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戦国ちょっといい話40

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0001人間七七四年2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0175人間七七四年2014/06/21(土) 17:15:22.01ID:vfRkyEkP
青木一重が18歳の時のお話。

ある戦に敗れた時
一重「(。+・`ω・´)キリッ みんな、槍はかつげ。所を見て返すべきだ。かついでたら返しやすいだろ?」
と下知した。皆、もっともだとこれに同じた。
場所を見合わせて反撃に出ると、ついに勝つことができたという。

備前老人物語
0176人間七七四年2014/06/21(土) 18:24:36.17ID:zlgHiM+q
伊達政宗が十六歳の時、彼が鷹狩に出た後に同国にいる二本松右京進が
伊達家にやって来て政宗の父輝宗を偽って生け捕った。右京進は大力なので
輝宗を馬上に抱えて連れて行った。これは人質に取ろうということである。

政宗は途中でその事を聞いて俄かに追いかけ、「父を奪われてはならない。
もし取り返すことができないならば、共に右京進を討ち取れ!」と一目散に
追って行き、

右京進が川を越そうとするところで近付き、矢で右京進を射落として輝宗を
無事に取り返し、この勢いに乗じて二本松を討ち平らげ、それから会津白川
をも討ち従えて武名を国中に轟かせた。

(右京進川を越さんとする所にて近付き矢にて右京進を射落し父輝宗を無事に
取り返し此勢ひに乗じて二本松を討平らげ夫より会津白川をも討随へ武名を
国中へ轟しける)

――『明良洪範続編』
0177人間七七四年2014/06/21(土) 18:38:13.84ID:y2MNVRIX
遺体を無事に取り返したんでしょ
0178人間七七四年2014/06/21(土) 19:34:17.13ID:APS/pAPs
>>168
直系が途絶えてないのに何で傍系に嫡流が移行したんだろうね
先祖が西軍総大将だったから幕府に遠慮したのか、それとも代々馬鹿ばかりだったのか...
0179人間七七四年2014/06/21(土) 19:59:58.84ID:aKgF5TPY
>>174
お前へのレスじゃないよ自意識過剰君
0180人間七七四年2014/06/21(土) 23:59:32.71ID:wql65kj4
>>178
他家に養子に行ってたから
0181人間七七四年2014/06/22(日) 11:50:09.60ID:ETnj9PZ6
鍋島清久さまは本庄村にお住まいになられていた。
村の祭の季節が来ると、清久さま御夫婦は毎夜、家を脱け出し一晩中、堀の水面を棹でお叩きになった。
それは、人々が祭のためにと、堀を干し上げて鮒を根こそぎ捕るので、
少しでも魚たちが逃げてくれるようにとのお考えからそのようになされていたのである。
これはほんの一例で、御慈悲深い御善行は数えきれないほどであった。
清久さまは彦山権現を御信仰なされ、大晦日には御参詣して一夜を神前におこもりされるのが常であった。
ある年のこと、いつものように神社へお登りされる途中、大雪が降り、崖から落ちてしまわれた。
道を探して谷間を歩いておられると、そこに阿弥陀三尊の仏像を見つけた。
清久さまは持ち帰られ徳善に彦山権現を勧請するときにその御本尊となされた。
彦山権現の御本地は、阿弥陀様の三尊だということであるが、誠に不思議な出来事だ。
その御利益で、清久さまのお家はたいそうに御繁盛なさったように思う。
古老から聞いた話だ 【葉隠】
0182人間七七四年2014/06/22(日) 12:05:36.34ID:ETnj9PZ6
鍋島清久は鍋島直茂の祖父で、清久の代から龍造寺家に仕え始めました。
戦場では赤熊の面をつけ戦う剛の者であったとのこと
0183人間七七四年2014/06/22(日) 13:11:14.41ID:cF8mPCGL
>>181
農民「鮒が居ねえ」
農民「せっかくの祭りだってのに…」
01841/52014/06/22(日) 23:46:15.62ID:tk9XLXfB
天正18年(1590)、6月23日のことである。
北条氏照の居城であった武蔵八王子城は、城主不在の所を豊臣方の大軍に攻撃され、
今まさに落城せんとしていた。
中山家範や狩野一庵ら、城方の武将が次々と自害・討死していく中、城の裏手から一人、西方へと脱出していく武将がいた。
その人こそ、八王子城の城代で本丸の守将である横地監物景信(吉信)であった。
城を枕に討死するわけでもなく、また開城降伏するわけでもないこの行動を、景信がなぜ取ったかは不明であり、
一説には北条家再興の為に再起を図ったものとも、ただ己が命を惜しんだものとも言われているが、
景信の目的やその後の行方については後の世の人々から様々に憶測され、多くの伝説を生むことになった。
その中からいくつかの伝説を紹介してみよう。


無念の景信

落城の際、横地景信はわずか五人の家臣を連れ、大天守の裏山から落ち延びていった。
しかし、豊臣方は既に要所要所に陣を構え、厳しく落ち武者を取り締まろうと待ち構えていた。
そこで景信は、五人の家臣をそれぞれ影武者に仕立て、五方向へ道を分けて落ちのびさせた。
彼ら影武者五人のうち、四人の行方は伝わっていないが、その中で一人の行方だけは言い伝えが残されている。

落城の後、城の北にある五日市村の北寒寺という所で、景信の影武者一人が豊臣方に捕えられた。
豊臣方の武将はその影武者を引き出させ、本物の景信かどうか検分しようとしたが、
引っ立てられてきたのは、もはや年の頃七十歳程かと思われる老武者であった。

「なんじゃ、よぼよぼではないか。」

と、呆れ顔で武将がこぼすと、件の老武者は鋭い目をかっと開き、

「わしは、横地監物景信なり!」

と凛として名乗った。
この老武者の堂々とした態度を見て、武将も態度を変え、改まった態度で話しかけた。

「聞くところによれば、横地監物景信殿は、五十の賀を迎えられたが、なお勇壮であるとか。
ところが貴殿を見る限り、それより二十歳は老いておる。これぞ影武者に違いあるまい。」

しかし老武者は、

「いや、わしこそ横地監物景信なり!」

と、頑として言い張る。
これに武将が「この偽者め! ならば、本人である証を立ててみよ!」と叫ぶと、

老武者は歯を食いしばったのち、言った。

「こたびの敗北、まことに無念…。この思い、わし本人の他には、誰も計り知れまい。
その無念により、二十歳も老衰せり…。これぞ、景信である証拠なり。」

武将はこの言い分を聞くと、成程と大きくうなずき、
「ならば、貴殿を景信として処断する。」と言い渡した。
首を打たれる際、かの老武者の表情は、いかにも満足といった様子であった。

その間に、真の景信は小河内村の方へ落ち延びて行ったという。
01852/52014/06/22(日) 23:50:34.94ID:tk9XLXfB
埋蔵金と謎解き歌の謎

八王子城が落城する時、大蔵奉行の職にあった横地監物景信は、北条家の再興を図って莫大な財宝を城から持ち出し、
いずこかの場所にそれを埋蔵したという。
秘密が露見することを恐れた景信は、腹心の家来五人にそれぞれ横地監物を名乗らせ、そのうち一人にだけ本物の財宝を託し、
他の四人には偽の財宝を持たせ、それぞれに兵を付けて城から脱出させた。
その本物の財宝を託された者は、篠村帯刀という者であったと言われ、無事にある場所に財宝を隠したと言われているが、
実際には、篠村帯刀は北条氏照に従って小田原で討死したとされており、名前が伝わっていたこと自体、
秘密を守るために流した偽情報であったともされる。

そのため正確な財宝の隠し場所は謎なのだが、その場所を教えるという謎解き歌というものが残されている。

「朝日さす 夕日輝く 由比の峰 漆千杯 朱千樽」

というもので、朝夕の陽が良く差し込む場所、八王子城の北東にある由比原の丘に、漆の杯にして千杯、朱の樽で千樽もある、
莫大な財宝が眠っているという意味である。
後に、この歌の事を聞きつけた人々が盛んにその辺りを探しまわり、ある江戸のお大尽などは、
金に糸目をつけず散々に丘の辺りを掘りまくったという。

ところが、そうこうするうちにその謎解き歌は偽りだと主張する者が現れた。
横地氏の末裔だと名乗る者で、その者が言う所によれば、正しい本物の謎解き歌は次のようなものだという。

「漆千杯 朱千杯 黄金千杯 朝日さす 夕日輝く 楠の下」

このことが知れ渡ると、財宝を求める人々により、今度は北条家の旧領にある目立つ楠の木が掘り返され、
めぼしい楠の古木がなくなると、しまいには鎮守の森にある楠の神木までが狙われた。
そうするうちに、また新たな謎解き歌が見つかったといっては、八王子の甲の原・兜松・九十九塚などが掘り返されたが、
結局誰一人として財宝にたどりつけぬまま、今もどこかに本物の財宝は眠ったままだという・・・。
01863/52014/06/22(日) 23:57:02.97ID:tk9XLXfB
景信山由来

高尾山の西方、小仏峠を経た峰続きの山中に、景信山という名前の山がある。
天正18年、八王子城がいよいよ落城寸前となったとき、横地景信は愛馬に鞭打ち西に向かって逃げた。
やがて恩方の里に入り、山道へとかかったが、既に馬も疲れており、山道の端から藤蔓が伸び出ているのに、
馬も人も気付けなかった。
景信の馬は、その藤蔓に足を取られてあっという間に横倒しとなり、更に悪い事にはそこは高い崖の上だったので、
景信は愛馬もろとも谷底の淵へとまっさかさまに転げ落ち、無残な最期を遂げてしまった。
淵にはまった景信は、息絶える前、駈けつけた村人にこう言い残した。

「拙者は、まだ永らえねばならぬ命を、藤蔓の為に失うことになった。憎いのはあの藤蔓じゃ。
我が魂魄はこの世に残り、今後この辺りの山には、藤は一本たりとも生えさせぬぞ!」

その後、この山には藤は一本も生えなくなったといい、景信が落ちた淵を「景信ヶ淵」、山の名を「景信山」と呼ぶようになった。
景信ヶ淵にはヤマメがたくさん住んでいるが、不思議な事には、この淵に住むヤマメはどれをとっても目が一つしかない、
片目の魚ばかりだという。景信は淵に落ちる前、既に敵の矢で片目を失っており、それがヤマメに乗り移ったのだという。
またあるとき、この淵の因縁を知らない太公望がここでヤマメ釣りをしていると、どこからか一匹の大きな蜘蛛が現れ、
その人の足を糸でぐるぐる巻きにしてしまった。その人は、逃げることもできず、終いには淵の中に落ち込んで死んでしまったという。


また山名の由来には別説もあり、甲州方面に備える狼煙台として、景信が守備していたことから来ているともいう。
01874/52014/06/23(月) 00:02:13.37ID:2C/a4wTB
横地社

奥多摩にある栃窪という村に、田草川新左衛門という者が住んでいた。
元は甲斐武田家に仕えていたが、武田家滅亡後に北条家に仕え、天正18年の八王子籠城の際もこれに加わっていたが、
落城の際に城を落ち、自分の在所に帰ろうと檜原村から小河内へ山を越えようとした。

ところが新左衛門はそこで偶然、これも城を落ちのびて来た、八王子城本丸の守将・横地景信に出会った。
景信は、乱軍の中を切り抜けて来る途中で数か所の痛手を負い、いよいよ所存を決めて自害せんとしていたが、
幸いそこに新左衛門が通りがかったので、自分の最後の始末を頼んだ。

この頼みを引き受けた新左衛門は、景信自害の後、その骸を埋葬してそこに小さな社を営み、景信の短刀をその神体とした。
この社を立てた地は、新左衛門の住む栃窪村とは別の原村の内にあったが、後世、社の修繕を行う際には
新左衛門の子孫の家が修理していたという。


「武蔵国名所図会」では、上記のように別々に行動していた新左衛門と景信が、偶然出会ったように書かれているが、
八王子市史が引用する「三つ鱗翁物語」という史料では、新左衛門は景信が城を落ちるときに従った五人の従兵の一人で、
他の者が土民の襲撃で死に、景信もまた深手を負ったので、最後に生き残った新左衛門が後始末を託されたとしている。
01885/52014/06/23(月) 00:11:37.42ID:2C/a4wTB
367年後の帰還

横地景信が自害(※)してから、三百数十年の時が流れた。
八王子城で討死した中山家範や狩野一庵の子孫は、徳川家に仕えるなど繁栄したが(特に中山の子孫からは大名になる者まで出た)、
一方で江戸時代における景信の評価は、城から逃れたという行為が武士道に反するとして非常に低く、
さらに小瀬甫庵の「太閤記」では、

「旧来からの家臣でもなかったのに氏照に取り入って立身し、百姓を虐げては金銀を取り諸士を悩ませた」

などと根も葉もない悪評までされてしまった。
また景信を祭った横地社では、神体の短刀を盗賊に奪われるという被害も受けたが、
社自体は変わらず小河内に存在し続けた。

ところが、昭和に入ると、小河内谷全体を水没させる大規模なダム計画の話が持ち上がり、
紆余曲折はあったものの、小河内村はダムの底に沈むことになってしまった。
当然、谷の内にあった横地社も湖底に沈む運命にあったが、幸いに社は八王子城跡に移されることになり、
社という形ではあるが、景信は約400年ぶりに八王子城へ戻ることになったのである。

現在、城跡に立つ八王子神社の横に小さな横地社が建てられており、傍らには由来を記す碑も建てられている。
昭和32年(1957)に建てられた、その石碑の裏面にある建立の日付は、敢えてその日を選んだのであろう、こう書かれている。
あの落城の日、6月23日と…。


(※)ここでは小河内で自害したという説で話を進めたが、他にも、落ち延びたが絶望して深淵に身を投げた、
または高麗郡の村に潜伏して姓名を変え、天寿を全うした等の話がある。



参考文献(武蔵国名所図会・新編武蔵風土記稿・八王子市史・落城ものがたり・武蔵野の民話と伝説)


八王子城落城の日だったので投稿。
最初は影武者の話だけにするつもりだったのに、調べていくうちにどんどん関連する話が出てきて
かなり長くなってしまった・・・。
両方のスレに一話ずつ投稿していくのも、同じ落城ネタばかり続いてウザがられそうだったし、
いい話の方が多めなこともあって、いい話と悪い話をまとめて一気に投稿させていただきました。
0189人間七七四年2014/06/23(月) 01:10:13.60ID:UO2/vC59
ごちゃまぜなのがあれだが、まあ乙
0190人間七七四年2014/06/23(月) 06:42:45.62ID:IN14G2Ii
片目の落武者に由来する片目のヤマメの話、釣りキチ三平で見たな。
沢の源流に放射線を出す石が露出してるのが原因だったけど
0191人間七七四年2014/06/23(月) 06:50:47.03ID:eUZS7rHf
>源流に放射線を出す石が露出してるのが原因だったけど

オカルトより怖いわw
0192人間七七四年2014/06/23(月) 08:34:31.10ID:NFDW0WCH
調べたら釣りキチ三平の話はイワナだった。
メッコ岩魚の怪という話でアニメ化もされてた(´・ω・`)
0193人間七七四年2014/06/23(月) 08:37:31.97ID:+/92uB7z
三平のでどうなってるんかは知らんが、現実として放射線をだすのは珍しくないんじゃないかい?
特に川なんかだったら顔料の岩とかあるし
まあ管理されなきゃいけないようなものはなかなかぶち当たらんだろうが
0194人間七七四年2014/06/23(月) 10:06:29.72ID:E/LRBovL
『朝日さす 夕日輝く」って佐々成政の埋蔵金伝説の歌にも出てくるよね。
0195人間七七四年2014/06/23(月) 15:13:16.14ID:D97Hzhx7
(●Д°)呼ばれた様な気がして…
0196人間七七四年2014/06/23(月) 15:22:44.13ID:D97Hzhx7
来たんだぜ
(●Д° ))3333Ξ<
0197人間七七四年2014/06/23(月) 15:34:50.89ID:JQV1wirX
政宗の奇行は放射線の影響だったのか
0198人間七七四年2014/06/23(月) 15:40:50.78ID:i97Wvsz9
(´・ω・`)「温泉って怖いね。たまに賊も出るし」
0199人間七七四年2014/06/23(月) 20:11:47.71ID:l4P4q902
>>198
まとめにあるから読み返すだけにしとけ
0200人間七七四年2014/06/23(月) 22:00:57.33ID:0IYqdZvg
長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見、本能寺直前
ttp://www.47news.jp/CN/201406/CN2014062301002133.html

これでますます光秀の動機が分からなくなったで
0201人間七七四年2014/06/23(月) 22:13:24.79ID:90rTUygq
元親は光秀経由で信長の軍門に降ろうとしたけど、
光秀は手に入れた情報を信長に伝えることで油断を誘い、
ついにアーチーアーチーと言わせることに成功したというわけだな。
0202人間七七四年2014/06/23(月) 22:15:55.66ID:ObbiBE9u
裏切りなんて、相手が裏切りを予想していない時でないと成功しないわけで
理由について議論になるのは当たり前と言えなくもない
0203人間七七四年2014/06/23(月) 22:41:38.97ID:+NCEOwia
http://www.hayashibara.co.jp/press.php?id=392
内容まとめた本をみんな大好き吉川弘文館から出版するそうだ
0204人間七七四年2014/06/24(火) 07:15:00.05ID:gH2wnzty
誰かの陰謀とかではなく、光秀の厨二病だったのかねえ。魔王信長を討ったぞー、わしに従えー、あ、あれ?みたいな感じか。
0205人間七七四年2014/06/24(火) 07:52:52.18ID:onu520G7
元親の時間稼ぎだったのか?それとも本心だったのか?いや仮にそうだったとしても信長が認めるわけないよな
はぁふざけんなマジで、って光秀を折檻したんだろ
晩年になると人は狂暴と化す、秀吉がよい例
0206人間七七四年2014/06/24(火) 10:30:28.79ID:MbN2x83R
戦国時代の武将の行動理念を厨二病とか言っちゃう人って…
0207人間七七四年2014/06/24(火) 11:31:11.39ID:/MOH7K/3
ボケてなくてももともとDQNもいるわけで
0208人間七七四年2014/06/24(火) 12:19:08.62ID:gAl9BQsI
『人間個人にキャラクターなどない(無我)』と言うのが仏教

『人間個人にはそれぞれに本当のキャラクターがある(真我)』と言うのがヒンドゥー教

って理解で合ってる?
0209人間七七四年2014/06/24(火) 15:07:20.72ID:5OIMYWta
>>208
板違い
0210人間七七四年2014/06/24(火) 16:36:53.78ID:8UIVMbnp
長宗我部が恭順したのにノブが殺せと言い張るから光秀が板ばさみになってストレスで狂った説もあったな
0211人間七七四年2014/06/24(火) 17:30:31.04ID:+iFynjsM
伊達遠江守秀宗が通行の途中、旗本の某が強い馬に乗って通りかかると、
どういうわけかその馬が秀宗の方へ馳せて来た。供の士の大藤某という者は
速やかに立ち向かい、馬の口を取って動かさず、その間に秀宗は通り過ぎた。

その馬の脇の士が馬を抑えようと後から馳せて来た。その者は大藤が
馬の口を取って立っているのを見て、どのように思ったのか刀を抜こうとした。
しかし、伊達の供たちが大勢やって来てその者を取り押さえて動かさなかった。

その時、馬上の主人は槍を取ろうとしたが大藤は片手で槍をしっかりと握って
動かさず、「このような事はあるものです。御馬が感が強いために馳せ出たので
止めたのです。慮外は少しもいたしてはおりません」と言った。

これに馬上の主人が「こうして取り囲むのは慮外ではないのか?」と言うと、
大藤は「御家来が粗忽に見えましたので留めたまでのことです。慮外や無礼と
申すようなことはいたしてはおりません」と言い、一同は退いたので馬上の
主人もそのまま行き過ぎた。

この大藤某という士は大力無双の勇士で、よく物の義理に通じていたため、
大藤の一言で事件も無く済んだのである。

――『明良洪範続編』
0212人間七七四年2014/06/24(火) 19:15:37.01ID:XUet17Db
>>211
この話まだ出ていなかったのかな
武士の美意識がわかる話だから印象深い
たしかに伊達家の行列前を横切ったのはこの侍の過失。
斬られても仕方ない過失ではあるけど、黙って連行されても最悪首斬られるのだから、
それならその場で刀抜いて斬り死にする最期を選ぶべきだってことだろうな
討ち死、切腹〉〉(越えられない壁)〉〉斬首 の世界観だし

この話が作中に出てくる五味康祐の短編小説『国戸弾左衛門の切腹』オススメ
映画にしてほしい深い話だけど、映画にされることはないであろう名作
02132122014/06/24(火) 19:22:52.89ID:XUet17Db
ごめん
いい話スレと悪い話スレを間違えた
悪い話の>>212は>576へのレス

>>211
この話は大藤さんの言葉の機転で結末まで爽やかないい話だ
0214人間七七四年2014/06/24(火) 21:04:07.32ID:tSLvIleb
大阪冬の陣の時、幕府より諸大名に白銀を分け下された。
加賀前田家、仙台伊達家、薩摩島津家などは別格の大名なので、
台徳院殿(徳川秀忠)とり白銀300枚、東照宮(徳川家康)とうぃ200枚、合計500枚づつ下された。
森美作守(忠政)などの大名には、200枚と100枚、合計300枚を下された。

この時、森忠政は白銀を下げ渡された即日に、今日の町人より借りた銀を返却した。これに人々は
深く感じ入ったそうである。
(老人雑話)

森忠政、幕府からの下賜金で即座に借金返済、というお話し。
0215人間七七四年2014/06/24(火) 22:38:45.52ID:KUyAud79
>>214
「幕府」って原文だとどうなってんの
0216人間七七四年2014/06/25(水) 21:53:46.24ID:uqVMZxp+
>>215
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&;C_CODE=0026-11005&IMG_SIZE=&IMG_NO=42
該当箇所は見つけたけど、文字の解読に自信がないから誰かに任せた
02172152014/06/26(木) 02:54:49.60ID:7lrUXono
これの233ページの最初の話っぽい
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925907

原文だと主語省略だ
0218人間七七四年2014/06/26(木) 06:59:40.18ID:DjhyFHsF
>>168
司馬遼太郎的には、秀吉が秀頼が生まれてもて余した秀次の引き取り先を探してて、まだ嫡子がなかった毛利家に目をつけた
が、本家に馬鹿を入れられたら困るってんで小早川隆景が自分の嗣子を廃して秀次を小早川に入れて嗣がせ、本家には穂井田からの養子を入れたってなってるな
妾の子から本家に帰った形じゃないっけ?

結果的には輝元に秀就がうまれたから、家系は輝元直系で継続じゃないかな?

小早川は途絶えて毛利はしっかり残した隆景はやっぱり凄い
0219人間七七四年2014/06/26(木) 07:04:11.50ID:8KNpfmoD
>>218
いろいろと間違ってるけど教えるの面倒だからggrk
0220人間七七四年2014/06/26(木) 13:11:20.59ID:dsTFZoxI
隆景マンセーしたいだけ
0221人間七七四年2014/06/27(金) 12:55:32.00ID:67a9ow/i
>>218
色々と間違ってて司馬遼にも失礼だ
0222人間七七四年2014/06/27(金) 13:08:26.36ID:+6etSkFv
一応、司馬遼太郎「豊臣家の人々」収録の「金吾中納言」で確認したら
ちゃんと「秀秋」て書いてたぞ
後は秀吉→如水にしたら司馬遼太郎と同じ説だが
0223人間七七四年2014/06/29(日) 04:51:10.55ID:IN8XrTCj
朝鮮の役の時、

小西行長は一番に朝鮮の都に入り高名をしようとして、その道筋の城には手をかけず、直に入ろうとしている、
という情報が聞こえてきた。

そのため黒田長政は小西が通りすぎた道に残された城を攻め落とし、後続の味方が安心して通過できるようにしようと
大道筋に進軍した。中でも昌原の城には大勢が籠城していたのを、長政は昼夜これを攻め、数度の戦いの後ついに乗っ取り、
500余人を討ち取った。

長政が道筋の城々を攻略した事により、後続の軍勢は難なく都の攻め入ることが出来たのである。
(黒田家譜)

黒田長政、小西の進軍の後で後続勢のためのフォローをしていたんだよ、というお話。
0224人間七七四年2014/06/29(日) 09:43:42.52ID:dXKwuvBU
黒田勢がついた頃には都は陥落してたよね?
0225人間七七四年2014/06/29(日) 12:51:37.41ID:KEm12Ldq
戸田備後守の祖父藤五郎は台徳院殿(徳川秀忠)の御守である。
彼は長篠河で甲州の芋川鳶之介に槍をつけた。

藤五郎の若党両人は敵(鳶之介のこと)を抱きすくめて河の中へ
押し倒した。この時、鳶之介は三度まで頭をあげて名乗った。

このことを城和泉は聞き、涙を流して、

「なんとまあ、武士の一言は大事なものである。鳶之介はかねがね、
『私が討死する時は三度までは名乗るつもりだ』と申していた」

と言った。

――『武功雑記』
0226人間七七四年2014/06/29(日) 16:09:51.25ID:xLVXVpMq
名のある武士と思ってもらえないと首が粗末な扱いをされかねないからね。

しかし名前が創作臭いですね。
0227人間七七四年2014/06/29(日) 18:51:07.90ID:47uQVnTF
歴史のプロ解説たのむ

【歴史】 織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説

http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1404025559/
0228人間七七四年2014/06/29(日) 19:44:17.35ID:UUOtv5du
解説もなにもないと思うが?
0229人間七七四年2014/06/29(日) 21:04:00.07ID:Fzda7vZS
>>228
わからないなら黙ってろよ低学歴
0230人間七七四年2014/06/29(日) 21:16:05.73ID:msf4Uuq5
どこがいい話なんだよ
0231人間七七四年2014/06/29(日) 22:13:04.89ID:ZYpAg7tk
>>227
また徳川の捏造が明らかになってしまったか
0232人間七七四年2014/06/29(日) 22:14:43.39ID:IN8XrTCj
なんでも「徳川の捏造」といえば説明がすむと思ってる馬鹿は
本当に救いがないな。
0233人間七七四年2014/06/29(日) 22:47:44.70ID:oEbfPn8g
ネット弁慶のお前もな
0234人間七七四年2014/06/29(日) 23:10:55.37ID:UUOtv5du
だから、解説なんかされないとわからないほど難しい文章か?
0235人間七七四年2014/06/29(日) 23:14:07.14ID:LlsMIStj
菅沼遼太をかまうな
0236人間七七四年2014/06/30(月) 06:38:02.86ID:lbu0h+Ij
スルー安定だ
0237人間七七四年2014/06/30(月) 21:18:01.15ID:WRZJjB4J
だが史観崩壊
0238人間七七四年2014/07/01(火) 08:36:20.95ID:shhIQofK
http://p.im9.eu/pics-real-samurai-huge-gallery-38.jpg
この九曜紋の殿様は誰かね?駕籠の豪華さだと大名っぽい
0239人間七七四年2014/07/02(水) 12:26:43.79ID:8AGAwg9Y
ある日、飛鳥井老翁(雅親)がこのように語られた。

「常徳院内大臣義尚公(将軍・足利義尚)は天性歌のお好きな方で、武芸の暇には和歌を心がけ、
その才能も年齢以上に大きなものでした。

高官昵近の公家が参った時は、仮初にも雑談などはせず、歌についての方法論のみを談じていたと
いうことです。その頃の歌の達者として有名だった某大納言は、始めは歌の形についてなど
心やすくご指南申し上げていましたが、御年二十歳を過ぎられてからは、かの卿はかえって、歌の
風情について義尚公にお尋ねになるほどでした。

このように義尚公はいみじき国主でありましたが、ただただ、ご年齢が壮年に満たず亡くなられた事は
口惜しいことだと、当時も皆口々に言っていました。

義尚公がかつて、近江に久しく滞陣されていた時、ある日お遊びとして湖水のほとりに出御され、
多くの船を飾り饗膳も珍しやかに調えて、諸道の達人を数人供奉しました。

公方は湖水の水際を眺めながら、童子二人が小舟に乗って遊んでいるのに気が付き、「あれは何者か?」と
尋ねると「梅ケ原の者です」との答えが帰ってきた。これを聞いて心にふと浮かんだ句があった

『湖辺自異山林興 童子尋梅棹小船』

この二句が心に浮かび、その対句についてしばし思案されましたが、ついによろしき句も浮かばず
還御され、その夜、夢の中に男装した人が現れて、先の句に足して七言四句とし、義尚公は
夢の中に喜び、程なく目が覚められた。その句は近習の人に仰せになり書き留めさせたということですが、
その後人々はみな、その二句を失念し、詮無き事になったそうです。大変残念なことです。

これだけではなく、かつて、また逆敵が近隣に侵入した時に、いそぎ出陣されたことがありました。
その時は炎天の時期で、五万ばかりの軍兵を召しつれられましたが、士卒はこの暑さに耐えかね、
滝のように汗をかき、馬もこらえかねて多くは跪き、人々はこのことに大いに混乱しました。

この時軍勢は鑑山の麓にありましたが、義尚公はここで

『けふばかり くもれあふみのかがみ山 たびのやつれの影のみゆるに』
(近江の鏡山よ、今日くらいは曇ってほしい。皆に旅の疲れの様子が見えるではないか)

と詠まれ、暫く木陰で休むように命じた。そこで少しすると天曇り、涼風おもむろに吹き始め、
軍勢はまるで中秋の夕暮れの中に居るようにように感じ、たちまち元気を蘇らせた、と言われます。
これなど歌における、上古末代までの高名の誉れでしょう。

まことに一句の力で数万の軍兵の苦しみを止めるなど、天感不測の君であったと言うべきです。

(塵塚物語)

歌人・飛鳥井雅親による、将軍・足利義尚の歌についての思い出である。
0240人間七七四年2014/07/02(水) 14:30:25.29ID:HS8fAT5F
亀ですが>>218秀次と秀秋を間違ってました
>>222のことです。如水の企みですね。色々と申し訳ない。
0241人間七七四年2014/07/03(木) 06:42:18.40ID:R/nXxM+J
料理漫画が料理で全てを解決するように
歌で全てを解決する将軍か
0242人間七七四年2014/07/03(木) 08:42:54.41ID:RsSJEXGt
たしか近江で陣歿したんだったか
六角退治に躍起になったのは親へ反動か?
0243人間七七四年2014/07/03(木) 21:00:00.17ID:OzddS/te
姓名判断した結果・・・

豊 18
臣 6
秀 7
吉 6

天運24:大吉
人運13:大吉
地運13:大吉
外運24:大吉
総運37:吉
陰陽(偶偶奇偶):大吉

ちょっとどころか、とんでもなく縁起のいい話!
これはさすがにやり過ぎだろww
0244人間七七四年2014/07/03(木) 23:29:09.25ID:GQBIVGxe
辞世の句が複数あるのは歌を愛しすぎた故か
0245人間七七四年2014/07/04(金) 08:54:48.75ID:OvpIbfGP
織田信孝
0246人間七七四年2014/07/05(土) 14:39:04.96ID:0jGY9S5x
徳川家康は次のように言った。

「甲冑は丈夫なものをよしとはするけれども、あまりに重いものはよろしくない。

井伊直政は大力で重い甲冑を着てもものともしないが、戦場でたびたび傷を受けた。
(井伊直政は大力にて重き甲冑を着て重しとせざれど戦場にて度々疵を受たり)

本多忠勝は直政ほど力も無く、甲冑も軽いものを用いたが戦場で傷を受けたことは一度も無い。
(本多忠勝は直政ほど力もなく甲冑も軽きを用ひたれど戦場にて疵を受し事一度もなし)

だから、甲冑は着る者の働きやすいものこそがよいのだ。
また、下輩には鉄の薄い笠を着せるのがよい。場合によっては飯をも炊けることだろう」
(又下部には鐵の薄き笠を着せるがよし其時によりては飯をも焚かるべし)

――『明良洪範』
0247人間七七四年2014/07/05(土) 15:49:33.17ID:9zHshRiz
三歳さんも軽い素材で兜デザインしてたしな
0248人間七七四年2014/07/05(土) 18:59:59.57ID:NnkLvtji
名将長野業正の死後、武田信玄による箕輪城攻めの際の話

箕輪城方は1500ほどしか兵士が集まらず、若き城主の長野業盛は諸将を集め、防御の方法を議した。

甲は「城を固守して上杉謙信に救援を乞うべきだ」と主張した。
乙は「属城がことごとく敵方に落ち、将兵は死ぬか背くかした。そのような中で謙信に助けを乞うのは
かえって世の笑いを受けてしまう。万死を期して決戦あるのみ」と主張した。
すると日頃城主の信任が厚かった丙が「我が先君(業正)は上杉氏のために最後まで身命を賭して
尽くした。しかし憲政は愚者であり、先君を用いず、遂には国を失い、謙信を頼る様となった。
かような次第なので、今我々の幼君(業盛)も犬死することがあっては先君に申し訳ない。
むしろ武田家に降りお家を残すのが適切だろう」と主張しだした。
皆はこれを聞いて驚き、「昨日まで我が主家の棟梁豪勇の忠臣であったのが、なぜにわかに
臆病者になったのか!」と声をあげ涙を流し、甲などは憤然として刀に手をかけ丙を斬ろうとした。

すると業盛は諸将を制して、そのまま奥の間に行き、業正の位牌を奉じて上座に安置して拝礼したので、
諸将もこれに従い拝礼したが、どういった意味なのかわからなかった。
業盛はその様子を見て、おもむろに「丙が降伏の議を説いたのは皆の心底を知ろうと私が命じたものだ。
今、皆の心が鉄石の如く堅いのを見ることができ、これ以上喜ばしいことはない!」
と言ったので、皆再び驚き、業盛の用意周到なるに敬服したという。

その後業盛率いる箕輪衆は、若田原へ打って出た後に箕輪城に立てこもり、そこで業盛は散った。
享年19歳

アカツキ9巻12号(1934)より
0249鈴木右近の切腹2014/07/06(日) 14:33:08.50ID:2nLgC1Uj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3811.html
でもちょっと触れられてるけど出典があったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4040.html
の逸話で
「どんなに死出の山が険しくても、わたしが御手を引いて差し上げますよ」
と真田信之と殉死の契約をした鈴木右近。
木村縫殿に殉死の際の介錯を頼んでいたのだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4806.html
の逸話のように縫殿が死んだためその息子の渡右衛門に改めて介錯を頼むことになる。
0250右近の切腹2014/07/06(日) 14:34:10.32ID:2nLgC1Uj
万治元年戊戌十月十七日、一当公(真田信之)九十三歳にて御卒去。
鈴木右近は十八日に殉死すると言ってたのにどうしたのか、自室に篭ったままであった。
嫡男の治部右衛門は江戸にいて不在であり、次男の弥左衛門は気が気でなかった。
家老以下、真田家家中に父の殉死の予定を伝えてきたのに、万一、長引くようなことがあれば
どうしたらいいのだ、と心配でしょうがなかったが、
右近の日頃の気性を思うと、たとえ天地がひっくりかえっても自分をまげない男なので、
意見もできないとあきれ果てていた。
右近は長年妻子にも触らせなかった箱を開けて書付をいちいちとりだしてことごとく
焼き捨て、残りを入納したそうだが、何が書かれているかを知る者はいなかった。
なんだかんだで十八日夜になって右近は正眼山法泉寺に移ったようだ。
隣家の竹内親兵衛、長谷川善兵衛が法泉寺に訪ねていくと、
右近「殉死の見届けをしてくださること、ありがたいことです。
私が焼かれる火葬場の様子をみたところ、山のようになって見苦しかったため
平らにならすよう指図をしてきたところです。」
ずいぶん念のいったことだと思っていると、同族の弥左衛門がやってきて、
切腹が遅れていることを問いただした。
0251右近の切腹2014/07/06(日) 14:34:59.30ID:2nLgC1Uj
右近は「用意はできました」と答え、
取り寄せた棺桶のできを見、内外の寸法も十分だと満足していた。
そうこうしているうちに、介錯人の羽田六右衛門を木村渡右衛門が召し連れて
右近と対面した。切腹前の儀式が終わった後、
右近「まことに申し上げにくいことですが、このようなことをしたことがなく、この歳になるまで
殉死を見たこともないため、作法を心得ません」
木村「わたしも心得ているわけではありませんが、近藤平之丞に聞いたところでは
主君の御位牌に拝礼するのはもちろんですが、拝礼の後、御位牌に背を向けて切腹するのが
作法だそうです」
右近「若いのにそこまで調べてくださったこと、言葉に尽くしがたいほど感謝しております。
ところで、どうせなら後世に残るように立ったまま切腹したいのですが、いかがでしょうか」
木村「冷淡なように聞こえるでしょうけど、ご老衰の身でそんなことをしてもしかたないでしょう」
右近「ともかくも指図通りいたしましょう」
右近は気色にも死の恐怖というものをいっさい見せなかった。
0252右近の切腹2014/07/06(日) 14:37:46.29ID:2nLgC1Uj
やるべき儀礼を終えたのち、右近は刀を腹に押し立て引き回した。
切り口を主君に見せようと思ったのか、霊前(位牌)の方へ振り返った所、介錯人の羽田六右衛門が
振り下ろした刀が肩骨に打ち込まれてしまったため、木村渡右衛門はすかさず右近の首を
自分の膝の上に引き寄せて、首を掻き切った。
木村は慌てた様子もなく手早くことをなしたものだ。

この物語はその時同席していた長谷川善兵衛から直接聞いて書き置いたものである。


「真武内伝 附録」より
用意周到にしたのに最後の最後できれいに運ばなかった気もしますが、全体的に考えていい話ってことで
0253人間七七四年2014/07/06(日) 15:05:15.07ID:2nLgC1Uj
よく考えたら渡右衛門に頼んだのは介錯ではなく見届けでした
0254人間七七四年2014/07/06(日) 17:58:09.47ID:nhVGFlMZ
真田のお兄ちゃんの場合享年があの御年だけに
昔からの家臣で殉死するほどつきあい長い人って相当限られてたんだろうなあ
0255人間七七四年2014/07/06(日) 20:08:27.89ID:Umjsc1MS
結論:はじめての切腹は失敗するので経験をつんでからしよう
0256人間七七四年2014/07/06(日) 20:57:10.07ID:qSzwb+rS
経験を積むって、生涯に一度しか出来んでしょうにw
0257人間七七四年2014/07/06(日) 21:16:24.09ID:C7mlVC+m
殉死の作法はともかく切腹だけならやらなくても立ち合うだけで経験は積めるんじゃないか?
0258人間七七四年2014/07/06(日) 21:57:49.48ID:lkckB1fN
追い腹なんてよくやるよなあと思うが
新参で寵愛されていたとかならわかるけどさ
0259人間七七四年2014/07/06(日) 22:03:27.39ID:74f8CjY5
右近もだいぶ年なんじゃないか?
0260人間七七四年2014/07/06(日) 22:07:04.57ID:ceGbtxhr
数えで85らしい
主君より8歳も若いのに
0261人間七七四年2014/07/07(月) 00:27:31.43ID:0lSG9xVp
当時で85なんていったら今の120歳ぐらいの感覚なんじゃないか?
0262人間七七四年2014/07/07(月) 01:15:23.93ID:P0qED9OS
ないない
0263人間七七四年2014/07/07(月) 09:05:19.07ID:6KnR0Lkx
>>261
なんか90ぐらいで今の120歳ぐらいってどっかで見たことが…
0264人間七七四年2014/07/07(月) 13:19:57.16ID:9Bf/qtyn
>>244
一応用心してりゃ用意しとくだろ。天下泰平でも生水に当たってこてっと逝ったり赤穂浪士に討たれたりキチガイにタマ取られたりってアクシデントもあるわけだし
0265人間七七四年2014/07/07(月) 13:24:33.27ID:g8GLLUXD
えーと、最初の一年で成人して、あとは一年ごとに現代人にあてはめて大体4歳づつ位の感覚で…
0266人間七七四年2014/07/08(火) 00:23:38.29ID:Jof1AIYs
武者は犬ともいへ、畜生ともいへ云々
0267人間七七四年2014/07/08(火) 00:40:10.81ID:yNf5Xzp9
なるほど。20歳になれば大老というわけですね
0268人間七七四年2014/07/08(火) 02:00:12.72ID:CGapS9WN
又左衛門とかいう犬も初陣の頃は立派な中年犬
0269人間七七四年2014/07/08(火) 02:30:32.26ID:bKa214Jq
真田の当主に徐福がいますね・・・
0270人間七七四年2014/07/08(火) 19:51:00.15ID:JyLMitQJ
天正16年(1588)正月3日、徳川長丸君は駿府を出立し初めて京へと赴かれた。
これは豊臣関白秀吉公の所縁となられて後、未だ御対面がなかったためである。
長丸君はこの時12歳になられていた。井伊兵部少輔直政、酒井右兵衛太夫忠世、
内藤弥三郎清成、青山藤七郎忠成が供奉をした。

13日、都に入られた。関白からは長束大蔵大輔正家が迎えに出された。

15日、聚楽城に上り御対面があった。関白秀吉の喜びは大変なものであった。
その後孝蔵主の案内で後閣へと誘われた。そこでは秀吉の母である大政所自ら、
長丸君の髪を結い直され、御衣装も新たな物を進められた。そして長丸君は関白より
諱の一字を授けられ、秀忠と称されることになった。

関白は自ら秀忠公の手を引いて外殿に出られ、井伊直政らを近くに召して言った
「大納言(家康)には良き子を持たれた。年頃よりも大人のように見え、大変喜ばしいことである。
このように田舎風を変えて、都ぶりに改めてお返ししよう。
大納言もさぞ待ちかねているだろうから、急ぎ帰国するように。」

そして井伊直政、酒井忠世、内藤清成、青木忠成らにも金や衣服を数多与えられ、各々暇を賜った。
彼らはまた秀忠公の供奉をし、17日に京を出立し、25日駿府に帰られた。

2月24日には甲冑始めがあった。この頃関白は小田原の北条を征せんがため、関西の大軍を率い
3月には相模の国まで攻め下り、29日には湯元堂で諸将を集め酒宴を開き、軍議を行っていた所、
関白は家康公に向かって「秀忠を呼んでこの大軍を見せるように」と言われたため、しばらくして
ここに招かれた。大久保新十郎忠常はこの時11歳であったが、一人供奉して参った。

その時、関白は自ら甲冑を取り出し、秀忠公に「それを着られ、我が武運にあやかるように」と
公の背中を撫でられた、とのことである。

(台コ院殿御實紀)

徳川秀忠が豊臣秀吉に初めて対面した時と、小田原の役での模様である。
0271人間七七四年2014/07/09(水) 03:57:34.26ID:nw6cHqxv
台コ院殿御實紀って要は徳川実紀のことですな
0272人間七七四年2014/07/09(水) 06:50:10.23ID:KnwmyW2S
家康はわしの天下を脅かす恐ろしい男だがその息子は普通っぽい
わしの頼りない息子でもなんとかなりそうとか思えたのかな
0273人間七七四年2014/07/09(水) 18:40:54.00ID:Kss2d3LI
秀忠傅役:井伊直政、酒井忠世、内藤清成、青山忠成
信長傅役:林秀貞・ 平手政秀・ 内藤勝介、青山信昌
内藤と青山は傅役コンビ?
0274人間七七四年2014/07/09(水) 21:10:27.64ID:5hn0AfzU
>>272
秀頼生まれてなくね?
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