戦国ちょっと悪い話39
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0001人間七七四年
2014/04/16(水) 16:25:33.40ID:k6etqqGP戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2014/04/16(水) 22:54:21.66ID:UOeVs+w/葛西大崎一揆鎮圧を命じられた伊達政宗は、容赦ない掃討戦を行い一揆勢を追い詰めていった。
七月四日、ついに一揆勢は政宗の前に降伏した。政宗はおもだった者たちを須江山にうつした。
政宗はこのあと、豊臣秀次に一揆首謀者の助命を嘆願したともされる。
しかし伊達成実『政宗記』によれば、
「一揆勢は要害にたてこもり、土地の者とも通じており打ち果たすことは難しいのです。
そこで一計を案じ、ひとかたまりにして山に集めておきました。
ご命令とあれば打ち果たしますが、いかがしますか」
と秀次に申し上げたという。秀次は討つよう命令をくだした。
かくして討たれた二十人あまりの首は、塩漬けにされ京都に送られた。
この犠牲者数だが、郷土史家の研究だと最大八十人前後という説もあるそうだ。
政宗が一揆を煽っていたわけだし、口封じをしなければいけなかったのだろうが、
助命すると言っておきながら相手をだまし討ちにした悪い話ではある。
0004人間七七四年
2014/04/17(木) 16:49:41.66ID:uY1P5ieq丸亀城は慶長のころに生駒親正によって築城されたが、元和元年の一国一城令により廃城と決まった。
しかし時の藩主・生駒正俊は、祖父の親正が石工を井戸に落としたり、豆腐屋を人柱にしたりと、心血を注ぎ築城した丸亀城を惜しみ、城の要所に樹木を植えて城を覆い隠し、カモフラージュに成功。
人の出入りを厳しく制限して城を破却したように見せかけて城を残した。
丸亀城は天守のほかに大手一の門・大手二の門・御殿表門・番所・長屋・石垣などが現存しており、今の我々が目にすることができるのも生駒正俊さんのおかげ・・・かもしれないのだが、築城の逸話を考えると、いい話に投稿するのもなんだかなぁと思ったのでこっちに。
余談ではあるが、今の丸亀城は山崎家治が改修し、京極氏の時代に完成したものだから、破却してても見れたかもしれない。
0005人間七七四年
2014/04/17(木) 19:59:00.48ID:2j5e6fX2天皇の耳に達した。その件は、デウスの教えの敵である異教徒たちによって、天皇の許では悪意に
解釈されたので、天皇はそのことで一人の使者を道三の所に遣わし、
『キリシタンの教えは道三を弟子とするに相応しくない。それは日本の神々の敵であり、神々を悪魔呼ばわりし、
まさしくそのお怒りを招く教えである。』と述べた。
道三はこれに対し、思慮深く次のように答えた。
「私はつい先日キリシタンになったばかりですから、デウスの教えが日本の神々を悪魔呼ばわりするのを
聞いたことがありません。と申しますのは、伴天連の方は、日本の神々とは人間であって、ずっと昔の
皇族や、日本の貴族の出の主要人物であることを熟知しているはずだからでございます。
むしろキリシタン宗門は、徳を説き、全てにおいて公正なことを教えるものであると承知しております。」
そして道三は、この使者が来たことを直ちに教会に通報した。そして説教役を務めている日本人修道士に、
注意するようにと、使者をして次のように忠告させた。
「もしも今までに日本の神々を、そのように悪魔と呼んでいたのであれば、今後、それらに対して
基本的な教理を説くにあたっては、天皇並びに日本の貴族に対する尊敬の念から、そのような呼び方は
せぬ方が良いであろう。それはキリシタン達に対して、天皇や異教徒の貴人が怒りを発せぬように
するためである。
それよりも御身らは、日本の神々について語る時は、それらは死すべき人間と同様のものであると言い、
その力や功徳は人間を救い得ず、また現世の事に対してもなんら利用する所はないものだ、と説明するが良い。
しかもそうする事によって異教徒たちが衝撃を受けないようにするため、控えめな言葉でもってするように。」
(ルイス・フロイス『日本史』)
曲直瀬道三、キリシタン改宗を天皇から叱られてとっさに色々取り繕うというお話。
0006人間七七四年
2014/04/17(木) 22:06:47.34ID:CpqQTzOJ浪岡御所は南部地方はもとより津軽地方や出羽北部からも一応尊敬されていた家柄であったためである。
そこで、大浦為信は北畠顕村が遊興にふけっているのに目をつけた。
浪岡一帯の博徒を大浦城に呼び、金を与えて賭博をさせ、酒宴まで開いて帰した。
この賭博は数度開かれ、為信と博徒らがすっかり親しくなったところで、為信は急に賭博の開帳をやめた。
不思議に思った博徒らは大浦城に出向き、「近頃さっぱり賭博をやめられましたが、どうなされましたか」、と尋ねた。
為信は「所用あり、遊ぶ暇がなかった。しかし、今日はゆっくり遊んでゆけ」ともてなしたあと、
「ところで汝らの領主は下を慈しみ、人心を得ていると聞くが、汝らはなぜ生業につかないのか」と聞いた。
すると博徒らは「仰せのごとく、領主が政を敷いておれば我らも自ら善をはげみます。しかし、領主が柔弱で奉行、頭人らが邪欲を欲しいままにしているため、皆困窮しこのような筋無きことで妻子を養っているのです」と答えた。
その言葉を待っていた為信は、「苦しんでいる民を救うのは心やすいことだ。我らはこれまで所々の虐政を討ち、民を救うことを本意にしている。ひとつ、浪岡を征伐してやろう。その時は汝らも善をはげめ。そうなれば、汝らを召抱えてやろう。
この事は絶対にもらすな。近いうちに浪岡を攻めるから、汝らは戦に乗じて金銀財宝を盗み、大いに乱暴せよ」
大浦為信は大義名分を「救民」と明らかにし、天正六年七月二十日未明(1578)、浪岡御所を攻めた。
大浦軍は総勢2300余りで、兵を第一陣の乳井・千徳勢700、第二陣の森岡・兼平勢600、大浦本軍1000余に分けた。
この日は北畠顕村の後見役北畠顕忠が油川城に行っていたが「御所が襲われることはない」と安心しきっており、たちまち大混乱に陥った。
この騒ぎに乗じて為信の息がかかった博徒らが「大浦勢が来た!」と浪岡城に入り四方に火をかけた。
そして、一応顔を知っている北畠顕村のところへ走り、「大浦勢は目の前です。早くこの駕籠に乗って避難してください」と駕籠を差しだした。
すると、顕村は"渡りに船"と、早速駕籠に乗った。
博徒らは北門を出ると、まっすぐ大浦勢の本陣へ突っ走り、駕籠を大浦勢に渡し、まんまと北畠顕村は生け捕りにされた。
合戦から二日目、北畠顕村は
故郷を夢にいでこし道芝の 露よりもろきわが命かな
と辞世の句を詠み幽閉先の寺で自ら命を絶った。
以上、つがるの夜明けより
既出では無かったので、一応。
津軽為信が救民の為に浪岡征伐を敢行した、悪い話。
0007人間七七四年
2014/04/18(金) 10:19:56.61ID:jIky1PaD0008人間七七四年
2014/04/18(金) 11:19:59.08ID:rWlg2JRm0009人間七七四年
2014/04/18(金) 12:54:24.30ID:HRysnx+z伊予の国、総津の地に立花城という城があった。
最後の城主は大野直周(直昌)と伝わり、長曽我部に攻め滅ぼされたとも、秀吉の四国攻めで滅んだとも言われている。
一族は猿谷(仙波渓谷)に落ち延び庄屋になった。
落ち延びた一人に大野直周の娘がいた。名を芳我台(はがたい)という。
芳我台は成長すると、容貌醜く、素晴らしい怪力と暴力性を併せ持つようになった。
そして男装して関ヶ原に出陣し、大活躍して沢山の褒美を手に村に帰った。
しかし、芳我台の武威と暴力性を恐れた村人たちは
「次は俺が襲われるのではないか、酷い目に遭わされるのではないか」
と疑心暗鬼になり、とうとう芳我台の寝こみを襲って殺してしまった。
その死に様は、片目が潰れた凄まじい形相で、最期に
「片目の蛇に生まれ変わり、七代お前たちに祟りをなす」
という恐ろしいものだった。
それから暫く後、村には片目の蛇が出るようになった。
その蛇を見た者は、病に臥したり、不意の事故に遭ったりした。
これは芳我台の祟りに違いなしと村人は芳我台を芳我大明神として祀った。
すると祟りは治まったという。
芳我台が持ち帰った宝物は、今も仙波正八幡神社に納められているという。
戦う姫が美しいなんて誰が言った?
0010人間七七四年
2014/04/18(金) 13:08:33.27ID:HRysnx+z余談ではあるが、合わせて紹介したい。
以下は案内板の文章。
千人塚
天正13年7月、豊臣秀吉の四国征伐が行われ、長曽我部軍に敗れた総津立花城の将兵は、野地越えの「千人成」に退いた。
だが衆寡は敵せず多くの戦死者を出し、その遺骨を集めて葬ったのがこの「千人塚」である。
そして将兵の休んだ場所を「桜の休場」とも言う。
また、一説によればこの地に仙人が住んだとも伝えられ、「仙人塚」と称することもある。
老杉の浮根が抱ける霧の墓
不可止
0011人間七七四年
2014/04/18(金) 18:46:25.14ID:sc68QPd1>>9
井伊直虎、甲斐姫、巨迹繧烽サんなんだったんじゃないかなと
ジャイアンの母ちゃんみたいな…
0013人間七七四年
2014/04/18(金) 19:53:38.39ID:Hh03wPkuゴリラに鎧着せたような感じだったんだろうか
0014人間七七四年
2014/04/18(金) 20:30:52.70ID:JnQduTPV天正16(1588)年、最上義光の影響下にあった庄内に、本庄繁長と実子で大宝寺の家名を継いでいた義勝は小国口から鬼坂峠を越えて庄内地方へ突如として侵攻を開始した。
上杉軍は庄内の東禅寺寄りの城館を次々と落とし尾浦へ進軍。
最上方の東禅寺義長は弟の東禅寺右馬頭(勝正)と十五里ヶ原で上杉軍を迎え撃った。
しかし数で劣る東禅寺軍は疲弊し、さらには東禅寺兄弟の政をけして良くは感じていなかった庄内の国人らが上杉軍に旗色を変えて尾浦や大宝寺の街に付け火をし、放牧で逃走や裏切りが相次いだ。
これにより東禅寺義長は討死し、その報を聞いた勝正は偽首の計事により本庄繁長に一太刀浴びせたが目的を達せず討取られた。
山形から月山を越えた辺りまで最上の援軍が来ていたが合戦には間に合わず
東禅寺勢と庄内在番中の最上方の軍監の草苅虎之助と氏家光棟らをはじめに兵2,500余人が討取られた。
敗残兵軍は朝日山城などで池田盛周・邦周親子らが抵抗を続けたが敗れ、庄内地方は上杉の支配下となった。
その後本庄に味方をした者は取り立てられ、最上や東禅寺に通じていた者らは悉く追われた。
続いて上杉の兵らにより執拗な残党討伐や親最上派狩が行われた。
翌年になっても「ねぎり(根切り・根絶やし)」は整然と続けられ、庄内から最上派は一掃されたと言う。
「庄内の昔話」
0015人間七七四年
2014/04/18(金) 21:46:52.00ID:Rjxo+iff0016人間七七四年
2014/04/19(土) 02:33:11.29ID:MNIlPhKx私闘禁止令破りでも北条は罰として滅ぼされ、上杉はヒャッハー過ぎてラスボスもほっといたのか。
0017人間七七四年
2014/04/19(土) 06:06:14.88ID:Qw9SnuT/結局は豊臣政権に従ったらセーフで逆らったらNGなだけだし。
0018人間七七四年
2014/04/19(土) 06:37:26.02ID:t/WfMyGm0019人間七七四年
2014/04/19(土) 17:47:56.89ID:4D7S36vy古田「(*゚Д゚*)キミ、越前の真柄を討ち取ったんだって?その時の話を聞かせてくれよ。どうやったんだい?」
青木「いや、真柄って人は凄く強い人でさ、本当なら僕が討ち取れるような相手じゃないんだけど・・・巡り合わせがよくてね。
真柄がケガして疲れ果ててるところに出くわしてさ、たまたま僕が行きがかり上討ち取ったってだけなんだよ。
だから話すことなんて無いんだよね。(´-ω-`;)ゞ」
飾らない青木の態度に、古田や聞いていた者は皆感じ入ったという。
0020人間七七四年
2014/04/19(土) 17:56:14.04ID:4D7S36vyスレ間違いすんませんでした。
0021人間七七四年
2014/04/19(土) 18:40:33.53ID:4D7S36vy黒田一成は童名を「はつ」といい、黒田長政の寵童だった。
城井を攻めた時のこと、総軍が退却する中、はつは残り槍を合わせたという。
奇特なりと長政が褒めるのを聞いた後藤又兵衛はかげで
「はつの槍は長いねえ。一里八町くらいあるんじゃないの?」
と笑っていたという。
0022人間七七四年
2014/04/20(日) 07:15:54.19ID:VScin6KQ0023人間七七四年
2014/04/20(日) 10:38:21.90ID:dXauvDAG0024人間七七四年
2014/04/20(日) 10:44:38.34ID:bMKM8+U80025人間七七四年
2014/04/20(日) 11:28:11.77ID:QyIRPes10026人間七七四年
2014/04/20(日) 13:46:52.91ID:/kUM2KEe0027人間七七四年
2014/04/20(日) 19:13:47.68ID:wxeGH0tc0028人間七七四年
2014/04/20(日) 21:57:28.17ID:Isu6luxe某家臣団は「戦わずに逃げてくんじゃねぇよ!」だけど
長政憎しで命かけて戦ってる人間にこの物言いはなぁ…
0029人間七七四年
2014/04/20(日) 23:17:49.16ID:VScin6KQGT-MTB「やだ、わたしngmsにストーカーされてる?」
黒田家一同「ねーよ!」
0030人間七七四年
2014/04/20(日) 23:59:52.58ID:IJl7NddY0031人間七七四年
2014/04/21(月) 00:18:05.04ID:xliIxot8長政は弟みたいな扱いなんだろ
0032人間七七四年
2014/04/21(月) 00:36:46.17ID:Gj8yUMWzこれも憎まれっ子世に憚る、か
0033人間七七四年
2014/04/21(月) 00:39:59.67ID:7mhr5a/90034人間七七四年
2014/04/21(月) 01:59:21.72ID:5YRmUs0n0035人間七七四年
2014/04/21(月) 09:21:00.35ID:6h/K3DlSそのため西国に出立するのだと皆心得ていた。亀山より樫木原まで出て、西国に向かうのだと思っていたところ
直に京に向けて武者を押した。故に人々はみな不審に思った。
桂川を渡って、初めて信長を攻めるという触れが出された。
未明に信長の居た本能寺に押し寄せると、信長は切腹し火をかけた。京中では何事があったのか
何も知らなかった。何故なら本能寺のあった新在家は他所とは違い、四方に掻き上げの堀があり、
土居を築き木戸もある構えの内であったためである。
土居に上がってこの騒動を見た者の中には、これは明智の謀反だと推量する者もあった。
里村紹巴は光秀の内意を知っていたが、「どうしてそんな事があるだろうか。」と、人がそのように言うのを
制した。里村昌叱は「思い当たることがある。」と言った。
さて、明智勢は本能寺に火をかけた後、城介殿(織田信忠)の宿所である妙覚寺へと押し寄せた。
当時、その辺りは京の中でも町家は所々にわずかにある程度で、視界の妨げにならなかったので、土居の上から
はっきりと、水色の旗の軍勢が妙覚寺に進んでいるのが見えた。そのため『さては明智が謀反したのか!』と、
たしかに皆が知ることになった。
妙覚寺は、現在の室町薬師町にあった。しかし構が無いため敵に対応することは出来ないと、信忠は
南都の陽光院殿(誠仁親王)が御座されていた小池の御所(二条御所)に移った。
誠仁親王は禁中に退去された。
親王は烏丸の方の門から出られたが、肩輿も無かったので人に背負われて行った。
また公家の正親町殿(正親町季秀)はこの騒ぎの中、誠仁親王への見舞いに参上し、室町の方から
小池の御所に入ったが、その時はすでに退出した後であった。そこに明智勢が急に攻めてきたので、
御所から出ることも出来ず信忠勢と共に中に籠もるはめになった。
正親町殿はこの時の様子をよく観察しており、後で人々に語った所によると、信忠の士卒は皆、大庭に
集合していた。正親町殿は菓子として昆布を持っていたのを出して、これを諸士に与えられた。
この時、顔色が変ってしおれていた者達は、皆家に功の有る歴々であり、意気揚々としていたのは
皆新参であった。
この後の明智勢との戦闘で、顔色の変わっていた者達は皆、勇敢に戦い討ち死にし、意気揚々の者達は皆、
狭間をくぐって逃げ出したとの事である。
さて、正親町殿には室町の町家に、知人である楽人の家があった。そこで御所の壁を乗り越えて
その楽人の家に入り、公家の正装を着て烏帽子をかぶってそこから出た。これにより、彼は公家であると
明智勢からも通行を許された。そのため、逃れることが出来たのだという。
(老人雑話)
老人雑話より、本能寺の変の時に、現場に居た人々の証言である。
0036人間七七四年
2014/04/21(月) 16:39:19.98ID:/IcLHN8X元の寺号は円明寺といったが、五十三番の円明寺と同じで紛らわしかったため、延命寺に改めたという。
この寺の梵鐘は古くから素晴らしい音色で知られ、近見太郎と呼ばれた名物だった。
梵鐘は伊予の国に長曽我部元親が乱入した時に略奪されてしまい、兵たちにより船に積まれ持ち去られた。
しかし洋上に出ると、誰も叩かぬのに
「いぬ〜いぬ〜(帰る帰る)」
と唸りをあげ大きく動き出し、とうとう船を傾け海中へ転がり落ちてしまった。
これを見た長曽我部の者たちは
「鐘が自ら動き、略奪を拒んだのだ。」
と不思議な仏力に恐れおののいたという。
その後、梵鐘が無くては不自由だということで、当時の住職が私財で梵鐘を鋳造した。
この二代目の鐘は近見次郎と呼ばれ、やはり音色の良さで知られたが、松山城に時鐘として持ち去られることになった。
しかし、いざ運ぼうとした時、誰も叩かぬのに
「いや〜ん、いや〜ん」
と唸りをあげたので、置き去りにされたという。
この次郎は引退し、今は三代目の近見三郎が使われているが、除夜の鐘だけは今でも近見次郎が使われ、その音色を響かせている。
0037人間七七四年
2014/04/21(月) 16:59:23.34ID:lgWi0JxUゴールデンウイークはぜひ四国でスタンプラリーをとステマしてみる
0038人間七七四年
2014/04/21(月) 19:35:21.76ID:ahGkrcyI0039人間七七四年
2014/04/21(月) 19:47:05.85ID:A62KKR/l0040人間七七四年
2014/04/21(月) 21:37:51.56ID:5YRmUs0nしかも「いや〜ん、いや〜ん」ってw
「嫌よ嫌よも好きのうち、男心をくすぐる良い音でなく鐘よ」
とか言い出すのがいなくてよかったね
0042人間七七四年
2014/04/21(月) 23:23:43.22ID:WaJ0rS+K0043人間七七四年
2014/04/21(月) 23:29:10.91ID:XpaFlkttそういや長政と対比してたまに出てくる
又兵衛は官兵衛には従順だった
(官兵衛は又兵衛を使いこなしてた)
ってのは何の話によるものなんだろう
0044人間七七四年
2014/04/22(火) 00:14:36.07ID:7qAeSLCEよくそんな話は聞くけど出典とかはわからないや〜
如水さんの又兵衛さんへの接し方が全てでしょ
家光・忠長の件と根は一緒かな
0045人間七七四年
2014/04/22(火) 03:32:04.91ID:c9ZjV2mHお前はゴリラさんを誤解している
ゴリラが凶暴だなんてとんでもない!寧ろ臆病で繊細なんだぞ
動物園で飼われていたとあるメスゴリラは尻尾のない子猫を可愛がっていたが
元々病弱だったその猫が死んだ時、涙を流して悲しみに暮れ、食事も摂らななり餓死寸前にまでなった
野生のゴリラも胸板を叩いて(ドラミング)縄張りへの侵入者を威嚇するのは戦いたくないから
傍でクラッカーを鳴らしただけで音でびっくりしてショック死するくらい繊細なんだぞ
0046人間七七四年
2014/04/22(火) 09:53:22.86ID:K6SPwjmj0047人間七七四年
2014/04/22(火) 14:05:20.89ID:MjRFUtAj0048人間七七四年
2014/04/22(火) 18:43:20.39ID:bUrUzFAe0049人間七七四年
2014/04/22(火) 19:47:01.19ID:+iMs8WN/世上おしなべて名物というのは、玉堂という茶入と、利休の円座肩衝と言うものだけであった。
しかしこれらも、何程という物でもなかったのに、今では無類の名物のように言われている。
その後ある時、相国寺にあった、名を相国寺という唐焼きの肩衝を、古田織部が黄金1枚で求めた。
これが茶入が高値となった始まりである。しかし程なく加賀の前田家に千五百貫で売った。
これは当時、古田織部が間悪く金が無く、借金の返済をせつかれた為、その借金を支払うために
売ったのである。
道哲親円浄坊が取り次いで、前田家より代金を持ってきた時、この私も織部方に居合わせていた。
黄金60枚と、蓮華王の茶壺をひとつ持って来た。壺は織部の方から所望したものである。
円座肩衝は今は江戸にあるが、明暦の大火の時に消失したそうである。
(老人雑話)
0050人間七七四年
2014/04/22(火) 22:38:13.61ID:oQ50ob0wといいたくなるような代物ばっかりという印象。
江戸時代とは工芸のレベルが違いすぎるんで、
どうしても稚拙に見えちゃう。
もちろん、戦国期でも明のものすごい陶器・磁器は入っていたんで、
あえてああいうものを名物扱いした面もあるんだろうけどさ…
0051人間七七四年
2014/04/22(火) 22:51:25.83ID:lz5MHbul0052人間七七四年
2014/04/22(火) 23:18:01.33ID:QApH+8kg0053人間七七四年
2014/04/22(火) 23:35:46.65ID:USbTqCmw工芸品としては曜変天目(特に稲葉天目)が最高峰だろうけが
茶を飲むなら、工芸品としては大した事ない楽の黒茶碗の方が
濃茶の緑が映えておいしいはず
0054人間七七四年
2014/04/22(火) 23:46:28.39ID:zVDrE6OV0055人間七七四年
2014/04/23(水) 00:00:19.02ID:uTXUlDps大陸ではただの雑器でも、将軍や大名、大商人が
これは良いものだと言い、受け継がれていくと名器に化ける。
0056人間七七四年
2014/04/23(水) 00:16:38.86ID:ruw1rFiG0057人間七七四年
2014/04/23(水) 00:22:11.32ID:dqLsp4XZ0058人間七七四年
2014/04/23(水) 00:29:17.28ID:mQzjKopQ0059人間七七四年
2014/04/23(水) 00:34:16.85ID:rBfI8Yi+0060人間七七四年
2014/04/23(水) 11:47:08.23ID:tlFClwQp天目って陶器だけど?
もうちょうましな嘘つこうぜ
0061人間七七四年
2014/04/23(水) 14:25:58.47ID:3Ecy/FsP0062人間七七四年
2014/04/23(水) 15:47:19.85ID:eaAIOIIi0063人間七七四年
2014/04/23(水) 18:30:41.46ID:Nj2dELrq伊予の三間に土居清良という戦上手の殿様がいた。
そして清良の娘に、乙御前という名のそれは美しい姫君がいた。
ある時、乙御前に縁談があり野村の豪族、保堂新左衛門に嫁ぐことになった。
いよいよ輿入れの日、どうしたわけか一向に保堂家より迎えが来る様子がなく、とうとう夜になってしまった。
繊細な乙御前は、さては破談になったのかと心を痛め、世をはかなんで髪を下し尼の姿になってしまった。
しかし、明くる日になると、もう来ないものと思っていた保堂家よりのお迎えの行列がやってきた。
なんでも昨日は行列の前に不吉の兆しがあり、日を改めて来たのだという。
これには清良も困ってしまった。
前もって連絡を寄こさない保堂家に腹も立ったが、結婚とは縁起の良さを重くみるものであり、保堂家に強く抗議するわけにもいかない。
たった一晩で姫を尼にした土居家に非がないわけでもない。
思い悩んだ清良は、姫にかつらを被せて嫁がせることにした。
つづく
0064人間七七四年
2014/04/23(水) 18:34:22.33ID:Nj2dELrq美しき花嫁の姿に婚儀の宴は大いにもりあがり、清良の作戦はうまくいったかと思われたが、夜になり乙御前が休んでいると、かつらが取れてしまった。
そこへ折悪しく保堂新左衛門がやってきて、髪の毛一本も無い姫を見てしまった。
これに保堂新左衛門は激怒し、
「尼を嫁にもらうつもりはない!」
と乙御前を追い出してしまった。
そして乙御前は来た道を三間へと帰ることになったが、繊細な乙御前は傷心のあまり滝壺へと身を投げてしまった。
そして姫の後を追い、下女や馬も次々と身を投げた。
このことにより、乙御前が身を投げた滝を「乙御前の滝」と呼び、かつらが流れて行った川を「桂川」と呼ぶようになったという。
下女が身を投げた「下女ヶ淵」馬が沈んだ「馬淵」も同様である。
乙御前を憐れんだ村人たちは、「乙姫さま」として祠を作り、乙御前の霊をなぐさめたという。
0065人間七七四年
2014/04/23(水) 18:38:21.15ID:Nj2dELrqまして当時の婚礼は縁起をかついだんでしょうね。
婿の名前は宇都宮乗綱のバージョンもあります。
0066人間七七四年
2014/04/23(水) 20:48:58.88ID:XBFGJ3+R尼になれば破談になると思ってたんだろう
0067人間七七四年
2014/04/23(水) 21:40:16.82ID:nF1V7OSh0068人間七七四年
2014/04/23(水) 22:09:32.03ID:a7yIlisV0069人間七七四年
2014/04/23(水) 23:11:37.32ID:kRVVR4bO0070人間七七四年
2014/04/24(木) 00:46:32.40ID:ZKXY3hr00072人間七七四年
2014/04/24(木) 17:39:05.58ID:b6x5TlJJ天目形してる茶碗なら磁器だろうがプラスチックだろうが天目茶碗と言っても間違いではない。
使う時は天目台っていう台にのせて、貴人にお茶を出すときや神仏へのお供えに使う。
実家は古い寺だったから色んな天目茶碗があった。
唐物もあったし、瀬戸物も染付のもあった。
0073人間七七四年
2014/04/24(木) 19:12:15.79ID:KGiRFpVzまあ、焼き物に関しての知識は全くないから、無知だと言われてもしかたないけど
形は天目形ってやつだと思う
いまでもそういうの作ってるんだと思って書いたのでした
0075人間七七四年
2014/04/24(木) 20:34:45.02ID:tgBcSFhG0077人間七七四年
2014/04/24(木) 20:53:55.22ID:B5vX70uC今は色んな陶土や釉薬が売っているから、
有田の陶芸家が天目釉とそれっぽい陶土で天目茶碗作ってもおかしくないよ。
0078人間七七四年
2014/04/24(木) 20:57:18.18ID:B5vX70uC古田織部が茶の湯の宗匠だった時のお話。
織部が気に入っていた大工に喜右衛門という者がいた。
そのころ茶の湯を嗜むものは織部を崇敬していたので、喜右衛門にも懇ろにしていた。
ある人が茶会を催し、谷衛友を上客にし、お相伴のニ三人のうちに喜右衛門を加えた。
その茶会の当日、やってきた谷衛友を喜右衛門は露地で出迎えて
「今日はお相伴させて頂きますので、かなり早く来てしまいました。」
と言ったところ、谷衛友の機嫌はみるみる悪くなり
「客の選び方がおかしいだろ」
と帰りそうになったが、お相伴の人たちがいろいろ取りもって、何とか穏便に済ますことができた。
当時はこの出来事について、様々な批判がでたそうだ。
0079人間七七四年
2014/04/24(木) 21:06:09.90ID:c8AoaX8xついでにローゼンメイデン最終巻も買ってきたわ
0080人間七七四年
2014/04/24(木) 21:30:05.08ID:Ne/HH6LT必要となると謀反を起こし、敵と組み、また自分自身が領主となる。
それから、よりをもどして味方になったかと思うと、また裏切る。
しかし、それで自分の名誉を損なうということはないのである。
『日本諸事要録』より。
ヴァリニャーノ司祭の、すごーく率直な、侍への評価。
0081人間七七四年
2014/04/24(木) 23:25:45.53ID:WNB1MB+g0082人間七七四年
2014/04/24(木) 23:39:05.78ID:64o6U2CJとはいえそういう武士ばかりではないと思うけど
それに、助けるはずの東ローマで略奪、暴行、ついでに滅亡させちゃったりする
宗教的情熱あふれる西洋の騎士もなかなかのもんだぜ?! 耶蘇教の神父さんw
0083人間七七四年
2014/04/24(木) 23:53:21.53ID:zogf4qTm帝位につけてやったのに、約束の金を払わなかった方が悪い、
と言ってみる
0084人間七七四年
2014/04/25(金) 14:05:57.82ID:hSnNRti90085人間七七四年
2014/04/25(金) 20:29:34.24ID:TsjUD0jW0086人間七七四年
2014/04/25(金) 20:31:59.17ID:X+tYX9QW攻撃して教皇に一時的に破門された事を言っているのだろう
とスレ違いだが言ってみる
0087人間七七四年
2014/04/25(金) 23:30:42.79ID:OD4bQaKz0088人間七七四年
2014/04/26(土) 00:59:40.83ID:CIg+fgYk謀聖と謳われた戦国初期の雄、尼子経久。
彼には3人の優れた息子が居た。
長男、政久。父に劣らず知勇兼備にして各種の文化にも通じ、時の帝である後土御門帝にその文才・教養を称賛され、
まさに謀聖の跡継ぎに相応しい人物であったが、26歳にして戦死。
次男、国久。父以上の武力・軍才を持つと内外に評され、尼子家の柱石として武闘派の新宮党を率いて山陰・山陽諸国に
その武名を轟かすも、最期は甥晴久の集権体制を確立させる為に殺害されたとも、新興勢力の毛利元就の謀略により
甥・晴久に嫡男誠久はじめ、一族諸共殺害されたとも言われる。
そして、3男興久。彼は父経久が大内義興に従い上洛した際、山陽の覇者大内家との仲を深めんとする父の思惑により、
大内義興の偏諱を受け興久と名乗る。
その後、二十歳になるかならないかの頃、父の命を受けた興久は出雲一帯に大きな勢力を誇る塩冶氏に養子として入り
当主の地位を得、山陰における尼子家の勢力拡大に大きく寄与することとなる。
尼子家と塩冶家に出来た深い縁と蜜月の時であるが、それは長くは続かなかった・・・。
(続く)
0089人間七七四年
2014/04/26(土) 01:02:28.85ID:CIg+fgYk財政的負担と折衝の為の辛苦は尼子一族の中でも大きな物であった。興久は父経久と腹心
の亀井秀綱に対し、自らの知行を増やすよう申し出るものの、秀綱により却下される。
そして、興久はキレた・・・。
享禄3年(1530年)、興久は以前より親交を深めていた出雲の反尼子勢力の三沢氏や多賀氏、
また出雲大社・鰐淵寺・真木氏・妻の実家である備後山内氏・但馬山名氏と組んで父経久に
対しての反乱を起こす。
中国地方のもう一方の雄である、大内氏との結びつきが大きかったのも原因であるという。
自らの勢力圏の大半が息子の興久につき、謀聖・尼子経久は窮地に追い込まれる。が、
その後戦況は一変する。
塩冶興久が父へのトドメとばかりに支援を求めた大内家の新たな当主・大内義隆は両者共倒れ
を狙って興久ではなく、劣勢の経久に対して支援することを決めたのであった。
これにより戦況は一変、興久は徐々に敗勢が濃くなり妻の実家である備後山内家へ逃亡する。
しかしながらその後勢力を回復することは出来ず、1534年に自刃。
遺領は息子清久が継ぐ物の大半はその伯父・国久の管理下に置かれる事となる。
いずれにせよ、この後尼子家は経久の孫、晴久が家督を継いだ後に国久との間で仲たがいを起こし、勢力の衰退を招くこととなる。隣国の毛利元就はこれを反面教師としてとらえて三矢教訓状を作り、一門の結束を訴えたのか・・・?
いずれにせよ、尼子家が家族で争うこととなった悪い話。
0090人間七七四年
2014/04/26(土) 03:04:53.67ID:iOXbuZnl「仕える御家が無くなり、新たな領主に仕官をせずに出羽から越後、越後から江戸へと移り住み頭も丸め腰の物も降ろした」
「現世は夢か幻か。川の流れに漂うヒョウタンの様にぷかぷかとした気持ちで世の中の事の良し悪しの判別をする事もなく、思うままにただただ面白おかしく書き綴った
だからこれを読んだ者はきっと手を叩いて笑ってくれる事であろう。だから書名を「笑いの書」とする」
「侍と言えども人は人。上が無能なら下も苦労する。上に立つ者だけに留まらず、それに続く者まで要領が悪いとかの話になれば、さらに下で仕える者にとっても本当に洒落にもならない」
「多少なりとも名が売れてる人にも苦労はある。隣の芝生が青く見えるのは誰にとっても同じ事だろう」
「可笑記」
作者(斎藤親盛)の親は元・川北三奉行の一人の斎藤筑後守広盛(大宝寺・志駄・最上・志村に仕える)。
「可笑記」で指摘されている無能な上の者とはさてさて誰の事になるのやら…
0091人間七七四年
2014/04/26(土) 03:22:04.21ID:iOXbuZnlだから書名を「笑いの書」とする
⇒(前述のそういった訳)だから書面を「笑いの書」とする
「而(しこう)して」は仙台弁の肯定の「だから」の意味に近いのだろうか?
0092人間七七四年
2014/04/26(土) 04:03:57.52ID:WkVGfwGg0093人間七七四年
2014/04/26(土) 04:25:13.55ID:iOXbuZnl天正16年10月、長宗我部元親の怒りを受けて吉良親実が小高坂で切腹をした
この夜親実は小高坂の下村某という侍の家で碁を打っていた
すると元親の使いという者が現われ「殿(元親)の命である。今宵腹を召されよ。我等が検分と報告を承った」と親実に主命である事を告げた
親実は打ちかけの碁石を置くと
「私は殿(元親)が過っている時には諫め正すのが務めであった。だが心無き者らが殿を誤らせ、この私を殺そうとしている。長宗我部家もこれまでか」と腹を切り、腸を掴み出した処で首を落とされた
しかし元親の怒りは親実の切腹だけでは収まらなかった
数日の間に親実と親交深かった者や親実の旧臣ら七人が主命の下に続けて弑された
それからしばらくの事
小高坂や親実の墓の辺りに夜毎に人霊が現われるようになった
また小高坂では首のない侍が白馬に乗る様や、僧形の巨人が闇夜を歩き回る姿が目撃された
物の怪を見た者は日を置かずに高熱に犯され、いたるところで大病人や変死者が続出した
親実の処刑を元親に讒言したとされる久武親信の家にも変事が続き
八人の子が次つぎに発狂して七人までが死に、親信の妻も悲嘆のあまりに自害をして果てた
人々はこれを罪なく命を奪われた親実派の怨霊の業だと囁きあった
0094人間七七四年
2014/04/26(土) 04:45:48.00ID:iOXbuZnl吉良親実と「七人ミサキ」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2288.html
久武親直の讒言と吉良左京進親実の祟り
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2370.html
とは微妙に異なる話
他に怨霊を恐れた元親が親実の葬儀を行ったところ
親実と家臣らの位牌が踊り出したり宙を舞ったり、
空から親実らの笑い声が聞こえてきたりする逸話などが複数ある模様
0095人間七七四年
2014/04/26(土) 05:32:49.39ID:iOXbuZnlWiki
平安時代に書かれた日本最古の造園書「作庭記」には、「芝をふせる」という記述が見られるために、芝が造園植物材料としてこの時代には認識されていたものと思われる。また、明治時代に入り諸外国との交流が活発化すると、各地で西洋芝が導入された。
0096人間七七四年
2014/04/26(土) 07:13:02.49ID:pYbjAHw+実際は元親の更年期障害が原因だというのに
悪者は主君ではなくいつもお側にいる忠臣
0097人間七七四年
2014/04/26(土) 10:06:08.32ID:AFZuOKes0098人間七七四年
2014/04/26(土) 11:12:52.59ID:iOXbuZnlうん。大高坂←→小高坂とか、讒言の内容も甥・姪の婚姻は不吉だとか盛親への家督相続は長幼の序に逆らうだとか、久武と吉良の善悪の扱いが異なったり、吉良が掃討されなきゃいけない程家中で強い権力をもってたとか、
吉良の墓は土まんじゅうに塔婆を立てた粗末なもので柵で隔離されてたとか、位牌が7〜8並んで行進したとか、関連人物名が違うとか
派生型がそこそこ出てくる
0099人間七七四年
2014/04/26(土) 11:53:40.54ID:iOXbuZnl江戸初期の大名や武士の間では頬や顎にヒゲを生やすのは勿論の事、もみあげを伸ばすのも武士としての武辺者の趣を示す嗜みのひとつでもあった
しかしある時土井利勝が綺麗さっぱりとヒゲを剃った出で立ちで登城した
諸大名は利勝の行為を不思議に思ったが、土井家中の剛の者、鮭延越前(秀綱)らの話からその理由が判明した
鮭延「殿(土井利勝)は歳を経てヒゲを蓄えるにつけ、なにかと神君(徳川家康)に似て来たと噂をされるのを痛く気になされておる。
あらぬ噂(土井利勝は実は家康の隠し子だから容貌が似てくるのではないかといった噂)が過分になされぬ様にヒゲを落とされたのよ」
ヒゲ面の諸大名の中にあってヒゲを落とした事から
わけを知らぬ者にまで理由を詮索される意味ではちょっと悪い話
0100人間七七四年
2014/04/26(土) 13:49:01.22ID:zKQ+OnJX自身の本拠である相模・玉縄城の留守を守る家臣の堀内勝光に書状を送った。以下は意訳。
……秀吉が近日京都を出陣する事を現地に派遣している者が報告してきました。
正確な日時は不明ですが、兵力は20万人だそうです。その他にも北陸や奥羽の連中も関東に攻めて来るとの事です。
我ら山中城の軍勢は僅か5千人で、こんな大軍を防げるはずがありません。
ですから小田原へ「もっと加勢を寄越してくれ」とお願いしていますが、未だに承諾されず送ってきません。
そんな状態ですので山中城を1日保たせるのも難しいでしょう、討死は確定です。
落城の報せを聞きましたら、以前内々に話し合ったように玉縄城の事はあなたに任せるので
留守の者達を集めて籠城し、最後の一戦を挑んでください。
そして惣曲輪・二ノ丸まで破られたなら本丸に籠り、私の母(氏康の娘)を刺し殺して城に火を放ち、勿論あなたも切腹して下さい。
詳しい事は(書状を持っていった)西原越前が話します…(以下略)
『丹波堀内文書』
さて、この後どうなったかというと、御存知の通り1ヶ月半後に山中城は半日足らずで落城。
北条氏勝は城を脱出して玉縄に帰って籠城するも、本多忠勝の説得をうけて4月21日に開城し
戦後、下総弥冨で1万石を領している。
討ち死に覚悟で大層な手紙を寄越しておきながら
生きて帰って来てしまったという、ちょっとばつが悪い話。
0101人間七七四年
2014/04/26(土) 15:40:18.27ID:Zhc8gxkT■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています