戦国ちょっといい話40
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0001人間七七四年
2014/05/20(火) 09:20:33.70ID:mfECj0EZ戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話39
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姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話39
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【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2014/05/20(火) 14:36:12.56ID:VP8jXHda>>1のスレ立て御照覧あれ
0003人間七七四年
2014/05/21(水) 11:08:22.51ID:XYhB37jT『一、先ごろ申し遣わしたように、作事総奉行のこと、弥二郎には入念に申し付ける。
いつも言っているように、酒は控えるのだぞ?
(いつもの如く酒をひかえ可申候事)
一、久助の負傷は苦しかるまじき事であるから、なお以って養生するように。
大工屋に居たままでは心も塞いでしまうだろうから、弥治郎の所に行かせて養生させるのが良いだろう。
だからといって、疵が本復するまで、女を側によせてはならんぞ。
(乍去疵本復之間はをんなそばへよせ申間敷候)
一、板島の作事がおおかた終われば、條太郎、五郎を呼び寄せ、万事相談するように。
仔細は内膳の方に申し遣わしておく。
九月五日 御判 』
藤堂高虎の、人情味あふれる家臣への書状である。
0004人間七七四年
2014/05/21(水) 21:21:50.21ID:ZMJJzs1O0006人間七七四年
2014/05/22(木) 01:11:01.90ID:L1xgAw440007人間七七四年
2014/05/22(木) 01:16:05.95ID:vwqCaGxs自分は投下出来るほど知らないからありがたい。
0008人間七七四年
2014/05/22(木) 06:38:21.32ID:RWbobTCwある日、高虎は道の途中で無礼を働いた農民を斬ってしまい、それを見た付近の農民たちが群集して
彼を包囲した。流石の高虎も数百の農民を尽く斬ることも出来ず、その場を立ち退いて櫻井家へと
逃げ込んだ。すると群衆は後を追って櫻井家を取り囲み、形成頗る険悪となった。
しかし櫻井林佐はこの地域の名望家であったので、百方なだめすかして群衆を退散せしめ、
高虎の生命を救った。
それから、40年余りの歳月が流れた。
藤堂高虎は伊賀伊勢30万石の国持大名となり、櫻井林佐は、依然山科の土豪であった。
高虎はその旧誼を懐かしみ、「五百石で召し抱えるからこちらに参ってほしい」と伝えた。
しかしこれに、林佐は
「ご好意は、身に余って忝なく存じます。しかし、」と、これを断った。その上で
「ですが、そこまで思召していただけるのなら、今後、私の子孫が零落することが有れば、
その時にお救いして下されたい。」
そう答えた。高虎はこれを快く承知し、林佐の二人の子供、利右衛門、平右衛門の両名を津城も呼び寄せ
面謁し『申出次第、何時でも扶助すべき旨』の黒印書を渡した。
後代、文化年中、藤堂家より櫻井林佐の子孫に、年々白銀5枚づつ下賜すべき旨の辞令を発したことがある。
また文政年中には、櫻井家の親族である津の町の医師、渡辺某が、櫻井家相続を藩庁に出願して
許可された顛末が、町年寄の日記に詳しく記されている。
(伊藤又五郎役用日記)
0009人間七七四年
2014/05/22(木) 14:12:11.40ID:ss+K9WNr0010人間七七四年
2014/05/23(金) 02:34:43.13ID:UhcbaXh0を呼び出して言うには「合戦で勝利を得て、このように美女を集めて楽しい」
とのことだった。
その時、下総守は刀を抜いて女どもを激しく追い立てたので、秀吉は驚いて、
「何事を仕るのか」と言った。すると下総守は申し上げて、
「まったくもって、ひたすらふざけた事をしているわけではありません。
天下の大敵にさえお負けにならない御大将が、あれら如き女どもにお負けになって
天下の政をもお聞きなされず、そのうえ御病身にさえもなられてしまいましたので
以ての外なことであり、あの女の中にきっと一人か二人敵がいるはずです。
そう思いましたのでただいま切り殺そうと思い追いかけましたが、大勢の中なので
どれがそれとも知り難く思いました」と諫言した。秀吉もこの道理に伏して笑った
ということである。
――『明良洪範続編』
0011人間七七四年
2014/05/23(金) 20:06:29.37ID:bY0iimsqその吉川家では、元春が天正15年(1587)に死去し、元長もその翌年に卒した。
家老たちは、元春の次男である元氏を立てようと協議していたが、この時、黒田如水が考えたことには、
『元氏は病弱であり、現在の戦国の時代に家を継ぐべき器量ではない。元氏の弟である広家は、
その家督となるべき器量がある。これに家を継がせるのが然るべきである。』
そして広家の家臣、香川又左衛門と相談し、豊臣秀吉へと言上して、終に広家は吉川毛の家督を
継承した。このころ広家の年齢は二十歳より下であった。
このように、吉川家が黒田家の恩意を被ったのは、関ヶ原で東軍への内通の頼みとしただけでなく、
以上のような由緒もあったのである。
吉川広家は寛永2年(1625)9月21日に死去したが、この時以下のように遺言した。
『私は如水・長政と多年約束をし、一生の間、互いに裏切ったことはなかった。私の没後、
子孫に至るまで親懇の筋目を忘れないようにと思う。
紫野大徳寺龍光院は、如水・長政の菩提寺である。両公の塔の傍に、我が遺骨を葬り、
収めるように。』
そして遺言のとおりに葬られ、石塔を建て、金光院中厳如兼と称した。
それ以後、代々の吉川家は黒田家対し心の入った篤心であること、その先祖の言葉を虚しくしていない、
と言うべきであろう。
(黒田家譜)
黒田家譜より、黒田家と吉川毛の関係についての記述である。
0012人間七七四年
2014/05/23(金) 20:17:49.12ID:+AyOeJaT0013人間七七四年
2014/05/23(金) 23:41:32.17ID:6NDjPT4e0014人間七七四年
2014/05/24(土) 09:00:57.28ID:6rgeaHRD一、主殿の煩いも、とにかく灸をしなければ根切(完治)は出来ないものである。
油断なく灸をするように。灸をしても悪化するようなら、それはもう時節が来てしまったものだと
考えている。
一、仁右衛門なども、油断なく灸をして、養生しているということだ。
一、先にも書いたが、灸をしても症状が悪化するようなら、もはや是非無き状況だ。
気ままを申し灸をせず、不養生いたすような者は、誰によらず跡継ぎを立てるわけにはいかない。
これはこの通り伊賀伊勢の家中にも相触れておくように。
右のとおり、何れも申し触れておくように。国元では耕作、米の販売、火の用心に、油断の無いように。
なお、その他は勘解由が申し遣わす。
卯月八日 いつみ(和泉)
百々太郎兵衛殿
馬淵半左衛門殿 』
藤堂高虎による、お灸のすすめである。
0015人間七七四年
2014/05/24(土) 19:59:58.95ID:E2iMKSOOと書かれた場合にも同様のことが言い得る。(=ヨーロッパと同じに考えてはいけないという意味)
それは日本では非常に一般的なことであって、よほど話を割り引いて解してもらいたい。
というのは、その「烙鉄」とは、当地では乾いた(空白)を豆粒もしくは大型のざくろ粒くらいの小球にしたもので、
その上部に点火し、肉体の上に置き、すべて燃え尽くすまで火をつけたままにする。
それは非常に手軽なことで、同じ場所に十五か二十個置いておくと、その箇所の肉はすでに厳しく鍛えられているから、
それ以上置いてもほとんど疼痛を感じなくなる。
従ってそれらは私たちヨーロッパ人が言うような烙鉄の如きものではない。
私自身、その日本のを試みたことがあって、種々の疼痛や眼病のために三千個以上、背中や膝にその小球を置いたのであった。
ルイス・フロイスによるお灸の解説である。
0016人間七七四年
2014/05/24(土) 20:09:20.21ID:XQ2q3thvそれって血行よくしてるだけなんだが
0017人間七七四年
2014/05/24(土) 22:54:38.61ID:jcM12/GDそのため河野氏は久万山に築城し「大いに敵を払い除く」という願いを込めて大除城(おおよけじょう)と名付けた。
また、大除城を中心に30もの支城を築き、城主として重臣の大野直家を置き、守りを固めた。
この大野直家の孫にあたる大野直昌のころ、大除城は長曽我部の軍勢に城を囲まれ落城の危機に瀕した。
大野直昌は信仰する山神に加護を求め、小姓衆に山神(ダイバ)の面を付けさせ、太鼓や樽を打ち鳴らし山神に奉納した。
すると俄かに大雨となり、大野勢は大雨に乗じて打って出て長曽我部勢を破った。
これ以来、大野直昌は山神への信仰を厚くし、山神への感謝と共に、仮面をつけ太鼓を打ち鳴らし奉納したという。
この大野直昌の故事に着想を得て、昭和59年に創作したものが久万山五神太鼓らしいです。
0018人間七七四年
2014/05/24(土) 23:15:08.50ID:vaqFf0dC0019人間七七四年
2014/05/25(日) 15:47:30.82ID:wPkIi9ip武士にとってこれは忘れてはならないことであり、
冥加のためなのだという。
同人の言によると「日本は日本流が良い。遠い唐の書物に
とらわれて物知りぶるのは悪いことだ」という。
(同人云。日本は日本流よし。遠き唐の書になづみて。
物知りだてはあしし。)
施薬院の親類の柏原可休という者は掃部殿のところにいた。
この者の話によると「掃部殿の平生の物語は、武や義の他には
まったく余計な事柄が無かった」という。
――『武功雑記』
0020人間七七四年
2014/05/26(月) 14:24:05.42ID:AnjE5Rax朝比奈弥太郎は大力無双の豪傑で、甲山城を築城したと言われている。
永禄元年、三好義賢(實休)が香川之景を攻めた善通寺合戦に際し、弥太郎は甲山南麓で三好勢を迎え撃った。
弥太郎は勇戦し、190人もの敵を討ち取った後に力尽き討死したという。
弥太郎の最期の地のそばには池があり、朝比奈池、弥太郎池と呼ばれ、その水利で田畑を潤していたが、どういうわけか池に落ちて死んでしまうものが後を絶たなかった。
これは討死した弥太郎の祟りではなかろうかと、村人は池の中州に弥太郎の墓を築き供養した。すると池に落ちる者はいなくなったという。
昭和のころに池は埋め立てられ、野球のグラウンドになった。
今では同地に記念碑が残されている。
また、甲山には朝比奈弥太郎を祀る朝比奈神社がある。
古くから力をくれる神様として親しまれ、今では試験や選挙の前に力をもらいにくる者も多いとか。
徳川の家来の朝比奈弥太郎は同名異人です。念のため。
0021人間七七四年
2014/05/27(火) 00:09:47.71ID:UZJ9zVGjフォークボールがよく落ちるようになるという祟りが起こるかもしれない
0022人間七七四年
2014/05/27(火) 06:54:31.25ID:R4x/uPLU0023人間七七四年
2014/05/27(火) 09:38:30.58ID:RpaT+Y89慶長のころのお話。
土佐の藩主、山内一豊が室戸岬の沖を航海中に突然の時化に襲われた。
船体が悲鳴を上げ、このままでは沈没してしまうと思われた・・・
まさにその時、何処からともなく一人の僧が現れ、巧みに船の舵を取り、船は無事に港へと辿り着くことができた。
一豊が礼を言おうと僧を探したが、すでに僧の姿はどこにもなかった。
近くの寺の僧であろうかと、一豊が探させると、なんと津照寺の御本尊が潮水で濡れているのが見つかった。
この寺の御本尊は地蔵菩薩であり、弘法大師が安置したと言われ、以来「舵取り地蔵」と呼ばれるようになった。
またこの地蔵菩薩は僧に身を変えて火事を村人に知らせ、火難を逃れたという物語もあり、今でも「水難、火難よけ」の仏さまとして親しまれている。
0024人間七七四年
2014/05/27(火) 11:18:33.07ID:fLUiDFvx0025人間七七四年
2014/05/28(水) 08:25:39.01ID:P9sCyWO2馬より速い、頬切孫右衛門
弓の名手、森久右衛門
190人殺し、朝比奈弥太郎
キャラも立ってるし、そこらへんの戦隊ヒーローより強そうだ。
0026人間七七四年
2014/05/28(水) 19:17:23.49ID:HRPgd+YQ「大将たる人には、威というものがなくては万人の押えにならぬものである。
しかしながら、これを悪しく心得て、わざと我が身に威をこしらえて付けようとするのは、
かえって大いなる害となるものだ。
何故かといえば、ただ諸人に恐れられるように身をつくろうのを威であると心得、家老に会っても
威高ぶり、何事もないのに目を怒らせ、言葉を荒くし、人の諌めを聞かず、自分に非がある場合でも
かさにかかって言い紛らわし、我意ばかりを押し通そうとする。
そんなふうだから家老も諌めを言うことをせず、自ずから身を引くようになっていくものである。
家老さえかくの如く成れば、ましてや諸氏末々にいたるまで、ただ怯え恐れているだけで、忠義の思いを
なす者は居なくなり、我が身を守ろうと汲々とするだけになって、奉公を心から務める事もなくなる。
このように高慢で、人を蔑ろにする故に、臣下万民はこれを疎み、それによって必ず家を失い、
必ず滅ぶのである。
だからこそ、よくよく心得ておくべきである。真の威というものは、先ずおのれ自身の行儀正しく、
理非賞罰が明らかであれば、強く人を叱り脅すことはなくても、臣下万民敬い恐れ、上を侮り
法をかろしむ者もいなくなり、自ずから威が備わるものなのである。」
(黒田家譜)
黒田如水による「大将の威」についての説明である。
0027人間七七四年
2014/05/28(水) 22:51:26.48ID:D0m0cEfyこれは現代に通ずる物があるよね
あと春秋戦国時代の孟子だかが言った「彼らは人の目を気にしてばかりの臆病者」みたいな表現を補足すると納得できる
他人から見下されたく無いから威を取り繕ってる時点で心の弱さが露呈する
0028人間七七四年
2014/05/29(木) 08:11:51.62ID:K1Dn54YV最上義光は幼少の頃から身体が人一倍大きかった。
ある日蔵王へ出かけたときの事、家来たちが神社の傍らで大きな石を見つけた。
家来1「おまえあの石が持てるか?」
家来2「わかんねえけど試してみんべ」
石は揺るぎはすれども誰一人担ぎ上げる事が出来なかった。
少年義光「試しにやらせてみて」
家来「若殿無理ですって。大の大人の私らだって持てないんですから」
義光「えい」
ひょい
家来「!」
だれも持ち上げられなかったこの大石を義光は軽々と持ち上げた
「羽源記」
この石は「義光公の力石(安山岩・約190キログラム)」と呼ばれ、今でも蔵王に伝わっている
義光「大人ってたいした事ないのかな?」
山形城に戻った義光は「俺より強い奴に遭いに行く」と書き置きを残し武者修行の旅に出かけたが
最初に立ち寄った国に毘沙門天の生まれ変わりと呼ばれる軍神様がいて
義光の短い旅は彼の帰国により早々に終わった
書き置きに気付いた家来たちによって連れ戻されたといった話もある
「山形の昔話」
0029人間七七四年
2014/05/29(木) 09:29:03.09ID:kydUYaKA0030人間七七四年
2014/05/29(木) 19:09:26.92ID:w8YPQq8w0031人間七七四年
2014/05/30(金) 00:46:44.87ID:LllYD7p80032人間七七四年
2014/05/30(金) 03:33:59.36ID:nOyEJ+RM関ヶ原も終わり徳川政権が確立した頃、江戸では鍋島家・桜田屋敷と、伊達家の屋敷が隣りだった。
佐賀から倉町宗伯という者、江戸へ医術修行に登っていたが、伊達政宗公と懇意になり、度々伊達屋敷を訪れていた。
ある時、伊達家へ、立花宗茂公がお出でになった。
話の始めに伊達政宗公が問われたのは、『関ヶ原後、立花殿と鍋島殿と合戦をしたというのは、我が屋敷の隣の鍋島殿であるか。』
立花宗茂公答えて曰く『いかにも。左様にございます。』
伊達政宗『その時は、勝利とはならなかったようだが、どの様な事だったのか。』
立花宗茂公答えて曰く『鍋島は、卑怯ものでござった。その為、あの一戦(江上八院の戦い)は我等勝利を得られぬ結果となりました』
伊達政宗公『時に、宗伯よ。立花殿の話は、その通りであるか?』
たまたまこの様な場に居合わせてしまった倉町宗伯、答えて曰く
倉町『いや、左様にてはあらず。かねて立花様と、あるじ鍋島家はご昵懇であった為、前もって使者を立て申した。
今度思いがけなく討伐の命を受けた為、近日中に柳川を攻める事になる。武具その他籠城の御用意をなされよ、
よく準備が整ったと知らせを貰えれば軍勢を差し向ける、かねてご懇意の間柄、事前に申し通しておきまする、と直茂公の意思を申し上げた所、
立花様はご返答に(用意と言っても特に無い。いつでも攻めて来られるがよかろう。)とあられた。双方合戦の日時を決めて一戦をしたのでござる。
この時の鍋島家の使者は、それがしが親族、倉町出雲(備前左衛門信秀)でござる。ただ今の立花様が仰せのお話は、納得できかねまする。』
倉町は、苦々しい気持ちで申し上げた。
すると立花宗茂公は大変、御不快な様子になられた。
後日、伊達政宗公が鍋島勝茂公と面談した時、政宗公が「先だってこういう事があってな」と、この時の話をした。
勝茂公は大変お喜びになられ、倉町宗伯へ50石の御扶持を与えられたそうだ。
(焼残反故:勝茂公譜考補二より)
もめごとがあった話だけど、オチが倉町の忠義を褒める話なのでいい話スレに
0033人間七七四年
2014/05/30(金) 07:51:56.94ID:HYw8PQtpどっちかというと悪い話っぽい
というか形式的な質問なのか知らないけど、
伊達政宗「その鍋島とは隣家の鍋島か?」
というのに驚いた。当時はまだ情報社会じゃないからそんな事も認知してなかったのか。
いかに北と南とは言え。
0034人間七七四年
2014/05/30(金) 08:00:57.94ID:86xlVFgA両家の返答はどちらも正しいでしょ
0035人間七七四年
2014/05/30(金) 10:23:42.23ID:hDYmQrCK主家の名誉のために意見をはっきり伝えて反論した忠義あふれる良い話だと思った
0036人間七七四年
2014/05/30(金) 11:11:01.17ID:PbtyJr34そういうの気にしないでズカズカ聞こうとする所が実に政宗
0037人間七七四年
2014/05/30(金) 11:25:28.65ID:DAxvciZu0038人間七七四年
2014/05/30(金) 11:41:32.86ID:nOyEJ+RMそれはさすがにうがち過ぎじゃあないかなあ
伊達が鍋島家を知らんってこともないだろう
肥前名護屋に赴いたこともあるわけだし、成富兵庫と陣張りでごちゃごちゃした話もあったし
ただ「あーお隣さんの鍋島さんね!」ぐらいの感覚じゃね
0040人間七七四年
2014/05/30(金) 19:44:46.75ID:QA3YBDljだったから、表立って宗茂が戦いに出るのはまずいって小野和泉が代わりに
戦ったんだよなあ
0041人間七七四年
2014/05/30(金) 19:53:42.42ID:86xlVFgA鍋島と立花は揉めたらダメ
なぜなら九州は修羅の国だから(笑)
0042人間七七四年
2014/05/31(土) 14:19:48.91ID:CcsG86Lwその後、二千石になって部将となる。
さらにその後、覚兵衛は清正の命に背くことがあって浪人し、
伏見に退居して草鞋や馬踏などを作って生計とした。
福島正則は以前から覚兵衛の武勇を知っていたので四千石で彼を
招くも、覚兵衛は正則に仕えなかった。その後、たびたび正則方から
使いが来た時、覚兵衛は答えて、
「それがしは清正の不興を蒙り、このように浪士の身となりましたが
二君に仕える心はありません。今にも清正が出陣するような時には
一番に馳せて付き従い、清正の馬前で討死いたす覚悟です」
と、言った。正則はこれを聞いて深く心を動かされ、さっそく清正に
その事を語ったので、清正はやがて覚兵衛を呼び戻して元の通りに
二千石を与えた。覚兵衛はその後、たびたびの武功によって六千石
にまでなった。
――『明良洪範続編』
0043人間七七四年
2014/05/31(土) 15:22:46.54ID:mCFaeIof0044人間七七四年
2014/05/31(土) 21:11:36.50ID:8zryTt9M「江戸において観世太夫に謡を習ってきた。観世太夫は、私の謡がとても良いと殊更褒めてくれた。
そこで、お前たちに歌って聞かせたいと思う。」
と、柏崎の一節を歌った。家老やその他の士はこれを聞くと皆、音曲の面白きことを褒め称えた。
ところが、毛利但馬だけは少しも褒めず、どころか頻りと落涙していた。長政はこれを怪しんで、
「但馬はどうして泣いているのか」
と聞いた。但馬はこれに
「鉢を開く(托鉢をすること。転じて乞食をすること)事になる悲しさに、泣いているのです。」
と答えた。
長政は「それはどういうことか?」と尋ねると、
「私が泣いたのは、殿の謡に感動したわけでは断じてありません!
よくよく聞いてみてください。殿の謡は節、拍子も間違っており、さらに面白くもなんともありません!
(我等泣申候事、更に御うたひを感じ申にては御座なく候。
能々御聞候へ。殿の御うたひ、節、拍子もちがいたる様にて、更に面白くも御座なく候。)
観世太夫が褒めたというのは、殿は大名でありますから、御意に入ろうとするためか、又は当座の挨拶として
褒めたのです。
それをまことの事だと思うべきではありません!
それなのにこの御列座の者共は、当家にては歴々の臣下であり、善悪共に正直に物を言い、殿を諌めるべき
者共であるのに、今、天下が無事となり面々の身の上も良くなって、保身ばかり考え、武勇も忠節も
忘れへつらいばかりを申している!
このように君は昏く臣下のへつらいを好み、臣下は君にへつらって忠を忘れ、腰が抜け、御用に立たなくなって
しまった以上、御家は滅亡し、私も浪人となり鉢を開いて生きていくことに成るでしょう。
その悲しさに泣いたのです!」
長政はこれを着いてたちまち興の冷めた顔となり、奥に行ってしまった。
列座の家老たちは「但馬は軽はずみなことを言ってしまった。」と、彼を叱りつけた。
しばらくして長政が、奥より脇差しを一腰持って出てきた。これを見た一同は
『長政様は怒って但馬を斬るために脇差しを持ちだしたのだ!』
と恐怖した。
ところが、長政は但馬の傍に座ると、感涙を流し
「汝が只今の諫言、私のためにおいて甚だ忠節であると思った。父・如水公が蘇って仰られたとしても、
これ以上の諫言はなかったであろう。感悦の至である。それにより、この脇差しを褒美として与える。」
と言ったのである。
(黒田家譜)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2037.html
こちらで既出ですが、出典などが無かったので、詳しいバージョンということで。
0045人間七七四年
2014/05/31(土) 22:06:57.86ID:rBlRcv3Cこれ言い方がきっついけど長政とお家を心配してるから許されてるんだろうなw
0046人間七七四年
2014/05/31(土) 22:15:06.03ID:o8pEomZt0047人間七七四年
2014/05/31(土) 23:14:47.69ID:7dCdP+Rz0048人間七七四年
2014/05/31(土) 23:23:11.73ID:/QKZq8XW0049人間七七四年
2014/06/01(日) 00:35:16.98ID:iyZcRjC20050人間七七四年
2014/06/01(日) 01:04:11.80ID:v8C0BWn+0051人間七七四年
2014/06/01(日) 01:28:50.48ID:mrXMJj300052人間七七四年
2014/06/01(日) 01:33:08.36ID:X5B7lJCD0053人間七七四年
2014/06/01(日) 01:42:04.87ID:lIJDTgVk「長政とは違って下手じゃないので」
0054人間七七四年
2014/06/01(日) 02:15:07.31ID:VS/050wnよく官兵衛の野望を見抜けず阻んだって言われてるけど、
関ヶ原の時点で親の庇護を脱して自分の足で生きてくって決意してたから自分で手柄立てて最善を尽くしたんじゃないのか
0055人間七七四年
2014/06/01(日) 05:20:07.72ID:ep0TcIJC0056人間七七四年
2014/06/01(日) 11:43:16.22ID:0qWw9ecGだいたい!、官兵衛が狙い通り天下奪取に成功しても、そのあと秀吉や家康以上に「うまくやれる」とは思えないよ。
0057人間七七四年
2014/06/01(日) 11:45:15.94ID:+UuoJmDB0059人間七七四年
2014/06/01(日) 13:45:12.03ID:dqbyhizp「兵法などは習っても無益だぞ。
戦場では、目を瞑ってでも、一足でも、敵方へ踏み込んで討つようでないと、役には立たない」
と言っていた。
弥永佐助も似たようなことを言っていた 【葉隠】
0060人間七七四年
2014/06/01(日) 17:47:27.52ID:qH+TuziZ0061人間七七四年
2014/06/01(日) 20:43:32.56ID:6mUbps39読んでみるとなかなか面白いぞ
0063人間七七四年
2014/06/02(月) 00:21:02.60ID:puKI2+3V0064人間七七四年
2014/06/02(月) 00:27:39.64ID:VCD0XFdH0065人間七七四年
2014/06/02(月) 01:01:37.16ID:qvJCAb4L葉隠には降伏後の開城和睦破りの方法が書いてあるし、
新城主が入ってから旧主を国に戻す方法までもが書いてあるw
戦術と戦略は語ってるんだよね
和睦破りの方法とか書いてるから焼いて欲しかったんだろうな
0066人間七七四年
2014/06/02(月) 01:09:15.67ID:5iWkicFr0067人間七七四年
2014/06/02(月) 02:46:35.31ID:puKI2+3Vメルカトル図法でも北のヨーロッパの方が小さいんだから、現実では中国>>>ヨーロッパだよ。
というか日本でさえイギリスの二倍くらいの面積あるんだから。
0068人間七七四年
2014/06/02(月) 09:01:40.62ID:I1vq6IaVでも始皇帝の前に商鞅が居なかったらもっと統一は遅れてるような気もするが
0069人間七七四年
2014/06/02(月) 09:42:39.86ID:gxXuGcsJ0070人間七七四年
2014/06/02(月) 21:10:37.77ID:TMq+qp0i片倉小十郎景綱が幼女をたすけた話(政宗はでてきません)
「高玉合戦の際、いよいよ落城というときになって高玉太郎左衛門は妻子を殺そうとした。
しかし乳母が必死にいうので、生まれ年三歳の女児を抱いて脱出させた。
すぐに略奪にあい、乳母は切られたが、女児を下に敷き、ふせて倒れた。
夜になって軍がひきあげたところ、傷が浅かったので乳母はおきあがり、高倉近江の処へ駆け込み、
助けを求めた。
近江はかくまって何か問題があると困ると思い、片倉小十郎景綱に詳細を告げた。
小十郎は「一度切られた者であるから、助けましょう。
もし政宗から尋ねられたら、御前でのことは私がどうにかしましょう」と言った。
助けられた女児は成長後蒲生源左衛門家中の妻となったと聞いた。」
by 伊達成実『成実記』他
後世に書かれた『治家記録』では、近江が男児を女児であると誤魔化したとあり、
成長後新左衛門と名乗った男児だったと記されている。
どっちかわからん。
0071人間七七四年
2014/06/02(月) 22:35:45.49ID:7QTempDG「森蘭丸の兄で信長からは多少の罪があっても許される程愛され秀吉や家康をも恐れさせ、
近年の戦国ファンからは伊達政宗や細川忠興と同じくらいの評価を受けてる武将」
って言えばOKですかね?
0072人間七七四年
2014/06/02(月) 22:54:46.88ID:iREklhN7チェリーピッキングとは、以前ソメイヨシノの韓国起源説の事を書いたときにも少し取り上げましたが、複数の情報元の中から自身に都合のいいもののみを取り上げ或いは更にそこから部分的に改変し、内容を再構築して本来の意味とは全く別の内容にしてしまう詭弁です。
語源はさくらんぼの熟した部分のみをより分ける、或いは抓み食いする行為から。
0073人間七七四年
2014/06/02(月) 23:12:39.54ID:qvJCAb4L0076人間七七四年
2014/06/03(火) 00:32:23.45ID:Bg+hURHI0077人間七七四年
2014/06/03(火) 09:21:58.39ID:VVbkRbHlというか椿は春にさきがけて咲く花だから武士のイメージもっとあってもよさげ
椿は花が丸ごと散るから首が落ちることを連想して戦場では避けられたって俗説があるけど、
Wikipediaによると根拠のない俗説で椿自体は職分にかかわらず人気は高かったみたい
0078人間七七四年
2014/06/03(火) 09:58:20.47ID:upVIkkCR0080人間七七四年
2014/06/03(火) 21:14:22.74ID:HqctO1nh0081人間七七四年
2014/06/04(水) 00:15:10.68ID:kjB8zATs0082人間七七四年
2014/06/04(水) 19:54:47.23ID:8o5FeML3秩父の小鹿野町に、権現堂原と呼ばれる丘がある。
元はここに東国寺という、大きな修験道場があったと言われているが、
永禄12年、甲斐の武田軍が秩父に侵入し、寺社に対して焼き打ちを行った際に、
東国寺も戦火に遭い、幻の寺となってしまった。
村人たちは、燃え上がる東国寺をただ唖然と見つめているしかなかった。
その焼き打ちの際、武田軍の「風林火山」の旗にも火が燃え移りそうになったので、
近くの池に旗を浸してはまた旗を押し立てていたという。
寺を焼いて勢いづいた武田軍であったが、寺の焼け跡に立ち尽くす村人たちを見ると、
流石に気がとがめた。
そこで武田軍は、
「武田の天下になった時には、必ず立派な寺を立ててやろう。その証だ。」
と言って幟旗を池のほとりに埋めて立ち去ったという。この旗を埋めた塚は「旗塚」と呼ばれるようになった。
その当時、秩父を治めていた鉢形城主・北条氏邦は信仰心に厚く、寺社の修理や再建を行っていた。
この氏邦には東国丸という名の息子がいたが、惜しくも早死してしまった。
息子を失って嘆き悲しんでいた氏邦は、同じ名前を持つ東国寺が焼き払われたと聞き、
今の寄居町(鉢形城下)へ再建し、下吉田赤柴の金剛院4世・酒雲全伯和尚を招いて、東国丸の冥福を祈ったという。
「秩父の伝説」
0083人間七七四年
2014/06/05(木) 07:06:50.75ID:dNlZtKzI0084人間七七四年
2014/06/05(木) 10:12:45.86ID:hAmTCFwShttp://i.imgur.com/ptVOEXx.jpg
http://i.imgur.com/g0ds8UT.jpg
http://i.imgur.com/a5GMGhc.jpg
0085人間七七四年
2014/06/05(木) 16:25:19.08ID:8lLDvrMJ北条地黄八幡の旗を見れば上杉軍も身構えるだろ
0086人間七七四年
2014/06/06(金) 05:23:21.59ID:WQc45Zw+数人見舞いとして訪問し、そのまま晩の料理が出た。
この前にある方より川鱸が贈られていたので、長政はこれを見て、「見事な魚を贈ってくれた」と、
料理人を召し、「この魚を今晩の料理にして客人たちを饗し、その余りはよくよく塩に浸け置いて、
船中で用いる料理にせよ」と仰せ付けた。
座中の人々はこれを聞くと、「大名に似合わぬ、吝嗇なことを仰せに成るものだ」と思った、
さて、晩食も過ぎて長政は一人、奥の間に入っていた所、御代官衆の一人が参り、密かに申し上げた
「私は先年、御代官所の勘定が不足し、もはや身上滅亡しか無い、という時に、貴方様から
金子をお貸しいただけたたため、勘定滞り無く相整い、身上も安堵いたしました。誠に
ご厚恩であると考えています。しかしその後とやかくとしてしまい、金子の返納も今まで
引き延べにしてしまいましたが、ただ今ここに、ご持参いたしました。」
そうして懐中より金子を取り出し、長政の前に差し置いた。長政はこの話を聞いて
「さてさて、貴殿は愚かなる人ですな。この長政の身上で、その程度の金子を取ったからといって
どれほどの役に立つでしょうか?しかし貴殿の身上では、この程度であっても、ひとかどの助けに
なるでしょう。
あなたは久しき友人であるのだから、身上が難儀に及ぶのを気の毒に思い、先の金子によって
勘定の不足を償っていただいたのです。ですから元より、返納していただくなど考えもしませんでした。
ですが、初めから差し上げると言ったならば、あなたも受け取りにくいと思い、あえて借用として
受け取っていただいたのです。ですのでこれは、早々にお持ち帰られよ。」
この言葉に代官は涙を流しその深志を忝なく思った。
長政がその後次の間に出た所、そこに居た人々は障子越しに、先の代官との事をほのかに聞いていて、
このように言った
「先程、鱸の余りを塩に着けおけと仰られた時は、あまりに吝嗇なことだと思いました。
ところがただいま、大分の金子をお受け取りにならなかった事、これらは大いに違っていますね」
長政これに
「それはあなた方の心得違いです。この長政の台所にも魚はいくらでもあり、少しも事欠くわけではありません。
先ほどの鱸は人の志にて贈られたものです。それ故今日のもてなしに用いたその余りを、塩に着け
船中に持って行かせ、何度も少しずつ料理に用いれば、それを食すたびに贈ってくれた人の志を
思い出して、少しの恩恵であっても忘れないためなのです。決して魚を惜しんでそうしたのではありません。
また、某の持参した金子を受容しなかったのは、先年、彼の生涯の一大事を救うために遣わした金子ですから、
その時から返納を望む気はありませんでした。私が平生倹約を専らにするのも、ああいう人の難儀を
救うためでもありますから、たとえ大文の金銀であっても、分に叶う限りは惜しむべきではありません。
その上、彼は一旦先の金子によって勘定の不足を補填しましたが、きっと自分の財貨もその勘定のために
用い尽くしたはずですから、それ以後自身は困窮していると推察します。そんな所に、今身上に過分なる
金子を返納のためといって出してしまっては、いよいよ困窮の度が増してしまいます。
そうなっては先に金子を貸した心入も無益なことになります。だからこそ、あの金子を受け取らなかったのです。
総じて倹約というものは、少しの費えもいとい、用に立つものは高額になっても惜しまず用いる事こそ、
道理に叶うのです。あなた方も、そのように心得られるべきです。」
これに満座の人々、さても名将のお心持ちは格別のことだと、各々感服したそうである。
(黒田家譜)
0087人間七七四年
2014/06/06(金) 06:16:45.13ID:HiHhG8ed0088人間七七四年
2014/06/06(金) 09:23:10.51ID:dGCBqO3V如水と日根野さんの逸話そっくりだなほんと
0089人間七七四年
2014/06/06(金) 12:21:12.29ID:luexEAcD0090人間七七四年
2014/06/06(金) 12:45:03.52ID:mJMqus830091人間七七四年
2014/06/06(金) 15:06:03.14ID:/uQ6tiSR0092人間七七四年
2014/06/06(金) 16:01:40.73ID:01lZ0Ze50093人間七七四年
2014/06/06(金) 19:32:17.31ID:9fNhDHhT0094人間七七四年
2014/06/08(日) 19:10:40.55ID:z+Y76WGw両刀を帯び、正座して思念を凝らしていた。
「帯を解いてくつろいで、平臥などしていては、思慮が放漫に流れて、
重大事案の勘考は成るものではない。」
そのように人に語っていたそうである。
(西島八兵衛留書)
0095人間七七四年
2014/06/08(日) 23:19:34.27ID:+gRhQzS30096人間七七四年
2014/06/09(月) 12:52:17.63ID:U5Pf77D7若いときの無茶飲みとかね
0097人間七七四年
2014/06/09(月) 23:43:51.66ID:A9aeiAEM0098人間七七四年
2014/06/10(火) 00:08:34.42ID:Xe1ie4AI0099人間七七四年
2014/06/10(火) 00:17:33.25ID:2n7CF6eh武田は家康にババ漏らさせたから神格化されてもいいけど、長宗我部も残って無かったよね
0101人間七七四年
2014/06/10(火) 01:36:02.13ID:cE66Xx8D元々の一門・譜代は毛利家に引き上げているから、隆景のいい話が伝わっているのかなぁ。
0102人間七七四年
2014/06/10(火) 01:48:21.20ID:Vi4Wh5hA0103人間七七四年
2014/06/10(火) 01:53:07.85ID:124LvAcB0105人間七七四年
2014/06/10(火) 04:20:01.65ID:8OXkcZh00106人間七七四年
2014/06/10(火) 08:58:49.23ID:P/HIkA3+秀就が毛利宗家への支藩の統制強めようとして、それに吉川や長府毛利が反発して独立騒動まで起こって、
この時の関係悪化が、毛利の方では後に関ヶ原の時まで遡らせて理屈付けされちゃう。
0107人間七七四年
2014/06/10(火) 09:50:26.03ID:71UMl7bS0108人間七七四年
2014/06/10(火) 18:42:03.62ID:3SWQ1Lw8召し出されて若狭守といい、剃髪して覚斎と号す。十郎は物語って、
「只今などに何事かでもあれば、それがしなどは弁慶くらいの働きさえも
することであろう。その理由は、それがしは年寄って命が惜しくないからだ。
一日も早く死にたいだけである。この心ならば比類の無い働きさえもする
ことであろう」
と笑ったそうである。
――『武功雑記』
0109人間七七四年
2014/06/10(火) 19:18:57.95ID:XRjFCw+N小早川家自体は秀秋死後に断絶して、江戸時代は消滅状態で明治に毛利から養子入れて復活したんじゃなかったっけ?
秀秋存命時代に毛利宗家と仲が悪かったって事?
0110人間七七四年
2014/06/10(火) 21:25:18.37ID:P/HIkA3+それに出席する会衆は、家老の他、思慮があり談合の相手に良き者、また主君の為をとりわけ思う者、
そういった人々で、5〜7名以上にはならなかった。
その物語のやりようは、他の人々を退けて、先ず長政がこう発言する
「今夜は何事を言ったとしても、重ねて意趣に残してはならない。また、他言してはならない。もちろん
この場で腹を立ててはならない。思っていることは、必ず発言を控えてはならない。」
このように誓言すると、一座の者も残らず、同じ誓言をする。
その後一座の者達は、長政の身の上の悪しきこと、諸士への対応や国中の仕置の道理に違っていること、
何れも底意を残さず語った。
あるいは過ちあって出仕を止められ、又は扶助を離れた者の詫び言、その他何事であっても、通常では
言いにくいことを言った。
また家老の間、傍輩の間に心にかかる事があり、それを言いたく思っても、もし相手の受け取りようが
悪ければ遺恨になり、そうなっては主君の為にも宜しからざる事だと遠慮して控えていたことも、
心に思うことを、相共に残さず言い合い、互いに心底に滞らないようにした。誠に心の底からの
議論である。
その場でもし、長政に少しでも怒るような雰囲気が見られると、他の者達は
「おやおやこれは一体どういうことですか!怒り給えるように見えますぞ!」
と申し上げる。すると長政は
「いやいや、心中には少しも怒りはない!」
と、顔色を和らげるのだ。
上下ともに、悪しき事は繰り返し、幾度も合点の行くように、互いの心を残さず言い出すので、
甚だ益のある会合と成るのである。
この会は、何日の夜という決まりがあるわけではなく、長政が思いついた時に、
「今夜は例の腹立たずの会をするぞ。会衆を呼ぶように。」
と、俄に申し付けるのである。長政もこの会合を甚だ益あるものだと考えていたため、逝去の前、
息子忠之への遺言の中にも
『我等致来候様に、異見会の儀、毎月一度釈迦の間にて催可被申候』
と書き置かせたのである。
(黒田家譜)
黒田長政の『腹立たずの会』についての記録である。
0111人間七七四年
2014/06/10(火) 21:26:55.11ID:dlkF3Qhg0112人間七七四年
2014/06/10(火) 22:17:36.48ID:PX050qQT>「おやおやこれは一体どういうことですか!怒り給えるように見えますぞ!」
ここが煽るようで腹立つなw
0114人間七七四年
2014/06/11(水) 01:28:12.69ID:/XylVbSE0115人間七七四年
2014/06/11(水) 05:15:14.59ID:aMrST7fsなにこの煽っていくスタイル
0116人間七七四年
2014/06/11(水) 07:48:54.43ID:O77Snhyu広家は終始、輝元を主君として尊重してる。
秀秋は秀吉死後には、毛利から貰った嫁を離縁したりして関係自体は切れてる感じ。
0118人間七七四年
2014/06/11(水) 10:53:04.32ID:Vi8l3I0T0120人間七七四年
2014/06/11(水) 20:19:27.82ID:XvoYaYGZ__ _,, -ー ,, / ⌒ ⌒ 丶| おやおやこれは一体どういうことですか!
(/ "つ`..,: (●) (●) 丶 怒り給えるように見えますぞ!
:/ :::::i:. ミ (_●_ ) |
:i ─::!,, ハッ ミ 、 |∪| 、彡____
ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● ハッ / ヽノ ___/
r " .r ミノ~. ハッ 〉 /\ 丶
:|::| ::::| :::i ゚。  ̄ \ 丶
:|::| ::::| :::|: \ 丶
:`.| ::::| :::|_: /⌒_)
:.,' ::( :::}: } ヘ /
:i `.-‐" J´ ((
0121人間七七四年
2014/06/12(木) 17:08:24.61ID:VJRjT6Db0122人間七七四年
2014/06/12(木) 17:53:06.52ID:5z/NxK9u0123人間七七四年
2014/06/12(木) 18:13:23.53ID:YFPK8zkC0124人間七七四年
2014/06/12(木) 18:33:54.08ID:VJRjT6Db0125人間七七四年
2014/06/12(木) 20:09:50.29ID:fE22LjaL途中から恒例のロシアンルーレット酒宴に移行する島津家
参加者からお1人様、当主の深夜個人レッスン(むしろコレがメイン)が待ってる大内家
大乱闘スマッシュmikawa's発展の徳川家(浜松時代)
議長の説教だけで9割9分が終わる毛利家(元就時代)
ブラック企業もビックリ吊るし上げ織田家
0126人間七七四年
2014/06/12(木) 21:18:57.40ID:NWxk2prC不平不満を述べた奴をきっちり覚えておいて後日、東郷重位をデリバリー。
0128人間七七四年
2014/06/12(木) 23:00:17.12ID:BMAorBTt0130人間七七四年
2014/06/13(金) 10:27:11.24ID:pNswNdi70131人間七七四年
2014/06/14(土) 00:02:15.14ID:xjLwZ/tj用件を聞こうか・・・
0132人間七七四年
2014/06/14(土) 16:04:01.80ID:bFC8NySHその時、秀頼公が大坂城から神君の御在所の二条の城へ行く途中、
加藤清正と浅野長政とが高股立ちの姿で秀頼公の乗輿の左右に付いた。
二条の城から御迎いとして神君の御子息の義直卿、頼宣卿の御両人が
途中まで出られたのだが、日傘を使っておられたのを清正は見て、
「無礼です。その日傘をお止めなさい」と言って止めさせた。
当時、神君の御威勢に向かってそんな事を申す者が他に誰がいるだろうか。
万一申す者がいるとしても両卿がどうしてその言葉に従いなさるだろうか。
清正だからこそ、そのような事をも申し、両卿もその言葉に従いなさって
日傘を止められたのである。
この一事で清正が尋常ではないことを万事察知できる。
だからこそ、神君も常に清正を御褒めになったのである。
――『明良洪範続編』
0133人間七七四年
2014/06/14(土) 16:44:56.69ID:Fbc8clkM0134人間七七四年
2014/06/14(土) 20:26:44.94ID:Nz+VFiolそこを実地検分し、「”おたぎ”とは何と書くのか?」と問うと、里の翁が
「仔細は知りませんが、昔より”小瀧”と書きます。」と答えた
出雲守はこれを聞いて「小を捨て大を取ると古人も言っている。前々はそうであっても
今からは”大瀧”と書くべし!」と申し付けた。このため領主の考えに従い
大瀧と書くようになった。在所の者達も、「確かに小より大が勝る」と言っているとか。
(慶長見聞集)
0135人間七七四年
2014/06/14(土) 20:33:30.53ID:MOyKLytE0137人間七七四年
2014/06/14(土) 23:29:51.97ID:PqZO9B7B息子の代に字を変えたのか
0138人間七七四年
2014/06/15(日) 00:46:36.05ID:c8509mK30139人間七七四年
2014/06/15(日) 00:53:55.56ID:6+OL2oYZ0140人間七七四年
2014/06/15(日) 07:22:17.59ID:7ARKo8480141人間七七四年
2014/06/16(月) 05:59:35.25ID:tfFgUliP0143人間七七四年
2014/06/16(月) 19:28:57.42ID:PZYVtx6C夜は五つ(午後9時頃)を限りに休むようにしなさい。
こんな風に条文にしてまで行跡についてのことを言うと、あなたもきっと迷惑にも感じるでしょう。
しかし、私は小身より成り立ち、苦身して今の身上に成りました。ですので、こういった事を
伝え聞かせることがその身にとって必要なことであると考えるのです。
(藤堂和泉守高虎教誨・息大学頭高次に示す条々)
この条々は全部で一九条ありますが、それについての高虎の思いを述べた一節です。
0144人間七七四年
2014/06/16(月) 23:27:26.42ID:3q+tutrt0145人間七七四年
2014/06/16(月) 23:35:50.28ID:qQQB8R6O0146人間七七四年
2014/06/17(火) 00:37:42.02ID:ZCjU5JiM0147人間七七四年
2014/06/17(火) 01:22:49.60ID:iNssuo7b庭木にゲロ吐くなとか、わしに宴で飯椀一杯以上の酒振る舞ったら怒って帰るからな!とかあるのを見るに
おそらく当時も夜更けまで鯨飲してるのが沢山いたのではないか
0148人間七七四年
2014/06/17(火) 01:56:12.40ID:qDcIIbtO0149人間七七四年
2014/06/17(火) 07:43:08.46ID:VThhnZL/0150人間七七四年
2014/06/17(火) 10:42:16.29ID:RyJrocz70151人間七七四年
2014/06/18(水) 00:31:04.26ID:C2UHL/dd無実の事を企んで江戸へ訴えた。(海部騒動)
公儀の役人の糾問があるので、罪の無いことだが忠英は憚って閉門し慎んでいた。
その折に有り合わせの金銀が尽き、諸用に差し支えがあったが遠国なので取りに
遣わすけれども早急の用に間に合わなかった。
また人の疑いもどんなものだろうかと係りの者は非常に心配して頼みとするところも
無く、井伊直孝(蜂須賀家政の婿)のもとへ内々の使者を借りに行かせた。
井伊家の家老たちはこれに同意せず「公儀に対して憚りがあるので貸すことはならん」
と言った。すると岡本半助は「人の急難を救うのは義です。もし後難を恐れて急難を
救わなければ信義を失うことになります。それは井伊家の恥ではないでしょうか?」
と、言った。家老たちは「ならばその事を主人へ伝えよう」と言った。これに岡本は、
「伝えるのはよろしくありません。貸した後に道理に背くことに与したと公儀から
御咎めを受けた時には、主人は少しも存じておらず、それがし一人の判断であると
言って切腹しましょう。あるいは貸した後に急難を救ったとして御誉めに預かった時には、
主人の判断ということにいたしましょう」と言い、倉を開け千金を出して貸し与えた。
後に直孝はこれを聞いてたいへん感心したということである。
――『明良洪範』
0152人間七七四年
2014/06/18(水) 20:41:15.46ID:ziurZZ56従った。十月、信長は滝川一益を大将として有岡の城を攻め、十一月これを攻め破った。
この時黒田孝高(官兵衛)は有岡の獄中にいたが、家臣の栗山善助が尋ね来て、孝高を牢より出した。
荒木村重が没落したため、それと一味していた小寺政職も、その科逃れ難く思い、にわかに御着の城を
出奔し、中国の所々を流浪し、その後備後の鞆に居住して、天正十年に卒した。
男子一人父祖の後を継いで、加賀守氏職と称した。また姉妹が数人あった。
小寺の家が滅び、その子がかくの如く零落したことを、黒田職隆・孝高親子は深く嘆き、
秀吉に「その父の罪を許され、その子を私の養子にさせて頂きたい。」と詫び言をして赦しを蒙り、
備後の鞆に家臣を迎えに遣わし、小寺氏職、並びにその姉妹を姫路に招き寄せた。
彼らが海より着岸した時は、官兵衛ならびに舎弟達全員が、海辺まで迎えに出た。
かねてより姫路の海辺、飾磨津に新宅が作ってあり、ここに小寺を居住せしめ、情深く養育された。
その旧好を忘れず、いとも懇ろに憐憫されること、誠に恩を以って仇を報ずるとはこの事であると、
世の人々は感じ思ったそうである。
(黒田家譜)
0153人間七七四年
2014/06/18(水) 21:47:05.83ID:p2WwIVyy細部が多少異なるが黒田家譜、てのも含めて既出のような
しかし、「黒田家譜」話は同じ人が書いてると思ったら複数いるんだな
0154人間七七四年
2014/06/18(水) 22:36:13.56ID:voF9v9KB0155人間七七四年
2014/06/18(水) 23:52:15.99ID:+WQhUVu9京都山科に本願寺が建立され(文明十五年、西暦1483年)、
「寺中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と言われた頃から本願寺に仕え、
供物や諸事に携わってきた亀屋陸奥(屋号は後年名乗る)は、
顕如上人の時代、元亀元年(1570年)に始まった織田信長と
石山本願寺の戦いの間も本願寺に従っていた。
織田の攻撃が激しくなるなか、糧道もしだいに閉ざされ
城内には食料が不足しはじめる。
そこで亀屋陸奥三代目大塚治右衛門春近が
試行錯誤して兵糧代わりとなる菓子を創製し、
この菓子は法城を守る門徒衆の貴重な食料として用いられた。
しかし、11年間続いた戦の趨勢は織田に傾き、
本願寺は織田と和睦することになった。
顕如上人は織田との和睦後に京都六条下間(しもつま)邸にて
「わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風」と歌を詠んだ。
この歌から「松風」銘を賜ったのが前出の菓子だった。
天正十九年(1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、
亀屋陸奥も御用達の御供物司として本願寺の寺内に移った。
そして「松風」はその後も作り続けられ、四百年余りの洗練をへて
現代まで続く名菓「松風」になったという。
ちなみにこのお菓子は司馬遼太郎の「燃えよ剣」「関ヶ原」にも
登場しているとのこと。
出典は「松風」の袋及び亀屋陸奥のウェブサイト
0156人間七七四年
2014/06/19(木) 07:09:47.53ID:v+zgn3ub0157人間七七四年
2014/06/19(木) 09:40:39.71ID:4sF6OMtoルソーの作り話なんかなあ
0158人間七七四年
2014/06/19(木) 10:12:29.15ID:l2mT80Av0159人間七七四年
2014/06/19(木) 14:13:43.77ID:aXHq4YyQ0160人間七七四年
2014/06/19(木) 14:54:05.81ID:NFDi6Zt+食い凌ぎつつと置き換えると切迫感ある
0162人間七七四年
2014/06/19(木) 16:35:37.20ID:u8m4c7Ry0163人間七七四年
2014/06/19(木) 21:15:56.66ID:LcxLAkoG大阪の陣以前には、藤堂家において『角衆』と称する、同じ水牛の前立てを許された者は
6,7人だけであったが、大阪出陣の時には、鉄砲頭、母衣衆にもこれを許したため、その人数は
激増して、いったい何人いるのかわからぬほどになった。
それから高虎公の頬当は黒塗りで、具足は小札黒糸の毛引きであった。
小手、佩楯は越中流を用いられた。
関ヶ原では鳥毛袖なしの具足羽織、大阪の陣ではもみの広袖の小袖を時々着用されていた。
幟は大阪の陣で三布の折懸、地紺に白餅三であったが、これも関ヶ原の時は白地に朱の丸三であった。
大馬印は、大阪冬の陣では白の三布の大四半に朱の丸一、夏の陣では赤い吹貫であった。
(西島八兵衛留書)
藤堂高虎の軍装についてのお話し。大阪の陣で藤堂家に水牛の前立て軍団が生まれていたのですね。
0164人間七七四年
2014/06/19(木) 22:40:05.18ID:OrbnQCsw確かにあれ威圧感すごいしな
0165人間七七四年
2014/06/20(金) 00:39:16.72ID:eh/iMmQC物の本によると、いろんな王族の女性に対する、庶民の暮らしをわかってないネタのテンプレだったとか
最後の女王であり、最後にこのネタを使われたせいでマリーのエピで固定化した。
0166人間七七四年
2014/06/20(金) 18:51:49.80ID:fy2gy0BQ……何てのは昔の学説で、それなりに強かに生きていたのである
気の荒い戦国大名と言えど、奥向きの事には口を出せなかった
特に女の聖域たる台所には……
その禁を破り盗み酒をしたとある大名
奥方に見つかり城中追いかけ回された挙句城門で追い詰められ、家臣の監視の中、頭を下げて謝った
豊臣軍団切っての猛将、福島正則の逸話である
って話を雑談系の雑誌で読んだ記憶があるが本当かねえ
なんか、混ざってるような…
0167人間七七四年
2014/06/20(金) 22:02:57.23ID:tFkW0/pA高虎は立花飛騨守(宗茂)兄弟、佐久間備前守(安政)兄弟、丹羽五郎左衛門(長重)、脇坂淡路守(安治)、
朽木卜斎(元綱)等を招待し、その席で家の系図、知行の朱印、水牛の兜、金の傘の馬印などを
取り出して高次に譲渡し、先祖代々、一門末々までの武功の次第を語り聞かせ、最後に言葉を改めて
このように言った
「大学(高次)は惣領筋であるから、武勇が私に劣るとは思わない。しかし現在は
静謐の世の中であるので、そなたは合戦を実地に経験する機会はなかった。それに付いて申すが、
武勇には、稽古という言葉は無い。ただ、心がけ一つが重要である。
一朝有事の場合に、『この度は第一の殊勲を』と考えただけでは人並みの働きも出来ない。
『今度は一番に討ち死にするのだ』と決心してかかってこそ、いささか人に優れた働きは
成るものである。
武勇の心得は、これ以外に無い。」
これを聞いた列席の客人たちは、思わず姿勢を正して傾聴し、深くその言葉に感服したという。
(木且子集書)
藤堂高虎の「武勇の心得」である。
0168人間七七四年
2014/06/21(土) 10:09:20.49ID:eRxLfPkC毛利家って大事なところでは四男がリレーしてた
偶然なのか、何か狙いがあったのかは知らん
毛利 季光 大江広元の四男。初代毛利
毛利 経光 毛利季光の四男。宝治合戦で一族全滅するが唯一生き延びる
毛利 時親 毛利経光の四男。安芸吉田庄に移住。安芸毛利氏の祖
穂井田元清 毛利元就の四男。子孫が毛利家の嫡流となる(テルの系統は途絶えてないのに)
0169人間七七四年
2014/06/21(土) 11:50:50.40ID:R1+Fqyge0170人間七七四年
2014/06/21(土) 13:59:54.36ID:Ed2cun0h0171人間七七四年
2014/06/21(土) 14:37:34.55ID:Lgj0VjyL秀元をテルの養子にやってからは毛利に復姓してんだよな
0173人間七七四年
2014/06/21(土) 15:45:16.73ID:stz1dDvW0175人間七七四年
2014/06/21(土) 17:15:22.01ID:vfRkyEkPある戦に敗れた時
一重「(。+・`ω・´)キリッ みんな、槍はかつげ。所を見て返すべきだ。かついでたら返しやすいだろ?」
と下知した。皆、もっともだとこれに同じた。
場所を見合わせて反撃に出ると、ついに勝つことができたという。
備前老人物語
0176人間七七四年
2014/06/21(土) 18:24:36.17ID:zlgHiM+q伊達家にやって来て政宗の父輝宗を偽って生け捕った。右京進は大力なので
輝宗を馬上に抱えて連れて行った。これは人質に取ろうということである。
政宗は途中でその事を聞いて俄かに追いかけ、「父を奪われてはならない。
もし取り返すことができないならば、共に右京進を討ち取れ!」と一目散に
追って行き、
右京進が川を越そうとするところで近付き、矢で右京進を射落として輝宗を
無事に取り返し、この勢いに乗じて二本松を討ち平らげ、それから会津白川
をも討ち従えて武名を国中に轟かせた。
(右京進川を越さんとする所にて近付き矢にて右京進を射落し父輝宗を無事に
取り返し此勢ひに乗じて二本松を討平らげ夫より会津白川をも討随へ武名を
国中へ轟しける)
――『明良洪範続編』
0177人間七七四年
2014/06/21(土) 18:38:13.84ID:y2MNVRIX0178人間七七四年
2014/06/21(土) 19:34:17.13ID:APS/pAPs直系が途絶えてないのに何で傍系に嫡流が移行したんだろうね
先祖が西軍総大将だったから幕府に遠慮したのか、それとも代々馬鹿ばかりだったのか...
0181人間七七四年
2014/06/22(日) 11:50:09.60ID:ETnj9PZ6村の祭の季節が来ると、清久さま御夫婦は毎夜、家を脱け出し一晩中、堀の水面を棹でお叩きになった。
それは、人々が祭のためにと、堀を干し上げて鮒を根こそぎ捕るので、
少しでも魚たちが逃げてくれるようにとのお考えからそのようになされていたのである。
これはほんの一例で、御慈悲深い御善行は数えきれないほどであった。
清久さまは彦山権現を御信仰なされ、大晦日には御参詣して一夜を神前におこもりされるのが常であった。
ある年のこと、いつものように神社へお登りされる途中、大雪が降り、崖から落ちてしまわれた。
道を探して谷間を歩いておられると、そこに阿弥陀三尊の仏像を見つけた。
清久さまは持ち帰られ徳善に彦山権現を勧請するときにその御本尊となされた。
彦山権現の御本地は、阿弥陀様の三尊だということであるが、誠に不思議な出来事だ。
その御利益で、清久さまのお家はたいそうに御繁盛なさったように思う。
古老から聞いた話だ 【葉隠】
0182人間七七四年
2014/06/22(日) 12:05:36.34ID:ETnj9PZ6戦場では赤熊の面をつけ戦う剛の者であったとのこと
01841/5
2014/06/22(日) 23:46:15.62ID:tk9XLXfB北条氏照の居城であった武蔵八王子城は、城主不在の所を豊臣方の大軍に攻撃され、
今まさに落城せんとしていた。
中山家範や狩野一庵ら、城方の武将が次々と自害・討死していく中、城の裏手から一人、西方へと脱出していく武将がいた。
その人こそ、八王子城の城代で本丸の守将である横地監物景信(吉信)であった。
城を枕に討死するわけでもなく、また開城降伏するわけでもないこの行動を、景信がなぜ取ったかは不明であり、
一説には北条家再興の為に再起を図ったものとも、ただ己が命を惜しんだものとも言われているが、
景信の目的やその後の行方については後の世の人々から様々に憶測され、多くの伝説を生むことになった。
その中からいくつかの伝説を紹介してみよう。
無念の景信
落城の際、横地景信はわずか五人の家臣を連れ、大天守の裏山から落ち延びていった。
しかし、豊臣方は既に要所要所に陣を構え、厳しく落ち武者を取り締まろうと待ち構えていた。
そこで景信は、五人の家臣をそれぞれ影武者に仕立て、五方向へ道を分けて落ちのびさせた。
彼ら影武者五人のうち、四人の行方は伝わっていないが、その中で一人の行方だけは言い伝えが残されている。
落城の後、城の北にある五日市村の北寒寺という所で、景信の影武者一人が豊臣方に捕えられた。
豊臣方の武将はその影武者を引き出させ、本物の景信かどうか検分しようとしたが、
引っ立てられてきたのは、もはや年の頃七十歳程かと思われる老武者であった。
「なんじゃ、よぼよぼではないか。」
と、呆れ顔で武将がこぼすと、件の老武者は鋭い目をかっと開き、
「わしは、横地監物景信なり!」
と凛として名乗った。
この老武者の堂々とした態度を見て、武将も態度を変え、改まった態度で話しかけた。
「聞くところによれば、横地監物景信殿は、五十の賀を迎えられたが、なお勇壮であるとか。
ところが貴殿を見る限り、それより二十歳は老いておる。これぞ影武者に違いあるまい。」
しかし老武者は、
「いや、わしこそ横地監物景信なり!」
と、頑として言い張る。
これに武将が「この偽者め! ならば、本人である証を立ててみよ!」と叫ぶと、
老武者は歯を食いしばったのち、言った。
「こたびの敗北、まことに無念…。この思い、わし本人の他には、誰も計り知れまい。
その無念により、二十歳も老衰せり…。これぞ、景信である証拠なり。」
武将はこの言い分を聞くと、成程と大きくうなずき、
「ならば、貴殿を景信として処断する。」と言い渡した。
首を打たれる際、かの老武者の表情は、いかにも満足といった様子であった。
その間に、真の景信は小河内村の方へ落ち延びて行ったという。
01852/5
2014/06/22(日) 23:50:34.94ID:tk9XLXfB八王子城が落城する時、大蔵奉行の職にあった横地監物景信は、北条家の再興を図って莫大な財宝を城から持ち出し、
いずこかの場所にそれを埋蔵したという。
秘密が露見することを恐れた景信は、腹心の家来五人にそれぞれ横地監物を名乗らせ、そのうち一人にだけ本物の財宝を託し、
他の四人には偽の財宝を持たせ、それぞれに兵を付けて城から脱出させた。
その本物の財宝を託された者は、篠村帯刀という者であったと言われ、無事にある場所に財宝を隠したと言われているが、
実際には、篠村帯刀は北条氏照に従って小田原で討死したとされており、名前が伝わっていたこと自体、
秘密を守るために流した偽情報であったともされる。
そのため正確な財宝の隠し場所は謎なのだが、その場所を教えるという謎解き歌というものが残されている。
「朝日さす 夕日輝く 由比の峰 漆千杯 朱千樽」
というもので、朝夕の陽が良く差し込む場所、八王子城の北東にある由比原の丘に、漆の杯にして千杯、朱の樽で千樽もある、
莫大な財宝が眠っているという意味である。
後に、この歌の事を聞きつけた人々が盛んにその辺りを探しまわり、ある江戸のお大尽などは、
金に糸目をつけず散々に丘の辺りを掘りまくったという。
ところが、そうこうするうちにその謎解き歌は偽りだと主張する者が現れた。
横地氏の末裔だと名乗る者で、その者が言う所によれば、正しい本物の謎解き歌は次のようなものだという。
「漆千杯 朱千杯 黄金千杯 朝日さす 夕日輝く 楠の下」
このことが知れ渡ると、財宝を求める人々により、今度は北条家の旧領にある目立つ楠の木が掘り返され、
めぼしい楠の古木がなくなると、しまいには鎮守の森にある楠の神木までが狙われた。
そうするうちに、また新たな謎解き歌が見つかったといっては、八王子の甲の原・兜松・九十九塚などが掘り返されたが、
結局誰一人として財宝にたどりつけぬまま、今もどこかに本物の財宝は眠ったままだという・・・。
01863/5
2014/06/22(日) 23:57:02.97ID:tk9XLXfB高尾山の西方、小仏峠を経た峰続きの山中に、景信山という名前の山がある。
天正18年、八王子城がいよいよ落城寸前となったとき、横地景信は愛馬に鞭打ち西に向かって逃げた。
やがて恩方の里に入り、山道へとかかったが、既に馬も疲れており、山道の端から藤蔓が伸び出ているのに、
馬も人も気付けなかった。
景信の馬は、その藤蔓に足を取られてあっという間に横倒しとなり、更に悪い事にはそこは高い崖の上だったので、
景信は愛馬もろとも谷底の淵へとまっさかさまに転げ落ち、無残な最期を遂げてしまった。
淵にはまった景信は、息絶える前、駈けつけた村人にこう言い残した。
「拙者は、まだ永らえねばならぬ命を、藤蔓の為に失うことになった。憎いのはあの藤蔓じゃ。
我が魂魄はこの世に残り、今後この辺りの山には、藤は一本たりとも生えさせぬぞ!」
その後、この山には藤は一本も生えなくなったといい、景信が落ちた淵を「景信ヶ淵」、山の名を「景信山」と呼ぶようになった。
景信ヶ淵にはヤマメがたくさん住んでいるが、不思議な事には、この淵に住むヤマメはどれをとっても目が一つしかない、
片目の魚ばかりだという。景信は淵に落ちる前、既に敵の矢で片目を失っており、それがヤマメに乗り移ったのだという。
またあるとき、この淵の因縁を知らない太公望がここでヤマメ釣りをしていると、どこからか一匹の大きな蜘蛛が現れ、
その人の足を糸でぐるぐる巻きにしてしまった。その人は、逃げることもできず、終いには淵の中に落ち込んで死んでしまったという。
また山名の由来には別説もあり、甲州方面に備える狼煙台として、景信が守備していたことから来ているともいう。
01874/5
2014/06/23(月) 00:02:13.37ID:2C/a4wTB奥多摩にある栃窪という村に、田草川新左衛門という者が住んでいた。
元は甲斐武田家に仕えていたが、武田家滅亡後に北条家に仕え、天正18年の八王子籠城の際もこれに加わっていたが、
落城の際に城を落ち、自分の在所に帰ろうと檜原村から小河内へ山を越えようとした。
ところが新左衛門はそこで偶然、これも城を落ちのびて来た、八王子城本丸の守将・横地景信に出会った。
景信は、乱軍の中を切り抜けて来る途中で数か所の痛手を負い、いよいよ所存を決めて自害せんとしていたが、
幸いそこに新左衛門が通りがかったので、自分の最後の始末を頼んだ。
この頼みを引き受けた新左衛門は、景信自害の後、その骸を埋葬してそこに小さな社を営み、景信の短刀をその神体とした。
この社を立てた地は、新左衛門の住む栃窪村とは別の原村の内にあったが、後世、社の修繕を行う際には
新左衛門の子孫の家が修理していたという。
「武蔵国名所図会」では、上記のように別々に行動していた新左衛門と景信が、偶然出会ったように書かれているが、
八王子市史が引用する「三つ鱗翁物語」という史料では、新左衛門は景信が城を落ちるときに従った五人の従兵の一人で、
他の者が土民の襲撃で死に、景信もまた深手を負ったので、最後に生き残った新左衛門が後始末を託されたとしている。
01885/5
2014/06/23(月) 00:11:37.42ID:2C/a4wTB横地景信が自害(※)してから、三百数十年の時が流れた。
八王子城で討死した中山家範や狩野一庵の子孫は、徳川家に仕えるなど繁栄したが(特に中山の子孫からは大名になる者まで出た)、
一方で江戸時代における景信の評価は、城から逃れたという行為が武士道に反するとして非常に低く、
さらに小瀬甫庵の「太閤記」では、
「旧来からの家臣でもなかったのに氏照に取り入って立身し、百姓を虐げては金銀を取り諸士を悩ませた」
などと根も葉もない悪評までされてしまった。
また景信を祭った横地社では、神体の短刀を盗賊に奪われるという被害も受けたが、
社自体は変わらず小河内に存在し続けた。
ところが、昭和に入ると、小河内谷全体を水没させる大規模なダム計画の話が持ち上がり、
紆余曲折はあったものの、小河内村はダムの底に沈むことになってしまった。
当然、谷の内にあった横地社も湖底に沈む運命にあったが、幸いに社は八王子城跡に移されることになり、
社という形ではあるが、景信は約400年ぶりに八王子城へ戻ることになったのである。
現在、城跡に立つ八王子神社の横に小さな横地社が建てられており、傍らには由来を記す碑も建てられている。
昭和32年(1957)に建てられた、その石碑の裏面にある建立の日付は、敢えてその日を選んだのであろう、こう書かれている。
あの落城の日、6月23日と…。
(※)ここでは小河内で自害したという説で話を進めたが、他にも、落ち延びたが絶望して深淵に身を投げた、
または高麗郡の村に潜伏して姓名を変え、天寿を全うした等の話がある。
参考文献(武蔵国名所図会・新編武蔵風土記稿・八王子市史・落城ものがたり・武蔵野の民話と伝説)
八王子城落城の日だったので投稿。
最初は影武者の話だけにするつもりだったのに、調べていくうちにどんどん関連する話が出てきて
かなり長くなってしまった・・・。
両方のスレに一話ずつ投稿していくのも、同じ落城ネタばかり続いてウザがられそうだったし、
いい話の方が多めなこともあって、いい話と悪い話をまとめて一気に投稿させていただきました。
0189人間七七四年
2014/06/23(月) 01:10:13.60ID:UO2/vC590190人間七七四年
2014/06/23(月) 06:42:45.62ID:IN14G2Ii沢の源流に放射線を出す石が露出してるのが原因だったけど
0191人間七七四年
2014/06/23(月) 06:50:47.03ID:eUZS7rHfオカルトより怖いわw
0192人間七七四年
2014/06/23(月) 08:34:31.10ID:NFDW0WCHメッコ岩魚の怪という話でアニメ化もされてた(´・ω・`)
0193人間七七四年
2014/06/23(月) 08:37:31.97ID:+/92uB7z特に川なんかだったら顔料の岩とかあるし
まあ管理されなきゃいけないようなものはなかなかぶち当たらんだろうが
0194人間七七四年
2014/06/23(月) 10:06:29.72ID:E/LRBovL0195人間七七四年
2014/06/23(月) 15:13:16.14ID:D97Hzhx70196人間七七四年
2014/06/23(月) 15:22:44.13ID:D97Hzhx7(●Д° ))3333Ξ<
0197人間七七四年
2014/06/23(月) 15:34:50.89ID:JQV1wirX0198人間七七四年
2014/06/23(月) 15:40:50.78ID:i97Wvsz90200人間七七四年
2014/06/23(月) 22:00:57.33ID:0IYqdZvgttp://www.47news.jp/CN/201406/CN2014062301002133.html
これでますます光秀の動機が分からなくなったで
0201人間七七四年
2014/06/23(月) 22:13:24.79ID:90rTUygq光秀は手に入れた情報を信長に伝えることで油断を誘い、
ついにアーチーアーチーと言わせることに成功したというわけだな。
0202人間七七四年
2014/06/23(月) 22:15:55.66ID:ObbiBE9u理由について議論になるのは当たり前と言えなくもない
0203人間七七四年
2014/06/23(月) 22:41:38.97ID:+NCEOwia内容まとめた本をみんな大好き吉川弘文館から出版するそうだ
0204人間七七四年
2014/06/24(火) 07:15:00.05ID:gH2wnzty0205人間七七四年
2014/06/24(火) 07:52:52.18ID:onu520G7はぁふざけんなマジで、って光秀を折檻したんだろ
晩年になると人は狂暴と化す、秀吉がよい例
0206人間七七四年
2014/06/24(火) 10:30:28.79ID:MbN2x83R0207人間七七四年
2014/06/24(火) 11:31:11.39ID:/MOH7K/30208人間七七四年
2014/06/24(火) 12:19:08.62ID:gAl9BQsI『人間個人にはそれぞれに本当のキャラクターがある(真我)』と言うのがヒンドゥー教
って理解で合ってる?
0210人間七七四年
2014/06/24(火) 16:36:53.78ID:8UIVMbnp0211人間七七四年
2014/06/24(火) 17:30:31.04ID:+iFynjsMどういうわけかその馬が秀宗の方へ馳せて来た。供の士の大藤某という者は
速やかに立ち向かい、馬の口を取って動かさず、その間に秀宗は通り過ぎた。
その馬の脇の士が馬を抑えようと後から馳せて来た。その者は大藤が
馬の口を取って立っているのを見て、どのように思ったのか刀を抜こうとした。
しかし、伊達の供たちが大勢やって来てその者を取り押さえて動かさなかった。
その時、馬上の主人は槍を取ろうとしたが大藤は片手で槍をしっかりと握って
動かさず、「このような事はあるものです。御馬が感が強いために馳せ出たので
止めたのです。慮外は少しもいたしてはおりません」と言った。
これに馬上の主人が「こうして取り囲むのは慮外ではないのか?」と言うと、
大藤は「御家来が粗忽に見えましたので留めたまでのことです。慮外や無礼と
申すようなことはいたしてはおりません」と言い、一同は退いたので馬上の
主人もそのまま行き過ぎた。
この大藤某という士は大力無双の勇士で、よく物の義理に通じていたため、
大藤の一言で事件も無く済んだのである。
――『明良洪範続編』
0212人間七七四年
2014/06/24(火) 19:15:37.01ID:XUet17Dbこの話まだ出ていなかったのかな
武士の美意識がわかる話だから印象深い
たしかに伊達家の行列前を横切ったのはこの侍の過失。
斬られても仕方ない過失ではあるけど、黙って連行されても最悪首斬られるのだから、
それならその場で刀抜いて斬り死にする最期を選ぶべきだってことだろうな
討ち死、切腹〉〉(越えられない壁)〉〉斬首 の世界観だし
この話が作中に出てくる五味康祐の短編小説『国戸弾左衛門の切腹』オススメ
映画にしてほしい深い話だけど、映画にされることはないであろう名作
0213212
2014/06/24(火) 19:22:52.89ID:XUet17Dbいい話スレと悪い話スレを間違えた
悪い話の>>212は>576へのレス
>>211
この話は大藤さんの言葉の機転で結末まで爽やかないい話だ
0214人間七七四年
2014/06/24(火) 21:04:07.32ID:tSLvIleb加賀前田家、仙台伊達家、薩摩島津家などは別格の大名なので、
台徳院殿(徳川秀忠)とり白銀300枚、東照宮(徳川家康)とうぃ200枚、合計500枚づつ下された。
森美作守(忠政)などの大名には、200枚と100枚、合計300枚を下された。
この時、森忠政は白銀を下げ渡された即日に、今日の町人より借りた銀を返却した。これに人々は
深く感じ入ったそうである。
(老人雑話)
森忠政、幕府からの下賜金で即座に借金返済、というお話し。
0216人間七七四年
2014/06/25(水) 21:53:46.24ID:uqVMZxp+http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0026-11005&IMG_SIZE=&IMG_NO=42
該当箇所は見つけたけど、文字の解読に自信がないから誰かに任せた
0217215
2014/06/26(木) 02:54:49.60ID:7lrUXonottp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925907
原文だと主語省略だ
0218人間七七四年
2014/06/26(木) 06:59:40.18ID:DjhyFHsF司馬遼太郎的には、秀吉が秀頼が生まれてもて余した秀次の引き取り先を探してて、まだ嫡子がなかった毛利家に目をつけた
が、本家に馬鹿を入れられたら困るってんで小早川隆景が自分の嗣子を廃して秀次を小早川に入れて嗣がせ、本家には穂井田からの養子を入れたってなってるな
妾の子から本家に帰った形じゃないっけ?
結果的には輝元に秀就がうまれたから、家系は輝元直系で継続じゃないかな?
小早川は途絶えて毛利はしっかり残した隆景はやっぱり凄い
0220人間七七四年
2014/06/26(木) 13:11:20.59ID:dsTFZoxI0222人間七七四年
2014/06/27(金) 13:08:26.36ID:+6etSkFvちゃんと「秀秋」て書いてたぞ
後は秀吉→如水にしたら司馬遼太郎と同じ説だが
0223人間七七四年
2014/06/29(日) 04:51:10.55ID:IN8XrTCj小西行長は一番に朝鮮の都に入り高名をしようとして、その道筋の城には手をかけず、直に入ろうとしている、
という情報が聞こえてきた。
そのため黒田長政は小西が通りすぎた道に残された城を攻め落とし、後続の味方が安心して通過できるようにしようと
大道筋に進軍した。中でも昌原の城には大勢が籠城していたのを、長政は昼夜これを攻め、数度の戦いの後ついに乗っ取り、
500余人を討ち取った。
長政が道筋の城々を攻略した事により、後続の軍勢は難なく都の攻め入ることが出来たのである。
(黒田家譜)
黒田長政、小西の進軍の後で後続勢のためのフォローをしていたんだよ、というお話。
0224人間七七四年
2014/06/29(日) 09:43:42.52ID:dXKwuvBU0225人間七七四年
2014/06/29(日) 12:51:37.41ID:KEm12Ldq彼は長篠河で甲州の芋川鳶之介に槍をつけた。
藤五郎の若党両人は敵(鳶之介のこと)を抱きすくめて河の中へ
押し倒した。この時、鳶之介は三度まで頭をあげて名乗った。
このことを城和泉は聞き、涙を流して、
「なんとまあ、武士の一言は大事なものである。鳶之介はかねがね、
『私が討死する時は三度までは名乗るつもりだ』と申していた」
と言った。
――『武功雑記』
0226人間七七四年
2014/06/29(日) 16:09:51.25ID:xLVXVpMqしかし名前が創作臭いですね。
0227人間七七四年
2014/06/29(日) 18:51:07.90ID:47uQVnTF【歴史】 織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1404025559/
0228人間七七四年
2014/06/29(日) 19:44:17.35ID:UUOtv5du0230人間七七四年
2014/06/29(日) 21:16:05.73ID:msf4Uuq50232人間七七四年
2014/06/29(日) 22:14:43.39ID:IN8XrTCj本当に救いがないな。
0233人間七七四年
2014/06/29(日) 22:47:44.70ID:oEbfPn8g0234人間七七四年
2014/06/29(日) 23:10:55.37ID:UUOtv5du0235人間七七四年
2014/06/29(日) 23:14:07.14ID:LlsMIStj0236人間七七四年
2014/06/30(月) 06:38:02.86ID:lbu0h+Ij0237人間七七四年
2014/06/30(月) 21:18:01.15ID:WRZJjB4J0238人間七七四年
2014/07/01(火) 08:36:20.95ID:shhIQofKこの九曜紋の殿様は誰かね?駕籠の豪華さだと大名っぽい
0239人間七七四年
2014/07/02(水) 12:26:43.79ID:8AGAwg9Y「常徳院内大臣義尚公(将軍・足利義尚)は天性歌のお好きな方で、武芸の暇には和歌を心がけ、
その才能も年齢以上に大きなものでした。
高官昵近の公家が参った時は、仮初にも雑談などはせず、歌についての方法論のみを談じていたと
いうことです。その頃の歌の達者として有名だった某大納言は、始めは歌の形についてなど
心やすくご指南申し上げていましたが、御年二十歳を過ぎられてからは、かの卿はかえって、歌の
風情について義尚公にお尋ねになるほどでした。
このように義尚公はいみじき国主でありましたが、ただただ、ご年齢が壮年に満たず亡くなられた事は
口惜しいことだと、当時も皆口々に言っていました。
義尚公がかつて、近江に久しく滞陣されていた時、ある日お遊びとして湖水のほとりに出御され、
多くの船を飾り饗膳も珍しやかに調えて、諸道の達人を数人供奉しました。
公方は湖水の水際を眺めながら、童子二人が小舟に乗って遊んでいるのに気が付き、「あれは何者か?」と
尋ねると「梅ケ原の者です」との答えが帰ってきた。これを聞いて心にふと浮かんだ句があった
『湖辺自異山林興 童子尋梅棹小船』
この二句が心に浮かび、その対句についてしばし思案されましたが、ついによろしき句も浮かばず
還御され、その夜、夢の中に男装した人が現れて、先の句に足して七言四句とし、義尚公は
夢の中に喜び、程なく目が覚められた。その句は近習の人に仰せになり書き留めさせたということですが、
その後人々はみな、その二句を失念し、詮無き事になったそうです。大変残念なことです。
これだけではなく、かつて、また逆敵が近隣に侵入した時に、いそぎ出陣されたことがありました。
その時は炎天の時期で、五万ばかりの軍兵を召しつれられましたが、士卒はこの暑さに耐えかね、
滝のように汗をかき、馬もこらえかねて多くは跪き、人々はこのことに大いに混乱しました。
この時軍勢は鑑山の麓にありましたが、義尚公はここで
『けふばかり くもれあふみのかがみ山 たびのやつれの影のみゆるに』
(近江の鏡山よ、今日くらいは曇ってほしい。皆に旅の疲れの様子が見えるではないか)
と詠まれ、暫く木陰で休むように命じた。そこで少しすると天曇り、涼風おもむろに吹き始め、
軍勢はまるで中秋の夕暮れの中に居るようにように感じ、たちまち元気を蘇らせた、と言われます。
これなど歌における、上古末代までの高名の誉れでしょう。
まことに一句の力で数万の軍兵の苦しみを止めるなど、天感不測の君であったと言うべきです。
(塵塚物語)
歌人・飛鳥井雅親による、将軍・足利義尚の歌についての思い出である。
0241人間七七四年
2014/07/03(木) 06:42:18.40ID:R/nXxM+J歌で全てを解決する将軍か
0242人間七七四年
2014/07/03(木) 08:42:54.41ID:RsSJEXGt六角退治に躍起になったのは親へ反動か?
0243人間七七四年
2014/07/03(木) 21:00:00.17ID:OzddS/te豊 18
臣 6
秀 7
吉 6
天運24:大吉
人運13:大吉
地運13:大吉
外運24:大吉
総運37:吉
陰陽(偶偶奇偶):大吉
ちょっとどころか、とんでもなく縁起のいい話!
これはさすがにやり過ぎだろww
0244人間七七四年
2014/07/03(木) 23:29:09.25ID:GQBIVGxe0245人間七七四年
2014/07/04(金) 08:54:48.75ID:OvpIbfGP0246人間七七四年
2014/07/05(土) 14:39:04.96ID:0jGY9S5x「甲冑は丈夫なものをよしとはするけれども、あまりに重いものはよろしくない。
井伊直政は大力で重い甲冑を着てもものともしないが、戦場でたびたび傷を受けた。
(井伊直政は大力にて重き甲冑を着て重しとせざれど戦場にて度々疵を受たり)
本多忠勝は直政ほど力も無く、甲冑も軽いものを用いたが戦場で傷を受けたことは一度も無い。
(本多忠勝は直政ほど力もなく甲冑も軽きを用ひたれど戦場にて疵を受し事一度もなし)
だから、甲冑は着る者の働きやすいものこそがよいのだ。
また、下輩には鉄の薄い笠を着せるのがよい。場合によっては飯をも炊けることだろう」
(又下部には鐵の薄き笠を着せるがよし其時によりては飯をも焚かるべし)
――『明良洪範』
0247人間七七四年
2014/07/05(土) 15:49:33.17ID:9zHshRiz0248人間七七四年
2014/07/05(土) 18:59:59.57ID:NnkLvtji箕輪城方は1500ほどしか兵士が集まらず、若き城主の長野業盛は諸将を集め、防御の方法を議した。
甲は「城を固守して上杉謙信に救援を乞うべきだ」と主張した。
乙は「属城がことごとく敵方に落ち、将兵は死ぬか背くかした。そのような中で謙信に助けを乞うのは
かえって世の笑いを受けてしまう。万死を期して決戦あるのみ」と主張した。
すると日頃城主の信任が厚かった丙が「我が先君(業正)は上杉氏のために最後まで身命を賭して
尽くした。しかし憲政は愚者であり、先君を用いず、遂には国を失い、謙信を頼る様となった。
かような次第なので、今我々の幼君(業盛)も犬死することがあっては先君に申し訳ない。
むしろ武田家に降りお家を残すのが適切だろう」と主張しだした。
皆はこれを聞いて驚き、「昨日まで我が主家の棟梁豪勇の忠臣であったのが、なぜにわかに
臆病者になったのか!」と声をあげ涙を流し、甲などは憤然として刀に手をかけ丙を斬ろうとした。
すると業盛は諸将を制して、そのまま奥の間に行き、業正の位牌を奉じて上座に安置して拝礼したので、
諸将もこれに従い拝礼したが、どういった意味なのかわからなかった。
業盛はその様子を見て、おもむろに「丙が降伏の議を説いたのは皆の心底を知ろうと私が命じたものだ。
今、皆の心が鉄石の如く堅いのを見ることができ、これ以上喜ばしいことはない!」
と言ったので、皆再び驚き、業盛の用意周到なるに敬服したという。
その後業盛率いる箕輪衆は、若田原へ打って出た後に箕輪城に立てこもり、そこで業盛は散った。
享年19歳
アカツキ9巻12号(1934)より
0249鈴木右近の切腹
2014/07/06(日) 14:33:08.50ID:2nLgC1Ujでもちょっと触れられてるけど出典があったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4040.html
の逸話で
「どんなに死出の山が険しくても、わたしが御手を引いて差し上げますよ」
と真田信之と殉死の契約をした鈴木右近。
木村縫殿に殉死の際の介錯を頼んでいたのだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4806.html
の逸話のように縫殿が死んだためその息子の渡右衛門に改めて介錯を頼むことになる。
0250右近の切腹
2014/07/06(日) 14:34:10.32ID:2nLgC1Uj鈴木右近は十八日に殉死すると言ってたのにどうしたのか、自室に篭ったままであった。
嫡男の治部右衛門は江戸にいて不在であり、次男の弥左衛門は気が気でなかった。
家老以下、真田家家中に父の殉死の予定を伝えてきたのに、万一、長引くようなことがあれば
どうしたらいいのだ、と心配でしょうがなかったが、
右近の日頃の気性を思うと、たとえ天地がひっくりかえっても自分をまげない男なので、
意見もできないとあきれ果てていた。
右近は長年妻子にも触らせなかった箱を開けて書付をいちいちとりだしてことごとく
焼き捨て、残りを入納したそうだが、何が書かれているかを知る者はいなかった。
なんだかんだで十八日夜になって右近は正眼山法泉寺に移ったようだ。
隣家の竹内親兵衛、長谷川善兵衛が法泉寺に訪ねていくと、
右近「殉死の見届けをしてくださること、ありがたいことです。
私が焼かれる火葬場の様子をみたところ、山のようになって見苦しかったため
平らにならすよう指図をしてきたところです。」
ずいぶん念のいったことだと思っていると、同族の弥左衛門がやってきて、
切腹が遅れていることを問いただした。
0251右近の切腹
2014/07/06(日) 14:34:59.30ID:2nLgC1Uj取り寄せた棺桶のできを見、内外の寸法も十分だと満足していた。
そうこうしているうちに、介錯人の羽田六右衛門を木村渡右衛門が召し連れて
右近と対面した。切腹前の儀式が終わった後、
右近「まことに申し上げにくいことですが、このようなことをしたことがなく、この歳になるまで
殉死を見たこともないため、作法を心得ません」
木村「わたしも心得ているわけではありませんが、近藤平之丞に聞いたところでは
主君の御位牌に拝礼するのはもちろんですが、拝礼の後、御位牌に背を向けて切腹するのが
作法だそうです」
右近「若いのにそこまで調べてくださったこと、言葉に尽くしがたいほど感謝しております。
ところで、どうせなら後世に残るように立ったまま切腹したいのですが、いかがでしょうか」
木村「冷淡なように聞こえるでしょうけど、ご老衰の身でそんなことをしてもしかたないでしょう」
右近「ともかくも指図通りいたしましょう」
右近は気色にも死の恐怖というものをいっさい見せなかった。
0252右近の切腹
2014/07/06(日) 14:37:46.29ID:2nLgC1Uj切り口を主君に見せようと思ったのか、霊前(位牌)の方へ振り返った所、介錯人の羽田六右衛門が
振り下ろした刀が肩骨に打ち込まれてしまったため、木村渡右衛門はすかさず右近の首を
自分の膝の上に引き寄せて、首を掻き切った。
木村は慌てた様子もなく手早くことをなしたものだ。
この物語はその時同席していた長谷川善兵衛から直接聞いて書き置いたものである。
「真武内伝 附録」より
用意周到にしたのに最後の最後できれいに運ばなかった気もしますが、全体的に考えていい話ってことで
0253人間七七四年
2014/07/06(日) 15:05:15.07ID:2nLgC1Uj0254人間七七四年
2014/07/06(日) 17:58:09.47ID:nhVGFlMZ昔からの家臣で殉死するほどつきあい長い人って相当限られてたんだろうなあ
0255人間七七四年
2014/07/06(日) 20:08:27.89ID:Umjsc1MS0256人間七七四年
2014/07/06(日) 20:57:10.07ID:qSzwb+rS0257人間七七四年
2014/07/06(日) 21:16:24.09ID:C7mlVC+m0258人間七七四年
2014/07/06(日) 21:57:49.48ID:lkckB1fN新参で寵愛されていたとかならわかるけどさ
0259人間七七四年
2014/07/06(日) 22:03:27.39ID:74f8CjY50260人間七七四年
2014/07/06(日) 22:07:04.57ID:ceGbtxhr主君より8歳も若いのに
0261人間七七四年
2014/07/07(月) 00:27:31.43ID:0lSG9xVp0262人間七七四年
2014/07/07(月) 01:15:23.93ID:P0qED9OS0264人間七七四年
2014/07/07(月) 13:19:57.16ID:9Bf/qtyn一応用心してりゃ用意しとくだろ。天下泰平でも生水に当たってこてっと逝ったり赤穂浪士に討たれたりキチガイにタマ取られたりってアクシデントもあるわけだし
0265人間七七四年
2014/07/07(月) 13:24:33.27ID:g8GLLUXD0266人間七七四年
2014/07/08(火) 00:23:38.29ID:Jof1AIYs0267人間七七四年
2014/07/08(火) 00:40:10.81ID:yNf5Xzp90268人間七七四年
2014/07/08(火) 02:00:12.72ID:CGapS9WN0269人間七七四年
2014/07/08(火) 02:30:32.26ID:bKa214Jq0270人間七七四年
2014/07/08(火) 19:51:00.15ID:JyLMitQJこれは豊臣関白秀吉公の所縁となられて後、未だ御対面がなかったためである。
長丸君はこの時12歳になられていた。井伊兵部少輔直政、酒井右兵衛太夫忠世、
内藤弥三郎清成、青山藤七郎忠成が供奉をした。
13日、都に入られた。関白からは長束大蔵大輔正家が迎えに出された。
15日、聚楽城に上り御対面があった。関白秀吉の喜びは大変なものであった。
その後孝蔵主の案内で後閣へと誘われた。そこでは秀吉の母である大政所自ら、
長丸君の髪を結い直され、御衣装も新たな物を進められた。そして長丸君は関白より
諱の一字を授けられ、秀忠と称されることになった。
関白は自ら秀忠公の手を引いて外殿に出られ、井伊直政らを近くに召して言った
「大納言(家康)には良き子を持たれた。年頃よりも大人のように見え、大変喜ばしいことである。
このように田舎風を変えて、都ぶりに改めてお返ししよう。
大納言もさぞ待ちかねているだろうから、急ぎ帰国するように。」
そして井伊直政、酒井忠世、内藤清成、青木忠成らにも金や衣服を数多与えられ、各々暇を賜った。
彼らはまた秀忠公の供奉をし、17日に京を出立し、25日駿府に帰られた。
2月24日には甲冑始めがあった。この頃関白は小田原の北条を征せんがため、関西の大軍を率い
3月には相模の国まで攻め下り、29日には湯元堂で諸将を集め酒宴を開き、軍議を行っていた所、
関白は家康公に向かって「秀忠を呼んでこの大軍を見せるように」と言われたため、しばらくして
ここに招かれた。大久保新十郎忠常はこの時11歳であったが、一人供奉して参った。
その時、関白は自ら甲冑を取り出し、秀忠公に「それを着られ、我が武運にあやかるように」と
公の背中を撫でられた、とのことである。
(台コ院殿御實紀)
徳川秀忠が豊臣秀吉に初めて対面した時と、小田原の役での模様である。
0271人間七七四年
2014/07/09(水) 03:57:34.26ID:nw6cHqxv0272人間七七四年
2014/07/09(水) 06:50:10.23ID:KnwmyW2Sわしの頼りない息子でもなんとかなりそうとか思えたのかな
0273人間七七四年
2014/07/09(水) 18:40:54.00ID:Kss2d3LI信長傅役:林秀貞・ 平手政秀・ 内藤勝介、青山信昌
内藤と青山は傅役コンビ?
0275人間七七四年
2014/07/09(水) 21:26:56.78ID:F/OqKnxx0276人間七七四年
2014/07/10(木) 01:35:01.83ID:xXgk6MdB権六といい藤吉郎といい、お前らも
それクリトリスなんだろ?
0278人間七七四年
2014/07/10(木) 05:38:02.00ID:TnF/OBsGトランペットの才能があるが金がなくて伸ばしてやれんのが口惜しい
0279人間七七四年
2014/07/10(木) 12:11:33.43ID:MkHxQsmN0284人間七七四年
2014/07/11(金) 07:23:11.10ID:N+c+eHskこの時、太閤秀吉と関白秀次の間に事が起こった(秀次事件)。
秀次は目前の危険から逃れるために、秀忠を拉致し人質としようと謀り、早朝、特使を参らせ
朝餉に参るようにと迎えた。しかし留守居の大久保忠隣はその謀を察し、土井利勝を始め5,6人に
お供をさせ、密かに伏見の館へと移動させた。この時、利勝のすすめにより、竹田路を通らず、
大路を経てつつがなく伏見に到着したという。
伏見に到着した秀忠は太閤秀吉の元へと渡ると、秀吉は大方ならず喜んで、
「誠に新田殿(家康)の子である。」
と、大いに賞賛した。
これは、父・家康が都を出立する前、秀忠を密かに呼んで
「私が東に向かった後、必ず太閤と関白の間に事が起こるであろう。
その時お前は必ず、太閤の御方に参るように。」
と言いおいたためであったという。
(徳川実記:台コ院殿御實紀)
秀次事件の時の徳川秀忠の脱出劇。秀吉が家康を「新田殿」と呼んでいるのが印象的である。
0285人間七七四年
2014/07/11(金) 19:09:45.13ID:zCem73+m0286人間七七四年
2014/07/11(金) 19:28:03.08ID:CplVdxw50287人間七七四年
2014/07/11(金) 20:13:05.63ID:xrqO5+4h0288人間七七四年
2014/07/11(金) 22:34:57.93ID:zCem73+mいい意味でも悪い意味でもラスボスを更に強化したようなお方がいるんだし問題はない
0289人間七七四年
2014/07/11(金) 23:01:39.09ID:N5Xc6OWK実はその跡継ぎには生存説があるのも似てなくもない
どっちかというと大友皇子に近いが
0290人間七七四年
2014/07/11(金) 23:19:35.57ID:NNvyJC9s0291人間七七四年
2014/07/11(金) 23:21:18.28ID:P79Fed1yということに一応なってるから
0292人間七七四年
2014/07/13(日) 08:50:27.09ID:foBlReUX由良「家系図強奪したったwwwこれで家系図繋げられるわwww」
岩松「もう家系図は渡さないぞ・・・」
徳川「くーださい」
0293人間七七四年
2014/07/13(日) 10:45:58.03ID:409e/6Nw「石田三成からの手紙」を読んだら興味深い書状が載っていた
『内々進上するつもりで先日お目にかけた鷹ですが、その時には
獲物を取ることができず、残念でした(昨、御覧候所にて取飼い申さず候、遺恨)。
今日は私の鷹師を遣わして雁を一つ取らせたので、鷹と一緒に進上します。
この鷹は申し上げた通り私の秘蔵の鷹です(我ら秘蔵に候、)。青鷺を取るということで来たのですが、
私のところでは雁に力を入れてこの春、菱喰(別名オオガリ)を入れて雁を二十ほど取りました。
その手際は同行した城州(山城守)がご存知ですのでお聞きになってみてください。
(中略)
ところで先日貴方の手から飛ばせた若鷹は、私の手からは雁を二つ、鷹師からは七つ、
大崎方では青鷺を二つ取りました。この鷹は次の秋に確かに鶴を取るでしょうから、大崎方へ残しています。
夏の間は青鷺を取ってお遊びになるといいでしょう。秋に鶴を取ったらお返しください。
(いったん渡したものを返せと言うのは)おかしなことですが(鶴取り候ハバ御返しあるべく候、おかしく候、)。
恐々謹言 廿六日 三成(花押)』
(「年代未詳 某中納言宛て書状」 下条文書)
三成は真田信幸にも鷹をもらったことに対する礼状を送っているので、鷹狩が好きだったのは確からしい
「中納言」「山城守」と言えば思い浮かぶのは上杉景勝・直江兼続主従だが、
三成がこれほどくだけた手紙を景勝に送るのは考えにくいということで、
著者はこの書状は岐阜中納言(織田秀信)宛てではないかと推測していた。真相はいかに。
鷹について熱く語る三成が微笑ましいのでいい話に
0295人間七七四年
2014/07/13(日) 13:31:33.64ID:9Q5ZG96i旨の注進の状が二月二日午の刻に京都から出て、飛脚は同三日子の刻に秀吉公
の陣所に到着した。
これにより、秀吉公は腹心の者たちを呼び、ひそかに書状を見せて各々の了見を
お尋ねになった。皆々は不意の変事故に然と(「確と」に同じか。はっきりと)
した返事にも及ばず、ただ当惑した様子であった。
その中で黒田孝高はその書状を見て、差し当たってのことなどは一言も申さず、
秀吉公の膝元に這い寄りなさり、坐を叩き打ち笑って、
「なんとまあ、天の加護を得られなさった! もはや御心のままになりました!」
と申した。衆人とは異なる器量である。
――『明良洪範続編』
0296人間七七四年
2014/07/13(日) 13:35:08.79ID:fBGDZq2o0297人間七七四年
2014/07/13(日) 16:40:34.90ID:yUMwnoXm0298人間七七四年
2014/07/13(日) 17:07:48.13ID:XKdLphx10299人間七七四年
2014/07/13(日) 17:19:29.32ID:UFBuHeXN0300人間七七四年
2014/07/13(日) 22:03:39.98ID:B1iJhDnX彼は始め、與八郎、又は猪之助と言った。
岡崎三郎(松平信康)に仕え、天正3年5月21日、三河長篠・有三原の戦いで三番鑓をして報償を得て後、
家康に仕えて、長久手の戦では岩ヶ崎の城に使いをしたが、はや落城しており、城主丹羽二郎助の首を
敵兵が取って去ろうとしていた所を、追いかけその首を取り返したことで御感を被った。
また、天正13年、徳川家康の吉良での鷹狩に供奉し、手負った猪が猛り向かってくるのを組み止めた。
家康はこれに大いに感じ入り、彼に『猪之助』という名前を賜った。
(徳川実記:台コ院殿御實紀)
大権現の安定のネーミングセンスを物語る逸話である。
0301人間七七四年
2014/07/13(日) 22:52:31.58ID:aab7x1lO0302人間七七四年
2014/07/13(日) 23:36:05.25ID:nkHQJv3r出典はないが既出のような
0303人間七七四年
2014/07/14(月) 03:25:25.51ID:YrWW/aMd勝女は京生まれで織田信行に仕え、生まれつき聡明で容貌も美しく寵愛されていた。
ある酒宴の際、信行は重臣津田八弥に
「お前もそろそろ妻をめとれ、わしが媒酌してやろう」
とその場で勝女の婚姻を決め、良日を選んで祝言をあげてやると約した。
この津田八弥というのは農民の生まれだが美男と才能のため信行にとりたてられ、織田一族の
「津田」を姓として与えられた者である。
しかし信長から信行につけられた老臣で佐久間七郎左衛門というのがあり、
八弥より待遇が悪いため大いに嫉妬し、両者のいさかいが絶えなかった。
とうとう七郎左衛門は八弥の屋敷に火を放ち、出てきた八弥を刺殺してしまった。
目付役が吟味すると、八弥の厩のそばに七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃が信長から下賜された正宗が落ちてあり、
また、火をつけた盗賊をとらえた所、七郎左衛門に命じられたと白状した。
信行が玄蕃に七郎左衛門をつれてくるよう命じた所、七郎左衛門は美濃に出奔し、斎藤道三に匿われてしまった。
0304人間七七四年
2014/07/14(月) 03:27:43.10ID:YrWW/aMd信行は「相手は勇士、お前は女だからここは尼にでもなって八弥の菩提を弔え」
とすすめたものの、結局八弥を刺したと思われる正宗を与え、暇を出した。
勝女は岐阜近在に住みつくと、鷹狩をしていた道三の嫡子龍興の目にとまり、そのまま道三夫人の侍女となった。
器量よしで歌道にもすぐれていたため寵愛されていたところ、翌年三月、競射の参加者の名簿に
佐久間七郎左衛門の名を認めたため、夫人に願って競射を拝見する許可を得た。
参加者25名中15番目の佐久間七郎左衛門が名乗った瞬間、勝女はおどりいでて短刀で七郎左衛門の脇腹を突き、
「津田八弥が妻勝なり。夫のために仇を報ずる!」と大音声で叫んだため、大騒動となった。
七郎左衛門は即死。道三、龍興も驚き経緯を尋ねると勝女は動ぜずありのままを答えたため、
道三の怒りは減じたものの
「お主の志には感動したが、織田信行から七郎左衛門を戻せと言われても今まで断ってきた。
わしを頼ってきたため隠してきたのだ。しかし女のためにむざむざ殺されたことが世間に知られれば
わしにとっては恥辱極まりない。かわいそうだが明日死刑に処す。それまで牢に入っておれ」
道三夫人は勝女を牢に入れるにしのびず、道三に懇願し、勝女を一晩あずかる許可を得た。
夫人「わたしはあなたの行為に感動しました。このまま逃げなさい」
勝女はそれでは夫人にとって申し訳ない、罰を受けましょう、と言ったものの、結局夫人に説得され、
夫人から路銀をもらい、未明に城外に逃亡した。
0305人間七七四年
2014/07/14(月) 03:30:38.58ID:YrWW/aMd康高はすぐに家康に報告し、貞烈に感動した家康は「男女に限らず万人の鑑である」と城に引き取った。
七郎左衛門の兄、佐久間玄蕃は勝女が岡崎にいると知るや信長に勝女を尾張へ戻すよう願った。
信長は池田紀伊守恒興を使者として勝女を乞うたが、
家康は「勝は夫のために仇を討った貞婦です。おそらくこれは玄蕃の願いでしょう。
仇討は古今稀であり、しかもわたしを頼ってきたものをそちらに渡す理由がありましょうか。
信長殿は玄蕃の願いを叶えなければ玄蕃が謀反するとおそれているですか?
もしこの言葉が無礼と思われるのなら戦で決着つけましょう。
その場合こちらは信玄と同盟して尾張に攻め入りましょう」
と答えたため信長もあきらめた。
玄蕃は怒りを増し、金銀で勇士たちを雇い、岡崎に潜入させて勝女を殺そうとした。
勝女は物詣のため城外に出たが、警護していた大原左近右衛門惟宗、今村伝十郎が
曲者二人を見とがめ、生け捕り拷問。曲者二人は玄蕃に頼まれたと白状した。
即刻二人の賊は処刑。梟首の上、制札に書かれた文面は
「この者共、佐久間玄蕃に頼まれた由を白状すれども、盗賊ら己が難儀を逃れんために
いうことならん。よってここに梟首するものなり」
0306人間七七四年
2014/07/14(月) 03:32:46.06ID:YrWW/aMdしかも玄蕃の名前まで書くのは無礼であろう!」と使者を出したが
岡崎で老臣たちが使者に答えるには
「われわれも相談したのですが、貴国の老臣佐久間ともあろうものが
まさか一婦人に刺客をさしむけ殺害をはかるなどとは思われず、
おそらくこれは盗賊が自分の罪を免れようと嘘を言ったのだろうと判断したのです。
制札にもそう書いてますよね?」
これを使者より伝え聞いた信長はよけいに憤怒し、和平を破って戦闘におよぼうとしている、
という風説が岡崎までに届いたため、城の警護を固くすることになった。
勝女はこれを聞き
「わたくしめ一人のせいで、この国が戦になってしまうことは本意ではありません」
と今までの恩を感謝する書をしたため自殺。
この書を見たものはみな落涙し、家康も絶世の烈婦であると讃え、次第を信長に伝え、
大樹寺に葬り厚く弔った。
0307人間七七四年
2014/07/14(月) 03:36:45.81ID:YrWW/aMd時代から考えて盛政のはずはないし
0308人間七七四年
2014/07/14(月) 06:55:05.76ID:jOloNtFCこの辺のメンタリティーは500年前から変わらずか
0309人間七七四年
2014/07/14(月) 07:01:42.67ID:UdEexSsb0310人間七七四年
2014/07/14(月) 07:52:44.37ID:UGyojH9t0311人間七七四年
2014/07/14(月) 08:03:16.18ID:4unFyKeC桶狭間のあと家康が岡崎城を取り戻して
義龍が死ぬ前の1560年か1561年ごろか
清洲同盟はまだだがとりあえず小康状態ってことで和平、と言ってるのだろうか
でも信行生きてるってことは尾張を出た後数年岐阜に?
どこまでほんとかわからないから考察するだけ無駄な気もするが
0312人間七七四年
2014/07/14(月) 13:38:18.59ID:yk0AUsYP0313人間七七四年
2014/07/14(月) 21:37:42.78ID:J7/p7mbTこの夜、関白秀吉は密かに家康の旅館を訪ね、「長篠の戦い以来12年ぶりの対面です」と
大いに喜び、そして家康の耳元に口を寄せて、こう囁いた
「黄門(家康)もかねてから知っているように、秀吉は今官位人臣を極め、兵威四海を席巻しているが、
元々は松下なにがしの草履取りとして付き従っていた奴僕であることは、皆知っている。
やうやう織田殿に見立てられ武士の交わりを得た身であるから、天下の諸侯も表向きは畏服しているようでも、
心から帰順している者は居ない。また、今私の被官になっている者達も、元は同僚傍輩であり、実の主君とは
思っていない。
願わくば、近日大阪表で対面するときに、この事をよく心して対応していただきたい。
秀吉に天下を取らせるのも失わさせるのも、卿のお心次第ですぞ。
この事を頼みたくて、このように上洛を進めたのですよ。」
と、家康の背中を叩いた。
家康はこれを聞くと
「私は既に御妹と添い参らせ、またこのように上洛いたせし上は、ともかくも御為に悪しき計らいは
いたしません。」
そう答えると、関白もこれを喜んだ。
やがて大阪に渡り、厳しい作法にて御太刀・御馬。黄金百枚を進ぜられ、家康がこれにいたく敬服し
額ずいているのを見聞して、中国、筑紫の諸大名も
『大政所を人質として上洛された徳川殿ですらかくの如しである。我々がどうして秀吉を軽蔑することが
出来るであろうか』
と、これ以降国々の大名は関白を、以前に比べ10枚も尊敬するようになったと言われる。
(徳川実記:東照宮御實紀)
有名な秀吉と家康の、大阪城対面前の打ち合わせについてのお話し
0314人間七七四年
2014/07/14(月) 22:11:35.18ID:9++ZZLCs0316人間七七四年
2014/07/14(月) 23:33:45.73ID:hsweGQXa0317人間七七四年
2014/07/16(水) 22:16:02.06ID:i5spjsh6彼はかねてよりよく知られた武士であり、関ヶ原の合戦の後、秀家とともに逃亡したが、
やがて捕らえられ、家康より秀家の行方を尋問された。
正次は「私は秀家が敗走して後3日ばかり付き従いましたが、その後は主従別れ別れに隠れ忍んで
行方知れずと成りました。」と答えた。
家康はこれを聞くと「正次は君臣の義を重んじるが故に、その隠れる所を申さない事に疑いない。」と
却ってその忠義の志に感じ入り、金10枚を与え自分の元に留めおいた。
この時「秀家が秘蔵していた鵜飼國次の脇差しはどうなったか?」と尋ねたが、これに関しては
正次は関ヶ原の辺りで探し当て、家康に献上した。
さて、慶長8年8月、宇喜多秀家は潜伏していた薩摩から召し上げられた。
この時、本多正純、徳山則秀が彼を尋問したが、進藤正次に関して、彼は伊吹山中にて、
秀家を50日間に渡り深く隠し忍ばせたと、秀家は答えた。
先に正次は3日秀家に付き従ったと証言しており、その言葉と一致しない内容に、家康は
「その主を思うこと厚きが故に、己の美を殊更言い揚げなかったのだ」
と深く感じ入り、正次に500石を与え御家人に加えた。
(徳川実記)
徳川家康、宇喜多秀家の旧臣に感じ入る、というお話し。
0318人間七七四年
2014/07/17(木) 20:28:21.67ID:P0EZJS5Gこの時、秀吉配下の黒田官兵衛家来、母里太兵衛友信が一番乗りをし、これに羽柴軍は
勇を得て進み、城中が油断していたこともあって即座に攻め落とし、城兵尽く討ち取った。
さて、この戦果が信長に注進されると、信長は「彼の地が手に入ったのは秀吉の働き故である。」
と大いに喜び、褒美として秀吉に、鞍置きの馬を遣わした。
しかし、これを頂いた秀吉は
「今度の城攻めは、偏に孝高(官兵衛)の働き故である。」
と、鞍馬を官兵衛に与えた。
しかし、これを頂いた官兵衛は
「この度の戦功は、偏に太兵衛の一番乗りの功によるものである。であるからこの鞍馬は
私が拝受すべきものではない。」
と、これを母里太兵衛に与えた。
この鞍は、太兵衛の子孫に今も伝わっている。
(黒田家臣伝)
信長から秀吉への褒美が太兵衛の元に至った過程である。
0319人間七七四年
2014/07/17(木) 21:21:49.27ID:p5iyhZHH「そなたのおかげでいざという時にその弓を引いて恥をさらさずにすんでよかった」って逸話が誰の話か思い出せぬ
0320人間七七四年
2014/07/17(木) 22:23:42.80ID:7ORMQOgDこれだね
板倉重矩と板倉家伝来の弓・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2123.html
0321人間七七四年
2014/07/17(木) 23:46:38.62ID:p5iyhZHHサンクス!思い出せてすっとした
しかし加藤嘉明の小皿を割った家臣に対する話といいこういう話は胸がすくなあ
0322人間七七四年
2014/07/17(木) 23:48:52.07ID:x4tNtAoU0323人間七七四年
2014/07/17(木) 23:58:59.78ID:WsBUM6N60324人間七七四年
2014/07/18(金) 07:47:26.31ID:QJ4Y8ymK付いた銘が「弓か折る」とかか
0325人間七七四年
2014/07/18(金) 19:15:43.58ID:s1lza5UX0326人間七七四年
2014/07/18(金) 21:11:41.36ID:Xaz8uGyP肩車の弥助
0327人間七七四年
2014/07/18(金) 22:59:30.28ID:BBI/UJGJ弘前藩三代目津軽平蔵信義は江戸勤番中、屋敷に大名たちを招いて深夜まで酒宴を張った。
ところが、大名の一人と口論になったため、その大名は裏口からひっそりと帰ってしまった。
信義はこれを知ると激怒し、「首をひき抜いてくれん」と刀をかざして玄関から走り出た。
その時、進藤庄兵衛正次がすばやく門を閉じ、その場に平伏し信義の行く手を遮った。
信義は、正次の首元に刀をつけ、「門を開けよ」と怒鳴ったが、「刃傷あってはお家の一大事」と正次は動かなかった。
しばらくにらみ合いが続いたが、信義はあきらめて屋敷に戻った。
一方の正次は信義の刀がかすって流れ出た血をぬぐい、夜通し門を守り続けた。
(進藤家譜)
津軽さん家の進藤正次さんでした。
時代は下ったけどすでに2つくらい信義さんの逸話出てるからいいですよね。
この進藤さん後に鬼庄兵衛とか呼ばれる家老にまで抜擢されます。
0328人間七七四年
2014/07/18(金) 23:19:50.20ID:Fmlp0bYo南部じゃないのは確か
0329人間七七四年
2014/07/19(土) 22:42:40.79ID:fFPbldre小早川秀秋の転封が正式に決まった時期、石田三成の家臣宛ての書状。
『殿下は我らに筑前筑後を下さり、九州の物主にしてくださるとのご内意でしたが、
そんなことをしては佐和山に置ける人もなく、身近で用を申し付ける人も少なくなるので、
(さ候へハ、又さわ山にをかせられ候ハん人もなく、ここもとにて御用御申つけ候人もすくなく候間、)
我らはこのまま(佐和山)でいよとのことになりました。
江州(近江)のその方の知行や蔵入(代官領)が増えないとなれば
悔やむ気持ちもありますが(くやみ申し候間)、よくよく申し付けてください。
次に筑後筑前は蔵入になるので、その旨百姓に言い聞かせるよう。
また金吾殿は越州(越前)へお替りになり、従って我らが(筑前の)代官になるよう命じられました。
近々筑前に下ることになるのでその心得でいるようにし、
この由を妻と父へも伝えてください(此由内儀、おきとのへも可申候也)。
廿二日 三成(花押)』
(「慶長三年(1598年)五月 家臣・大音新介宛て書状」 宇津木文書)
0331人間七七四年
2014/07/20(日) 08:18:44.37ID:dZ5BmJRv読解力がない人は読まなければいいのに
0332人間七七四年
2014/07/20(日) 08:26:08.37ID:NMYLKHiG0333人間七七四年
2014/07/20(日) 15:33:29.83ID:NXugiSla0334人間七七四年
2014/07/20(日) 15:46:52.90ID:w8DtMny2読みにくいと思う
0335人間七七四年
2014/07/20(日) 15:53:13.59ID:rqgpDVeb原文表示:(さ候へハ、又さわ山にをかせられ候ハん人もなく、ここもとにて御用御申つけ候人もすくなく候間、)
言い換え:江州(近江)
補足:我らが(筑前の)代官
言い換えと補足は現代文でやっちゃって、原文表示だけカッコにしちゃえば
それほど読みづらくはならないと思う
0336人間七七四年
2014/07/21(月) 12:39:24.59ID:2f/+l11S黒田長政は朝鮮のおける占領地のうち。4,5郡を重臣である栗山利安に預けた。
利安は慈愛を以って民を懐けたために、朝鮮人たちはその支配を喜び、毎日その政庁に来て
利安を拝した。利安は、「大勢の者と毎日対面するのは難しい」と、2,3日に1度づつ来るように
申し付けた。
この様子を知った黒田長政は、「鎮まりかねたる所を良く懐けたものだ、ちょっと様子を見てこよう」と
利安の領地に向かった所、朝鮮人たちはこの軍勢に驚き、合戦の用意を始めた。
しかしそこで利安の馬印が見えたため、そのまま鎮まった。
(黒田家臣伝)
栗山利安、朝鮮で善政を行うというお話。
0338人間七七四年
2014/07/22(火) 02:34:47.82ID:MO9dVXM+戦国関連の同姓同名なんてそれこそ、朝倉氏、伊達政宗、島津家久、松平家忠、牧野康成と
数えたらきりないし
0339人間七七四年
2014/07/22(火) 12:51:26.08ID:qOBkUal5有る時黒田家の陣営において、黒田三左衛門美作、野村隼人、後藤又兵衛の3人が一緒にあった時、
向かいに敵の唐人(明人)が一人あり、矢をただ3本、手に挟んでいた。
黒田家の3人はこれを見つけると、討ち取らんと争って駆け寄った。
先ず、後藤又兵衛が一番に馬で乗り寄った。しかし唐人が矢を放つと、これが又兵衛の小腹に辺り
落馬し、当の敵を討つことは出来なかった。
次に野村隼人が駆け寄ったが、唐人は近くに寄るまで矢を放たず、なおも近づいた時
放たれた矢が隼人に当たり、これも討つことは出来なくなった。
3番目に三左衛門が唐人の側まで駆け寄って、刀を抜いて振り上げた。
そこを唐人は狙いをつけて矢を放った。その矢は三左衛門の右手に当たり、肘から上腕の後ろまで
貫き、三左衛門はたちまち刀を落とした。
が、三左衛門はそれに構わずこの敵と組打ち、ついに仕留めたのである。
それにしてもこの唐人、ただ3本の矢によって3人を射たというのは、全く珍しいほどの手練であった。
(黒田家臣伝)
黒田美作、矢で撃たれたけど構わず敵を撃つ、というお話。最後はやっぱり力技ですね。
0340人間七七四年
2014/07/22(火) 15:26:38.89ID:OcCuZJZB0341人間七七四年
2014/07/23(水) 06:43:56.47ID:5E4XFPhC0342人間七七四年
2014/07/24(木) 02:21:04.77ID:GaAOfrKi三河に派遣し、岡崎城の留守居とし、松平領の奉行は鳥居伊賀守忠吉と松平次郎右衛門重吉の二人に任せ、
そこから得られる租税は皆、駿河の今川家に横領された。
しかし鳥居伊賀守忠吉は一人辛苦して、長年かけて米や銭を数多貯め、将来の戦に備え置いた。
そして元康が今川義元の許しを得て岡崎に帰城した時、鳥居忠吉は喜びに耐えず、元康の手を引いて
蔵へと連れて行き、そこを開いて見せ、言った
「私は多年に渡り。今川の人々に隠してこのように貯め置きました。これは我が君が早く御帰国あり、
御出馬されることがあれば、御家人を育み、また軍用にも事欠かないように、備え置いたものなのです。
私は年齢も八旬の残端(80代後半)となりましたが、朝夕神仏に願い続けたかいがあって、このように
生きている間に再び、我が君の御尊顔を拝すことが出来ました。生涯の大幸、これに過ぎる事があるでしょうか」
そう、老いの目から涙を流した。
元康も、これに大いに感じ入った。
この時忠吉は、銭が十貫づつ束ねて縦に積み置いてあるのを指さし
「このように積み置けば、どれほど重ねても銭が割れる事はありません。世人のするように横に積むと、
たちまち割れてしまいます。」
そう元康に言い聞かせた。
後、家康は銭を積むときは生涯に渡り、そのとおりに行った。そして常々このように言った
「これは伊賀の教えなのだ。」
(鳥居家譜)
有名な、鳥居忠吉銭米を貯め置くというお話。
0343人間七七四年
2014/07/24(木) 16:07:05.83ID:RVGnSxlI0344人間七七四年
2014/07/24(木) 16:08:44.58ID:sTZdITJy0345人間七七四年
2014/07/24(木) 17:26:12.07ID:VVEqGrMOお乗りだった馬は牝馬であるとかいうことだ。
後年、信長は秘蔵なされた馬を画工に命じて屏風に描かせた時、
その牝馬も描き加えさせ、描かれた馬は総計十三匹であるそうだ。
その屏風は織田山城守長頼が所持されていたが、長頼死去の時に
遺物として尾州家(尾張徳川家)へ送られ、現在尾州家にあるという。
――『明良洪範』
0346人間七七四年
2014/07/25(金) 11:17:49.84ID:9zqZIUq70347人間七七四年
2014/07/25(金) 11:21:30.05ID:gwO/rgqW0348人間七七四年
2014/07/25(金) 12:26:24.13ID:7satxje+0349人間七七四年
2014/07/25(金) 12:31:59.91ID:Kk6EkVvo0350人間七七四年
2014/07/25(金) 12:48:54.94ID:KxD94hZB0351人間七七四年
2014/07/25(金) 13:49:57.99ID:50OarqEx0352人間七七四年
2014/07/25(金) 14:02:01.80ID:Kk6EkVvoそうと気づかず…ゴメン‼︎
0353人間七七四年
2014/07/25(金) 17:17:37.19ID:Pne0/Jjw0354人間七七四年
2014/07/25(金) 20:12:29.11ID:lxC8vdSp0356人間七七四年
2014/07/26(土) 08:10:32.06ID:NhOkfCQj赤松家の台所方とされる人物が、弘治元年に置塩城で繰り広げられた酒宴で出された料理について詳細に記した「播州置塩夜話 六花亭物語」を紹介したが、
今回はその下巻にあたる「屋形物語」で、その18年後に開かれた酒宴を追体験してほしい。
天正元年十月八日、赤松則房の置塩城に、宇野下野守(長水城の宇野氏の関係者)がやってきて、夜食が出された。
宇野からはホラ貝、鷹1羽、鯉2尾、鯛5枚、宝命酒(薬酒)5升、
家長(原文ママ)平瀬清左衛門からは鴨2羽、勝男(鰹節)10節が献上された。
宇野は広間、平瀬は次の間で御料理を下され、赤松家家老・山田助九郎や相賀道閑が相伴した。
装束は身分の上下ともに無刀、上下(裃)着用。宇野の太刀持ち原小才次、小太刀持ち村松は御縁に控えていた。
最初に出した膳は、右に澄まし汁が入った汁椀、左に茹でた蕎麦が入った食椀、
椀の前に小皿を置き、香頭(こうとう=吸い口・薬味)として唐辛子、ワサビ、ネギ、大根、鰹節、柚子などを刻んだものを盛ったものである。
客が食椀の蓋を取り、汁椀の蓋を取って澄まし汁に香頭を入れて好きなだけかき混ぜて、それを蕎麦にかけると、蕎麦の下から色々なものが出てくる。
鴨、鯛、椎茸、あわび、きくらげ、麩、セン、玉子、厚揚げ、凍み豆腐、凍みこんにゃく、雪餅、炒めニンジン、ゴボウ、カンピョウなどが出る。
具材を下盛りにしておいたのだ。
2〜3口で最初の膳を下げ、引替膳を出した。
その膳は鯉の刺身と、右に白鳥の味噌汁、左に白飯を配している。
次は、鯛の1コン焼き(尾頭付きの焼き物)、シギの焼き物、御酒。
玉子、あわび、ゴボウ、クワイ、蓮根、椎茸の葛煮に、酒1返し、いも巻きを供した。
ここで中入りとなり、酒宴が始まった。
盃は5合入りの椰子杯である。
料理の方は、スズキの青ヌタ、サザエの壺焼きと、酒1返し。
雀の焼き鳥と、酒1返し。
十六島(うっぷるい海苔)の漬け焼き、酒1返し、ふくら炒り。
「沖の石台」という5升入りの皿鉢に、酢と生姜を溜め、大根、人参、柚子、タコ、イカ、アワビなどを盛ったものも出した。
次に玉子のふわふわを出し、各自に抹茶、あん餅、干菓子を出した。
この酒宴で呑んだ酒は、宇野3升、平瀬4升、相賀3升、山田5升。
宇野は「相生」を謡って退出し、嵯峨山隼人と碁を3番打ったが、明朝はくたびれ果てて休んでいた。宇野は酒が不得手のようである。
昼食は菜食で、田楽、御酒、クシコ、御酒、カツオ炒り、御酒、御菓子、饅頭、干菓子という献立。
宇野達はその夕方、暇乞いして帰っていった。
以上、珍しい料理だったので抜き書きしておいた。永く家に伝えていってくれ。頼んだぞ!
天正二年正月一日
置塩・相賀永次郎重茂 同・毛野鶴次郎武盈
0357人間七七四年
2014/07/26(土) 08:29:48.96ID:NhOkfCQjhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1670.html
0358人間七七四年
2014/07/26(土) 08:33:00.39ID:Kkl3FKi0前回のはこれ?
0359人間七七四年
2014/07/26(土) 08:33:20.18ID:Kkl3FKi00360人間七七四年
2014/07/26(土) 08:37:34.85ID:ynTzV5w9史料上はこのころから蕎麦切りが現れはじめるから、まだ蕎麦がきのころかな?
蕎麦の下に具材があって汁を掛けてるからそうなのかなあ
0361人間七七四年
2014/07/26(土) 08:59:54.68ID:HguOHKq9だれか作って写真うpして。鷹って食えるのか?あいかわらず酒の単位が升wいまよりもアルコール薄いとはいえよう飲むわ。
0363人間七七四年
2014/07/26(土) 09:50:34.10ID:ENrhe7f50364人間七七四年
2014/07/26(土) 09:58:58.12ID:DdbAyVs10365人間七七四年
2014/07/26(土) 12:43:47.83ID:axf17gV40366人間七七四年
2014/07/26(土) 12:50:48.42ID:cF4X+d7l0367人間七七四年
2014/07/26(土) 15:22:17.91ID:KmwpVQjX0368人間七七四年
2014/07/26(土) 15:31:36.50ID:esuODCTo寛永13年3月隠居城若林にて伊達政宗は、寝所でうたた寝してると
小さな子が現れ「ホレ、出発の支度が整ったよ早く行こう」と催促してきた
政宗「ホウ、随分早いな。」と身体を起こそうとするが金縛りにあって
動けない。堪らず腰元を呼び起きたがその子は襖に消えていったのだ。
そして、最後の出府し江戸で引き取るのは3ヶ月後。政宗には座敷わらしが見えていた話
東北怪談全集より
0369人間七七四年
2014/07/26(土) 15:57:48.82ID:1co0NzCY0370人間七七四年
2014/07/26(土) 22:39:31.64ID:Co23d2UJ三宅角左衛門、木村又蔵、飯田覚兵衛、その他一騎当千の勇士らと同座で昔の
物語りをされた時、清正が、
「源義経の家士である武蔵房弁慶ほどの忠臣は、今も昔もいるはずがない」
と申されたところ、森本義太夫が
「いや、武蔵房弁慶ほどの忠臣は昔は知りませんが、今は幾人もいるでしょう。
ですが、その主君の源義経ほどの大将は、今はいるはずもありません」
と申したので、清正を初め家人一同は笑いなさったということである。
名将良士と言われる人は、皆君臣の間が睦まじかったそうだ。神君(徳川家康)
は人を引き立てなさることをよくなさった。ある時の御話の折、
「昔の鈴木三郎重家を忠義を兼ねた良士であると世に言うが、我が家には重家の
ような忠義の士が幾人もいる」
と、仰せられたそうである。
陶淵明の『渠も亦人の子也』(『此もまた人の子なり』)とは、本当に
格言というべきである。この言葉は高貴下賤ともによく人情に通じている。
名将良士が心を用いるところはここにある。
――『明良洪範続編』
0371人間七七四年
2014/07/26(土) 22:42:18.22ID:PPRdKStg0372人間七七四年
2014/07/27(日) 03:42:11.27ID:zLeQ/84T0373人間七七四年
2014/07/27(日) 03:45:59.82ID:mZBctROr0374人間七七四年
2014/07/27(日) 08:37:07.44ID:V+cZAXqT太平の世では早急に悪久すべき
0375人間七七四年
2014/07/27(日) 10:50:20.36ID:m510hudy0376人間七七四年
2014/07/27(日) 11:17:44.06ID:XnQ916Jd黒田武士は知らんが、三河武士にはある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2639.html
0377人間七七四年
2014/07/27(日) 12:20:12.06ID:+EQiIhCF0378人間七七四年
2014/07/27(日) 21:50:36.34ID:xw6A6oT70379人間七七四年
2014/07/28(月) 02:56:43.87ID:NuNQEtm40380人間七七四年
2014/07/28(月) 03:37:48.78ID:9WmG8ITM分かります
0381人間七七四年
2014/07/28(月) 03:54:52.65ID:BsmDQudM恐れ、どうにも怯えた様子を見せていた。
そこで家康は酒井忠次を呼んでこう命じた。「いつもの海老すくいの狂言をせよ。」
忠次畏まり、つっと立って海老すくいを舞った。これは有名な絶技の芸であったので、一座の者達は皆
笑いのツボに入り大爆笑した。
これによし徳川の三軍にあった武田への恐怖の念はいつの間にか一散したのである。
(忠次かしこまりつと立て舞けるが、兼ての絶技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と
笑い出しにより、三軍恐怖の念いつとなく一散してけり)
(東武談叢)
酒井忠次の妙技海老すくい、徳川軍から恐怖を払う。というお話。
0382人間七七四年
2014/07/28(月) 04:15:08.51ID:ieY8KXOP0383人間七七四年
2014/07/28(月) 04:43:26.31ID:0U1KnlTJ0384人間七七四年
2014/07/28(月) 07:02:38.28ID:g/gxe8er0385人間七七四年
2014/07/28(月) 09:44:31.66ID:yaZjXFV0これは歴史が動いた瞬間ですわ
0386人間七七四年
2014/07/28(月) 09:50:16.77ID:JPO4AgR60387人間七七四年
2014/07/28(月) 14:57:47.46ID:bY1WnWpb0388人間七七四年
2014/07/28(月) 15:11:02.63ID:ZKq6NRc70389人間七七四年
2014/07/28(月) 17:22:09.44ID:wBqsu5SX0390人間七七四年
2014/07/28(月) 19:09:03.66ID:hmwj7KpU真面目に答えると>>388の言う通り春秋時代の三軍(上軍中軍下軍)に倣い全軍を意味する
0391人間七七四年
2014/07/28(月) 20:45:46.48ID:0U1KnlTJ0392人間七七四年
2014/07/28(月) 22:39:54.15ID:OF6jLvwu戦国どころか、平家物語の有名なシーンでも使われてたりする。
大納言気色変はつて、さつと立たれけるが、御前に立てられたりける瓶子を、狩衣の袖に掛けて引き倒されたりけるを、
法皇叡覧あつて、あれはいかにと仰せければ、大納言立ち返かへつて、瓶子倒れ候ひぬとぞ申されける。
法皇も『笑壺に入らせおはしまし』、者ども参つて猿楽仕れと仰せければ、平判官康頼つと参つて、あああまりに瓶子の多う候ふに、もて酔ひて候ふと申す。
俊寛僧都、さてそれをば、いかが仕るべきやらん。西光法師、ただ首を取るにはしかじとて、瓶子の首を取つてぞ入りにける。
0394人間七七四年
2014/07/28(月) 23:17:39.03ID:JGXRelj80395人間七七四年
2014/07/28(月) 23:49:29.49ID:dd979FBFhttp://www.youtube.com/watch?v=FVvxOgmxeGA
横山光輝の「徳川家康」では天正壬午の乱後、北条との同盟の席で
海老すくいを披露し、徳川は大した事ないと北条を油断させてたw
万能技過ぎるwww
0396人間七七四年
2014/07/28(月) 23:58:28.40ID:ibhhCUUn0397人間七七四年
2014/07/29(火) 00:18:46.24ID:73ZyftsL0399人間七七四年
2014/07/30(水) 00:43:10.83ID:s9grfJZd0400人間七七四年
2014/07/30(水) 15:43:25.83ID:eu5p67WC豊臣秀吉の御前にて、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、蒲生氏郷、毛利輝元などが話していた時のこと
秀吉は
「たとえば昨今、織田上野介に兵五千、蒲生に兵一万をつけて合戦させたとする。どちらに味方すべきだろうか?」
と言った。
いづれも返答しかねていたが、秀吉は
「それがしは上野介につくべし。その故は、蒲生方より兜付きの首を五つ程も取るならば、その内に氏郷の首もあるだろう。
上野介方は四千九百まで討ち取られる分には、上野介は討死しないだろう。
然れば大将のはやく討ち取られたる方こそ、大きなる負けなり。」
と言ったという。
武功雑記
※織田上野介=織田信包
激しく既出の気がするけど、このパターンは無かった気がするので
0401人間七七四年
2014/07/30(水) 15:49:46.32ID:nayFSFDk0402人間七七四年
2014/07/30(水) 16:28:51.85ID:SgluMGfl・・・志村さんのお小言タイム?
0403人間七七四年
2014/07/30(水) 17:03:30.45ID:UsXN/Doc名無しんぼ@お腹いっぱい[] 2010/01/23(土) 21:00:26 ID:Le1hu93a0
所用で酒井家のご当主にご挨拶に伺ったのだが、つい弾みで「えびすくい」について聞いてしまった・・
ついかっとなってやった
今は反省している
へうげものという漫画があることはご存じなかったそうです。
名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 2010/01/23(土) 21:06:52 ID:E5ISRcS80
それでえびすくいの方はどうだったんですか
現代に至るまで踊りの秘伝が一子相伝で当主に伝わってたりするの
名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 2010/01/23(土) 22:20:49 ID:Le1hu93a0
酒井の太鼓は歌舞伎の演目になっているくらい有名な話だが、歴史上の出来事としては「史実」と言いきることができるものではなく、
「逸話」と呼ぶべきものでしょう。忠次公も踊り自体は知っていたかもしれないが、海老すくいの話も同じように「逸話」と言うべきだと
思います。とのことでした。
あ、それから、踊れないそうです(笑
0405人間七七四年
2014/07/30(水) 17:36:03.20ID:oYAnjCtXいや、これとそっくりな話で信長と氏郷のパターンがあるんだよ。
俺も信長のが誤って伝わったんだと思うが
0406人間七七四年
2014/07/30(水) 17:39:37.33ID:nayFSFDk有名なバージョンは信長だし
0407人間七七四年
2014/07/30(水) 21:46:31.09ID:vkO2DVH/0408人間七七四年
2014/07/30(水) 22:16:02.19ID:mSVmn9LE0409人間七七四年
2014/07/31(木) 00:13:35.60ID:2az/Ewhc0410人間七七四年
2014/07/31(木) 00:21:08.21ID:jq6ueLWV彼は関白の了承を得、すでに父から豊後国を渡されており、これを所有し統治している。
洗礼名をダミアンと称し、当時二十二歳、または二十三歳であった。
だが極めて優れた理解力と知識の持ち主で、その秀でた勇気と勤勉と相まって、日本で彼に優る者はごく僅かしかなく、したがって関白殿から気に入られ寵遇されていた。
五年前に父の官兵衛が関白の軍勢の武将として、一軍を率いて秋月を襲撃した時に、この息子は関白の命令により、戦場へ父に会いに来た。
当時、彼は十七歳であった。
その折、彼の父は彼がすぐにキリシタンになるように説得し、彼はその地で幾つかの説教を聞き、多くの家臣とともに受洗した。
だがこのたび関白の迫害が襲った時には、まだキリシタンとしては日が浅く、若輩で、我らの教えについてはほとんどなにも知ってはいなかった。
つねに自分がキリシタンであるとは公言していたものの、彼は聴聞したことに大いなる疑問を抱いていた。
特に人間が救われるためには、洗礼を受けてキリシタンになる必要があるということが納得できなかった。
彼には、人間は道理にしたがって正しく生きさえすれば、いかなる宗教によっても救われると思えたからである。
「フロイス日本史」より、1590〜1591年頃の黒田長政についての話
0411人間七七四年
2014/07/31(木) 00:29:46.71ID:ApMjhh460413人間七七四年
2014/07/31(木) 15:44:37.11ID:XOlX5q1B信長だったら戦いが始まる前に逃げてるよ
全滅しても生き残ってる身の振り方だったら本能寺で死んでないな
0415人間七七四年
2014/07/31(木) 21:29:54.66ID:NPJnKbx20416人間七七四年
2014/08/01(金) 02:08:45.02ID:a7OerG840417人間七七四年
2014/08/01(金) 08:23:13.85ID:OCqpYQAu0418人間七七四年
2014/08/01(金) 09:08:33.47ID:HVMVvfHT0419人間七七四年
2014/08/01(金) 10:57:36.83ID:GX53B0Pcこれに直次は、「こちらの者は皆麾下の縁りの人々なので、そのもとの仰せに
従うためには、皆々の依頼にも従いませねば叶い難いので、御容赦ください」
と言って、ただ何ということも無い様子であったという。
――『名将言行録』
0420人間七七四年
2014/08/01(金) 18:48:19.72ID:KiJaldDG0421人間七七四年
2014/08/01(金) 19:56:08.06ID:LDaddAct天庵様「ちくしょー!こうなったら討ち死にしてやる!」
菅谷さん「殿を止めろ!(ズルズル」
こうなるだろう
0422人間七七四年
2014/08/01(金) 20:29:38.90ID:Zrl4+mJj0424人間七七四年
2014/08/01(金) 22:22:40.24ID:Yi3BdW150425人間七七四年
2014/08/01(金) 22:24:45.94ID:47sCxrg+0426人間七七四年
2014/08/02(土) 05:49:37.74ID:eOslnO/20427人間七七四年
2014/08/02(土) 08:29:02.64ID:xE9j+uNr0429人間七七四年
2014/08/02(土) 11:11:43.53ID:NCUBK8vG合成?
0430人間七七四年
2014/08/02(土) 11:30:07.34ID:sZGLbLgx0431人間七七四年
2014/08/03(日) 11:29:24.66ID:nTp+xxm00432人間七七四年
2014/08/03(日) 15:00:02.63ID:AfNl1bl9「配下の伊賀者共々、織田家を叛き御当家に属したい。願わくば御書を賜らん。」
と申し上げた。しかし家康は
「当家は織田家と親交が深い。そのため御書を与えるのは難しい。今までのよう織田に属して、
本領を守るべきであろう。しかしどうしても我々に従おうというのなら、我が領国に移住するように。」
と答えた。
その後、伊賀の者達は皆織田家の命に従わなかったため、織田右府(信長)は大いに怒り、尽く誅伐
したため、みな山林に逃げ隠れ時節を伺った。
このような時に、本能寺の変が起こった。
伊賀越えをして三河へと帰ろうとする家康の元に拓殖清広は、一族の傳兵衛甚八郎宗吉、山中覚兵衛、
米地半助、その他甲賀の美濃部管三郎茂濃、和田八郎定教、武藤大炊茂秀らを引き連れ参上した。
彼らは皆人質を出して伊賀の道を案内し、鹿伏兎越の険難を経て伊勢までお供をした。
この時、伊勢までお供した輩は、後々召し出されて直参と成り、鹿伏兎越までお供して、途中で帰国した
二百人ほどの者達は、服部半蔵正成に属させ、伊賀同心として諸隊に配置された。
またこの年の六月に尾張において召し出された者達は、専ら陣中の間諜を勤め、後に後閣(大奥)の
番衛を勤めた。今も後閣に附属する伊賀者の先祖はこれである。
また甲賀者も武島、美濃部、伴などという者達は直参と成り、それ以下は諸隊に配置されて、与力同心と
なった者もあった。
(徳川実紀)
徳川の、伊賀者、甲賀者の由来についての逸話である。
0433人間七七四年
2014/08/03(日) 18:21:40.16ID:I6K+/Yrz0434人間七七四年
2014/08/03(日) 20:05:51.04ID:OBLY9kN30435人間七七四年
2014/08/05(火) 11:54:10.10ID:b8dJHAwn小幡城へと入った。
ここに榊原康政、大須賀康高らが御前に出て、この様に申し上げた
「今夜、敵陣の様子を伺いましたが、秀吉の軍は日中長途を駆けてきたので、皆疲れ果て
正体もなく倒れるように眠っています。ここで夜討ちをかけて辛き目を見せてやりましょう!」
しかし家康は首を振り、「いやいや」と言ってこれという仰せもなかった。
皆が御前を下がった後、家康は本田豊後守広孝を召して、
「お前は城門を巡視して、一人も門外に出さないように」
と命じた。
そして間もなく湯漬けを食すと、出陣を触れ、『なるべく物静かに揃え』と命じた。
このため皆『必ず夜討をかけるのだ』と思っていたが、そうではなく、家康は小牧城へと入った。
これに人々は、思いもよらぬことだと感じた。
後日、家康は浜松城において、この時のことを語った
「あの時、お前たちが夜討をかけろと言ったのは、秀吉を討つことが出来ると思ってか?
それとも、ただ戦に勝とうと言うまでのことか?」
一同、顔を見合わせて、ややあって
「秀吉を討ち取るまでは考えていませんでした。ただ、戦えば必ず勝利すると思って申し上げたのです。」
家康はこの答えを聞くと
「私もそのようには思った。だが、敵を皆殺しにしたとしても、秀吉一人を逃してしまえば
却って悪しき事態となったであろう。昼の合戦において池田・森の両人を討ったことさえ、
一人でも良かったと思っていたのだ。」
と言った。
(岩淵夜話別集)
小牧長久手合戦が、家康にとっても色々と難解な戦であったことを表す逸話である。
0436人間七七四年
2014/08/05(火) 12:37:03.44ID:TWdXO505これじゃ名人戦になるわけだわ。
0437人間七七四年
2014/08/05(火) 12:42:18.27ID:6W4uCpiW0438人間七七四年
2014/08/05(火) 13:29:39.39ID:TY4Krwfl…鬼武蔵だろうな
0439人間七七四年
2014/08/05(火) 14:12:25.81ID:nO8C0IrR0440人間七七四年
2014/08/05(火) 14:50:51.31ID:j9EDO2I9面倒くささも人一倍なのが家康
0442人間七七四年
2014/08/05(火) 19:13:45.11ID:OhIJmNMB0443人間七七四年
2014/08/05(火) 19:53:52.07ID:M6xd0Icw0444人間七七四年
2014/08/05(火) 20:08:17.24ID:l0aDdUFS0445人間七七四年
2014/08/05(火) 20:54:35.18ID:cHoFIy4o0446人間七七四年
2014/08/05(火) 21:22:42.25ID:EddA60go0447人間七七四年
2014/08/05(火) 21:22:48.40ID:kXnEVWKt0449人間七七四年
2014/08/06(水) 08:50:17.54ID:x6kOzirZ0450人間七七四年
2014/08/06(水) 09:37:23.54ID:Xo5UjVMb夜営だった(翌朝空振りして悔しがった)
実は危機一髪であったのかも知れず、夜討ちを回避して小牧山城へ
速やかに移動したのは実に慎重にして機敏だった
0452人間七七四年
2014/08/06(水) 14:00:13.93ID:ZtFjIi4q0453人間七七四年
2014/08/06(水) 15:02:06.36ID:k7nfbB38関ヶ原にあらずして、小牧にあり、
小牧にあらずして、天正壬午、にあらずして、伊賀越え、
にあらずして、高天神城、にあらずして、長篠、にあらずして、
三方ヶ原、にあらずして、一言坂、にあらずして、姉川、にあらずして、
三河一向一揆、にあらずして、遠江侵攻、にあらずして、岡崎城奪取、
にあらずして、大高城兵糧入れにあり
と神君史観
0454人間七七四年
2014/08/06(水) 15:29:24.34ID:7s6IIfxo0455人間七七四年
2014/08/06(水) 15:34:30.66ID:k7nfbB380456人間七七四年
2014/08/06(水) 20:31:07.84ID:98kmiJGQ実際には小田原でも徳川軍が北条方の支城を落としまくる徳川無双が起こってたらしいが
0457人間七七四年
2014/08/06(水) 21:15:34.48ID:pDXU8vlg0458人間七七四年
2014/08/06(水) 21:17:40.77ID:nSnDUXdK普通に記録見ただけで、徳川軍が怒涛の勢いで北条の支城落としまくってるのがわかると思うんだけど?
0459人間七七四年
2014/08/06(水) 21:26:16.17ID:Qa4TiG4i0460人間七七四年
2014/08/06(水) 21:56:02.65ID:UNRYu4SA0461人間七七四年
2014/08/07(木) 06:59:44.49ID:wiLnEwjc0462人間七七四年
2014/08/07(木) 07:27:19.75ID:TEHBXow80463人間七七四年
2014/08/07(木) 17:04:08.17ID:gUkkGK9s韮山城の攻略に失敗した織田信雄や蒲生氏郷や福島正則や細川忠興、忍城攻略に失敗した石田三成や大谷吉継や真田昌幸を
disるのはやめるんだ!
0464人間七七四年
2014/08/08(金) 00:44:17.31ID:UbC4BRbCこれは関ヶ原後、上杉家に対する初めての御成である。
この時景勝は、直江山城守(兼続)はじめ3人のみを邸内に置き、その他の家士は皆下屋敷に
つかわし、門々の警護は徳川普代の諸大名に頼み、徳川家の御家人に諸事を扱わせた。
後でこれを聞いた徳川家康は、景勝は分別者であると大いに感じ入ったそうである。
また、上杉景勝は当時、石田三成の第一の与党であったと考えられていたため、そこに
御成まであったと言う事に、これを聞いた、かつて西軍に与した西国上方の大名たちは皆
「もはや我々に患いはない」と安心したとのことである。
(徳川実紀)
徳川秀忠の、上杉景勝邸への御成のお話。
0466人間七七四年
2014/08/08(金) 14:21:46.49ID:cxScHY6T0467人間七七四年
2014/08/08(金) 14:47:15.76ID:avm+pYqY0468人間七七四年
2014/08/08(金) 14:48:39.26ID:cxScHY6T0469人間七七四年
2014/08/08(金) 15:41:10.42ID:jqaERPuC勝茂さまは珍しい物だからと将軍さまに御献上なさろうとお買い求めになった。
壊れやすい物なので、家中の者どもには、よく注意するようにと、何度も仰せになられた。
さて、屏風を納めるための箱が出来上がったので、
御進物役の鍋島采女が屏風を箱に納めるため受け取り、家屋へと持ち帰った。
そこへ、友人の枝吉利左衛門が訪ねてきて、
「ビードロの屏風なる物を、話の種に是非見たい」
と言い出した。采女は、
「もう箱に納めたので、悪いが見せることは出来ない」
と断ったが、利左衛門は是非見たいと言い張って箱から取り出した。
と、そのとき、誤って取り落とし、ビードロの屏風を破いてしまった(おそらくは割れた)。」
利左衛門は屏風をそのままに、
「人の運命とは、さてさて分からぬものぞ」
と言い捨て立ち去った(1/2)
0470人間七七四年
2014/08/08(金) 15:53:14.05ID:XM906JXL0471人間七七四年
2014/08/08(金) 15:56:36.78ID:jqaERPuC「御心配されるな。わざとなされたことではないのだから、御前へは申し上げようがある。
なにも気にかけられることはない。
もっともこのことは他言無用ですぞ」
と慰めた。利左衛門は、
「殿の大切な道具を破ったことには変わりない。腹を切る覚悟です」
と言い出した。采女は、
「さてさて武士が気の小さいことを言われる。どんな宝でも、人の命に代えられるものか」
と言って、ひとり勝茂さまの御前へ出向き、
「御献上品のビードロの屏風、とりわけ大事の品と心得お預りしましたので、
家にて箱にしっかりと納まっているか調べていましたところ、取り落とし破ってしまいました。
このこと、わざわざ人を通して申し上げる必要もございませぬゆえ、
勝茂さまへ直に申し上げに参りました」
と言い捨て、御前を退った。
勝茂さまは采女の様子を見て御心配になられ、すぐにお呼び戻しになり、
「少しもかまわぬ。気にするな」
と仰せになり、それですんだ (2/2) 【葉隠】
0472人間七七四年
2014/08/08(金) 16:05:33.68ID:jqaERPuCその後、利左衛門と采女はこのことをいっさい口外しなかった。
利左衛門はいつか恩返しをしよう思っていたところ、
勝茂さまがお亡くなりになり、采女は追腹を切ることを決めた。
そこで利左衛門は、浴衣一枚と大きな敷物一枚を采女に贈った。
采女はたいそう喜んで、その浴衣を着て追腹を切った。
介錯は三谷千左衛門。
この話につけても、大切な道具は軽々しく取り扱わないようすべきであろう
0473人間七七四年
2014/08/08(金) 18:55:18.87ID:jqaERPuC〉恩返しをしよう『と』思
『と』がなかった
0474人間七七四年
2014/08/08(金) 21:43:44.64ID:QNYEbE6G0475人間七七四年
2014/08/09(土) 01:44:38.52ID:Q0m9MiZp大坂夏の陣八尾若江の戦いは大乱戦となり徳川方の阿部正次が
「味方は長期の遠征故、肌は黒く焼け物具も汚れておる、大坂方は肌色も白く物具も綺麗なままだ、それを目印に討ち取れ」
と馬に乗り触れ回ったほどだ。
そんな乱戦の中、戦死した木村重成の家臣青木七左衛門・長屋平太夫の二人は運悪く敵である徳川方の部隊の中に紛れ込んでしまった。
数多ある他の部隊ならば、なんとかやり過ごし脱出の機会を窺う事も出来ただろうが、更に運の悪い事に二人が紛れ込んだ徳川方の部隊
とは、よりにもよってあの井伊直政の部隊であった。
全身を赤で固めた部隊の中に黒母衣と白母衣が一点ずつ…たちまち赤い槍衾に囲まれた二人は生け捕りにされた。
覚悟を決めた両名は家康の前に引き出されると、まずは長屋平太夫が
「今福にて一番槍を合わせたり」
と名乗れば、続いて青木も
「今日、西郡にて一番首を取たり」
と名乗った。
すると、この二人の剛の者の境遇をあわれと思った家康は二人を許し美濃にそれぞれ500石の禄を与え召抱えた。
(常山紀談)
0478人間七七四年
2014/08/09(土) 08:54:24.12ID:yB2evRQ/こんなところでもか…
0479人間七七四年
2014/08/09(土) 11:20:47.68ID:323CKrqB0480人間七七四年
2014/08/09(土) 12:03:57.38ID:At0gwloN0481人間七七四年
2014/08/09(土) 15:38:50.47ID:FYbOX1wM彼は小田原陣の折に、箱根山中に案内をして高名があった。
これに徳川家康は
「汝は侍の眼を持っている。この後は本物の目の持ち主ということで、”本目”と
改めよ」
と仰せになり、それより本目と改めたという。
(徳川実紀)
権現様命名シリーズ
0482人間七七四年
2014/08/09(土) 16:32:42.14ID:ZhboR2P7安定感あるな権現様は。
0483人間七七四年
2014/08/09(土) 23:38:50.70ID:Qzute8E0川を渡り、待ち受けている敵の中へ叫び声を上げて攻め入った。
そのために小介は槍玉に挙げられ、まさに危ういという時、
長政の軍兵が進んで攻め寄せ、敵を追い立てた。
小介は流れる血のために朱色に染まっているので、戸板に
乗せられて長政の前にやって来た。この時に小介は、
今日、自分と先を争うような者は、長政以外ありえない、
と思ったので、長政をきっと見て、
「小介より先立って槍を合わせた者は一人もいません!」
と言った。これに長政は、
「お前でなければ誰が先駆けをすることだろうか。手負い致した
者が、気を張って物を言うのは、(体に障るから)よくない」
と言った。後に小介は有馬の温泉に浴し、傷は癒えた。
――『常山紀談』
0485人間七七四年
2014/08/10(日) 01:00:13.54ID:EKsYzcFH前田家の軍勢が真田丸を攻めていた時のことである
前田家の家臣に小田切所右衛門は真田丸に接近しすぎたために、真田軍の放った銃弾に当たってしまった
しかし、所右衛門は当たった銃弾を抜き取ってまるで何もなかったかのように傍に居た平野弥次右衛門に、その銃弾を見せた
そうして笑いながら会話していると、今度は銃弾が所右衛門の額に命中した
それでも所右衛門は
「兜というのは大事な物だな、この兜は元々は信玄公が持っておった物ぞ」
と言って再び銃弾を取り出した
銃弾の痕からは血が流れ出たが所右衛門はまったく怯む様子を見せなかった
その武者ぶりを敵味方共に賞賛した
所右衛門が当たった銃弾を見せた平野弥次右衛門の従者に五右衛門という者が居た
五右衛門は矢面に立ち、18発の銃弾が五右衛門をかすって傷を負わせた
その大剛な振る舞いを見た真田丸からは賞賛の声が挙がり
「姓名をお聞かせ頂きたい」
と声がしたが五右衛門は姓を持っていなかった
そこで平野弥次右衛門は己が姓をつかわした
すると、五右衛門は大声で
「平野弥次右衛門の下人五右衛門という者であるが、これまで御供した褒美として只今氏を賜り、平野五右衛門と申すなり」
と名乗りを上げた
『常山紀談』
0486人間七七四年
2014/08/10(日) 01:09:43.13ID:pkm8roq1後半は既出か
0487人間七七四年
2014/08/10(日) 02:26:50.55ID:jnDhl7TE0488人間七七四年
2014/08/10(日) 16:35:04.79ID:Cmq6S9gA松平もピンきりだからなあ。へたな松平よりも「権現様ご由緒」の苗字の方が江戸時代は価値が高かったと思う。
0489人間七七四年
2014/08/10(日) 16:37:57.47ID:kH9FBMSo糞漏らし由来の苗字
win-winの関係
0491人間七七四年
2014/08/10(日) 18:10:24.63ID:ZKmTc2VJ脱糞したという噂はあったようだが
0495人間七七四年
2014/08/10(日) 18:22:50.42ID:ZKmTc2VJ大久保忠佐が「家康が脱糞した」といったのは知れ渡ってたとして
後の話が落とされて、脱糞の噂ができた可能性がある
としておくか
0496人間七七四年
2014/08/10(日) 18:30:26.39ID:R9KA2SIW明治以降の創作だから関係ない?
0497人間七七四年
2014/08/10(日) 18:38:46.80ID:HAULJanrつか論争なら他所でやれ
0498人間七七四年
2014/08/10(日) 20:41:20.57ID:UCmgEEfAhttp://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
こちらでどうぞ。
0499人間七七四年
2014/08/10(日) 22:40:27.63ID:6xU/Tsxpここは審議スレじゃなくて逸話スレだ
0500人間七七四年
2014/08/10(日) 23:30:36.91ID:coB3wW0i0501人間七七四年
2014/08/11(月) 00:11:51.56ID:Z2oXRHJt家康は家臣の高力與次郎正長を召して
「佐々成政という人は大変な人傑である。ああいった人物とは知人と成って、その様子を
見習うように」と命じた。
さて、家康は佐々に
「私は元より秀吉と遺恨はありません。しかし信雄殿の衰弱を見るに忍びなく、故織田殿の
旧好を忘れかね、わずかにこれを助けたのみなのです。ですが、信雄殿が秀吉と
和議を結んだと聞けば、私のこれまでの信義も、詮無きことに成りました。
さりながら成政殿が旧主の為に義兵を起こすというのであれば、私からも援兵を出しましょう。」
そう言って懇ろに饗した。
この後、成政は家康との物語の中に、家康を武田信玄に、自身を上杉謙信に比して
大いに自負の念を披露した。
酒井忠次は、この佐々の自負を聞いて大変に腹を立て
「ああいう馬鹿者に御加勢なさることは無用です!」と家康に詰め寄った。
しかし家康は
「彼は元より大剛の士であるのだから、その勇気に任せて、失言をしてしまうのも仕方がない。
そんな事を気にしてはいけない。」
と語った。
(柏崎物語)
家康が、佐々成政を非常に高く評価している逸話である。
0502人間七七四年
2014/08/11(月) 02:28:57.69ID:KL0Ps1Qa「家康が脱糞した」ってのは逸話レベルでも存在しないんだよなあ……
三河後風土記のは文脈的に実際にやったわけじゃないっぽいし
0503人間七七四年
2014/08/11(月) 05:34:54.38ID:g5qL9Yxeって三河風土記に書かれている、
ってのを両者とも認めてるのに、なぜ真偽になるのか
噂うんぬんと言ってた人も脱糞が事実とは書いてないのに
0504人間七七四年
2014/08/11(月) 06:48:07.17ID:YGWrDYtG0506人間七七四年
2014/08/11(月) 09:12:36.62ID:749mzh7m今までネタレベルでわいわい言ってただけなのに
なぜ今年になってから急に家康は脱糞してない!みたいな感じになるんだよ
0507人間七七四年
2014/08/11(月) 09:36:54.22ID:Dh+9Bs5Gこれの真偽はともかく
馬に乗ったまま漏らすなんて日常的なことなんじゃないのかな
ゼロ戦のパイロットがお尻に敷いてるパラシュートが汚物まみれと同じように
0508人間七七四年
2014/08/11(月) 15:52:31.95ID:+KpDkZT1朝鮮の役の際、諸将は武具甲冑の破損に苦労していた
結局、漆を塗って修繕することになったのだが漆風呂(漆室)が無かった為に
なかなか漆が乾かず難儀していた
しかし、機転の効く者が現れて漆を塗った物の周りに馬糞を集めて
置いておいたところ、漆は一晩の内に乾いた
【常山紀談拾遺】
0509人間七七四年
2014/08/11(月) 15:58:05.95ID:N86wRwig家康も子の長丸(後の秀忠)を送ったが、秀吉は彼については
必要ないと直ぐに返している
これを受けた家康は、これは自身の領地に配下の者を入れる
交換条件と判断し、本多正信に街道と城の修繕を命じた
果たせるかな、日を置かずして秀吉より家康へ城に自身の兵を
入れることを求める書状が家康に届いた
天下人とそれに継ぐ次なる天下人の腹の探り合いの一例
なお、本多重次はそんな裏話を全く知らず、家を他人に預ける
行為に激怒したとか
0510人間七七四年
2014/08/11(月) 17:50:59.76ID:0w5DdgYuその行為がどういうことになるのかまるで考えられないし。
0512人間七七四年
2014/08/11(月) 23:15:16.68ID:k9s/OsBWのかどうかはしらん
0513人間七七四年
2014/08/11(月) 23:49:48.19ID:2A9Go/gj馬糞は堆肥にも使われてて、太陽にあてるとホッカホカになるんだそうな
0514人間七七四年
2014/08/12(火) 00:21:03.76ID:LSJYRDcDクッソ〜ウマいこと考えやがったな
0515人間七七四年
2014/08/12(火) 00:45:18.24ID:ddiCqz/aでも権現様は変に気が利く家臣より愚直な家臣の方が好みだから
作左もそういう方向に自分を伸ばしたのかも
0516人間七七四年
2014/08/12(火) 08:22:04.25ID:wYsRkkcC日本の風土に合った素材でもっと活用できないかと研究が進められてるけどコスト面で厳しいとか
0517人間七七四年
2014/08/13(水) 00:41:17.17ID:HE1eSi5P0518人間七七四年
2014/08/13(水) 06:37:09.91ID:/ldvhjCE0520人間七七四年
2014/08/14(木) 20:40:40.95ID:TDAdipgH毛利元就を攻めた、いわゆる土取場の戦いでのこと。
尼子方の三澤蔵人は無双の大力であり、三間二尺(約6メートル)の長身の槍を持ち戦っている所に、
毛利方の波田野源左衛門利春が名乗り打ちかかったが、すぐさま槍で打ち倒される。波田野はそれでも
再び起き上がろうとしたが、そこを三澤に突き殺された。
次に内藤九朗右衛門が三澤に突き懸かり、暫く勝負がなかったが、三澤は両手に槍と太刀を持って戦い、
終に内藤を打ち倒した。
さらに三戸与五郎が長刀を持って打って懸かる。これに三澤は太刀を鞘に納め、槍によって
横打ちに打ち倒した。
与五郎も4,5度起き上がろうとしたが、その度に打ち倒され突き伏せられた。
井上源左衛門も言葉をかけて打って懸った。これに三澤は槍を持って拝み打ちに討ってくる。
井上も槍でこれを打ち払おうとしたが、その槍も三澤の大力により柄が打ち折られた。そこで井上は
太刀を抜き斬り付け、組み付いたが、最後は押し伏せられて討たれた。
これを見ていた毛利元就は、井上與次郎に命じて三澤を射させた。
與次郎の矢は三澤の目の上に刺さる。
三澤は右手で槍を振り回しながら、左手でその矢を抜こうとした。
ここで渡辺太郎左衛門が槍を持って三澤の脇腹を突く。三澤もすかさず渡辺の左の股を突き、
二人は同時に倒れた。
そこに有地美作が駆け込み、終に三澤を討ち取った。
彼は首を下人に持たせ、渡辺に肩を貸して、連れ退いたと言われる。
(芸侯三家誌)
毛利軍による尼子のモンスター退治の模様である。
0521人間七七四年
2014/08/14(木) 20:49:58.29ID:IsQmw8eC一騎打ちで射落とすって卑怯にも程があるな
0522人間七七四年
2014/08/14(木) 22:17:10.90ID:un+A3g7z0523人間七七四年
2014/08/14(木) 23:44:15.43ID:RsybBwhs矛盾してないかい
0524人間七七四年
2014/08/14(木) 23:53:56.22ID:TDAdipgH主君の面前だからだよ。敵に聞かせてるんじゃなくて元就に聞かせてるんだよ。論功行賞の為にね。
そもそも名乗りというのは味方に聞かせるためのものだ。
0525人間七七四年
2014/08/15(金) 18:38:34.15ID:1k4Pl6Q90526人間七七四年
2014/08/15(金) 19:22:02.39ID:fRWohwEL0527人間七七四年
2014/08/15(金) 19:54:22.03ID:X5uo09h/0528人間七七四年
2014/08/15(金) 20:04:20.94ID:fRWohwEL0529人間七七四年
2014/08/15(金) 22:38:37.55ID:P5gwxBDx0530人間七七四年
2014/08/15(金) 22:52:50.61ID:dLGK/Zw40531人間七七四年
2014/08/16(土) 16:12:20.57ID:rqIcLjxbここまでヒャッハーしてる奴は手に負えないからさっさと射殺すのが正解だな。
戦国時代じゃ卑怯でもなんでもない。
0532人間七七四年
2014/08/16(土) 18:54:35.22ID:SqwW5iiH0534人間七七四年
2014/08/16(土) 20:35:12.71ID:6VvO833r0535人間七七四年
2014/08/16(土) 21:29:01.42ID:6ZJ9Kvda0536人間七七四年
2014/08/16(土) 22:08:50.00ID:oZ8TZBKa0537人間七七四年
2014/08/16(土) 22:15:17.31ID:NqOkPysG0538人間七七四年
2014/08/16(土) 22:15:27.72ID:9yxPcZQ20539人間七七四年
2014/08/16(土) 22:21:34.83ID:NqOkPysG0540人間七七四年
2014/08/16(土) 22:23:07.18ID:xsgsEIHY「我が子元春には未だに妻室が無い。誰の娘を娶るべきか、元春の心を聞いてきてほしい。」
そこで児玉が元春にこれを聞くと、元春は
「それに関しては、唯父元就の命に従うだけだ。ただ、私に選べというのなら、熊谷伊豆守信直の娘が良い。」
児玉はこれを聞くと
「熊谷の娘は、憚りながら悪女であると聞き及んでおります。もしや聞き誤り、かの娘が容貌美しいと思われて
いるのではありませんか?」
「いや、私も醜いと聞いている。しかれども今中国に、熊谷信直に勝る侍大将は居ない。
私が彼と親しくなれば、信直はいよいよ元就に対し忠志を尽くすであろう。
彼と私が元就の先陣にあって謀戦を励むにおいては、いかなる強敵・堅陣であっても、これを破るのに
難しい事があるだろうか。
これは父元就に対しては孝であり、私自身においては、武功を顕す謀ともなるであろう。」
児玉はこれを聞いて感じ入り、すぐに元就の元へ行きこの事を説明すると、元就も大いに喜び、
終に熊谷の嫡女を、元春のために娶られたという。
(芸侯三家誌)
吉川元春の嫁取りの逸話である。
0541人間七七四年
2014/08/17(日) 01:45:30.42ID:bLgdl1H3理由は後付け
0542人間七七四年
2014/08/17(日) 02:32:54.03ID:Q9NvVqIk0543人間七七四年
2014/08/17(日) 02:38:39.62ID:xR3u/Nfxヤワラちゃんみたいなのだったんだろう
0544人間七七四年
2014/08/17(日) 02:45:09.50ID:ke4jFHHh0545人間七七四年
2014/08/17(日) 02:51:06.73ID:BFwh3Z2q0547人間七七四年
2014/08/17(日) 08:54:57.46ID:60h2dRZF0548人間七七四年
2014/08/17(日) 09:43:55.87ID:LA87lVqNまた、武田光和に嫁いだ新庄局の叔母は美人だったと言われるし、陰徳記を書いた香川氏は熊谷氏の同僚(武田時代)から後年毛利傘下になってからはライバル視してたと言う話も有るし…
実は不美人ではなかったんじゃないかと思う今日この頃。
0549人間七七四年
2014/08/17(日) 09:50:44.70ID:2DmfOBk9平安時代のおなごは下膨れが〜ぐらいしか知らない
0550人間七七四年
2014/08/17(日) 10:08:46.39ID:jR02EXhj80年代→聖子ちゃんカット
から今までに至るまで髪型から服装とか色々変遷有ったからなぁ…
0551人間七七四年
2014/08/17(日) 10:12:34.24ID:lsq+fZgL0552人間七七四年
2014/08/17(日) 10:37:04.37ID:bLgdl1H30553人間七七四年
2014/08/17(日) 14:36:45.69ID:sit330gk(一久)は流れ矢に肘を射られてしまった。
このようなところに、庄林隼人(一心)が馳せて来るのを見た森本は、
「もしもし、手負いしてしまった。この矢を抜いてくだされ」
と言った。庄林が馬から下りて矢を抜き捨てると、森本は、
「なんとまあ、快いことだ!」
と言うや否や、馬にひらりと打ち乗り、一鞭打ってさっと駆け出し、
「庄林殿、続かれよ!」
と言い捨てて、敵に出会い、首を得た。二人とも清正の士大将にして、
大剛の者である。森本の槍は白鳥毛を鞘とし、庄林は黒鳥毛を鞘とした。
世の人は、黒鳥毛、白鳥毛、と言い合った(渾名したという意味か)。
――『常山紀談』
0554人間七七四年
2014/08/17(日) 14:48:56.56ID:XnkegDf9ストレートだなw
0555人間七七四年
2014/08/17(日) 14:51:59.73ID:VVjdKVfzアンコールワット落書きしたやつの父親か
0556人間七七四年
2014/08/17(日) 17:20:21.80ID:LA87lVqN森本義太夫が乗った馬ってまさかとは思うが庄林隼人が乗ってた馬じゃないよね?
森本義太夫が助けて貰った上に馬盗…拝借して活躍した様に見えるんだが…
0558人間七七四年
2014/08/19(火) 01:13:12.98ID:NVBzc2vDhttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5263221.jpg
0559人間七七四年
2014/08/19(火) 02:18:27.62ID:a53UwM3Q0560人間七七四年
2014/08/19(火) 03:31:41.79ID:d7FygVCn武蔵国岩渕まで移動し、そこで井伊直政を召して「汝は軍装整い次第出陣し、蒲生、浅野に協力して、九戸での
軍事を相計るように」と命じた。
この命令に対し、本多正信が御前に出て、この様に意見した
「井伊直政は当家の執権の一人です。なので今回の討ち手には、先ず彼よりも下位の者を遣わされ、
それで事がうまく行かなかった時にこそ、直政を遣わされれば、その事態に充当することになるのでは
ありませんか?」
しかしこれを聞いた家康はこう答えた
「それは思慮の無い者の言うことだ。我が婿であった北条氏直も、そのような事をしていたよ。
よいか、事のはじめに軽き者を遣わし、それで埒が明かないからといってまた重き者を遣わせば、
初めに遣わした者は面目を失い、討ち死にするより外無くなるであろう。
つまり、故なくして家臣を殺してしまうわけである。惜しむべきことではないだろうか?」
後年(慶長13年(1608))、筒井伊賀守定次の改易があった時、その居城である伊賀上野城受け取りのために、
本多忠勝、松平忠政を始め徳川家の重臣ら数名遣わされた。この時家康は
「伊賀守は江戸に有り、上野の城は家人らのみが守りいたのであるから、あのように多人数を遣わすには
及ばないのであるが、事の初めに厳かにしたものを、今更手軽くするというのも、事態において終始が符合しなくなる。
物に例えれば、今回のことは、膝を隠す程度の川を徒歩で渡るのに高尻かかげて渡るようなものである。
これは余りに用心が過ぎた事ではあるが、少なくとも溺れる心配は無い。」
と仰せになった。
(岩淵夜話)
徳川家康の、人の使い方に関しての逸話である。
0561人間七七四年
2014/08/19(火) 06:31:19.28ID:/OcyhjoA0562人間七七四年
2014/08/19(火) 09:59:46.57ID:Wepqw2CM0563人間七七四年
2014/08/19(火) 11:49:49.35ID:qBlS8TRv0564人間七七四年
2014/08/19(火) 12:36:09.77ID:1w8EhYMz>初めに遣わした者は面目を失い、討ち死にするより外無くなるであろう。
これだな。
0566人間七七四年
2014/08/19(火) 18:59:42.05ID:GxCbKM3k0567人間七七四年
2014/08/19(火) 20:53:01.10ID:Qb4sfRkvhttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1408446258/
0568人間七七四年
2014/08/19(火) 23:18:10.60ID:OXAmeywB「信州のお年寄りが語る生活の知恵三六五日」という本に
「どうさん湯」という、古くから「どうさんころばし医者泣かせ」と呼ばれていた風邪の治療薬について書かれていた。
(味噌大さじ1杯、きざみねぎ大さじ2分の1、のりまたは生姜か柚子少々。これに沸騰したお湯をカップ三杯入れて、
熱いところを飲むと風邪の初期に効果あり)
この「どうさん」というのが、隣国美濃の斎藤道三か、はたまた医者の曲直瀬道三かと思って調べたら、
三田村鳶魚「未完随筆百種 第三」享和雑記述巻2 17「道三湯の事」に
食後に湯を飲む時、味噌汁を混ぜて飲むのを世の中の人は「道三湯」と言っている。
(曲直瀬)道三は太閤秀吉公の名医で、病気に対して薬を投与したところ、効果が必ずあったということで、
食後の湯に味噌汁を加えれば薬となること、曲直瀬道三の薬と同様に効果があるというので
このような名前がついたのだろう。
と書かれていた。戦国時代の名医の名が広く知れ渡っていたということで書いとく。
0569人間七七四年
2014/08/20(水) 04:03:32.05ID:vePvP3rc0571人間七七四年
2014/08/20(水) 23:49:43.10ID:SIND0Lufウンコ食べてる姿しか想像出来ないや
0572人間七七四年
2014/08/21(木) 00:43:50.99ID:b74Q9C160573人間七七四年
2014/08/21(木) 05:22:39.73ID:chxQT8CQ当時としては味噌なんて従軍時以外にはそうそうに手に入るもんではないのでは
0575人間七七四年
2014/08/21(木) 09:45:31.91ID:WIa9Dm610577人間七七四年
2014/08/21(木) 11:49:12.82ID:aqMLrz8E0580人間七七四年
2014/08/21(木) 19:32:36.27ID:4u75mfED0581人間七七四年
2014/08/21(木) 20:15:02.20ID:Q+baSbzc0582sc→net未反映分のコピー
2014/08/21(木) 23:37:38.35ID:wxSgOPL/延沢光昌は大豪で知られた延沢満延の息子であったが、まだ年端も往かぬ頃に父を亡くし、老臣に育てられていた
光昌は有路但馬・笹原石見といった重代の家老らから生前の父の武勇談を聞くのが好きだった
有路「亡き殿(満延)は、18歳のときに山形両所宮の鐘を1人で外し、鶴子(尾花沢市)まで担いで帰って来ましてな」
笹原「人々はその剛力にほおと感嘆の声を上げたものですじゃ」
慶長の時代になり、光昌も立派な若武者へと成長した
光昌「父に出来た事、父の血を引き有路と笹原に武芸を教えられたこの身なら、やってやれない事は無いのではないか?」
光昌は中山長崎の円同寺といった寺の鐘が名宝と聞き、住職に「それがしがこの鐘を持ち上げる事が出来たら、鐘を譲っては頂けないか」と掛け合ってみた
住職「お父君は生きる伝説として勇力で名を馳せましたが、この鐘は半端な重さではございませぬ
まぁ、見事持ち上げられたらそれは天命という事ですので差し上げましょう」
光昌「どれ」
ひょい
住職「!」
光昌「う〜ん。ま、持って帰れない重さじゃないな」
住職「お約束でしたので、その鐘はご自由になされてくだされ」
光昌「手で持つにも疲れるな…かぶって行くか」
光昌は親指で鐘乳をえぐると鐘に覗き穴を開けた
この鐘は現在山形市長谷堂の清源寺に
「慶長時代に最上の重臣延沢某が中山から持って帰って来たもの」とした寺伝と合わせて現存している
※光昌ではなく、父の満延が中山から長谷堂に持って来たといった伝承もあり
0583sc→net未反映分のコピー
2014/08/21(木) 23:59:58.21ID:wxSgOPL/奥州の大守輝宗の北の方※は 義光大守とは姉君※なれば 義光の嫡子修理太夫へ異国の珍物の名も知れぬ織物巻物武具の類迄 折々進せらる
政宗御幼君のころ 義光へ御使札の有りしに衣更着半ばの事成るに
頃日 鶯の初音を聞き侍りき 最上は雪深き所なれば 如何床敷思し召るらめ
と仰せ遣わされば
義光も御心根はいと優しく思召けめと 甥子の事なれば 武士の習い 月花に心とろけては 後は公家のやうに気高きばかりにて 世を鎮る用心に疎しとや思召けん
其返事に鶯の声二月中に初音御聞候事 珍希思召けん
吾等は去年の春聞置申候得ば 毎年聞度共不存候
と仰せ越されけるとかや
政宗にも御親しみの中なれば 御腹立を無かりしとかや
『奥羽軍談』
※最上義光の妹の義姫(お東の方・保春院)は、義光の姉といった説もある
0584sc→net未反映分のコピー
2014/08/22(金) 00:00:53.11ID:k/wP8bZN政宗最上へ御越し有りし時 たまたまの御対面にも 互に律義の魏々として 下々の出合の如く和かなる交りにも無りけり
義光珍希思召 三国の珍物を調べあり 御馳走て 武具太刀の名作等お慰みとして集め置き玉ひて 嫡子修理太夫 彼是咄し相手に成り申しされけるは
此重宝の内 何れにも御意に入候はば 何にても進上申すべく候 殊に左文字長銘の正宗 蛇切丸 石割刀 其外焼物甲冑の類にても 御望次第札御候得かし
と仰せければ
政宗からからと御笑い
吾等も相応に宝多く持ち候得ば此様なり 物に望み之無し
と仰らる
義康其時
貴殿の御宝物何々にてか哉
問いければ
政宗宣ひけるは
名取 亘理 柴田 刈田の国郡と伊達 片倉など申す侍共 松島 塩釜など申す名所に候得ば 我等に外の望なし
と仰せける
是は孔子 所謂君子の三宝とは土地 人民 政事なり 金銀を財にするは小人の下愚なり とありしを聞き玉へるなるべし
義光大に喜び玉ひて
貴殿(政宗)は頃日学文を勤らるると見へたり 実や三日向顔をされば旧時の思ひをなすなという事あり 頼もしきはべる
と誉め玉ひけるとかや
『奥羽軍談』
0585sc→net未反映分のコピー
2014/08/22(金) 00:02:17.53ID:k/wP8bZN政宗が山形城を訪れての夕刻過ぎ、義光の近臣らが行き来する中に、政宗は壮年武士の中にただならぬ雰囲気を纏わせた伊良子宗牛と成沢道忠といった老武者の姿を見つけた
政宗が「伯父上、あの者たちは?」と問うと
義光は「あの左側にいるのが伊良子宗牛と(堀喜吽の従兄弟の)山名一吽で、わし(義光)の七宝のひとつだよ。右に座っているのが成沢道忠と氏家守棟に延沢満延。ふたつとない、かけがえのない国の宝だ」と破顔して答えた
政宗「…(あれが柏木山の戦いで父の輝宗が苦汁を舐めさせられた伊良子と成沢か!)」
政宗は義光の言にキッと二人を睨めつけたと言う
その晩の政宗の機嫌は頗る悪かったと伝わる
『奥羽軍談』
0586sc→net未反映分のコピー
2014/08/22(金) 04:12:22.03ID:k/wP8bZN日光の鉄燈籠に関する政宗の手紙
(●∀・)「よぁ、忠宗元気か?急ぎ用件に入るよ。家康のとっつあんの法要に合わせて、日光に諸大名が燈籠を献じるんだって?
江戸では噂になってるんだろうが、仙台にいる俺のとこにはそんな話はなかなか届かなかったよ。
ちぃ!油断した!
だがしか−し!そんなイベントを知らなかったじゃ済まされんだろ?
話を聞いてすぐに土井利勝を脅…、いや土井に頼んで伊達家が燈籠を設置するのに相応しい場所をゲットしたぜ!
石の燈籠じゃ期限に間に合わんから、みんなが驚く様な鉄製の燈籠を職人にオーダーしたよ!
手当を弾んで急がせて、10日くらいで作らせる。
完成次第日光に送らせるから安心しろ。」
(●∀゚)「(今井)宗薫よ、おめえとはマブダチだと思ってたのに、なんでこんな重要な話を手紙の端にも書かねえんだ?
危うく他家の笑い者になるとこだったじゃねえか!?」
(●∀・)「あ、(桑山)左近さん、江戸の噂話を知らせてくれてありがとう!政宗助かったよ!」
家康の一周忌に合わせ
政宗は鉄燈籠を献じに日光と江戸へと上がった
政宗の性格がよくわかる、日光の鉄燈籠献上の手紙にまつわる話
0587sc→net未反映分のコピー
2014/08/22(金) 04:14:21.80ID:k/wP8bZN義光公は(肌の)色が白く冷静そうな目をしており
珠の様な御声は威厳と慈愛を含まれていた
若き頃に多賀湯(蔵王高湯)で盗賊の首魁をお討ちになられたが
その際に敵に馬乗りにされ、お顔にいくつか刀傷を負われた
傷は平素は目立たぬものの、終生跡として遺り、殿が喜悦破顔をなされた際には瞼(まぶた)や頬(ほお)等にそのときの傷がうっすらと浮かび上がったものである
「最上家伝」等
0589人間七七四年
2014/08/22(金) 22:52:49.96ID:+DBCS/sn連投せずに日を分けて投稿しろよ
改行変で読みにくいし、人に読んでもらう気無いだろ
0590人間七七四年
2014/08/22(金) 23:08:38.61ID:4meds4pl名前欄「sc→net未反映分のコピー」です
4月の2ちゃんねる騒動でnet(従来の2ちゃんねる)とsc(ひろゆきサイト)を混同したまま、時折sc側からも話の投下やコメントをしておりました
連投になりましたが、現行スレで自分が投下した逸話についてはこれでおおよそ従来の2ちゃんねるに移行が終わりました
(コメントについては時期外れのものや他の方のコメントもありますのでコピー&ペーストは行いません)
まとめ管理人様・サイト利用のみなさまにはご迷惑をお掛け致します
一連の投稿の後に悪い話に書かれた文章
あちらでscから転載するようになってるの?という質問にやるならやれば?って返答があり引っかかった人(この最上関連の逸話を投稿した人)がいた模様
つまり最初から読ませる気もコメントさせる気もない
再投稿だからね
0591人間七七四年
2014/08/22(金) 23:27:58.28ID:+DBCS/snマナー悪いしやたら浮いてるし最上のこと大っ嫌いになってきた
0592人間七七四年
2014/08/22(金) 23:30:25.94ID:J53LQJZg0593人間七七四年
2014/08/22(金) 23:48:01.44ID:k/wP8bZN従来の2ちゃんねるが4月にしばらくの間一切パソコンからも携帯からも書き込みが出来ず、
2ちゃんねるの管理人を名乗るひろゆき氏のscへの誘導のスレッドがトップ付近にあったために、
規制やタイムラグが少ないscの方が投下には楽なケースがままあり、そちらを時折利用しておりました
ただ、まとめサイトの話もコメントの番号も今となっては当然の事ながら、まったくscの物が反映なされなかったために、
スレが終わる前に現行スレで自分が以前に同スレに書いた物だけをscから移行した具合になります
※2ちゃんねるの物はscでそのまま見られますが、scは別サイトのために、そちらに書込んだものは2ちゃんねる本板にはまったく記載されない事を知りませんでした
0594人間七七四年
2014/08/22(金) 23:52:53.29ID:/iavdTcx0595人間七七四年
2014/08/23(土) 00:32:01.95ID:Nh75DstQそうじゃねぇだろオイ
0596人間七七四年
2014/08/23(土) 01:00:51.59ID:wTv4dMXI0597人間七七四年
2014/08/23(土) 01:10:15.88ID:XKRqQQbs0598人間七七四年
2014/08/23(土) 01:11:39.78ID:SBZr1q8x朝鮮より帰国した一人の男が、天草にイエズス会のコレジオ(学院)に来訪した。
彼はその出身地である田舎に小さい教会を建て、そこで一生を捧げたいとの殊勝な望みを抱いて
やってきたのであった。
その動機を尋ねられると、彼は「デウスが驚くべき異常な方法で私を死から救ってくださったからだ。」
と答えた。
この男は朝鮮で重病を患い、人間的なあらゆる救助の道を絶たれ、完全に人々から見捨てられていた。
その窮状から身を救い得るものも、何一つなかった。
その時、彼はキリシタンであったので、以前に元気であった頃に祈っていたコンタツ(ロザリオ)を
思い出し、それが彼の身体を養い、健康を授ける力を秘めているように思えた。そこで見捨てられていた彼は
非常な信心を抱きながら、そのコンタツを食べ始めたのである。
我等の主なるゼウスは、彼に憐れみの目を注ぎ給い、口にはコンタツ以外何も入れなかったにもかかわらず、
彼を数日間養い、この風変わりな薬だけで、その病気を癒やし健康を回復することを嘉し給うたのである。
(ルイス・フロイス『日本史』)
ロザリオを食べて重病を直した男のお話。
0599人間七七四年
2014/08/23(土) 01:40:52.31ID:CO0cZlew0600人間七七四年
2014/08/23(土) 06:01:54.26ID:VGxedgaW彼はロザリオに偽装した食料を持っていたのだ!(どや!)
0601人間七七四年
2014/08/23(土) 06:53:39.17ID:lCeyV+k80603人間七七四年
2014/08/23(土) 08:13:50.79ID:0IosOAsG0604人間七七四年
2014/08/23(土) 09:43:10.38ID:e/PyDSiw兵糧丸などという物は全く関係ありません
0605人間七七四年
2014/08/23(土) 12:00:58.34ID:/gJNbv0q生野織部孝時はいつもこう言っていたそうだ。
「奉公というものは、今日一日限りだとさえ思えば、どんなことでも出来る。
一日のことならがまんも出来る。
明日もまた、今日一日と思えばよい」 【葉隠】
0606人間七七四年
2014/08/23(土) 15:55:56.27ID:5lrlOEhB既出
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5752.html
0607人間七七四年
2014/08/23(土) 16:32:37.54ID:RLbRkTeE0608人間七七四年
2014/08/23(土) 17:14:18.74ID:Ww2GlhIc『 其返事に鶯の声二月中に初音御聞候事 珍希思召けん
吾等は去年の春聞置申候得ば 毎年聞度共不存候
と仰せ越されけるとかや』
誰かこの部分の現代訳お願い致します
0609人間七七四年
2014/08/24(日) 01:12:47.61ID:X1lQPXma其返事に鶯の声二月中に初音御聞候事 珍希思召けん
吾等は去年の春聞置申候得ば 毎年聞度共不存候
と仰せ越されけるとかや
その返事に うぐいすの初鳴きを(雪も残る)二月中にお聞きになられた事は非常に珍しく思います
(しかし)私たちは去年の春に聞き貯めて置きましたので
特に毎年聞かなくても構いませんよ それほど気にしないでください とおっしゃったとか
…でいいのかな?
0610人間七七四年
2014/08/24(日) 01:20:13.88ID:X1lQPXma0612人間七七四年
2014/08/24(日) 10:10:52.99ID:0arsK0cDガソリンイラクシリア渋谷民怪獣視察忠告SIM無料サービス結婚はがきドラパーティーしょうゆトンコツ酒ディレクター人形光金パスニューヨーク森林火災塩海苔マックスさむらい中華かくし味ラーメン
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0613人間七七四年
2014/08/25(月) 02:23:11.35ID:1ZNZCFfk秀吉の近習の者達が、徳川家康のことを言い出し、種にして悪口をし大いに笑っていた。
秀吉はこれを聞くと、このように言い出した
「家康の藝は3つあり、それは常人の及ぶものではない。
第一に、武略が衆に優れている。
第二に、思慮良き人物である。
第三に、金銀を多く持っている。
この三つは人に笑われるべきではない大藝である。
お前たちは一体、何を笑っているのか?」
しかし近習達はこれを聞いて
「いったい徳川殿の何が良くて、殿下はいつも贔屓をされるのか?」
と言い合ったそうである。
(徳川実紀)
0614人間七七四年
2014/08/25(月) 13:22:21.73ID:9K4T4MFw蒲生氏郷の死により越後の上杉景勝が会津に移封されると、直江兼続は米沢城主として国境にある城の整備に取り掛かった
兼続配下の中津川彦七が荒砥城に入り、早速城域の整備の一環として八幡神社の社殿の修繕を試みた
上方では情勢が緊迫し、兼続は長期の自給戦闘を見据え山形攻め(最上陣)を決定
自ら二万五千の軍勢を率いて米沢を発った
はじめに最上の支城の畑谷城を攻撃しようと間道を探るのに、霧の中荒砥城の守護神である御楯稲荷神社の白狐が直江軍の先に現れ、その誘導に従い直江軍は畑谷城の搦手に至った
畑谷城主江口道連は剛の者であったが、搦手を直江・色部の鉄砲隊に押さえられ、同城はわずか二日で落城してしまった
「八乙女八幡神社縁起」「白鷹町の昔話・狐越街道」ほか
0616人間七七四年
2014/08/25(月) 17:53:32.16ID:15yqjOSp既出
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6859.html
0617人間七七四年
2014/08/26(火) 02:46:45.19ID:mFadfzs30618人間七七四年
2014/08/26(火) 06:53:14.62ID:Eu0g8OYB0620人間七七四年
2014/08/26(火) 19:45:33.93ID:z6GT5VCN有馬豊氏の陣の井楼に登った。
しかしその辺りの豊臣方は将軍の馬印を見知っていたので、そこの将軍がいると、井楼に向かって火矢を
射掛け大筒を打ちかけた。この状況に秀忠の近臣達は「ここは危ない、どうか降りて下さい!」と
諌めたが、秀忠はこれを聞き入れなかった。
ここに、水野日向守勝成が馳参り、この有り様を見て、秀忠にこう申し上げた
「斥候は一口を見切るものですが、巡視は全体を判断することが要の行為です。一ヶ所に長くとどまる
べきではありません。鴫野の方へもお出であって然るべきでしょう、」
秀忠はこれに「尤もである」と答え、鴫野方面へと移動した。
この時、鴫野にあった上杉の陣では、今から将軍秀忠が参らせられると聞くと同時に、直江山城守兼続が下知し、
早々に城に向かって鉄砲を打ちかけた。
この上杉勢の攻撃で、城中の者達は先手を打たれ対応せざるを得ず、将軍秀忠が通行する時、そちらに向かって
鉄砲を放つことはなかった。
この事に秀忠は、「上杉の陣法さすがなり」と感じ入ったという。
(校合雑記)
0621人間七七四年
2014/08/26(火) 21:50:10.38ID:ZvXxC2kb0622人間七七四年
2014/08/27(水) 13:33:38.38ID:BIQ3geQA0623人間七七四年
2014/08/27(水) 14:45:17.62ID:a0Amvvn80624人間七七四年
2014/08/27(水) 15:59:00.57ID:KrZabrnT0625人間七七四年
2014/08/27(水) 17:40:48.60ID:ZwnCDNgH0626人間七七四年
2014/08/27(水) 19:56:58.10ID:pO7Zi7iM0627人間七七四年
2014/08/27(水) 21:10:04.56ID:kH36n6ob「天下の政治とは、どのように考えて執り行うべきか?」
忠興はこう答えた
「四角い器に丸い蓋をするように執り行うのが、宜しかろうと存じます。」
これに秀忠も「尤もである」と言った。
また、この時は重臣たちが列待していた折でもあったので、次にこのように尋ねた
「人はどのような者を善人と言うべきであろうか?」
これに忠興は
「明石浦の牡蠣殻の如きを、よき人と申すべきでしょう。」
秀忠はこの返答に大いに感じ入った。
後で秀忠は重臣たちに、「先に忠興が言ったことを、お前たちはどのように心得たか?」と尋ねた。
しかし何れも「何とも解りませんでした」と申し上げた。
そこで秀忠は
「明石は世に聞こえた風浪激しい場所である。その浦に生きる牡蠣の殻は、波にもまれ姿が良い。
人もまたそのように、様々な辛き目にあって、人にもまれたものが良い。ということだ。」
と仰せになられた。
(葛藤別紙)
ちなみに「四角い器に丸い蓋」というのは、「四隅に隙間ができるが、それを許容するのが支配者としての余裕だ」
という意味とのことです。
0628人間七七四年
2014/08/27(水) 22:27:04.61ID:pvDEam2g0629人間七七四年
2014/08/27(水) 22:42:06.55ID:wMWtxOuO0630人間七七四年
2014/08/28(木) 07:32:42.03ID:WPRpFlsYそいつが無職スロプーで
母親と二人暮らしなんだけど母親が突発性の緑内障になり
今すぐ病院に行かないと失明する、ってくらいヤバいときに
金がないんで放置してたら そいつに別居してる兄貴がいて
「とにかくすぐに病院連れて行けよ!」って20万置いて行った
兄貴も忙しいんで金置いて仕事に戻ったらしいんだけど
そのバカは置いていった金に手をつけて「押忍 番長!」を打ち
結局20万全部負けた
母親には適当にドラッグストアで買った目薬を与えて寝かせておいた
母は地獄の苦しみの中で
「ああ、ありがとう、XXちゃんが目薬買ってきてくれたんで楽になったよ」
と言いながら食事もとらず ボロ布団のなかで徐々に失明していった
衰弱しきった母を兄が救急車で運んだときには完全に失明し極度の栄養失調
に陥ってたらしい
0631人間七七四年
2014/08/28(木) 11:21:19.63ID:PA/lRxib高虎が二案だしたのと同じようなことだろ
答えそのものを言ってしまうと、忠興が将軍に「教えた」ことになってしまうから
0632人間七七四年
2014/08/28(木) 21:13:22.38ID:4zOv+m4zさて、天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の結果、蒲生氏郷が伊勢松坂十二万石から、
会津四十二万石を賜った。氏郷は俄に大大名と成ったため、この時毛屋主水に、一万石で
自らに仕えるようにと密かに書状を送った。
しかし、主水はこれに
「只今私に高禄を賜るとのことですが、朝鮮への出兵をひかえて他家に移るというのは、
私の本意ではありません。
もし、つつがなく帰朝できましたら、御意に従うでしょう。」
と、断った。
氏郷と主水の間には、かつてこのような事があった
羽柴秀吉による播磨三木城攻めの頃、毛屋主水は山崎源太左衛門(片家)に仕えていた。
この頃彼は、田原金十郎と名乗っていた。
さて、その三木城攻めの最中、秀吉の軍は敗北し、これに参加していた蒲生氏郷の部隊は郎従ら皆逃げ去り、
氏郷の身も危うし、との時、毛屋主水が馳来て近づく敵を追い散らした。
そして氏郷に向かって言った
「私は田原金十郎と申して、山崎家の家人です。貴公と我が主君とは不和ですが、
只今の急難、見捨てがたきによって救い奉る!」
これに氏郷は感激し、主水に向かい「今日の芳志、絶対に忘れない!」と叫んだ。
これ故に、氏郷は兼ねてから毛屋主水の武勇をよく知っており、かつ、昔の忠節を思い出し、
あのような書状を出して、大禄を遣わして召し抱えたいと言ってきたのである。
(黒田家臣伝)
0634人間七七四年
2014/08/28(木) 22:19:22.23ID:WPRpFlsYそいつが無職スロプーで
母親と二人暮らしなんだけど母親が突発性の緑内障になり
今すぐ病院に行かないと失明する、ってくらいヤバいときに
金がないんで放置してたら そいつに別居してる兄貴がいて
「とにかくすぐに病院連れて行けよ!」って20万置いて行った
兄貴も忙しいんで金置いて仕事に戻ったらしいんだけど
そのバカは置いていった金に手をつけて「押忍 番長!」を打ち
結局20万全部負けた
母親には適当にドラッグストアで買った目薬を与えて寝かせておいた
母は地獄の苦しみの中で
「ああ、ありがとう、XXちゃんが目薬買ってきてくれたんで楽になったよ」
と言いながら食事もとらず ボロ布団のなかで徐々に失明していった
衰弱しきった母を兄が救急車で運んだときには完全に失明し極度の栄養失調
に陥ってたらしい
0635人間七七四年
2014/08/28(木) 22:20:06.89ID:8aXF40D20636人間七七四年
2014/08/29(金) 01:23:04.92ID:tayKb6Jk元和8(1622)最上氏が改易となり、庄内には酒井忠勝が入部した
忠勝は酒田湊を取り締まる有力商人である三十六人衆を城に呼び
「そなたらを酒井家の御家人として召し抱よう」と伝えた
しかし彼らの中から鐙屋の池田惣左衛門や本間・二木某らといった者たちが立て続けに
「二君仕えずと古くからの言葉にございます
一合の米も酒井家から貰う筋合いはございません
また我々は暮らしに困る程飢えている訳ではなく、地所も株も田地も持っております
だからあなた様のお世話にならる必要はありません」と答えた
『夢宅年代記』
三河武士以上にめんどくさそうな、酒田の自治に誇りを持っていた商人衆たちのお話
0637人間七七四年
2014/08/29(金) 01:25:59.82ID:tayKb6Jk○元和8(1622)年
×だからあなた様のお世話にならる必要はありません」と答えた
○だからあなた様のお世話になる必要はありません」と答えた
編集が終わる前にうっかり投稿してしまいました…
0638人間七七四年
2014/08/29(金) 03:31:03.06ID:m+Yjh9js0639人間七七四年
2014/08/29(金) 04:07:21.43ID:tayKb6Jk職業上・営業上の特権
「相撲の年寄の−」
江戸時代に売買の対象とされた名跡や役職など
「御家人−」
独自の流通網
0640人間七七四年
2014/08/29(金) 07:22:31.86ID:tayKb6Jk慶長6(1601)年、志村光安の軍が上杉領東禅寺城を攻めたときの話である
城攻めの最中、光安は城下で上杉軍の哨戒部隊と遭遇し、交戦の末一人の眉目麗しい若武者を捕縛した
若武者は光安に「死んだ仲間に申し訳がない。武士の名誉を知るならどうか殺してくれないか」と涙ながらに頼んだが、光安は「(東禅寺)城は(最上軍に囲まれ)孤立無援で間もなく落ちる。せっかく生き永らえた命を粗末にせぬ様に」と説得をした
しばらくし東禅寺城は最上軍に降伏し、開城
最上義光の命で庄内にいた上杉兵は米沢への帰途についたが
眉間に皺を寄せ、米沢行きに葛藤を覚える様に見えた若武者に光安は
「上杉家に戻るのに後ろめたさを感じるのなら、我が下で働かぬか?」と彼を勧誘した
光安は彼を気に掛け、若武者も光安に次第に心を開き、酒田三万石に加増となった光安は彼を常に近くに置き可愛がった
1609年、死の枕元で光安は彼に「儂が死んだ後も子の光惟を頼む」と言伝をして逝世した
しかし1614年
彼が別の用事で庄内を空けている間に一栗の反乱により志村光惟が暗殺された
光惟の葬儀が終わり
慶長19(1614)年暮秋、一人の士が酒田青原寺の志村光安の墓の前で腹を斬った
かつての若武者の名は力丸所左衛門。上杉の重臣で東禅寺城主であった志駄義秀の甥の話である
『奥羽永慶軍記』ほか
0642人間七七四年
2014/08/31(日) 10:45:12.88ID:ROZLsEFt『論語』にも、
「犬はよく見張り役をつとめ、馬は労働を尽くしてくれる。
犬馬といえども人の仲間である」
とある
武田信繁
(信玄家法より)
動物にも優しい誠の武士な弟さん
0643人間七七四年
2014/08/31(日) 11:13:27.87ID:wWZHwm8F0644人間七七四年
2014/08/31(日) 11:23:25.62ID:bNfl38y/「今の奴らは親を養えば孝行だと思っていやがるが、犬や馬だって養ってるじゃねえか、どう違うんだおい」
てのなら為政第二であるけど
0645人間七七四年
2014/08/31(日) 11:24:52.53ID:4+Xin9oD0647人間七七四年
2014/08/31(日) 17:51:55.21ID:1X3OZN8Cあったために、ある夜、陣に虎がやって来た。
虎は馬を宙に引っ提げ、虎落の上を飛び出て行った。これに清正が、
「口惜しきことだ!」と怒っていると、また虎がやって来て、小姓の
上月左膳をも噛み殺した。
清正は夜が明けると、山を取り巻いて虎を狩った。すると、一匹の虎が
生い茂る萱原を掻き分けて、清正目掛けて近づいて来た。
清正は大きな岩の上にいて、鉄砲を持ち、虎を狙う。その距離は三十間ほど。
虎は清正を睨んで立ち止まった。人々は鉄砲を揃えて虎を撃とうとするが、
清正は命じて撃たせない。自ら撃ち殺そうという意志である。
そして虎は近くまで猛り来たり、口を開けて清正に飛び掛かった。その時、
清正は鉄砲を撃ち、弾丸は虎の喉に撃ち込まれた。虎はその場に倒れ、
起き上がろうとしたが、痛手だったために、最後には死んでしまった。
――『常山紀談』
0648人間七七四年
2014/08/31(日) 18:06:12.27ID:i+Z3YF2j0649人間七七四年
2014/08/31(日) 18:25:21.61ID:udAZ+Tf3一応既出ではある
0650人間七七四年
2014/08/31(日) 21:15:12.05ID:7kjw5D5s0651人間七七四年
2014/08/31(日) 22:09:05.23ID:v7OmkEM20652人間七七四年
2014/08/31(日) 22:17:44.16ID:m7QtZXsZ言上の旨があった。家康は毛屋主水を御前に召し物語をした折、彼に「敵はどれほど居るか」と問うた。
主水は御陣の縁の端に寄りながら申し上げた
「それがしが見たところ、2,3万もあるだろうか、と思われます。」
「それは思いの外の小勢であるな。他の者達は10万もあると言っているが、汝一人そう見積もった
理由は何か?」
「仰せのごとく、総勢は10余万も居るでしょう。しかし実際に敵として存在しているのは、わずかに
2,3万に過ぎません。」
これは毛屋主水が、金吾(小早川秀秋)、毛利の人々が内通していることを内々に聞いていたため、
このように申し上げたのである。
家康も内心思っていたことを毛屋主水が言い当てたため、これを聞いて大変機嫌よく、御前にあった
饅頭の折を主水に与えた。主水はこれを頂き、縁に腰を掛けてその饅頭を尽く食して後、陣へと帰っていった。
その後に成って家康は側の者達にこう言った
「忘れていた。彼の本氏を聞いておくべきだった。」
「彼は毛屋主水と申す者ですが…」
「いや元々はそうではない。毛屋とは越前の地名であり、彼が毛屋を氏としたのは、毛屋にて軍功があったため、
地名を以って氏としたのだ。」
側の者達は家康が、末々の陪臣のことまでそのように覚えている事に、大いに驚いたという。
(落穂集)
実際に、毛屋主水は元は田原金十郎と言い、柴田勝家に使えていた時代、越前の毛屋で活躍したため
名字を毛屋に変えたとされています。
0654人間七七四年
2014/09/01(月) 00:07:32.23ID:G7ZpfY8D0655人間七七四年
2014/09/01(月) 00:44:04.16ID:acnxzFJE0656人間七七四年
2014/09/01(月) 00:55:58.92ID:lW9XLkck0657人間七七四年
2014/09/01(月) 03:39:25.25ID:Bq6cj/Aq元和の最上家信(義俊)改易により、山形南西の支城・長谷堂城は幕府の命令により上杉家に接収される事になった
出羽の各城も小国城は戸沢氏、延沢城・鮭延城は伊達氏により前後に兵糧庫を押さえられ収公された
上杉の代官「これが慶長の折に当家の山城守(直江兼続)が苦汁を呑まされた長谷堂城ですか。こうなってしまうと呆気ないものですな」
最上方の代官・坂上重内(坂光秀の子、坂光重か?)「平和な御世、当地は「長谷堂館(だて・たち・やかた)」や「亀山の御楯(かめやまのみたて)」と呼ばれております。城ではなく、館、楯ですよ」
上杉の代官「…それがしには立派な城に見えますがな」
上杉の代官は兵糧庫を押さえると、米沢から連れて来た兵や人足らに城山の建物の破却を命じ、さっそく作業に取り掛かった
長谷堂城には代々門番を勤めていた某(なにがし)といった者があった
某「坂上様、上杉の奴腹が無茶苦茶をしております!狼藉を止められないのですか?」
坂上重内「接収というのは、普通は乱取をしてはいけないのが約束事だが、上杉家にとってこの長谷堂の「城」は因縁深い場所だからな」
某「最上家が改易されたからと言っても余りに酷うございます」
坂上重内「そちは重代この城を守り、その想いは海よりも深く、水と魚の様に切り離せぬ関係だものな。
…なにがあっても俺が責任を取るから、お前は城の門を持って帰れ」
某「ええんだが?」
某は長谷堂城門の扉戸を外し自宅に持ち帰ると、囲炉裏の梁上に隠した
門扉は代々その子孫に受け継がれた
門扉は左右2枚で、幅は合わせて約2メートル、高さは約1.9メートル
上杉軍が放ったとされる鉄砲の銃弾の跡も残る
1955年に紆余曲折を経て山形大学資料館に収蔵され、今に伝わる
「上杉家御年譜」「山形古話」ほか
0658人間七七四年
2014/09/01(月) 10:15:25.66ID:4Q13TtUXと思ってたら案外小さいんだな。
0659人間七七四年
2014/09/01(月) 14:25:27.80ID:N1E0Jmmn0660人間七七四年
2014/09/01(月) 14:29:30.83ID:PZq97E5O流体力学の本によれば、なんて
0661人間七七四年
2014/09/01(月) 15:17:34.46ID:QP9K5ZN60662人間七七四年
2014/09/01(月) 16:39:13.58ID:Bq6cj/Aq戸板周りの門柱や梁、屋根も揃えばそこそこのサイズにはなる
(2010年10月5日)山形大学は、高感度加速器質量分析装置を用いた年代測定で、伝・長谷堂城大手門扉が15世紀半ばから17世紀前半のものであると発表した
年代測定の結果、正面扉の回転支柱は文安2年(1445)から寛永9年(1632)に、また右側の回転支柱は寛正4年(1463)から寛永13年(1636)に伐採された木である確率が極めて高いことが示された
この扉は城の門番を務めた人物の子孫が代々保存してきたが、昭和30年(1955)に購入者が山形大学博物館に寄贈した
長谷堂城そのものは元和8年(1622)に最上氏が改易となると、廃城となっている(一部を編集)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4657519&id=57449661
0663人間七七四年
2014/09/01(月) 17:04:29.91ID:Bq6cj/Aqかつての門番の自宅の家屋の建替(改築)時に「然るべき場所に寄贈する」といった約束での購入者といった表現になるらしいので、悪い意味ではないはず
0664663
2014/09/01(月) 17:51:15.32ID:Bq6cj/Aq○かつての門番の子孫の方の家屋
…やってしまった…
0665人間七七四年
2014/09/02(火) 22:30:00.18ID:gLSh0Sgh申し出す者は居なかった。
重臣である本多安房守(政重)は、出張の土産として鏡を進上し、
また近習の者達に申し付け、夜詰めの際には利常の前でわざと鼻毛を抜かせ、
それとなく気付いてもらうようにしたが、まったく気にする様子はなかった。
この頃、利常の近くで仕えている掃除坊主が湯治に行った。これに横山左衛門佐が指図して、
鼻毛抜きを土産として利常に捧げた。彼はこれを見ると老臣以下を呼び集めた
「私の鼻毛が伸びているのを、何れもおかしな事だと思い、世上にては『鼻毛の伸びたうつけ者』などと
言われている事は、この利常も心得ておる。
近頃安房守が鏡を送ってきたり、近習の者達が懐に顔を差し入れて鼻毛を抜き、痛そうな顔をしていたり、
今度この坊主が鼻毛抜きを持参してきたりしたのも、お前たちが指図しなければどうしてこのような
事があるだろうか。
私は全て解った上で、そのまま差し置いていたのだ。その意味をお前たちに申し聞かすため、
今呼び集めたのである。
私は現在、大名の上座にして、官禄も日本有数の存在である。
この利常が利口を鼻の先に顕すようなら、人々は気を使い大いに疑いを持ち、考えもしないような難儀を
被ることもあるだろう。
私がたわけであると人に知らせてこそ、心やすく三ヶ国を領し、何れも楽しむことが出来るのだ。」
(明良洪範)
前田利常の、鼻毛を伸ばす理由、である。
0666人間七七四年
2014/09/03(水) 01:31:59.51ID:a31q1JhWある日、家康が代官等がいる前で、言った。
家康 「道路工事させていたんだけど、今日開通したさ」
代官たち「道路工事? どこのことっすか?」
家康 「こないだ丹沢と喧嘩したところwwww」
代官たち「ああwwwwww 例のガケっすかwwwwww」
家康 「(グフフ、丹沢め。次の鷹狩りでは目にもの見せてくれるww)」
それは、こんな出来事からであった。
武田遺臣・丹沢正忠は鷹に詳しかったので、家康はいつもお供に加えていた。
ある日の鷹狩のことである。
丹沢「家康様、この先は谷で、ガケになってて通れないっすよー」
家康「何を言う丹沢、この先にそんな場所はないぞ。わしは駿河に育ったんだから、
甲州人のお前なんぞよりこの辺りはよっぽど詳しいのだ」
と、丹沢の言葉を無視して進んで行くと・・・
丹沢「ほらwwww 通れないじゃないっすかwwwww」
家康「ば、馬鹿なっ!? ……おい丹沢!! 何故通れないと言わなかった!!」
丹沢「言ったじゃないっすかwwww ひでえwwww」
家康は道を変えてから丹沢に命令した。
家康「よし丹沢、この先に鳥はいるか見て来い」
丹沢「行ってきました。鳥の姿は見えなかったっすね」
しかしその道を進むと、鳥がたくさん舞い降りていた。
家康「丹沢、どうだwwww お前の目にはこれが見えんのかwwww」
丹沢「さっきはいなかったんですよ!! サボってたわけじゃありません! 今来たんでしょう!」
家康「ププwwww そんなことは、言わんでもとっくに分かっとるわwwww」
丹沢「(ビキビキビキビキ)」
家康は帰ってから「今日は一日中、丹沢と喧嘩して愉快だったwww」
などと周囲に言ってはみたものの、まだ根に持っていたのかもしれない。
ついに谷を埋めさせて、実際に通れるようにしてしまったのである。
0667人間七七四年
2014/09/03(水) 01:33:40.45ID:a31q1JhW『このように家康公は、お遊びの際のこともよくお心にとめられる方で、
「誰とはあの時あそこで酒を飲んだ」「誰にはあの時あそこで飯をおごった」
などと覚えてらっしゃり、そのことを話題にされることが常々あったのである。』
と綺麗にまとめているが、誰に飯をおごったか覚えているとかすっごいケチくさい。
家臣と他愛ない口喧嘩をして楽しんでいた、君臣の情も美しい良い話?
ケチのくせにムキになって道路工事までやらかしてしまった、悪い話?www
(原文)丹沢七右衛門正忠といひしは。武田が家人なりしが。
関東へうつらせたまふころより當家に参り。元より鷹の事に精しければ。いつも御供にめし加へらる。
ある時ならせたまふに。正忠この路筋には田切(谷の両側がガケになっている場所)のあれば。御路をかへ給へと申す。
君われ幼きより駿河にて生長したれば。路の案内よくしりたり。この路にさる所なしと宣ひて成せ給ふに。
はたして路絶たれば笑はせ給ひながら。丹沢かゝる田切のあるを。何とてしらさぬとて咎め給ふ。
また鳥の有無を見せにつかはされしに。かへりて来て見えずと申。
やがてその筋通御有に。鳥あまた下り居たれば。丹沢いかに汝には見えぬかと宣へば。
先にはなかりしが。たゞ今入懸しなりと申せば。そはわれもとくよりしりたりとてまた/\咎め給ふ。
還御のゝち。今日は日ひとひ丹沢とあらがひて。いとおかしかりしと仰らる。
後に、其日ならせられし道路の経営の事仰出されしに。代官等いづれの地かと伺へば。
先日丹沢とあらがひし所よと仰られしにて。速に分りたりしとぞ。
かく御遊行の折の事も。よく御心にとめられ。
誰はいつの時いづれにて酒のみし。膳給はりしなどゝ。おぼしいでゝ仰られし事つね/\″おはしましき。
東照宮御実紀附録巻二十四
ttp://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/tosyogu-h24.html
0668人間七七四年
2014/09/03(水) 07:12:03.36ID:pRFXYSMW0670人間七七四年
2014/09/03(水) 12:56:01.43ID:Ld2NlI/90671人間七七四年
2014/09/03(水) 13:27:39.13ID:hdRQjglp0672人間七七四年
2014/09/03(水) 13:50:08.03ID:7vh4XO9I現在全五巻で発売中です!
0673人間七七四年
2014/09/03(水) 14:38:34.13ID:bmxlt6U4誰にご馳走したか覚えてる奴なんて普通に執念深いっていうんだよ
0674人間七七四年
2014/09/03(水) 15:28:58.62ID:9YxrKypWへうげものの爪噛み権現さまで脳内再生
家康公「よし!たらふく食うがいい!」
○○「この量は…馬の餌???」
0675人間七七四年
2014/09/03(水) 16:58:20.83ID:C3Ulxmm/0676人間七七四年
2014/09/03(水) 17:01:41.07ID:BSYju9A5まあ皮膚とかと同じ物から出来てるから食べれない事はないんだろうけど…
0677人間七七四年
2014/09/03(水) 19:47:54.23ID:9YxrKypW慶長5(1600)年9月13日、畑谷城を落とした直江兼続は山形盆地へ向け進軍。14日に富神山を抜け、菅沢の丘に現れると早速長谷堂城を攻めた
長谷堂には最上方の守将志村光安と増援の鮭延秀綱が兵1200〜1300ほどで詰めていた
鮭延秀綱「お出で早々に攻めて来るとは上杉ん奴腹め、あがすけが(お調子者が。調子に乗りやがって)!」
志村光安「人馬で菅沢が埋まり、山の裾野まで陣が張り出してますな。どんだけの軍兵を連れて来てんだが」
秀綱「いっそ夜襲を掛けてやりますか?まさか初っ端から大軍の上杉に寡兵の吾等が攻めるとは思いますまいに」
光安「秀綱殿、殿(最上義光)の命令では『安易に討って出る事を自重し、なにがあっても城を守れ』が命令だったのでは?」
秀綱「200くらいの兵をお貸し頂ければ私がやって来ます。夜襲の成否に関わらず、上杉の目をしばらくは長谷堂に引き付ける事は出来るでしょう」
光安「これは尤もな策でありますな。では一撃だけを食らわし、深追いだけはなされないと約束くだされ。それとくれぐれも慎重に」
その夜鮭延隊は闇に紛れて奇襲を掛け、上杉兵百以上の首級を挙げて凱旋した
秀綱「ご覧の通り、まずは重畳」
光安「これで怒り狂った上杉兵は長谷堂を意地でも落としたくなるでしょう」
翌日上杉方の春日元忠の隊が再び長谷堂城を攻めた
光安「寄せて寄せて、畠の畔(あぜ)を越えて来たら射かけよ。さすれば外れ矢玉少なく、敵を数多く討ち取れようぞ」
城に近付いた春日隊を数百の鉄砲と弓が釣瓶撃ちに襲い、上杉軍にはまた多くの被害が出た
直江兼続「篭城されたままでは厄介だ。野戦に持ち込み殲滅しよう」
上杉兵は弓や鉄砲の射程外で苅田狼藉をはじめた
長谷堂城兵「ぐぬぬ…わしらの田が…稲が…」
血気盛んな若い兵らが光安に出陣を願ったが、光安は兵らを宥(なだ)めて言った
志村光安「吾等の役目は如何に直江隊を足止めするかである」
光安は筆を取ると矢文を拵え、弓の得意な者に上杉兵へ向けて射掛けさせた
兼続「これがその矢文か」
上杉兵「は」
兼続が矢文のこよりを解くと、紙にはただ二文字「笑止」とだけ書かれていた
0678人間七七四年
2014/09/03(水) 19:52:19.62ID:9YxrKypW○では一撃だけを食らわし、深追いはなされないと約束くだされ。
で訂正をお願い致します
0679人間七七四年
2014/09/03(水) 20:13:55.23ID:45eDskxa0680人間七七四年
2014/09/03(水) 20:30:02.97ID:chQfmHAE0681人間七七四年
2014/09/03(水) 20:35:36.35ID:+5Z98Y210682人間七七四年
2014/09/03(水) 20:36:21.99ID:9YxrKypW文禄2(1593)年2月、最上義光は朝鮮出兵の後陣として肥前名護屋にいた
その頃の京都
里村紹巴は最上義光に文を綴った
「義光殿も遠方でなにかと気苦労なされている事でしょう。気分直しに当方主催の連歌会の発句を頂戴できませんか?」
義光(´・ω・`)「!お師匠さまから重要な役割をもらったんよ!これは責任重大なんよ!」
義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし(梅の清々しい匂いが溢れている)」
氏家守棟「幾重霞のかこふ垣内(ここは霞のかかった屋敷内)」
(´・ω・`)「守棟、なに脇句作ってるの?」
守棟「拙者とて歌を書いていけない道理はありますまい?」
江口道連が京都の紹巴に義光の発句を届けた
里村紹巴「ほぅ、これは良い発句です。では私も続けて『春深きかげの山畑道見えで(春霞に山道も溶けていく)』」
紹巴は義光の発句が気に入ったのか、夏に義光が帰京した時に最上屋敷を訪れ、改めて自らが脇句を添えて歌衆を揃えて、百韻に仕立てた
義光にとっては連歌が評価された良い話
守棟にとっては「これはちょっと…」と暗にダメ出しをされた悪い話
※氏家守棟は1591年頃に政治文書の減少から死亡したと考えられていたが、脇句から1592年の初頭までは生存が再確認されたという意味では良い話?
0683人間七七四年
2014/09/03(水) 20:39:44.25ID:9YxrKypW○脇句から1593年
でした…
0684人間七七四年
2014/09/03(水) 21:36:22.15ID:chQfmHAE0685人間七七四年
2014/09/03(水) 21:38:50.60ID:9YxrKypW慶長8(1603)年、志村光安の所領である酒田湊そばの庄内浜に、人の上背を越える巨大な大亀が上陸した
漁民たちは「これは縁起が良い」と大亀を荷車に載せると各村を鐘や太鼓を打ち直して着飾って廻った
亀は孔雀の様な声で鳴いたという
志村光安「これは珍しい事だ。吉兆かも知れないから山形の殿(最上義光)に知らせよう」
光安は義光に手紙をしたためた
義光(´・ω・`)「それだけ巨大な亀だとかなり長寿な事だろう。酒田の神様かも知れないから余り無茶をしないで、丁重に海にお返ししてね。
そうだ!東禅寺もこれを機会に『亀ヶ崎』に地名を変えよう!」
改称記念に人々には餅や酒が振る舞われた
ついでに大宝寺も呼応して「鶴ヶ岡」と縁起の良い名前にされた
『奥羽軍談』ほか
0686人間七七四年
2014/09/03(水) 21:52:55.23ID:clwobd570688人間七七四年
2014/09/03(水) 22:23:51.69ID:9YxrKypW海に面してるから「崎」
海から離れ、丘陵地帯の後者は「岡」
ついで「亀が(見つかった方が)先(崎)」
0689人間七七四年
2014/09/03(水) 23:11:47.22ID:chQfmHAE0690人間七七四年
2014/09/04(木) 02:35:59.79ID:MqisPoNo全くの不思議。
0691人間七七四年
2014/09/04(木) 03:38:29.06ID:CNyl6IWU0693人間七七四年
2014/09/04(木) 06:53:17.95ID:u2I46lAI発句一首目・義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし」
(梅の清々しい匂いが溢れている)
脇句二首目・守棟「幾重(いくかさね)霞のかこふ垣内(かきのうち)」
(ここは霞のかかった屋敷内)
続句三首目・紹巴「春深きかげの山畑道見えで」
(春霞に山道も溶けていく)
この江口さん、義光の発句と守棟の脇句(発句に続く二句目)を届けるついでにちゃっかり紹巴の連歌会にそのまま参加して、五首ほどが選ばれている
0694人間七七四年
2014/09/04(木) 10:09:11.98ID:pzwcs+fV0695人間七七四年
2014/09/04(木) 10:18:37.50ID:3BMT0+fL0696人間七七四年
2014/09/04(木) 12:16:44.79ID:KiVL6D/E田澤七右衛門正忠は。もとは武田が末にて。丹沢久助と名のり。信玄をよび勝頼につかへ。天正十年武田没落のゝち。八月二十一日召し給ふ。
長久手御陣にしたがひたてまつり。井伊兵部少補がそなへにありて。首級を獲て高名ありしかば。舊領に加へ新恩をたまひ男を召され。そのゝちも。たび/\戦功ありしにより。御陣にしたがはせ。
またもろ/\の故実に精しければ。出御・入御の折。あるひは御上洛の折にも。御かたわらに供奉して。日夜をこたらざれば。御腰物・御馬并に黄金を賜ふ。
正忠元より鷹の事に精熟せしかば。御鷹野のさき/\へも。いつも御供にめし加へらる。
ある時ならせたまふに。正忠この路筋には田切のあれば。御路をかへ給へと申す。
君われ幼きより駿河にて生長したれば。路の案内よくしりたり。この路にさる所なしと宣ひて成せ給ふに。
はたして路絶たれば笑はせ給ひながら。丹沢かゝる田切のあるを。何とてしらさぬとて咎め給ふ。
また鳥の有無を見せにつかはされしに。かへりて来て見えずと申す。
やがてその筋通御有に。鳥あまた下り居たれば。丹沢いかに汝には見えぬかと宣へば。
先にはなかりしが。たゞ今入懸しなりと申せば。そはわれもとくよりしりたりとてまた/\咎め給ふ。
正忠われ不徳の身なれど。君の御仁徳のかしこさに。鳥も御路に伏すものなりと申せば。御喜色快然たり。
さればとて。正忠俄かに鳥を追ひて。御殺生やめさせ給へと申せば。丹沢汝は三国一の不埒者なりとて叱り給ふ。
還御のゝち。今日はひねもす丹沢とあらがひて。いとおかしかりしと仰らる。
致至のゝちも。しば/\″召し給へば。人々怪しみて。いかにして御気色にかなふか問ふ。正忠わが不埒故と申せば。ますます怪しむ。
大久保長安逆心のゝち田澤と改む。元和七年七月二十二日死す。
訳は任せた
0697人間七七四年
2014/09/04(木) 14:32:34.69ID:rxz6zNIy0699人間七七四年
2014/09/04(木) 23:48:15.20ID:PM/Lut0Z情けない
とかいいつつ出御入御とかところどころわからないので>>698教えてw
0700人間七七四年
2014/09/05(金) 00:32:47.42ID:aN0gU4KM>>696をざっと訳すと
田澤七右衛門正忠は。もとは武田の家臣であり丹沢久助と名のり。信玄および勝頼に仕えた。
天正十年の武田滅亡の後、同年八月二十一日に徳川家に召し抱えられた。
長久手の戦いにも従い、井伊兵部少補(直政)の備えに属して戦い、首級を獲て高名があったので。旧領に加えて
新恩を賜い、さらに息子も家康の元に召された。
その後も度々戦功があったので、御陣に従わせた。また諸々のの故実にも詳しかったので、お出かけやお帰りの際、
あるいは上洛の折にも、傍らに供奉していた。彼はこの勤めを日夜怠らなかったため、家康より御腰物、御馬、並びに黄金を賜った。
また正忠は元より鷹の事に詳しかったので、家康が鷹狩を行う各地の猟場へも、いつも御供に召し加えられた。
ある時、家康が鷹狩に出かけた際、正忠が「この路筋は先が田切(両側が崖状に成って寸断されている場所)になっているので、
路を変えるべきです」と申し上げた。
しかし家康は、「私は幼き頃からこの駿河で成長したのだから、路の案内もよく知っておる。この路にそんな場所はないよ。」と言って
そのまま進んだが、はたして路は絶たれていた。家康はこれを見て笑いながら「丹沢よ、田切のあるのをどうして知らせなかったのだ!?」
と咎めた。
また、鷹狩の際鳥の有無を見るため遣わされた時、帰ってきて「鳥は居ません」と答えた。
その後、家康が正忠に確認させたあたりを通ると、数多の鳥が地面に降りて居た。そのため家康は「丹沢どうした?お前には
あれが見えぬのか?」と言うと、「先程は居りませんでしたが、たった今ここにやって来たのでしょう。」と答えた。これに家康も
「私はお前がそう答えるだろうということはとっくに解っていたよ。」と、またまた咎めたのである。
しかし正忠、「私は不徳の身ではありますが、家康公の御仁徳の有り難さに、鳥も路に平伏しているのでしょう。」と答えると、
家康も快さげに喜色を表した。
ところがここで、正忠は突然その場に居た鳥を追い払い、「どうか、御殺生はおやめ下さい」と申し上げた。
家康はこれに「お前は三国一の不埒者だ」と叱った。
家康は帰った後、「今日は一日丹沢とケンカして、大変面白かった。」と仰せになった。
正忠は隠居した後も、家康にしばしば彼を召し寄せられた。この事を人々は不思議に思い、
「どうして家康公のお気持ちに叶うのか?」と問うた。すると正忠は「私が不埒なためですよ。」と答えたので、人々はさらに
不思議に思った。
彼は大久保長安事件の後、田澤と名字を改めた。元和七年七月二十二日に死去した。
0701人間七七四年
2014/09/05(金) 00:57:28.37ID:QeRVVbAx正忠は小牧長久手の戦いに参加して、井伊直正の部隊で戦い、敵の首をとって高い評判を得たので、家康公は、正忠の昔からの領地に加え、新たに領地を与えられ、さらに息子をご登用なさった。
そのあとも、たびたび戦で功績を立てたので、家康公のご本陣に編入されることとなった。
また、正忠はいろいろな昔の慣わしについて精通していたので、家康公がお城へ上がるとき、下がるときや、ご上洛のときにも、家康公のかたわらにお供して、日夜励んだので、家康公は刀や馬、黄金をお与えになった。
正忠はもともと鷹の事に詳しかったので、家康公がお鷹狩に行くさきざきへは、いつも御供に加えられていた。
家康公が鷹狩に出たあるとき、正忠が「この先には急流がありますから通れません。道をお変えください」と申し上げた。
家康公は、「私は幼いころから駿河で育ったので、このあたりの道のことはよく知っている。この道にそういったところはない」とおっしゃったが、実際に行ってみると通れなかった。
家康公はお笑いになって、「丹沢、このような急流があるのを、どうして知らせなかったのだ」とお咎めになった。
また、道の先に鳥がいるかどうか、正忠に見に行かせたところ、正忠は帰ってきて「おりません」と申し上げた。
ところが、その道を行くと地面に降りている鳥がたくさんいたので、家康公は「丹沢、どうだ。お前にはこの鳥が見えないのか」とお聞きになった。
正忠は「先ほどはいなかったのですが。ただいま来たのです」と申し上げた。
すると家康公は「そんなことは、私もとっくに知っている」と言ってまたまたお咎めになった。
すると正忠は「私は仁徳がありません(から私が見に行ったときには鳥も身を隠していたのです)が、家康公のご仁徳のありがたさに、鳥もやってきて平伏しているのです」と申し上げた。
家康公は非常にうれしそうにされた。
正忠は「そういったことですから」と言って、急に鳥を追い払ってしまうと、「(ご仁徳を慕って平伏している鳥を)お殺しになるのはおやめください」と申し上げた。
すると家康公は「丹沢、お前は、日本・中国・インドでも一番けしからん奴だ」とお叱りになった。
家康公はお帰りになってから、「今日は一日中、丹沢とけんかをして、とても楽しかった」とおっしゃった。
正忠が引退した後も、家康公はしばしば正忠をお呼びになったので、いろいろな人が不思議に思って、「どうやったらそのように気に入られるのだ」と質問した。
正忠は「私がけしからん奴だからです」と答えたので、人々はますます不思議がった。
正忠は、大久保長安が家康公に背いた後、苗字を丹沢から田沢に改めた。正忠は、1621年の7月11日に亡くなった。
いじめないでね!
0702人間七七四年
2014/09/05(金) 00:58:55.94ID:QeRVVbAxごめんなさい。
0703人間七七四年
2014/09/05(金) 01:02:48.31ID:XUeoxQbj0704人間七七四年
2014/09/05(金) 06:58:35.04ID:7UtAiZiN0705人間七七四年
2014/09/05(金) 09:30:57.91ID:pb2HMIwR0706670
2014/09/05(金) 13:48:09.62ID:H4nhC5oH670だがさすがにカチンと来たわ
おまえが訳知りたいがためにダシに使ってんなよ
あのさ、悪意ある訳することをケチて言ってんだよ
0707人間七七四年
2014/09/05(金) 13:52:57.43ID:pb2HMIwR0710人間七七四年
2014/09/05(金) 15:30:13.40ID:VjAuS3Bl0711人間七七四年
2014/09/05(金) 17:41:30.50ID:f7PHqXLIある時、代官を勤める家士に私曲があるということで、淡路守はその者を禁獄し、私曲の虚実を
正さずにその妻子を始め、忌み掛かる者(親族)を皆召し捕らえた。そして庭に穴を掘らせて、
妻子らを首だけ出してその穴へ埋めさせ、その首に小桶を被せておいた。淡路守は毎日小桶を
取って見て回り、それを慰みになさった。
妻子らが追々死んでいく中で、代官を勤めた者だけは未だに死ななかった。その時、淡路守は
「妻子を始め、類族どもは皆死んだというのに、お前一人未だ死なないとは、よくよく因業深き
奴だな」と、言って嘲弄した。その者はそれまで目を閉じていたが、その言葉を聞くと両目を開き、
「今までは何とかして存命し、この恨みを報じようと思っていた。だが、妻子や類族まで死んだ
以上は、もはやこれまでだ。そのうえ、例え私に罪があっても、刑罰のやり方は法もあること
なのに、こんな刑罰のやり方をしたことこそ、恨みに思うぞ。見よ見よ、今に思い知らせてやる」
と言うと、はたと白眼で舌を噛み切って死んでしまった。
それからの淡路守は乱心して狂い回った。そしてある日、自ら我が身を鉄砲で撃ち貫いて死んだ。
そのため、家は断絶に及んだ。家士は皆淡路守を疎んでいたので、すぐに思い思いに退散した。
その中で種田勘九郎という者は一人残り、納戸の道具類やその他の物をともに、自分の預かりの
分はことごとく同姓の大助のところへ贈り、翌慶長2年(慶安2年の誤り)8月20日の亡主
1周忌の折に、廟前で自殺して果てた。書き置きが残され、「去年以来の殉死の存念を遂げた」
とのことである。また「曇りなき 月の光りに 誘はれて 浮世の雲も 晴てこそ行け」という
辞世の歌があった。
菩提所は雑花院(雑華院)で、水南和尚は石碑に俗称を彫り、法号を『義嶺祖高』となさった。
当座の殉死は簡単なことだが、このように一年の月日を過ぎても志を翻さず、廟前で殉死すること
こそ、大丈夫の忠臣というべきである。
このような悪君にもまた、このような忠臣がいたのである。『忠臣は亡国に現れる』とは本当に
もっともである。同姓の大助はその至忠を感じ、勘九郎の一子を呼び出し、厚く扶持なさった
ということである。
――『明良洪範』
0714人間七七四年
2014/09/05(金) 20:16:39.27ID:+6sy/bN00715人間七七四年
2014/09/05(金) 20:21:58.44ID:fo9ML5UZ0716人間七七四年
2014/09/05(金) 21:06:10.87ID:VjAuS3Bl0717人間七七四年
2014/09/05(金) 23:23:03.49ID:+twIys+Wググってたら凄い事がわかった!
伊達政宗爆誕・1567年9月5日
駒姫京で刑死・1595年9月5日
最上義康暗殺・1603年9月5日
最上家にとっては魔の9月5日…
0718人間七七四年
2014/09/05(金) 23:25:32.99ID:Go1NGoOK家康が道路工事させた下りは、こっちのバージョンにはないんだね。
しかし田澤正忠って人も過激だね、殿様によってはその場で無礼討ちされてもおかしくない行動だ。
ちょっかいを出されて、イラっとしたんだろうなあww
でも、素敵なやり返しの方法だ。
お互い信じているからできることだよね。
君臣相信じ相親しむというのは、家康存命中の徳川の素晴らしいところだよね。
そうでもなきゃ、天下は治められないのかもしれない。
0719人間七七四年
2014/09/05(金) 23:54:26.57ID:aN0gU4KMこの時、秀忠は悲嘆激しく、涙を流し嗚咽していた。
家康はこの様子を見て
「秀忠よ、人の生死は定められた運命なのだから、そのように嘆くものではない。
今より後、天下の人々は御身を月とも太陽とも戴き、仰ぐことになるのだから、よく天下大小の機務に
勤め、些かも怠らないように。
ただし、当家が天下を治めてから日が浅く、今まで創建した所の法規や政令は、未だ全備したものではない。
私も近年の内にそれぞれ改修したいと考えていたのだが、今は、残念ながらそのことも遂げられなく成ってしまった。
私が死んだ後に、御身は些かもはばかること無くそれらを改正せよ、それこそが私の志を継ぐとも申すべき
孝道である。」
そう申し残した。
この言葉について、後にこの当時の幕僚の中に、こう評したものがあった
「家康公は元々、将軍家(秀忠)と考えや認識に違いがあるので、自身が死んだ後は必ず新政の数々が
行われると予想されていた。
しかし前代に建て置かれた決まりを俄に改めるようなことをすれば、『当代の将軍は不徳である』などと
世の中に持ち騒がれる事にもなるかと考えられた。
そのため、秀忠公が思うように政務を行えるよう、予めこのような御遺命を残されたのである。」
(徳川実紀)
0720人間七七四年
2014/09/06(土) 09:34:30.01ID:EkIbGPLQ0721人間七七四年
2014/09/06(土) 11:41:55.21ID:3Q6lDSEc反骨だが有能で、家康が大好きそうなタイプではある。
それと、ちょっと調べたら寛政重修諸家譜に資料あった。
田澤正次 庄兵衛
田澤七右衛門正忠が二男。
鳥見役をつとめ、のち東福門院の御所に附属せらる。
正次
木工右衛門
父が遺跡をつぎ、のち鳥見役をつとむ。これより子孫御家人たり。
ざっと見ただけだけど、本家には鷹に関する記述はない。
鷹の特技は、分家が継いでいったみたい。
0723人間七七四年
2014/09/06(土) 18:15:05.53ID:86QuRaOJ0724人間七七四年
2014/09/06(土) 18:31:01.41ID:IKPv6NBa0725人間七七四年
2014/09/06(土) 20:48:32.15ID:Zibgnl2J既出なんだなあ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3726.html
0726人間七七四年
2014/09/06(土) 23:59:14.92ID:mc2AAiZ00727人間七七四年
2014/09/07(日) 01:23:19.56ID:QqURm2zp以前丹沢正昌のエピソード(信虎の命で北条から鷹をぶんどる)を書いたものですが、
私も正忠に関してももう一つエピソードを持っているので、悪い話スレに書きます。
0729人間七七四年
2014/09/07(日) 20:55:48.08ID:S9b8+mKr「忠臣は亡国に現れる」って例とはちょっと違う気がするよな
何にしろ、良い話とは全然思えない・・・
0730人間七七四年
2014/09/08(月) 07:16:18.45ID:WufHteIh狂人にたいして諫死するよりも殉死したほうが名誉と考えたかもしれんし
0731人間七七四年
2014/09/08(月) 09:28:49.09ID:BauNpNjk月見を口実に延沢屋敷へ
最上義光「力の分においてはおそらく我随分世に越たるように人にも謂われし故、
あわれ対體の族もあれかし力比べをなさんと願う所に、幸い今度能登守の働きを見聞するにあっぱれ我に優る程の事なり
いざや力を試して遊ばん」
『最上記』(天正年間、旧暦の7月15日)
義光(´・ω・`)「殿はかなり力の持ちですよ。おそらく世の中に殿を越える力持ちはそうは居ませんよ、と人にも言われるし自分でもそう思うんよ
今まで自分と同じくらいの力持ちと力比べをしたいと願ってた所に、幸い今度味方になった延沢満延が、見事に義光を越えるくらいの力持ちなんよ
さあ、どれくらいの力持ちなのか、満延の力を試して遊ぼうww」
月見を理由に延沢満延宅を訪問すると使者を送った鮭様の密かな楽しみ
結果:鮭延秀綱から借り受けて来た高橋英国(裸武太之助ほか、志村藤右衛門や小関加左衛門といった武勇の士らがこっぴどく満延に投げ飛ばされた
0732人間七七四年
2014/09/08(月) 09:37:33.44ID:cjypXYP90733人間七七四年
2014/09/08(月) 09:48:26.62ID:QMquSI9P0734731
2014/09/08(月) 17:28:28.20ID:BauNpNjk×殿はかなり力の持ちですよ。
○殿はかなり力の持ち主ですよ。
×高橋英国(裸武太之助ほか
○高橋英国(裸武太之助)ほか
でお願いします
0735人間七七四年
2014/09/08(月) 17:56:03.51ID:M3Mmz6fl突然の大量投稿や誤字脱字を文句ひとつ言わずしてくれるんだからw
0736人間七七四年
2014/09/08(月) 18:33:14.02ID:CsP7b96V0737人間七七四年
2014/09/08(月) 18:40:29.85ID:vhO9Nd0K0738人間七七四年
2014/09/08(月) 22:03:30.64ID:9OSnhbOm0739人間七七四年
2014/09/08(月) 22:14:18.09ID:ZFE1Y9L7陰湿な努力の一端は垣間見えるね
0740人間七七四年
2014/09/08(月) 22:15:09.57ID:Vbnr5xpN真性のキ○ガイどもに比べれば夢のように無害な存在だし
0741人間七七四年
2014/09/08(月) 22:26:32.14ID:X0GLBWLDよく会話調になってるけど本当にそう書いてあるのか?
0742人間七七四年
2014/09/08(月) 23:03:42.86ID:RDw68GwG地元愛?と最上家愛は感じるから
0743人間七七四年
2014/09/08(月) 23:32:09.81ID:GEQNFXDG0744人間七七四年
2014/09/08(月) 23:37:16.88ID:KWCMqsdg0745人間七七四年
2014/09/08(月) 23:39:29.35ID:9OSnhbOm欠点は幾度も指摘されてるのに頑なに直さない(直せない)のはやはりそういうことかな
悪意の有無はさておき、そういう類の人に広報する使命感を抱かれてしまった最上家と他の最上ファンこそ憐れよの
0746人間七七四年
2014/09/08(月) 23:56:26.68ID:S/JcgjJl0747人間七七四年
2014/09/08(月) 23:59:49.00ID:/p87a4ux逸話を投稿する分、最上の方が遥かに良い。
0748人間七七四年
2014/09/09(火) 00:05:08.52ID:tMjUXVnz0749人間七七四年
2014/09/09(火) 00:43:14.87ID:wqe4ekIH当人wwwwwwwww
0750人間七七四年
2014/09/09(火) 01:10:56.45ID:8xohpBZZ旅館にて寝ていた時、近臣達は御傍に在って四方山の話をしていた。
その中の一人の話に
「先に通行していた時に、御中間のなにがしと言うのが剛の者で、三島の神池のウナギを蒲焼きにして食したそうです。
常には神のウナギなどと言って、現地の人々は手も出さぬそうですが、『上様のお供であれば何の祟があるべきか!』
と言って食ったそうで、何とも剛の者ではないでしょうか。」
これを耳にした秀忠は俄に起き上がり、
「どういうことだ、もう一度言え!」
と、重ねてその話をじっくりと聞き、「本多佐渡を呼べ!」と、本多正信を召すと同じ話を聞かせ、
正信に命じて
「その中間を糾明し、事実ならば明日、その者を町端で磔にかけよ!そして札にその理由を書いて晒すのだ。
私の権威を借りて霊神を軽んず様に成っては、今後誓詞の文なども徒になってしまう。
これは小事のように思うかもしれないが、それによって与える悪影響は、容易ならぬものだ。」
そう言って、終に法の如くこれを処置したそうである。
(徳川実紀)
0752人間七七四年
2014/09/09(火) 07:48:41.74ID:hqzWiD2W0753人間七七四年
2014/09/09(火) 08:16:58.16ID:N0huRNoW0754人間七七四年
2014/09/09(火) 09:40:13.41ID:qnikwDg10755人間七七四年
2014/09/09(火) 13:40:14.70ID:+tT+ONL+0756人間七七四年
2014/09/09(火) 13:42:37.95ID:D5f4vWY70757人間七七四年
2014/09/09(火) 14:04:03.04ID:SYUCtubi0758人間七七四年
2014/09/09(火) 17:40:38.76ID:Uhlc6+Ql右の方の木戸から、本丸へ入ろうとした。しかし、敵方が大石を激しく
投げたので、少し退いて堤の陰に立ち、様子を見ていた。
そこへ、立花勢がその堤の上に上り、敵方へ激しく鉄砲を放った。
そのため、敵兵は少し猶予したので、
伝蔵は十文字槍を取り直して本丸の下まで突入した。その時、傍らの
洞穴から敵兵が出て鉄砲を差し向け、伝蔵が近寄れば撃とうと構えた。
伝蔵には前もって柳生但馬守(宗矩)に聞いておいた心得があったので、
彼は敵兵の鉄砲の筒口に、槍の穂先を向けて進んだ。敵兵は伝蔵が近付く
のを見て、鉄砲を撃ち放った。
その弾丸は槍に当たり、それて伝蔵の肘をかすり、外側へ飛んで行った。
そして、伝蔵はそのままその敵を一槍で突き伏せたということである。
――『明良洪範』
0759人間七七四年
2014/09/10(水) 06:39:47.84ID:c+C10CCG0760人間七七四年
2014/09/10(水) 07:25:06.47ID:xVOMU0vb「特に支障なし」
「腹据えて進むのみ
0761人間七七四年
2014/09/10(水) 19:19:37.98ID:xVOMU0vb虎の威を借る何とやらってーヤツだな
エスカレートして「俺は上様のお供じゃー」で乱暴狼藉働かれたら困るしな
0762人間七七四年
2014/09/10(水) 19:44:20.59ID:I/gLwwtb彼はいつも正言を申すため、まだ歳若き家光には煩わしく思い、忠世に何か言われた時は、
いつも機嫌が悪かった。
ある日家光が大手前を通った時、「あの家は誰の家か」と尋ねると、「雅楽頭の家で御座います」と答えられた。
そのとたん、家光は顔をしかめた。それほど酒井忠世を嫌っていたのである。
ある年の事、八朔の賀に御三家はじめ諸大名江戸城に登城した時、家光は前夜より二の丸に在って、未だ
還御無かった。
酒井忠世は二の丸に渡り、「拝賀の者は皆集まりました。早くお還りあって賀儀を受けられますように。」
との言葉を伝えるよう家光の御傍の者達に言ったが、彼らは家光の事を憚って、誰も取り次ごうとしなかった。
そのため忠世は直接家光の御前に出て、その旨を言い聞かせた。この事に家光は激怒した
「忠世、取次なしに私の前に出るのは推参である!必ず咎めを与える!」
「それがしの事は後日、どのようなお咎めも蒙りましょう。今朝はとにかくお還りください。」
これに家光も拒否できず、やがて本丸へと還り諸大名の拝謁を受けた。
その後何の沙汰もなく数日が過ぎたが、忠世は西の丸の大御所秀忠の元を訪れ
「私は性質愚鈍であるのみならず、歳も取り、また殊に御前もよろしからねば、老職を
お許しありますように。」
そう、大老職の辞任を申し出、また八朔の日のことも申し上げた。秀忠はこれに何も言わなかった。
間もなく、家光が西の丸の秀忠のもとに渡ることがあり、忠世も召され左右に侍った。
そこで秀忠が
「忠世は年老いて、さぞ本丸での職務にも労しているだろう。今日は殊に冷気が強い。
これを取らせる。」
そうして自らかぶっていた頭巾を取ると、手ずから忠世に与え「直ぐにこれを被るように」と言ったが、
忠世は御前を憚り被ろうとしなかった。家光はこれを見て
「上意であるぞ。何故被らないのか」
と言ったため、終にこれを被ると「良く似合っている」と笑った。
その時、秀忠は家光に向かい
「将軍は雅楽頭を気に入らぬそうだな。彼は東照宮(家康)このかたの旧臣であり、天下大小の
政事に熟練しているので、私が将軍職を譲った時、それに添えて彼を遣わした。
それを気に入らぬというのは。御身の我意というものである。
よいか、天下を治めるものに、我意はならぬものだ。」
そう言い、また八朔の日のことも取り上げ強く教諭し、これを家光も畏まって聞いたが、何の答えも
しなかった。
忠世は、この後どんなお咎めを受けるかも解らないと思っていたが、家光は本丸に帰ると直ぐに
忠世を召して
「今日は御隠居様(秀忠)より殊の外お叱りを受けた。よく考えて見れば、お前が天下の政道を大事と思って
言う言葉を、私は悪しざまに聞いていた事は、今更悔いても甲斐のないことである。
雅楽頭よ、今後は尚更に、思うことを残さず言ってほしい。」
そう、さわやかな表情で言った。その後城構えの工事御覧のため出かけたが、この時家光が
「雅楽、先にいけ、先にいけ」と言うので忠世が先に回った所、さらに「頭巾!頭巾!」と
先に秀忠より頂いた頭巾を被るよう促した。しかし忠世が被りかねた様子だったので
「御免であるぞ!否むこと無かれ!」と言って、終に被らせたという。
(葛藤別紙)
0763人間七七四年
2014/09/11(木) 14:27:35.55ID:6EVqz2OS「馳堂(長谷堂)と申し候地へ陣取り候
此方に於ても敵を押し詰め近陣仕り候いて一戦を遂げ候所、不思議の天道を以て勝利を得、会津宗徒五十騎討ち取り
且つ又後日に一戦を遂げ、此時また敵三十余騎討ち取り候」
『会津四家合考』
長谷堂合戦で
上杉の大軍を城を討って出た野外の陣で間近にも係わらずに寡兵で留められたのは
「不思議の天道を以て」と
幸運に救われたのです、と本音の垣間見える義光の手紙
0764人間七七四年
2014/09/11(木) 14:59:47.69ID:Ma+XRQaQダメだ、「頭巾!頭巾!」と言ってる家光の顔が、クマーのAAみたいになってるように考えちまうww
0765人間七七四年
2014/09/11(木) 17:05:23.26ID:IcA/rOD/0766人間七七四年
2014/09/11(木) 18:46:40.63ID:DAvsj1i80767人間七七四年
2014/09/11(木) 19:42:44.00ID:/aHn3j5H0768人間七七四年
2014/09/11(木) 20:10:17.04ID:q2O+c4JIこの時、ワキを務めたのはは高安彦太郎といって、その頃名高きものであった。
この日、ワキの見所はなく、ただ小次郎の様子がいかにも優れているように見えたため、
見物の者達からは「藝は上手に収まるというが、この事だ。さすがの彦太郎も
小次郎に気圧されて見る影もない。」と囁き合った。
ところが秀忠は、猿楽が全て終わった後このように評した
「私は、彦太郎が名人だということを、今日こそは知った。
何故なら、小次郎は今日はじめて藝を見せるので、彦太郎はそれがしやすいように構えて、
己の藝をあえて抑えていた。これは上手の更に上であり、並々の者に出来ることではない、
格別の技である。
小次郎もさすが幕閑の子らしく、よく演じた。」
(明良洪範)
徳川秀忠が藝について語ったお話。
0769人間七七四年
2014/09/11(木) 20:25:17.60ID:vMDjQhRRうらやましい。
わたしの家も放置。歯磨きの仕方すらも教えてくれなかった。
あまりにひどくて
見かねた祖母が私のこと育ててくれた。
0770人間七七四年
2014/09/11(木) 20:50:08.13ID:Fh9Jk2yU杉重良は杉重矩の孫で重輔の子にあたる。
4歳の時に父が内藤隆世によって殺された。
しかし、重臣たちが毛利元就を頼ったことで大内家滅亡と相成った。
この一連の出来事がきっかけで毛利家は重良を気にかけるようになった。
重良もこれを気にしていたらしく、大友宗麟の豊前東部の所領安堵よりも居城を捨ててまでして大内輝弘討伐を優先した。
大友宗麟の重良へのラブレターを毛利家に送り、忠誠を示したほどである。
大内輝弘討伐の功で公領である徳地2000貫を与えようとしたくらいである。
重良も毛利家を継いだばかりの毛利輝元の期待に応え、軍功をあげるなどの活躍をした。
1573年、輝元により福原広俊(10代当主)の妹を妻に迎えた。
重良が毛利家にとってどういう立場なのかわかるであろう。
1578年、今度は豊前の高橋家(高橋重種かその一族か)から誘いがあった。
市川元教(経好の子)は誘いに乗り、山口で謀叛を起こして内藤元輔・雑賀隆利(隆和)に捕らえられ自殺した。
重良は同じく誘いを受けた吉見正頼と共にこれを拒否した。
まもなく大友家は耳川の戦いで島津家に大敗し、勢力を大きく衰退させた。
重良はこれをどう思ったのか、好機と見て秋月家を中心に外交で豊前・筑前の豪族との関係修復し、秋月家から人質を出させようと画策した。
秋月家は一旦これに同意したかに見えたが、人質に受け取りに毛利側から畑田右近が使者として向かった。
しかし、秋月家がこれを約束実行を気配を見せなかったため、畑田は『重良謀叛』と輝元に報告してしまった。
0771人間七七四年
2014/09/11(木) 20:51:24.75ID:Fh9Jk2yU面目を秋月家らに潰されただけでなく謀反人とされたのである。
重良は千二百の兵を率い、秋月家らから人質を連れ帰ろうと豊前蓑島(行橋市)へ渡った。
しかし、これを見た秋月種実は豊前長野家や高橋家らと連合して五〜六千の兵で迎え撃った。
その結果、数で勝る秋月連合軍によって惨めな敗北を喫してしまった。
『重良謀叛』の報が毛利家に入ると、義兄の福原貞俊が毛利家中に詫びを入れるために奔走した。
これが功を奏したのか、1579年1月18日に毛利輝元は重良の行為を謀叛と認めつつも子・松千代丸の所領相続を認めた。
輝元が所領相続を認めた理由は以下の二点であった。
・重良の妻が重良に同意していなかったこと
・義兄の福原貞俊が丁寧に詫びを入れたこと
さて、輝元の裁断が下されるちょっと前の1月5日に益田藤兼は秋月種実にこんな手紙を送った。
「杉重良のことは我々が特別に相談してみる。先年からの筋目によって昵懇(入魂、じっこん)にされることが大切だ。」
といっている。
この手紙、何故か重良の子孫に伝わっているという。
重良が謀叛をしながらも、福原貞俊のフォロー・輝元が謀叛を大きく見なかったこと・益田藤兼が秋月種実をなだめたこと
毛利家が重良の謀叛を認めつつも一家断絶を免れさせたいい話
さて、謀叛起こした張本人の杉重良だが、1579年3月4日に高橋鑑種によって討たれているとされている。
異説では北部九州を転々とし、時には『田中源五郎』と変名したりし、最後は鍋島家の客分となったという。
1579年3月4日没としているのは子孫が憚ったのか、毛利家による杉家の名誉を守るための取り計らいかもしれない。
(杉新右衛門覚書)他
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』より一部抜粋
0772人間七七四年
2014/09/11(木) 21:20:10.70ID:vMDjQhRRうらやましい。
わたしの家も放置。歯磨きの仕方すらも教えてくれなかった。
あまりにひどくて
見かねた祖母が私のこと育ててくれた。
0774人間七七四年
2014/09/13(土) 02:00:46.84ID:1PjHXP8J多くあった。
その頃、寒夜に俄に出かけた時、いつも草履が温かいことに家光は気がついた。
家光はこれを怪しみ、何故なのか注意していた所、酒井讃岐守忠勝がいつも草履を懐中に入れて、
肌で温めていることを知った。
そこで家光は悟った
「これは讃岐守が私の微行を危ぶみ、密かに付き従って私のために心を尽くしているのだ。」
この事があって家光は反省し、絶えて夜行を行うことはなくなった。
(空印言行録)
草履を温めていたのは秀吉だけじゃなかったというお話。というかどっちが先に出来たお話なんでしょうね?
0775人間七七四年
2014/09/13(土) 04:24:34.17ID:hBVyp+A00776人間七七四年
2014/09/13(土) 19:12:14.13ID:S569RaeD内藤隆春は毛利家当主・毛利輝元の叔父にあたる。
毛利家に忠義を尽くし、一門格としても誇りをもっていた。
ところで隆春が気にかけていたことといえば、息子たちのことであった。
隆春には元家、元忠、親春の3人の男子がいたが、甥・元盛(宍戸元続の弟)を婿養子にしていた。
特に元家は隆春の実子として思いのほか溺愛していた。
というか壮年期を過ぎて老年期前にできた息子だったそうだ。
豊臣秀吉による朝鮮出兵が決定した際、毛利家においても渡海するメンバーが詮議された。
まず、隆春は老齢であるという理由で免除された。
免除の代わりに佐波川の架橋と防長両国の守備を命じられ、綾木役の半分を与えられた。
※綾木=美祢郡にある地名
また、子・元家もまだ若年だという理由でメンバーから外された。
このことに隆春は不服だったらしく、年甲斐もなく息子宛の手紙に親バカな一面を垣間見せた。
「近日小早川隆景様が来られるので、私のこと(元家を渡海メンバーに入れること)もよく申し上げてほしい。
あなたはとにかく渡海と定め、よくお願いするがいい。そして、家来の召集など諸準備に心配りを怠らないことが大切である。」
と述べた。
結局のところ元家が朝鮮渡海のメンバーに入れたのかどうかは不明だが、その後も元家の身を案じる手紙を送りまくったという。
信長の野望の列伝の内容にあることは大抵は元家に対してのことである。
隆春は1600年に病没し、元家も1612年に亡くなり、元忠が婿養子として入った林家から実家に戻った。
甥・元盛の事件はまた別のお話。
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』から一部抜粋
0777人間七七四年
2014/09/13(土) 22:53:07.71ID:Uftp3aAu服部小平太と毛利新助が討ち取った』というのは、虚説である。元来、義元は勇将では
あるが、床机の周りを固める者もいないのに、一人で床机におられることだろうか。
もし、その通りならば無謀の死である。
信長は今川家の虚を察しなさり、本陣の後ろの山根を押し回って、後ろから攻め寄せ、
馬武者で義元の本陣を縦横に乗り破り、騒動に乗じて突き崩した。今川方はただ上下
とも驚いて慌てふためき、槍を取る間もなく、皆太刀打ちした。
織田方は槍を揃えて突き立てたので、真っ先に進んだ者たちは枕を並べて討死した。
その他にも、負傷や逃亡によってまばらになったことだろう。それまでも義元は
床机に腰をかけ、周りを命じておられた。そこに庵原左近と同庄次郎が馳せて来て、
「本陣の軍士は過半が討死し、備えもまばらになりましたので、何と思し召され
ましても叶いますまい。ここは一先ずお退きになってください」と、申し上げて
馬を引き寄せ、義元をかき乗せた。
この時、元康公がお付け置いた松平某も義元の前へ来て、「元康は大高の城に
おられますので、そこへお引き取りください」と申し上げ、庵原兄弟と松平某の三人が
供をして、大高を目指して退いて行った。
これを見て、島田左京、澤田長門守、岡崎十兵衛、上和田雲平、今井主馬、
平山十之丞、長瀬吉右衛門、平川左兵衛、福原主税らが馳せ来たり、同じく供をして
退いた。しかし、馬備えが散乱したため、馬に乗る手立てが無く、皆々歩行で従った。
義元は胸白の鎧に、金で八龍を打った五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着ていた。
また今川重代の2尺8寸の松倉卿(松倉郷)の太刀と、1尺8寸の左文字の脇差を
帯びて、5才の青毛の馬には金履輪の鞍を置き、紅の尻繋を掛けてお乗りになった
ので美しく、遠目にも「これこそ大将である」と思わぬ者はいなかった。
信長方は四方へ落ち行く者には目もかけず、「どこまでも逃がさぬ」と先を争って
追いかけた。そのため、島田左京や澤田長門守を始め12人の者たちはとって返して
戦うも、徒歩であるうえに戦いには疲れて皆々討死し、義元は一騎となられた。
そこへ服部小平太は一番に追い付き、言葉をかけて近寄った。義元も「心得た」と
馬を引き返しなさったところを、小平太は駆け寄って朱柄の長刀の槍で、義元の
弓手の脇腹をひどく突いた。
けれども、義元は聞こえた強将なので少しもひるまずに太刀を抜き、小平太の槍の柄を
切り折り、馬から下り立った。小平太が槍を捨てて組み合おうとすると、義元は抜き
放っていた太刀で払い切りになされ、太刀先が下って小平太の膝口を切り付けなさった。
小平太は少しも堪えられずに後ろに倒れたため、あわや討たれてしまうと見えた
ところに、毛利新助がすかさず横合から駆けて来て、むんずと義元と組み合った。
義元は初めに小平太が突いた槍で傷を負ったままで、最後には新助が組み勝って
義元を討ったということである。
――『明良洪範続編』
0778人間七七四年
2014/09/14(日) 02:38:03.48ID:Ilnqnsko0779人間七七四年
2014/09/14(日) 10:05:57.39ID:VFSr4d1f良く言われる、今川義元が馬に乗れないなんてどっから出て来たんだろな
0780人間七七四年
2014/09/14(日) 10:13:51.36ID:Wq8euVbd→輿に乗っているから馬に乗れない、と曲解される
0781人間七七四年
2014/09/14(日) 12:03:47.44ID:pXZRTHXC江口五兵衛道連(光清)は天文13(1544)年摂津の斯波頼宗の長男として生まれ初名を国時といい、後に姓を江口と改めた
永禄5年(1562)年18歳の頃、最上義光に仕え、33歳で戦功を立て、義光より「光」の一文字を賜り光清と名乗った
畑谷江口一族に伝わる江口道連の出自
0782人間七七四年
2014/09/14(日) 14:26:41.53ID:uXQtl1ar0783人間七七四年
2014/09/14(日) 16:59:05.95ID:K537axls0784人間七七四年
2014/09/14(日) 17:33:10.78ID:6hnLWb5p無知は黙ってろよwww
0785人間七七四年
2014/09/14(日) 22:49:54.26ID:TVrdJZQq0787人間七七四年
2014/09/15(月) 00:56:42.53ID:nOmT0qUw逸話(いつわ、英:anecdote)
世間や世人にあまり知られていない特定の人物や物事に纏わる興味深い話。エピソード。
あながち間違いでもない。
>>756
経歴がわかって一字を拝領した内容ではいい話とも。
0788人間七七四年
2014/09/15(月) 06:40:28.06ID:y4jijLvH徳川家康は久世広宣と坂部の両人に物見を仰せ付けた。
坂部は仰せを受けると直ぐ様物見へ向かったが、久世は出て行くまで御前を立ちかねるような様子が見えた。
これに近習の者達が笑ったのを、家康は咎めた。
この時、畠山入道(義春)が御側に居たが、彼が「久世の武者振りについて笑ったのですよ」
と申し上げると、家康は激怒した
「汝は知らぬのか!坂部は生来ああいう勇猛な性質だが、久世は仁義の勇を持った
忠臣であることを。彼を笑うのは推参至極である!
今に両人は帰ってくる。しかし、坂部より久世は敵の状況をより間近まで近づき偵察して
帰ってくるだろう。何故なら、久世は物事を大切に、前後を考え、また常に主君のためにと
決意しているからだ。それを知らぬか!?」
そう怒鳴っている所に坂部が戻ってきて家康に報告した。次に久世が戻ってきて報告を行った。
すると案の定、久世は坂部よりも二丁(約200メートル)ほど敵近くまで進んで偵察していた。
(明良洪範)
0789人間七七四年
2014/09/15(月) 07:35:08.21ID:r+QJpQHyほんとに摂津人なのかね
親父の名前でググると、別人かもしれんが山形での逸話があがってくるんじゃが
0790人間七七四年
2014/09/15(月) 08:32:09.39ID:nOmT0qUw光姫伝説の斯波頼宗は数代前の話だから、別人だと思われる。
江口氏の摂津出身の話は『畑谷城主・江口五兵衛光清四百回忌供養塔建建』記念誌が元か。
0791人間七七四年
2014/09/15(月) 17:08:46.71ID:irorfXj1土岐山城守組となった。
十八歳の時に辻忠兵衛の異見に「その方は器量骨柄は良いが武辺をする事
が出来ぬ生まれつきよ」と言われた。
十蔵は憤って「戦場に出たことはありませんから、出た時に事が成る成らぬ
は私自身にも判りません。それなのに他人に判る訳がないではないですか」
と答えた。
忠兵衛は「いやいやそういう事を言っているのではない。武辺を心がける
ものは命を惜しむものだ。その方の交友を見ると道具持ち或いは草履取り
などの類で、好む事と言えば博打や相撲。これでは大した事でも無いのに
命を軽く捨ててしまい、大事な戦いが来るまでに死んでしまうであろう。
惜しいことよ」と言った。
ここに至って十蔵は行跡を改めた。
(武功雑記)
石谷貞清、大坂の陣の前年に行跡を改めるという話
0792人間七七四年
2014/09/15(月) 18:09:04.05ID:AbwVZa6w昔の出典物だと斎藤義龍は6尺以上ある〜 とか
上杉謙信はどれくらいってあったけども
この姫は、この侍女の胸はでかかった、とかってないのかねえ?
0793人間七七四年
2014/09/15(月) 18:24:14.78ID:gs1hf/H30794人間七七四年
2014/09/15(月) 23:39:17.67ID:y4jijLvH進藤三左衛門正次と言う者ただ一人であった。
正次は秀家にこう申し上げた
「日頃、君が御身に付けられし鳥飼国次の脇差は衆人の知るところです。
これを私に賜れば、私は徳川殿の元に参りこれを謀りたいと考えています。
御身はこの地を逃れ、薩摩方に下ってください。」
そう勧めて、正次はその脇差を持って本多忠勝の陣へと参り、
「私は主人の秀家を手に掛けその市街を深く埋め、差料の鳥飼国次の脇差しを
持参しました。」
忠勝は「なにゆえ検使を受けずして、密かに死骸を埋めたのか?」と問うと、
「厚恩の主でありますから、例え我が手にかけるといえども、どうしてその首級を
的に渡し、梟木にかけることが出来るでしょうか?
この脇差は、秀家が常に愛して身から離さなかったことは、内府公(家康)にご存知のはずです。
これを御覧にお入れください。」
忠勝がこれを家康の御覧にれると
「たしかにこれは本物の秀家の脇差である。彼も秀家を害さなければ、よもや当家に降ることはないだろう。」
そう言って進藤正次を御家人に召抱えた。
しかしその頃の人々これに、「主人を害して己が功にするとは、後にはいかなる御誅伐に遭うか図りがたし。」と
囁き合った。
さて、秀家は虎口を逃れ、かろうじて薩摩へと逃れたが、後にそれが発覚し、薩摩へと仰せ言が下り
秀家は召喚された。そして進藤正次の前言との齟齬も究明された。
正次はこれに
「いかにも、はじめは秀家を逃すために偽りを申し上げました。主人のためにこの身を失うことは
元より期しております。この上はいかなる重罪にも処し給われ。」
この事家康も聴き
「己が一命を捨てて主人を救おうというのは、天晴忠義の者ではないか。」
そう賞賛して俸禄をそのまま与えた。
秀家が八丈島へと遠流された後も、正次は旧恩を忘れず、しばしば船舶の便に米金を送っているということも、
後にまた家康の耳に入り、御感に預かり五百石が加増された。
(武家閑談)
進藤三左衛門正次の節義
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8615.html
これの別パターンですね
0796人間七七四年
2014/09/16(火) 08:38:03.33ID:OWUdJ06Mいい話だけどパッと見ただけでも誤字が多すぎるね。
「市街」→「死骸」
「的に渡し」→「敵に渡し」
「御覧にれると」→「御覧に入れると」
今少し推敲希望
0797人間七七四年
2014/09/16(火) 10:40:34.89ID:9ccJHYrq0798人間七七四年
2014/09/16(火) 14:57:44.73ID:86qLHPKL(慶長5年9月14日に富山口を抜け長谷堂北方の山形盆地に進軍した直江兼続だったが
15日の楯岡光直と清水義親の夜襲を受けて、菅沢丘陵へと後退して陣を構えた)
其比(此)、長谷堂には志村伊豆守(志村光安)在城しける間
加勢として(鮭延秀綱の援軍)旗本百騎に小筒の足軽二百餘人籠りける
然るに九月十六日直江山城守(直江兼続)長谷城へ押寄、城十一町を隔て、菅澤山に陣をとれば
春日左衛門(春日元忠)は山の尾崎に備を立、既に春日は仰を窺、明日未明んり可責と也
然は城中の若者一々次第に打而出んとはやりける所に、伊豆守(光安)同加勢(秀綱)と申合壱人も柵より外へ、□(※耳の右側に卯の字)爾に出さず
悉静りかへつて居たりけるが、其夜伊豆守家来に大風右衛門佐、横尾勘解由を大将として兼而夜討に馴たる若者二百人撰び出し互いに相ことばを定め二手に分け
十六二の曉春日左衛門尉が備へたる陣中へ忍入す
こへま立ず、追伏々切ける間、思ひよらざる事なれば陣中上を下へと返しけり何れをかたき共味方共わけざれば同士討する事数多なり
去るに左衛門も馬に乗るべき隙さへなく漸く太刀斗追取て山城守陣中さして逃行ける
然る所に夜打の勢共は左衛門が陣を思ひの儘に打破り討捕し首共を百十五持来り
伊豆守実検に入ければ喜悦其限なく、夜討の大将は不及申其外のもの共に迄ほうびをえさせけり
其夜味方にも八人打死しけるとなり
0799人間七七四年
2014/09/16(火) 15:22:57.92ID:86qLHPKL(義光)「長谷堂の城へは最前より加勢を丈夫に遣し置といへ共いまだ心もとなき間
其方は急長谷堂へ行伊豆守合力後事の評定を致べし
かまへてかまへて日来申付ごとく城中の勢兵を壱人も柵より外不可出」
と有ければ
(秀綱)「畏て候」
とて手勢引くし長谷堂へ行、伊豆守に対面して御意の趣委申渡ける
然るに春日左衛門、十六日の敗軍口惜存、同十八日に先陣にて惣堀へ攻寄るといへども、城中には少もさはがず
四方の矢ぐらより鉄砲を一同あられのごとく打ければ時の間に多の死人出たりけり
寄手是を見て責めあぐんでや有けん、先手負共を助よとて本陣へ引返しける
然ば城の内にてはいよいよ悦就中はやりをの若もの共勝に来ていざや打て出追討なさんとていさみにいさんで打出んとせし所に伊豆守抑へ申けるは
(光安)「何とてかたかたは不入若げを働候哉
此城堅固にして数日送りなば必ず義光公後詰可有之間
其時内外よりもみ合戦候はば立所に勝利を得べし
然るに今卒爾に打て出付入などにせられてはあしかるべし
さて付入と申は昔よりも上杉家のえものとこそ聞及也
殊更義光公鮭延に被仰含候通城中の勢兵返々壱人成共柵より外へ不出可と
委細被仰越候所に卒爾成働共返々無用」
と申けれども若手の者聞も不入
0800人間七七四年
2014/09/16(火) 15:56:55.00ID:86qLHPKL上山、長谷堂とて同様に寄来るに上山にてはかたきを追払、分捕高名せし處に、此城なればとてなんぞ一戦もせざらんやは無念の次第なり」
と口々に申ける所節かたきの方には足軽共をあまた放し散らし作物を苅はこばしむるを越前守
(秀綱)「あれあれ御覧候へ苅田をなすとみへたり
さいわい若手者あまりにいくさ所望の上は我伴ひ出し一いくさすべき間引入候はん時あやうからぬ様に取計候へ」
とて既に打而出んとしけるを伊豆守申けるは
(光安)「かまへて足早に引き給ふべし何程かたき追たるとも返し合給ふ事合やめられて可然候
其後の事はともかくも我々に被任置候へ」
と申ければ越前守につこと打わらひ
(秀綱)「引入ての後は貴殿に預置候。唯今の合戦は随分とはげみ可申の間剛腕の程御見物候へ」
とて旗本組百騎許伴ひ大手の間を押ひらき、いさみにいさんで打て出
苅田をいたす足軽共を追立山際に備たる直江山城守が本陣へ切て入れば寄手も願ふ所の幸と入みだれ追つ返しつ一時程戦ひけるに
とかく味方の軍のつよきにや敵の物頭数多討取ける間、終にさぐり立られ後陣の勢へ逃入ける
味方の兵勝に乗て猶もつづひて入らんとしたりしを
越前守押留、日既に夕陽にかたぶけりとて軍兵る間
寄手是に利を得て更ば付入に乗とれとて手しげく追欠けれども
内々伊豆守と申合たる事なれば少もかまはず足早に引而入にけり
又寄手方よりも透間もなく追て乗入らんとしける所に
伊豆守兼てかく可有とおもひ足軽三百余人引具し大手の口より壱町程斗出し道を中にはさみ
弓手めてに備を立流かけたる事なれば
五間七間引離て三百丁の鉄砲を一度に放かけければ
先にすすむ兵共将□たをしをする如くやにわに三拾騎斗ばらばらと打たをす
後陣共に辟易して進み兼たる内に伊豆守足軽共を下知して手がろく引て入ける間
寄手も力およばずして本陣へ引返しけるなり
『義光物語』
0801人間七七四年
2014/09/16(火) 16:11:10.28ID:86qLHPKL0802人間七七四年
2014/09/16(火) 16:15:16.50ID:5XGUkI4Aとりあえず書きたくてしようがないって感じだ
0803人間七七四年
2014/09/16(火) 17:03:56.32ID:+YLeutM/0804人間七七四年
2014/09/16(火) 17:17:46.65ID:fKsLrd640805人間七七四年
2014/09/16(火) 19:22:42.80ID:dxgkw30U0806人間七七四年
2014/09/16(火) 19:25:22.63ID:W1MFzK9U0807人間七七四年
2014/09/16(火) 19:52:08.07ID:dspFTjQc0808人間七七四年
2014/09/16(火) 19:58:32.88ID:xirEvTHWコピペ指摘された結果、まとめには載らなかった
0809人間七七四年
2014/09/16(火) 22:53:30.84ID:bNwPi0Uw0810人間七七四年
2014/09/16(火) 22:57:37.35ID:KnyN6jA2ある時、松平陸奥守(伊達忠宗)が七尺の金屏風を二隻拵え、淡幽を招きこれに絵を望んだ。
探幽は「これには墨絵が然るべきです」と、この日は屏風を見ただけで帰り、翌日早朝に来て
墨を多く摺らせ、馬の沓を取り寄せ墨に浸し、これを金屏風へ幾つも押し、また大筆で筋を幾つも
引いた。
陸奥守はこの様子を見ていたが、「どうしていいか解らなくなって乱心したか」と言いながら
奥へと入っていってしまった。近習の者達は主人の機嫌が悪いことを淡幽に伝えたが、彼は
「書く時見物は無用です。書き終わってから御覧あるべし。」
そう答えつつ、小筆を取って書き添えると、馬の沓を押した所は蟹と成り、大筆で筋を引いた所は
葦となり、葦間の蟹の絵となった。
もう一隻には柳に燕を書いた。これも始めは墨をこぼしたように書き始めたが、書き終わってみれば
柳に燕となった。
二隻とも無類の屏風と成り、これに陸奥守は大いに喜び、厚く褒美を与えたという。
(明良洪範)
0811人間七七四年
2014/09/17(水) 01:47:26.45ID:nBvDAtiC⇒原文転載。
2>「読みづれえ。」「訳しろよ。」
⇒1に戻る。
おまえらただ最上厨を叩きたいだけだろ。
0812人間七七四年
2014/09/17(水) 03:13:24.56ID:eJbeg7S4お前もモガミンも極端しか無いのかね
0813人間七七四年
2014/09/17(水) 06:31:12.40ID:N9I6qb4L0814人間七七四年
2014/09/17(水) 10:40:27.32ID:TpX5kAqg0815人間七七四年
2014/09/17(水) 13:19:17.90ID:UkZhnkgw0816人間七七四年
2014/09/17(水) 14:12:41.22ID:3z3e6TIG0817人間七七四年
2014/09/17(水) 14:30:00.44ID:8qB5q3kh0818人間七七四年
2014/09/17(水) 16:49:31.77ID:QrV5H72j0819人間七七四年
2014/09/17(水) 20:20:12.45ID:9Masx/Is0820人間七七四年
2014/09/18(木) 15:35:33.40ID:nbKXQu3q0822人間七七四年
2014/09/18(木) 23:43:29.98ID:t9HAUqx3これを見て信玄は総人数を三島にまとめ、駿河に入り建築途中の城の普請を申し付けていた所、
北条も三島の北三十町ばかりに総勢をおろした。そこで北条は3万7千あまりの人数を50備あまりで
立て、武田は総勢2万3千で21の備を立て押し出した。
信玄は、馬場、山縣、小幡、真田、内藤、朝比奈駿河守、岡部次郎右衛門、原隼人、その他侍大将を
老若ともに引きつれ、合わせて百四、五十騎あまりを、味方総軍を5町ほど押し出しておいて
大物身を行った。そこで信玄は
「ここで必ず合戦を行い氏政を討ち、明後日には小田原へ入る。」と仰せ付けた。
しかし馬場はこれを聞き申し上げた
「敵、味方の防戦の地形をご存じなくては、それはいかがかと思います。」
「それについては皆、心やすく思うように。私の両眼の如き者を既に向かわせた。」
その場に居た上下・老若共に、信玄公の御両眼というのは誰人かと不審に思っていた所、
敵近くで物見をしてきた二名の者が帰ってきた。
それを見ると、曽根内匠(昌世)と真田喜兵衛(昌幸)の両名であった。
そこで信玄は地形について両名に尋ねると、「一段の場よしであります。」と申し上げた。
信玄はこれを聞き
「現在は八つ時(午後2時頃)であり、これから合戦を初めると、日が暮てしまい、北条家の者達にとって
おのれの国であるため、山の案内もよく知っている。彼らが夜に紛れて落ち行き、氏政を討ちのがして
しまう事にもなるだろうから、明日の卯の刻(午前6時頃)から合戦を行うべきだろう。」
そう言って、三島へと備を入れた。
しかしその夜、北条氏政は軍勢を、一人も残さず小田原へと引き上げさせた。
この時も信玄は、あらかじめ小田原勢に、夜に紛れて退散する色を見て取っており、なお以ってその様子かと、
曽根内匠、真田喜兵衛両人に自分の観察を教えた。
これより以来、曽根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門の三人にはこのような事が多く、
「あれなら当然弓矢巧者になるはずだ」と、諸人が羨んだのも理であろう。
(甲陽軍鑑)
甲陽軍鑑より「信玄の両眼」についての記述である。
要は弟子みたいなものなんですね。
0823人間七七四年
2014/09/19(金) 02:39:35.25ID:vfaynnTJ若手将校だね
0824人間七七四年
2014/09/19(金) 08:31:45.00ID:AgaFWwwC0825人間七七四年
2014/09/19(金) 09:04:32.06ID:sUxkV9mz甲陽軍鑑だからってのを置いといてもつっこみ所じゃなくね
0826人間七七四年
2014/09/19(金) 10:57:07.85ID:QQjhu4dG何言ってんのお前
0827人間七七四年
2014/09/19(金) 11:09:47.58ID:QonwU8PQ0830人間七七四年
2014/09/19(金) 12:05:28.13ID:sUxkV9mz0832人間七七四年
2014/09/19(金) 17:12:57.31ID:sUxkV9mz0833人間七七四年
2014/09/19(金) 17:16:50.12ID:FDoaW1L50834人間七七四年
2014/09/19(金) 17:29:43.23ID:Qhvf2k0O0835人間七七四年
2014/09/19(金) 21:00:27.58ID:7cJG68K8名前は統一したほうが読み手には分かりやすくていいじゃねえか
0836人間七七四年
2014/09/20(土) 05:21:41.29ID:5hFl6qT+だからそうだと言ってる
甲陽軍鑑に記してある、高坂弾正が書いたものをまとめた、のではなくね
基本的な知識もないなら黙ってた方がいいよ
0837人間七七四年
2014/09/20(土) 06:34:31.06ID:uiPh98o00838人間七七四年
2014/09/20(土) 09:03:55.06ID:BsnFwSVg0839人間七七四年
2014/09/20(土) 09:17:18.34ID:Gj3LEvmJ0842人間七七四年
2014/09/20(土) 16:33:14.11ID:IBikRN6F「人と付き合う時に、どれほど懇意な朋友のところへ行くとしても、
必ず礼義を正しくしなければならない。
しかしながら、あまりにも礼義にばかり心が片寄っては和親が薄くなる。
なので、入る時と出る時の始終を礼義正しくして、対座中はできるだけ
打ちくつろいで談話するとよい。
また、知己のところへ行くと、長座して夜が更けるのも気が付かない
ものである。そんな時は、その家の従者たちが迷惑してしまう。
それゆえ、夜に入ったならば、小便などに立って空を見るものである。
空を見る時は心が改まって、時刻などにも気が付くものだ」
と言った。
――『明良洪範』
0843人間七七四年
2014/09/20(土) 16:58:14.24ID:fqb2tt9nなんてことに気がつくくらいなら
0844人間七七四年
2014/09/20(土) 17:22:26.34ID:t+j5ymUu善い事したかも
0845人間七七四年
2014/09/20(土) 17:34:43.31ID:k6DcBn6N0846人間七七四年
2014/09/20(土) 18:34:24.44ID:JQrtcsQg0847人間七七四年
2014/09/20(土) 21:47:35.10ID:LJ4+hyCPその土地の一部を称名寺という寺に売却した際、代金の一部が未払いのままになった。
寺と武家のやり取りだから、借金の証文(のようなもの)が作られ、官兵衛側が保管していた。
その後、称名寺はちゃんと代金を支払った。
そうなると証文を寺に渡すのが決まりだが、どういうわけか官兵衛、
その証文をなくしてしまった。探したらしいが見つからなかったそうだ。
仕方なく官兵衛「この手紙を、本来そちらに渡す証文の代わりにして欲しい」と書いた手紙を
称名寺に送った。
-----その手紙が、今年の大河ドラマ特別展で展示されていた。
0848人間七七四年
2014/09/21(日) 17:33:03.35ID:Y7ZVFnF2そなたはとてもよくやってくれている。
ワシにはもうそなただけが頼りなんじゃ。
それはそうと、
福島正則と黒田長政が毛利の為に立ち回ってくれているようだが
こいつらはおべっか遣いも有るから頼りにはならないんだよ。
つうか、いまだ井伊直政に対面叶わずでお頼み入り出来てないみたいじゃん?
これはヤバいよ。
毛利家どうなっちゃうの?
とても心配だよ・・・。
(吉川家文書)
0849人間七七四年
2014/09/21(日) 19:09:40.25ID:xjz5QUXq0850人間七七四年
2014/09/21(日) 19:30:32.98ID:Lpg/YPD5ある時、伊達政宗より自筆の書状が届いた。その内容は、
『今朝そちらから遣わされた書状についてだが、宛名は私になっているが、その文面は、
他の人に遣わされるものであった。これは書いた者の誤りだと推察したので、この書状は
返信いたす。』
これを読んで忠勝は激怒し、家司を呼ぶとこの事を話し
「この書状を書いた者に切腹を申し付ける!」
そう大声で言いつけ、そのまま江戸城に登城した。
その後、家司衆は評議した上で、先ず祐筆頭である北条三四郎を呼び、今度の事態を聞かせ、
これを書いた者を糾明するようにと伝えた。
三四郎はこれを聞くと
「御存知の通り我々祐筆の者達は毎日数十通の書状を分担して書いています。ですので、伊達殿への書状を
誰が書いたのかは解りません。筆跡を引きあわせて、その上で判断したいと思います。」
そう申して退出した。この時、三四郎はこう思ったのだ
『今朝、主人である忠勝様が声高に切腹のことを言われたのは、深慮せねばならないことだ。
だいたい人を罰するのに、どうして声高に申し渡すのだ。』
そのようなことを考えつつ密かに忠勝の居間に入って見ると、政宗から返されてきた書状が
床の上にあった。「これか」と取って見たところ、紛れも無く同役の某の筆跡であった。
そこで三四郎は、すぐさまこの書状を引き破り、更に焼き捨てて、そのまま知らぬ顔をしていた。
程なく酒井忠勝が帰宅し、家司衆に「今朝申した書状の事はどうした」と尋ねた。
「その件についてですが。北条三四郎に尋ねた所、数十通を数人で書いているため、
誰の書いたものだとすぐには解りかね、そのため筆跡を引きあわせて書いた者を認定したい、
と申していました。」
「それは尤もの事である。ならば、あの書状をここに持ってくるように。」
そう命じたが、どれほど探しても書状は見つからなかった。そのことを申し上げると
「詮議があるのを知って紛失させたか!不埒者め。」と言ったが、この事はそれで相済んだ。
伊達政宗には、忠勝が自筆で返答をした。
「人の志も立て、また人命を失うこと無く事済んだのは、北条三四郎の仁義忠信の為す所である。
君臣合体とはああ言う事を言うのだ。」
これは酒井忠勝が死去した後、ある人が語った言葉である。
(明良洪範)
0853人間七七四年
2014/09/21(日) 20:53:21.16ID:dVF6Y+ZT親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる
0857人間七七四年
2014/09/22(月) 20:03:52.66ID:fLwZXY1g修理して居城とし、”大御所”と称した。
その頃、朱や玳瑁(タイマイ)の柄の槍は、殊更武功の有る者でなければ持ってはならないとの仰せがあった。
さて、この駿府城の修理を担当した諸大名の内、細川越中守忠興の持ち場に、皆朱の槍を持ち、菖蒲革の
立付を履いて、下使30人ばかりを召し連れて指揮する者があった。目付のものがこれを見咎め、
その名を問うたところ「細川家中、澤村大学なり!」と答えた。
その事が報告されると、家康は
「澤村…、ああ、その澤村は若き頃は才八と言った男だ。
あれは小牧の合戦の時だ。太閤は二重堀に砦を構え、数多の人数を籠め置いていた。
私が長久手の戦に撃ち勝ったので、太閤も二重堀の砦を保つことは出来ないと退こうとしたが、
もし私が小牧より追い打ちをかけてこないかと恐れ、自ら数万の兵を率いて青塚というところに備え、
二重堀の砦を明けて引き退いていたのを、織田信雄が追い打ちを仕掛け、彼は敗北してしまった。
この時信雄と戦ったのは、殿を担当していた細川越中であったが、その澤村が一番に、信雄の軍に対し
槍を合わせたのを、私は目の当たりに見及んだ。
あのような剛勇の者にこそ、皆朱・玳瑁の槍を持たせるために、並々の者には禁ずるべしと命じたのだ。」
この家康の言葉に、澤村大学は面目を施し、有り難さのあまり感泣したという。
(天元実記)
0858人間七七四年
2014/09/22(月) 20:12:30.03ID:oBCZtMrn0859人間七七四年
2014/09/22(月) 20:25:27.64ID:tcxUFePh権現様記憶違いという逸話は無いのだろうか?
0860人間七七四年
2014/09/22(月) 21:49:36.11ID:hER1rlWxhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6021.html
が既出だが、以下のようなものもある。
「細越中 いつ様 御報
猶々、貴様のかやうに御心入御座候ところは、我ら余の人の千度より忝なく候、以上
貴札拝見仕り候、新キ人ねん◇◇(不明)送り下され候、思し召しより御心さし浅からず候、
いまだにしかしかと御座なく候て、薬をたへ申し候。天キ故かしらいたく候て、ねてい申し候、恐々謹言、
(花押)」
(なおなお、あなた様のこのようなお心遣いは、私たち余人の千回よりもかたじけなく思います。
お手紙を拝見しました。新しい人ねん◇◇をお送り下さり、あなたのお思いになるより立派な贈り物です。
いまだに体調がしっかり致しませんで、薬を飲んでいます。天気ゆえか痛みがあり、寝ている次第です。)
(年次不明、真田家文書)
忠興、信之からの病気見舞いに対する礼状である。
(一行目は↑のタケノコの手紙の追伸と全く同じ文なので、その手紙の最後の一枚が
この手紙の一枚目と間違えられているのかもしれないが、原典のままとした)
0861人間七七四年
2014/09/22(月) 22:15:54.99ID:mld1qJgw0862人間七七四年
2014/09/22(月) 23:09:04.45ID:R+fUIXZj後半部分のみならこうらしい
羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候
0863人間七七四年
2014/09/23(火) 13:41:49.60ID:R4jIaMgzすぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか
0864人間七七四年
2014/09/23(火) 23:02:58.58ID:S8utVFQP浅野長晟にお命じになった。加藤家は森本儀太夫(一久)が奉行を行った。
さて、この付近一円は沼だったので、石垣の土台を固める時に森本は指図して
人夫を大勢出し、武蔵野の萱をおびただしく刈り取らせ、それを沼に入れた。
そして、10歳から13,4歳までの子供を集めて、その沼の上で遊ばせた。
子供たちは面白く思って踊り狂った。そうして日を送るうちに、浅野家方では
石垣が大方出来上がった。諸人は皆、森本の指図の埒が明かぬのを笑っていた。
森本は諸人の嘲笑には全く構わず、前述の沼がよく固まったのを見て石垣の
築き立てにかかったので、浅野家方よりはかなり遅れて出来上がった。
ところがある日、大雨が降り、この時に浅野家方が築き立てた石垣は、
土台がよく固まっていないので所々崩れ、再び築き直した。一方で、
加藤家方が築き立てた石垣は、よく固まっていたので少しも崩れなかった。
これを見て諸人は、森本の指図に感心した。浅野長晟はこれを聞いて森本を
招き、そのやり方を問うた。森本は答えて、
「沼などを固めるには、急に固めては完全にはならない。そこで萱を踏み込み、
童子らに踊り狂わせて、自然と固めたのである」
と言った。後世に至っても、沼などを埋めるには、この森本の工夫を用いる
ということである。この森本は加藤家において中老であった。かつ、武勇の
聞こえある良士である。
――『明良洪範』
0865人間七七四年
2014/09/23(火) 23:16:38.11ID:BlCXq4j60866人間七七四年
2014/09/23(火) 23:31:50.04ID:4z+jW3CR0867人間七七四年
2014/09/24(水) 02:25:32.15ID:msEfpLVX0868人間七七四年
2014/09/24(水) 08:56:00.63ID:V1jcRmr60869人間七七四年
2014/09/24(水) 09:13:46.39ID:eBqypMLF0870人間七七四年
2014/09/24(水) 13:54:10.30ID:FJwfTTB00872人間七七四年
2014/09/24(水) 21:34:46.67ID:lB0y2ti4丸亀城の石垣を作った羽坂登(重)三郎は石垣の出来を褒められた際にその攻略法を披露したら生駒親正に井戸に埋められました。
0873人間七七四年
2014/09/25(木) 00:35:57.51ID:sF5YtMXUそれにさえ教えを請わせるような人間がいる加藤家って恐ろしいな
0874人間七七四年
2014/09/25(木) 02:48:25.51ID:HBI3MB18その頃土井大炊頭利勝は未だ家康のお側近くに使えており、家康より「今度の事で頼宣邸に先に向かい、
頼宣の家老・安藤帯刀直次が準備を指揮する様子を見学するように。」と仰せ付けられ、利勝は
毎日出向しその様子を見た。
ところが頼宣邸では、諸役人が帯刀の前に出て「この事はどうしましょうか?」と議する時、
帯刀が自分の意に適うことはそのまま了承し、そうでない事には「いや、それは良くない」とだけ
言って、内容について何の指示もしなかった。よってその者は同僚と重ねて相談し合った上で再び
帯刀の前に出てこれを伺うが、また意に適わない内容であれば幾度も前のようにし、終に納得すると
これを許諾した。
利勝は帯刀にこのように感想を漏らした
「私が思うに、物を問われたのに『良くない』とばかり言うよりも、直に『このようにせよ』と指揮したほうが
物事も早く終わるのではないでしょうか?」
帯刀これを聞いて
「私は犬馬の歳もすでに長けて、後はもう死ぬだけです。あのように諸役人を遇するのは、
まだ若き殿に、人物を作っておいて進ぜたいためなのです。
私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
良き人物は出来ないものです。」
利勝はこの言葉に大いに感じ入り、「これが家康公が見習えと仰せになったことなのだ。」と気付いた。
そして後々機務を司るようになると、下僚より質問があった時、我が意に敵わない時は
「それはそうかもしれないけど、他に何かやり方がないかな?同僚と相談してもう一度言いに来て。
同僚と話し合いできないのなら、親族か家臣とも相談してみなさい。」
そうしていよいよ議論を重ねて、理にかなう内容になれば
「いかにも尤もである。その通りに行うように。」と言ったという。
(古諺記)
0875人間七七四年
2014/09/25(木) 11:42:59.89ID:ZTk2Q6/Aまたいい話だなと思う
0876人間七七四年
2014/09/26(金) 22:05:15.59ID:PSfpCP45>私の指示を受けてさえいれば済むと思ってしまえば、人々は何事も思慮を用いず、万事未熟のままで、
ジャン・リュック・ピカード大佐の組織論かよ
0877人間七七四年
2014/09/26(金) 23:02:02.17ID:CNduRI7D0878人間七七四年
2014/09/27(土) 06:40:25.20ID:3WTG5zYD放浪時代の事って成り上がってからほとんど口にしてないんだっけ
あの自慢したがりのラスボスが口にしないって相当悲惨だったんだろうな
0879人間七七四年
2014/09/27(土) 09:16:12.06ID:5yzCdqTL0880人間七七四年
2014/09/27(土) 09:58:43.90ID:vx3j+Dpeだとしたら元春は似合いそうだけど隆元や隆景はちょっとイメージ変わるかも
0881人間七七四年
2014/09/27(土) 10:04:11.55ID:iuSKcHDU毛利の場合は、関ヶ原後転封した山口県の萩の言葉が、毛利家中の方言を相当保存していると言われてる
0882人間七七四年
2014/09/27(土) 10:37:10.13ID:iPkEM/Cw三河弁が標準語になったって話もあったな
0883人間七七四年
2014/09/27(土) 11:22:10.23ID:lnIqKtBo0884人間七七四年
2014/09/27(土) 11:25:02.03ID:Hb3z/6K1少数派の武士言葉こそ原住民の言葉に飲み込まれると思った
0885人間七七四年
2014/09/27(土) 11:28:55.94ID:sOhf8o4p0886人間七七四年
2014/09/27(土) 11:58:07.16ID:vMOSrvkX0887人間七七四年
2014/09/27(土) 12:10:50.52ID:mt4VDkHo0888人間七七四年
2014/09/27(土) 12:56:19.30ID:JK9ARCPT下級武士で庶民の間で生活してれば影響受けるだろうけど。
勝海舟とか。
0889人間七七四年
2014/09/27(土) 15:14:06.39ID:Boe3dW1q0890人間七七四年
2014/09/27(土) 17:03:51.55ID:AmO+dV8k0891人間七七四年
2014/09/27(土) 17:11:04.61ID:30VWer0Q0892人間七七四年
2014/09/27(土) 18:11:03.84ID:JK9ARCPT征服者の言葉と、現地語が混ざった感じ
0893人間七七四年
2014/09/27(土) 21:05:50.91ID:2IBCdfLj0894人間七七四年
2014/09/27(土) 21:36:32.87ID:wtFgQfDw0895人間七七四年
2014/09/28(日) 08:19:17.43ID:/FZtx0c9「先祖が善かったか悪かったのかは子孫の行い如何で決まる」
(先祖の善悪は子孫の請取手次第)
と仰せになられた。
先祖の悪事は外に出さぬよう、善事を成した者の子孫のはずだと思われるようありたいものだ。
これが孝行である 【葉隠】
0898人間七七四年
2014/09/28(日) 21:35:54.60ID:X+E/DPQ/0899人間七七四年
2014/09/28(日) 22:44:51.19ID:Yrm7osCw0900人間七七四年
2014/09/28(日) 23:01:04.84ID:Fkn7+NjH眞房州様 白以
貴札快然の至りに候、然る処久しく御意を得ず、御床しさにて候、御茶法御手前相極め候哉、
拙者式漸く相済み候条、御隙に於いては一夕おぼしめし□□(不明)候はば、本望たるべく候、
積欝御事、面上を以て申し承るべく候間、書中具にせず候、恐々謹言、
十二月九日 (花押)
(お手紙をいただき快然の至りです。このところ長い間お会いせず、お懐かしい気持ちです。
お茶の作法、お手前を極められたのでしょうか。私の用事はようやく済みましたから、
お暇な時には一晩思し召して□□くだされば本望です。
御心配のことはお会いして承りますので、手紙では詳しく書きません。)
眞房州様 白以
明朝、成らるべき旨忝く存じ候、尤も参を以て御礼申し入るべく候へども、
却って御六ヶ敷(むつかしく)思し召さるべくと其の儀なく候、常之御食時分に御出で成らるべく候、
何さま是より御左右申し入るべく候、恐々謹言、
十一月朔日 (花押)
(明朝、お出でになる旨嬉しく思います。もっともこちらが伺ってお礼を言うべきなのですが、
かえってわずらわしく思し召すと思いそれは致しません。いつものお食事時にお出でください。
いずれにせよこれよりこのお知らせを(注:家の者に?)伝えるつもりです。)
舅同士けっこう交流していたようだ。
0901人間七七四年
2014/09/29(月) 01:02:59.02ID:ex4PbjiF0902人間七七四年
2014/09/29(月) 01:09:09.07ID:24dHlvKC手紙は史料としての価値は高いけどこれが困る、後々の人の為にもっと詳しく書いて。
0903人間七七四年
2014/09/29(月) 01:13:09.64ID:RWi86YPV0904人間七七四年
2014/09/29(月) 01:18:44.02ID:vH8Rg91z0905人間七七四年
2014/09/29(月) 01:19:38.65ID:hxlk00UX0906人間七七四年
2014/09/29(月) 02:24:59.53ID:dJvQXJbK93歳じゃ天寿を全うしたとは言えん
0907人間七七四年
2014/09/29(月) 05:15:53.01ID:hwXjMjDR徳川に抗った親を持つと短命で死んでしまうんだな
0908人間七七四年
2014/09/29(月) 08:09:37.05ID:ttFKPJD9蜂須賀 茂韶「………」
0909人間七七四年
2014/09/29(月) 09:22:14.59ID:QZ0oP+xjhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3819.html
どっかで見たと思ったら一応は既出だったか
まあ何年も続いてるからネタも出そろってるよなあ
0910人間七七四年
2014/09/29(月) 15:32:39.08ID:DQjemt6O0911人間七七四年
2014/09/29(月) 20:45:27.62ID:1BBydUsO武田信玄公は国法・軍法を、このよう物に例えられた。
「御大将とは大工であると考えるべきである。その下の侍大将、足軽大将、および一切の物頭は
くさび・釘である。彼らは大将の命令を伝える。
出頭衆、あるいは大将の言葉を承って御使に走りめぐる衆は、才槌、金鎚である。
諸奉行は鉋、ノミ、鋸、錐である。
御目付、横目の二十人衆、御中間頭は、京砥、上野砥のごときものである。道具の刃物が切れなくなれば、
砥石を以って刃を研ぐ。
さてまた、総人数は材木である。備は家である。
そうして、よき御大将の分別というのは、番匠箱より思案、工夫という名の壺金を取り出し、
古今に栄え、あるいは衰えた家の軍立の例に引きあわせて自軍の備を見て、材木が腐った家の柱を抜き替え、
また新しい柱であっても、やがて折れるであろう所は、使わずに火にくべるように、
随分と思慮して全体を見ることが必要なのである。」
(甲陽軍鑑)
0912人間七七四年
2014/09/29(月) 22:29:02.73ID:+SrwTmVi0913人間七七四年
2014/09/29(月) 22:34:21.26ID:JPew2WhF0914人間七七四年
2014/09/29(月) 23:35:38.70ID:DQjemt6O情けは味方 仇は敵の方が短くてわかりやすいな
0915人間七七四年
2014/09/29(月) 23:43:17.71ID:BYTve94f0917人間七七四年
2014/10/01(水) 01:07:41.85ID:DQrcN7M6ということで厳しく吟味された。そんな折に博奕の訴人が出たので、同心たちを
差し遣わし、60人を召し捕らえた。
その中に50歳ほどの坊主が1人いた。弾正はその者に向かって「其の方は頭を
丸めた身であるから、とりわけ不届きである。もともとは医者か? 出家か?
何者なのだ」と、尋ねた。坊主が言うには、
「私の親は、武州忍の城主・成田殿のもとで、連歌の執筆を勤めていました。
そんな折に成田殿の身の上は果てられ、その後、親も浪人のまま相果てました。
それ故、私は浪人となりまして、渡世のやりようがないので、博奕仲間へ入り、
灯心を?き出し、湯茶を持ち運ぶのを役目に致して食事を貰い、世を送りました。
博奕というものを、どのように行うのかは存じません」
とのことだった。そこで、博奕仲間たちに尋ねると、坊主の言う通りだった。
弾正は坊主に「其の方は連歌師の子か。確かならば、そこで一句仕りなさい」
と言った。坊主は「朝霜や まだ解けやらぬ 縄手道」と詠んだ。
弾正はこれを聞き、この句に応じて縄を解いて許し、「これからは博奕の座での
交わりを止めて、食物なくば町年寄たちのところへ回って、何なりと貰うように
しなさい」と、申し渡した。それ故、坊主は彼方此方と徘徊し、心安く渡世した
ということである。
――『責而者草(君臣言行録)』
0919人間七七四年
2014/10/01(水) 11:41:59.76ID:c6gbH1Y10920人間七七四年
2014/10/01(水) 11:48:22.38ID:bRhnWkEj0921人間七七四年
2014/10/01(水) 12:58:48.12ID:7JEovelS香川方景の代から安芸武田家に仕え始めた。
方景の曾孫にあたる香川光景という者がいた。
彼が安芸香川家の当主として君臨していたころ、安芸武田家の重臣である熊谷家が離反し滅亡へまっしぐら、家中は分裂状態であった。
そんな中、武勇優れていた武田光和(何故か蒼天録では政治20統率12知略9)が病死してしまった。(光和死亡年は1535年とも1540年とも)
ここにきて香川光景は品川家と対立し、完全に安芸武田家は分裂してしまう。
光景は安芸国内を駆けずり回り、奇跡的に光和の庶子(三男)・小三郎(のちの武田宗慶)を見つけだし、毛利元就に助力を乞い、安芸武田家の復興を目論んだ。
光景は結局これ以降子と共に毛利家に仕えることになり、安芸武田家の復興もできなかった。
しかしながら、武田宗慶は元就によく仕え、その子孫は周防武田家となり今日東広島市と呉市に学校を経営している。
滅亡してしまった仕えた家を後世まで命脈を伝えさせた忠臣のいい話。
と、話はこれだけで終わると思っただろうが、ここで俺は1つ驚きの事実を発見した。
香川光景が国司元相・平賀元相の99歳コンビより長く生きた可能性が出てきたからだ。
光景の次男・春継は1545年生まれ。
弟ともされている勝雄は1515年生まれ。
光景自身は1605年に没したとされている。
彼の生年がわかる史料が見つかればもしかすると新たなる100歳超武将と判明するかもしれない。
たとえ80代・90代と判明しようが、十分長寿だけどね。
宗慶は玖珂町誌より一部抜粋。
0922人間七七四年
2014/10/01(水) 13:04:37.28ID:7JEovelS経景承久の乱勲功1180〜1190生?
景光 1210? 弟景則子孫讃岐香川家
安景 なし?
清景(景信?) なし?
行景 なし?
景光 なし?
遠景 1240
景春南北朝 1280 兄行景あり
景信足利尊氏仕 1320
師景今川貞世属1391明徳の乱 1370?
方景応仁の乱時当主 1420?若くても1440生 かの播磨屋では二代欠落と見ている
吉景 1450〜1460生?
元景兄行景1517戦死 1480?
光景?-1605 1505?蒼天録1502生 武田元繁・光和・信実、毛利家仕 伝弟勝雄(学雄と同一人物か)1515生
広景弟春継1545生 毛利家仕
安景〜景光の4代は略されて無い場合あり
0923人間七七四年
2014/10/01(水) 19:51:55.33ID:9IR4zcwCやっぱり真田のお兄ちゃんは短命だったんやな(白目)
0924人間七七四年
2014/10/01(水) 19:55:33.11ID:qgXSRqJk0925人間七七四年
2014/10/01(水) 20:48:53.33ID:qh3k8BE1人を変え、話を変え色々あるけどこれには異論もあるようだ。
本多正純と石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由、本多正純に仕へし老兵のいひたりと語る人あり。
是れ正説なるに於ては、石田と対談の説に偽なるにや。(関原軍記大成)
黒田が小袖かけてやったのも、藤堂がアドバイス求めたのも嘘だけど
正則君が罵倒したという話も嘘なんだよ!正則君は本当はいい子なんだよ!!!
という話
0926人間七七四年
2014/10/02(木) 00:08:44.04ID:dysr96r5龍造寺家兼
1454年〜1546
真田信之
1566 〜 1658
国司元相
1492年〜1592
北条幻庵
1493〜1589
成沢道忠
1505?〜1624?
松平忠輝
1592〜1683
滝川益氏
1527〜1635
石田重家
1583〜1686
三好政勝
1536〜1632
南光坊天海
1536?〜1643
木幡高清
1537〜1642
上条政繁
1545〜1643?
没年については1625年説もあり
大島光義
1508〜1604
多羅尾光俊
1514〜1609
須田盛秀
1530〜1625
立石正賀
1565〜1659
竹内久盛
1503〜1595
順不同でだいたいこんな感じ?
0928人間七七四年
2014/10/02(木) 15:46:02.87ID:qWEqMJ6G0929人間七七四年
2014/10/02(木) 16:05:06.77ID:bp8VYrNr何歳以上?90歳異常なら放牛さんも入れてあげて
0930人間七七四年
2014/10/02(木) 16:15:33.86ID:dysr96r5おまけ
島津義弘
1535〜1619
一栗放牛
1500〜1591
鬼庭綱元
1549〜1640
大道寺直英
1552〜1642
山田有栄
1578〜1668
有志の方、追加補填をお願いします
0931人間七七四年
2014/10/02(木) 16:15:58.69ID:aa7IVZBs0933人間七七四年
2014/10/02(木) 16:18:50.94ID:aa7IVZBs0934人間七七四年
2014/10/02(木) 16:31:18.24ID:EXrCN5+J0935人間七七四年
2014/10/02(木) 16:45:36.09ID:aa7IVZBs何かとネタにされる一条兼定。
そんな兼定にも歴史に残す人物に仕える娘がいた。
崇源院(江)に仕える按察使局であった。残念ながら正式な名前は不詳である。
一条兼定を父にもち、宇都宮豊綱の娘を母にもった女性である。
彼女は1603年に千姫の婚礼の際に上洛した崇源院に仕えた。
何故彼女がそんなところにいるのかと言うと、関ヶ原の戦いによる長宗我部氏による没落で甥・政親と共に京都あるいは大和国に随伴したためであった。
その後家光・家綱と仕えたという。
そして1669年に死去したとされる。
wikiでは『彼女が生まれた数年後に両親は離縁している。』としていながらも1565年生まれとしている。
しかし、上の一文が正しいのであれば生年が間違いとなる。何故なら両親が離婚したのは1564年である。
つまり、彼女が生まれたのは実際よりもその前となる。
元来同腹の兄とされている内政が1562年(1557年説あり)なのでもしかすると内政が同腹の弟となる可能性もある。
ま、もしかしたら1561年生まれとなる可能性もあるんだけどね。
でもよくよく考えたら仮に本当だったら化け物じゃね?
0936人間七七四年
2014/10/02(木) 16:49:23.55ID:aa7IVZBsなんかおかしいと思ったけど朝倉宗滴は79歳
>>934
これだね
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166436284/
0937人間七七四年
2014/10/02(木) 16:50:19.86ID:bp8VYrNr0940人間七七四年
2014/10/02(木) 23:04:32.22ID:IjPnu16sしたと聞けば、にわかに様子が変わり、しばらくの間は言葉も発さず、
人によっては涙を落として、そのまま奥に入ることもあった。
このように人々を手足のように思っていたため、下の下に至るまで、
その情け深い心に、慣れ親しまぬ者はいなかったのである。
――『徳川実紀(名将名言記)』
0941人間七七四年
2014/10/02(木) 23:13:01.39ID:t81y990Iトクホン先生は?
1513年-1630年ってギネス記録並み…
>>933
志道広良兄さん応仁の乱生まれかぁ
0943人間七七四年
2014/10/03(金) 21:59:23.08ID:Y3CfXWJHまとめ見たら以外にもまだ出てないようだったので投下、もしも既出だったらす万谷。
1539年(天文8年)11月、尼子晴久は祖父・経久や一族衆らの反対を押し切り、毛利元就の
居城である吉田郡山城攻めを決意、翌1540年(天文9年)8月、尼子晴久は自ら3万の兵を
率いて月山富田城を出陣し、毛利家の吉田郡山城を包囲した。城に籠る毛利勢は近隣住民
も城に入り、総勢はおよそ8千。
尼子勢は城下に度々付け火したりして毛利方を城から誘い出そうとしたが毛利方は兵も民
も誘いに乗らず、逆に尼子勢を時には奇襲し、時には地の利を活かして戦い、寄せ手の尼
子勢に一歩も譲らぬ姿勢を見せた。
そうこうしている内に同年十二月初めには毛利元就からの支援要請を受けた多々良(大内)
義隆から派遣された陶隆房・杉重政・内藤興盛を大将とする兵2万が到着。
これを受け尼子勢は将兵共に士気が下がり、毛利勢は大いに息を吹き返した。とは時節柄
寒さ風雪も強く、両軍ともに決戦に至ることなく年明けを迎えることとなる。
そして翌1541(天文9年)年1月12日、毛利元就から援軍の3大将に手紙が届く。
元就「翌13日に、宮崎に陣取る高尾豊前守・黒正甚兵衛・吉川治部少輔(興経)の陣を私の
愚息に命じて切り崩させます。敵に背後に回られては大事となりますので城近くへ兵を出
していただき、備えを堅めて尼子勢を防いでください。」
これを受けた山口の3大将はこれを承諾。元就は更に3将の使いと綿密に打ち合わせをし
て城へ戻った。
さて、翌13日卯の刻(午前6時)のことである。城内の兵3000余騎が堀の際まで打って出
た。元就はこの日、鎧を着ずに小袖を着て床几に腰かけ敵軍を見まわしていた。
そこに一人の少年が駆け寄ってきた。名を少輔次郎元春、後の吉川元春。当年12歳の少年
であった。
0944人間七七四年
2014/10/03(金) 22:00:21.70ID:Y3CfXWJHがお許しのないまま、むなしく控えておりました。今日は、ぜひともにお許しをこうむり、
お供いたしましょう。」
元就「先々にも言い聞かせてきたとおり、お前はまだ若輩だ。まずこのたびは留まってお
かれ。かさねて合戦のときには、必ず相具してやろうぞ。」
元春「弓矢取る身の幼いからとて、敵に向かわぬことがございましょうか。是非にお供い
たします。」
引かぬ元春に、元就は井上河内守に「少輔次郎を連れて帰れ」と命じるも、元春は大いに
腹を立て
元春「いやいや大人にも劣るまいものを、何という情けない仰せごとか」
元春は世にも恨めしげに元就を見やり、涙をはらはらと流した。これを見た井上河内守は
井上「少輔次郎殿は獅子翻睨の眼を具し、龍駒千里の威を抱いておられる。さすが元就さ
まのご子息よ。ご成長なされたならば、天下一の大剛将になられよう。さ、帰りますぞ」
と、大いに感じ入った後城内へ連れ戻そうとしたが、
元春「お前はわたしをやるまいとするのか!」
と言って、太刀を抜いたので、そののちはあえて留める者もいなかった。
元春は士卒を引き連れて、父元就に追いつき
元春「このうえは是非共にお許しをこうむり、お供いたします。」
と言った。
元就「お前はまだ幼いくせに大不敵者だ!」
と言いながらも、いかにも嬉しげに元春を見て「ここまで来たのなら、もはや連れてゆこう」
と、元春の初陣を許した。
陰徳太平記、文の大半は原本現代訳より
0945人間七七四年
2014/10/03(金) 22:30:33.23ID:OMHXnWeX何故か原哲夫の影武者徳川家康に出た秀忠で脳内再生されました。
0946人間七七四年
2014/10/03(金) 23:04:39.34ID:vJn9PIXE以外 と 意外 の意味を理解してくれ
確立 と 確率 (2日前のミヤネ屋で間違い犯していた)もそうだけど、誤字に気づかないのが一番いけん
0947人間七七四年
2014/10/03(金) 23:40:04.19ID:u5DFSmdZなんか本多鍋之助の初陣を巡り元康に拒否られたのを彷彿とさせるな
鍋之助は確か10歳で拒否られたんだったか
0948人間七七四年
2014/10/04(土) 02:20:15.27ID:wVFWqpyV0949人間七七四年
2014/10/04(土) 02:54:22.06ID:ScUw/5Wg0950人間七七四年
2014/10/04(土) 05:27:29.53ID:hAuizxNR0951人間七七四年
2014/10/04(土) 05:30:23.75ID:HTzv0KqU0952人間七七四年
2014/10/04(土) 05:30:24.08ID:gRntBikn( ・`ω・´)ごメンチ
0953人間七七四年
2014/10/04(土) 06:26:36.88ID:jUng1tzSとは時節柄→とはいえ時節柄
ですな、誤字脱字申し訳ない
0954人間七七四年
2014/10/04(土) 07:50:52.01ID:J6TRUjIoあだ名が泥人形だったらしいじゃん
そんな逸話も出せない無知くん
ボンクラとはおまいらのことだったか
0955人間七七四年
2014/10/04(土) 08:03:25.01ID:mYD4KyOVお前原文も知らないでいってるだろ…
いいか、「常山紀談」(これも後世の編纂で史実かどうかはそうとう問題のあるものだが)では
『台徳院(秀忠)様は殊に礼儀正しくおはせまし、仮にも疾言おはしまさず、事無き時は泥塑人のごとくになんと人申せし』
って、つまり謹厳実直なことを褒めているんだよ。ヒストリアもこの原文を知らず使ってる。アホにもほどがある。
0956人間七七四年
2014/10/04(土) 08:43:53.53ID:Z4kkFus90958人間七七四年
2014/10/04(土) 09:55:08.14ID:jUng1tzS0959人間七七四年
2014/10/04(土) 10:01:13.51ID:LyDtsN/G当主がアホなら家臣が支えればよい
当主がアホだから滅ぶなんてのはゲーム脳の戯言だろ
0960人間七七四年
2014/10/04(土) 10:08:45.56ID:QS1dqOoO0961人間七七四年
2014/10/04(土) 10:12:27.51ID:jUng1tzS豊臣家、足利家は何で滅んだの?
足利家は主に部下の政争からってのも有るとは思うんだけど。
古くは源頼朝の直系も間接的には部下に滅ぼされてるよね?
主君がダメで家臣が優れてたら逆に滅ぼされたり乗っ取られたり傀儡になる場合も有るじゃん。
0962人間七七四年
2014/10/04(土) 10:51:39.42ID:lh91U3Xjその辺りの人柄というか人間性がすごい
0966人間七七四年
2014/10/04(土) 11:19:17.47ID:mYD4KyOV0967人間七七四年
2014/10/04(土) 11:56:56.56ID:/AhpAQrH0968人間七七四年
2014/10/04(土) 12:47:25.17ID:jBsEUPRJ0970人間七七四年
2014/10/04(土) 13:25:51.63ID:4VxmGwPb0971人間七七四年
2014/10/04(土) 13:40:01.58ID:8tISLr/aいのちがないぞ
一、じえんをするものは
ひあぶりにするぞ
一、まもらぬものは
さくざがしかる
0972人間七七四年
2014/10/04(土) 13:40:10.34ID:ub8+UgmH正しくは叱るだよ
もう一度パパの精子からやり直したほうがイイぞっと
0973人間七七四年
2014/10/04(土) 15:24:59.72ID:Pq5QPfOX0974人間七七四年
2014/10/04(土) 16:10:36.95ID:Jd3q2Of8ダチョウ倶楽部のギャグを入れてみました!
https://store.line.me/stickershop/product/1021718/ja
0975人間七七四年
2014/10/04(土) 19:50:49.38ID:mYD4KyOV懐石も上手であり、軽い料理を出しても、その風味、至極宜しきものであった。
諸人は片桐を真似て料理してみたが、その風味は片桐の作ったものにはなかなか及ばなかった。
そこである人が片桐に、料理の仕方を問うた。これに片桐は答えて
「料理は、軽い料理で風味を良くしようと思うのであれば、まず重き料理をこしらえて、
その重い内から出た軽き物は風味の良いものとなるのです。最初から軽くこしらえては
粗末になって客には出されません。」
またある時、人が片桐の煙草盆の火入れを見て、驚いて言った
「これは唐物ではありませんか。火入れにするには惜しい品です。香炉に用いるのが然るべきでしょう」
片桐これを聞くと
「茶道の趣とはこう云う所に有るのです。この器を火入れに用いればこそ、人に賞せられますが、
香炉に用いてしまえば下の香炉に過ぎません。上の火入れを捨てて下の香炉に用いるというのは、
道具を殺して使うと言うものです。
これは器物に限りません。何であっても、其の物を生かして使うことが肝要なのです。
人を使うにも、用いる人の上手下手によって、愚者も役に立ち、賢者も役に立たなくなる。
万事、火入れと香炉の道理ですよ。」
(明良洪範)
片桐且元の甥で高名な茶人である片桐貞昌の逸話である。
0976人間七七四年
2014/10/04(土) 23:33:28.11ID:4DZJyx0Gまあ実際ボンクラだ
そのうえ性格も卑劣
福島改易はひくわ、ゴミみたいな人格だな
0977人間七七四年
2014/10/04(土) 23:36:46.88ID:Sk+0Pnxo0978人間七七四年
2014/10/04(土) 23:46:55.37ID:Z4kkFus90979人間七七四年
2014/10/04(土) 23:53:59.92ID:nRHJJXZG0980人間七七四年
2014/10/05(日) 13:54:12.86ID:JJqttOio0981人間七七四年
2014/10/05(日) 15:23:44.54ID:xmGmPMP80982人間七七四年
2014/10/05(日) 16:02:37.38ID:Lel3tiah0983人間七七四年
2014/10/05(日) 16:42:37.16ID:bQTaFeU90984人間七七四年
2014/10/05(日) 16:54:48.82ID:B7GIOVjR0985人間七七四年
2014/10/05(日) 17:44:06.52ID:/PTzF16E0986人間七七四年
2014/10/05(日) 18:48:58.92ID:AwpGI/pu0987人間七七四年
2014/10/05(日) 19:39:29.34ID:h1wi5YgA_
( ゚∀゚)x"⌒''ヽ、
(| ...:: Y-.、
| イ、 ! :ヽ
U U `ー=i;;::.. .:ト、
ゝ;;::ヽ :`i
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ゞヽ、ゝヽ、_/:: /
`ヾミ :: :. ゙ _/
`ー--‐''゙~
秀 忠 の 豪 腕
0989人間七七四年
2014/10/05(日) 20:03:21.08ID:j7yQzTj7ムカついたけど大名を殴る権力が無い、敵を殴りたいけど殴る敵が無い、そんなときに!
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)に/こ( 施工例)吊り天井を仕掛けた嫌疑をかけて改易
無届で石垣を修復したと文句を言って改易、鐘の碑文がry
0990人間七七四年
2014/10/05(日) 20:13:26.97ID:bQTaFeU9ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6247.html
この逸話の秀忠なら、そんな腕かも知れん
0991人間七七四年
2014/10/05(日) 20:59:24.77ID:hIW/24Dj0992人間七七四年
2014/10/05(日) 21:02:07.90ID:hIW/24Dj↓スレタイ
戦国ちょっといい話41
↓テンプレ
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話40
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1400545233/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話40
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1408672111/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0994人間七七四年
2014/10/05(日) 21:59:15.76ID:bQTaFeU9新スレ
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1412513898/
0997人間七七四年
2014/10/05(日) 23:30:13.59ID:h1wi5YgA0998人間七七四年
2014/10/05(日) 23:40:34.13ID:ujSfx6lk0999人間七七四年
2014/10/05(日) 23:51:35.64ID:AwpGI/pu1000人間七七四年
2014/10/06(月) 07:48:20.66ID:YZU5MJ1Z10011001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
l { .、 /
', ` '' ' rTヲ
'、 `'ー‐''" / lzュ、__
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