) 00:32:23.45ID:Bg+hURHI0077人間七七四年
2014/06/03(火) 09:21:58.39ID:VVbkRbHlというか椿は春にさきがけて咲く花だから武士のイメージもっとあってもよさげ
椿は花が丸ごと散るから首が落ちることを連想して戦場では避けられたって俗説があるけど、
Wikipediaによると根拠のない俗説で椿自体は職分にかかわらず人気は高かったみたい
0078人間七七四年
2014/06/03(火) 09:58:20.47ID:upVIkkCR0080人間七七四年
2014/06/03(火) 21:14:22.74ID:HqctO1nh0081人間七七四年
2014/06/04(水) 00:15:10.68ID:kjB8zATs0082人間七七四年
2014/06/04(水) 19:54:47.23ID:8o5FeML3秩父の小鹿野町に、権現堂原と呼ばれる丘がある。
元はここに東国寺という、大きな修験道場があったと言われているが、
永禄12年、甲斐の武田軍が秩父に侵入し、寺社に対して焼き打ちを行った際に、
東国寺も戦火に遭い、幻の寺となってしまった。
村人たちは、燃え上がる東国寺をただ唖然と見つめているしかなかった。
その焼き打ちの際、武田軍の「風林火山」の旗にも火が燃え移りそうになったので、
近くの池に旗を浸してはまた旗を押し立てていたという。
寺を焼いて勢いづいた武田軍であったが、寺の焼け跡に立ち尽くす村人たちを見ると、
流石に気がとがめた。
そこで武田軍は、
「武田の天下になった時には、必ず立派な寺を立ててやろう。その証だ。」
と言って幟旗を池のほとりに埋めて立ち去ったという。この旗を埋めた塚は「旗塚」と呼ばれるようになった。
その当時、秩父を治めていた鉢形城主・北条氏邦は信仰心に厚く、寺社の修理や再建を行っていた。
この氏邦には東国丸という名の息子がいたが、惜しくも早死してしまった。
息子を失って嘆き悲しんでいた氏邦は、同じ名前を持つ東国寺が焼き払われたと聞き、
今の寄居町(鉢形城下)へ再建し、下吉田赤柴の金剛院4世・酒雲全伯和尚を招いて、東国丸の冥福を祈ったという。
「秩父の伝説」
0083人間七七四年
2014/06/05(木) 07:06:50.75ID:dNlZtKzI0084人間七七四年
2014/06/05(木) 10:12:45.86ID:hAmTCFwShttp://i.imgur.com/ptVOEXx.jpg
http://i.imgur.com/g0ds8UT.jpg
http://i.imgur.com/a5GMGhc.jpg
0085人間七七四年
2014/06/05(木) 16:25:19.08ID:8lLDvrMJ北条地黄八幡の旗を見れば上杉軍も身構えるだろ
0086人間七七四年
2014/06/06(金) 05:23:21.59ID:WQc45Zw+数人見舞いとして訪問し、そのまま晩の料理が出た。
この前にある方より川鱸が贈られていたので、長政はこれを見て、「見事な魚を贈ってくれた」と、
料理人を召し、「この魚を今晩の料理にして客人たちを饗し、その余りはよくよく塩に浸け置いて、
船中で用いる料理にせよ」と仰せ付けた。
座中の人々はこれを聞くと、「大名に似合わぬ、吝嗇なことを仰せに成るものだ」と思った、
さて、晩食も過ぎて長政は一人、奥の間に入っていた所、御代官衆の一人が参り、密かに申し上げた
「私は先年、御代官所の勘定が不足し、もはや身上滅亡しか無い、という時に、貴方様から
金子をお貸しいただけたたため、勘定滞り無く相整い、身上も安堵いたしました。誠に
ご厚恩であると考えています。しかしその後とやかくとしてしまい、金子の返納も今まで
引き延べにしてしまいましたが、ただ今ここに、ご持参いたしました。」
そうして懐中より金子を取り出し、長政の前に差し置いた。長政はこの話を聞いて
「さてさて、貴殿は愚かなる人ですな。この長政の身上で、その程度の金子を取ったからといって
どれほどの役に立つでしょうか?しかし貴殿の身上では、この程度であっても、ひとかどの助けに
なるでしょう。
あなたは久しき友人であるのだから、身上が難儀に及ぶのを気の毒に思い、先の金子によって
勘定の不足を償っていただいたのです。ですから元より、返納していただくなど考えもしませんでした。
ですが、初めから差し上げると言ったならば、あなたも受け取りにくいと思い、あえて借用として
受け取っていただいたのです。ですのでこれは、早々にお持ち帰られよ。」
この言葉に代官は涙を流しその深志を忝なく思った。
長政がその後次の間に出た所、そこに居た人々は障子越しに、先の代官との事をほのかに聞いていて、
このように言った
「先程、鱸の余りを塩に着けおけと仰られた時は、あまりに吝嗇なことだと思いました。
ところがただいま、大分の金子をお受け取りにならなかった事、これらは大いに違っていますね」
長政これに
「それはあなた方の心得違いです。この長政の台所にも魚はいくらでもあり、少しも事欠くわけではありません。
先ほどの鱸は人の志にて贈られたものです。それ故今日のもてなしに用いたその余りを、塩に着け
船中に持って行かせ、何度も少しずつ料理に用いれば、それを食すたびに贈ってくれた人の志を
思い出して、少しの恩恵であっても忘れないためなのです。決して魚を惜しんでそうしたのではありません。
また、某の持参した金子を受容しなかったのは、先年、彼の生涯の一大事を救うために遣わした金子ですから、
その時から返納を望む気はありませんでした。私が平生倹約を専らにするのも、ああいう人の難儀を
救うためでもありますから、たとえ大文の金銀であっても、分に叶う限りは惜しむべきではありません。
その上、彼は一旦先の金子によって勘定の不足を補填しましたが、きっと自分の財貨もその勘定のために
用い尽くしたはずですから、それ以後自身は困窮していると推察します。そんな所に、今身上に過分なる
金子を返納のためといって出してしまっては、いよいよ困窮の度が増してしまいます。
そうなっては先に金子を貸した心入も無益なことになります。だからこそ、あの金子を受け取らなかったのです。
総じて倹約というものは、少しの費えもいとい、用に立つものは高額になっても惜しまず用いる事こそ、
道理に叶うのです。あなた方も、そのように心得られるべきです。」
これに満座の人々、さても名将のお心持ちは格別のことだと、各々感服したそうである。
(黒田家譜)
0087人間七七四年
2014/06/06(金) 06:16:45.13ID:HiHhG8ed0088人間七七四年
2014/06/06(金) 09:23:10.51ID:dGCBqO3V如水と日根野さんの逸話そっくりだなほんと
0089人間七七四年
2014/06/06(金) 12:21:12.29ID:luexEAcD0090人間七七四年
2014/06/06(金) 12:45:03.52ID:mJMqus830091人間七七四年
2014/06/06(金) 15:06:03.14ID:/uQ6tiSR0092人間七七四年
2014/06/06(金) 16:01:40.73ID:01lZ0Ze50093人間七七四年
2014/06/06(金) 19:32:17.31ID:9fNhDHhT0094人間七七四年
2014/06/08(日) 19:10:40.55ID:z+Y76WGw両刀を帯び、正座して思念を凝らしていた。
「帯を解いてくつろいで、平臥などしていては、思慮が放漫に流れて、
重大事案の勘考は成るものではない。」
そのように人に語っていたそうである。
(西島八兵衛留書)
0095人間七七四年
2014/06/08(日) 23:19:34.27ID:+gRhQzS30096人間七七四年
2014/06/09(月) 12:52:17.63ID:U5Pf77D7若いときの無茶飲みとかね
0097人間七七四年
2014/06/09(月) 23:43:51.66ID:A9aeiAEM0098人間七七四年
2014/06/10(火) 00:08:34.42ID:Xe1ie4AI0099人間七七四年
2014/06/10(火) 00:17:33.25ID:2n7CF6eh武田は家康にババ漏らさせたから神格化されてもいいけど、長宗我部も残って無かったよね
0101人間七七四年
2014/06/10(火) 01:36:02.13ID:cE66Xx8D元々の一門・譜代は毛利家に引き上げているから、隆景のいい話が伝わっているのかなぁ。
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