戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0128人間七七四年
2014/06/12(木) 23:00:17.12ID:BMAorBTt0130人間七七四年
2014/06/13(金) 10:27:11.24ID:pNswNdi70131人間七七四年
2014/06/14(土) 00:02:15.14ID:xjLwZ/tj用件を聞こうか・・・
0132人間七七四年
2014/06/14(土) 16:04:01.80ID:bFC8NySHその時、秀頼公が大坂城から神君の御在所の二条の城へ行く途中、
加藤清正と浅野長政とが高股立ちの姿で秀頼公の乗輿の左右に付いた。
二条の城から御迎いとして神君の御子息の義直卿、頼宣卿の御両人が
途中まで出られたのだが、日傘を使っておられたのを清正は見て、
「無礼です。その日傘をお止めなさい」と言って止めさせた。
当時、神君の御威勢に向かってそんな事を申す者が他に誰がいるだろうか。
万一申す者がいるとしても両卿がどうしてその言葉に従いなさるだろうか。
清正だからこそ、そのような事をも申し、両卿もその言葉に従いなさって
日傘を止められたのである。
この一事で清正が尋常ではないことを万事察知できる。
だからこそ、神君も常に清正を御褒めになったのである。
――『明良洪範続編』
0133人間七七四年
2014/06/14(土) 16:44:56.69ID:Fbc8clkM0134人間七七四年
2014/06/14(土) 20:26:44.94ID:Nz+VFiolそこを実地検分し、「”おたぎ”とは何と書くのか?」と問うと、里の翁が
「仔細は知りませんが、昔より”小瀧”と書きます。」と答えた
出雲守はこれを聞いて「小を捨て大を取ると古人も言っている。前々はそうであっても
今からは”大瀧”と書くべし!」と申し付けた。このため領主の考えに従い
大瀧と書くようになった。在所の者達も、「確かに小より大が勝る」と言っているとか。
(慶長見聞集)
0135人間七七四年
2014/06/14(土) 20:33:30.53ID:MOyKLytE0137人間七七四年
2014/06/14(土) 23:29:51.97ID:PqZO9B7B息子の代に字を変えたのか
0138人間七七四年
2014/06/15(日) 00:46:36.05ID:c8509mK30139人間七七四年
2014/06/15(日) 00:53:55.56ID:6+OL2oYZ0140人間七七四年
2014/06/15(日) 07:22:17.59ID:7ARKo8480141人間七七四年
2014/06/16(月) 05:59:35.25ID:tfFgUliP0143人間七七四年
2014/06/16(月) 19:28:57.42ID:PZYVtx6C夜は五つ(午後9時頃)を限りに休むようにしなさい。
こんな風に条文にしてまで行跡についてのことを言うと、あなたもきっと迷惑にも感じるでしょう。
しかし、私は小身より成り立ち、苦身して今の身上に成りました。ですので、こういった事を
伝え聞かせることがその身にとって必要なことであると考えるのです。
(藤堂和泉守高虎教誨・息大学頭高次に示す条々)
この条々は全部で一九条ありますが、それについての高虎の思いを述べた一節です。
0144人間七七四年
2014/06/16(月) 23:27:26.42ID:3q+tutrt0145人間七七四年
2014/06/16(月) 23:35:50.28ID:qQQB8R6O0146人間七七四年
2014/06/17(火) 00:37:42.02ID:ZCjU5JiM0147人間七七四年
2014/06/17(火) 01:22:49.60ID:iNssuo7b庭木にゲロ吐くなとか、わしに宴で飯椀一杯以上の酒振る舞ったら怒って帰るからな!とかあるのを見るに
おそらく当時も夜更けまで鯨飲してるのが沢山いたのではないか
0148人間七七四年
2014/06/17(火) 01:56:12.40ID:qDcIIbtO0149人間七七四年
2014/06/17(火) 07:43:08.46ID:VThhnZL/0150人間七七四年
2014/06/17(火) 10:42:16.29ID:RyJrocz70151人間七七四年
2014/06/18(水) 00:31:04.26ID:C2UHL/dd無実の事を企んで江戸へ訴えた。(海部騒動)
公儀の役人の糾問があるので、罪の無いことだが忠英は憚って閉門し慎んでいた。
その折に有り合わせの金銀が尽き、諸用に差し支えがあったが遠国なので取りに
遣わすけれども早急の用に間に合わなかった。
また人の疑いもどんなものだろうかと係りの者は非常に心配して頼みとするところも
無く、井伊直孝(蜂須賀家政の婿)のもとへ内々の使者を借りに行かせた。
井伊家の家老たちはこれに同意せず「公儀に対して憚りがあるので貸すことはならん」
と言った。すると岡本半助は「人の急難を救うのは義です。もし後難を恐れて急難を
救わなければ信義を失うことになります。それは井伊家の恥ではないでしょうか?」
と、言った。家老たちは「ならばその事を主人へ伝えよう」と言った。これに岡本は、
「伝えるのはよろしくありません。貸した後に道理に背くことに与したと公儀から
御咎めを受けた時には、主人は少しも存じておらず、それがし一人の判断であると
言って切腹しましょう。あるいは貸した後に急難を救ったとして御誉めに預かった時には、
主人の判断ということにいたしましょう」と言い、倉を開け千金を出して貸し与えた。
後に直孝はこれを聞いてたいへん感心したということである。
――『明良洪範』
0152人間七七四年
2014/06/18(水) 20:41:15.46ID:ziurZZ56従った。十月、信長は滝川一益を大将として有岡の城を攻め、十一月これを攻め破った。
この時黒田孝高(官兵衛)は有岡の獄中にいたが、家臣の栗山善助が尋ね来て、孝高を牢より出した。
荒木村重が没落したため、それと一味していた小寺政職も、その科逃れ難く思い、にわかに御着の城を
出奔し、中国の所々を流浪し、その後備後の鞆に居住して、天正十年に卒した。
男子一人父祖の後を継いで、加賀守氏職と称した。また姉妹が数人あった。
小寺の家が滅び、その子がかくの如く零落したことを、黒田職隆・孝高親子は深く嘆き、
秀吉に「その父の罪を許され、その子を私の養子にさせて頂きたい。」と詫び言をして赦しを蒙り、
備後の鞆に家臣を迎えに遣わし、小寺氏職、並びにその姉妹を姫路に招き寄せた。
彼らが海より着岸した時は、官兵衛ならびに舎弟達全員が、海辺まで迎えに出た。
かねてより姫路の海辺、飾磨津に新宅が作ってあり、ここに小寺を居住せしめ、情深く養育された。
その旧好を忘れず、いとも懇ろに憐憫されること、誠に恩を以って仇を報ずるとはこの事であると、
世の人々は感じ思ったそうである。
(黒田家譜)
0153人間七七四年
2014/06/18(水) 21:47:05.83ID:p2WwIVyy細部が多少異なるが黒田家譜、てのも含めて既出のような
しかし、「黒田家譜」話は同じ人が書いてると思ったら複数いるんだな
0154人間七七四年
2014/06/18(水) 22:36:13.56ID:voF9v9KB0155人間七七四年
2014/06/18(水) 23:52:15.99ID:+WQhUVu9京都山科に本願寺が建立され(文明十五年、西暦1483年)、
「寺中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と言われた頃から本願寺に仕え、
供物や諸事に携わってきた亀屋陸奥(屋号は後年名乗る)は、
顕如上人の時代、元亀元年(1570年)に始まった織田信長と
石山本願寺の戦いの間も本願寺に従っていた。
織田の攻撃が激しくなるなか、糧道もしだいに閉ざされ
城内には食料が不足しはじめる。
そこで亀屋陸奥三代目大塚治右衛門春近が
試行錯誤して兵糧代わりとなる菓子を創製し、
この菓子は法城を守る門徒衆の貴重な食料として用いられた。
しかし、11年間続いた戦の趨勢は織田に傾き、
本願寺は織田と和睦することになった。
顕如上人は織田との和睦後に京都六条下間(しもつま)邸にて
「わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風」と歌を詠んだ。
この歌から「松風」銘を賜ったのが前出の菓子だった。
天正十九年(1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、
亀屋陸奥も御用達の御供物司として本願寺の寺内に移った。
そして「松風」はその後も作り続けられ、四百年余りの洗練をへて
現代まで続く名菓「松風」になったという。
ちなみにこのお菓子は司馬遼太郎の「燃えよ剣」「関ヶ原」にも
登場しているとのこと。
出典は「松風」の袋及び亀屋陸奥のウェブサイト
0156人間七七四年
2014/06/19(木) 07:09:47.53ID:v+zgn3ub0157人間七七四年
2014/06/19(木) 09:40:39.71ID:4sF6OMtoルソーの作り話なんかなあ
0158人間七七四年
2014/06/19(木) 10:12:29.15ID:l2mT80Av0159人間七七四年
2014/06/19(木) 14:13:43.77ID:aXHq4YyQ0160人間七七四年
2014/06/19(木) 14:54:05.81ID:NFDi6Zt+食い凌ぎつつと置き換えると切迫感ある
0162人間七七四年
2014/06/19(木) 16:35:37.20ID:u8m4c7Ry0163人間七七四年
2014/06/19(木) 21:15:56.66ID:LcxLAkoG大阪の陣以前には、藤堂家において『角衆』と称する、同じ水牛の前立てを許された者は
6,7人だけであったが、大阪出陣の時には、鉄砲頭、母衣衆にもこれを許したため、その人数は
激増して、いったい何人いるのかわからぬほどになった。
それから高虎公の頬当は黒塗りで、具足は小札黒糸の毛引きであった。
小手、佩楯は越中流を用いられた。
関ヶ原では鳥毛袖なしの具足羽織、大阪の陣ではもみの広袖の小袖を時々着用されていた。
幟は大阪の陣で三布の折懸、地紺に白餅三であったが、これも関ヶ原の時は白地に朱の丸三であった。
大馬印は、大阪冬の陣では白の三布の大四半に朱の丸一、夏の陣では赤い吹貫であった。
(西島八兵衛留書)
藤堂高虎の軍装についてのお話し。大阪の陣で藤堂家に水牛の前立て軍団が生まれていたのですね。
0164人間七七四年
2014/06/19(木) 22:40:05.18ID:OrbnQCsw確かにあれ威圧感すごいしな
0165人間七七四年
2014/06/20(金) 00:39:16.72ID:eh/iMmQC物の本によると、いろんな王族の女性に対する、庶民の暮らしをわかってないネタのテンプレだったとか
最後の女王であり、最後にこのネタを使われたせいでマリーのエピで固定化した。
0166人間七七四年
2014/06/20(金) 18:51:49.80ID:fy2gy0BQ……何てのは昔の学説で、それなりに強かに生きていたのである
気の荒い戦国大名と言えど、奥向きの事には口を出せなかった
特に女の聖域たる台所には……
その禁を破り盗み酒をしたとある大名
奥方に見つかり城中追いかけ回された挙句城門で追い詰められ、家臣の監視の中、頭を下げて謝った
豊臣軍団切っての猛将、福島正則の逸話である
って話を雑談系の雑誌で読んだ記憶があるが本当かねえ
なんか、混ざってるような…
0167人間七七四年
2014/06/20(金) 22:02:57.23ID:tFkW0/pA高虎は立花飛騨守(宗茂)兄弟、佐久間備前守(安政)兄弟、丹羽五郎左衛門(長重)、脇坂淡路守(安治)、
朽木卜斎(元綱)等を招待し、その席で家の系図、知行の朱印、水牛の兜、金の傘の馬印などを
取り出して高次に譲渡し、先祖代々、一門末々までの武功の次第を語り聞かせ、最後に言葉を改めて
このように言った
「大学(高次)は惣領筋であるから、武勇が私に劣るとは思わない。しかし現在は
静謐の世の中であるので、そなたは合戦を実地に経験する機会はなかった。それに付いて申すが、
武勇には、稽古という言葉は無い。ただ、心がけ一つが重要である。
一朝有事の場合に、『この度は第一の殊勲を』と考えただけでは人並みの働きも出来ない。
『今度は一番に討ち死にするのだ』と決心してかかってこそ、いささか人に優れた働きは
成るものである。
武勇の心得は、これ以外に無い。」
これを聞いた列席の客人たちは、思わず姿勢を正して傾聴し、深くその言葉に感服したという。
(木且子集書)
藤堂高虎の「武勇の心得」である。
0168人間七七四年
2014/06/21(土) 10:09:20.49ID:eRxLfPkC毛利家って大事なところでは四男がリレーしてた
偶然なのか、何か狙いがあったのかは知らん
毛利 季光 大江広元の四男。初代毛利
毛利 経光 毛利季光の四男。宝治合戦で一族全滅するが唯一生き延びる
毛利 時親 毛利経光の四男。安芸吉田庄に移住。安芸毛利氏の祖
穂井田元清 毛利元就の四男。子孫が毛利家の嫡流となる(テルの系統は途絶えてないのに)
0169人間七七四年
2014/06/21(土) 11:50:50.40ID:R1+Fqyge0170人間七七四年
2014/06/21(土) 13:59:54.36ID:Ed2cun0h0171人間七七四年
2014/06/21(土) 14:37:34.55ID:Lgj0VjyL秀元をテルの養子にやってからは毛利に復姓してんだよな
0173人間七七四年
2014/06/21(土) 15:45:16.73ID:stz1dDvW0175人間七七四年
2014/06/21(土) 17:15:22.01ID:vfRkyEkPある戦に敗れた時
一重「(。+・`ω・´)キリッ みんな、槍はかつげ。所を見て返すべきだ。かついでたら返しやすいだろ?」
と下知した。皆、もっともだとこれに同じた。
場所を見合わせて反撃に出ると、ついに勝つことができたという。
備前老人物語
0176人間七七四年
2014/06/21(土) 18:24:36.17ID:zlgHiM+q伊達家にやって来て政宗の父輝宗を偽って生け捕った。右京進は大力なので
輝宗を馬上に抱えて連れて行った。これは人質に取ろうということである。
政宗は途中でその事を聞いて俄かに追いかけ、「父を奪われてはならない。
もし取り返すことができないならば、共に右京進を討ち取れ!」と一目散に
追って行き、
右京進が川を越そうとするところで近付き、矢で右京進を射落として輝宗を
無事に取り返し、この勢いに乗じて二本松を討ち平らげ、それから会津白川
をも討ち従えて武名を国中に轟かせた。
(右京進川を越さんとする所にて近付き矢にて右京進を射落し父輝宗を無事に
取り返し此勢ひに乗じて二本松を討平らげ夫より会津白川をも討随へ武名を
国中へ轟しける)
――『明良洪範続編』
0177人間七七四年
2014/06/21(土) 18:38:13.84ID:y2MNVRIX0178人間七七四年
2014/06/21(土) 19:34:17.13ID:APS/pAPs直系が途絶えてないのに何で傍系に嫡流が移行したんだろうね
先祖が西軍総大将だったから幕府に遠慮したのか、それとも代々馬鹿ばかりだったのか...
0181人間七七四年
2014/06/22(日) 11:50:09.60ID:ETnj9PZ6村の祭の季節が来ると、清久さま御夫婦は毎夜、家を脱け出し一晩中、堀の水面を棹でお叩きになった。
それは、人々が祭のためにと、堀を干し上げて鮒を根こそぎ捕るので、
少しでも魚たちが逃げてくれるようにとのお考えからそのようになされていたのである。
これはほんの一例で、御慈悲深い御善行は数えきれないほどであった。
清久さまは彦山権現を御信仰なされ、大晦日には御参詣して一夜を神前におこもりされるのが常であった。
ある年のこと、いつものように神社へお登りされる途中、大雪が降り、崖から落ちてしまわれた。
道を探して谷間を歩いておられると、そこに阿弥陀三尊の仏像を見つけた。
清久さまは持ち帰られ徳善に彦山権現を勧請するときにその御本尊となされた。
彦山権現の御本地は、阿弥陀様の三尊だということであるが、誠に不思議な出来事だ。
その御利益で、清久さまのお家はたいそうに御繁盛なさったように思う。
古老から聞いた話だ 【葉隠】
0182人間七七四年
2014/06/22(日) 12:05:36.34ID:ETnj9PZ6戦場では赤熊の面をつけ戦う剛の者であったとのこと
01841/5
2014/06/22(日) 23:46:15.62ID:tk9XLXfB北条氏照の居城であった武蔵八王子城は、城主不在の所を豊臣方の大軍に攻撃され、
今まさに落城せんとしていた。
中山家範や狩野一庵ら、城方の武将が次々と自害・討死していく中、城の裏手から一人、西方へと脱出していく武将がいた。
その人こそ、八王子城の城代で本丸の守将である横地監物景信(吉信)であった。
城を枕に討死するわけでもなく、また開城降伏するわけでもないこの行動を、景信がなぜ取ったかは不明であり、
一説には北条家再興の為に再起を図ったものとも、ただ己が命を惜しんだものとも言われているが、
景信の目的やその後の行方については後の世の人々から様々に憶測され、多くの伝説を生むことになった。
その中からいくつかの伝説を紹介してみよう。
無念の景信
落城の際、横地景信はわずか五人の家臣を連れ、大天守の裏山から落ち延びていった。
しかし、豊臣方は既に要所要所に陣を構え、厳しく落ち武者を取り締まろうと待ち構えていた。
そこで景信は、五人の家臣をそれぞれ影武者に仕立て、五方向へ道を分けて落ちのびさせた。
彼ら影武者五人のうち、四人の行方は伝わっていないが、その中で一人の行方だけは言い伝えが残されている。
落城の後、城の北にある五日市村の北寒寺という所で、景信の影武者一人が豊臣方に捕えられた。
豊臣方の武将はその影武者を引き出させ、本物の景信かどうか検分しようとしたが、
引っ立てられてきたのは、もはや年の頃七十歳程かと思われる老武者であった。
「なんじゃ、よぼよぼではないか。」
と、呆れ顔で武将がこぼすと、件の老武者は鋭い目をかっと開き、
「わしは、横地監物景信なり!」
と凛として名乗った。
この老武者の堂々とした態度を見て、武将も態度を変え、改まった態度で話しかけた。
「聞くところによれば、横地監物景信殿は、五十の賀を迎えられたが、なお勇壮であるとか。
ところが貴殿を見る限り、それより二十歳は老いておる。これぞ影武者に違いあるまい。」
しかし老武者は、
「いや、わしこそ横地監物景信なり!」
と、頑として言い張る。
これに武将が「この偽者め! ならば、本人である証を立ててみよ!」と叫ぶと、
老武者は歯を食いしばったのち、言った。
「こたびの敗北、まことに無念…。この思い、わし本人の他には、誰も計り知れまい。
その無念により、二十歳も老衰せり…。これぞ、景信である証拠なり。」
武将はこの言い分を聞くと、成程と大きくうなずき、
「ならば、貴殿を景信として処断する。」と言い渡した。
首を打たれる際、かの老武者の表情は、いかにも満足といった様子であった。
その間に、真の景信は小河内村の方へ落ち延びて行ったという。
01852/5
2014/06/22(日) 23:50:34.94ID:tk9XLXfB八王子城が落城する時、大蔵奉行の職にあった横地監物景信は、北条家の再興を図って莫大な財宝を城から持ち出し、
いずこかの場所にそれを埋蔵したという。
秘密が露見することを恐れた景信は、腹心の家来五人にそれぞれ横地監物を名乗らせ、そのうち一人にだけ本物の財宝を託し、
他の四人には偽の財宝を持たせ、それぞれに兵を付けて城から脱出させた。
その本物の財宝を託された者は、篠村帯刀という者であったと言われ、無事にある場所に財宝を隠したと言われているが、
実際には、篠村帯刀は北条氏照に従って小田原で討死したとされており、名前が伝わっていたこと自体、
秘密を守るために流した偽情報であったともされる。
そのため正確な財宝の隠し場所は謎なのだが、その場所を教えるという謎解き歌というものが残されている。
「朝日さす 夕日輝く 由比の峰 漆千杯 朱千樽」
というもので、朝夕の陽が良く差し込む場所、八王子城の北東にある由比原の丘に、漆の杯にして千杯、朱の樽で千樽もある、
莫大な財宝が眠っているという意味である。
後に、この歌の事を聞きつけた人々が盛んにその辺りを探しまわり、ある江戸のお大尽などは、
金に糸目をつけず散々に丘の辺りを掘りまくったという。
ところが、そうこうするうちにその謎解き歌は偽りだと主張する者が現れた。
横地氏の末裔だと名乗る者で、その者が言う所によれば、正しい本物の謎解き歌は次のようなものだという。
「漆千杯 朱千杯 黄金千杯 朝日さす 夕日輝く 楠の下」
このことが知れ渡ると、財宝を求める人々により、今度は北条家の旧領にある目立つ楠の木が掘り返され、
めぼしい楠の古木がなくなると、しまいには鎮守の森にある楠の神木までが狙われた。
そうするうちに、また新たな謎解き歌が見つかったといっては、八王子の甲の原・兜松・九十九塚などが掘り返されたが、
結局誰一人として財宝にたどりつけぬまま、今もどこかに本物の財宝は眠ったままだという・・・。
01863/5
2014/06/22(日) 23:57:02.97ID:tk9XLXfB高尾山の西方、小仏峠を経た峰続きの山中に、景信山という名前の山がある。
天正18年、八王子城がいよいよ落城寸前となったとき、横地景信は愛馬に鞭打ち西に向かって逃げた。
やがて恩方の里に入り、山道へとかかったが、既に馬も疲れており、山道の端から藤蔓が伸び出ているのに、
馬も人も気付けなかった。
景信の馬は、その藤蔓に足を取られてあっという間に横倒しとなり、更に悪い事にはそこは高い崖の上だったので、
景信は愛馬もろとも谷底の淵へとまっさかさまに転げ落ち、無残な最期を遂げてしまった。
淵にはまった景信は、息絶える前、駈けつけた村人にこう言い残した。
「拙者は、まだ永らえねばならぬ命を、藤蔓の為に失うことになった。憎いのはあの藤蔓じゃ。
我が魂魄はこの世に残り、今後この辺りの山には、藤は一本たりとも生えさせぬぞ!」
その後、この山には藤は一本も生えなくなったといい、景信が落ちた淵を「景信ヶ淵」、山の名を「景信山」と呼ぶようになった。
景信ヶ淵にはヤマメがたくさん住んでいるが、不思議な事には、この淵に住むヤマメはどれをとっても目が一つしかない、
片目の魚ばかりだという。景信は淵に落ちる前、既に敵の矢で片目を失っており、それがヤマメに乗り移ったのだという。
またあるとき、この淵の因縁を知らない太公望がここでヤマメ釣りをしていると、どこからか一匹の大きな蜘蛛が現れ、
その人の足を糸でぐるぐる巻きにしてしまった。その人は、逃げることもできず、終いには淵の中に落ち込んで死んでしまったという。
また山名の由来には別説もあり、甲州方面に備える狼煙台として、景信が守備していたことから来ているともいう。
01874/5
2014/06/23(月) 00:02:13.37ID:2C/a4wTB奥多摩にある栃窪という村に、田草川新左衛門という者が住んでいた。
元は甲斐武田家に仕えていたが、武田家滅亡後に北条家に仕え、天正18年の八王子籠城の際もこれに加わっていたが、
落城の際に城を落ち、自分の在所に帰ろうと檜原村から小河内へ山を越えようとした。
ところが新左衛門はそこで偶然、これも城を落ちのびて来た、八王子城本丸の守将・横地景信に出会った。
景信は、乱軍の中を切り抜けて来る途中で数か所の痛手を負い、いよいよ所存を決めて自害せんとしていたが、
幸いそこに新左衛門が通りがかったので、自分の最後の始末を頼んだ。
この頼みを引き受けた新左衛門は、景信自害の後、その骸を埋葬してそこに小さな社を営み、景信の短刀をその神体とした。
この社を立てた地は、新左衛門の住む栃窪村とは別の原村の内にあったが、後世、社の修繕を行う際には
新左衛門の子孫の家が修理していたという。
「武蔵国名所図会」では、上記のように別々に行動していた新左衛門と景信が、偶然出会ったように書かれているが、
八王子市史が引用する「三つ鱗翁物語」という史料では、新左衛門は景信が城を落ちるときに従った五人の従兵の一人で、
他の者が土民の襲撃で死に、景信もまた深手を負ったので、最後に生き残った新左衛門が後始末を託されたとしている。
01885/5
2014/06/23(月) 00:11:37.42ID:2C/a4wTB横地景信が自害(※)してから、三百数十年の時が流れた。
八王子城で討死した中山家範や狩野一庵の子孫は、徳川家に仕えるなど繁栄したが(特に中山の子孫からは大名になる者まで出た)、
一方で江戸時代における景信の評価は、城から逃れたという行為が武士道に反するとして非常に低く、
さらに小瀬甫庵の「太閤記」では、
「旧来からの家臣でもなかったのに氏照に取り入って立身し、百姓を虐げては金銀を取り諸士を悩ませた」
などと根も葉もない悪評までされてしまった。
また景信を祭った横地社では、神体の短刀を盗賊に奪われるという被害も受けたが、
社自体は変わらず小河内に存在し続けた。
ところが、昭和に入ると、小河内谷全体を水没させる大規模なダム計画の話が持ち上がり、
紆余曲折はあったものの、小河内村はダムの底に沈むことになってしまった。
当然、谷の内にあった横地社も湖底に沈む運命にあったが、幸いに社は八王子城跡に移されることになり、
社という形ではあるが、景信は約400年ぶりに八王子城へ戻ることになったのである。
現在、城跡に立つ八王子神社の横に小さな横地社が建てられており、傍らには由来を記す碑も建てられている。
昭和32年(1957)に建てられた、その石碑の裏面にある建立の日付は、敢えてその日を選んだのであろう、こう書かれている。
あの落城の日、6月23日と…。
(※)ここでは小河内で自害したという説で話を進めたが、他にも、落ち延びたが絶望して深淵に身を投げた、
または高麗郡の村に潜伏して姓名を変え、天寿を全うした等の話がある。
参考文献(武蔵国名所図会・新編武蔵風土記稿・八王子市史・落城ものがたり・武蔵野の民話と伝説)
八王子城落城の日だったので投稿。
最初は影武者の話だけにするつもりだったのに、調べていくうちにどんどん関連する話が出てきて
かなり長くなってしまった・・・。
両方のスレに一話ずつ投稿していくのも、同じ落城ネタばかり続いてウザがられそうだったし、
いい話の方が多めなこともあって、いい話と悪い話をまとめて一気に投稿させていただきました。
0189人間七七四年
2014/06/23(月) 01:10:13.60ID:UO2/vC590190人間七七四年
2014/06/23(月) 06:42:45.62ID:IN14G2Ii沢の源流に放射線を出す石が露出してるのが原因だったけど
0191人間七七四年
2014/06/23(月) 06:50:47.03ID:eUZS7rHfオカルトより怖いわw
0192人間七七四年
2014/06/23(月) 08:34:31.10ID:NFDW0WCHメッコ岩魚の怪という話でアニメ化もされてた(´・ω・`)
0193人間七七四年
2014/06/23(月) 08:37:31.97ID:+/92uB7z特に川なんかだったら顔料の岩とかあるし
まあ管理されなきゃいけないようなものはなかなかぶち当たらんだろうが
0194人間七七四年
2014/06/23(月) 10:06:29.72ID:E/LRBovL0195人間七七四年
2014/06/23(月) 15:13:16.14ID:D97Hzhx70196人間七七四年
2014/06/23(月) 15:22:44.13ID:D97Hzhx7(●Д° ))3333Ξ<
0197人間七七四年
2014/06/23(月) 15:34:50.89ID:JQV1wirX0198人間七七四年
2014/06/23(月) 15:40:50.78ID:i97Wvsz90200人間七七四年
2014/06/23(月) 22:00:57.33ID:0IYqdZvgttp://www.47news.jp/CN/201406/CN2014062301002133.html
これでますます光秀の動機が分からなくなったで
0201人間七七四年
2014/06/23(月) 22:13:24.79ID:90rTUygq光秀は手に入れた情報を信長に伝えることで油断を誘い、
ついにアーチーアーチーと言わせることに成功したというわけだな。
0202人間七七四年
2014/06/23(月) 22:15:55.66ID:ObbiBE9u理由について議論になるのは当たり前と言えなくもない
0203人間七七四年
2014/06/23(月) 22:41:38.97ID:+NCEOwia内容まとめた本をみんな大好き吉川弘文館から出版するそうだ
0204人間七七四年
2014/06/24(火) 07:15:00.05ID:gH2wnzty0205人間七七四年
2014/06/24(火) 07:52:52.18ID:onu520G7はぁふざけんなマジで、って光秀を折檻したんだろ
晩年になると人は狂暴と化す、秀吉がよい例
0206人間七七四年
2014/06/24(火) 10:30:28.79ID:MbN2x83R0207人間七七四年
2014/06/24(火) 11:31:11.39ID:/MOH7K/30208人間七七四年
2014/06/24(火) 12:19:08.62ID:gAl9BQsI『人間個人にはそれぞれに本当のキャラクターがある(真我)』と言うのがヒンドゥー教
って理解で合ってる?
0210人間七七四年
2014/06/24(火) 16:36:53.78ID:8UIVMbnp0211人間七七四年
2014/06/24(火) 17:30:31.04ID:+iFynjsMどういうわけかその馬が秀宗の方へ馳せて来た。供の士の大藤某という者は
速やかに立ち向かい、馬の口を取って動かさず、その間に秀宗は通り過ぎた。
その馬の脇の士が馬を抑えようと後から馳せて来た。その者は大藤が
馬の口を取って立っているのを見て、どのように思ったのか刀を抜こうとした。
しかし、伊達の供たちが大勢やって来てその者を取り押さえて動かさなかった。
その時、馬上の主人は槍を取ろうとしたが大藤は片手で槍をしっかりと握って
動かさず、「このような事はあるものです。御馬が感が強いために馳せ出たので
止めたのです。慮外は少しもいたしてはおりません」と言った。
これに馬上の主人が「こうして取り囲むのは慮外ではないのか?」と言うと、
大藤は「御家来が粗忽に見えましたので留めたまでのことです。慮外や無礼と
申すようなことはいたしてはおりません」と言い、一同は退いたので馬上の
主人もそのまま行き過ぎた。
この大藤某という士は大力無双の勇士で、よく物の義理に通じていたため、
大藤の一言で事件も無く済んだのである。
――『明良洪範続編』
0212人間七七四年
2014/06/24(火) 19:15:37.01ID:XUet17Dbこの話まだ出ていなかったのかな
武士の美意識がわかる話だから印象深い
たしかに伊達家の行列前を横切ったのはこの侍の過失。
斬られても仕方ない過失ではあるけど、黙って連行されても最悪首斬られるのだから、
それならその場で刀抜いて斬り死にする最期を選ぶべきだってことだろうな
討ち死、切腹〉〉(越えられない壁)〉〉斬首 の世界観だし
この話が作中に出てくる五味康祐の短編小説『国戸弾左衛門の切腹』オススメ
映画にしてほしい深い話だけど、映画にされることはないであろう名作
0213212
2014/06/24(火) 19:22:52.89ID:XUet17Dbいい話スレと悪い話スレを間違えた
悪い話の>>212は>576へのレス
>>211
この話は大藤さんの言葉の機転で結末まで爽やかないい話だ
0214人間七七四年
2014/06/24(火) 21:04:07.32ID:tSLvIleb加賀前田家、仙台伊達家、薩摩島津家などは別格の大名なので、
台徳院殿(徳川秀忠)とり白銀300枚、東照宮(徳川家康)とうぃ200枚、合計500枚づつ下された。
森美作守(忠政)などの大名には、200枚と100枚、合計300枚を下された。
この時、森忠政は白銀を下げ渡された即日に、今日の町人より借りた銀を返却した。これに人々は
深く感じ入ったそうである。
(老人雑話)
森忠政、幕府からの下賜金で即座に借金返済、というお話し。
0216人間七七四年
2014/06/25(水) 21:53:46.24ID:uqVMZxp+http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0026-11005&IMG_SIZE=&IMG_NO=42
該当箇所は見つけたけど、文字の解読に自信がないから誰かに任せた
0217215
2014/06/26(木) 02:54:49.60ID:7lrUXonottp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925907
原文だと主語省略だ
0218人間七七四年
2014/06/26(木) 06:59:40.18ID:DjhyFHsF司馬遼太郎的には、秀吉が秀頼が生まれてもて余した秀次の引き取り先を探してて、まだ嫡子がなかった毛利家に目をつけた
が、本家に馬鹿を入れられたら困るってんで小早川隆景が自分の嗣子を廃して秀次を小早川に入れて嗣がせ、本家には穂井田からの養子を入れたってなってるな
妾の子から本家に帰った形じゃないっけ?
結果的には輝元に秀就がうまれたから、家系は輝元直系で継続じゃないかな?
小早川は途絶えて毛利はしっかり残した隆景はやっぱり凄い
0220人間七七四年
2014/06/26(木) 13:11:20.59ID:dsTFZoxI0222人間七七四年
2014/06/27(金) 13:08:26.36ID:+6etSkFvちゃんと「秀秋」て書いてたぞ
後は秀吉→如水にしたら司馬遼太郎と同じ説だが
0223人間七七四年
2014/06/29(日) 04:51:10.55ID:IN8XrTCj小西行長は一番に朝鮮の都に入り高名をしようとして、その道筋の城には手をかけず、直に入ろうとしている、
という情報が聞こえてきた。
そのため黒田長政は小西が通りすぎた道に残された城を攻め落とし、後続の味方が安心して通過できるようにしようと
大道筋に進軍した。中でも昌原の城には大勢が籠城していたのを、長政は昼夜これを攻め、数度の戦いの後ついに乗っ取り、
500余人を討ち取った。
長政が道筋の城々を攻略した事により、後続の軍勢は難なく都の攻め入ることが出来たのである。
(黒田家譜)
黒田長政、小西の進軍の後で後続勢のためのフォローをしていたんだよ、というお話。
0224人間七七四年
2014/06/29(日) 09:43:42.52ID:dXKwuvBU0225人間七七四年
2014/06/29(日) 12:51:37.41ID:KEm12Ldq彼は長篠河で甲州の芋川鳶之介に槍をつけた。
藤五郎の若党両人は敵(鳶之介のこと)を抱きすくめて河の中へ
押し倒した。この時、鳶之介は三度まで頭をあげて名乗った。
このことを城和泉は聞き、涙を流して、
「なんとまあ、武士の一言は大事なものである。鳶之介はかねがね、
『私が討死する時は三度までは名乗るつもりだ』と申していた」
と言った。
――『武功雑記』
0226人間七七四年
2014/06/29(日) 16:09:51.25ID:xLVXVpMqしかし名前が創作臭いですね。
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