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戦国ちょっといい話40

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0001人間七七四年2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/

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戦国ちょっと悪い話39
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年2014/05/20(火) 14:36:12.56ID:VP8jXHda
南無八幡大菩薩
>>1のスレ立て御照覧あれ
0003人間七七四年2014/05/21(水) 11:08:22.51ID:XYhB37jT
慶長五年頃の、板島普請の総奉行を勤めた藤堂弥二郎(氏勝)宛、藤堂高虎書状

『一、先ごろ申し遣わしたように、作事総奉行のこと、弥二郎には入念に申し付ける。
   いつも言っているように、酒は控えるのだぞ?
   (いつもの如く酒をひかえ可申候事)

 一、久助の負傷は苦しかるまじき事であるから、なお以って養生するように。
   大工屋に居たままでは心も塞いでしまうだろうから、弥治郎の所に行かせて養生させるのが良いだろう。
   だからといって、疵が本復するまで、女を側によせてはならんぞ。
   (乍去疵本復之間はをんなそばへよせ申間敷候)

 一、板島の作事がおおかた終われば、條太郎、五郎を呼び寄せ、万事相談するように。
   仔細は内膳の方に申し遣わしておく。

九月五日                  御判 』

藤堂高虎の、人情味あふれる家臣への書状である。
0004人間七七四年2014/05/21(水) 21:21:50.21ID:ZMJJzs1O
市松「酒が入ると人が変わる奴っているよね」
0005人間七七四年2014/05/21(水) 22:01:24.25ID:BuHi2HS2
>>3
その後の氏勝さんは、大坂の陣で討ち死にしてた。可愛がられてたのを恩に思ってたんだな。
0006人間七七四年2014/05/22(木) 01:11:01.90ID:L1xgAw44
なんか最近高虎の話ばっかだね
0007人間七七四年2014/05/22(木) 01:16:05.95ID:vwqCaGxs
ネタも少なくなってきてるし、普通の書き方だし、俺は感謝してるよ。
自分は投下出来るほど知らないからありがたい。
0008人間七七四年2014/05/22(木) 06:38:21.32ID:RWbobTCw
藤堂高虎が放浪していた頃、一時期その身を山科の櫻井林佐の家に寄せていたことがあった。

ある日、高虎は道の途中で無礼を働いた農民を斬ってしまい、それを見た付近の農民たちが群集して
彼を包囲した。流石の高虎も数百の農民を尽く斬ることも出来ず、その場を立ち退いて櫻井家へと
逃げ込んだ。すると群衆は後を追って櫻井家を取り囲み、形成頗る険悪となった。
しかし櫻井林佐はこの地域の名望家であったので、百方なだめすかして群衆を退散せしめ、
高虎の生命を救った。

それから、40年余りの歳月が流れた。
藤堂高虎は伊賀伊勢30万石の国持大名となり、櫻井林佐は、依然山科の土豪であった。
高虎はその旧誼を懐かしみ、「五百石で召し抱えるからこちらに参ってほしい」と伝えた。
しかしこれに、林佐は

「ご好意は、身に余って忝なく存じます。しかし、」と、これを断った。その上で
「ですが、そこまで思召していただけるのなら、今後、私の子孫が零落することが有れば、
その時にお救いして下されたい。」

そう答えた。高虎はこれを快く承知し、林佐の二人の子供、利右衛門、平右衛門の両名を津城も呼び寄せ
面謁し『申出次第、何時でも扶助すべき旨』の黒印書を渡した。

後代、文化年中、藤堂家より櫻井林佐の子孫に、年々白銀5枚づつ下賜すべき旨の辞令を発したことがある。
また文政年中には、櫻井家の親族である津の町の医師、渡辺某が、櫻井家相続を藩庁に出願して
許可された顛末が、町年寄の日記に詳しく記されている。

(伊藤又五郎役用日記)
0009人間七七四年2014/05/22(木) 14:12:11.40ID:ss+K9WNr
(伊藤又五郎役用日記)は「渡した」と「後代」の間に入れるべきじゃないかな
0010人間七七四年2014/05/23(金) 02:34:43.13ID:UhcbaXh0
ある時、秀吉が多くの美女を集めて酒宴を行った際に、羽柴下総守(滝川雄利)
を呼び出して言うには「合戦で勝利を得て、このように美女を集めて楽しい」
とのことだった。

その時、下総守は刀を抜いて女どもを激しく追い立てたので、秀吉は驚いて、
「何事を仕るのか」と言った。すると下総守は申し上げて、

「まったくもって、ひたすらふざけた事をしているわけではありません。

天下の大敵にさえお負けにならない御大将が、あれら如き女どもにお負けになって
天下の政をもお聞きなされず、そのうえ御病身にさえもなられてしまいましたので
以ての外なことであり、あの女の中にきっと一人か二人敵がいるはずです。

そう思いましたのでただいま切り殺そうと思い追いかけましたが、大勢の中なので
どれがそれとも知り難く思いました」と諫言した。秀吉もこの道理に伏して笑った
ということである。

――『明良洪範続編』
0011人間七七四年2014/05/23(金) 20:06:29.37ID:bY0iimsq
黒田如水は元来、吉川元春、その嫡子元長に厚意があった。
その吉川家では、元春が天正15年(1587)に死去し、元長もその翌年に卒した。
家老たちは、元春の次男である元氏を立てようと協議していたが、この時、黒田如水が考えたことには、

『元氏は病弱であり、現在の戦国の時代に家を継ぐべき器量ではない。元氏の弟である広家は、
その家督となるべき器量がある。これに家を継がせるのが然るべきである。』

そして広家の家臣、香川又左衛門と相談し、豊臣秀吉へと言上して、終に広家は吉川毛の家督を
継承した。このころ広家の年齢は二十歳より下であった。

このように、吉川家が黒田家の恩意を被ったのは、関ヶ原で東軍への内通の頼みとしただけでなく、
以上のような由緒もあったのである。

吉川広家は寛永2年(1625)9月21日に死去したが、この時以下のように遺言した。

『私は如水・長政と多年約束をし、一生の間、互いに裏切ったことはなかった。私の没後、
子孫に至るまで親懇の筋目を忘れないようにと思う。
紫野大徳寺龍光院は、如水・長政の菩提寺である。両公の塔の傍に、我が遺骨を葬り、
収めるように。』

そして遺言のとおりに葬られ、石塔を建て、金光院中厳如兼と称した。
それ以後、代々の吉川家は黒田家対し心の入った篤心であること、その先祖の言葉を虚しくしていない、
と言うべきであろう。

(黒田家譜)

黒田家譜より、黒田家と吉川毛の関係についての記述である。
0012人間七七四年2014/05/23(金) 20:17:49.12ID:+AyOeJaT
そんな元氏さんは広家さんより長生きしてたりするからわからんものよね〜
0013人間七七四年2014/05/23(金) 23:41:32.17ID:6NDjPT4e
元氏は他家を継いじゃったからな
0014人間七七四年2014/05/24(土) 09:00:57.28ID:6rgeaHRD
『晩明け、勘解由が帰ってきたのでこのように命じておいた

一、主殿の煩いも、とにかく灸をしなければ根切(完治)は出来ないものである。
  油断なく灸をするように。灸をしても悪化するようなら、それはもう時節が来てしまったものだと
  考えている。

一、仁右衛門なども、油断なく灸をして、養生しているということだ。

一、先にも書いたが、灸をしても症状が悪化するようなら、もはや是非無き状況だ。
  気ままを申し灸をせず、不養生いたすような者は、誰によらず跡継ぎを立てるわけにはいかない。
  これはこの通り伊賀伊勢の家中にも相触れておくように。

右のとおり、何れも申し触れておくように。国元では耕作、米の販売、火の用心に、油断の無いように。
なお、その他は勘解由が申し遣わす。

  卯月八日                 いつみ(和泉)

                             百々太郎兵衛殿
                             馬淵半左衛門殿 』

藤堂高虎による、お灸のすすめである。
0015人間七七四年2014/05/24(土) 19:59:58.95ID:E2iMKSOO
「目またはリュウマチスを患っている病人を治療するのに、三、四千の烙鉄を身体につける」
と書かれた場合にも同様のことが言い得る。(=ヨーロッパと同じに考えてはいけないという意味)
それは日本では非常に一般的なことであって、よほど話を割り引いて解してもらいたい。
というのは、その「烙鉄」とは、当地では乾いた(空白)を豆粒もしくは大型のざくろ粒くらいの小球にしたもので、
その上部に点火し、肉体の上に置き、すべて燃え尽くすまで火をつけたままにする。
それは非常に手軽なことで、同じ場所に十五か二十個置いておくと、その箇所の肉はすでに厳しく鍛えられているから、
それ以上置いてもほとんど疼痛を感じなくなる。
従ってそれらは私たちヨーロッパ人が言うような烙鉄の如きものではない。
私自身、その日本のを試みたことがあって、種々の疼痛や眼病のために三千個以上、背中や膝にその小球を置いたのであった。

ルイス・フロイスによるお灸の解説である。
0016人間七七四年2014/05/24(土) 20:09:20.21ID:XQ2q3thv
灸でだめならあきらめるって・・・
それって血行よくしてるだけなんだが
0017人間七七四年2014/05/24(土) 22:54:38.61ID:jcM12/GD
河野家の旗下にあった伊予の南部、久万山の辺りは仲の悪い小豪族が割拠している状態だったため、しばしば土佐の一条家が乱入し、悩まされていた。
そのため河野氏は久万山に築城し「大いに敵を払い除く」という願いを込めて大除城(おおよけじょう)と名付けた。
また、大除城を中心に30もの支城を築き、城主として重臣の大野直家を置き、守りを固めた。

この大野直家の孫にあたる大野直昌のころ、大除城は長曽我部の軍勢に城を囲まれ落城の危機に瀕した。

大野直昌は信仰する山神に加護を求め、小姓衆に山神(ダイバ)の面を付けさせ、太鼓や樽を打ち鳴らし山神に奉納した。
すると俄かに大雨となり、大野勢は大雨に乗じて打って出て長曽我部勢を破った。
これ以来、大野直昌は山神への信仰を厚くし、山神への感謝と共に、仮面をつけ太鼓を打ち鳴らし奉納したという。


この大野直昌の故事に着想を得て、昭和59年に創作したものが久万山五神太鼓らしいです。
0018人間七七四年2014/05/24(土) 23:15:08.50ID:vaqFf0dC
山神はたいてい姫をよこせと要求して断られて大暴れするけど、奉納されるものにたいしては機嫌が良くなるんだな
0019人間七七四年2014/05/25(日) 15:47:30.82ID:wPkIi9ip
掃部頭殿(井伊直孝)は毎朝刀や脇差をぬぐいなさった。
武士にとってこれは忘れてはならないことであり、
冥加のためなのだという。

同人の言によると「日本は日本流が良い。遠い唐の書物に
とらわれて物知りぶるのは悪いことだ」という。
(同人云。日本は日本流よし。遠き唐の書になづみて。
物知りだてはあしし。)

施薬院の親類の柏原可休という者は掃部殿のところにいた。
この者の話によると「掃部殿の平生の物語は、武や義の他には
まったく余計な事柄が無かった」という。

――『武功雑記』
0020人間七七四年2014/05/26(月) 14:24:05.42ID:AnjE5Rax
讃岐の香川氏の家来に朝比奈義秀の末裔、朝比奈弥太郎という勇士がいた。
朝比奈弥太郎は大力無双の豪傑で、甲山城を築城したと言われている。

永禄元年、三好義賢(實休)が香川之景を攻めた善通寺合戦に際し、弥太郎は甲山南麓で三好勢を迎え撃った。
弥太郎は勇戦し、190人もの敵を討ち取った後に力尽き討死したという。

弥太郎の最期の地のそばには池があり、朝比奈池、弥太郎池と呼ばれ、その水利で田畑を潤していたが、どういうわけか池に落ちて死んでしまうものが後を絶たなかった。
これは討死した弥太郎の祟りではなかろうかと、村人は池の中州に弥太郎の墓を築き供養した。すると池に落ちる者はいなくなったという。
昭和のころに池は埋め立てられ、野球のグラウンドになった。
今では同地に記念碑が残されている。

また、甲山には朝比奈弥太郎を祀る朝比奈神社がある。
古くから力をくれる神様として親しまれ、今では試験や選挙の前に力をもらいにくる者も多いとか。

徳川の家来の朝比奈弥太郎は同名異人です。念のため。
0021人間七七四年2014/05/27(火) 00:09:47.71ID:UZJ9zVGj
そのグラウンドでは
フォークボールがよく落ちるようになるという祟りが起こるかもしれない
0022人間七七四年2014/05/27(火) 06:54:31.25ID:R4x/uPLU
いわくのある土地をなんかして祟られても、まつってあげればおkなのって日本的
0023人間七七四年2014/05/27(火) 09:38:30.58ID:RpaT+Y89
四国霊場二十五番札所、津照寺に伝わる昔話。

慶長のころのお話。
土佐の藩主、山内一豊が室戸岬の沖を航海中に突然の時化に襲われた。
船体が悲鳴を上げ、このままでは沈没してしまうと思われた・・・
まさにその時、何処からともなく一人の僧が現れ、巧みに船の舵を取り、船は無事に港へと辿り着くことができた。
一豊が礼を言おうと僧を探したが、すでに僧の姿はどこにもなかった。
近くの寺の僧であろうかと、一豊が探させると、なんと津照寺の御本尊が潮水で濡れているのが見つかった。
この寺の御本尊は地蔵菩薩であり、弘法大師が安置したと言われ、以来「舵取り地蔵」と呼ばれるようになった。

またこの地蔵菩薩は僧に身を変えて火事を村人に知らせ、火難を逃れたという物語もあり、今でも「水難、火難よけ」の仏さまとして親しまれている。
0024人間七七四年2014/05/27(火) 11:18:33.07ID:fLUiDFvx
ちょろいよね
0025人間七七四年2014/05/28(水) 08:25:39.01ID:P9sCyWO2
まとめで見たら香川之景の家来って凄いのな。

馬より速い、頬切孫右衛門
弓の名手、森久右衛門
190人殺し、朝比奈弥太郎

キャラも立ってるし、そこらへんの戦隊ヒーローより強そうだ。
0026人間七七四年2014/05/28(水) 19:17:23.49ID:HRPgd+YQ
黒田如水はこのように言われた

「大将たる人には、威というものがなくては万人の押えにならぬものである。
しかしながら、これを悪しく心得て、わざと我が身に威をこしらえて付けようとするのは、
かえって大いなる害となるものだ。

何故かといえば、ただ諸人に恐れられるように身をつくろうのを威であると心得、家老に会っても
威高ぶり、何事もないのに目を怒らせ、言葉を荒くし、人の諌めを聞かず、自分に非がある場合でも
かさにかかって言い紛らわし、我意ばかりを押し通そうとする。
そんなふうだから家老も諌めを言うことをせず、自ずから身を引くようになっていくものである。

家老さえかくの如く成れば、ましてや諸氏末々にいたるまで、ただ怯え恐れているだけで、忠義の思いを
なす者は居なくなり、我が身を守ろうと汲々とするだけになって、奉公を心から務める事もなくなる。

このように高慢で、人を蔑ろにする故に、臣下万民はこれを疎み、それによって必ず家を失い、
必ず滅ぶのである。

だからこそ、よくよく心得ておくべきである。真の威というものは、先ずおのれ自身の行儀正しく、
理非賞罰が明らかであれば、強く人を叱り脅すことはなくても、臣下万民敬い恐れ、上を侮り
法をかろしむ者もいなくなり、自ずから威が備わるものなのである。」

(黒田家譜)

黒田如水による「大将の威」についての説明である。
0027人間七七四年2014/05/28(水) 22:51:26.48ID:D0m0cEfy
>>26
これは現代に通ずる物があるよね

あと春秋戦国時代の孟子だかが言った「彼らは人の目を気にしてばかりの臆病者」みたいな表現を補足すると納得できる
他人から見下されたく無いから威を取り繕ってる時点で心の弱さが露呈する
0028人間七七四年2014/05/29(木) 08:11:51.62ID:K1Dn54YV
少年義光は力持ちだった

最上義光は幼少の頃から身体が人一倍大きかった。
ある日蔵王へ出かけたときの事、家来たちが神社の傍らで大きな石を見つけた。

家来1「おまえあの石が持てるか?」
家来2「わかんねえけど試してみんべ」

石は揺るぎはすれども誰一人担ぎ上げる事が出来なかった。

少年義光「試しにやらせてみて」
家来「若殿無理ですって。大の大人の私らだって持てないんですから」

義光「えい」

ひょい

家来「!」

だれも持ち上げられなかったこの大石を義光は軽々と持ち上げた

「羽源記」

この石は「義光公の力石(安山岩・約190キログラム)」と呼ばれ、今でも蔵王に伝わっている

義光「大人ってたいした事ないのかな?」

山形城に戻った義光は「俺より強い奴に遭いに行く」と書き置きを残し武者修行の旅に出かけたが
最初に立ち寄った国に毘沙門天の生まれ変わりと呼ばれる軍神様がいて
義光の短い旅は彼の帰国により早々に終わった

書き置きに気付いた家来たちによって連れ戻されたといった話もある

「山形の昔話」
0029人間七七四年2014/05/29(木) 09:29:03.09ID:kydUYaKA
家臣「早く若を連れ戻さないと養子にされてしまう!」
0030人間七七四年2014/05/29(木) 19:09:26.92ID:w8YPQq8w
常識人なのに割とフリーダムだな鮭様w
0031人間七七四年2014/05/30(金) 00:46:44.87ID:LllYD7p8
常識人・・・?
0032人間七七四年2014/05/30(金) 03:33:59.36ID:nOyEJ+RM
佐賀の戦国研究会アカウント(@sagasengoku)からの転載、転載なんで改行、段落割り以外は変えてないのでそこのところはご容赦を

関ヶ原も終わり徳川政権が確立した頃、江戸では鍋島家・桜田屋敷と、伊達家の屋敷が隣りだった。
佐賀から倉町宗伯という者、江戸へ医術修行に登っていたが、伊達政宗公と懇意になり、度々伊達屋敷を訪れていた。

ある時、伊達家へ、立花宗茂公がお出でになった。
話の始めに伊達政宗公が問われたのは、『関ヶ原後、立花殿と鍋島殿と合戦をしたというのは、我が屋敷の隣の鍋島殿であるか。』
立花宗茂公答えて曰く『いかにも。左様にございます。』
伊達政宗『その時は、勝利とはならなかったようだが、どの様な事だったのか。』
立花宗茂公答えて曰く『鍋島は、卑怯ものでござった。その為、あの一戦(江上八院の戦い)は我等勝利を得られぬ結果となりました』 
伊達政宗公『時に、宗伯よ。立花殿の話は、その通りであるか?』

たまたまこの様な場に居合わせてしまった倉町宗伯、答えて曰く
倉町『いや、左様にてはあらず。かねて立花様と、あるじ鍋島家はご昵懇であった為、前もって使者を立て申した。
今度思いがけなく討伐の命を受けた為、近日中に柳川を攻める事になる。武具その他籠城の御用意をなされよ、
よく準備が整ったと知らせを貰えれば軍勢を差し向ける、かねてご懇意の間柄、事前に申し通しておきまする、と直茂公の意思を申し上げた所、
立花様はご返答に(用意と言っても特に無い。いつでも攻めて来られるがよかろう。)とあられた。双方合戦の日時を決めて一戦をしたのでござる。
この時の鍋島家の使者は、それがしが親族、倉町出雲(備前左衛門信秀)でござる。ただ今の立花様が仰せのお話は、納得できかねまする。』
倉町は、苦々しい気持ちで申し上げた。

すると立花宗茂公は大変、御不快な様子になられた。
後日、伊達政宗公が鍋島勝茂公と面談した時、政宗公が「先だってこういう事があってな」と、この時の話をした。
勝茂公は大変お喜びになられ、倉町宗伯へ50石の御扶持を与えられたそうだ。

(焼残反故:勝茂公譜考補二より)

もめごとがあった話だけど、オチが倉町の忠義を褒める話なのでいい話スレに
0033人間七七四年2014/05/30(金) 07:51:56.94ID:HYw8PQtp
良い話なのか悪い話なのか良く分からないけど、立花宗茂が捏造するようなカス野郎だったってこと?
どっちかというと悪い話っぽい

というか形式的な質問なのか知らないけど、
伊達政宗「その鍋島とは隣家の鍋島か?」
というのに驚いた。当時はまだ情報社会じゃないからそんな事も認知してなかったのか。
いかに北と南とは言え。
0034人間七七四年2014/05/30(金) 08:00:57.94ID:86xlVFgA
いや
両家の返答はどちらも正しいでしょ
0035人間七七四年2014/05/30(金) 10:23:42.23ID:hDYmQrCK
倉町がこの場で立花をdisる発言はやりにくいけど、
主家の名誉のために意見をはっきり伝えて反論した忠義あふれる良い話だと思った
0036人間七七四年2014/05/30(金) 11:11:01.17ID:PbtyJr34
宗茂にとっちゃ浪人する羽目になった思い出したくもない敗戦だろうに
そういうの気にしないでズカズカ聞こうとする所が実に政宗
0037人間七七四年2014/05/30(金) 11:25:28.65ID:DAxvciZu
遺恨ある同士を煽ってニヤニヤしてるいつもの政宗としか。
0038人間七七四年2014/05/30(金) 11:41:32.86ID:nOyEJ+RM
>>33
それはさすがにうがち過ぎじゃあないかなあ
伊達が鍋島家を知らんってこともないだろう
肥前名護屋に赴いたこともあるわけだし、成富兵庫と陣張りでごちゃごちゃした話もあったし
ただ「あーお隣さんの鍋島さんね!」ぐらいの感覚じゃね
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