戦国ちょっと悪い話39
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0001人間七七四年
2014/04/16(水) 16:25:33.40ID:k6etqqGP戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話38
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386399929/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話39
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1388212891/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2014/04/16(水) 22:54:21.66ID:UOeVs+w/葛西大崎一揆鎮圧を命じられた伊達政宗は、容赦ない掃討戦を行い一揆勢を追い詰めていった。
七月四日、ついに一揆勢は政宗の前に降伏した。政宗はおもだった者たちを須江山にうつした。
政宗はこのあと、豊臣秀次に一揆首謀者の助命を嘆願したともされる。
しかし伊達成実『政宗記』によれば、
「一揆勢は要害にたてこもり、土地の者とも通じており打ち果たすことは難しいのです。
そこで一計を案じ、ひとかたまりにして山に集めておきました。
ご命令とあれば打ち果たしますが、いかがしますか」
と秀次に申し上げたという。秀次は討つよう命令をくだした。
かくして討たれた二十人あまりの首は、塩漬けにされ京都に送られた。
この犠牲者数だが、郷土史家の研究だと最大八十人前後という説もあるそうだ。
政宗が一揆を煽っていたわけだし、口封じをしなければいけなかったのだろうが、
助命すると言っておきながら相手をだまし討ちにした悪い話ではある。
0004人間七七四年
2014/04/17(木) 16:49:41.66ID:uY1P5ieq丸亀城は慶長のころに生駒親正によって築城されたが、元和元年の一国一城令により廃城と決まった。
しかし時の藩主・生駒正俊は、祖父の親正が石工を井戸に落としたり、豆腐屋を人柱にしたりと、心血を注ぎ築城した丸亀城を惜しみ、城の要所に樹木を植えて城を覆い隠し、カモフラージュに成功。
人の出入りを厳しく制限して城を破却したように見せかけて城を残した。
丸亀城は天守のほかに大手一の門・大手二の門・御殿表門・番所・長屋・石垣などが現存しており、今の我々が目にすることができるのも生駒正俊さんのおかげ・・・かもしれないのだが、築城の逸話を考えると、いい話に投稿するのもなんだかなぁと思ったのでこっちに。
余談ではあるが、今の丸亀城は山崎家治が改修し、京極氏の時代に完成したものだから、破却してても見れたかもしれない。
0005人間七七四年
2014/04/17(木) 19:59:00.48ID:2j5e6fX2天皇の耳に達した。その件は、デウスの教えの敵である異教徒たちによって、天皇の許では悪意に
解釈されたので、天皇はそのことで一人の使者を道三の所に遣わし、
『キリシタンの教えは道三を弟子とするに相応しくない。それは日本の神々の敵であり、神々を悪魔呼ばわりし、
まさしくそのお怒りを招く教えである。』と述べた。
道三はこれに対し、思慮深く次のように答えた。
「私はつい先日キリシタンになったばかりですから、デウスの教えが日本の神々を悪魔呼ばわりするのを
聞いたことがありません。と申しますのは、伴天連の方は、日本の神々とは人間であって、ずっと昔の
皇族や、日本の貴族の出の主要人物であることを熟知しているはずだからでございます。
むしろキリシタン宗門は、徳を説き、全てにおいて公正なことを教えるものであると承知しております。」
そして道三は、この使者が来たことを直ちに教会に通報した。そして説教役を務めている日本人修道士に、
注意するようにと、使者をして次のように忠告させた。
「もしも今までに日本の神々を、そのように悪魔と呼んでいたのであれば、今後、それらに対して
基本的な教理を説くにあたっては、天皇並びに日本の貴族に対する尊敬の念から、そのような呼び方は
せぬ方が良いであろう。それはキリシタン達に対して、天皇や異教徒の貴人が怒りを発せぬように
するためである。
それよりも御身らは、日本の神々について語る時は、それらは死すべき人間と同様のものであると言い、
その力や功徳は人間を救い得ず、また現世の事に対してもなんら利用する所はないものだ、と説明するが良い。
しかもそうする事によって異教徒たちが衝撃を受けないようにするため、控えめな言葉でもってするように。」
(ルイス・フロイス『日本史』)
曲直瀬道三、キリシタン改宗を天皇から叱られてとっさに色々取り繕うというお話。
0006人間七七四年
2014/04/17(木) 22:06:47.34ID:CpqQTzOJ浪岡御所は南部地方はもとより津軽地方や出羽北部からも一応尊敬されていた家柄であったためである。
そこで、大浦為信は北畠顕村が遊興にふけっているのに目をつけた。
浪岡一帯の博徒を大浦城に呼び、金を与えて賭博をさせ、酒宴まで開いて帰した。
この賭博は数度開かれ、為信と博徒らがすっかり親しくなったところで、為信は急に賭博の開帳をやめた。
不思議に思った博徒らは大浦城に出向き、「近頃さっぱり賭博をやめられましたが、どうなされましたか」、と尋ねた。
為信は「所用あり、遊ぶ暇がなかった。しかし、今日はゆっくり遊んでゆけ」ともてなしたあと、
「ところで汝らの領主は下を慈しみ、人心を得ていると聞くが、汝らはなぜ生業につかないのか」と聞いた。
すると博徒らは「仰せのごとく、領主が政を敷いておれば我らも自ら善をはげみます。しかし、領主が柔弱で奉行、頭人らが邪欲を欲しいままにしているため、皆困窮しこのような筋無きことで妻子を養っているのです」と答えた。
その言葉を待っていた為信は、「苦しんでいる民を救うのは心やすいことだ。我らはこれまで所々の虐政を討ち、民を救うことを本意にしている。ひとつ、浪岡を征伐してやろう。その時は汝らも善をはげめ。そうなれば、汝らを召抱えてやろう。
この事は絶対にもらすな。近いうちに浪岡を攻めるから、汝らは戦に乗じて金銀財宝を盗み、大いに乱暴せよ」
大浦為信は大義名分を「救民」と明らかにし、天正六年七月二十日未明(1578)、浪岡御所を攻めた。
大浦軍は総勢2300余りで、兵を第一陣の乳井・千徳勢700、第二陣の森岡・兼平勢600、大浦本軍1000余に分けた。
この日は北畠顕村の後見役北畠顕忠が油川城に行っていたが「御所が襲われることはない」と安心しきっており、たちまち大混乱に陥った。
この騒ぎに乗じて為信の息がかかった博徒らが「大浦勢が来た!」と浪岡城に入り四方に火をかけた。
そして、一応顔を知っている北畠顕村のところへ走り、「大浦勢は目の前です。早くこの駕籠に乗って避難してください」と駕籠を差しだした。
すると、顕村は"渡りに船"と、早速駕籠に乗った。
博徒らは北門を出ると、まっすぐ大浦勢の本陣へ突っ走り、駕籠を大浦勢に渡し、まんまと北畠顕村は生け捕りにされた。
合戦から二日目、北畠顕村は
故郷を夢にいでこし道芝の 露よりもろきわが命かな
と辞世の句を詠み幽閉先の寺で自ら命を絶った。
以上、つがるの夜明けより
既出では無かったので、一応。
津軽為信が救民の為に浪岡征伐を敢行した、悪い話。
0007人間七七四年
2014/04/18(金) 10:19:56.61ID:jIky1PaD0008人間七七四年
2014/04/18(金) 11:19:59.08ID:rWlg2JRm0009人間七七四年
2014/04/18(金) 12:54:24.30ID:HRysnx+z伊予の国、総津の地に立花城という城があった。
最後の城主は大野直周(直昌)と伝わり、長曽我部に攻め滅ぼされたとも、秀吉の四国攻めで滅んだとも言われている。
一族は猿谷(仙波渓谷)に落ち延び庄屋になった。
落ち延びた一人に大野直周の娘がいた。名を芳我台(はがたい)という。
芳我台は成長すると、容貌醜く、素晴らしい怪力と暴力性を併せ持つようになった。
そして男装して関ヶ原に出陣し、大活躍して沢山の褒美を手に村に帰った。
しかし、芳我台の武威と暴力性を恐れた村人たちは
「次は俺が襲われるのではないか、酷い目に遭わされるのではないか」
と疑心暗鬼になり、とうとう芳我台の寝こみを襲って殺してしまった。
その死に様は、片目が潰れた凄まじい形相で、最期に
「片目の蛇に生まれ変わり、七代お前たちに祟りをなす」
という恐ろしいものだった。
それから暫く後、村には片目の蛇が出るようになった。
その蛇を見た者は、病に臥したり、不意の事故に遭ったりした。
これは芳我台の祟りに違いなしと村人は芳我台を芳我大明神として祀った。
すると祟りは治まったという。
芳我台が持ち帰った宝物は、今も仙波正八幡神社に納められているという。
戦う姫が美しいなんて誰が言った?
0010人間七七四年
2014/04/18(金) 13:08:33.27ID:HRysnx+z余談ではあるが、合わせて紹介したい。
以下は案内板の文章。
千人塚
天正13年7月、豊臣秀吉の四国征伐が行われ、長曽我部軍に敗れた総津立花城の将兵は、野地越えの「千人成」に退いた。
だが衆寡は敵せず多くの戦死者を出し、その遺骨を集めて葬ったのがこの「千人塚」である。
そして将兵の休んだ場所を「桜の休場」とも言う。
また、一説によればこの地に仙人が住んだとも伝えられ、「仙人塚」と称することもある。
老杉の浮根が抱ける霧の墓
不可止
0011人間七七四年
2014/04/18(金) 18:46:25.14ID:sc68QPd1>>9
井伊直虎、甲斐姫、巨迹繧烽サんなんだったんじゃないかなと
ジャイアンの母ちゃんみたいな…
0013人間七七四年
2014/04/18(金) 19:53:38.39ID:Hh03wPkuゴリラに鎧着せたような感じだったんだろうか
0014人間七七四年
2014/04/18(金) 20:30:52.70ID:JnQduTPV天正16(1588)年、最上義光の影響下にあった庄内に、本庄繁長と実子で大宝寺の家名を継いでいた義勝は小国口から鬼坂峠を越えて庄内地方へ突如として侵攻を開始した。
上杉軍は庄内の東禅寺寄りの城館を次々と落とし尾浦へ進軍。
最上方の東禅寺義長は弟の東禅寺右馬頭(勝正)と十五里ヶ原で上杉軍を迎え撃った。
しかし数で劣る東禅寺軍は疲弊し、さらには東禅寺兄弟の政をけして良くは感じていなかった庄内の国人らが上杉軍に旗色を変えて尾浦や大宝寺の街に付け火をし、放牧で逃走や裏切りが相次いだ。
これにより東禅寺義長は討死し、その報を聞いた勝正は偽首の計事により本庄繁長に一太刀浴びせたが目的を達せず討取られた。
山形から月山を越えた辺りまで最上の援軍が来ていたが合戦には間に合わず
東禅寺勢と庄内在番中の最上方の軍監の草苅虎之助と氏家光棟らをはじめに兵2,500余人が討取られた。
敗残兵軍は朝日山城などで池田盛周・邦周親子らが抵抗を続けたが敗れ、庄内地方は上杉の支配下となった。
その後本庄に味方をした者は取り立てられ、最上や東禅寺に通じていた者らは悉く追われた。
続いて上杉の兵らにより執拗な残党討伐や親最上派狩が行われた。
翌年になっても「ねぎり(根切り・根絶やし)」は整然と続けられ、庄内から最上派は一掃されたと言う。
「庄内の昔話」
0015人間七七四年
2014/04/18(金) 21:46:52.00ID:Rjxo+iff0016人間七七四年
2014/04/19(土) 02:33:11.29ID:MNIlPhKx私闘禁止令破りでも北条は罰として滅ぼされ、上杉はヒャッハー過ぎてラスボスもほっといたのか。
0017人間七七四年
2014/04/19(土) 06:06:14.88ID:Qw9SnuT/結局は豊臣政権に従ったらセーフで逆らったらNGなだけだし。
0018人間七七四年
2014/04/19(土) 06:37:26.02ID:t/WfMyGm0019人間七七四年
2014/04/19(土) 17:47:56.89ID:4D7S36vy古田「(*゚Д゚*)キミ、越前の真柄を討ち取ったんだって?その時の話を聞かせてくれよ。どうやったんだい?」
青木「いや、真柄って人は凄く強い人でさ、本当なら僕が討ち取れるような相手じゃないんだけど・・・巡り合わせがよくてね。
真柄がケガして疲れ果ててるところに出くわしてさ、たまたま僕が行きがかり上討ち取ったってだけなんだよ。
だから話すことなんて無いんだよね。(´-ω-`;)ゞ」
飾らない青木の態度に、古田や聞いていた者は皆感じ入ったという。
0020人間七七四年
2014/04/19(土) 17:56:14.04ID:4D7S36vyスレ間違いすんませんでした。
0021人間七七四年
2014/04/19(土) 18:40:33.53ID:4D7S36vy黒田一成は童名を「はつ」といい、黒田長政の寵童だった。
城井を攻めた時のこと、総軍が退却する中、はつは残り槍を合わせたという。
奇特なりと長政が褒めるのを聞いた後藤又兵衛はかげで
「はつの槍は長いねえ。一里八町くらいあるんじゃないの?」
と笑っていたという。
0022人間七七四年
2014/04/20(日) 07:15:54.19ID:VScin6KQ0023人間七七四年
2014/04/20(日) 10:38:21.90ID:dXauvDAG0024人間七七四年
2014/04/20(日) 10:44:38.34ID:bMKM8+U80025人間七七四年
2014/04/20(日) 11:28:11.77ID:QyIRPes10026人間七七四年
2014/04/20(日) 13:46:52.91ID:/kUM2KEe0027人間七七四年
2014/04/20(日) 19:13:47.68ID:wxeGH0tc0028人間七七四年
2014/04/20(日) 21:57:28.17ID:Isu6luxe某家臣団は「戦わずに逃げてくんじゃねぇよ!」だけど
長政憎しで命かけて戦ってる人間にこの物言いはなぁ…
0029人間七七四年
2014/04/20(日) 23:17:49.16ID:VScin6KQGT-MTB「やだ、わたしngmsにストーカーされてる?」
黒田家一同「ねーよ!」
0030人間七七四年
2014/04/20(日) 23:59:52.58ID:IJl7NddY0031人間七七四年
2014/04/21(月) 00:18:05.04ID:xliIxot8長政は弟みたいな扱いなんだろ
0032人間七七四年
2014/04/21(月) 00:36:46.17ID:Gj8yUMWzこれも憎まれっ子世に憚る、か
0033人間七七四年
2014/04/21(月) 00:39:59.67ID:7mhr5a/90034人間七七四年
2014/04/21(月) 01:59:21.72ID:5YRmUs0n0035人間七七四年
2014/04/21(月) 09:21:00.35ID:6h/K3DlSそのため西国に出立するのだと皆心得ていた。亀山より樫木原まで出て、西国に向かうのだと思っていたところ
直に京に向けて武者を押した。故に人々はみな不審に思った。
桂川を渡って、初めて信長を攻めるという触れが出された。
未明に信長の居た本能寺に押し寄せると、信長は切腹し火をかけた。京中では何事があったのか
何も知らなかった。何故なら本能寺のあった新在家は他所とは違い、四方に掻き上げの堀があり、
土居を築き木戸もある構えの内であったためである。
土居に上がってこの騒動を見た者の中には、これは明智の謀反だと推量する者もあった。
里村紹巴は光秀の内意を知っていたが、「どうしてそんな事があるだろうか。」と、人がそのように言うのを
制した。里村昌叱は「思い当たることがある。」と言った。
さて、明智勢は本能寺に火をかけた後、城介殿(織田信忠)の宿所である妙覚寺へと押し寄せた。
当時、その辺りは京の中でも町家は所々にわずかにある程度で、視界の妨げにならなかったので、土居の上から
はっきりと、水色の旗の軍勢が妙覚寺に進んでいるのが見えた。そのため『さては明智が謀反したのか!』と、
たしかに皆が知ることになった。
妙覚寺は、現在の室町薬師町にあった。しかし構が無いため敵に対応することは出来ないと、信忠は
南都の陽光院殿(誠仁親王)が御座されていた小池の御所(二条御所)に移った。
誠仁親王は禁中に退去された。
親王は烏丸の方の門から出られたが、肩輿も無かったので人に背負われて行った。
また公家の正親町殿(正親町季秀)はこの騒ぎの中、誠仁親王への見舞いに参上し、室町の方から
小池の御所に入ったが、その時はすでに退出した後であった。そこに明智勢が急に攻めてきたので、
御所から出ることも出来ず信忠勢と共に中に籠もるはめになった。
正親町殿はこの時の様子をよく観察しており、後で人々に語った所によると、信忠の士卒は皆、大庭に
集合していた。正親町殿は菓子として昆布を持っていたのを出して、これを諸士に与えられた。
この時、顔色が変ってしおれていた者達は、皆家に功の有る歴々であり、意気揚々としていたのは
皆新参であった。
この後の明智勢との戦闘で、顔色の変わっていた者達は皆、勇敢に戦い討ち死にし、意気揚々の者達は皆、
狭間をくぐって逃げ出したとの事である。
さて、正親町殿には室町の町家に、知人である楽人の家があった。そこで御所の壁を乗り越えて
その楽人の家に入り、公家の正装を着て烏帽子をかぶってそこから出た。これにより、彼は公家であると
明智勢からも通行を許された。そのため、逃れることが出来たのだという。
(老人雑話)
老人雑話より、本能寺の変の時に、現場に居た人々の証言である。
0036人間七七四年
2014/04/21(月) 16:39:19.98ID:/IcLHN8X元の寺号は円明寺といったが、五十三番の円明寺と同じで紛らわしかったため、延命寺に改めたという。
この寺の梵鐘は古くから素晴らしい音色で知られ、近見太郎と呼ばれた名物だった。
梵鐘は伊予の国に長曽我部元親が乱入した時に略奪されてしまい、兵たちにより船に積まれ持ち去られた。
しかし洋上に出ると、誰も叩かぬのに
「いぬ〜いぬ〜(帰る帰る)」
と唸りをあげ大きく動き出し、とうとう船を傾け海中へ転がり落ちてしまった。
これを見た長曽我部の者たちは
「鐘が自ら動き、略奪を拒んだのだ。」
と不思議な仏力に恐れおののいたという。
その後、梵鐘が無くては不自由だということで、当時の住職が私財で梵鐘を鋳造した。
この二代目の鐘は近見次郎と呼ばれ、やはり音色の良さで知られたが、松山城に時鐘として持ち去られることになった。
しかし、いざ運ぼうとした時、誰も叩かぬのに
「いや〜ん、いや〜ん」
と唸りをあげたので、置き去りにされたという。
この次郎は引退し、今は三代目の近見三郎が使われているが、除夜の鐘だけは今でも近見次郎が使われ、その音色を響かせている。
0037人間七七四年
2014/04/21(月) 16:59:23.34ID:lgWi0JxUゴールデンウイークはぜひ四国でスタンプラリーをとステマしてみる
0038人間七七四年
2014/04/21(月) 19:35:21.76ID:ahGkrcyI0039人間七七四年
2014/04/21(月) 19:47:05.85ID:A62KKR/l0040人間七七四年
2014/04/21(月) 21:37:51.56ID:5YRmUs0nしかも「いや〜ん、いや〜ん」ってw
「嫌よ嫌よも好きのうち、男心をくすぐる良い音でなく鐘よ」
とか言い出すのがいなくてよかったね
0042人間七七四年
2014/04/21(月) 23:23:43.22ID:WaJ0rS+K0043人間七七四年
2014/04/21(月) 23:29:10.91ID:XpaFlkttそういや長政と対比してたまに出てくる
又兵衛は官兵衛には従順だった
(官兵衛は又兵衛を使いこなしてた)
ってのは何の話によるものなんだろう
0044人間七七四年
2014/04/22(火) 00:14:36.07ID:7qAeSLCEよくそんな話は聞くけど出典とかはわからないや〜
如水さんの又兵衛さんへの接し方が全てでしょ
家光・忠長の件と根は一緒かな
0045人間七七四年
2014/04/22(火) 03:32:04.91ID:c9ZjV2mHお前はゴリラさんを誤解している
ゴリラが凶暴だなんてとんでもない!寧ろ臆病で繊細なんだぞ
動物園で飼われていたとあるメスゴリラは尻尾のない子猫を可愛がっていたが
元々病弱だったその猫が死んだ時、涙を流して悲しみに暮れ、食事も摂らななり餓死寸前にまでなった
野生のゴリラも胸板を叩いて(ドラミング)縄張りへの侵入者を威嚇するのは戦いたくないから
傍でクラッカーを鳴らしただけで音でびっくりしてショック死するくらい繊細なんだぞ
0046人間七七四年
2014/04/22(火) 09:53:22.86ID:K6SPwjmj0047人間七七四年
2014/04/22(火) 14:05:20.89ID:MjRFUtAj0048人間七七四年
2014/04/22(火) 18:43:20.39ID:bUrUzFAe0049人間七七四年
2014/04/22(火) 19:47:01.19ID:+iMs8WN/世上おしなべて名物というのは、玉堂という茶入と、利休の円座肩衝と言うものだけであった。
しかしこれらも、何程という物でもなかったのに、今では無類の名物のように言われている。
その後ある時、相国寺にあった、名を相国寺という唐焼きの肩衝を、古田織部が黄金1枚で求めた。
これが茶入が高値となった始まりである。しかし程なく加賀の前田家に千五百貫で売った。
これは当時、古田織部が間悪く金が無く、借金の返済をせつかれた為、その借金を支払うために
売ったのである。
道哲親円浄坊が取り次いで、前田家より代金を持ってきた時、この私も織部方に居合わせていた。
黄金60枚と、蓮華王の茶壺をひとつ持って来た。壺は織部の方から所望したものである。
円座肩衝は今は江戸にあるが、明暦の大火の時に消失したそうである。
(老人雑話)
0050人間七七四年
2014/04/22(火) 22:38:13.61ID:oQ50ob0wといいたくなるような代物ばっかりという印象。
江戸時代とは工芸のレベルが違いすぎるんで、
どうしても稚拙に見えちゃう。
もちろん、戦国期でも明のものすごい陶器・磁器は入っていたんで、
あえてああいうものを名物扱いした面もあるんだろうけどさ…
0051人間七七四年
2014/04/22(火) 22:51:25.83ID:lz5MHbul0052人間七七四年
2014/04/22(火) 23:18:01.33ID:QApH+8kg0053人間七七四年
2014/04/22(火) 23:35:46.65ID:USbTqCmw工芸品としては曜変天目(特に稲葉天目)が最高峰だろうけが
茶を飲むなら、工芸品としては大した事ない楽の黒茶碗の方が
濃茶の緑が映えておいしいはず
0054人間七七四年
2014/04/22(火) 23:46:28.39ID:zVDrE6OV0055人間七七四年
2014/04/23(水) 00:00:19.02ID:uTXUlDps大陸ではただの雑器でも、将軍や大名、大商人が
これは良いものだと言い、受け継がれていくと名器に化ける。
0056人間七七四年
2014/04/23(水) 00:16:38.86ID:ruw1rFiG0057人間七七四年
2014/04/23(水) 00:22:11.32ID:dqLsp4XZ0058人間七七四年
2014/04/23(水) 00:29:17.28ID:mQzjKopQ0059人間七七四年
2014/04/23(水) 00:34:16.85ID:rBfI8Yi+0060人間七七四年
2014/04/23(水) 11:47:08.23ID:tlFClwQp天目って陶器だけど?
もうちょうましな嘘つこうぜ
0061人間七七四年
2014/04/23(水) 14:25:58.47ID:3Ecy/FsP0062人間七七四年
2014/04/23(水) 15:47:19.85ID:eaAIOIIi0063人間七七四年
2014/04/23(水) 18:30:41.46ID:Nj2dELrq伊予の三間に土居清良という戦上手の殿様がいた。
そして清良の娘に、乙御前という名のそれは美しい姫君がいた。
ある時、乙御前に縁談があり野村の豪族、保堂新左衛門に嫁ぐことになった。
いよいよ輿入れの日、どうしたわけか一向に保堂家より迎えが来る様子がなく、とうとう夜になってしまった。
繊細な乙御前は、さては破談になったのかと心を痛め、世をはかなんで髪を下し尼の姿になってしまった。
しかし、明くる日になると、もう来ないものと思っていた保堂家よりのお迎えの行列がやってきた。
なんでも昨日は行列の前に不吉の兆しがあり、日を改めて来たのだという。
これには清良も困ってしまった。
前もって連絡を寄こさない保堂家に腹も立ったが、結婚とは縁起の良さを重くみるものであり、保堂家に強く抗議するわけにもいかない。
たった一晩で姫を尼にした土居家に非がないわけでもない。
思い悩んだ清良は、姫にかつらを被せて嫁がせることにした。
つづく
0064人間七七四年
2014/04/23(水) 18:34:22.33ID:Nj2dELrq美しき花嫁の姿に婚儀の宴は大いにもりあがり、清良の作戦はうまくいったかと思われたが、夜になり乙御前が休んでいると、かつらが取れてしまった。
そこへ折悪しく保堂新左衛門がやってきて、髪の毛一本も無い姫を見てしまった。
これに保堂新左衛門は激怒し、
「尼を嫁にもらうつもりはない!」
と乙御前を追い出してしまった。
そして乙御前は来た道を三間へと帰ることになったが、繊細な乙御前は傷心のあまり滝壺へと身を投げてしまった。
そして姫の後を追い、下女や馬も次々と身を投げた。
このことにより、乙御前が身を投げた滝を「乙御前の滝」と呼び、かつらが流れて行った川を「桂川」と呼ぶようになったという。
下女が身を投げた「下女ヶ淵」馬が沈んだ「馬淵」も同様である。
乙御前を憐れんだ村人たちは、「乙姫さま」として祠を作り、乙御前の霊をなぐさめたという。
0065人間七七四年
2014/04/23(水) 18:38:21.15ID:Nj2dELrqまして当時の婚礼は縁起をかついだんでしょうね。
婿の名前は宇都宮乗綱のバージョンもあります。
0066人間七七四年
2014/04/23(水) 20:48:58.88ID:XBFGJ3+R尼になれば破談になると思ってたんだろう
0067人間七七四年
2014/04/23(水) 21:40:16.82ID:nF1V7OSh0068人間七七四年
2014/04/23(水) 22:09:32.03ID:a7yIlisV0069人間七七四年
2014/04/23(水) 23:11:37.32ID:kRVVR4bO0070人間七七四年
2014/04/24(木) 00:46:32.40ID:ZKXY3hr00072人間七七四年
2014/04/24(木) 17:39:05.58ID:b6x5TlJJ天目形してる茶碗なら磁器だろうがプラスチックだろうが天目茶碗と言っても間違いではない。
使う時は天目台っていう台にのせて、貴人にお茶を出すときや神仏へのお供えに使う。
実家は古い寺だったから色んな天目茶碗があった。
唐物もあったし、瀬戸物も染付のもあった。
0073人間七七四年
2014/04/24(木) 19:12:15.79ID:KGiRFpVzまあ、焼き物に関しての知識は全くないから、無知だと言われてもしかたないけど
形は天目形ってやつだと思う
いまでもそういうの作ってるんだと思って書いたのでした
0075人間七七四年
2014/04/24(木) 20:34:45.02ID:tgBcSFhG0077人間七七四年
2014/04/24(木) 20:53:55.22ID:B5vX70uC今は色んな陶土や釉薬が売っているから、
有田の陶芸家が天目釉とそれっぽい陶土で天目茶碗作ってもおかしくないよ。
0078人間七七四年
2014/04/24(木) 20:57:18.18ID:B5vX70uC古田織部が茶の湯の宗匠だった時のお話。
織部が気に入っていた大工に喜右衛門という者がいた。
そのころ茶の湯を嗜むものは織部を崇敬していたので、喜右衛門にも懇ろにしていた。
ある人が茶会を催し、谷衛友を上客にし、お相伴のニ三人のうちに喜右衛門を加えた。
その茶会の当日、やってきた谷衛友を喜右衛門は露地で出迎えて
「今日はお相伴させて頂きますので、かなり早く来てしまいました。」
と言ったところ、谷衛友の機嫌はみるみる悪くなり
「客の選び方がおかしいだろ」
と帰りそうになったが、お相伴の人たちがいろいろ取りもって、何とか穏便に済ますことができた。
当時はこの出来事について、様々な批判がでたそうだ。
0079人間七七四年
2014/04/24(木) 21:06:09.90ID:c8AoaX8xついでにローゼンメイデン最終巻も買ってきたわ
0080人間七七四年
2014/04/24(木) 21:30:05.08ID:Ne/HH6LT必要となると謀反を起こし、敵と組み、また自分自身が領主となる。
それから、よりをもどして味方になったかと思うと、また裏切る。
しかし、それで自分の名誉を損なうということはないのである。
『日本諸事要録』より。
ヴァリニャーノ司祭の、すごーく率直な、侍への評価。
0081人間七七四年
2014/04/24(木) 23:25:45.53ID:WNB1MB+g0082人間七七四年
2014/04/24(木) 23:39:05.78ID:64o6U2CJとはいえそういう武士ばかりではないと思うけど
それに、助けるはずの東ローマで略奪、暴行、ついでに滅亡させちゃったりする
宗教的情熱あふれる西洋の騎士もなかなかのもんだぜ?! 耶蘇教の神父さんw
0083人間七七四年
2014/04/24(木) 23:53:21.53ID:zogf4qTm帝位につけてやったのに、約束の金を払わなかった方が悪い、
と言ってみる
0084人間七七四年
2014/04/25(金) 14:05:57.82ID:hSnNRti90085人間七七四年
2014/04/25(金) 20:29:34.24ID:TsjUD0jW0086人間七七四年
2014/04/25(金) 20:31:59.17ID:X+tYX9QW攻撃して教皇に一時的に破門された事を言っているのだろう
とスレ違いだが言ってみる
0087人間七七四年
2014/04/25(金) 23:30:42.79ID:OD4bQaKz0088人間七七四年
2014/04/26(土) 00:59:40.83ID:CIg+fgYk謀聖と謳われた戦国初期の雄、尼子経久。
彼には3人の優れた息子が居た。
長男、政久。父に劣らず知勇兼備にして各種の文化にも通じ、時の帝である後土御門帝にその文才・教養を称賛され、
まさに謀聖の跡継ぎに相応しい人物であったが、26歳にして戦死。
次男、国久。父以上の武力・軍才を持つと内外に評され、尼子家の柱石として武闘派の新宮党を率いて山陰・山陽諸国に
その武名を轟かすも、最期は甥晴久の集権体制を確立させる為に殺害されたとも、新興勢力の毛利元就の謀略により
甥・晴久に嫡男誠久はじめ、一族諸共殺害されたとも言われる。
そして、3男興久。彼は父経久が大内義興に従い上洛した際、山陽の覇者大内家との仲を深めんとする父の思惑により、
大内義興の偏諱を受け興久と名乗る。
その後、二十歳になるかならないかの頃、父の命を受けた興久は出雲一帯に大きな勢力を誇る塩冶氏に養子として入り
当主の地位を得、山陰における尼子家の勢力拡大に大きく寄与することとなる。
尼子家と塩冶家に出来た深い縁と蜜月の時であるが、それは長くは続かなかった・・・。
(続く)
0089人間七七四年
2014/04/26(土) 01:02:28.85ID:CIg+fgYk財政的負担と折衝の為の辛苦は尼子一族の中でも大きな物であった。興久は父経久と腹心
の亀井秀綱に対し、自らの知行を増やすよう申し出るものの、秀綱により却下される。
そして、興久はキレた・・・。
享禄3年(1530年)、興久は以前より親交を深めていた出雲の反尼子勢力の三沢氏や多賀氏、
また出雲大社・鰐淵寺・真木氏・妻の実家である備後山内氏・但馬山名氏と組んで父経久に
対しての反乱を起こす。
中国地方のもう一方の雄である、大内氏との結びつきが大きかったのも原因であるという。
自らの勢力圏の大半が息子の興久につき、謀聖・尼子経久は窮地に追い込まれる。が、
その後戦況は一変する。
塩冶興久が父へのトドメとばかりに支援を求めた大内家の新たな当主・大内義隆は両者共倒れ
を狙って興久ではなく、劣勢の経久に対して支援することを決めたのであった。
これにより戦況は一変、興久は徐々に敗勢が濃くなり妻の実家である備後山内家へ逃亡する。
しかしながらその後勢力を回復することは出来ず、1534年に自刃。
遺領は息子清久が継ぐ物の大半はその伯父・国久の管理下に置かれる事となる。
いずれにせよ、この後尼子家は経久の孫、晴久が家督を継いだ後に国久との間で仲たがいを起こし、勢力の衰退を招くこととなる。隣国の毛利元就はこれを反面教師としてとらえて三矢教訓状を作り、一門の結束を訴えたのか・・・?
いずれにせよ、尼子家が家族で争うこととなった悪い話。
0090人間七七四年
2014/04/26(土) 03:04:53.67ID:iOXbuZnl「仕える御家が無くなり、新たな領主に仕官をせずに出羽から越後、越後から江戸へと移り住み頭も丸め腰の物も降ろした」
「現世は夢か幻か。川の流れに漂うヒョウタンの様にぷかぷかとした気持ちで世の中の事の良し悪しの判別をする事もなく、思うままにただただ面白おかしく書き綴った
だからこれを読んだ者はきっと手を叩いて笑ってくれる事であろう。だから書名を「笑いの書」とする」
「侍と言えども人は人。上が無能なら下も苦労する。上に立つ者だけに留まらず、それに続く者まで要領が悪いとかの話になれば、さらに下で仕える者にとっても本当に洒落にもならない」
「多少なりとも名が売れてる人にも苦労はある。隣の芝生が青く見えるのは誰にとっても同じ事だろう」
「可笑記」
作者(斎藤親盛)の親は元・川北三奉行の一人の斎藤筑後守広盛(大宝寺・志駄・最上・志村に仕える)。
「可笑記」で指摘されている無能な上の者とはさてさて誰の事になるのやら…
0091人間七七四年
2014/04/26(土) 03:22:04.21ID:iOXbuZnlだから書名を「笑いの書」とする
⇒(前述のそういった訳)だから書面を「笑いの書」とする
「而(しこう)して」は仙台弁の肯定の「だから」の意味に近いのだろうか?
0092人間七七四年
2014/04/26(土) 04:03:57.52ID:WkVGfwGg0093人間七七四年
2014/04/26(土) 04:25:13.55ID:iOXbuZnl天正16年10月、長宗我部元親の怒りを受けて吉良親実が小高坂で切腹をした
この夜親実は小高坂の下村某という侍の家で碁を打っていた
すると元親の使いという者が現われ「殿(元親)の命である。今宵腹を召されよ。我等が検分と報告を承った」と親実に主命である事を告げた
親実は打ちかけの碁石を置くと
「私は殿(元親)が過っている時には諫め正すのが務めであった。だが心無き者らが殿を誤らせ、この私を殺そうとしている。長宗我部家もこれまでか」と腹を切り、腸を掴み出した処で首を落とされた
しかし元親の怒りは親実の切腹だけでは収まらなかった
数日の間に親実と親交深かった者や親実の旧臣ら七人が主命の下に続けて弑された
それからしばらくの事
小高坂や親実の墓の辺りに夜毎に人霊が現われるようになった
また小高坂では首のない侍が白馬に乗る様や、僧形の巨人が闇夜を歩き回る姿が目撃された
物の怪を見た者は日を置かずに高熱に犯され、いたるところで大病人や変死者が続出した
親実の処刑を元親に讒言したとされる久武親信の家にも変事が続き
八人の子が次つぎに発狂して七人までが死に、親信の妻も悲嘆のあまりに自害をして果てた
人々はこれを罪なく命を奪われた親実派の怨霊の業だと囁きあった
0094人間七七四年
2014/04/26(土) 04:45:48.00ID:iOXbuZnl吉良親実と「七人ミサキ」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2288.html
久武親直の讒言と吉良左京進親実の祟り
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2370.html
とは微妙に異なる話
他に怨霊を恐れた元親が親実の葬儀を行ったところ
親実と家臣らの位牌が踊り出したり宙を舞ったり、
空から親実らの笑い声が聞こえてきたりする逸話などが複数ある模様
0095人間七七四年
2014/04/26(土) 05:32:49.39ID:iOXbuZnlWiki
平安時代に書かれた日本最古の造園書「作庭記」には、「芝をふせる」という記述が見られるために、芝が造園植物材料としてこの時代には認識されていたものと思われる。また、明治時代に入り諸外国との交流が活発化すると、各地で西洋芝が導入された。
0096人間七七四年
2014/04/26(土) 07:13:02.49ID:pYbjAHw+実際は元親の更年期障害が原因だというのに
悪者は主君ではなくいつもお側にいる忠臣
0097人間七七四年
2014/04/26(土) 10:06:08.32ID:AFZuOKes0098人間七七四年
2014/04/26(土) 11:12:52.59ID:iOXbuZnlうん。大高坂←→小高坂とか、讒言の内容も甥・姪の婚姻は不吉だとか盛親への家督相続は長幼の序に逆らうだとか、久武と吉良の善悪の扱いが異なったり、吉良が掃討されなきゃいけない程家中で強い権力をもってたとか、
吉良の墓は土まんじゅうに塔婆を立てた粗末なもので柵で隔離されてたとか、位牌が7〜8並んで行進したとか、関連人物名が違うとか
派生型がそこそこ出てくる
0099人間七七四年
2014/04/26(土) 11:53:40.54ID:iOXbuZnl江戸初期の大名や武士の間では頬や顎にヒゲを生やすのは勿論の事、もみあげを伸ばすのも武士としての武辺者の趣を示す嗜みのひとつでもあった
しかしある時土井利勝が綺麗さっぱりとヒゲを剃った出で立ちで登城した
諸大名は利勝の行為を不思議に思ったが、土井家中の剛の者、鮭延越前(秀綱)らの話からその理由が判明した
鮭延「殿(土井利勝)は歳を経てヒゲを蓄えるにつけ、なにかと神君(徳川家康)に似て来たと噂をされるのを痛く気になされておる。
あらぬ噂(土井利勝は実は家康の隠し子だから容貌が似てくるのではないかといった噂)が過分になされぬ様にヒゲを落とされたのよ」
ヒゲ面の諸大名の中にあってヒゲを落とした事から
わけを知らぬ者にまで理由を詮索される意味ではちょっと悪い話
0100人間七七四年
2014/04/26(土) 13:49:01.22ID:zKQ+OnJX自身の本拠である相模・玉縄城の留守を守る家臣の堀内勝光に書状を送った。以下は意訳。
……秀吉が近日京都を出陣する事を現地に派遣している者が報告してきました。
正確な日時は不明ですが、兵力は20万人だそうです。その他にも北陸や奥羽の連中も関東に攻めて来るとの事です。
我ら山中城の軍勢は僅か5千人で、こんな大軍を防げるはずがありません。
ですから小田原へ「もっと加勢を寄越してくれ」とお願いしていますが、未だに承諾されず送ってきません。
そんな状態ですので山中城を1日保たせるのも難しいでしょう、討死は確定です。
落城の報せを聞きましたら、以前内々に話し合ったように玉縄城の事はあなたに任せるので
留守の者達を集めて籠城し、最後の一戦を挑んでください。
そして惣曲輪・二ノ丸まで破られたなら本丸に籠り、私の母(氏康の娘)を刺し殺して城に火を放ち、勿論あなたも切腹して下さい。
詳しい事は(書状を持っていった)西原越前が話します…(以下略)
『丹波堀内文書』
さて、この後どうなったかというと、御存知の通り1ヶ月半後に山中城は半日足らずで落城。
北条氏勝は城を脱出して玉縄に帰って籠城するも、本多忠勝の説得をうけて4月21日に開城し
戦後、下総弥冨で1万石を領している。
討ち死に覚悟で大層な手紙を寄越しておきながら
生きて帰って来てしまったという、ちょっとばつが悪い話。
0101人間七七四年
2014/04/26(土) 15:40:18.27ID:Zhc8gxkT0102人間七七四年
2014/04/26(土) 16:45:51.67ID:iOXbuZnl古河の歴史
http://culture.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/tenjiannai/josetu/tosikatutokeihu.htm
土井利勝の出生については当時から徳川家康の子供とのうわさが広まっていたが、利勝自身はそのうわさをできるだけ避けていた。公には土居利昌と葉佐田氏の娘との子供となっている。また一方では家康の従弟の水野信元説も当時から唱えられていた。
江戸時代中期には藩内で藩主の家譜調査がおこなわれ、家康の子と明記されている。
近年、地元研究者の説でも実父は家康、養父が土居利昌(三河国碧海郡土居村早乙女小左衛門利昌 家康の家臣 知行500石)が有力視されている。
保科正之「…だそうです」
0103人間七七四年
2014/04/26(土) 17:09:59.30ID:6C8dYTeN0104人間七七四年
2014/04/26(土) 17:24:17.45ID:/NUGOV8U0105人間七七四年
2014/04/26(土) 23:13:07.92ID:rE086cAs0106人間七七四年
2014/04/27(日) 00:10:29.27ID:djLyE9Or異説があったんだ
0107人間七七四年
2014/04/27(日) 00:18:12.03ID:A/y6LEAC0108人間七七四年
2014/04/27(日) 00:20:06.52ID:A/y6LEAC0109人間七七四年
2014/04/27(日) 00:42:33.55ID:sO//N/iW0110人間七七四年
2014/04/27(日) 01:01:34.22ID:1NazEr0ohttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d7/Gamo_Ujisato.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9e/Toyotomi_Hidetsugu.jpg
0111人間七七四年
2014/04/27(日) 09:07:48.68ID:2IAAZpPrttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/68/Motonari_Mouri02.jpg
0112人間七七四年
2014/04/27(日) 09:32:28.35ID:lumTAuRP0113人間七七四年
2014/04/27(日) 09:39:02.19ID:ywfmyHMo0114人間七七四年
2014/04/27(日) 10:11:26.60ID:fTMFQXHchttp://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1398556700/l50
0115人間七七四年
2014/04/27(日) 11:26:23.56ID:xDcLNJh0『遠州・三州両国の如きは、信長・家康の輩が神社仏閣、諸寺を横領、侵入し、民を迫害して
自分たちの利益のみに走り、ほしいままに暴威を振るっていることは、前代未聞と言った次第です。
従ってこの信玄が、正義の兵を挙げて大軍をなびかせ出陣したのです。
敵勢はあちこちに集結してこれに応戦しましたが、掛川、二俣をはじめその他数ヶ所の要害の
大半を破却させて、残党も尽く降伏させましたので、この行動をご容認される御教書をお出し下さい。
主君の御意としては黙視できぬことと存じますが、彼らが幾重にも犯した諸悪は数え切れぬことですから、
このままにしては置けません。すなわち、信長・家康以下の逆徒を誅伐、降伏させて、天下を鎮めることを
お引き受け致す旨、ここに謹んで申し上げます。
そもそも信長・家康は、逆乱を企て諸寺を焼き払い、諸仏を破壊、略奪し、自分たちの事のみ考え
栄華を極めて、それに対して人々には口を閉ざし、眉をひそめさせることしか出来ないように
追い込みました。ここには偏に仏法王法の破滅の相が見えており、彼らは欲界の天魔の権化と言うべきでしょう。
とりわけ勅許も受けないのに自ら昇殿し、高官尊体を称する咎は逃れようがありません。この罪が一つ。
自分が匹夫の身分低い血統であることを弁えず、月卿雲客をしてみだりに口出しをさせ、権門を侮る
無礼の咎は浅くありません。この罪が二つ。
京の市中郊外を徘徊して、課税を多くし労役を課し、戦って降伏した者達の財産も略奪した咎。この罪が三つ。
長年の戦乱で、各地で敵となったり味方となったりしていますが、そうする中で一度ゆるした後に、
高槻、今中城、高宮の兵をたちまち処刑しました。これでは籠の中の鳥を殺すのと同じです。何を真実とし、
何を信頼すればいいのでしょうか?誰がこういうことを憎まずにいられるでしょう。この罪が四つ。
去る永禄12年、坂本において朝倉義景と信長が雌雄を決しようとした時は、忝なくも勅命を受けて
将軍のご命令を賜り、そこで数通の起請文を以って和睦がなり、共に各々の領国へ引き下がりました。
ところが信長は翌年7月上洛して、神社仏閣を灰燼に期すようなことをしました。これは勅命に背くだけでなく、
将軍のご命令にも背くもので、天罰を受けるだろうというだけでは足りません。悪逆無道の咎、これが罪の五つ。
右の五つの罪を犯した者など、千古にあったということを聞きません。いわんや最近においては全く例の
無いものです。もしこうした悪逆をこのまま黙認されるならば、悪臣がますます国を荒らすでしょう。
また窮鼠かえって怨敵となり国を横領しようと企てることになります。しかしこういうことは心に隠して
居るものですから、公方様のお耳には未だ達していないかと存じますが、諸国の者にあまねく知れ渡っている
所です。
もし御処置もされずにこのまま放置なされるのは、虎の尾を踏み、豺狼のような残酷、貪欲な人物を懐にして
いるのと同じことです。これでは諸国の御敵を蜂起させ、大混乱の元を作るというものです。
早く信長・家康以下の凶徒を誅殺すべきとの御命令を賜れば、彼らの舘を攻め、我が身がどうなろうとも
たちまち凶党を滅ぼし、その屍を軍門に晒し、首を獄門にかけて御覧に入れます。そうすれば万人は
安心し、安寧に戻るというものではありませんか。
いやしくもこの信玄は正義を尽くし政策を帷幄の内に巡らせ、四海の混乱を鎮めて、台嶺(比叡山)の諸伽藍、
七社の霊藍を復興し、再び顕教密教を同時に学べる霊地となして、現世の安寧のために政を正し、
正義、道徳で世を照らし、天下を静謐にする功績を残したい旨を、宜しく将軍にお伝えして頂きたい。
信玄 誠惶誠恐謹言
正月七日 大僧正法性院 徳栄軒
上野中務大輔殿(義昭側近・上野清信)』
(甲陽軍鑑)
武田信玄が、信長・家康討伐の許可を将軍義昭に求めた書状である。
0116人間七七四年
2014/04/27(日) 13:21:44.01ID:A/y6LEAC津軽為信「!」
0117人間七七四年
2014/04/27(日) 14:08:42.80ID:2IAAZpPr0118人間七七四年
2014/04/27(日) 15:04:29.61ID:T29vAuyi0119人間七七四年
2014/04/27(日) 15:20:27.35ID:rzxXqYtr0120人間七七四年
2014/04/27(日) 18:49:19.44ID:zglfmmxJ0121人間七七四年
2014/04/28(月) 00:08:10.49ID:whGuCfTR0122人間七七四年
2014/04/28(月) 00:47:36.73ID:6e331j/t0124人間七七四年
2014/04/28(月) 03:14:33.07ID:6e331j/t0125人間七七四年
2014/04/28(月) 04:24:44.13ID:RmJ1rQ5X0126人間七七四年
2014/04/28(月) 13:20:25.15ID:6e331j/tぬこ「ククク・・・奴は我等の中でも最弱・・・」
てんなん「軍神北条佐竹太田…エトセトラに敗れて蘇えられんとは・・・」氏治「我ら天庵四天王の」
天庵「面汚しよ・・・」
0127人間七七四年
2014/04/28(月) 14:41:40.34ID:TMKHEz240128人間七七四年
2014/04/28(月) 14:48:42.12ID:uHYO5n/X0129人間七七四年
2014/04/28(月) 14:59:23.92ID:YWMP2xIV0130人間七七四年
2014/04/28(月) 15:42:18.92ID:naYF/c+i0131人間七七四年
2014/04/28(月) 17:26:06.40ID:sSzFhXQE0132人間七七四年
2014/04/28(月) 17:28:46.79ID:DPnB/8u9最上家第四十七代当主最上公義氏が平成26年4月22日に永眠されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
公益財団法人山形市文化振興事業団/最上義光歴史館
01331/2
2014/04/28(月) 19:10:13.93ID:dM3EMjqW『そもそも武田入道信玄は、讒訴して五ヶ条を掲げて将軍に訴えた輩であることを知られました。
このような事は、誠に狂言綺語(仏教十悪の一つ)と言うべきでしょう。
元はといえば、三好左京大夫(義継)の逆心があって、そのために光源院殿(足利義輝)が
自害なされ、誠実な者達の大半が討ち死にし、将軍家が最大の危機に達したところで、
当御所様(足利義昭)が南都から脱出なされ、伊賀・甲賀路を経て近江の矢嶋に御座を移されたのに、
佐々木承禎(六角義賢)が先祖の遺言に背き、主従の道を忘れ、無常にも追い出したので、越前に
下られた事に始まったのです。
朝倉は元来それほどの者ではないのに、父(朝倉孝景)が将軍の意向を眩ませて御相伴衆の地位に
付き、それに続いて自国において勝手気ままに我意を通しました。そのような者によって将軍の
御帰洛がなされるなど、前代未聞と言うべきでしょう。
そのため公方様はどうにも仕方がなく、岐阜に御座を移され、私に寄りかかって下されたので、この信長は
頼りにならぬ者ではありますが、公儀御用を承ったと言うことなのです。
そういう訳で、天下の新たな統一への忠功に尽力いたそうと心がけ、国家のために一命をとして御伴いたして
おりました所、近江においては佐々木(六角)が所々の城でこれを妨げましたが、忽ちにして攻め崩しました。
そこで畿内の逆党たちは数ヶ所に砦を構えて抗戦いたしましたが、一要害も残らず、14日の内に
攻め落としましたので、畿内のことは言うに及ばず、四国、中国、遠島遠路に至るまで皆味方に馳せ参じて、
将軍に仕え初め、そのため宮中に御参内なさる事が出来たというのは、偏に信長の成功の賜ではなかったかと
存じております。
01342/2
2014/04/28(月) 19:11:16.22ID:dM3EMjqW途方に暮れていて、巷にて飢えている風情だというのは、前代未聞の事です。
一、嫡子太郎(義信)を理由もなく牢に入れて、鴆毒で殺したことは、無法この上ありません。
父を追放し子息を殺し、その他親類の多くを討ち死にさせました。
一、年来の眷属に一戦を勧めておいて、傷ついた侍たちを一所に押し込めて焼き殺す、という行為に至っては
大悪行の最たるものです。誰がこのような彼に、心から信じて従うものでしょうか?
特に信玄の与力であった浅井(長政)は、この信長の身分と比べれば相応しくありませんでしたが、
妻女として我が妹を遣わし、その上近江一帯の支配に加勢してやったというのに、どうしたわけか
信長が金ヶ崎に出陣した時、寝返って後陣をしたことは、前代未聞と言うより他ありません。
一、信玄は剃髪染衣して仏門に入った姿となったのに、他国を領有しようと貧欲になり、民を害し、内では
破戒の業をなし、外では五常(仁・義・礼・智・信)に背く、をれは売僧の如くです。
これについて特に、比叡山、伝教大師の、桓武天皇国家護持の霊場において、衆徒が近年つまらぬ
行動を起こし、潔戎を破り牛馬の糞尿で伽藍仏前を汚し、魚鳥を食していました。
なので天道からの神罰が下って、山上山下、尽く燃え尽きたのです、これは信長が断行したのでは
ありません、自業自得の結果です。
一、信玄は時節を伺って、支那・震旦にもその例を見ないような、俗人であるのに大僧正を称しているのは
例がありません。
一、駿河の今川氏真は、信玄にとっては甥になるのに、そこに家老を送って甥の国を乗っ取るのは、前代未聞の
態度です。
一、関東の北条氏政は信玄にとって聟であります。ところが関東に乱入し、あまつさえ氏政の門前まで焼き払って、
北条家の縁者郎党を尽く斬捨て、聟に対し天下の恥をかかせたことは、前代未聞の次第です。
事に諏訪頼重の娘を、信玄が自分の妾にし、末子とはいえ四郎勝頼を産みながら、頼重を騙し、甲府へ
招待しておいて、接待のため猿楽を催し舞楽を興行してなだめ、隙を突いて近習のものに命じ頼重を
討たせたことも、前代未聞の次第です。
このように無軌道であることを仏神も憎悪されたのか、信玄には10も国を領有させません。
一方この信長は五常をしっかり弁えており、禁中を尊重し、公方を敬い、民を憐れむこころざしが天道にも通じ、
天下を統治するべき位置に立ち、国家を興隆し子孫を繁栄しようとすること、祈願しなくても仏神の道に
かなって、このように上手く行っているのです。信玄の言う偽り言を、もし信じてお認めになるのなら、
天下が混乱することは確実です。古い諺にも、君主が人に阿る奸智に長けた人物を取り立てれば災禍を招くと
言うではありませんか。讒臣の訴えは大乱の原因となるということ、宜しくご配慮いただきたい。
信長 誠惶誠恐謹言
天正元年正月二十七日
上野中務大輔殿
(甲陽軍鑑)
織田信長による、>>115の信玄の書状への反論である
0135人間七七四年
2014/04/28(月) 21:20:17.15ID:BDRM4HUu0137人間七七四年
2014/04/29(火) 07:45:04.19ID:Xgkcyqel0138人間七七四年
2014/04/29(火) 13:31:01.05ID:PnE9nOi6真田弟「僕は本名で呼ばれる事が少ない」
>>132
先の最上家当主で鮭様記念館に大森の火事で遺った史料を含めて最上重代の家宝を無償で寄附なされた方か…
画家の現・最上の当主が最上の「最」の字を崩して日取とかいった名字に改名したといった噂とか、お子さまがいない様な話を聞くと
仙台の伊達泰宗氏にも娘さんしかいなかったはずだから
平成の最上騒動や伊達騒動が近い未来起きるやも知れない
今は故人を偲び、黙祷
0139人間七七四年
2014/04/29(火) 13:41:00.07ID:PnE9nOi6(山形城跡にて)
http://samidare.jp/yoshiaki/note?p=log&lid=80276
現・当主義治氏(1953〜)は大阪と海外を行き来する画家。
0141人間七七四年
2014/04/29(火) 15:37:17.37ID:DZ0iNpi40142人間七七四年
2014/04/29(火) 15:42:00.10ID:MJQbFzSk0143人間七七四年
2014/04/29(火) 15:54:02.90ID:PnE9nOi60144人間七七四年
2014/04/29(火) 16:23:16.85ID:DZ0iNpi4ホームページ見たら島津家の家紋あって日本の伝統を感じたわ
0145人間七七四年
2014/04/29(火) 16:23:43.44ID:PnE9nOi6パチもん→武田アンリ、三代不明のスケーター
0146人間七七四年
2014/04/29(火) 16:25:44.16ID:dkn1ufst島津家との血縁はないからな。伝統はあるとはいえ
0147人間七七四年
2014/04/29(火) 17:09:17.61ID:te8PrpVq0148人間七七四年
2014/04/29(火) 17:17:31.78ID:53qyPJW2襖絵師が抜けておるわ
0149人間七七四年
2014/04/29(火) 17:31:41.13ID:SiDLsERq0150人間七七四年
2014/04/29(火) 17:55:04.81ID:/kwEhuG60151人間七七四年
2014/04/29(火) 18:30:28.76ID:l3YFnWDzあと大名じゃないけど面白いところでは、浦上氏の重臣で、宇喜多直家に浦上氏ともども備前を追い出された
日笠青山城の日笠氏は、その後次男の家系が岡山に戻って土着して大庄屋として発展し、明治後岡山有数の資産家へと
上り詰めた。
声優の日笠陽子はおそらくこの家系。
0152人間七七四年
2014/04/29(火) 18:57:59.88ID:/b4E0Pi00153人間七七四年
2014/04/29(火) 19:13:33.65ID:P/JVWUDf家広は宗家当主の仕事を継ぐのを嫌がってるから困るって現当主の恒孝さんが言ってたな
0155人間七七四年
2014/04/29(火) 22:05:54.50ID:MDqGO95nなんでこう名人といい加藤ヨッシーといい、いわゆる出頭人の名将は
揃って子育てが下手なんだ
特に堀直次の坊主を論争させて負けたほうを皆殺しとかキチガイすぎんか
0157人間七七四年
2014/04/29(火) 23:01:58.14ID:PnE9nOi6伊達総家の泰宗氏、血の流れから言えば本来は庶流?
0158人間七七四年
2014/04/30(水) 00:15:34.15ID:iQ5+prBk亀井静香は琉球守と無関係。亀井久興は本物の子孫。
有馬記念の人は戦国ラッキーマンの子孫
0160人間七七四年
2014/04/30(水) 01:37:04.86ID:LrHer4FG0161人間七七四年
2014/04/30(水) 10:48:17.78ID:cLrr9SfV0162人間七七四年
2014/04/30(水) 12:20:02.75ID:QDabY3FI///)
/,.=゙''"/>>157
/ i f ,.r='"-‐'つ____ こまけぇこたぁいいんだよ!!
/ / _,.-‐'~/⌒ ⌒\
/ ,i ,二ニ⊃( ●). (●)\
/ ノ il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
,イ「ト、 ,!,!| |r┬-| |
/ iトヾヽ_/ィ"\ `ー'´ /
家臣とかが納得すりゃいいわけで
0163人間七七四年
2014/04/30(水) 12:40:16.11ID:a63KsiAPタバコ盗んだ逸話の蜂須賀正勝の子孫だったり
0164人間七七四年
2014/04/30(水) 13:33:37.40ID:+m03uR/m0165人間七七四年
2014/04/30(水) 14:33:32.22ID:tZINcd3T縁組解消と賠償を求めて裁判所に訴えたって記事を見た記憶があるんだが
あの後どうなったんだろう。
0166人間七七四年
2014/04/30(水) 17:07:00.13ID:+m03uR/m(母親がした「桔梗が忌み嫌われてる話」とかは他の織田系統の子孫からは否定されてるみたいだし)
丹波柏原藩系のジャーナリストの織田信孝氏が信成は贋者扱いしてなかったっけ?
井伊家も中村?伊澤?達夫氏は見合いかなにかからの婿養子?
0167人間七七四年
2014/04/30(水) 17:15:41.11ID:a63KsiAP0168人間七七四年
2014/04/30(水) 18:11:25.79ID:vNnBFlD+ほら、目なんか特に
0170人間七七四年
2014/04/30(水) 20:09:57.55ID:TItJ32WA0171人間七七四年
2014/04/30(水) 21:18:03.13ID:Plmr9pK00173人間七七四年
2014/05/01(木) 01:15:33.57ID:85nhxkYM信成は審議不明なんだから胡散臭いでいいんじゃない?
真田って男系で残ってる?
いまは松平から入った系統だよね?
0175人間七七四年
2014/05/01(木) 01:54:11.59ID:g7HUxJat仙台真田が信繁の男系子孫を名乗っているが所詮一藩士なので系図が曖昧で当てにならないらしい
0176人間七七四年
2014/05/01(木) 05:41:57.60ID:lpJqLWg/0177人間七七四年
2014/05/01(木) 11:10:19.86ID:WwgVa52I0178人間七七四年
2014/05/01(木) 19:23:38.46ID:AhDCFXl9他の家はお家の繁栄のためなら将軍の息子を
養子に迎え入れたりするわけだからなぁ。
0179人間七七四年
2014/05/01(木) 23:07:02.79ID:Utx4rs/I0180人間七七四年
2014/05/02(金) 00:16:48.94ID:w/ilQyvt大内家家老、陶興房。大内氏譜代の重臣陶家の陶弘護の3男であるが、父が暗殺された後に起きた長兄・武護と次兄興明の争いで次兄興明が死に、
後に長兄武護が主君大内義興に誅殺されたことにより陶家の家督を継ぎ、長じて大内家の家老として文武両面で主君義興を支える存在となる。
戦場で常に主君義興を補佐し、大内軍の副将として各地で戦ってきた興房は1511年、船岡山合戦で一人の戦国大名と出会う。
足利義稙を擁する大内義興、細川高国に従い上洛した山陰の尼子経久である。
敵方の足利義澄方が陣取る船岡山を囲んだ大内連合軍であるが、その直前に擁する足利義澄が病死したにも関わらず戦意旺盛な敵方を攻略するために尼子経久は大内の副将たる陶興房に一つの提言をする。
0181人間七七四年
2014/05/02(金) 00:40:25.99ID:w/ilQyvtこれに対し、丹波で合流したばかりの西国の兵を信用できなかったのか、直前に赤松義村が裏切ったこともあってか興房は
興房「我が大内軍は夜襲が苦手でな・・・」
と、夜襲の提言を退けたと言う。なお、その船岡山合戦の結果は・・・
大 内 軍 が 先 陣 と な っ て 夜 襲
した事で大内義興・細川高国連合軍が勝利。京は足利義稙側の手に戻っている。
興房が尼子経久の夜襲の提言を退けた後、自分達の手柄とする為に大内軍が夜襲を仕掛けたのか、それとも尼子経久が義興に直談判して夜襲を決意させたのかは定かではない。
ただ、山口県文書館蔵の義興の手紙には大内軍大将の義興自身が先陣に立ち、夜襲軍を率いていることなどが伝わっていることから義興は夜襲にノリノリで賛成したのではないかと思われる。
この数年後に尼子経久は中国地方へ覇を唱えんと、義興不在の山陽地方に手を出すのであるが、この時経久の提言を退けた陶興房が何度となく彼の前に立ちはだかる事となるのである。
終生のライバル同士の初の出会いにして相手の手柄を横取りしたようなされたような、ちょっとだけバツの悪い話。
0182人間七七四年
2014/05/02(金) 00:58:07.28ID:w/ilQyvtこの時、陶興房は尼子経久の夜襲の提言を
「大内軍は夜襲が苦手ゆえ・・・」
と断っているが、実際に1524年に安芸・佐東銀山城の戦いで援軍の尼子方・毛利元就連合軍の夜襲を受けて破れたりしている。
夜襲(されるの)は確かに、苦手だったのかもしれない。
しかし、この戦で毛利元就の存在とその武勇、安芸における重要性を知った陶興房は、先に毛利家で起こった、元就と弟元綱の家督争いで尼子家と毛利家の関係の危うさを見抜き、翌1525年に調略により毛利家を大内側に寝返らせることに成功している。
名将は転んでもタダでは起きないのであった。
0183人間七七四年
2014/05/02(金) 01:01:42.76ID:EHc3fyDm0184人間七七四年
2014/05/02(金) 01:09:14.30ID:w/ilQyvtだいたい、前の騒動の時に武田家旧恩会にも武田家の系譜であることを否定されてたし。
まぁ、あっ… (察し)って感じじゃないですかね
0185人間七七四年
2014/05/02(金) 03:59:26.03ID:t+3doVHx0186人間七七四年
2014/05/02(金) 08:33:12.13ID:kzVpMk+p0187人間七七四年
2014/05/02(金) 10:03:51.97ID:Fctmpt+N0188人間七七四年
2014/05/02(金) 11:50:05.16ID:+b8kdCH00189人間七七四年
2014/05/02(金) 13:26:15.81ID:oJnXzN5F0190人間七七四年
2014/05/02(金) 14:54:35.41ID:vErtNpZq0191人間七七四年
2014/05/02(金) 15:05:47.49ID:EoHCg8jK秀吉の小田原征伐で上総武田氏と共に那須に亡命して消滅。
0192人間七七四年
2014/05/02(金) 19:44:22.17ID:EoHCg8jK両国の主であり、宇喜多直家はこの浦上の家臣であったのである。
この直家は悪性の人物であり、国郡を持つ人と縁者などになって、後にこれを殺して奪い取ることを
度々行った者なのである。
最後には主君である浦上をも殺し、終に備前美作両国の主となった。
八郎殿(宇喜多秀家)はこの直家の子である。彼が太閤(秀吉)と非常に良い関係となったのは、
秀吉が備中高松城を攻めていた時、明智光秀による本能寺の変の情報が伝えられ、秀吉は引き返したいと
思ったが、なかなか自由にならなかった。
この時八郎殿は秀吉に味方し、力を添えたので、それもあって高松の城主に腹を切らせ、一気に反転して
上京をすることが出来た。この忠功によって親密な関係となり、秀吉は八郎殿を聟に取った。
ただし秀吉には息女がなかったので、前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟とした。
この時分は、八郎殿は未だ10歳ばかりであった。高松攻めのころは直家も未だ生きていたのだが、
瘡毒のため人前に出ることも出来ない状況にあったため、八郎殿を国主分とし、宇喜多家には
5万石3万石領有する強力な家老たちがあったので、彼らが談合して高松の時も秀吉に協力したのだという。
八郎殿は太閤の聟となりまた官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。治部少輔(石田三成)の乱まで
治部方であったために、関が原が東照宮(徳川家康)の利運となると、八丈島へと流された。
彼は現在も生存しているという。癸卯の年(1663年)、老人(江村専斎)が99歳の時に語った話である。
(老人雜話)
老人雜話の、宇喜多直家・秀家親子についての記述である。
0194人間七七四年
2014/05/02(金) 22:58:56.80ID:uD1Xe7rS浦上宗景「あれ、ワシ直家に殺されたっけ・・・?」
0196人間七七四年
2014/05/03(土) 01:14:58.08ID:Kz69vmly0197人間七七四年
2014/05/03(土) 04:14:04.42ID:ZwYI2HzU天正10(1582)年6月、京で織田信長が明智光秀の謀反に斃れると旧武田領の甲斐と信濃のたちこちで一揆が起きた
伊賀越えで難を逃れた徳川家康は一揆の話と甲斐の河尻秀隆のかねてからの圧政を不安視し、家臣の本多信俊を甲斐へと派遣した
本多信俊「信長公は亡く、信濃の森殿も美濃へ引こうとされているとの由、河尻様が尾張に戻られる様ならば主家康は東海道をお使いくださいとの事です」
秀隆は信長に恩義の厚い実務主義者だったために
信長の死に乗じて家康が秀隆の命と甲斐を狙っているものと勘繰った
秀隆は殺されるよりは先に信俊を片付け様と、光秀討伐と甲斐の統治の話を信俊に持ち掛け積翠寺を信俊の宿とした
その夜信俊の下に密かに武田の浪人が訪ねて来た
某「河尻秀隆が使者殿を殺そうとしております。府中城内にも武田の旧臣仲間がおり、この申し出に間違いはございません」
本多信俊「…」
0198人間七七四年
2014/05/03(土) 04:29:18.56ID:ZwYI2HzU秀隆は「では早速だが明智討伐と甲斐についての案件を話すとしよう」と信俊の注意を他に引き付け、細かな評定を行い、夜寝所で休んでいた信俊の寝首を欠いた
翌日寺には武田の手の者が来たが、信俊は戻って来ていない
山県昌景の旧臣だった三井弥一郎昌武といった者が手勢を連れ河尻の城へと押し寄せた
三井「徳川様の使者が来ているはずだ。織田に用は無い。甲斐は徳川様に与する由本多信俊殿に話をさせよ」
河尻秀隆「甲斐の国主は私である。織田と徳川には同盟がある由、浪人風情といち使者に話をさせる言われはない」
三井「明日再度返事を聞きに来る。それまでに覚悟を決められよ」
三井は知らなかったが、すでに信俊はこの時点で殺されていた
0199人間七七四年
2014/05/03(土) 04:48:32.35ID:ZwYI2HzUガランとした城に残る兵は百人足らず
黒母呂衆「殿(河尻秀隆)、もはやこれまでにござれば潔く腹を召されませ。我らは死出の供を務めまする」
秀隆「たわけ!何故ワシが腹を切らねばならぬ?
一揆勢は烏合の衆ぞ。代表者を城内に招き、片付ければ残った奴輩は退散するであろう」
この言葉に城内に残っていた兵らはおおいに失望した
守備兵組頭「門を開け。大勢は決した…」
秀隆「貴様、なにを?」
河尻を見限った兵らは三井らを城に入れると
武器を手放し、地に投げ捨てた
秀隆に最期まで従った者わずか二十人余り
内八人が討死し、残りも一揆勢に降伏した
川尻秀隆は三井の言に従い、切腹
享年56
遺骸は無造作に掘られた穴にさかさまに投げこまれ埋められた
「河尻肥後守之墓碑」
これが信長の黒母呂衆筆頭から一国の主となった
河尻「肥前守」秀隆の墓に刻まれた碑文である
0201人間七七四年
2014/05/03(土) 04:59:45.58ID:ZwYI2HzU0203人間七七四年
2014/05/04(日) 19:35:41.85ID:8KBlIew7家康の堺見物の案内をせよと遣わした。しかし、実はこれは、隙を見て家康を殺害しようとする
謀であったというのだ。
家康の運が強いために明智の乱が起こり、太閤が西国より登って来る時、家康は伊賀越えをし
三河の岡崎に馳せ帰った。明智の事がなければ、家康は危うい所だったのである。
(老人雜話)
家康が信長に殺されかかっていたらしい、というお話
0204人間七七四年
2014/05/04(日) 19:49:43.01ID:K4fySxTS0205人間七七四年
2014/05/04(日) 19:57:32.28ID:logqxORsやはり信長は家康を殺さず活かし続けるつもりだったんだろなあ
0206人間七七四年
2014/05/04(日) 20:49:43.22ID:asmH4bY/食事のためにつかう青タオルが同じバケツに入れられ一度濡らされてから作業することになっている
つまりどういうことを言いたいかというと衛生環境が最悪なタオルでお客様のつかうテーブルをこの会社は綺麗にしているつもりで毎日掃除をしているわけだ
JALは他社の外国製の飛行機も取り扱っている
つまりそれは外国人の尿や糞がたっぷりこびりついたタオルで毎回洗うバケツが洗われていないという事実と上記に書いた文とを重ねて考えてほしい
JALだけでもただでさえ汚い人の糞尿 それが完全に外国製のものも混ざってそれでお客様のつかうテーブルを拭くってことになるわけだ
バケツも綺麗に洗っているところを一度もみたことがない
菌を塗りたくったテーブルでお客様は食事をしている
JALは最悪 最低の会社である
0207人間七七四年
2014/05/04(日) 20:51:10.51ID:asmH4bY/私はラバー(トイレ)を夢中で掃除をしていていました
そのときトントン トンと私の肩を叩く人がいたので振り向いてみるとその飛行機のクルーの一人が
目を吊り上げて私の前に立っていました
そして私に「あの人たち 口を動かしてばかりで仕事しない 注意してきてくれ」と私にいいました
私は急いで係長にそのことを報告しにいきました 班長はその横で口を緩ませてヘラヘラしているだけでした
他社からあいつら喋ってばかりで仕事をしないといわれても恥じもなく 適当な仕事を他社に見られても平気な
JALグランドサービス
このことでその飛行機会社からは信用を失い二度とJAL系列に仕事を任せないと
決断してくれることを切に願うばかりである
0208人間七七四年
2014/05/04(日) 20:52:26.54ID:asmH4bY/自分の小さい下品なチンポ見せたっていうキチガイもいるよw
名前だしてもいいのかな?
必ず酒を飲むと裸になってしまうというJALグランドサービスの社員の名前をw
0209人間七七四年
2014/05/04(日) 20:53:39.05ID:asmH4bY/課長が代わって千代っていう馬鹿課長になったんさ
前の課長はまだ部下 したの人間の言い分も聞いて器のでかさがあったけど
その後きた千代って言うのがとんでもなくアホ
俺が周りの係長とかに苛められているという事実も今まで周りから不愉快な言いがかりや
暴言などを耐えていたという状態も知らず俺を悪い奴と決め付け絶対俺をやめさせると
いい 毎日のように粘着し ついには俺を会社から追い出すという暴挙にでた
「お前みたいな使えない奴を長くいさせるよりかは訴えられて賠償金を払ったほうが安くすむ」という暴言も吐かれた
それから「俺は今まで自分が使えないと思った奴を辞めさせてきた」と俺に豪語したこともあった
0210人間七七四年
2014/05/04(日) 20:54:34.96ID:asmH4bY/それを正せる上司が一人もいないというのが特徴の会社
0211人間七七四年
2014/05/04(日) 20:55:46.01ID:asmH4bY/0212人間七七四年
2014/05/04(日) 20:58:00.55ID:asmH4bY/蹴っ飛ばしたり頭を殴ったりしていた
あれをパワハラといわずになんていうのか?
こんな屑なことばかりやっている悪質な会社JALの傘のなかでふんぞり返っているのだから
JALそのものがたいしたことがないといえるだろう
班長 係長 課長とも人間としての品格を疑うことがおおい
常軌を逸した行動を認知していながらそれを容認しているJALグランドサービス
フィロソフィなどただ毎日口にだして読んでればそれで満たされる
ただそれだけのもの どんなりっぱな言葉を並べたとこでそれを毎日読んでる人間が
バカじゃ意味がない 陵辱 ひとの足をひっぱったり人を不幸にしている
JALグランドサービスが物心両面の幸せだと? 笑わせるなw クズ会社がw
0213人間七七四年
2014/05/04(日) 20:58:48.95ID:asmH4bY/大きな穴があいて破損させた馬鹿がいたよね?
犯人つかまったの?
あれだけの穴があいていて音が聞こえなかったなんておかしいよね?
こんな不祥事はこの会社しかないだろうしあれだけ人が多いロッカーで誰も気がつかないのもこの会社だけw
アホJALグランドサービスw
0214人間七七四年
2014/05/05(月) 04:43:19.79ID:CtjeyP82織田信忠に従い武田勝頼を破った滝川一益は功績により上野と北信濃を新領として織田信長に与えられた
一益は厩橋を居城に定め、上野の国人衆に従来の本領を安堵する約束を行い、合わせて武田家滅亡により上野に逃れていた武田の旧臣らに対しても「一益は関東には不案内。地の利は生まれ育ったその方らが断然に詳しいだろうから是非に力を貸してほしい」と融和策を敷いた
信長が本能寺の変で斃れると、一益は上野の主だった城将や国人らを集め
京の本能寺で明智光秀の謀叛により信長親子が死んだ事を述べ
「滝川一益は上野を離れ上方へ戻る。信長公の弔い合戦に臨むつもりである。
これを好機と感じこの一益の首を獲り北条へ寝返ろうと思う者は遠慮なく申し出よ。恨みはせん。
戦いを仕掛けてくる者とは一戦交えてでもワシはなんとしても光秀を討ちに西へ進む」と思いを吐いた
北信濃の藤田信吉が離反し
時を経ずに北条軍が上野へと侵攻を開始
一益の漢気に感じ入り「武士の鏡」と滝川一益が上野を離れるのを惜しみ、反北条の意を表した上野衆もいた
一益は上野の国人らを城に招き、別れの酒宴を開くと城の宝物を惜しみもなく与え、箕輪を後にした
一益は北信濃から尾張を目指したが、道中の木曾義昌が滝川勢の通過に難色を示した
一益は真田昌幸らから預かっていた人質を義昌に渡す約定を取り付け、信濃路の通行の権を得た
清洲についた時には一益抜きで織田家の指針を決める「清洲会議」はすでに終わっていた
織田家内での一益の権威は清洲会議を境に大きく失墜したが
森・毛利が全面的に敗走し、河尻が討たれた織田家の東国前線にあって
関東調停役としての人柄を見せた
滝川一益の没落に関してのお話
0215214
2014/05/05(月) 04:49:47.40ID:CtjeyP82…藤田信吉の所領
北信濃と書いてしまいましたが、もしかして…北上野?
0216人間七七四年
2014/05/05(月) 09:25:05.77ID:IFd5Lhkm軍団率いて信濃は通れなかったとしたら結果オーライだろうが何とも勿体ない
0217人間七七四年
2014/05/05(月) 10:22:02.79ID:CtjeyP82北条軍は5万、滝川勢は上野衆を交ぜて2万。
上野衆にとっても火事場泥棒に似た北条軍に地元を好き勝手にさせるわけにはいかなかったから「いくさ」という形での意地(抵抗)を滝川一益への付き合いとして、最後の奉公と上野衆の誇り代わりで示したのでは?
0218人間七七四年
2014/05/05(月) 10:24:41.90ID:CtjeyP820219人間七七四年
2014/05/05(月) 15:25:17.84ID:CRF45HGCその男子はいまだ御用には立ち難いということで忠朝の兄忠政のところへ引き取られ、
忠朝の家督は忠政の二男甲斐守(政朝)が相続して元のとおり五万石を領した。
ある時、忠政は引き取った二歳の甥に蜜柑をやろうと思って彼を呼んだのだが、
甥はどのように思ったのか忠政の側に来なかった。そのため忠政は蜜柑を甥へ
投げて与えたが、それでも甥は蜜柑を取らなかった。
そこで乳母が蜜柑を拾って甥に「さあ頂戴なさいませ」と言ったところ、
甥は「投げたものは嫌だ」と言った。忠政はこれを聞いて「さすが忠朝の子だ」
と言って褒めた。
――『明良洪範続編』
0220人間七七四年
2014/05/05(月) 15:48:30.22ID:PTPkC1JZ0221人間七七四年
2014/05/05(月) 20:58:08.56ID:llXB0Lk/思ったがそうではなかった。
0223人間七七四年
2014/05/05(月) 22:03:21.23ID:vUnb2zlB0224人間七七四年
2014/05/05(月) 22:49:58.31ID:wO4E1laa戦国時代の高名な大名や武将には人外に擬えた異名を持つ者が数多いる。
「大六天魔王」「雷神」「軍神」「毘沙門天」「竜」「虎」「鬼」「熊」「古狸」「鮭」などなど
しかしそれは生前に自称した物や後世にあだ名された物であって、当然ながら本当に神や竜だった訳ではない。鮭様などは
ただの鮭好きな気のいいおじさんのちょっと食い意地の張った所から来た異名である。
だが、その死後に本当に魔王になったと伝わる戦国大名が居た。
安芸武田氏 9代当主の光和である。
父はその武勇をして今項羽と周辺に恐れられた8代元繁。
光和はその嫡子として1501年(02、03、07年説あり)に生まれる。
光和は生まれた時から33本の歯が生えており、また生後3日目になっても産声を上げないので心配して厳島の神主を招いて
お払いをしたらやっと泣いたと言う。長じては身長7尺余り(2.1メートル)に育ち、眼は逆さに裂け、顔にはたくさんの毛が生えており、
きわめて大力で、鉄の弓を用いていた。
また居城銀山城(武田山)へ登る道に大きな岩が出ていて馬が通るのに不便であったが、6、70人の人夫の力でなくては
とても動かすことができないので、大昔からそのままになっていたが光和は自分の力試しにといって、この大岩を軽々と谷底に転がしたと伝えられている。
光和が投げた岩は山麓の安佐南区祇園帆立に「いぼ地蔵」「投石地蔵」として残っており、この岩の側にある松の葉で
人の体に出来たいぼをつつくとそれが落ちると伝わる。
(つづく)
0225人間七七四年
2014/05/05(月) 22:52:15.93ID:wO4E1laa1523年、尼子経久が安芸中部の鏡山城(東広島市西条)を落とした事で安芸の大半は大内から尼子の勢力下となった。
翌1524年、大内義興は安芸を取り戻すべく、経久が伯耆に出兵した隙に安芸西部の桜尾城、そして武田光和の居城、佐東銀山城に出兵する。
佐東銀山城を囲むは大内家の柱石たる陶興房と初陣の大内義隆率いる1万5千。光和率いる篭城軍は3千。
6月25日の緒戦では援兵として来た熊谷・香川の兵千余りが敵の抜け駆けを察知して大内方の杉・問田氏率いる千5百余りを撃退。
それから7月に入り光和率いる篭城軍3千は何度か大内側と合戦しているのだが、その中先陣に立って奮戦したのが城主光和その人である。
自らの武勇を頼みに大内方の兵を斃す光和であるが、当然その話は大内方にも知られ、ならば何とか討ち捕ってしまえと作戦が立てられる。
中国地方で敵無しと評判の豪傑・若杉四郎三郎とやはり大力で知られたその弟、また大黒新允と言う大力の者や大内義隆の近習で
打物達者と言われた者を加えて、彼ら4人が囲んで光和を斃す作戦が立てられた。
あくる日、光和はまたも先陣に立ち大内方の兵を薙ぎ倒していたが、大内方は偽りの退却で光和をおびき寄せんとする。
武田勢が追撃したところ、大内方は踵を返し逆に武田勢を包囲せんとする。これは不味いと撤収を開始する武田勢であったが、
一人突出していた光和は最後尾、そうこうしていると先の若杉ら、大内方の精鋭どもに挑発され、光和はそれに「何を抜かす」とばかりに引き返す。
先ず若杉の弟が一番に光和に襲い掛かる。しかし、光和が3尺程の大太刀(備前一文字と伝う)で胃の辺りを強打すると一たまりもなく死んでしまった。
続く若杉の兄は組み付こうとして光和に捕まると、後方から押し寄せる大黒に向かってまるで鞠か何かの如くブン投げられる。ぶつかった二人はそのまま死んでしまい、
最後に残った一人もそれを見て怯んだ所を光和の大太刀の一閃で死んでしまい、かくして大内の作戦は失敗に終わり光和は悠々と城に引き返すのであった。
その後、牛尾・亀井・毛利元就らの5千の援軍が到着し、8月5日の夜に毛利ら安芸国人衆の夜襲で決着がつくのだが、結局大内は光和を討ち取ることは出来なかった。
(つづく)
0226人間七七四年
2014/05/05(月) 22:57:33.37ID:wO4E1laa当時安芸佐東郡(現広島市安佐南区)には一つの古い文殊堂があり、そこに化け物がおり人を化かすとの噂があった。それを聞きつけた光和が誰か行って退治せよやと
近習の者に言うと、青木某というものが承り化け物退治に出かけたが、散々に化かされ這う這うの態で帰ってきた。
それを見た光和はならば俺がやってやると一人、文殊堂に出かけていった。夜も更け、静かな夜空の元で何とはなしに不吉な予感がした光和が辺りを見渡すと、一人の6-70絡みの盲人が荷物を
持ち、杖を突きながら文殊堂に歩み寄ってきた。これが例の化け物か?と、警戒していると
(*^◯^*)「誰か居るんだ!?誰なんだ!?」
(●▲●)「おう、おるでー。坊さんはどこのモンじゃ?(怪しいなコイツ・・・)」
(*^◯^*)「厳島に住んでるんだけど、最近暑いからここで寝泊りして里の人に歌を聞かせて生活してるんだ。貴方はお侍さんか?態度が偉そうなんだ」
(●▲●)「ほーん、じゃあ平家を一曲頼む。」
(*^◯^*)「ほげー、おげー、はげー、いえー(ベンベケベンベケ)カテル、カテルンダ!ナカネカラグラブヲウケトリ、グラウンドヘゼンリョクシッソウスルウチカワ、ソノメニヒカルナミダハクヤシサトハムエンノモノダッタ、ヨクジツ、ベンチデツメタクナッテイルウチカワガハッテンサレ、ヨシムラトムラタハビョウインナイデシズカニイキヲヒキトッタ」
(;●▲●)(あ、上手い・・・こりゃ本物の人間かな?)
(●▲●)(いや待て待て、人を騙す化け物なら油断できん、でも斬った後でやっぱ人間じゃったー!だったら俺の名に傷がつく)
( ●▲●)(とりあえず縄でふんじばって捕まえてやろう)ジリジリガバッ!
0227人間七七四年
2014/05/05(月) 22:58:20.61ID:wO4E1laa(*^○^*)「ああ^〜、何をするんだ!別に命は惜しくないんだ!でも立派なお侍が目の見えない私にこんなことして恥ずかしくないのか!?」
(;●▲●)(あ、こりゃやっぱ本物の人間ですわ。しくったのう・・・皆に知れたら笑いモンになること違いないわ)
(●▲●)(よし、一思いに絞め殺してやろう)
慌てた光和は証拠隠滅を図るのであったが・・・
(*^○^*)「立派なお侍が何と情けないことを考えるんだ!」
(;●▲●)「こ、心を読んだ!?わりゃやっぱ妖怪じゃろが!往生せぇや!」キュッ
(*^●^*)「ぐぇあ
(;●▲●)=3「ハァハァ、やっぱ化け物じゃねーか」
(●●●●●●●●●●)
光和が力任せに首を絞めると、老人は血を吐いて死んでしまった。翌朝、老人と思われた者はやはり化け狸で、背中には一本の毛もなく、
二歳の子牛ほどもある大きさであったと言う。
0228人間七七四年
2014/05/05(月) 23:17:03.00ID:vUnb2zlB0229人間七七四年
2014/05/05(月) 23:33:49.11ID:wO4E1laa1540年、毛利元就を通じて大内家についた熊谷信直の討伐を準備する武田光和であったが、その最中に光和は急死してしまう。
光和が死ぬ時、黒雲が空中にたなびき、屋敷の上をおおい、雲の中によろいのすれ合う音、刀と刀のかち合う音、馬のくつわの金具の鳴る音がしたといわれ、
その後の銀山城(武田山)は大魔所となって奇怪なことがたびたび起こったという。
1541年、毛利元就に攻略され銀山城は落城。光和の後を継いだ若狭武田氏の信実は逃亡し、ここに安芸武田氏の嫡流は滅亡す。
数年後、元就は山県筑後守に命じて武田光和の居館を破却させんとするも、力者3人を連れ館に入った山県筑後守りはアッー!と叫ぶと卒倒。力者3人も倒れ、
庭でその様子を見ていた従者が筑後守を手当てすると、彼は息を吹き返したものの、後の3人はそのまま死んでしまったと言う。山県筑後はその後この時の事を
尋ねられても、何も語らなかったと言う。
その後、念仏の僧が一人武田山のふもとを通った折にこの山の怪異のうわさを聞き、それは亡き光和の霊が成仏せずに修羅道をさ迷っているのであろう、しかして
仏の力で救われぬことはないと、山頂に庵を結び、光和の供養に念仏を唱える日々を始めた。すると、光和はある時は老翁となって現われ、あるとき美女や童子になって
現われ、夜な夜な僧を悩まし、
「上に貴ぶべき諸仏もなく、下に救うべき人々もない。念仏など唱えていったいだれを救おうとしているのか」
と、僧に尋ねた。一瞬答えに窮した僧を見た光和は「念仏不問、私の声が汚れる、早く下山せよ」と迫ったので、この僧は山を下り、このことは深く隠していたが、
その弟子の一人が還俗して皆に話したので、一般に知れたということである。
この後、日蓮宗の僧がひとりこの山に登り、法華経一千部を読誦し、その菩提を弔ったが、ある時、光和は、あし毛の馬に乗り、空中から現われ、かの僧に向かい、
「一切のお経はくそを拭う紙、三世の仏はくその中の虫である。そのきたない紙の中の字を読んでなにになる、そんなことやめて、歌でも一つ歌え」といったのでかの僧は、
自分は三十年余りお経を読み、いろいろの功績を積んでいる者だ。もしこの功力が空しくないものであるならば、一魔性のものを退けたまえ、と諸仏に念んじていると、
その験であろうか、化生の者は雲路をさしてのぼったという。だがこの後も武田山はたびたび怪しい事が起り、木こりも炭焼きも山に近づかないようになったということである。
0230人間七七四年
2014/05/05(月) 23:34:38.45ID:wO4E1laa大きな松風が吹くと、やがて山が崩れるかの様な音がした。僧は恐ろしくなり「魔界仏界同一如」と念じていると、年のころ三十余りの大の男が、
鎧を着、鉄の弓を持ち、鉄の矢を負い、あし毛の馬に乗って飛んできて、その後に同じく四十ばかりの男が八尺ばかりの金棒と大まさかりを左右に持ってついてきた。
二人が物をいうのを見ていると口から火を吐いており、主と思われる男が「小河内」と呼ぶと、「はい」と、六十ばかりの頬にひげの沢山生えた老人が大地から湧き出てきた。
(安佐南区に隣接する安佐北区安佐町を支配した、武田配下の小河内氏の者か?)
主人らしい男は、
「これにお客のお坊さんがおられる。おもてなしを。」というと、「承りました」と、湯玉の湧きかえる熱鉄をちょうしに入れ、鉄の杯を添えて持って来た。
そして、僧に向かい、
「宗門には熱鉄を飲むの句がある。貴僧に一杯おすすめしょう。」
先ず試しに、自分が飲んでみせようと、三度杯を傾け、その後また言葉をつづけた。
「われは、生きていたときは、武田判官光和といっていた。最後の一念によって修羅道に入り、魔軍八万四千を率いて天下の争乱を起し、仏法をあだとなし、
猛火をもってすべての寺を焼き尽くそうとしている。達磨大師九年の修行ですらどうもすることはできない。ましてこのごろの一僧においてなにができるか。
形は僧に似ているが、心は鬼の如く、身に法衣をつけているが、心は俗塵に染んでいるではないか、仏は太平の世の中のかん賊であり、釈迦は乱世の英雄である
このような不都合なものがどうしてわれを降伏させることができるか」
言葉も終らず、光和は一口に僧を食おうと飛びかかったが、忽ち大かつ一声して、「通心無影像」と叫んだその一瞬、光和は合掌して、なにか唱えつつ、跡かたもなく消え去った。
この僧は、これはまことに不思議なことであるといい、ここしばらくとう留し、光和の霊を弔った。
その後このことを武田のゆかりの人たちに語ったので、これらの人々はやがてこの僧と供養をし、千部の径を書写しこの地に埋め、千本そとばを造って追福を祈ったので、
光和の怨霊も、ようやく静まったと伝えられている。
0231人間七七四年
2014/05/05(月) 23:53:13.92ID:5v2KAvvZ読み辛くてあいすみませぬ、武田光和伝説でググると
歴史情報(広島市祇園西公民館Web情報ステーション)
と言うのが出てきますのでそちらの方が読み易いかもです
0232人間七七四年
2014/05/06(火) 00:01:39.22ID:+NBiLXy30233人間七七四年
2014/05/06(火) 00:25:42.98ID:N+hPOIHO0235人間七七四年
2014/05/07(水) 19:44:35.29ID:O0K8dqyu褒美として与えるような人なのである。
後に配下の大名を多く斃しその家を滅ぼしたのは、我が子、または近習の出頭人に知行を与えるためであった。
羽柴秀吉はこの事を能く理解していて、信長に
「私には子が有りません。そこで信長様の四男である於次様を我が子にいたしたいと思っています。
どうか私に下されますように。近江長浜十万石を於次様にお譲りいたします。」
信長はこれを大いに喜んだが、「それではその方はどうするのだ?」と尋ねた。
秀吉はこれに
「御朱印を頂けましたら、西国の2,3カ国は、2ヶ月3ヶ月のうちに討ち取ってご覧に入れましょう。」
と答えた。そういう事ならと信長は朱印を出し、竹中半兵衛という名将を副えて播磨の方へと
出陣させた。
この頃秀吉には手勢少なく、加藤左馬助(嘉明)などもこの時従ったそうだ。
(老人雜話)
0236人間七七四年
2014/05/07(水) 21:29:49.05ID:heGAOwZs0237人間七七四年
2014/05/07(水) 22:59:54.59ID:m1qEzlXo三河武士「ΩΩΩ<な、なんだってー!!」
鳥居忠吉「………(´・ω・)」
0238人間七七四年
2014/05/08(木) 12:24:36.11ID:4JPqD/xs0239名無しさん@お腹いっぱい
2014/05/08(木) 18:01:42.16ID:wlUxNjbx69:それも名無しだ[sage] 2013/05/06(月) 10:19:17.41 ID:cdt+FGzx (2/2)
>>64
【ソ連人民最大の敵】【白い死神】【生きている英霊】はリアル絢爛舞踏だからな
【鬼武蔵】
戦国DQN四天王が一人、森長可の異名
鬼柴田とか鬼島津と同様の異名だが、
コイツの場合「鬼みたいに強い」というより
「鬼のようにタチが悪い」意味に感じられるのはなぜだろう
小牧長久手にて死亡した際は
敵側大将の家康は「鬼武蔵が死んだぞ!」と配下を鼓舞し、
味方大将の秀吉は「鬼武蔵が死んだ!?助かった……」と胸を撫で下ろしたとか
71:それも名無しだ[sage] 2013/05/06(月) 10:30:58.02 ID:8C+gPdd7 (1/2)
無双とかの類の作品に出ても
表現規制に引っかかって何やっても史実より大分マイルドとか言われそうな御仁だからな
73:それも名無しだ[sage] 2013/05/06(月) 10:32:15.70 ID:PP8+YHlr (2/11)
【森長可】
そのキチガイ染みた強さと性格が知られるが、
内政に関しては中々の名君だった。
もちろん、その名君ぶりも強引ではあったのだが。
参照URL:http://read2ch.net/gamerobo/1367769187/
戦国板でなくても鬼武蔵=DQNが定着しているようで何より
0240人間七七四年
2014/05/08(木) 19:09:39.14ID:cUPExE1P0241人間七七四年
2014/05/08(木) 19:53:03.63ID:ZJNzokR60242人間七七四年
2014/05/08(木) 22:02:54.24ID:pd4cPDhL0243人間七七四年
2014/05/08(木) 22:43:28.41ID:VK3LLf/M鬼庭「当家の血筋は代々長命です」
毛利「当家の血筋は代々短命(主に酒)です」
大内「当家の血筋は代々┌(┌ ^o^)┐ です」
0244人間七七四年
2014/05/08(木) 22:49:04.84ID:ZJNzokR60246人間七七四年
2014/05/09(金) 00:35:43.67ID:BmwbQE4w0247人間七七四年
2014/05/09(金) 21:11:38.94ID:vOF0pLiv諍いのイメージ
0248人間七七四年
2014/05/09(金) 21:40:58.29ID:EYi172T80249人間七七四年
2014/05/10(土) 11:53:51.19ID:lPphQj1h0250人間七七四年
2014/05/10(土) 19:13:56.80ID:zoOo+NYE後に姓名を改め、天野源右衛門と号した。
彼が上方に浪人していた時、黒田長政はこれを召し使おうと思い、彼を呼び下して一万石を与えて
召し抱えたいという希望を、父如水に相談した。
これを聞いた如水は激怒して
「我が家には源右衛門に勝る勇士がいくらでも多く居る!もし源右衛門を一万石で召し抱えれば、
我が家臣のうちにこれを恨みに思うものが多く出るであろう!」
と、甚だしく諌めたため、この事は中止となった。
その頃、唐津の寺沢志摩守(広高)が、名のある武士を求めて居ることが聞こえてきたので、長政の勧めで
寺沢のもとに遣わされた天野は、唐津において召し抱えられた。
(黒田家譜)
黒田如水、天野源右衛門召し抱えを中止させる、というお話
0251人間七七四年
2014/05/10(土) 19:24:12.76ID:bTyCwBhyある意味、大河ドラマより上かも知れん
0252人間七七四年
2014/05/10(土) 19:31:26.07ID:aXqmmMQL0253人間七七四年
2014/05/10(土) 21:00:26.04ID:hYTJMmf60254人間七七四年
2014/05/10(土) 22:45:30.09ID:txbO4TE1中津時代の黒田家で1万石与えるのはな
0255人間七七四年
2014/05/10(土) 23:58:15.34ID:KGqV5hwW0256人間七七四年
2014/05/11(日) 10:01:41.73ID:NfYWgIiJ0257人間七七四年
2014/05/11(日) 10:31:31.54ID:qe8jRmBNご隠居が1000石といったら自分にはそれでも過分ですといい
若殿様が2500石といったら自分には少なすぎると大声で張り上げるイメージ
0258人間七七四年
2014/05/11(日) 11:01:37.81ID:5X4ugToxもとい黒田の御家中
0259人間七七四年
2014/05/11(日) 11:17:20.07ID:5F7NBN+E碧蹄館の戦いのときに千石の十時伝右衛門に一番槍争いで遅れをとったことで、
自分には立花家では2千石の価値が無いって理由で辞したらしいから、
その後に1万石で仕えろって言うのもなんだかな
0260人間七七四年
2014/05/11(日) 14:16:25.38ID:qcbKdU900261人間七七四年
2014/05/11(日) 15:14:57.36ID:2GN5DKbSその辺の理想を詰め込みすぎて変態の名産地のようになってしまった
0262人間七七四年
2014/05/11(日) 15:18:51.00ID:v6ZzdHEEに見えた
0263人間七七四年
2014/05/11(日) 17:47:51.78ID:BDdnVfxT対費用効果的な面も内にむけたパフォーマンス的な意味もあるだろうが
0264人間七七四年
2014/05/11(日) 19:54:50.78ID:/FrhQ7FChttp://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1399802802/
0265人間七七四年
2014/05/11(日) 20:58:29.00ID:dfSg0pLf御前に居たのは御咄の衆ばかりで、その雑談の中、ふとこのように尋ねた
「わしの死後に、天下を望むのは誰だと思うか?」
誰ひとりそれに答えようとするものは居なかったが、秀吉は重ねて
「いらぬ遠慮はするな。思いついたままを有り体に申してみよ。」
そう言われて御伽衆の面々は、その頃の大名、もしくは武功ある人物を4,5人上げて、
もしやこの人々ではないでしょうか?と申し上げた。秀吉はつくづくこれを聞き
「いずれも悪しき見立てである。それらの者達より先に、手早く天下を取る者がおる。
お前たちはそれを知らないのか?」
「我らはこれらの人物以外には、そういった人は思いつきません。」
「それは黒田如水である。」
その名を聞いて御伽衆の者達は怪訝に思い、「仰せではありますが、如水殿は小身です。
小身では天下の望みは成り難いのではありませんか?」
しかし秀吉は
「汝らは如水の知恵の働きを知らぬゆえ、そのように思うのだ。
わしは数度の大合戦、また一大事の、息の詰まるようなときも、大体の事は過たず、正しい判断が出来た。
しかし取り分・是非の判断が決着しがたい問題に関して、如水に相談すると、聞いた途端に
『それはこれ。これはそれ』といかにも軽々と結論を出した。その内容はわしが長い時間かけて思案した物と
全く変わらないものであった。また事によってはわしの及ばぬこともあった。
その上心剛にして人の使い方も上手いように見える。あの者の知恵には日本だけでは取り足らないだろう。」
そのように言った。
後で如水に親しい者が、この内容を告げ聞かせた。すると如水は
「殿下が私を、それほど人がましく御覧になっていたとは、私は手柄者ですなあ。」と、嬉しげに
返事をしたが、内心では
『これすなわち我家滅亡の時が至ったということである。如何にして身を全うし家を保つべきか』
と思案し、早く隠居した、との事である。
(黒田家譜)
0266人間七七四年
2014/05/11(日) 22:02:02.47ID:35cHi1Ma長い付き合いだけあってラスボスの怖さをさすがによく理解してるなあ
0267人間七七四年
2014/05/12(月) 01:22:56.63ID:i1OwtLk20268人間七七四年
2014/05/12(月) 08:45:52.17ID:Yx3t4Jq2少なくとも小学校高学年の時本郷に聞いたな
ネタ元は張良だし
0269人間七七四年
2014/05/12(月) 10:49:14.47ID:nXErCQT3がいしゅつ云々言うならちゃんと過去のを貼るべき
過去に出てた逸話でも出典が明記されてなかったり、細部が違うことはよくあるし
0270人間七七四年
2014/05/12(月) 16:40:43.48ID:qnBpyJp9http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1399872637/
愛?
0271人間七七四年
2014/05/12(月) 17:20:05.64ID:g5gCxKkf0272人間七七四年
2014/05/12(月) 17:23:19.11ID:PR86uJDPちょうど新選組!のスピンオフが再放送されたのはこれがあったからなのか・・・?
0273265
2014/05/12(月) 19:21:05.96ID:FoUPSkt7太閤秀吉が伏見の城に居られた時、異国より人相を見るものが来て、その人一代の吉凶を言ったが、
その多くは間違いがなかった。
秀吉は諸臣を集め、「この中に天下の主となるものはいるか?」と尋ねた。人相見はあまねく人々を見て、
黒田如水を指さし、「この人が天下の主となるでしょう」と言った。
しばらくして如水の側に来てもう一度観察したが、
「側で見た相は面相には及びませんでした。天下の主となることは難しいでしょう。」そう申し上げた。
黒田如水には生まれついて大志があり、秀吉に疑われている上に、また今、人相見の言葉がこのような
物であったため、これは君主より忌み疑いを受けべき事であると悟った故であろうか、未だ50にもならないのに
禄を嫡子長政に譲り、隠居した。
(黒田家譜)
0274人間七七四年
2014/05/12(月) 19:22:15.21ID:uOxoJlaB「江〜姫たちの戦国〜」を担当した屋敷陽太郎チーフ・プロデューサーが務める
シエの制作関係者って打ち首獄門されてないの?
0275人間七七四年
2014/05/12(月) 20:36:07.86ID:OLvNBsLU0276人間七七四年
2014/05/12(月) 21:19:01.30ID:lJcKw8LJ0277人間七七四年
2014/05/12(月) 21:32:22.26ID:vWTBrZfX0278人間七七四年
2014/05/12(月) 21:56:30.51ID:OhFO8r+p0279人間七七四年
2014/05/12(月) 22:15:25.41ID:XsIj3+XNファンタジーだし
0280人間七七四年
2014/05/12(月) 22:18:54.64ID:rqRanTNC0281人間七七四年
2014/05/12(月) 22:23:33.88ID:PR86uJDP清州会議の出来のせいなんだろうか
新選組とかは個人的には面白かったけどなぁ
あの人は趣味に走り過ぎちゃうから、全権握る監督よりも脚本に徹した方がいいとは思うけど
0282人間七七四年
2014/05/12(月) 22:44:04.71ID:Fcudk7Ya大阪の陣でちょっと暴れただけの、せいぜい旅団長ってとこの人物なのに。
それとも大阪の陣だけで1年持たせるつもりなんだろうか?
0283人間七七四年
2014/05/12(月) 22:53:35.76ID:PR86uJDP前に脚本担当した新選組だって1年間やろうと思ったら難しい題材だろうし
0284人間七七四年
2014/05/12(月) 22:57:19.25ID:sh0NZmme正信「大御所!一大事にございます!!」(今泉っぽく)
権現様「何だ佐渡騒々しい」
正信「九度山に蟄居していた真田めが大坂に入城したとの報告がありました!!」
権現様「それは真か!!(手に持っていた扇子を落とす)、して真田とは親父の方か、倅の方か?(震え声)」
正信「安房守は先年死んでいるので、倅の方かと・・・」
権現様「何じゃ心配させおって、フハハハハ(安堵の表情だが少し失禁)」
0286人間七七四年
2014/05/12(月) 23:00:49.26ID:zlHLcAWL大坂敗戦後出羽秋田に落ち延びたエピソードも採用しよう
0287人間七七四年
2014/05/12(月) 23:06:15.70ID:PR86uJDP大阪城入りするときに信繁から改名した的なフィクションならまだアリだろうけどw
0288人間七七四年
2014/05/13(火) 00:08:49.26ID:q2Bz8ASE0289人間七七四年
2014/05/13(火) 00:20:14.56ID:s4WHDxwU0292人間七七四年
2014/05/13(火) 01:05:04.55ID:bJCrRztu0293人間七七四年
2014/05/13(火) 01:08:53.91ID:D03UXHZmあの人勝手に脚本変えられたことに激怒してそれ基にした映画作るくらいだしw
0294人間七七四年
2014/05/13(火) 01:09:05.48ID:a7+RyzCk0295人間七七四年
2014/05/13(火) 01:11:00.69ID:8LT3uHnL0296人間七七四年
2014/05/13(火) 01:17:41.74ID:J5le9zAEそれにしても土佐の出来人はいつ日の目を見るんだ?
0297人間七七四年
2014/05/13(火) 01:18:40.90ID:cPR4X3bD今まで大河で大坂の陣を濃くやってないので、五ヶ月ぐらいやるんじゃなかろうか。
0298人間七七四年
2014/05/13(火) 06:48:05.12ID:YF3QQ3SK0299人間七七四年
2014/05/13(火) 07:26:42.84ID:+gPEpOnl0300人間七七四年
2014/05/13(火) 09:20:42.26ID:L/Xx9qN0夏はどうするんだろう
0301人間七七四年
2014/05/13(火) 10:49:51.11ID:hNCT4w48最期のあたりのションボリ感がドラマにはし難いんじゃないかな〜
0303人間七七四年
2014/05/13(火) 14:00:36.15ID:D03UXHZm0305人間七七四年
2014/05/14(水) 01:45:25.86ID:DKFZjvVv0306人間七七四年
2014/05/14(水) 02:03:49.08ID:+RBeT+wP0307人間七七四年
2014/05/14(水) 03:33:22.83ID:5/yS+PRK0308人間七七四年
2014/05/14(水) 09:34:06.49ID:W6ibxU9E時は大阪冬の陣、戦国最期の一花咲かせんと、大阪城に集まった、
真田幸村、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永、塙団右衛門、御宿勘兵衛
等々の面子。
そんな彼らの「真田丸」での日々を描いた籠城シチュエーション・コメディ!
…とかだったらなんか見てみたい気がせんでもない。
回がすすむに連れて登場人物が減って、最終回は毛利と真田だけになるとか。
0309人間七七四年
2014/05/14(水) 12:31:55.56ID:NdIVTJAJ矢玉の弾き返される様はガクト謙信の如し
0310人間七七四年
2014/05/14(水) 12:36:26.12ID:GHh8jR7f0311人間七七四年
2014/05/14(水) 19:50:40.53ID:qKg88vb0養父郡大屋村の梶尾源左衛門という郷士であった。
高虎は2年ばかりの間、この源左衛門の家を本拠として、但馬国内の一揆と戦ったのである。
ところでこの梶尾の家の大黒柱には、深く切り込んだ太刀疵がある。それにはこんな事があった。
ある時、高虎がこの源左衛門と背比べをした。すると源左衛門の方が、少しばかり背が高かったのである。
高虎はこれは無念であると、腰の刀を抜き打ちに柱に切り込んだ。その時の刀疵が、これなのである。
この刀疵の付いた柱は、記念として後代に至るまで同家で大切に保存された。
その頃高虎は、血気盛んな26歳であったそうである。
(洞津遺聞)
しかし2メートルを超える高虎より大きかったとは、源左衛門さんもすごいですね。
背比べの柱の疵は太刀疵だったのである、というお話。
0313人間七七四年
2014/05/14(水) 21:32:06.47ID:fsGfxFYl平均身長的に、現代なら3m近い感覚だったのかね。
そりゃ就活も楽だったろうなあ…と下衆な考えがw
0314人間七七四年
2014/05/14(水) 21:50:22.68ID:991KRTZo0315人間七七四年
2014/05/14(水) 22:00:26.09ID:fsGfxFYlや、当時の人達の身長を考えるとね
今の190cm~2mとは周囲の感じ方が違うんだろうなあ、と
やっぱり大袈裟かな、ごめんw
0316人間七七四年
2014/05/15(木) 01:24:23.99ID:glugOWNU6尺2寸となると187cmならあり得なくもないから本当なのかな
当時の平均160cm弱だと、平成生まれの女性の平均身長と同じくらいだけど
187cmの女がいたら大女扱いだな
0317人間七七四年
2014/05/15(木) 08:01:35.26ID:oVfsX05J0318人間七七四年
2014/05/15(木) 09:30:56.42ID:r5BL7njE0319人間七七四年
2014/05/15(木) 11:43:59.52ID:SEUPt3eH0322人間七七四年
2014/05/15(木) 23:45:44.44ID:cBxQSNgsこの間でていた大野の芳我台は容貌怪異の怪力姫様で身長の記述はなかったか
0323人間七七四年
2014/05/16(金) 13:35:31.10ID:TzQB5c3n0324人間七七四年
2014/05/17(土) 17:02:17.15ID:bMJkgT7thttp://atsites.jp/sate/set/mediation/mediation.html
【 付きうごき者 】
彼等の室内での心理状態、行動様態、気分の抑揚などは常に隣人の生活様態に左右、依拠され、
それら隣人の生活様態を自らの諸行動,諸動作の契機として、
あるいはまたスケジュール表か時計かのごとくに借用しながらの生活を送る。
付きうごきの感知は 自己の動作のあと1、2秒遅れて床から伝わってくる「ピクッ」とするわずかな振動から確認することができる。
= 付きうごきの3型 =
・通常の場合
・付きうごきに対して注意喚起を促した後に逆恨みからその行為をより一層徹底、強力化してやり返してくるもの 〔付きかえし〕
・注意喚起時に他の部屋の別の引きこもり者が自分のことを指摘されたのだと思い込みやり返してくるケース 〔勘違い型付きかえし〕
(パチンコ屋などで「警察だ!」と叫べば身に覚えのある何人かがギョッとして逃げ出そうとすることと同様に)
http://rfi.a.la9.jp/hn203/k203/k.png
http://rfi.a.la9.jp/hn203/k203/k203_1.png
http://rfi.a.la9.jp/hn203/k203/k203_2.png
・ウィークリーマンションなどに入っている引きこもり者どうしが、あるいは他の普通の客も巻き込みながら付き返しの応酬となっているケース 〔やみくも型付きかえし〕
寝起きする住居であるから被害者はこれを避けることはできず、不愉快と時間、人生の浪費を強いられざるを得ない。
http://atsites.jp/sate/set/correspondence/correspondence-6/correspondence-6.html
http://atsites.jp/sate/set/correspondence/correspondence-1/correspondence-1.html
0325人間七七四年
2014/05/17(土) 17:04:26.90ID:bMJkgT7thttp://atsites.jp/sate/set/Avatar_set/Avatar_set-1.html
http://atsites.jp/sate/set/Prometheus_set/Prometheus_set-1.html
この付きかえしは引きこもりニーホがその特質「何もすることがない」ということを最大の武器に異様な執着と異常な頻度で
及んで来るものである。
■何でもない人たち = ニーホ
戦後復興、高度経済成長以降の日本人のうち労働意欲、遊興意欲ともに乏しく、何に対しても興味が薄く消極的な人々。
これといってやるべきこと、特にやりたいことなどを持たず、無為に日々、人生を送る。
夢をいだかないが鬱にもならず自殺なども考えない。
自主性がなく、社会に対して不平不満などを持たないが自発的に善行や親切などを行うこともない。
悪人ではないが善人でもなく、これといった主義主張をせず、個性が希薄、性格的特徴に欠ける(超凡人性)
何がしかの才能やこれといった特技などはなく、努力せず、向上心を持たない。
●引きこもり性ニーホ
アパートやワンルームマンション、ウィークリーマンション、ビジネスホテルなど
で自閉的生活を送るニーホの一種別
●入院性ニーホ
精神疾患などをよそおい医療保険を詐用して入院生活を送るニーホの一種別
●入監性ニーホ
衣食住をまかなうために故意に犯罪を犯し留置場や刑務所暮らしをするニーホの一種別
http://atsites.jp/sate/set/Evangelion/Evangelion.html
http://atsites.jp/sate/set/PacificRim/PacificRim.html
0326人間七七四年
2014/05/17(土) 17:28:59.57ID:5zfglXAI0327人間七七四年
2014/05/17(土) 18:16:33.74ID:2Jo6T3qVこの時、藤堂家が一番槍であるとのことを同家の士が申し上げた。
一方、諸士は井伊家が一番槍であると言う。
この時、井伊家の士である岡本半助は申し上げて、
「一番槍は藤堂に相違無く候。しかし、藤堂勢は備えも固めずに先を争い、
バラバラに掛かりましたので、敵に突き立てられて討死した者も多かったのです。
井伊家については備えを固め、軍法を正しくして掛かりましたので、藤堂家の次に
なりましたが、敵を打ち破りました」
と言った。
――『明良洪範』
0328人間七七四年
2014/05/17(土) 23:41:52.55ID:zizGugK50330人間七七四年
2014/05/18(日) 17:50:50.67ID:Wh8Oshgl購入に関して、馬淵半左衛門、高橋甚内らに支持した書状
『采女が申した所によると、長さ三間、幅一尺四寸、厚さ七,八寸の板一枚につき、
18匁の値段であると言うことだ。
そういうわけなので、これを一層努力してよくよく値切った上で、200枚購入するように。』
(原文:采女申候長三間、幅一尺四寸、厚七八寸在之板一枚に付拾八匁之由候間
猶此内よくよく値切り候て二百枚買ひ可申事)
(高山公実録)
藤堂高虎の値切り指令である。
0331人間七七四年
2014/05/18(日) 18:25:57.91ID:LVDAEJf2これが権現様とか又左さんだったら同じようなことやってもやっぱケチだなって言われそうだけどw
0332人間七七四年
2014/05/18(日) 18:29:33.98ID:hN+O0x20家康「ねぎり」
発音は同じなのに違った印象が
0333人間七七四年
2014/05/18(日) 19:36:46.83ID:FKoCYoDR0334人間七七四年
2014/05/18(日) 20:32:52.16ID:0+1esdaLつづけて甲賀に陣を張り、重ねて信長に使者を立て、
「甲賀衆をこの際、退治いたしましょう」
と申し上げた。
信長はこれを聞き、
「滝川は武勇の士なりと言えども、情を知らぬ。
甲賀は己の本国生地であろう。
例え信長が退治を申しつけたとしても、詫び言いたすべき所を、
是非退治を、と申す様、不道である」
と、言い、その後はあまり賞を与えなかった。
『異本小田原記』
滝川さんのちょっとした勇み足の話。
0335人間七七四年
2014/05/18(日) 20:37:21.33ID:K9ROe21Z0336人間七七四年
2014/05/18(日) 22:20:06.06ID:bJIgUvyy0337人間七七四年
2014/05/18(日) 22:25:08.88ID:HCLvtvw20338人間七七四年
2014/05/18(日) 22:29:11.27ID:YDeANWAP0339人間七七四年
2014/05/18(日) 22:32:17.98ID:EKkKofWP0340人間七七四年
2014/05/18(日) 22:44:20.52ID:Wh8Oshgl一益は直接的には厩橋城とその一部の枝城程度しか支配できていないんだよね。
滝川一益の関東支配は、信長の威光あっての限定的なものでしか無く、一益が嫌がったのも
わからんでもない。
0341人間七七四年
2014/05/18(日) 23:45:33.85ID:w+UXueac0342人間七七四年
2014/05/18(日) 23:51:44.85ID:AD5N25Fc0343人間七七四年
2014/05/19(月) 00:37:09.87ID:dkjLWj4b北条に味方して私の首を討ちたい者は遠慮なく攻撃していい
と言い張った一益は格好いい
0348人間七七四年
2014/05/22(木) 17:54:20.18ID:gST4JFnT小早川勢に対し金子備前守元宅は、金子城を弟の金子対馬守元春に任せ、自身は軍勢の指揮のため高尾城に入ることにした。
この金子城でのお話。
金子城に籠城した金子対馬守の守りは固く、流石の小早川勢も攻めあぐね、ついに小早川から使者がやってきた。
使者は
「これ以上の戦いは無益です。わが殿も対馬守殿の武勇に感じ入り、決して悪いようには致さぬと申しております。どうか開城していただけませんか?」
と降参を勧めるが、対馬守はとうとう聞き入れることは無かった。
しかし対馬守は、金子城の飲料水としていた大きな池から鯉を釣り、使者へふるまい礼を尽くしてくれた使者へのせめてもの返礼とした。
こうして金子城は最後まで頑強に抵抗したが、衆寡は敵せず落城し、金子対馬守も討死した。傷ついた金子城の兵は最期に水を求め、多くの者が池のほとりで力尽き死んでいったという。
地元の者は、この池を血塗の池、血の池と呼ぶようになり、転じてチヌの池と呼ぶようになった。
後世に金子城の武勇を伝えていたチヌの池は、明治のころに鉄道の工事のために埋め立てられ、今は無い。
0349人間七七四年
2014/05/22(木) 19:20:11.04ID:RWbobTCw羽柴秀吉が柴田勝家を攻めた時(賤ヶ岳合戦)、一益は勝家の後巻をしようとしたのだが、勝家敗れるの報を聞くと、
秀吉に降参をした。
後、秀吉と織田信勝との関係が悪化し合戦となった時(小牧長久手合戦)、秀吉に対して抜群の忠節を成そうと思い、
この頃、蟹江城は織田信勝・徳川家康方の城であったが、この城主と内通して心変わりをさせ、一益はこれに入城
しようとした。
伊勢より船に乗って向かった所、蟹江城の周辺ではにわかに潮が引いて、船が着岸することが出来なくなってしまった。
この頃一益は病中であった事もあり、肩輿に乗ってようやく城に入り、従う者達も多くは入城できず、船に乗ったまま
海に漂っている状態であった。
ここに、徳川家康が急襲を仕掛け皆殺しにした。一益の身はあつかいと成り、信雄・家康の味方となって、
秀吉のことを謀ると約束し、生命は助かったが、自身もあまりの事と思ったのか、妙心寺に入って落髪、出家した。
その後一益は、越前において死んだそうである。
信長の時代、天下の政道は4人の手にあった。すなわち柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、である。
滝川一益の武勇は無双の名があって、度々関八州を引き受けて合戦した。関八州の者は、滝川の名を聞いただけで
恐れたほどであったのだが、末に至って散々の体となったのである。
(老人雑話)
滝川一益の転落についての記述である。
0350人間七七四年
2014/05/22(木) 19:25:20.03ID:b+DpLnDl金子元宅は知る人ぞ知る四国の名将ですね
関連逸話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=3456&cr=1d2b913fbdc27e85ff0b0e29ced99dac
0351人間七七四年
2014/05/22(木) 22:46:29.40ID:/3s+Jnr/筑後国三潴郡に、巨大なイチョウの木があった。
この木に朝日がさすと、その陰は筑後川対岸の肥前国寺井(佐賀県諸富町寺井津、北西に3kmは離れている)にまで届く高さで、切り倒すのに七日かかったほどの太さだったという。
村の名はこの大イチョウにちなんで「一木(ヒトツキ)村」と呼ばれた。
『南筑明覧』
この一木村、龍造寺家兼が、そしてその曾孫隆信が雌伏し、見事佐嘉に復帰を果たした。
龍造寺の家運興起の地だと言えるだろう。
ちなみに七日かけて伐ったのは、天正年間筑後に進出した龍造寺隆信の兵である。
隆信の末路はこの大イチョウのタタリか…
0352人間七七四年
2014/05/23(金) 23:28:53.94ID:uramTaiNエピソードが載ってた。
これは昔このスレ(いい話のほうかもしれんが)に載ってた、
「加藤清正、河童王九千坊を退治するの事」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3754.html
かと思って記事を読んでみたらまさにその通りだった。
まさに、というか文章回しがそのまんますぎて、むしろ
パクリか同一人物が書いたのではないかと疑うレベル。
柳田國男の元ネタを読んでもないのでなんとも言えないが、
「最弱大名としてネットで人気の小田氏治」が巻頭記事
だったぐらいなので、このスレが元ネタになってる可能性は高い。
0353人間七七四年
2014/05/24(土) 01:31:43.29ID:7f0VuvxG最上義光が兼山の鮭延秀綱を攻めた折り、氏家守棟、志村光安、新関久正といった山形直臣の他に、万全を期して天童合戦で味方に率いれた延沢満延をも真室へと派遣した
しかし地の利は鮭延方にあり、武の延沢を先鋒の大将としても
なかなか鮭延城を攻め切る事は出来なかった
義光は力攻めを改め長期戦に変更
氏家守棟が鮭延秀綱の一族の庭月広綱を懐柔し
鮭延城の周囲の国人を味方に率いれ
援軍の望めなくなった鮭延城は落城
城主鮭延秀綱は義光に降伏した
秀綱の降伏に伴い、力こそパワー大好きっ子鮭様が目を付けた鮭延武士がいた
秀綱の与力で身長七尺程の高橋英国といった男である
0354人間七七四年
2014/05/24(土) 01:49:34.08ID:7f0VuvxG義光(´・ω・`)「…(出羽最強と言われた満延だって人間だよね。英国みたいな連中をまとめてぶつけたら、ひょっとして満延だって負かせられるんじゃない?)」
義光「光安、【満延以外の力自慢】って言ったら誰を思いつく?」
志村光安「それがしの家中の大風右衛門、八ツ沼の小関加左衛門、志村藤右衛門ら辺りですか…」
やがて山形城下三ノ丸北東の満延の屋敷で十五夜の催しの際に、義光が満延を訪門する事が決められた
義光は七人の侍を連れ、みな同じ紺と黒地の浴衣姿で満延の屋敷浴衣姿を訪れた
満延「よくぞお越しくださいました。酒を用意しております故広間へどうぞ」
満延が自ら義光を出向え
広間へ向かおうと振り返り際
義光「今宵は無礼講と行こう!者共満延にかかれ、かかれ!」
満延「!」
0355人間七七四年
2014/05/24(土) 02:13:03.95ID:7f0VuvxGこれは敵わないと見た残りの四、五人が一斉に満延に飛びかかったが、正面から当たった者は蹴飛ばされ吹っ飛び、脇から当たった者は殴られ跳ね飛ばされ、後ろから組みつこうとした者も振り回された腕で突き飛ばされた
義光「ひぃ!」
満延「来て早々なんたる仕打ち!洒落でも簡単には済まされませぬぞ」
義光「許せ!余興じゃ!」
裸足で庭に逃げた義光を満延が後ろから羽交い締め
義光は苦しまぎれに近くにあった桜の古木にしがみついたが、満延は桜の木ごと義光を引き倒してしまった
この騒ぎにあって互いの力が凄かったために
あたりの庭土も二、三尺ほど崩れてしまった
義光「満延やっぱり凄い!改めて感心した!」
義光はたいそうご機嫌な様子で満延を山形城に一緒に連れて行くと、抱え切れない程の褒美を渡したそうな
しかしこんな騒ぎにあったのに、義光様がたいした怪我もなされなかったのは
日頃の行いの賜物だろう
満延の勇力の話も後日城下で噂話として持て囃された
「奥羽永慶軍記」「山形軍談」ほか
裸武太之助も延沢満延の力試しに鮭様に付き合わされた挙げ句に
やっぱり力こそパワーの満延には誰も敵わなかった話
一歩間違えれば死人が出ていてもおかしくない事件なはずなのに
美談調にされてる
ちょっとおかしな話?
0356人間七七四年
2014/05/24(土) 05:10:30.81ID:vaqFf0dC0357人間七七四年
2014/05/24(土) 13:05:19.23ID:Kp39Oa/N0358人間七七四年
2014/05/24(土) 14:25:27.69ID:GB7LyiQv0359人間七七四年
2014/05/24(土) 14:27:12.00ID:Fq7DBUg2めずらしく顔文字の人にしては義光の陰謀を描いてるし
0360人間七七四年
2014/05/24(土) 18:03:27.64ID:kRvmHF84(´・ω・`)「おにぎりなら天狗も斬れるよね♪」
0361人間七七四年
2014/05/24(土) 23:33:09.27ID:HWjLIhEa俺は面白かったぞ
0362人間七七四年
2014/05/25(日) 00:55:30.22ID:ODgmeTwX0363人間七七四年
2014/05/25(日) 01:06:39.82ID:c1k40kpC0364人間七七四年
2014/05/25(日) 01:10:12.18ID:Rr2tMKHl0365人間七七四年
2014/05/25(日) 02:17:15.87ID:P2kc/RnN0366人間七七四年
2014/05/25(日) 02:59:40.44ID:dPqCvV8b0367人間七七四年
2014/05/25(日) 06:54:11.40ID:LXX1hlXr良文ならコピペされて後世まで残るだろうし
0368人間七七四年
2014/05/25(日) 10:05:48.57ID:ehEDbANuだから良文は鎌倉幕府草創期にコピペ改変されて全国に散らばっていったわけか
0369人間七七四年
2014/05/25(日) 12:24:51.12ID:AYMx+peZ0371人間七七四年
2014/05/25(日) 20:51:22.66ID:yhf4XPnz羽柴秀吉の命を受けて、藤堂高虎は敵地探索のため土工夫に変装し、もっこを担いで浜松城の付近を
徘徊した。
すると偶然、そこを通りかかった徳川家康は、さすがに眼力が明らかであったので、ひと目で
怪しい奴と睨み、近臣を遣わして高虎の身元を尋ねさせた。
しかし高虎は巧みに空とぼけ、いい加減に応答して煙に巻、急いでそこを立ち退いた。
その後、秀吉・家康の講話が成って、家康が上洛し、大納言秀長の屋敷に宿泊した時、
高虎は接待役として初めて家康と謁見した。そこで高虎は
「それがしは、いつぞやの浜松御城下のもっこ担ぎでござる」
と語った。これを聞いた家康は「なるほど」と言って頷き、その後、大いに懇切にしたという。
このような一説が、古くから伝えられている。
(洞津遺聞)
まあ2メートル近い大男が自分の城の周りでもっこ担いでうろついてたら、家康じゃなくても
怪しい奴にしか見えないとは思いますが。
0372人間七七四年
2014/05/25(日) 21:23:24.65ID:vSiWtMBV0373人間七七四年
2014/05/25(日) 21:35:57.84ID:/moa2Zuv一方が高虎じゃバランスとれなくね?
それとも1人で担いでたとか?
0374人間七七四年
2014/05/25(日) 21:48:43.05ID:D7j8AzfQ天秤棒と言った方がいいかもしれないが
0375人間七七四年
2014/05/26(月) 00:02:53.84ID:5NM/jQFEみんな高虎の対になるような多聞天張りの図体をムキムキさせてたから、よほどの眼力がなくては見破れないのは確定的に明らか
0376人間七七四年
2014/05/26(月) 05:24:24.15ID:XDMgrguE0377人間七七四年
2014/05/26(月) 10:50:11.86ID:euf0tPZ2通常より長い棒の一端に駕籠、もう一端にバランスが取れるように
石の地蔵様何体か結びつけて間を持って担ぐ
通常の駕籠かきの4倍の膂力が必要
0378人間七七四年
2014/05/26(月) 11:47:42.91ID:/caWSDgk周囲の警戒の仕方が間者っぽかったとか
0380人間七七四年
2014/05/26(月) 14:00:10.26ID:fXVYYiLQ0381人間七七四年
2014/05/26(月) 20:05:56.89ID:tgrGdUjuこれに近侍していた。
この座の末席には真田安房守(昌幸)の姿もあった。秀吉はふいに、昌幸に声をかけた
「安房!来てこの図を見よ。汝を中山道の先手に云い付ける!」
この時のことを昌幸は後で「私を家康と同輩のように呼ばれ地図を見せていただいた。この事、
国郡をどれほど拝領するよりも忝い事だ。」と言った。
この安房守は、伊豆守(信之)の父である。徳川家康との間には意趣があり、仲悪き人であった。
その後、秀吉は昌幸を近くに召して言った
「お主は家康の所に礼に行って、関係を良くするのだ。長きものには巻かれろと言うではないか。
また、旅先であるから不如意でもあるだろう」と、家康への礼物として袷二十、進物まで与え、
富田左近(一白)を副えて、家康のもとに遣わした。秀吉の仰せであるので、家康も是非無く対面した。
その後、家康は富田にこのように言った。
「先日の真田の件は、仕方のない事であった。しかしこれに続けて、石川伯耆守(数正)にこのような事を
仰せ付けられぬよう、執り成しを頼む」
この石川という人もまた、家康との間に大いに意趣があって関係が悪かったのである。
しかし秀吉は、この石川数正もまた小田原陣の最中に家康に礼に遣わしたのである。
(老人雑記)
良かれと思ってなのか、親切に見せた嫌がらせなのか、秀吉、家康と仲の悪い人間を
押しかけさせる。というお話。
0382人間七七四年
2014/05/26(月) 23:18:07.90ID:A5iNOr3E岩屋城を攻めあぐねた島津軍は、老婆に金をやり、岩屋城の水源を聞き出した。
水を断たれた岩屋城の将兵は力を落として玉砕、城将の高橋紹運も散った。
戦後、紹運を慕っていた領民はこの老婆を憎み、水源に石で生き埋めにした。
現在でも岩屋城の背後、古代山城・大野城跡の一角に「石こづんばば」と呼ばれる
石積みがある。
実際には、その石積みは大野城に関係する古代のものらしいのだが、近年まで麓の
村には、山に入るとき、石を持って登り、「石こづんばば」に積むという風習が
あったという。
ちなみにこの老婆、島津軍の陣跡地に化けて出て村人に祟り、そちらでは「陣の尾
ばば」と呼ばれ忌まれた。
一方、岩屋城から南に4kmほど、島津軍本陣の近くに二日市八幡宮と言う神社があった。
当時の軍勢にとって、寺社を略奪するのは当然だった。御神木といえども木材になる。
二日市八幡宮の御神木も、島津兵によって切り倒されることになった。
しかしここで、一人の老婆が島津軍兵の前に立ちはだかった。
「御神木ば切るなら、ワシを斬ってからにせんね!」
勢いを恐れたか意気に感じたか、島津兵は御神木の銀杏を切りかけたまま、去った。
現在でもこの銀杏は健在で、切りかけた斧痕も残っているそうだ。
0383人間七七四年
2014/05/27(火) 06:58:15.40ID:R4x/uPLU0384人間七七四年
2014/05/27(火) 07:49:56.89ID:ue6OUBYC0386人間七七四年
2014/05/27(火) 18:17:55.27ID:aNldT3ir「この本が出典」ってのを聞いたことがないんだが
0387人間七七四年
2014/05/27(火) 21:14:06.58ID:PM0SZ7y0彼は秀吉によって、大和、紀伊、和泉三ヶ国に封じられた。
この秀長は、賤ヶ岳の合戦で中川清秀敗死の時、その様子を見ていながら救出に向かわず、
非常に首尾の悪いものであった。
秀吉はそんな秀長の体たらくに激怒し、諸大名が居並ぶ中で
「お前はわしと、種が違うのだ!」
との言葉を叩きつけた。
この大和大納言には子がなく、関白秀次の子(弟)を養子とした。
これを大和中納言(豊臣秀保)と言う。
(老人雑記)
老人雑話の、豊臣秀長に関する記事である。
0388人間七七四年
2014/05/28(水) 12:02:13.87ID:9PZLLlsX0389人間七七四年
2014/05/28(水) 13:46:00.37ID:E1LZm9Ib0391人間七七四年
2014/05/29(木) 20:03:27.00ID:LGbb3i91「和泉守(高虎)は無謀の事をする男である。それがしならば、2万石で2百石取りの士を
百人抱える。勘兵衛がたとえ鬼神であったとしても、侍百人が立ち向かったならば微塵と
なるだろう。」
高虎はこれを聞くと
「左馬助(嘉明)は知恵のない事を言うではないか。平侍の二百人や三百人が固めている所ならば、
踏み破っても通る敵が、勘兵衛の陣と聞いては、肝を冷やして避けるではないか。」
と言った。
(名将言行録)
0392人間七七四年
2014/05/29(木) 20:09:49.45ID:ea/xCUnd0393人間七七四年
2014/05/29(木) 20:48:00.24ID:31t4RUZ/0394人間七七四年
2014/05/29(木) 20:58:14.79ID:w8YPQq8w0395人間七七四年
2014/05/29(木) 21:03:15.58ID:pEwEOYu/武田信玄が、北条領の秩父に攻め込んだ時のことである。
武田軍はあちこちで放火・略奪をしたので、
後に「信玄焼き」という言葉が残るほどであり、長引く戦いに田畑は荒れ、
秩父の人々はすっかり心身共に疲れ果ててしまった。
そんな中、ただ一人黙々と田畑を耕す老人の姿があった。
武田軍はこれを不思議に思い、件の老人を捕えてその元気の秘密を聞くと、
「御霊権現から授かった鶴の湯という鉱泉があって、これに入っているから元気なのじゃ」
という返事が返ってきた。
話を聞いて喜んだ武田軍は、戦いで疲れた体を鶴の湯で癒すことにした。
ところがあまりに良い湯だったので、武田軍の兵士たちは故郷の事を思い出し、すっかり士気が低下してしまった。
この味方の腑抜けた有様を見た、武田軍の山県三郎兵衛は、苦々しく思って鶴の湯を閉鎖してしまった。
そして、その地に武田系の東泉寺という寺を建立して去って行った。
その後、鶴の湯は再び開かれたが、誰言うともなく「信玄の隠し湯」と呼ばれるようになった。
鶴の湯は、甲州への裏街道にある湯宿として、多くの旅人や湯治客に利用されて栄え続けたという。
「秩父の伝説」
0396人間七七四年
2014/05/29(木) 21:21:59.21ID:w8YPQq8w0397人間七七四年
2014/05/30(金) 01:20:00.27ID:HYw8PQtp0398人間七七四年
2014/05/30(金) 08:57:33.43ID:Ta1MdzN80399人間七七四年
2014/05/30(金) 14:45:54.12ID:B8tTavxw根性焼きかよw
0400人間七七四年
2014/05/30(金) 15:08:37.63ID:OZ112bKC0401人間七七四年
2014/05/30(金) 16:10:44.33ID:LllYD7p80402人間七七四年
2014/05/30(金) 16:50:01.20ID:IxrI9+P+0403人間七七四年
2014/05/30(金) 19:30:07.20ID:Q5ewpGDq0404人間七七四年
2014/05/30(金) 19:51:05.32ID:JJIbmbW7酒宴を開いて漫談することは、すこぶるこれを好み、暇があると侍臣や古老を呼び集め
酒食を饗じていた。
しかしそれでも量に関しては淡白で、特に大酒、暴酒を大いに嫌い、家中の者たちに対しては
常にこれを戒めていた。
慶長13年の正月、家中に命じた条々の第二項に
『美服と大酒は無用の失費である。酒を過ごせば病気になる。もしそれが原因で死んだ者は、
仮に成年の実子があっても家督相続は許さず、家財没収とする。』
と規定したのである。
(高山公実録)
藤堂高虎、大酒飲みには相続を許さず。というお話。
0405人間七七四年
2014/05/30(金) 21:11:17.46ID:XXU+jxZR0406人間七七四年
2014/05/30(金) 22:02:03.61ID:Q5ewpGDq0407人間七七四年
2014/05/31(土) 09:35:34.27ID:i34/S51m0408人間七七四年
2014/05/31(土) 12:05:33.80ID:qPkaGCcv今では松永と石山本願寺を破らなければ上方は平穏にならないため、松永を滅ぼそうとした。
とはいえ、味方に降った者をこちらから裏切るわけにもいかないので、松永の方から裏切らせようとした。
天正四年、近江の安土城ができあがったので信長はそこへ移った。
翌五年、松永が安土に参上した時、徳川家康も来ていた。
信長が弾正に向かって言うには
「この人は東国の名将である。武田信玄を抑えて西へ攻めさせず、その子の勝頼を長篠で破り、
威を関東に勢力を振るっている良将である。」
家康に向かって言うには
「この人は松永弾正である。この人も忍びがたいことを忍んで自分に仕えている人だ。
先年、公方の義輝公を殺し奉り、我が恩の深い三好家を滅ぼし、奈良の大仏殿を焼いた。
この三逆はなかなか人にはできないことである。弾正ひとりがそれをしたのだ。」
と言うと、弾正は平伏し、面目を失い、恥と憤りで汗を流した。
松永は城から帰る途中、小幡・伏見の里に狼煙をあげ、大坂の付城の兵を率いて大和の信貴山城に立てこもった。
(「南海治乱記」)
良く知られている話のバージョン違い
0409人間七七四年
2014/05/31(土) 12:31:10.10ID:Smlxd0tY0410人間七七四年
2014/05/31(土) 13:38:20.04ID:GtIDfYjM0411人間七七四年
2014/05/31(土) 13:44:44.33ID:i34/S51m0412人間七七四年
2014/05/31(土) 14:32:15.45ID:+gZ6MOp60413人間七七四年
2014/05/31(土) 15:00:10.80ID:nEmR+ix80414人間七七四年
2014/05/31(土) 15:03:36.56ID:OCh1ny9R家康「そこにシビれる! あこがれるゥ!」
こうですか?わかりません
0416人間七七四年
2014/05/31(土) 18:24:52.57ID:nWoQ+zuf0417人間七七四年
2014/06/01(日) 01:35:38.43ID:1UNbZRtP0418人間七七四年
2014/06/01(日) 01:38:56.18ID:1UNbZRtP少年の父、松田金六さんによると、僧は 下野国佐野 在住の武士、松田新入斎
と名乗ったという。
新入斎は佐野で子孫繁栄を祈願していたが、薬師如来から「家の武名を揚げる
子が欲しいなら西海道に行き、同苗の家を探せ」とそそのかされ、主君の佐野
宗綱氏の許可を受けて九州を放浪。
目的を果たせぬまま帰還しようとしたところ、目を患ったため数日この村に留
まっていた。
新入斎は「眼を病んで逗留したのは薬師如来が私にこの少年を発見させるため」
「少年を養子としてもらいうけたい」などと言い強く迫ったが、金六さんは拒否。
すると新入斎は宿としていた家の主人と結託し、夜陰に乗じて少年の誘拐に
及んだ。
金六さんはあわてて追跡、無事少年の奪還に成功した。
0419人間七七四年
2014/06/01(日) 01:40:13.48ID:1UNbZRtP前夜、誘拐されたわが子を取り戻したとお知らせした松田金六さんだったが、
翌朝日がさしてみると、連れ戻したのは少年ではなく薬師如来像だったという。
仏の意思を畏れた金六さんはこれ以上新入斎を追及せず、薬師如来像を屋敷で
祀ることにした。
誘拐された少年は松田金七郎秀宣と名乗り、関ヶ原の戦いで武名を挙げたとい
う。
『王城神社縁起』
どうも松田金七郎は大和出身のようだが、福岡にこんな伝承もあるってことで。
松田金七郎が使えた長束正家の子孫が佐野と名乗ったらしい、というのは関係あるだろうか…
以上、人さらいを推奨する困った仏様の話。(完)
0420人間七七四年
2014/06/01(日) 06:48:39.48ID:GwIS5Af90421人間七七四年
2014/06/01(日) 06:58:46.42ID:Pqit+aei0422人間七七四年
2014/06/01(日) 10:14:24.53ID:6pn3D5Lr0423人間七七四年
2014/06/01(日) 10:50:25.11ID:7FuU9Mq20424人間七七四年
2014/06/01(日) 16:16:04.19ID:El8X3Key0425人間七七四年
2014/06/01(日) 16:51:58.40ID:ep0TcIJC0426人間七七四年
2014/06/01(日) 22:03:08.76ID:fv1WmChP前田利常の使者、北川久兵衛という者が藤堂高虎の陣に来訪し、用事を済ませての帰りがけに
合戦が始まった。そこで久兵衛もこの先頭に参加し、敵一人を斬って、その頸を高虎の見参に入れた。
高虎が「それは前田殿への土産に持ち帰るが良い」と言うと、その言葉通り久兵衛は頸を携え帰って
利常の検分に入れたが、さしたる賞もなかった。
このことを聞いて、高虎は
「老功の士であれば『頸は当手の数に入れられよ』と言って捨て置いて帰るであろう。しかし当方では
そのまま自分たちの討った首級の中に入れるべきではないから、久兵衛の功を記して、頸を添えて
前田の陣へ申し送ることに成る。すると、前田はそれを見た以上、相当の賞をやらねばならない。
であるのに、頸を持ち帰ったために賞に漏れたのは気の毒というものではあるが、それは実は、
当然の事なのである。」
と語った。
(名将言行録)
藤堂高虎の、「賞を得るテクニック」についてのお話。
0427人間七七四年
2014/06/01(日) 23:44:32.50ID:fRwr0Bgg0428人間七七四年
2014/06/02(月) 01:12:34.83ID:6JWOzLiYカエルやGなどを討ち取り頸を携え帰って参りますので
検分の後、恩賞としてカリカリを与えております
0431人間七七四年
2014/06/02(月) 13:37:14.75ID:fLhUY3fG0432人間七七四年
2014/06/02(月) 20:35:51.73ID:X7Bx+OzA「若き者共30人を、未だ戦場に召し連れないうちに、3種類に見積もって試したことがある。
先ず、最初の10人は、見るからに男ぶりも健やかで才覚もあり、必ず優れた働きをすると思う者達。
次の10人は、見るからに才覚も鈍く、男ぶりも手弱く、中々物の役には立たないだろうなと思われる者達。
最後の10人は、豪胆でもなければ特に臆病という程でもない、ただ人並み程度だなと思う者達。
さて、この30人を戦場に臨ませてみたところ、最後の豪胆でも臆病でもない10人は、10人共に
違いなく、逃げもせず、かといって優れた働きもなく、まったく平均点という事であった。
最初の、見るからに優れていると目利きした10人は、10人中8,9人は思ったとおりに、大いに
優れた働きをした。ところがどういうことか、そのうち一人もしくは二人は、思いの外
大臆病者である場合がある。
そして見るからに用に立たないと目利きした10人であるが、これも8,9人は目利きした通り役に立たないのだが、
その中に一人か二人、比類なき大剛の者があって、先の優れ者と目利きした者達に勝るほどの手柄をし、
戦場においてはそれまで見られなかった才覚まで備わっている者がある。
この一人二人は、目利きの外にあるのであろうか。それとも、私の目の及ばない、深き所に、
大剛大臆病の気というものはあるのだろうか。」
(黒田家譜)
黒田家譜より、人の才能の目利きについてのお話
0433人間七七四年
2014/06/02(月) 20:42:32.73ID:7ROM94c3(怠け蟻ばかり集めると働く奴が出てくるが、働き蟻ばかり集めると怠ける奴が出てくる
ググったらこの説は怪しいかも、とか書かれてたけど気にしない)
0434人間七七四年
2014/06/02(月) 21:48:37.80ID:OmJHpYVY0435人間七七四年
2014/06/02(月) 23:50:42.42ID:Cdrlnbck0436人間七七四年
2014/06/03(火) 00:05:58.66ID:dvZ7f2qQ0437人間七七四年
2014/06/03(火) 00:49:32.83ID:hBVSqy3e0438人間七七四年
2014/06/03(火) 01:55:21.39ID:C7A/8hjC俺も長政のような偉大な主君を持ってれば、大成できたのにな
0439人間七七四年
2014/06/03(火) 21:02:30.76ID:JXBiHXr3戦勝を伝え、戦死者の家族へはその次第を通知させ、その遺族の保護に注意せしめ、重臣、家中の侍たちは
勿論、陪臣・軽卒にいたるまでそれぞれに香典を送り届けさせた。
そして翌七日には大阪が落城したため、高虎は九日に兵士を帰国させ、自らは十日に入洛し、その後
八月まで滞京された。
高虎は、五月十五日には南禅寺へ、川瀬治兵衛を使者として、戦死者のための四十九日、および百ヶ日の
追善を崇伝長老に頼み、回向料六百両を供進した。
法事は寺中金地院で、七日続いて執行した。すなわち、六隊将及びその部兵に対しての各一日、
そして組外の侍たちの為に第七日目に総回向、都合七日の法事を、高虎は一里あまりを隔てる
四条の宿所から毎日参詣した。
六月二十五日の最後の法事には、戦死した大身六人の後継者を国元から呼んで焼香させた。
山岡兵部には子弟がなかったので、親類の磯野平三郎が代理を命ぜられた。
高虎も焼香を行い、斎の座についた。そこで、戦没者の、戦死の模様について様々な話が出た。
その中でも藤堂新七郎は、他家にも名の聞こえた名誉の勇者で、高名の場数が十三度、
最後の十四度目に戦死を遂げた。
彼はそれまで、何度も増禄の内意を伝えられていたが、一種の変わり者であったので、
その度にそれを辞退し、今回も出陣の前に、高虎より「二万石をお前に遣わそう」との内意に対し
「めでたく御凱旋の時なら格別ですが、今はお断り仕る!」
と言って出陣したのである。
高虎はこのことを詳しく語り、「今更ながら、これほど残念なことはない。」と、
大変に愁傷し、胸がつかえて食が喉を通らず、ついにはそのまま膳を引かせた。
八月の帰国後、戦死者の跡目相続発令の日、新七郎の子宗徳、玄蕃の子九蔵、勘解由の子小平太、
弥次兵衛の子将監を召して酒膳を供じ、その席上でも高虎は
「新七はあの時、『私にお任せなさい』と言い捨てて乗り出たのだ。その姿が今も眼前にある。」
と言って痛哭された。これに子の宗徳は勿論、一座皆、涙にむせんだ。
(開国遺事)
藤堂高虎、藤堂新七郎の戦死を嘆く、という逸話である。
0440人間七七四年
2014/06/03(火) 21:37:05.61ID:qswNWPmO直之は菅田城を守っていたが、長曽我部元親と通じ河野家に叛いた。
しかし謀叛は失敗し、降参。直之は小田町で具足5両分(300石)の地を与えられ、兄直昌に厳しく監視されることとなった。
しかし直之はこの処置を不服として、妻子を連れ長曽我部を頼って逐電した。
あくる年(天正2年)長曽我部元親から大除城に西村左近という使者がやってきた。
元親「先年、我らを頼ってきた直之ですが謀叛を悔やんでおり、貴殿を頼って詫び言を申したいそうです。どうか私に河野家へ帰還の仲介をさせてください。」
この申し出に直昌は大変喜び、元親の計らいに感謝した。
そして使者は往復し、再度大除城にやってきた。
元親「このたび兄弟が和睦したのは大変喜ばしいことです。今月下旬に直之をつれて行きますので、国境で引き合わせます。隣国同士の申し合わせなどもしたく思いますので、私も伺います。」
と申し出があり、国境の笹ヶ峠で会見することとなった。
しかし、これは罠だった。
天正2年甲戌8月25日、両方共に御出馬有り。
長宗我部元親は直之を伴って三ツ石の峠に、大野直昌はそれより50町ばかり離れた秋望田まで出向き、互いに礼儀の使者を向かわせた後に会見の場まで進んだ。
元親はこの時、童子ヶ成の茂みに伏兵を置いていた。伏兵は大野勢が間近くなると、どっと鬨の声をあげて襲いかかった。
思いもよらぬ奇襲に大野勢は混乱したが、大野直昌は士卒を制し
直昌「きたなし元親!尋常の合戦では勝ち目がないと思い、だまし討ちとは愚か者め!」
と、秋望田の軍勢と合流し戦ったが、大野勢は素肌に裃という出で立ちだったため立ち直すことは難しく、瞬く間に300人も討ち取られ手負いも多数。
中でも直昌の弟、大野九郎兵衛、東筑前守城戸六郎、土居下野守をはじめとして嘉土・樋口・林・安持・荒川・近沢などの侍大将や物頭70余人は乱戦の中で悉く討死を遂げた。直昌の秘蔵の少姓船草民丸、梅木弥九郎丸も討死した。
長宗我部勢は家老の長野信濃ノ守兄弟が前備えで討死。 寺町右近をはじめ70余人討死、元親の長男弥三郎信親、三男津野弥次郎が手傷を負うなど激戦だった。
大野勢の尾首掃部、尾崎丹後守、土居式部、日野九郎左衛門の四人が敵を食い止めたため、直昌らは妙見ヶ森まで退却することができた。
その夜、大野勢が戦に疲れ果て休んでいると、近江守直好に北極星が語りかけてきた。
北極星「私は国常立尊なり。今から夜襲したら勝てるぞ。」
夢か現か。直好は驚いて直昌に告げると、直昌は大いに喜んで、すぐさま夜襲を仕掛けた。
一方そのころ、長曽我部の陣では、夜明けと共に大野勢に攻めかかろうと軍議をしていた所、大野勢が襲いかかってきたため大混乱に陥った。
まともな応戦もできず、討ち取られる者数知れず。
しかし元親は心剛の大将だったので、ひしひしと物具をかため、士卒を励まし戦ったが、ついに甫見江坂の東まで五十町ばかり退却し、勝敗は決した。
大野勢は小勢だったため、深追いは避け引き返した。
勝ったとはいえ、大野勢の被害は甚大で散々の体だった。
この戦いを笹ヶ峠の合戦といい、以後この地を大野ヶ原と呼ぶようになった。
0441人間七七四年
2014/06/03(火) 22:26:19.64ID:32k0+/xu石川五右衛門が屋根に登って「絶景かな、絶景から...」と言った南禅寺の山門は
夏の陣で戦死した家臣の霊を弔う為に高虎が寄進した話は有名だね
0442人間七七四年
2014/06/03(火) 23:07:38.94ID:ujeKQBOeわざわざ攻める必要があったの?黒瀬を抑えるだけでよかったのでは
0443人間七七四年
2014/06/03(火) 23:35:59.73ID:hHdCeLBU久武さんさえ生きてれば…
0444人間七七四年
2014/06/03(火) 23:57:21.60ID:TcYRoZn5伊予でこんな戦いあったなんて知らないんだけど
0445人間七七四年
2014/06/04(水) 00:09:45.84ID:suBP2CaS未だに実在したと確定されてない戦いじゃなかったか
0446人間七七四年
2014/06/04(水) 00:20:22.81ID:MGbcUGbXにもこんな勇壮な話が、と思ったら確定してないのか
0447人間七七四年
2014/06/04(水) 00:26:49.72ID:Ko1WAuGx0448人間七七四年
2014/06/04(水) 11:38:42.48ID:K/FU7+o2大野家四十八家次第、伊豫温故禄、予陽河野家譜などに載ってます
史実かどうかは・・・
0449人間七七四年
2014/06/04(水) 17:53:14.55ID:TFzAhEoD喜びなさることはなみなみならず、その名は棄若と称した。
此度の慶賀として天下の貴賎は刀剣の類から重代の器を献上した。
その中で蒲生飛騨守氏郷は矢の根を一本献上なさった。
これは先祖の俵藤太秀郷(藤原秀郷)が龍宮においてムカデを
殺しなさった鏃であり、蒲生家にとって累代の重器である。
しかし棄若は成長せず、天正九年(十九年の誤り)八月五日、
三歳にして早世し、妙心寺に葬った。その矢の根も、そのまま
その寺に納めたということである。寺記に詳しい。
――『明良洪範』
矢の根についての他の逸話↓
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3759.html
0451人間七七四年
2014/06/05(木) 15:43:45.41ID:kMtxemWk他にも興味があるのがあるけどあの方に手出すとリアルにタヒが出そうだからやるバカはいないだろうな
0454人間七七四年
2014/06/06(金) 01:16:45.36ID:M2gKAwcK「葉」若に見えて単なる与太話だと思ってたわw
0455人間七七四年
2014/06/06(金) 01:32:23.92ID:ul2Q7yHc0456人間七七四年
2014/06/06(金) 12:18:00.12ID:K5l+0A2l0458人間七七四年
2014/06/06(金) 13:04:34.12ID:MxXiT3mx0459人間七七四年
2014/06/06(金) 17:32:31.32ID:NvKyWW9z越後の長尾殿の家来、かにわ源七は敵の前でゲロ吐いたら強くなる。
(武功雑記)
良くわかりませんが、こんな話が残るなんて面白いなと思ったので。
0460人間七七四年
2014/06/06(金) 19:04:27.84ID:2ruoEcGt0461人間七七四年
2014/06/06(金) 20:58:52.46ID:WQc45Zw+長政より五介のに与えた書状には
一,飯の食いざま以下、しつけ方については権之丞(岡本秀広か)に習わせるように。
一,手習いに油断の無いように。文面が届いたら私自身が見届ける。
一,読み物のこと、論語についてはもう済んだそうだから、そういう事なら
大学でも三略でも読ませるように、吉祥院に申し遣わしておいた。
法印が患っている場合は等寂がしかるべく行うであろう。五郎大夫玄春でも構わない。
そのあたりは法印と相談するように。
一,しかし法印に祈念祈祷の事を学んでは、必ず悪しきことと成るだろう。
成人した後仏法を聞き、禅を悟り生死を分別することは武士にとって肝要なことである。
だが、身の過ちから逃れようと、自身で数珠を振り神仏に宿願し、
巫女や山伏の様になってしまっては、散々のことである。
一,論語は、私の赤表紙の本を読んだのであるから、本の破損などについて言わなくて良い。
孟子も写本しておいた。大学・中庸は今度林道春より、写し終わり次第こちらに贈ってくれる。
七書は前から我家にある赤表紙でいいだろう。
一,盤上の遊びは固く禁ずる、その他は如何様にも、お前次第で遊ばせ、心が縮こまるような事が
無いようにせよ。
しかし黒田忠之が幼少の頃より、長政は様々に心を用いた教訓などは、
全て役に立たなかった。事多ければ、漏れてしまうのである。
(此外忠之の幼少より、さまざま心を用ひ給ふ教訓ども
あげて計ふべからず。事多ければもらしつ。)
(黒田家譜)
黒田家譜より、長政の教育は役に立たなかったよ、というお話し。
0464人間七七四年
2014/06/07(土) 08:42:22.24ID:mxxyaXCj0465人間七七四年
2014/06/07(土) 09:54:18.22ID:c49uaYUC「長政が忠之に与えた教訓はいろいろあるけど、一々取り上げない。省略する」
という意味だろう。
0466人間七七四年
2014/06/07(土) 13:04:43.71ID:eoM9LEc5あげてかぞうべからず、だし
いちいち数えてられない、てことか
0467人間七七四年
2014/06/07(土) 19:31:58.81ID:MvLAcy230468人間七七四年
2014/06/07(土) 19:46:37.01ID:iAM47n3W中を見た。この女は後藤長乗の妻であった。ここには光乗という老人がついていたが、これは長乗の
伯父であった。
長門守の所業に光乗は憤り「ここにあるのは後藤長乗の妻です!長門守殿も見知っているはずです。
なんと卑怯なことをなされるのか!」と辱めた。
長乗は徳川家康と懇意の者だったので長門守の身上危うしと、みな言っていた。その秋に、彼は
改易された。徳川家康が、この乱が終わって上洛するとき、後藤は桑名まで迎え出て、直にこの事を
言上したそうである。
(老人雑話)
この「津田長門守」が津田信成の事だとすれば、彼の改易は慶長12年(1607)なのでこの話とは異なりますね。
まあ津田信成も改易の理由が友達の大名たちと京の祇園でどんちゃん騒ぎした挙句、茶屋の女房を始め
美女78名にセクハラパワハラの乱暴狼藉をした責任をとって、というどうしようもない理由ですがw
0469人間七七四年
2014/06/07(土) 19:56:43.88ID:fkt/5Bajまったく織田信成は
しかし、ググったらこの信成の兄が洛外千人斬りの犯人、てあったけど
大谷吉継の冤罪のやつって犯人見つかったっけ
それとは別?
0470人間七七四年
2014/06/08(日) 08:55:44.92ID:ou/nq0ob0471人間七七四年
2014/06/08(日) 09:09:36.03ID:qN4U7z780474人間七七四年
2014/06/08(日) 11:49:41.91ID:f1SHY7Em屋敷は門をかたく閉めて中に入れようとしないばかりか、
「火事を出したのは当方ではないぞ」
と申した。
すると五郎左衛門は大きな声で、
「殿様の御命令を受けて駆けつけた者を入れないと言うならば、撫で斬りにいたす」
と刀を抜くと、門が開いた。
門内ではその方に属する者たちだけで火を消していたとのこと 【葉隠】
0476人間七七四年
2014/06/08(日) 12:02:17.51ID:2hLo308+佐賀藩士だったのかよ
0477人間七七四年
2014/06/08(日) 16:08:35.93ID:GeghfVLY0478人間七七四年
2014/06/08(日) 16:50:20.55ID:ItCOKUhZ0479人間七七四年
2014/06/08(日) 18:16:16.23ID:AbCkkhSo0480人間七七四年
2014/06/08(日) 21:27:19.07ID:1QlyzK8B或る時の戦場にて余りに凄まじく働かれた。
その様子を家康公が御覧になり御気遣いのあまり
御采配の柄をひどく御噛み遊ばされた。
その御噛み跡が残った御采配は即座に井伊殿に御預けなされ
彼家に伝わった。
(葉隠)
0481人間七七四年
2014/06/08(日) 21:31:39.48ID:z+Y76WGw「大名に臆病者あり」
という事を書いたものがある、これは、豊後に大友という大名があるが、その大友の事であるということだ。
(老人雑話)
義統の事がよっぽど悪印象だったのでしょうね…
0482人間七七四年
2014/06/08(日) 21:32:06.78ID:1QlyzK8B○その御噛み跡が残った金の御采配
0483人間七七四年
2014/06/09(月) 06:52:43.77ID:O4BiyQNO今ではどこに有るのかわからないと、
確か彦根城博物館の学芸員に聞いたことがある
0484人間七七四年
2014/06/09(月) 17:18:26.94ID:qjo3FKk2ようだ
0485人間七七四年
2014/06/09(月) 18:22:39.55ID:2WRF1aVQ天正18年(1590)、6月のことであった。
秩父の柳生端から柳生台地へと登る坂道を、一騎の武者が駆け登っていった。
主城の鉢形城落城を、支城の根古屋城へ知らせる使者である。(鉢形城開城は6月14日。)
使者は坂を途中まで登って行ったが、そこで使者の前に一匹の巨大な毛虫が出現した。
しかし、使者は馬上で鞭を振るうと、ただの一打ちでこの毛虫を打ち払い、そのまま根古屋城へと走った。
この様子を見ていた土地の者が、鞭の一撃で死んだ巨大毛虫の死体を棒で担ぎ、
その重さを量ってみると、なんと三貫目(約11kg)もあったという。
後に、土地の人々はこの坂を「けんむし坂」と呼び、毛虫の重さを量った棒を投げ捨てた所を
「棒ヶ沢」というようになった。
根古屋城は、北条氏邦の家臣の渡辺監物が城代として守っていた。
城代は普段柳生に住んでいたので、土地の人たちはこの屋敷を「けんもつ屋敷」と呼んでいた。
ケンムシ坂は、ケンモツ屋敷の下にあったので、ケンモツがケンムシへと変化したのだろうともいわれる。
「秩父の伝説」
戦国の秩父に巨大幼虫出現す、というお話。
0486人間七七四年
2014/06/09(月) 20:37:23.92ID:dYE8Put+0487人間七七四年
2014/06/09(月) 20:58:32.37ID:gEJGF+gQまた、その心ばえもあでやかであったので、彼女のことは世間でもよく知られていた。
そこで徳川秀忠並びに御台所(お江の方)は、彼女を嫡男徳川家光の夫人とするように、土井利勝を
通して黒田長政、並びにその内室に仰せ下した。これは秀忠が黒田長政を、家光の後見と
しようとした為であった。
ところが、徳の生まれは丙午の歳であり、世俗ではこれを忌まれているため、長政もそれをおもんばかり
仰せを受け入れなかったため、この話は無き事になった。
その後、この徳姫は寛永元年(1624)に榊原式部大輔忠次に嫁ぎ、翌年正月、女児を産んだが、
産後体調を崩し、享年20歳にて亡くなった。
その息女の名は『萬』。彼女も8歳で早世された。
(黒田家譜)
黒田長政の娘、徳姫についての逸話である。
0488人間七七四年
2014/06/09(月) 21:11:04.32ID:zKHeCYLk0490人間七七四年
2014/06/09(月) 22:55:24.26ID:HIGFkVrt使者の名前も分からず巨大芋虫が出た理由も分からず
殺しても特に呪いとかも無いこのブッタ切り感
こういうのが口承伝承の醍醐味なんだよな
0491人間七七四年
2014/06/09(月) 23:27:49.70ID:rtv4SlvC0492人間七七四年
2014/06/10(火) 02:02:21.10ID:8OXkcZh0坂東じゃ金棒が必須アイテムだもんね
毛虫も金剛の身体か隼のような身のこなしをもってしなければ対抗できんじゃろ
0493人間七七四年
2014/06/11(水) 22:58:28.87ID:xXWbXywO尼子経久の弟・尼子久幸が組織し、後に経久の次男・尼子国久とその子である誠久らに率いられた新宮党は
尼子家中きっての武闘派として中国地方では恐れられ、尼子家の躍進の原動力たる一族衆であった。
しかし、尼子経久の三男、塩冶興久の叛乱が鎮圧され、その遺領である西出雲の管理を国久が任されるようになると、
新宮党の権勢は尼子宗家を継いだ尼子晴久と並ぶほどとなり、尼子家への中央集権化を図る晴久の障害となった新宮党は、
1554年晴久の命により粛清され、国久の一族の大半が死んだ為、ほぼ消滅することとなる。
家中を纏める為、尼子晴久が自らの判断で粛清したと言う説、既出で毛利元就が罪人に尼子国久謀反の偽書を持たせ、
尼子家の勢力圏で殺害して新宮党の粛清を晴久に決意させたとされる謀略説もあるが、雲陽軍実記にはもう一つの元就の謀略による逸話がある。
尼子晴久のお気に入りの座頭で角都と言う者が居た。角都は家中の重臣を晴久に讒訴したり、酒や遊興を勧め堕落させ、
家中や城下での評判はすこぶる悪かった。
新宮党党首の尼子国久も彼を嫌う一人であり、このままでは御家の為にならぬから角都を放逐せよ、さもなくば殺害も止むなしと晴久に迫る。
仕方なしに晴久は角都に暇 を出し、角都は故郷へ帰ることとなった。
その旅路の途中に角都は数人の座頭仲間と出会い、意気投合する。
彼らと親しくなった角都は驚くべき噂を彼らから聞かされる。
角都を月山富田城から追放した尼子国久が、主君・晴久を追い落として出雲国主の地位を得ようと企んでいるというのである。
この話を聞いた角都は直ちに取って返し、尼子晴久に通報。激怒した晴久は叔父国久を始めとする新宮党を粛清してしまうのであった。
が、実はこの国久謀反の法を角都に伝えた座頭らは毛利元就配下で各地に間諜として遣わされた座頭衆と呼ばれる忍びであり、
角都と尼子晴久はまんまと嵌められたのであった・・・。
なお、雲陽軍実記によるとこの角都なる座頭は後の尼子義久の 時代にも側近として存在し、宇山久信らの尼子家臣を讒訴した為、
尼子氏の凋落の一因になったという。
0494人間七七四年
2014/06/12(木) 00:26:18.34ID:TD1H+B1i0495人間七七四年
2014/06/12(木) 13:54:42.08ID:0nSBfeAq/.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::.\ ^^
/ .::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::..ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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:::::::::::::::::::∧▲∧ そうやってなんでも
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_.. /⌒:::;;;;;ヽ
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,, '''' . ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ 、、, ''"
,,, '' ,,, ::;;;;;;;;;::: ,, ''''' ,,,,
0496人間七七四年
2014/06/12(木) 21:24:28.19ID:J2JhPNV8代官方の年貢の収納に私曲があることが発覚し、座敷牢に入れられた。この時、刀剣も皆取り上げられた。
ときに、藤左衛門が心やすく召し使っている18歳の少年が一人、この座敷牢に時々来て
身の回りのことに仕えていた。
ある時藤左衛門はこの少年に向って「我が身は罪が重いため、必ず処刑されるだろう。
しかし、先に自害をすれば、却って我が面目と成る。お前は大きな小刀を持ってくるように。」
少年は家に帰ると、密かに大小刀を持って来て、人に知られぬように藤左衛門に与えると、彼は
この小刀で自害した。
この事態に、奉行人は少年を読んで彼を戒めた。ところが少年は
「今回の事は必ず私の罪と成って、ご成敗にも合うだろうということは、かねてより理解していました。
しかし、主人の難儀なる状況を見たため、命を失うことも省みずやったのです。
なのでそのように言われても、今更驚くことではありません!」
喜多村孫之充はこれを黒田長政に告げ、
「さてもこの少年は大罪人です。いかなる罪を申し付けましょうか。」
このように申し上げると長政は興の冷めた顔をして
「私はお前に対する目利きを仕損じていたようだ。そのように道理に暗いとは、思いもしなかった。
その少年が自分が罪に問われることを知りながら、主人への忠節を務めたことは奇特である。
これを罪人だと思うのは、お前の誤りだ。その少年は元服させ、小河久太夫の組に入れおくように。
きっと用に立つべき者であろう。」
そのように言った。しかしその少年はそれから程なくして、病にて死んだ。
(黒田家譜)
主人のために小刀を渡した少年についての逸話である。
0497人間七七四年
2014/06/12(木) 22:15:17.04ID:LLBbHyOlここがよくわからんので解説プリーズ
0498人間七七四年
2014/06/12(木) 22:35:22.53ID:J2JhPNV8この小河藤左衛門の領地の年貢収納に不正があった、って事ですね。簡単に言うと。
どんな不正があったのかはこの記事からは良くわからない。
0499人間七七四年
2014/06/13(金) 19:09:30.82ID:MIV+5nsd将軍足利義晴公に謁見した。元就は大江広元の苗裔として、江家の嫡流であったので、
将軍からは、他の国侍に準ずるべきではないと、高家に劣らぬほど高く待遇された。
その上将軍家の推挙によって、元就は従五位に叙せられた。
くわえて、その武功が雲上にまで聞こえたことで、帝より錦の直垂を下されたのである。
かくして元就は3年間在洛して、享禄2年の秋、芸州へと戻った。
(芸侯三家誌)
なんと毛利元就が上洛していた、という記事である。
ちなみに似たような話は『陰徳記』にもありますが、どこからこんな話が生まれたのかは、謎。
0501人間七七四年
2014/06/13(金) 22:21:36.86ID:/kupN35Rこれほどの高位についたからには上洛してるだろう
叙位の理由は本姓の大江朝臣だろう
年齢は30前後の適当な歳にしておくか
という感じかな。
上洛といっても軍勢を引き連れて京都を支配下におくとは限らず、
鮭様や謙信だって上洛はしてるから元就が上洛したというのもあり得ない訳じゃない。
してないとは思うけど。
0502人間七七四年
2014/06/13(金) 22:25:25.62ID:UXRWRJQp0503人間七七四年
2014/06/14(土) 01:25:03.03ID:FYG5C0pX0504人間七七四年
2014/06/14(土) 02:22:42.94ID:TNQVx7ibありえてもおかしくない話ではある。
0505人間七七四年
2014/06/14(土) 03:40:54.44ID:hKBUg8ku0506人間七七四年
2014/06/14(土) 12:47:13.72ID:1OTQn+lf3年後位には尼子経久三男の塩冶興久が大規模な反乱起こすし、
安芸の不安要素は武田家一党位だけど、熊谷と内輪揉め始める頃だし
割と平和だったかもね…
確かに、兄の興元とない交ぜになった話の様な気もするが
0507人間七七四年
2014/06/14(土) 12:54:51.32ID:7UWJqytY0508人間七七四年
2014/06/14(土) 13:34:12.20ID:wafyQHIz主水殿が御謀叛をオススメしたところ直茂さまは、
「太閤さまを討てないこともないだろう。しかし、後が続かぬ。
また三か国を領することも出来なくはないだろう。
しかし、十代と続くことは出来まい。
一国だけならば長続きするだろう」
と仰せになられた 【葉隠】
0509人間七七四年
2014/06/14(土) 13:43:21.02ID:ZSzw+rZ5そもそも鍋島如きに討てないから
しかし、大恩あるラスボスを討つってどんだけアホなんだ
0510人間七七四年
2014/06/14(土) 16:38:43.83ID:9TmYXH2d0511人間七七四年
2014/06/14(土) 23:11:47.68ID:yWzYFqRz0512人間七七四年
2014/06/15(日) 00:16:25.01ID:59CefDBr安芸武田家の9代当主、光和。安芸守であり安芸国内における反大内派の筆頭でもある。
その武勇で近隣に恐れられ、陰徳太平記では死後魔王になったとも伝承される人物であるが、
彼はある時一人の女性に恋をしていた。
相手は配下である熊谷信直の妹であった。余談であるが後年、吉川元春に嫁いだ熊谷信直の娘は陰徳太平記によると醜女と
言われているが、この妹は大層な美人(息子で毛利元就の影武者を勤めた、武田宗慶も容姿端麗と伝う)であったという。
熊谷信直にアタックを掛ける光和であったのだが・・・
(*^◯^*)「妹さんを嫁にくーださい!」
(●▲●)「殿には吉川殿から嫁いだ正室が居るからあーげない」
:(*゙゚'◯゚'): 「」
と、断られたのであった。何度も何度もお願いする光和であるが、その都度熊谷信直は
頑として断るのであった。
どうしても諦めきれない光和であったがある日の晩のこと、彼の居城・武田山近くの緑井岩谷にある毘沙門天が、
光和の夢枕に立ったのである。
|´」`|「汝の恋が叶うか叶わぬか、我が境内の奇岩に石を投げて占うが良い。」
不思議な夢を見た光和は、早速お告げのあった毘沙門天の境内にこの奇岩を尋ね、
夢に従い石を投げつけた。光和が投げた石は見事奇岩の穴に嵌ったのであった。
この後、信直の舅に当たる武田家家老の品川右京亮が説得したことで、信直も妹が
光和に嫁ぐことを渋々承知し、晴れて二人は夫婦となり、光和も大変喜び正室よりも
仲睦まじい夫婦となったと言う。
この後、この毘沙門天の奇岩は「縁結びの石」として近隣の若者が恋の成就を占う為、
好いた女性の名を心に浮かべ、石を投げてその成否を占う様になり、今に伝わる事となったのである。
めでたしめでたし・・・・
と、言いたい所であるが残念ながらそうは終わらないのであった。
この後、二人の間には男児が一人生まれ、その子は後に毛利元就の影武者として仕える事になるのであるが、
その子がまだ幼い内に熊谷夫人はある日、何を恨みに思ったか側仕え1人を連れて武田山を退去し、光和と離縁する事になる。
実家の熊谷家に戻った夫人は兄・信直に叱られた後、三須房靖という者の所へ再嫁することになる。
夫人を返すよう迫る光和であったが時既に遅し。また、同じころ信直が敵方の大内・毛利と密約を
結んだことが発覚。更に信直は武田家の領地を掠め取り、完全にキレた光和は1533年、配下の国人衆1000を動員し
信直の居城・三入高松城へ侵攻。横川表の戦いが勃発し、以後熊谷氏は完全に大内・毛利方となるのであった。
この戦いで敗れた安芸武田氏は、以後徐々に衰退していくこととなるのであった。
結果が残念な縁結びのお話である。
0513人間七七四年
2014/06/15(日) 00:26:50.09ID:XSBwx0yu0514人間七七四年
2014/06/15(日) 06:25:09.04ID:l185FiCb0515人間七七四年
2014/06/15(日) 07:04:13.71ID:5gHeMh5m受け入れる方も受け入れる方だし戦国時代の婚姻はよく分からん
0517人間七七四年
2014/06/15(日) 08:55:23.44ID:59CefDBr妹の嫁ぎ先の武田光和と兄・熊谷信直は2人とも父を毛利元就に討たれたりした縁もあってか
水魚の交りと言われる程仲が良かったそうです。
とはいえ父の死後、妹を大事に育ててきた信直は可愛い妹が主君の側室になるのは否定的でした。
また、1524年に大内義興が武田山に攻めて来た時、当時はまだ尼子側だった毛利元就が
援軍に来て、大内方は夜襲を受け、撤退。その戦い振りを見た熊谷信直は元就を仇としてではなく、
1人の大将として評価する様になったそうです。武田光和は父の仇としてずっと恨んでいたみたいですが。
その3年後の1527年位に同じ武田配下の山中氏が独断で熊谷信直を討とうとして失敗。1530年頃山中氏は熊谷氏に討たれ、
その領地は熊谷氏の物となります。
その頃既に熊谷信直は毛利家を通じて大内義隆から山中氏を討ってその領地を得る密約を取り付けていたと言われます。
武田家を離反するのは信直の既定路線であり、妹の離縁と再嫁は渡りに船または信直の指示だった可能性も有るのではないかと言う話です。
陰徳太平記には年代はハッキリしないものの、武田光和と熊谷信直が不仲になる過程の話も
書かれているそうなので、また探してみたいと思います。
0519人間七七四年
2014/06/15(日) 21:37:09.72ID:7JvTsUuV豆知識
0520人間七七四年
2014/06/15(日) 23:23:36.67ID:JL0uWGGYしかしこれも、悪く学んでは、中国の大内殿のようになってしまう。
どういう事かといえば、大内義隆殿は書籍に関してどんなものでも暗いということがなく、
七書などは空で覚えて、「良将は戦わずして勝つ道理なり、また戦って勝っても不慮の勝ちである」
などと言って、はかりごとの沙汰ばかりをしていた。
そのため大内殿の家中の者達は、近習も外様も皆、はかりごとの吟味ばまりしていた。
せめて一手の大将をするほどの者であれば、はかりごとを心にかけるのも当然であり、
開戦して討ち取れない敵にはかりごとを入れるが、こういう事は大将、あるいは家老、侍大将が
行うことである。
もし外様の侍たちが、計略を心がけて戦場での働きを心がけないなら、その大将の下に槍を突く者は
いなくなってしまうであろう。
学問をするのは良きことである。しかし、大内義隆殿の学問は滅亡の原因となった。
それは、大内家の大身者である相良遠江守、陶尾張守という二人が不和となったが、義隆殿は
相良を愛して、陶を殺そうとした。そのため陶は大軍を擁し義隆殿を攻めると、義隆殿は
かねてから心がけていたはかりごとをすることも出来ず、打ち負けて石見国の吉見氏を頼って、
その勢二千あまりで落ちていった所を、陶が追撃したため落ち延びることが出来ず、ついに
自害した。
しかし、もし日頃から槍の柄を取って戦う心がけのある士がいたなら、時の運で合戦に負けたとしても、
義隆殿の身はつつがなき様も防いで落とすことは容易かったであろう。
ところが、いらざる知略の工夫建てに年を暮らした為に、属し、従う武士まで言い甲斐のない死を
してしまったのである。
このたぐいの学問は、しないほうが良いのである。
(武道心鑑)
「学問で滅んだ」大内家に関してのお話しである。
0521人間七七四年
2014/06/15(日) 23:44:12.83ID:27sVN4UV公家化を戒める内容だ
0522人間七七四年
2014/06/16(月) 00:41:25.49ID:isHC7Fml0523人間七七四年
2014/06/16(月) 02:30:02.46ID:ihIZy5HE大内のと田舎侍の宇喜多のとでは次元が違うわ
0524人間七七四年
2014/06/16(月) 02:37:32.72ID:Z2Z46jPS○ 直接戦う人間は学問より武芸の方が重要
あと、陶を殺そうとしたことは不問なのが興味深いな。
0525人間七七四年
2014/06/16(月) 07:09:15.53ID:2H/v/CvX0526人間七七四年
2014/06/16(月) 07:38:12.16ID:wUphW9SS武家が公卿に代わったというは、腕力が観念に代わったという意味にとられてならぬということは、さきにちょっと記した。
武家は腕力をもってはいたが、武家の強さはそれではない。
武家の強さは、大地に根をもっていたというところにある。
武家はいつも大地を根城としていたのではない。武家は腕力はある、武家と腕力とは離れられぬ。
が、大地に根ざさぬ限り、腕力は破壊する一方だ。
公卿文化は、繊細性の故に亡びる。
武家文化は、その暴力性・専横性などの故に亡びる。
腕力と大地とは一つものではない。腕力だけしかないものもある。
公卿たちでも大地が顧みられていたら、平安時代のようなことはあるまい、この点を深く考えなければならぬ。
平安時代に取って代わった鎌倉武士には、力もあり、またそのうえに霊の生命もあった。
力だけであったら、鎌倉時代の文化は成立しなかったであろう。
鎌倉文化に生命の霊が宿っていたということは、その宗教方面に見られる。
平安時代は、あまりに人間的であった。鎌倉時代は、霊の自然・大地の自然が、日本人をしてその本来のものに還らしめたと言ってよい。
『日本的霊性、鈴木大拙、岩波文庫より抜粋』
この文章を第二次世界大戦敗戦直前(昭和19年、東條内閣解散の年)に書いて出版した鈴木大拙
0529人間七七四年
2014/06/16(月) 23:45:47.60ID:qZcyAmqC大坂において焼死の時、利家の息女(春香院)は無事にお逃げになった。
三斎は「姑が死ぬのを見て逃げるのは婦人とはいえ比興(卑怯)だ。
離別するべきである」と嫡子にうながしなさるが、嫡子は同意しない。
三斎は「そのような女房と夫婦である者は我が子にあらず」と
言いなさって嫡子を勘当いたされ、家督は二男越中守(忠利)が継いだ。
――『武功雑記』
0530人間七七四年
2014/06/17(火) 10:39:46.80ID:RyJrocz70531人間七七四年
2014/06/17(火) 11:58:47.53ID:k6Wk3ikE0532人間七七四年
2014/06/17(火) 12:18:56.45ID:mCQ1mVel0533人間七七四年
2014/06/17(火) 13:47:31.28ID:ZCjU5JiMまとめだかここの推測だったような気もするが
0534人間七七四年
2014/06/17(火) 15:32:05.75ID:tJyWt9wAせがわまさきの漫画版は良かった。
0535人間七七四年
2014/06/17(火) 19:20:01.22ID:r3XG2UXF信長は家臣を遣わして荒木を諭したが、同心せず、その上荒木から御着の小寺加賀守政職へ
使いを遣わし、『もとのように我々と一味して、毛利家に属すべきである』と薦めると、
小寺政職は元より荒木と一味していたので、志を変じて、再び毛利家に従うことにした。
これを知った黒田孝高(官兵衛)は小寺政職を諌めたものの同心せず、政職はこのように
官兵衛に言った
「私は今度信長に叛き毛利家に属そうと思うが、これは、元来我々は荒木と一味しており、
彼が俄に志を変じて、我々にもそれを薦めたためである。
であるので、荒木が元のように信長に心を属するのであれば、我々もまた信長に属すであろう。
貴殿は荒木ともとより知人である。なので先に荒木のもとに行って、いかにもして彼を諌め、
信長方に引き入れるべきであろう。」
官兵衛は荒木の心底はかりがたく、この事はどうかとも思ったが、信長への忠節でもあるので
辞するにも及ばず、10月下旬に伊丹へ行き、町から城内に使いを遣わし、事の由を伝えた所、
荒木は官兵衛を城内に招き入れ、力者を多数隠しおき、彼を捕らえて生け捕りにし、をのまま城中に
監禁した。
この事が姫路に聞こえると、黒田の一族家人等は、隠居の黒田職隆にこのように聞いた
「官兵衛殿は不慮に荒木のために捕らわれてしまいました。
御孫である松寿殿は、先年より信長公のもとに人質にまいらされています。
官兵衛殿をお助け、松寿殿をお捨てになって、毛利に従うのでしょうか?
それとも松寿殿をお助け、官兵衛殿をお捨てになって、いよいよ信長公に御従いになりますか?
御子と御孫の間、何れをお捨てになるのでしょうか!?」
職隆は答えた
「官兵衛を捨て、今までどおり信長公に従うべきである。
何故ならば、松寿は我々が決定して人質に参らせたものであり、信長公に従うのは我々の本意である。
一方、官兵衛は荒木を諌めるために行ったのを、理不尽に荒木が留め置いた。この荒木の不義は
是非に及ばぬ所である。
であれば、荒木に従って毛利家に与するのは我々の本意ではない。官兵衛が荒木にために害せられても、
不慮の天災に会ったと思うべきである。
どうして官兵衛を助けるために、我々自身の本意に背いて、敵に従うべきだろうか!」
この言葉に、一族家臣は皆尤もと感じ、その理に伏したのである。
(黒田家譜)
黒田家譜の、黒田官兵衛有岡城幽閉事件に関しての記事である。
0536人間七七四年
2014/06/17(火) 21:40:46.48ID:wug+UzVuどっちも大事!なんてマンガじゃあるまいし
0537人間七七四年
2014/06/17(火) 23:12:00.19ID:I7ESIrrA0538人間七七四年
2014/06/17(火) 23:19:44.02ID:ToqCBF+Eこれだからゆとりは困るわw
0539人間七七四年
2014/06/17(火) 23:31:40.07ID:PuMmim47http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1402903469/
誰が見てるの?
0541人間七七四年
2014/06/18(水) 01:22:39.19ID:MGO4Qu/k0542人間七七四年
2014/06/18(水) 01:24:55.51ID:tk+00PyV0543人間七七四年
2014/06/18(水) 01:56:59.32ID:aLlJ7cpc0544人間七七四年
2014/06/18(水) 17:29:38.25ID:Er2jZ8rX【ドラマ】平成28年NHK大河ドラマ「真田丸」主役に堺雅人が決定
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1403075287/
0545人間七七四年
2014/06/18(水) 17:59:12.45ID:aLlJ7cpc良くも悪くも無害っぽい雰囲気の堺氏はいいんじゃないかと思う
0546人間七七四年
2014/06/18(水) 18:47:40.77ID:4tSyJg6S硬派なノリでまたスベッてくれそうな気がしないでもないが
0547人間七七四年
2014/06/18(水) 18:51:45.99ID:KSXP7nMl0548人間七七四年
2014/06/18(水) 20:38:17.88ID:ocg+5fVv0549人間七七四年
2014/06/18(水) 20:50:19.94ID:5L+r9nsN0550人間七七四年
2014/06/18(水) 20:52:21.13ID:iEUJptWi0551人間七七四年
2014/06/19(木) 05:26:32.95ID:9ZFe5Cro0553人間七七四年
2014/06/19(木) 08:23:49.54ID:9ZFe5Cro0554人間七七四年
2014/06/19(木) 09:08:28.99ID:zffR6zIe0556人間七七四年
2014/06/19(木) 12:20:29.21ID:EpgI4gW2オレも見てて思ったわ
堺雅人がやるとどの役も堺雅人になっちゃうってイメージだわ
0557人間七七四年
2014/06/19(木) 12:28:04.69ID:YVS82iqo0558人間七七四年
2014/06/19(木) 14:40:45.23ID:NFDi6Zt+尊敬と劣等感を持っていた男の人生、となるといいなあ
0559人間七七四年
2014/06/19(木) 15:12:46.41ID:ctSfZihgそれを取り巻く山野を開墾していき、最後に隣との境界に行き着いたときに、
「ここは俺の所領だろうが!」などと主張し合って争いが起こるのだという。
その場合の解決方法。土地証文も境目の標識も無いのだから、係争地を測って折半させるのがよろしい。
それでも文句があるのなら、ワシが没収して他人に与えるから。
(結城氏新法度・第五八条)
0561人間七七四年
2014/06/20(金) 18:12:33.37ID:tslcirxk制定者である結城晴朝の父政朝の命日は宴会禁止の条
0563人間七七四年
2014/06/21(土) 11:16:13.58ID:fUSWYZrM過去にも茶杓から市松の風流話ってない?って質問した人がいたが
どうやらなかったようだ
0564人間七七四年
2014/06/21(土) 17:00:52.91ID:vfRkyEkPある時
す々きにまじる蘆の一むら
という句に冬康が句をつけようと思案している折、緊急事態だと文箱が届いた。
冬康が手紙を読んでいると、座にある人々が何事が起きたのかと尋ねた。
冬康は
沼水のあさきかたより野となりて
と言った後に
「それがしの弟、実休が討死した。と伝えてきたのです。」
と言い暇乞いし、すぐさま敵と戦い名誉の高名をあげたそうだ。
備前老人物語
これって三好長慶の逸話であったような・・・というか実休ってお兄ちゃんだったような・・・
0565人間七七四年
2014/06/21(土) 21:33:02.82ID:qSnJAOwJ本人の風流話といえるかわからんが、これとか。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3586.html
多分、文化人に対しても、出来る奴には素直に感心するタイプ。
0566人間七七四年
2014/06/21(土) 22:09:41.69ID:qSnJAOwJ05671/2
2014/06/22(日) 19:25:46.77ID:ze51xFkbその理由は以下の様なことである。
尼子興久は亀井能登守を通して経久に訴え、同国原手郡700貫の所領を望んだ。しかし経久は、
『原手郡が本拠である月山富田城の近辺であるので、与えることは出来ない、であるので別の場所において
千貫の所領を与える』という旨の返答をした。これに興久は納得できず
「私は思う仔細があって原手郡を望んだのだ。別の場所であれば何満貫であっても望むことはない。
きっと今度の所望が叶わなかったのは、偏に亀井能登守が讒言して妨げたに違いない!この上は
能登守を討って我が本望を達するべし!」
激怒してそのように言った。その頃、尼子経久は杵築(出雲大社)において法華経一万部を読誦させられ、
亀井能登守はその奉行として杵築に滞在していた中、興久は3000騎を擁して杵築に押し寄せる、という
風聞が広まった。これを聞いた経久は
「興久に訴えたいことがあるのなら、先ず私に言って来るべきなのに、亀井を討とうとするとは心得られぬ。
これは偏に、能登守を討つという口実で、私に弓を引こうという企てなのだ!」
そう考え、牛尾当遠江守、同三河守、卯山飛騨守に2000人余をさし添えて杵築に遣わし、能登守を伴い
道中の警護をさせて、無事、富田城に引き取った。
興久はこれを聞いて大いに憤った
「たとえ私に非分があったとしても、親として子の事を思わず、逆に郎党を助けるとは有っていいことか!」
そこで乳人の米原平内、亀井新次郎を呼び
「私は今、親子不快という状況になったが、これは偏に亀井能登守の所業のためである。この上は、
あやつはいよいよ父上に対し私を讒言し、罪に陥れようとするだろう。よって、今より一心に思い切り、
富田城に押し寄せ晴久を討ち経久を押し込め、亀井能登守は鋸挽きにしてこの無念を晴らそうと思うが、
いかがか!?」
両名はあまりのことに、暫くは目と目を合わせ閉口していたが、「正しき父に弓を引き甥に対して
剣を振るうなど、冥王の照覧も恐ろしく、不義不孝の名も末代まで朽ちないような所業です。たとえ一旦の
憤りによって経久様が仰せ付けられたのだとしても、興久様はどうかそのお考えを改めてください!
能登守はこの亀井新次郎の兄ですが、だからと言ってこのように申し上げているわけではありません。
彼に関しては、私がその宿舎に行って、兄弟で刺し違えましょう。ですので、これによって憤りを鎮められ、
父子御不快の事は是非にも止めていただけますよう。」
このように諫止したが、興久は
「私は経久を討つべしと思っているわけではないのだ。ただ富田城を乗っ取り晴久を討って、私がこの
尼子家を相続し、亀井能登守の首を刎ねた後は、父子和解して考順なすであろう。
しかし、父に盾をつくのは不孝だからといって、首を延べて軍門に下ってしまえば、能登守はたちまち私を
討つであろう。父を敬うからといって。家人に頭を刎ねられる者があるだろうか!
私は経久の軍の先陣にあって、伯耆において山名との合戦4度、その他各地の城を落とし敵を打ち倒したことは、
何度あったか数が知られぬほどだ。その私の戦果故に、いま近国は経久になびき、従っているのである。
いま私が生命を惜しまず思い切って富田城に攻め入れば、軍勢の多少によらず、ただ一時に揉み破ることが出来る
だろう。もし運が尽きて合戦の勝利を失ったのなら、富田城を枕として討ち死にし、仏とも神とも成って、怨霊として
亀井に復讐するだろう。
であるが、お前たちは経久の譜代重恩であり、特に新次郎は能登守と兄弟であり、私に与するような事は些かも
ありえないだろう。お前たち両人が急ぎ経久のもとに参りこの事を知らせるというのなら、その時私は検使を
申し請い、涼しく切腹するであろう。さあお前たちは、早々に富田に帰るが良い!」
そう、声を唸らし畳を打ちながら叫んだ。
05682/2
2014/06/22(日) 19:26:36.26ID:ze51xFkb「お言葉を返すのは恐れ多いことですが、仰せのように興久様が近国に武威を振るわれた事に関して、それを
知らぬものは居りません。しかしそれゆえに驕慢となり天魔の心が入り込み、このような悪逆を思し召しに
なられたのだと見て取りました。
興久様が尼子家を相続するといいますが、貴方様は騎将の器には当たりますが、数カ国を収める
数万の軍勢の大将の器には当たりません!何故かといえば、強剛勇猛のみで、五常の道をご存じないからです!
父君に対して弓を引き楯突くような御仁ではありませんか!
鳥類であっても、梟は不孝の鳥であると、諸鳥はこれを憎むと言われています。とにかく、この事は思い留まる
べきです!」
この諫言も、忠言却って耳に逆らい、おおいに立腹し
「私が一度思い立って、生きている以上、杵築大明神も智見あれ!この弓矢を思いとどまることはない!
しかし面々の異見の趣を背くのも如何なれば、私はここで自害する!
であれば、父に対して弓を引く事にはならず、各々の異見を用いざるにも非ず!」
そう言って刀の柄に手をかけた所を、両人は急ぎ腕を抑えこれを押しとどめた。そして
「この上は力なし。兎にも角にも、仰せの旨に従って共に忠戦を励みましょう。
ただし我等両名は若年の頃より経久様のご厚恩を蒙り、その上一族ことごとく富田に罷りある以上、
御疑心もお有りでしょうが、多年の興久様からの御好みを捨てがたく思いますので、たとえ骨を粉にさせられ、
肉を膾にさせられたとしても、全く恐るべきことではありません」と、両人共に妻子を人質に出し
杵築大明神の牛王の誓紙を書いて、灰にし酒に入れてこれを飲み、一筋に思い定めることを表明すると、
興久も快く、金作のたちを両人に与えた。
(芸侯三家誌)
尼子経久・興久親子不和についての逸話である。
0569人間七七四年
2014/06/23(月) 00:21:46.22ID:IN14G2Ii発生時期や誅された人物がちとハッキリしない逸話ですが、小早川隆景にまつわる悪い話
元亀元年(1570年、ただし1590-92年の天正年間説もあります。)
小早川隆景は新高山城に変わる新たな居城、三原城の完成に伴い新城の完成を祝う祝宴を三原城で開催。
その宴に呼ばれた者の中に、1人の偉丈夫の姿があった。備後本郷城の城主、古志清左衛門豊長(元綱とも)
身の丈六尺三寸、大力にして驍勇無双といわれた豪の者である。
出雲佐々木氏を先祖とした古志一族の者であり、尼子攻めや隆景の宇和島攻めにも参加し活躍した(殺害が天正説の場合)という。
ある戦で味方が危ういと見るや、槍を取って大音声を上げ、瞬時に敵数人を突き倒して形勢を逆転させる程の武勇の持ち主である。
この三原城の宴の直前、彼の武勇を妬んで主君・隆景に古志豊長が敵方に通じていると讒訴する者があった。
隆景はこれを信じ、家臣に古志豊長を殺害するよう命じた。
酒宴もたけなわの頃、酔って寝てしまった豊長の首を、隆景に命じられた家臣が太刀で斬って落とす。
すると、胴を離れた豊長の首は目をかっと見開き血を吹きながら転がり、首を失った胴体は刀を抜いて
立ち上がり、数歩歩んでからその場に倒れた。
豊長の家臣達も1人を残して皆討ち取られ、唯1人生き残った井上大炊介という家臣がこの血の宴を脱出して
本郷城に急を知らせた。城に居た15歳になる豊長の嫡子は直ちに三原城へ赴き、隆景と対面して父の遺骸を受け取ると、
自らの城下に持ち帰り葬った。だが、その墓前で念仏を上げていたところを追っ手に討たれ、古志氏は断絶したという。
この無残な出来事を知った領民達は、口々に小早川の繁栄も長くはあるまいと噂したと言う。
(水野記、広島県史など)
なお、資料によっては古志氏はこの後も名を和田と変え、毛利家の家臣として存続したが、関ヶ原の戦後、毛利家の転封に
付いて行かず、武士としての歴史を終えたとも言われている。
0570人間七七四年
2014/06/23(月) 10:46:24.93ID:VmKU1xPn後期なら養子のために御しえない人物を粛清しただけ
と思ったけど、“小早川秀秋”が誕生するのは文禄3年か
0571人間七七四年
2014/06/23(月) 11:44:40.79ID:NFDW0WCH天正期には小早川隆景の国人衆に対する国替えに反発して秀吉に直訴しようとした古志豊長(元綱)が誅されたって資料も有ったり、天正20年8月の古志豊長の墓?も有ったりで色々と訳ワカメ
まぁ、逸話スレなので史実うんぬんはとりあえず置いときますかね。
0572人間七七四年
2014/06/23(月) 13:18:03.78ID:+4C+UDH6元亀の線はないと思う
0573人間七七四年
2014/06/23(月) 20:29:30.75ID:lYZpV49i尼子の残党とか?
0574人間七七四年
2014/06/23(月) 20:35:35.70ID:PU/10jNH隆景が逆にぼっちになっちゃたんですよね
0575人間七七四年
2014/06/24(火) 05:34:38.01ID:tSLvIleb武衛陣に新たな城を築いた(二条城)。この築城が完成すると、足利義昭を据えての慶賀の能が
行われた。老人(江村専斎)も当時4歳ばかりであったが、乳母に抱かれてこれを見物した。
その日、信長は小鼓を打っていた。長岡三斎(細川忠興)は老人より年上で6歳ほどであったが、
猩々を一番舞われた。
その後、帰りに門外において、盗人に後の紐を切られたことを覚えている。
この頃は、盗人が刀の口蓋、小刀などを抜き取るということをがよくあったのだ。
そのため盗みのことを『ぬき』と呼んでいた。今の『すり』と言うのと同じである。
(老人雑話)
老人雑話より、二条城落成式の日の思い出、である。
0576人間七七四年
2014/06/24(火) 17:40:20.00ID:+iFynjsMという者が伊達の先供の中を通り抜けようとした。供の士は某を取り押さえて
日比谷へ連れ帰り、成敗した。
新組頭はこれを聞いて大いに立腹し、老中の松平伊豆守(信綱)へ訴えると、
伊豆守が言うには「小家でも大名の通行は分かるものである。ましてや、
大家の伊達の通行は二、三町先からも分かるものなのに、先供の中を通り抜け
ようとするのは一つ目のたわけである。
また、連れて行かれるからといって、伊達の屋敷までのさのさと行ったのは
二つ目のたわけである。また、結局は逃げられないことと察知して切り死に
するべきなのに、むざむざと打ち首にされたのは三つ目のたわけである。
こんなたわけ者が御家人にいても御用に立つ者ではない。だから生きていても
益は無く、死んでも損は無い者である。申し立てるには及ばない」とのことで、
訴え書を差し戻し、併せて、
「その者に倅どもがいて伊達陸奥守を父の敵として討ったなら大至孝といえよう。
随分(できる限り。または大いに)狙うように申し聞かせなさい」と言ったそうだ。
――『明良洪範続編』
0577人間七七四年
2014/06/24(火) 17:44:51.14ID:r/sLCjDk0578人間七七四年
2014/06/24(火) 18:11:33.18ID:RgdOU5YQ0579人間七七四年
2014/06/24(火) 18:51:10.11ID:EoDDTEDU伊達家の顔を立てつつほのめかしてるのでは
0580人間七七四年
2014/06/24(火) 19:18:48.52ID:XUet17Dbこの話まだ出ていなかったのかな
武士の美意識がわかる話だから印象深い
たしかに伊達家の行列前を横切ったのはこの侍の過失なんだけど、
斬られても仕方ない過失ではあるけど、黙って連行されても最悪首斬られるのだから、
それならその場で刀抜いて斬り死にする最期を選ぶべきだってことだろうな
討ち死、切腹〉〉(越えられない壁)〉〉斬首 の世界観だし
この話が作中に出てくる五味康祐の短編小説『国戸弾左衛門の切腹』オススメ
映画にしてほしい深い話だけど、映画にされることはないであろう名作
0581人間七七四年
2014/06/24(火) 19:36:33.91ID:XUet17Db×たしかに伊達家の行列前を横切ったのはこの侍の過失なんだけど、
○たしかに伊達家の行列前を横切ったのはこの侍の過失。
0582人間七七四年
2014/06/24(火) 21:41:46.87ID:6ybX+yXy0583人間七七四年
2014/06/24(火) 22:49:29.83ID:MiyUZfBM直政「(´;ω;`)今日の戦は多分、手柄なんか立てれないよ。」
と涙を流していた。
高木正次は
正次「(;´Д`)そんなことないって。ちゃんと手柄立てれるから。」
と言ってたらしい。
武功雑記
0585人間七七四年
2014/06/24(火) 23:31:14.69ID:5N2ixU9L左様にても殿があのように仰せられたのだ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6970.html?sp&sp
0586人間七七四年
2014/06/25(水) 01:50:56.64ID:mRtqlzOFヒャッハーしまくったからw
0587人間七七四年
2014/06/25(水) 13:33:49.00ID:xdl5W9Ls0588人間七七四年
2014/06/25(水) 13:53:33.74ID:xQJ1+8bHそんな感じ
0589人間七七四年
2014/06/25(水) 14:12:29.61ID:1UVF5MhQ0590人間七七四年
2014/06/25(水) 18:04:06.37ID:q25cZx1e0591人間七七四年
2014/06/25(水) 20:18:06.48ID:cx2X9NFm仲介の人がこれを伝えると、常磐井殿は「夏衣装で合うのは恥ずかしい」と答えた。
「それで構いませんよ」と仲介は答え、伴をして出かけることとなった。
その仲介人も、夏衣装とは夏の装束の事であると思っていた。
ところがこの常磐井殿は、困窮のため帷子すら無く、なんと蚊帳を身にまとって現れたのである。
これは織田信長の時代の頃の話である。
(老人雑話)
0592人間七七四年
2014/06/25(水) 20:45:50.57ID:fd917aZI0593人間七七四年
2014/06/25(水) 20:59:16.13ID:C1LCWmsM0594人間七七四年
2014/06/25(水) 21:36:01.28ID:Jy/xY/vi0595人間七七四年
2014/06/25(水) 21:59:00.18ID:YPU4+gEs0596人間七七四年
2014/06/25(水) 23:30:03.62ID:BMTGTS540597人間七七四年
2014/06/26(木) 02:07:53.21ID:eXXLQtAg意味:常磐井殿の部屋(間)では、梅雨時になると雨が漏ってかわいそうであることよ
0598人間七七四年
2014/06/26(木) 02:29:30.08ID:1kimAW500599人間七七四年
2014/06/26(木) 02:31:07.21ID:rwXANrYv0600人間七七四年
2014/06/26(木) 08:23:04.15ID:Imsfgjtw0601人間七七四年
2014/06/26(木) 20:49:15.24ID:ehGhWxo2一、貞山様(伊達政宗)が、満海上人という一世の行人の生まれ変わりである、という話を伝え聞きますが、
一体誰がどんな根拠があってそんな事を言っているのでしょうか?
貞山様のお話の中で、そのような事は承ったことがありません。ただ、満海上人の生まれ変わりという
話が、貞山様の生きて居られた時代から言われていたことは覚えています。
一、貞山様が何かの申し子であるというような話も、私はご本人から承った事はありません。
一、神仏の生まれ変わりであるという話も、当然承った事はありません。
一、甲陽軍鑑という書籍が、貞山様の在世中に世間に流布していたという覚えはありません。
一、貞山様の御童名についても覚えていません。
一、満海上人が何時の時代のどんな人物であったのかも承った事はありません。
一、貞山様がご誕生の時、奇瑞が起こった、という話も承っておりません。
六月一五日 眞山庄兵衛
(伊達家文書)
いわゆる政宗生誕神話を全否定している記録である。
0602人間七七四年
2014/06/26(木) 23:22:50.52ID:Imsfgjtw0603人間七七四年
2014/06/27(金) 20:03:46.80ID:sd4Sfqt+伊達政宗公の元にお輿入れをされ祝儀を調えられた。
この時、板屋は雪が深かったので、小坂路を経て米沢へと至り給われた。
愛姫の御母は小高の相馬顕胤の娘であり、田村清顕は夫婦ともに、伊達稙宗公の外孫であって、
愛姫は政宗公の又従兄弟である。
(貞山公治家記録)
これだけでももうややこしい奥州の血縁関係の解る、愛姫輿入れに関しての記事である。
0604人間七七四年
2014/06/29(日) 06:25:38.27ID:D4+7Fxs10605人間七七四年
2014/06/30(月) 05:00:00.79ID:AJuuPZZO然れども秀次は、元来強悪の人であったため、その奢りは日々盛んとなり、常に酒色に溺れ
遊宴を事とし、政道に心をかけず、余人を殺すことを好み、その暴悪極まりなしといった有り様であった。
黒田如水はこれを憂いて、秀次に諫言をした
「秀吉公は若年より、弓矢に辛労されたこと数十年に及び、漸次天下草創の功を成し遂げられました。
そして今、年齢は既に六旬(60代)になられ、朝鮮征伐のため自ら名護屋に下り、日々軍事に
お心を苦しまれておられますれば、御精力尽きてお命も縮まることでしょう。
ところで、貴公は一体何者ですか!?太閤殿下の御子ではありません。また同姓でもありません。
たまたま太閤殿下の御寵愛があって、父子の約束をされ、数ヶ国を領し、いまそのように
関白の位に上り、天下の人々から仰ぎ尊ばれ、栄華を極められています。
これは一体、誰の恩ですか!?
その上、太閤百歳の後(死後)、後を継ぎ天下を保たれる人は、貴方でなくて誰でしょうか!?
今、太閤殿下が名護屋に下り、朝鮮の軍務にご苦労甚だしいのを知りながら、太閤殿下に変わって
名護屋に下ろうと思われるお心もなく、京都にいながら日夜遊興酒食をのみ好まれ、身を安楽に置き、
太閤殿下の御恩を忘れられていること、不孝の至であり、天道の憎まれることであれば、必ず御身の
災いとなるでしょう。よくよくご思案なされるように!」
そう言ったが、秀次は終にこの諫言を用いず、また秀吉に変わって名護屋に下ろうと思う心もなく、
悪逆もなお止まなかったため世の人々は漸次彼を疎むようになっていった。
そして秀頼が生まれ、秀次の威勢も衰えたが、関白職を秀頼に譲る心も無かった。
そのような中、この年の7月上旬、秀吉に対して秀次が謀反の企てをしたとの情報が聞こえ、
秀吉は検使を遣わして、秀次を高野山で切腹させた。
如水の諫言を用いず、この様になってしまったことは、頑愚の至りというべきであろう。
(黒田家譜)
0606人間七七四年
2014/06/30(月) 05:43:37.98ID:zr1EUZlJ0607人間七七四年
2014/06/30(月) 08:36:15.26ID:eD4z2JJ6てか、秀次失脚にはやっぱ如水もかんでんのかなあ
吉川みたいにさ(ヲイ
仮に無事に政権を存続させていたとして、家康が野心をあらわにしたときに対処できたかな?
0608人間七七四年
2014/06/30(月) 08:40:39.41ID:MIU+/IiK0609人間七七四年
2014/06/30(月) 18:44:22.07ID:DaQJOGCE0610人間七七四年
2014/07/01(火) 01:05:17.44ID:CqLvthWA同藩である吉田壱岐の陣屋へ夜話にやって来た。そして帰る時に、
「今夜、敵は夜討ち入るに違いない。油断するな」と言って出て行った。
その後で諸士は「何の見所があって今夜は夜討ち入るなどと言ったのだろうか?
例の武辺自慢であろう」と言って一同が笑っていると、清左衛門の言った通り
夜討ちがあった。
その後、「この夜討ちがあることをどのようにして知ったのだ?」と問うと、
清左衛門は「その夜は城中が何となく物騒がしく、そのうえ女の泣き声などが
聞こえたので城中の者は討死の覚悟で夜討ちに出るに違いないと察したのだ」
と言った。
――『明良洪範』
0611人間七七四年
2014/07/01(火) 10:36:57.87ID:LVsMjkKJ前の豊後の国主・大友義統は、大阪にて毛利輝元の下知を受け、旧本国豊後を与えられ、
これにより九州へと向かっていた。
この情報を知った黒田如水は、義統を引き込み味方にするため、家来の宇治勘七という者に、
大神大学という牢人を添えて周防国上関に派遣した。
この大神大学という者は、はじめ大友義統の小姓であったのだが、義統が改易された後牢人となり
中津の町に居住していたのを呼び出して遣わしたのである。
この人選に対し、黒田家の家老たちはこのように申し上げた
「大神大学は義統によしみのある者です。もしかすれば我等を裏切り義統に内通することも考えられます。
ですので彼を使いに遣わすべきではありません。」
これを聞いた如水は
「私は、大学が義統に内通する人物だからこそ遣わすのだ。大学は我が中津の城の案内と
兵の多少を義統に告げるであろう。そうすれば、義統はこの城を攻める謀を思案する。
しかし、私は彼が攻めてくるより先に、こちらから速攻して勝負を決するつもりだ。
然ればどれほどこの城の案内を詳しく伝えても、何の役にも立たない。
私は大学に、今回の合戦の作戦を詳しく言い聞かせ、大友に告げさせる。
その上でこちらは、その裏を用いるのだ。
義統と面会した時、彼がもし大学を留めるようなことが有れば、勘七はそのまま座を下がって良い。
また、勘七は大友の船の数がどれほどか、よく見て参るように。」
そう命じた。
勘七・大学の両人は上関に派遣され大友義統を待ちうけ、如水からの、味方に勧誘する書状を渡し
口上を告げた。義統はその返書に如水の好意を謝し
「この分別は大事の思案ですので即時に決断できるものではありません。ですので豊後に着いてから
こちらから使者を以って委細申し届けるでしょう。」
と答えた。そして勘七が返書を受け取り罷り立とうとした所、案の定義統は大学を留めたのである。
勘七が御前を立ち去った後、義統は大学としばし物語った。一体どんなことを問われたのか、
その内容は知られていない。
(黒田家譜)
黒田如水の策謀についての逸話である。
0612人間七七四年
2014/07/02(水) 08:21:03.61ID:Wuhtwmpd0613人間七七四年
2014/07/03(木) 16:34:11.67ID:A2gfpS0G大阪・堺の弾薬兵糧を尽く買い取り、人馬に息をも継がせず急ぎ城中へ運び入れた。
また諸卒が手分けをして、天満船場の材木を運び入れ、四方の惣門構を厳密に調えた。
その持ち口をそれぞれ割り当てて、家々の旗を立て、南方には塀裏八間に鉄砲十丁づつにて
固めれば、いかなる天魔鬼神であっても、破られるようには見えなかった。
ここで大野主馬は、船場の町を要害に構えて敵を待受けるべしと主張した。
しかし、青木民部少輔、伊藤丹後守らを始めとした心ある武士たちは、
「籠城の範囲があまりに広ければ持ちあぐむものだ。それに天下の兵を引き受けての
戦いであるのだから、一体何時まで持ちこたえればよいかという、限りを測ることが出来ない。
である以上、兵糧を費やす町人たちは外へと追いだすべきだ。」
このように忠告したが、主馬はこのような意見を聞き入れず、自分の思うがまま、船場の広い街に
塀をかけて、町人たちを伴ってこの地に要害を構えた。
(秀頼事記)
大野主馬、青木らの籠城についての意見を聞かず、というお話。
0614人間七七四年
2014/07/03(木) 21:15:46.81ID:sbueFOwP安井道頓のように町人衆の中に
「前右大臣様の御為じゃーい」と積極的に動く連中がいて
それらの熱気にあてられたのだと思えば
大野主馬の気持ちもちょっとわかる気がする。
0615人間七七四年
2014/07/03(木) 22:36:07.38ID:XVuJy8Vh0616人間七七四年
2014/07/04(金) 09:33:02.32ID:E2O7/VxD幕府軍による備前島からの大筒による攻撃で、大阪城内の櫓が破壊されると、豊臣首脳陣は
これ以上の抗戦は不可能と見て、旗本である七手組の頭たち、そして織田有楽は揃って幕府との
和議を受け入れるよう豊臣秀頼に迫ったが、秀頼は
「この籠城を決断した初めから、私は自分の運を開くつもりはない。父の遺言に任せ、この城を
墓所だと思っている。それなのに何故お前たちは和議を受け入れよと申すのか?」
これには皆言葉なく立ち下がり「秀頼公は、古参の者達の申し分は聞き入れてくれない。この上は
新参の者達の考えを申し上げ、その上で諫めるのだ。」そういって長宗我部、真田、後藤、明石を始めとした
浪人衆に、「この事をどう思うか」と尋ねたが、その評議はそれぞれにまちまちな意見であった。
ここで後藤又兵衛はこういった
「諸大名に内通しているものがあると言われますが、一人も御味方に参るものは居ません。
弾薬も兵糧も限りあるものです。一体、何を頼りにこの和議を受け入れないと仰っているのでしょうか?」
次に真田左衛門佐(信繁)は言った
「籠城というものは、諸人心を一つにしてすら覚束ないものです。であるというのに、この頃の
南面の持ち口の状況を注意して見れば、運生寺(織田頼長)の持ち口では、鉄砲を撃つことを固く
禁止している。先日など誤って発泡したものを斬首し、その頸を晒しさえした。そんな状況であるから
敵は早堀の際まで仕寄せてきている。
また目立つ白い吹貫を、3度まで色々に染め替えるという不審な行動もしている。
そのうえ先日4日には、敵が柵にまで手をかけ、我々はその防御のため、童女に至るまで石を運ぶほどの
危機に陥り、諸人は息を呑んでいたのに、かの織田頼長殿はその前夜から「風邪を引いて咳が止まらない」と
家に入り、傾城(遊女)に身体を揉ませ深夜まで遊んで居られたと、そんな話も承っている。
彼といい此れと言い、疑念が晴れることはない。
この織田頼長殿は有楽斎殿の嫡子であり、秀吉公の御一門、南面の総大将です。そのような人物が
斯くの如くの有り様では、どうしてこの籠城が叶うでしょうか?
相手が和議を言ってきたのを機会として、時節をお待ちに成るべきです。」
そのように申し上げた。
この意見に他の浪人衆も同意した。
織田有楽、大野修理はもとより和議への賛成派であったので、古参新参の者達の意見を合わせて、
先ず、母の北方(淀殿)にこう申し上げた
「形のごとく計略をめぐらし諸大名の心を引いてみたというのに、一人も味方に参るものが居りません。
あまつさえ我等に野心を抱くものも、未だ城中にいると承っている。その上兵糧弾薬も徐々に
尽きてきています。
敵の家康は名将であり、日本中の軍勢をもってこの一つの城を攻めているのですから、味方につこうと
思うものが居ないのも当然なのです。今は、ただ一筋に、秀頼公が御母もろともにお腹を召されて
諸軍勢をお助けになられるか、この和議を許諾して、時節をお待ちに成るか、二つに一つです。」
母の北方はこれを聞いて「源頼朝は朽木の中に隠れて本意を遂げ、越王は心を秘して会稽の恥を雪ぐと申す。
命を捨てるばかりを勇者と申すべきではない。秀頼のためであれば人質となっても関東へ下り、
いかなる目にあっても露ばかりも厭う心はない。古参新参の人々を語らい、秀頼を諌め申すように。」
そして有楽を中心に、秀頼を様々に説得し、秀頼も終に
「私は未だ若年であり、弓矢の道もよく理解していない。おのおの一同がそのように申す上は力及ばぬ。
宜しく計るように。」
と、終に和議の受け入れを許諾したのである。
(秀頼事記)
秀頼の、和議受け入れまでの経緯である。
0618人間七七四年
2014/07/04(金) 12:51:50.62ID:2+SxpPu50619人間七七四年
2014/07/04(金) 13:25:44.66ID:J7q6JEXP0620人間七七四年
2014/07/04(金) 19:13:05.96ID:hb+FdUE6気概だけはあったということか
しかし裏切り者はおいといて、淀君、豊臣首脳陣、浪人勢、秀頼
特に貶めてないのがなんかいい
0621人間七七四年
2014/07/04(金) 19:21:45.64ID:8LDaSUCl0622人間七七四年
2014/07/04(金) 23:49:19.92ID:jTl8WvhA最近の説では、淀君自身は人質として江戸に行ことを承諾していたが、
秀頼が母親を人質にすることは受け入れられない
と強硬に反対していたという見方が有力らしいからねえ
0623人間七七四年
2014/07/05(土) 02:35:04.60ID:9R7ZIt2m0624人間七七四年
2014/07/05(土) 03:51:46.28ID:+DRSuoeO0625人間七七四年
2014/07/05(土) 11:24:12.90ID:l4p3lJTiそれとも大砲にびびって鞍替えしたのかどっちだろ
0626人間七七四年
2014/07/05(土) 11:51:39.42ID:Ht6XSUXc冬の陣中後→講和派
夏の陣前→フェードアウト
お袋様専制と言われるくらい権力をもって居たから
戦前より講和派なら戦になってない可能性が高いくらいの話
いざ始まったら味方する大名ゼロで講和派転向
夏の陣前は秀頼が発言するようになり代弁者でしかない淀君はフェードアウト
真偽はともかく淀君関係を拾っていくとこんな感じ
0627人間七七四年
2014/07/05(土) 13:03:40.03ID:Io4/Fj1e0628人間七七四年
2014/07/05(土) 14:50:12.30ID:tSQ34vPYその頃、才覚に優れ、軍法を弁え、また文学にも造詣が深く世の理もよく知ると言われる、
宗夢という老人があった。彼は近江の住人で、俗名を高木仁右衛門といった。
彼のことを豊臣秀頼は耳にし、密かに御前に召した。そしてこのように言った
「私は若年の頃父に生き別れて以降、年月を積んで23歳となった。
花に遭っては暮れゆく春の名残を惜しみ、秋を迎えては更けゆく月に思いを寄せ、
徒に心のみを動かし、武士の家に生まれてその業を学ばず、合戦というものに至っては
耳に聞いたことがあっても、目で見たことはなかった。
しかし、去年の9月18日、片桐且元が関東より帰ってきて申すには、今度大仏供養についての
問題はもはどうしようもない。将軍と私との末代までの入魂の証として、三ヶ条を受け入れるよう
諌めた。しかしその内容はいずれも、叶い難きことであった。
この上は亡父の遺言に任せて、この城を墓所と定め籠城の策を廻らせていた所、
思いもかけず、外より牢人衆が軍兵として馳せ集まり、雪夜に寒さを厭わず武功を励まし、
日本中の軍勢を敵に受けて一度も味方の利を失わなかった。
これは私の力ではない、諸軍勢の勇功である。
そうであるのに、私にはその恩に報いるべき便りはなく、あまつさえ和睦の後、
新参の軍兵は扶持を放つべきであると、周りはしきりと言ってくる。
この和睦のことは元より私の好む所ではなかった。しかし新参の諸人には別儀あるまじという
約束を固めて和平をしたのだ。そうであるが今、豊臣家には諸牢人に割くべき兵糧はない。
尊い身分に生まれたのも、卑しい身分に生まれたのも、それはたまたまその身が授かり受けた
事にすぎない。人として違いなどあるだろうか?
恩を受けて恩を知らないのは禽獣に劣れる。人としてどうして、禽獣と同じで良いだろうか?
こうなった上は再び合戦に及び、骸を山野にさらして、諸軍禅の恩を報ずべきと思っている。
汝が存ずるところの合戦の手立てが有れば、残らず語って聞かせよ。」
と、聞いた。
これについて宗夢は、大将にとって智信仁勇厳の大切さを語り、秀頼と終夜語り合った。
(秀頼事記)
豊臣秀頼の、冬の陣の和睦についての思いを綴った一説である。
0629人間七七四年
2014/07/05(土) 15:43:32.15ID:kMUrFP58そりゃ命狙われるわwww
普通なら鼻毛伸ばしてバカ殿演じて、家康死ぬまで雌伏するだろ
0630人間七七四年
2014/07/06(日) 01:22:21.45ID:1ea63mQ/0631人間七七四年
2014/07/06(日) 16:42:43.34ID:0z3bdRYvそれ以前に、関ヶ原の時点で
通説
淀君 > 西軍
ねね > 東軍
だったのが、
淀君 > 東軍
ねね > 西軍(というか、宇喜多+石田派)
というのが有力になってる
その結果、淀君がお江の事もあって、家康や秀忠に託していたのが切り捨てられたという見方が強い
0632人間七七四年
2014/07/06(日) 18:42:50.86ID:JkhN9K7c0633人間七七四年
2014/07/06(日) 23:38:27.43ID:cjYjj7kwこの事を知った大野修理は3月3日、秀頼の御前に出てこのように諫言した
「秀頼様のこの頃のなさり様はどうしても心得がたいものばかりです。
去年の和睦のさい、大御所より仰せられたのは、牢人衆の頭たちだけはお抱えになり、
その下の者達は尽く召し放ち、兵糧の続くようにせよ、との事でした。これに関しては
今まで度々申し上げてきたのに、ご許容なさいませんでした。あまつさえこの頃は若き者共に
金銀百枚づつ与え、それで人を抱えるようにと言われているそうではありませんか。
これは一体何を意図されているのでしょうか!?
ご存知のように、籠城している間から諸大名の心を色々と引いてみましたが、同心するものは
居りませんでした。ことさら今日に至っては堀を埋め石垣を崩した以上、天下の塀を引き受け
合戦を行うなど、考えもできない状況です。
只今はとにかく御身を全うして、時節をお待ちに成るべきです!」
秀頼はこれを聞いて
「お前の指図により、私が後代に面目を失った事が二つある。
籠城の時私は、諸陣を廻って軍勢の労を慰めたいと度々言ったのに、古老の者共と申し合わせて
これを留めた。
また今回の和睦についても、私は同意していなかったのに、古参新参の者たちが揃って私を諌めた。
これもまたお前の心より出たものである。
諸大名の心を引くなどというのは、それ以前の話である。こうなった後、誰が私に与しようと
考えるものがあるだろうか。
現在の状況に至らしめた事を、勧めたのも汝であり、留めたのも汝である。
そして今その責めは私一人に帰して、逃れる所は無い。
もはや屍を軍門に晒し、名を後代に上げるより他はない。」
そのように答えたのである。
(秀頼事記)
0634人間七七四年
2014/07/07(月) 00:00:52.99ID:JBdcBEB8一人っ子で大事に育てられてるのが残念
0635人間七七四年
2014/07/07(月) 06:52:42.87ID:R4ebbHnZさんざん相手の行状並べ立たてた上で「すべて俺の責任だ」で締めめるって、
なんかこうイラッとくるものがあるなw
0636人間七七四年
2014/07/07(月) 07:51:09.41ID:xRrlgk3Q0637人間七七四年
2014/07/07(月) 08:25:45.28ID:c1SHK/0xて、あほ抜かしてるだけなのがなあ
0638人間七七四年
2014/07/07(月) 08:28:51.84ID:KLB8Vucs0639人間七七四年
2014/07/07(月) 08:48:00.22ID:Zucshz/v無報酬というわけにもいかないだろう
0640人間七七四年
2014/07/07(月) 09:26:18.22ID:2+zIaawC0641人間七七四年
2014/07/07(月) 18:33:17.48ID:P0qED9OSすでに覚悟を決めちゃって戦力保持を図る秀頼ちゅうとこやね
0642人間七七四年
2014/07/07(月) 19:23:49.18ID:scKGX57hなんで家康が秀頼に「兵糧が続くようにせよ」なんて言うんだ???
0643人間七七四年
2014/07/07(月) 19:28:51.52ID:GqZ2slP2っていう気遣い&それに見せかけた戦力削り?
0644人間七七四年
2014/07/07(月) 20:28:43.34ID:GvJF/riw戦った石垣原の戦いが起こり、大友軍はこれに打ち負けた。
翌14日、如水は義統の籠もる立石に押し寄せると、軍勢の配当を定め、先陣は母里太兵衛(友信)となった。
この時、義統方は昨日の敗戦により多くが逃亡し、残っている人数は800人ばかとなっていた。
黒田家の家老たちは「この軍勢で速やかに攻め寄せ、大友を討ち果たしましょう。あの有り様に成り果てても、
もし時間を与えては、また難しいことになるでしょう。」と申し上げた
しかし如水はこれを聞くと
「いやいや、合戦は無用である。扱いをかけ、大友を降参させて、生け捕って京都に送るべし。
先年、私が筑紫に下国してきた最初から、義統とは別して良い関係であった。今になって敵になったからと
いって、私の方に恨みがあるわけではない。また、今無勢になったからといって、情けもなく飼い鳥を殺すような
真似はしたくない。
それに、大友がいくら弱いと言っても、討ち果たすほどの戦いをすれば、味方にも損害が出る。
今回の戦争は今度に限ったものではなく、何時まで続くかわからないのだから、何としてでも
手勢を損なわないようにしなければならない。
母里太兵衛、扱いをしてみよ。『今日のうちに和議が整わなければ明日押し寄せ一人残らず打ち取る!』と
義統か田原紹忍(親賢)を強かに脅すべし。脅せば必ず降参の詫び言をするであろう。
昨日討ち取った者達は、大友家では名のある勇士達であった。しかし、かの家で身分高い者達のうち、
紹忍の首だけが見えなかった。彼は日頃臆病の名高き者であるから、紹忍方に申し使わせば、
必ず和睦に同心するであろう。物慣れたる者を使いとして、早く申し遣わすように。」
そう命じたため、太兵衛より使いを遣わした所。案の定紹忍は同心して義統に降参を勧めた。
大友義統も今や叶わぬと思い、使者を母里太兵衛の陣まで遣わし、降参を乞うた。
如水はこれを聞くと「降参のこと、一段と然るべきことです。内府(家康)へは良きように
申し上げますので、きっと罪もご赦免あるでしょう。残された士卒皆々の命は助けます。
ですので早くこちらに出てきてください。」と申し遣わした。
かくて大友義統は剃髪の姿と成って、主従10人ばかりにて、9月15日の早天、密かに母里太兵衛の陣屋へ
降伏した。残党たちは思い思いに落ちて行った。
(黒田家譜)
黒田家譜より、大友義統降伏の模様である。
0646人間七七四年
2014/07/08(火) 20:02:58.14ID:c9kq5T7bとおもったらこの1ヶ月後戦死か
0647人間七七四年
2014/07/08(火) 21:40:26.38ID:qdGf8z75当時上野は武田氏の勢力下で、上杉派の左馬助は孤立無援状態だった。
天正8年、とうとう武田軍が大軍で攻め寄せてきた。
しばらく戦った後、武田軍が城内に矢文を射込ませ、城主の自決を条件に降伏をすすめてきた。
左馬助はこれを受け入れ、城兵に「長い間、某のために命を捨てて働いてくれたのに対し、
いささかの報いるところも出来ず無念であるが、今は容赦願いたい」と、それぞれに褒美を与え、
城の内外を掃除させて郷里に帰した。そして最後に左馬助も10人ばかりの部下と城を出た。
道々では猿ヶ京の住民が涙を流して見送り「ご最期を見届け申したい」と言ってきたが、
左馬助は検視の者に遠慮してこれを断った。また途中で神社や寺に寄って後生菩提を祈願しつつ、
恕林寺に使いをやり「武運尽きて切腹するためにここまで参上した。
御寺の庭をお貸しください」と申し入れた。
住職の春朝は左馬助の縁者だったのでこれを受け入れ、左馬助やその部下を厚くもてなし馳走した。
春朝が「(自決することで)みんなの身代わりとなろうとする気持ちがいたわしい」と涙を流したので、
左馬助も竹筒に入った酒を取り出して、別れの盃を取り交わしてあとあとの事を遺言したりして
思わず時を過ごした。
すると左馬助の最期を見届けようと寺を囲んでいた武田軍がこれを見て
「気おくれしたか左馬助、見苦しいぞ!」と嘲笑してきた。
それを聞いた左馬助、「いざ剛の者の最期を見よ!」と武器を取ると寺より踊り出でて
見物していた武田軍に襲い掛かった。さらに供の部下たちもこれを見て同様に襲い掛かった。
だが、所詮は多勢に無勢。左馬助は傷つき疲れ果てて、最後は寺の内に戻ると念仏を唱えて切腹した。
部下もこれに続き、全員が自決したという。
美しい自決劇かと思いきや、余計なひと言でめちゃくちゃになってしまったちょっと悪い話。
ちなみに春朝は、寺内に薪を積み上げて火を放ち、寺が焼け落ちるどさくさに紛れて脱出したという。
『上毛古戦記』より
0648人間七七四年
2014/07/08(火) 22:13:26.56ID:qdGf8z75(ただし国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)ため、お近くの県立や大規模市立図書館で見ることができます。
0649人間七七四年
2014/07/09(水) 17:39:38.38ID:5ljBE68Z兵法所と称す。鬼一法眼の京八流の末であると武芸小伝に見える。一説には憲法はもと京師の
染匠だが、へらを使って覚えて、小太刀一流を考え出したともいう。世に建法小紋と号する
ものはこの建法が初めて染め出したのだという。
さて慶長十七年壬子、御水尾帝御即位の日、憲法は禁庭警固の雑色と喧嘩をしはじめ、
相手を一刀で切り殺して立っているのを、「あっ喧嘩だぞ! 狼藉だぞ!」と大いに騒動し、
棒や乳切木を手に押っ取って憲法を取り囲んだ。憲法は小太刀を構え、対応する者を
切るうちに、即座に多数の負傷者や死者が出て、そのあとは追い付く者もいなかった。
時に所司代の板倉伊賀守勝重の家人である太田忠兵衛という者は長刀の上手であり、
彼はこの騒動を聞いて駆け付け、長刀を持って立ち向かった。しばらくは勝敗も
見えなかったが、憲法は何としたことか誤って踏み滑り、仰向けに倒れた。
すると忠兵衛は声をかけて「倒れた者は切らぬぞ。起き上がって尋常に勝負せよ」と言った。
さしもの憲法もこの言葉を聞いて「起き上がって立ち向かうのを待ってろよ」と承知したのか、
足を踏み直して半ば起き上がろうとしたところ、そこを忠兵衛はすかさず切り伏せて勝利した。
その時の評に「倒れたのを幸いとして切ったとしても、相手が名高い憲法ならば一角の高名だ。
それを起こして切ったのは、剛といい芸といい十分な勝ちである」いうものがあった。
忠兵衛はこれを聞くと大いに笑い、「それは憲法を知らぬ者の評だ。その時、憲法は倒れたが、
こちらをきっと見て太刀を構えた表情は、中々近寄って勝てるとも思えないものだった。
だからあのように声をかけたのであり、そういう者でも少し油断して立ち上がろうとする虚を
切って勝ったのだ。ゆめゆめ、私が剛であるわけでも、芸がすぐれているわけでもない」
と言ったということである。
この憲法を称する者を一人とすると時代が相違してしまう。最初に言った拳法の子に伝七郎、
又三郎などという者を聞くので、どのようにか子孫はこの流派を受け伝えて、後にまた名を
憲法と称した者がいたのであろう。
右の喧嘩した者、また宮本武蔵と勝負したなどという憲法は、皆吉岡流の祖とする券法とは
異なるか。また大河内茂左衛門秀元の書いたものに「若い時に吉岡の一流を極めた」との旨が
見えるので、この流派はその頃もあまねく世に広まり行われていたことは間違いない。
――『撃剣叢談』
0650人間七七四年
2014/07/09(水) 18:21:49.46ID:Kss2d3LI吉岡容疑者、立てこもりの末、捜査員に踏み込まれて死亡
0651人間七七四年
2014/07/09(水) 20:09:42.39ID:CVYRdc55ttp://mainichi.jp/feature/news/20130803k0000m020036000c.html
>JR北海道は2日、青函トンネルにある海峡線・竜飛(たっぴ)海底駅(青森県外ケ浜(そとがはま)町、
>海面下134メートル)と吉岡海底駅(北海道福島町、同149.5メートル)を来春廃止する方針を
>明らかにした。
0652人間七七四年
2014/07/09(水) 20:58:39.39ID:BnkAAxEuこの頃武田信玄入道は、家康が上杉謙信との同盟を結んだとの情報を聞き大いに憂い、
そういう事であれば早く徳川を除き後方を安全にしようと、例の策謀を案じ出し、
家康に対して
『始め天竜川を境として武田領と徳川領を分割しようと約束していたのに、どうしてその盟を破り
大井川まで出張しているのか?さては同盟を破り敵対するつもりか!?』
と、使いを以って申し立てた。家康はこれを聞くと激怒した。
「私は最初からの盟約通り、大井川を境としてその先に手を出したことはない。
信玄入道こそ前に、秋山・山縣といった者たちを使って我が領地を侵し、今もまた前盟に叛き、
却って我々を咎めている。これは信玄入道の、いつもの策謀が始まったのだ!」
そしてこれ以降、長く両国の通行を断絶した。
信玄はこれから奸謀をほしいままにし、しばしば三河遠江の地に軍を出し城々を攻め撃つこと止まず、
神無月には山県昌景を先手として5千余騎、信玄入道自ら4万5千騎の大軍を具して遠江に討ち入り、
多々良、飯田などの城々を攻め落とし浜松を指して押し寄せた。
この信玄入道はあくまで腹黒にて、策謀奸智のふるまいのみ多いが、兵法軍法においては
よくその節制を得て、越後の上杉謙信と相並び、当時その右に出るものはいなかったのである。
(徳川実記:東照宮御實紀)
三方ヶ原直前の、武田信玄に対する徳川家康の反応である。
0653人間七七四年
2014/07/10(木) 00:00:35.19ID:DFH+21h8ttp://news.nicovideo.jp/watch/nw1144525?ver=video_q
0654人間七七四年
2014/07/10(木) 00:05:39.51ID:1ubCTqSU0655人間七七四年
2014/07/10(木) 01:17:52.29ID:xXgk6MdB所詮箱ものか
0656人間七七四年
2014/07/10(木) 12:50:15.48ID:8yshLHLd0658人間七七四年
2014/07/12(土) 00:59:22.10ID:pX+pr7dS真田信繁、後藤又兵衛といった諸牢人も討ち死にし、大阪城もいよいよ落城間近となった。
豊臣秀頼は家臣の今木源右衛門に命じ、切腹の準備をさせた。
そして母公(淀殿)の前に立ち寄り
「御一緒に、自害のため殿主に上がりましょう」
そう進めて立ち上がり、殿主へ向かおうと立ち上がった所、淀殿は秀頼の袖にすがって言った
「今少し、心を落ち着けて聞きなさい。源氏の頼朝は朽木の中に隠れ、死ぬべき場所で死なず、
終に本意を遂げた例もある。なのにどうしてそんなに慌ただしく、腹を召そうと急がれるのですか?」
秀頼はこれを聞いて
「母上の仰ることは確かにその通りですが、私達の運命は既に極まりました。
命を永らえて我が世の衰えを見るよりは、私と同じ道に急ぎ、後世を楽しまれるべきです。
百年の栄華も、一睡の夢と成り果てるのが習いなのですから。」
そういって強く淀殿を振り払い、殿主へと上がっていった。
淀殿はこれを見て、たいへんに嘆き悲しんだ。
その時までは、秀頼母子には未だ男女600人も付き従っていたのだが、この有り様を見て、
皆散り散りに逃げ落ちた。
(秀頼事記)
秀頼の切腹直前の模様である。
0659人間七七四年
2014/07/12(土) 01:17:25.45ID:d0AYzX50と同様、淀君は頼朝が朽木に隠れたことを言ってるな
しかし頼朝の頃から朽木谷は貴人の逃げ場所と考えられていたのか、とかいってみる
0660人間七七四年
2014/07/12(土) 01:54:42.77ID:w2TVAIiF0661人間七七四年
2014/07/12(土) 02:16:07.72ID:4sWUb9Mhいや、そうではなく、朽木隠れの故事にかこつけて貴人が隠匿や見逃しを強要したのだろう
教養(強要)のある奴だけがなせる荒業
0662人間七七四年
2014/07/12(土) 05:52:23.60ID:5/eyLpzS0663人間七七四年
2014/07/12(土) 07:05:32.12ID:SLtoAYvJ室町将軍の避難所朽木谷とごっちゃにしてる
作者の故意か勘違いかは分からん
0664人間七七四年
2014/07/12(土) 08:15:50.18ID:C+DddIdYこの一連の秀頼の言動みると、秀頼に本当に必要だったのは三河者ばりに
空気を読まない行動型の諫言役だったんじゃなかろかと思う。
天下人として死のうとする覚悟より、あるべきと教えられた天下人のイメージに
取り憑かれて破滅していくような危うさみたいなのが先に来る。
0665人間七七四年
2014/07/12(土) 08:25:10.57ID:5/eyLpzS誰か木の洞に隠れた人おらんかったっけ?
ひょっとして小説だったかな?
0666人間七七四年
2014/07/12(土) 09:04:24.08ID:3LdqUCo00667人間七七四年
2014/07/12(土) 09:10:53.84ID:HhKNA22e0668人間七七四年
2014/07/12(土) 09:13:21.81ID:fkiG8AFP唯一、まともに物が言えたのが家康って時点でもうダメだろ。
0670人間七七四年
2014/07/12(土) 10:14:57.17ID:Peaeee37生きて大望を成すってことを考えていない。
信忠さんも同じ感じ。
0671人間七七四年
2014/07/12(土) 10:19:14.54ID:amolp6fl三好に追われた義輝を匿ったり、金ケ崎の信長逃亡を手助けしたり、の朽木元綱関連の話を
関ヶ原で金吾に引き続き脇坂、赤座、小川といっしょに寝返った朽木元綱。
夜になってから、細川忠興を頼り家康本陣にご機嫌伺いに参上し、
「元綱が一旦敵方になっていた罪は言い逃れできませんが、脇坂安治の陣に従い、
お味方する意志を示しました。
どうかお許しをいただき、今後忠勤させてください」といった。
家康は
「お前のような地位の低いものは、草が風になびくようなものであるから、深く責める必要はない。
本領安堵はこれまでと変わらない」
とおっしゃったので、元綱も家康の寛容さに感動し、涙を流しながら退いたそうだ。
本領安堵とはいえ嫌味を言ってる気もするので悪い話に
0672人間七七四年
2014/07/12(土) 11:29:30.95ID:2gB85Ays仲介者の面目が立たんし
0673人間七七四年
2014/07/12(土) 20:14:14.74ID:KXc9SQgLその実態はこれら全て、将軍足利義昭の策謀によって起こったものであった。
浅倉、武田といった大名たちを己の奸計を以って、また簒奪の志を成就せんとしたものである。
すべて、等持院将軍(足利尊氏)よりこのかた、室町将軍家は人の力を借りて功をなし、
その功成りてあと、また他人の力を借りてその功臣を除く事を以って、万古不易の良法として
国を建る習いであった。
室町将軍15代の間、この故知を用いらざる者はいなかった。そして終にはこの故知により、
国家を失ったのである。
(徳川実記)
徳川実記より、足利将軍家についての評論である。
0674人間七七四年
2014/07/12(土) 21:03:49.05ID:fkiG8AFP0675人間七七四年
2014/07/12(土) 21:11:12.05ID:6rOuTHZo言っても徳川実紀編纂はもう幕末ごろだった気がするけど
0676人間七七四年
2014/07/13(日) 00:10:39.38ID:imnKG5pK0677人間七七四年
2014/07/14(月) 00:33:58.06ID:+jq56KlRttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3704.html
の話を思い出すな。
浅井家が滅んだ後も生き残り、太閤御台にまでなった、生命があればなんとかなるという「一代目気質」の淀と、
親の名を汚すことを恐れる「二代目」の秀頼
0678人間七七四年
2014/07/15(火) 18:29:38.99ID:yHmW1y3Iの一手だった。式部は手勢三百人ほどで味方から十二、三町も離れて
深入りした。
松倉豊後守(重政)はこれを見て、「式部は必ず討ち取られるだろう。
同勢の際まで退かせられよ」と日向守に再三言ったのだが、日向守は
許容しなかった。しかしながら、敵勢も退いたので式部は無事だった。
後までこの事を豊後守は人に語り、「なんとまあ、大坂で丹羽式部を
日州は捨て殺そうといたされた」と言ったそうである。
――『武功雑記』
0679人間七七四年
2014/07/15(火) 18:52:59.57ID:KJkHmawm0680人間七七四年
2014/07/15(火) 22:44:59.85ID:5cYWamN60681人間七七四年
2014/07/15(火) 23:14:14.60ID:qqeMSKfX0682人間七七四年
2014/07/16(水) 00:18:45.50ID:JM2+t/YI0683人間七七四年
2014/07/16(水) 00:51:38.38ID:i5spjsh6この頃大阪では、
「今度姫君のお輿入れがあり、ますます将軍家より秀頼公を輔導せられ、後見するという言葉も聞こえ、
四海いよいよ静謐となった。
しかし将軍家の威徳は年を追って盛大となり、事に将軍の重職を宣下された後は、諸国の要地は
尽く一門譜代の人々を封ぜられ、天下の諸大名は皆妻子を江戸に出しおいて、自身も年々参勤する。
これらを考えるに天下は終に、徳川家の天下となってしまった。
さりながら我々は故太閤に数年来恩顧を頂き愛育され、身をも家をも興した大小名である。
もしその深恩を忘却し、豊臣家に対して二心を抱けば、天地神明の冥罰を被る事をどうして免れるだろうか。」
そう会議して、故太閤恩顧の大小名を城中に会集し、今より後、秀頼光に対し二心抱くべからざる旨の
盟約書を捧げ、血誓した。
この事は福島正則が中心と成って申し行った事であると言う。
しかしこれは後年に成って、豊臣家滅亡の兆しであったと言われた。
(徳川実記:東照宮御實紀)
0684人間七七四年
2014/07/16(水) 10:14:30.56ID:4hbc6oyL0687人間七七四年
2014/07/16(水) 13:00:06.42ID:QbjABYPw0688人間七七四年
2014/07/17(木) 10:09:25.25ID:6w0AAzuP出れば豊臣は滅びずにすんだ、という指摘は正しいと思うんだが、出ることは
滅びるのと同じ、というのが当の本人たちの実感だったんだろうなとも思う。
財力と武力で天下をとった人間のすべてが詰まっていたイメージ。
0689人間七七四年
2014/07/17(木) 14:03:15.51ID:JqQbOXm0子供だからって許してたら平氏の二の舞
0690人間七七四年
2014/07/17(木) 22:05:40.48ID:x4tNtAoU0691人間七七四年
2014/07/17(木) 22:26:26.52ID:n9WuWZaG0692人間七七四年
2014/07/18(金) 20:22:58.79ID:ImTMwhdlこの頃、黒田官兵衛孝高の家臣に大町何助という者があった。彼は隠れなき強者であったが、
官兵衛に対し逆進の色が表れていたため、官兵衛は栗山善助利安と、上原新左衛門とに、
これを殺すよう命じた。
ちなみにこの頃、栗山善助は18歳である。
折しも官兵衛の邸宅には来客があり、栗山善助はこの給仕をしていたのであるが、官兵衛より
何助の所へ使いに行けと言われ、大事の使いであるからと、黒田家に伝わる『森田刀』と呼ばれる
重代の太刀を貸し与えられた。
栗山善助はあえて肩衣袴という公的な衣装のままで向かい、何助が丁度家に滞在していたので、このように
言った
「本日は御使に参りました。その内容ですが、先日上方よりこちらに下ってきた商人が死亡した件、
大変難しい案件でしたが、あなたのご才覚のお陰で無事に相済み、後は荷物を改めそれを上方に送れば
埒の開く事となりました。ですので、貴方が保管しているあの商人の荷物を、私に相渡すようにとの
御意でございます。」
何助は「心得たり」と了承し、立ち上がって手軽く支度をし、酒を飲み、従者に鑓を持たせ、いかにも
用心した様子で「荷物をおいた所に行こう」と道を進んだ。彼も官兵衛の様子を怪しみ警戒していたのだろう。
やがて道の途中で、何助は2尺9寸(約88センチ)ある大太刀を抜くと
「どういうわけか胸騒ぎがする。これより御着城(官兵衛の主君・小寺政職の居城)に退き、
私に私曲が無いことを申し上げてくる!」
と、道よりすき田の中に飛び降り、罵り喚きながら去ろうとした。
栗山善助はこれを追いかけ、「其の方は酒に酔い狂っているのか!?」と色々と言いあしらってみたが
何助は全く納得せず、もはや是非に及ばずと思い、声をかけ、何助が立ち向かってくる所を、
跳びかかり抜き打ちにした。
ほぼ相打ち、であった。が、善助の太刀が一瞬早く何助の右袈裟に当たったため、彼は刀を取り落とした。
このため善助は、何助の頭を両断した。この時、地面に石があって、刀の切っ先の刃が少しこぼれた。
この時は誰か人を呼ぶ時間もなく、上原新左衛門と事前に相談することも出来なかった。
(黒田家臣伝)
栗山善助、大町何助を斬る。というお話し。
0694人間七七四年
2014/07/18(金) 20:46:33.85ID:cYSove4I言ってみたかっただけや
0695人間七七四年
2014/07/18(金) 23:21:57.41ID:s1lza5UX0696人間七七四年
2014/07/19(土) 00:17:55.12ID:eT0u4joW0697人間七七四年
2014/07/19(土) 07:23:05.83ID:JOX3gfj0煽りとかではなく普通の話っぽく感じたが
0698人間七七四年
2014/07/19(土) 07:30:39.83ID:gRWkgcYpもしくは善介の演技力が悪い話
0700人間七七四年
2014/07/19(土) 14:03:51.00ID:E2GDOWn2なんで濃姫生きてるの?
敦盛を朗読してたのには吹いたけどw
0701人間七七四年
2014/07/19(土) 14:12:07.60ID:kmWDzHD20702人間七七四年
2014/07/19(土) 14:14:47.86ID:3OJU4c3Iまたとっくの昔に死んでるという説もある
0703人間七七四年
2014/07/19(土) 14:19:33.25ID:XFNjYN8c0704人間七七四年
2014/07/19(土) 14:25:48.82ID:gwDZX8VT> ◆永禄十二年段階(美濃奪取二年後)で濃姫は生きている
> 『言継卿記』永禄十二年七月二十七日条によると、斎藤義龍後家が所持している壺を信長が所望したところ、
> 「信長本妻兄弟女子十六人自害たるべし」と信長本妻らが反発した。
>
> ◆天正十三年段階(信長没二年後)で濃姫は生きている
> 天正十三年(1585)に成立した『織田信長分限帳』に「安土殿」が「六百貫文」を化粧料として織田信雄から与えられている。
> 「安土殿」は他事例から考え正室と考えるのが妥当であることから、濃姫は信雄の保護下で生活していたのではないか。
>
> ◆濃姫の墓は信長の墓所である大徳寺総見院(京都)にある
> 寛延三年(1750)から間もない時期に成立した織田家の過去帳ともいえる『泰巌相公縁会名簿』(安土・ハ見寺所蔵)に
> 「信長公御台」として「養華院殿要津妙玄大姉」と記されている。没年は「慶長十七年壬子(1612…信長没30年後)七月九日」。
> また、『総見院之図面』(京都・総見院所蔵)に総見院墓所のレイアウト図が記され、ここに「養華」があるため、
> 濃姫の墓は総見院にあると思われる。
だそうで
0708人間七七四年
2014/07/19(土) 16:22:33.55ID:nh57U4Vy史実は乱丸が槍で突き返したけど討ち取られたんでしょ
なんで史実をねじ曲げるん?大河ドラマは
0709人間七七四年
2014/07/19(土) 16:25:58.79ID:7LBoo0m00711人間七七四年
2014/07/19(土) 19:05:15.36ID:96a9S9miまぁしょうがないね
0713人間七七四年
2014/07/19(土) 22:59:52.49ID:PopMgJr30714人間七七四年
2014/07/20(日) 00:11:05.23ID:9uXuf2aF0715人間七七四年
2014/07/20(日) 00:19:45.11ID:APKsTllj個人的には史実だけだと題材が同じならみんな同じセリフに同じ展開になるし、
興味を持つきっかけになるならって感じでガチガチにこだわらなくてもいいかなとは思ってる
0717人間七七四年
2014/07/20(日) 01:01:41.45ID:OzWI3y2t0718人間七七四年
2014/07/20(日) 01:05:14.68ID:voweELKT馬鹿がそれをみて史実だと勘違いしてる
この物語はフィクションにて候。ってナレーション入れろ
0719人間七七四年
2014/07/20(日) 02:00:25.73ID:sJJhdmIQ確かに大河は冒頭にフィクションて入れるべきだとは思う
0721人間七七四年
2014/07/20(日) 03:23:15.02ID:qJvj5bfUいっそ全員女にしてしまえばいい
AKBやさくら学院で信長のドラマやった方が視聴率伸びる
0722人間七七四年
2014/07/20(日) 04:37:11.45ID:BhZCDpus0724人間七七四年
2014/07/20(日) 05:08:23.54ID:D3wL54NL0725人間七七四年
2014/07/20(日) 07:49:57.79ID:NMYLKHiG------
織田信雄を「のぶかつ」と唱する事は正しいが「のぶを」と呼ぶのも間違いではない。
公家であれば上にあれば「かつ」と読み、下にあれば「を」と読む。
初めは「のぶかつ」と呼ばれていたが公卿となってからは「のぶを」と改めたと言うのが
花山院前大納言定成卿の説である。
真田左衛門佐を諸記録によれば幸村と記すが続武者物語だけは信繁と記す。
西山公(水戸光圀)は御吟味の上、幸村ではなく信仍が正しいと書き残された。
仍の字を「しげ」と訓じるのかどうかは追考が必要だ。
(翁草)
江戸時代後半には読みが分からなくなっていたと言う信雄さんの悲劇
0726人間七七四年
2014/07/20(日) 08:41:36.99ID:y2g7qIgZ某所で暇潰しに野球中継を見るようになるまでは信雄の"かつ"しか知らなんだわ
0727人間七七四年
2014/07/20(日) 08:47:54.09ID:F8uJjcWjしかし雄が“お”じゃなくて“を”だったとは…
0728人間七七四年
2014/07/20(日) 09:07:21.90ID:V7o401sM古代中世の天皇の名前とかなぜこう読める?ての多い
0729人間七七四年
2014/07/20(日) 10:39:22.94ID:lkmgnqtr0730人間七七四年
2014/07/20(日) 12:20:02.81ID:v712/DjF穴山信君「せやな」
後水尾天皇「俺の名前とか初見殺しにも程があるだろ」
0731人間七七四年
2014/07/20(日) 12:44:41.01ID:z7uOFCxN0732人間七七四年
2014/07/20(日) 12:54:45.57ID:aKRY19yj0733人間七七四年
2014/07/20(日) 17:03:22.48ID:6Ie3+g8v0734人間七七四年
2014/07/20(日) 17:07:48.67ID:3Wfshzasそのうえ猛勇大力の士である。
しかしながら、佐文にはどういうわけなのか礼義というものが
まるで無く、諸人に疎まれて誰一人として交わる者も無かった。
そうではあるが、戦場へ出ては度々とび抜けて優れた働きがあった。
この佐文は、戦場へ出る時は大指物を用いた。その指物は白木綿に
『一足不去忠野佐文』と大文字で書いた幟の指物である。
ある合戦で佐竹勢が敗軍した時、佐文は敗軍の兵士に押され、
心ならず一、二町引き退き、道端の川の水を飲もうとした。
その時、自分の大指物が水に映り、佐文はその文字を見て一、二町
引き返したことを残念に思い、ただ一人取って返して敵の大軍の中へ
突入し、大勇戦をして兜首を三つ取った。
けれども、佐文は平生きわめて不行跡な我儘者であるためか、
生涯二百石で終わった。
――『明良洪範続編』
0735人間七七四年
2014/07/20(日) 17:18:08.90ID:rqgpDVeb忠野の名がすたると考えるとは
0736人間七七四年
2014/07/20(日) 17:37:00.99ID:n8qrhaPF0737人間七七四年
2014/07/20(日) 17:41:06.36ID:lkmgnqtr0738人間七七四年
2014/07/20(日) 18:19:00.32ID:nQgL6tOU主君と親ぐらいだろ?
0739人間七七四年
2014/07/20(日) 18:40:33.10ID:8QItkxBx0740人間七七四年
2014/07/20(日) 18:54:19.55ID:0fmCEGi00741人間七七四年
2014/07/20(日) 20:11:39.35ID:EmYnAjsn0743人間七七四年
2014/07/20(日) 21:30:02.65ID:y2g7qIgZ昔話なんかじゃあ、野垂れ死にしそうになってたこともあった気もするし
0744人間七七四年
2014/07/22(火) 08:15:42.21ID:qCB1OruT0745人間七七四年
2014/07/22(火) 08:26:48.74ID:uwvZy/Mi0746人間七七四年
2014/07/22(火) 09:42:24.83ID:I32fJXcL0747人間七七四年
2014/07/23(水) 01:23:45.06ID:n1KdZQSZこの時海浜で遊び、妓女を船に乗せ酒宴を催し、酔興に乗じ大いに戯れた。
ところが丁度この頃、駿府城普請のため全国より集まっていた諸大名の藩士や役夫がこれを見て
大いに嘲り笑った。
これに気がついた島津の使いは激怒し、船から上がって笑っている者たちに斬り込んだ。
殆どの者達は逃げ去ったが、池田宰相(輝政)の藩士たちはそこに残って戦い、終に島津の
使者を生け捕った。その後、使者を追放しようとしたが、彼は
「私はこのような恥辱を受けた上は、生きて人と顔を合わせることは出来ない。よってただ切腹いたす!
であれば、私に敵した者も刑せらるべし!」
そう言って、駿府の奉行所に延々と訴え続けた。このため上裁に及んだが、結果、
その使者二人と、池田の藩士のうち、今回の築城の事を預かる者達の長一人を誅した。
(徳川実記:台コ院殿御實紀)
酔っぱらいを笑った結果死者3名、という駿府城下の騒動についてのお話。
0748人間七七四年
2014/07/23(水) 12:06:50.68ID:FOOEmTEk0749人間七七四年
2014/07/23(水) 15:34:09.90ID:AmINW3Yiむしろ薩摩なら、切腹前に一人くらい自分で斬ってそうなのにと
0750人間七七四年
2014/07/23(水) 15:42:54.58ID:utO8pbcm失敗したのをわらわれて切れるならわかるけど
0751人間七七四年
2014/07/23(水) 15:46:40.94ID:AmINW3Yi江戸で芸者遊びしている薩摩武士があまりにも田舎臭すぎることを言うんで隣室の町人がからかって、
薩摩武士が切れて刀を振り回す、て話。
0752人間七七四年
2014/07/23(水) 20:04:17.10ID:de3paWJ50753人間七七四年
2014/07/23(水) 20:08:45.34ID:utO8pbcm0754人間七七四年
2014/07/23(水) 20:20:26.08ID:dEnQM4Y00755人間七七四年
2014/07/23(水) 23:00:56.57ID:FxfD8KhO0756人間七七四年
2014/07/24(木) 14:19:43.68ID:TgB+dp5v0757人間七七四年
2014/07/24(木) 15:05:31.27ID:eAoQ48K30758人間七七四年
2014/07/24(木) 17:16:19.97ID:IMc1f/4v近くの町家に走り込み、便所を借りたいと頼むと、
その家に若い女が一人いて、奥にあると教えてくれた。
ある者は、その場で袴を脱ぎ捨て便所へと駆け込んだ。
そのあとに町家の亭主が帰宅し、脱ぎ捨てた袴を見つけ、
留守の間に密会をしていたのだと思い込んで口論となり、
それでも収まらず訴訟沙汰となった。
直茂さまは、この事件をお聞きになると、
「密通でないとしても、女一人の家で無遠慮に袴を脱いだことは油断である。
女も、夫の留守に見知らぬ男に袴を脱がせたことは油断である。
いずれも密通同然のふるまいだ」
と仰せになり、両人に死罪を命じられた 【葉隠】
0759人間七七四年
2014/07/24(木) 17:29:47.91ID:DGyF2j2g0760人間七七四年
2014/07/24(木) 17:31:16.54ID:kRzG/Jok0761人間七七四年
2014/07/24(木) 19:20:52.70ID:IAM0ri550762人間七七四年
2014/07/24(木) 19:33:07.65ID:eAoQ48K30763人間七七四年
2014/07/24(木) 23:28:25.91ID:oWz9Hz030764人間七七四年
2014/07/25(金) 01:01:08.38ID:MsYe8bme「今回の合戦は、二の手の働き次第で勝利を得るでしょう。」
と発言した。しかしこれを聞いた池田勝三郎(恒興)は
「どうして敵を二の手まで越させようか!」
そう傲慢げに発言した。家康はこれに「そのようにあってほしいものです。」と、
さにあらぬ体で席を立った。
さて、姉川の合戦が始まると、池田恒興の備は浅井の先鋒にさんざんに切り崩され、
酒井忠次の備に崩れかかった。
忠次はこれを見て
「おことは昨日の広言にも似ぬものかな!」
と言いながら、長刀の石突の部分で、恒興の馬の三途(馬の尻の方の、背骨の盛り上がって
高くなっている部分)を打つと、馬は驚いて恒興は落馬した。
その頃の人々は、池田常興が忠次によって落打ちにされたと、誤り伝えたこともあったそうである。
(落穂集)
0765人間七七四年
2014/07/25(金) 12:22:06.92ID:5xa8dBNehttp://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1406253855/
0766人間七七四年
2014/07/25(金) 12:27:17.65ID:X0sCGZPBあれは芸能界で売れるためのギミックです、すいませんと
0767人間七七四年
2014/07/25(金) 12:54:07.68ID:KxD94hZB0768人間七七四年
2014/07/25(金) 15:10:22.55ID:ipPWz2w40771人間七七四年
2014/07/25(金) 17:01:17.00ID:flKkSUJE0772人間七七四年
2014/07/25(金) 17:10:42.62ID:b5oreLun明治時代に秩禄処分にあって写真家になった
元高家旗本の織田信真の子孫だと
0773人間七七四年
2014/07/25(金) 17:27:38.40ID:50OarqExまぁもう触れてやるな
0774人間七七四年
2014/07/25(金) 18:17:38.44ID:flKkSUJE0775人間七七四年
2014/07/25(金) 19:01:41.57ID:gwO/rgqW0776人間七七四年
2014/07/25(金) 19:25:02.92ID:rIBJKDMQ0777人間七七四年
2014/07/25(金) 19:29:12.92ID:b5oreLun想像できない
0779人間七七四年
2014/07/25(金) 22:54:37.75ID:K0WQWP560780人間七七四年
2014/07/26(土) 00:09:23.33ID:rW3u/OXG0781人間七七四年
2014/07/26(土) 00:31:26.78ID:0lTrDn0u直系断絶後、信雄の子孫が直系名乗ったなら分かるが
0782人間七七四年
2014/07/26(土) 00:59:02.56ID:+4A0dWsu0783人間七七四年
2014/07/26(土) 01:34:23.26ID:S5Ypw33xいわゆる「三方ヶ原の戦い」である。
これに人心は恐々としていた。
鳥居四郎左衛門忠次は家康から斥候を命ぜられ、はせ帰るとこれを報告した
「敵は大軍であり、行軍の様子も厳正です。である以上たやすく合戦を始めるべきではありません。
早々に御先手を引き帰らせるべきです。
また、もし一戦を遂げられるつもりなのなら、我々は軍列を整え鉄砲での迫合いで時間を稼ぎ、
敵が堀田のあたりまで打ち出るのを待って戦を始めれば万が一にも勝利があるでしょう。
しかしこれも、全勝の道ではありません。」
家康はこれを聞くとたちまち機嫌を悪くし
「信玄と言っても鬼神ではない!また大軍だからといって恐るるに足らず!
おまえはいつもは大剛の者であるのに、今日はどうして臆しているのか!?」
しかし鳥居忠次
「殿こそ普段は自重が過ぎるほどなのに、今日はどうして血気にはやっているのですか!?
全く心得ぬことです。
わかりました!ただいま私が申したことを、思い知らせてあげましょう!」
(只今某が申せし事を思い当たらせ給うべし)
そう言って御前を退いたが、外の御家人たちに向かっては
「今日の戦、かならず勝つぞ!おのおの進んで忠戦せよ!」
と言い捨て、自らは敵陣に突撃して討ち死にした。
(東遷基叢)
鳥居忠次の討ち死にについての逸話である。
0784人間七七四年
2014/07/26(土) 03:01:45.02ID:jwIDiRcZ桶狭間の体験とか影響したのだろうか
0785人間七七四年
2014/07/26(土) 07:47:48.32ID:gNJJqO9F0786人間七七四年
2014/07/26(土) 09:05:23.81ID:HguOHKq90787人間七七四年
2014/07/26(土) 09:24:34.71ID:Dmww0v7Aその上びびって引っ込んでたら
さらに武田に走る連中が増えると思ったんじゃね
0789人間七七四年
2014/07/26(土) 09:44:14.17ID:DeH1NMPm援軍に監視されてるし無理か
0790人間七七四年
2014/07/26(土) 10:04:59.06ID:PPRdKStg二代続いて当主が若くして亡くなってる松平に付くってのはどんな気持ちだったのか…
0791人間七七四年
2014/07/26(土) 10:09:18.45ID:DdbAyVs10792人間七七四年
2014/07/26(土) 10:10:36.44ID:ji6rMtZT0793人間七七四年
2014/07/26(土) 10:44:42.54ID:H7ojjQEU・信長から援軍を送られながら、一戦もせずに武田軍をやり過ごすことは立場上出来なかった
・相次ぐ遠三の国人衆の離反を止めるために、一戦して存在感を示さねばならなかった
・家康本人は武田軍が待ち構えているとは予想しておらず、地理的優位を生かして一当たりはできると思っていた
定本徳川家康見たらこんな風に書いてあった)
0794人間七七四年
2014/07/26(土) 11:16:19.18ID:cF4X+d7l・さらに相手は坂を下ってる状態なのでより有利
・さらに夕暮れなので数を頼んだ反撃を受けても夜になるので追撃されない
安全に一矢報い入れれる!威信回復!名誉挽回!
ジャーンジャーンジャーン。家康「げえっ 山縣!」.
信玄「坂の手前で待ち受けちゃうよ。反転反撃は得意だよ。三増峠の再現だね。」
家康は攻めなければならない理由もあったし作戦も理に適ってたが
信玄が上回ってたちゅう一戦やね
0795人間七七四年
2014/07/26(土) 12:43:18.86ID:axf17gV4多分母方の水野一族の血統のせいなんだろうが
0796人間七七四年
2014/07/26(土) 16:00:37.22ID:1co0NzCY0797人間七七四年
2014/07/27(日) 03:35:43.71ID:G6mW8orW迷ってる遠江の国人達が一斉に武田方になって
さらなる苦境に陥るのは火を見るより明らかだから乾坤一擲に
かけるしかなかった
0798人間七七四年
2014/07/28(月) 03:01:22.37ID:NuNQEtm40799人間七七四年
2014/07/28(月) 19:34:44.36ID:44jCsHpKっは・・・し、静まれ・・・俺の血よ・・・怒りを静めろ!!
0800人間七七四年
2014/07/28(月) 19:43:53.97ID:oGn4x2kX人種差別を助長する子ども番組
専業主婦 (国立市 56)
先日、孫とテレビを見ていると、とんでもない言葉に耳を疑いました。
「オッス オラ 極右」
主人公は異星人との紛争を暴力によって解決しようとするもので、
とても子どもに見せられる内容ではありません。
また主人公がピンチになると金髪で青い目に変身します。
(元々の主人公は黒髪で黒い目をしています)
時代遅れの脱亜入欧的表現に笑ってしまいましたが、
こういう所から同じアジアの同胞への差別が始まるのかと思うと
薄ら寒い気がします。
そして、最後の必殺技は、全ての人々から元気を少しわけてもらい、
巨大なエネルギーにするというものなのですが、
その表現が更に恐ろしい。
全ての人々が両手を天に上げる、そう万歳なのです。
万歳をした人から力を奪い取り、
敵を撃つという図式は戦中の構図そのもので、
その衝撃にへたりこんでしまいました。
このような番組を見て育つ子どもの将来が非常に心配です。
0801人間七七四年
2014/07/28(月) 20:06:35.98ID:z/Zy8dom名前ググると、左巻き団体の役員とかね
0802人間七七四年
2014/07/28(月) 21:45:56.83ID:JPO4AgR60803人間七七四年
2014/07/28(月) 23:02:17.73ID:VfLVZkVh明らかな板違いなのに反応しちゃうお前ら何なの?
0804人間七七四年
2014/07/28(月) 23:06:34.48ID:aFnZiIeh0805人間七七四年
2014/07/28(月) 23:30:41.17ID:BsmDQudM信長も大変に彼の功を賞し、
「貞昌の今度の勲功は武士の模範とも成るものであるから、今後は”武者之助と改名せよ!」と命じた。
そして自分の諱から一字を授け、信昌と名乗らせた上に、様々に引き出物も与えたのである。
(貞享書上)
ちなみに平山優『長篠合戦と武田勝頼』によると、奥平貞昌は武田氏に属していた時点で”信昌”を名乗っており、
信長から偏諱を与えられたというのは、後世の由緒の作り替えだったことが明らかになってしまいました。
武者之助の方は良く解らない。
0806人間七七四年
2014/07/28(月) 23:37:51.81ID:x22v6+Li0808人間七七四年
2014/07/29(火) 03:09:05.33ID:e+lsAxNH0809人間七七四年
2014/07/29(火) 07:35:58.36ID:sbrNR4O7それ相応の根拠を出してもらわないと
0810人間七七四年
2014/07/29(火) 16:14:37.18ID:RxBownd+0811人間七七四年
2014/07/29(火) 16:38:17.13ID:xo35E/EU0812人間七七四年
2014/07/29(火) 17:05:25.69ID:Wp1J/1RO0813人間七七四年
2014/07/29(火) 17:26:31.76ID:minMzll60814人間七七四年
2014/07/29(火) 17:26:35.32ID:ZmAExvn70815人間七七四年
2014/07/29(火) 17:50:08.43ID:Vr+xRufE0816人間七七四年
2014/07/29(火) 18:23:04.39ID:kxusnUum1、それだけの事をしたのに家康からも信長からも感状がない
2、史料の年代の問題
信長公記・・・・・・ 載ってない
甫庵信長記(初期ver) 載ってない
甫庵信長記(元和以降)「徳川家臣と武田遺臣の要求によって」入れられる(平山優『長篠合戦と武田勝頼』)
三河物語・・・・・・ 載ってる
年代の近い史料ほど載っておらず、離れるほど(特に江 戸 時 代 に な る ほ ど)載っている
3、三河物語の長篠の合戦の記述は、素直に読む限り鳥居のおかげで長篠城が落ちなかったことになる上、
信長の伏兵戦術が無かったことになっていたり、別働隊が酒井の発案になっていたり、色々疑わしい
(もちろんこれ以外も)
4、例のすねえもんの旗の年代鑑定をした人はいないか調べてみたが、一切ない
このうえ奥平信昌の偏諱が無かったとなると、そもそも長篠城がそれほどひっ迫していたのか?という疑問が出てくる
自然、すねえもんが磔にされて味方に叫んだりする必要も無くなってくる
以上
0817人間七七四年
2014/07/29(火) 18:46:24.75ID:vVwwHGXT典型的な先に結論ありきの内容だなあ。
ここで議論する気はないけど、どれ一つとして情況証拠にすらなってないよ?
0818人間七七四年
2014/07/29(火) 18:58:07.26ID:z6e3GCEH疑わしくないじゃん
鳥居強右衛門のような小身者の功績をわざわざ捏造したってこと?
0820人間七七四年
2014/07/29(火) 19:19:09.17ID:38Ep54Ll忠義とか胡散臭いわ
武田の包囲網どんだけザルやねん
0821人間七七四年
2014/07/29(火) 19:26:22.93ID:vVwwHGXT最低でも二つ以上のソースがあったことが解る。
なお、甫庵信長記のほうが詳しく、実際に長篠に参戦した武田の休診から取材したと考えられる。
捏造ならどれも一致した内容でなければならず、大筋では一致していても細部の内容が異なること自体、
鳥居強右衛門の話が実際に、同時代の徳川、及び武田旧臣の間で語りぐさになっていたことの証明である。
0823人間七七四年
2014/07/29(火) 20:16:14.37ID:Zo8joJ3n0824人間七七四年
2014/07/29(火) 20:16:42.53ID:vVwwHGXT0826人間七七四年
2014/07/29(火) 22:12:10.33ID:JbXyfrIo0827人間七七四年
2014/07/29(火) 22:29:28.29ID:UW1f8ndu0828人間七七四年
2014/07/29(火) 23:40:43.89ID:RxBownd+三河物語は戦国時代の大久保忠教によって書かれてるのに
江戸時代になるほど載ってると主張する意味がわからない
織田家の記録に徳川の足軽の情報がないからって存在を否定するのも根拠に足りないだろ
0829人間七七四年
2014/07/30(水) 00:11:59.62ID:1Iz7iLnmhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-231.html
天正壬午の乱の結果、甲斐を徳川が領有すると、旧武田家の一条、土屋、原、山県の配下にあった者達は、
そのほとんどが井伊直政に付けられた。そして家康は「山県昌景の赤備えは見事であった」と、
直政の備えを皆赤色にした。
この時家康は、最初は酒井忠次に甲州人を召し預けようと考えていたのだが、それよりも、
若輩の直政を引き立てるために彼に付属させたいと、忠次本人に相談した。
忠次はこれを聞くと
「殿の仰るように井伊直政は若輩ですが、私の目から見ても臆しているようにも見えません。
ですので、彼の者に甲州人を付ければいよいよ励み働くことでしょう。」と申し上げた。
さて、その後忠次の所に榊原康政がやって来てこのように言った
「甲州人を半分に分け、私と直政の両人に付けられるべきなのに、直政のみに付けられたことは
なんと口惜しい事でしょう!この康政、どうしてあの若輩者に劣るでしょうか!?
この後、もし直政に出逢えば刺し違えようと決意しました。ですので、今生の暇乞いに参ったのです。」
これを聞いた忠次は激怒した
「お前は馬鹿か!!!(さてさて、御事はおこなる人哉)
殿は私に預けようと言って来たのを、私が勧めて直政に付けさせたのだ!
これを聞き分けずに軽卒な行動をするつもりなら、殿に申すまでもなし、
私がお前の妻子一族まで、全員串刺しにしてくれる!!!」
そう以ての外に怒り罵ったという。
(武功実録)
0830人間七七四年
2014/07/30(水) 00:40:37.51ID:nv8Xlm8h0831人間七七四年
2014/07/30(水) 01:00:17.17ID:CPc5dUvq0832人間七七四年
2014/07/30(水) 01:05:58.29ID:LINdzkzZ0833人間七七四年
2014/07/30(水) 01:20:22.98ID:Oda6FVfj鳥居家譜とか武功実録って今見れる手段あるの?
0834人間七七四年
2014/07/30(水) 01:45:28.87ID:BP+5V0ZH甲州兵はどうやって軍紀を保ったのかね
戦えば損害も出るし規律の弱い補充兵も来るだろうし
0835人間七七四年
2014/07/30(水) 06:19:59.64ID:9LUB8Toi0836人間七七四年
2014/07/30(水) 08:59:12.87ID:vkO2DVH/0837人間七七四年
2014/07/30(水) 13:58:11.91ID:mSVmn9LE0838人間七七四年
2014/07/30(水) 14:40:40.30ID:Oda6FVfj0839人間七七四年
2014/07/30(水) 14:48:05.79ID:nayFSFDk0840人間七七四年
2014/07/30(水) 16:30:25.13ID:SgluMGfl0841人間七七四年
2014/07/30(水) 16:44:46.91ID:LINdzkzZ0842人間七七四年
2014/07/30(水) 18:47:36.95ID:HS4w3HiT0843人間七七四年
2014/07/30(水) 23:28:53.46ID:VXn6jKwPある日、利長は土蔵の戸を開くために、鍵を預けていた山田を「急いで来い」と
呼んだのだが、山田が遅かったために利長は怒り、持っていた杖で山田を突くと、
思わず山田の額に当たって血が流れた。
山田は跪いて平伏すると、脇差の刀身が自然に鞘から抜け出た。それを見た利長は、
「手向いもするのか!」と言って、畳み掛けて打とうとしたものの、傍らの人が
山田を引き退けた。この時から山田は病気と称して引き籠っていた。
関ヶ原の乱が起こり、利長が大聖寺の城を攻める時、利長は一段高い所に打ち上り、
武者押しを見物した。この時、山田は五、六十人ほどを引き連れ、今日を最後と
出て行って押し通り、城に着くと先駆けして一番に乗り込んだ。そして槍で乳の下を
突き通され、痛手であるために姫垣の下に落ちた。
山田は前もって従者に言い含めたので、息の絶えない内に利長の前に担がれて来た。
利長はこれを見て甚だしく後悔し、その過ちを丁寧に明らかにして、涙を流した。
山田はやがて死んだ。行年二十歳、世にすぐれた美男だったが、大剛の働きをして
討死した。その前日に、山田は親しい朋友に奇南香を分かち贈った。その頃、
その奇南香のことを、『大聖寺きやら』といって、もてはやしたと言われている。
――『常山紀談』
0844人間七七四年
2014/07/31(木) 06:47:56.65ID:MtEobYiW0845人間七七四年
2014/07/31(木) 10:35:47.10ID:7FhShnAfそれともうっかり触ってしまったのかな
0846人間七七四年
2014/07/31(木) 10:39:55.06ID:rjrCgL6Q0847人間七七四年
2014/07/31(木) 10:45:54.19ID:WRXagawh0848人間七七四年
2014/08/01(金) 00:06:45.97ID:Zvidlv1vこれは西国に対する宣伝のためである。
一方小身であっても、徳川家康は誠が多い事の強みを心懸ける弓取りであったので、三河において
信玄に勝ったなどとは言わなかった。
そもそも織田信長は、このような空言を多く用いる武将なのである。
例えば彼が今川義元に勝利した時も、『今川軍6万を打ち破った』と喧伝した。
よく考えてほしい。三河・遠江・駿河三ヶ国から、どうやって6万もの軍勢を動員出来るというのか?
そもそもそれらの国は人口も少なく、大積りに積もって、2万4千が精一杯である。
有り体に言えば、その2万4千ですら多すぎるが、信長は要らざる嘘を付くことで、義元との合戦などにおける、
類まれな、彼の本当の手柄まで、浅く見えてしまうのである。
(甲陽軍鑑)
甲陽軍家により、織田信長の過大すぎる戦果の宣伝についての批判である。
0849人間七七四年
2014/08/01(金) 00:37:57.68ID:14dTiqKs0850人間七七四年
2014/08/01(金) 01:07:48.13ID:UF+g0W9T0852人間七七四年
2014/08/01(金) 20:31:55.84ID:gTOhf2TV0853人間七七四年
2014/08/01(金) 20:47:32.22ID:9tseCV3g0854人間七七四年
2014/08/01(金) 20:51:45.98ID:A0sokaIo今で言うところの厨2病
0855人間七七四年
2014/08/01(金) 21:03:24.20ID:/yWEXe0h0856人間七七四年
2014/08/01(金) 22:38:38.69ID:A0sokaIo0857人間七七四年
2014/08/01(金) 23:27:59.46ID:gTOhf2TV0858人間七七四年
2014/08/01(金) 23:46:43.49ID:YhLMWCkK0859人間七七四年
2014/08/02(土) 09:09:53.96ID:ISNAK84k0860人間七七四年
2014/08/02(土) 10:27:13.75ID:Pg98IDG60861人間七七四年
2014/08/02(土) 12:57:09.43ID:WAwrywSL別所家頼の家臣に、数年の武功を重ね、首級を三十三取った武士があった。
この頃、上方から中国地方あたりにかけて、首三十三取った武士は、首供養をする習いがあった。
そのため、この別所の家臣が首供養を行うということで、播磨の国中、甚だしくその話題に染まった。
時に黒田官兵衛孝高の家臣に秦桐若という、優れた剛の者が居り、首級を三十一取ったのだが、
戦場で被った傷が元で死んでしまった。
そのような時に、かの別所の家臣が首供養をするという話を官兵衛は聞き、
家臣の吉田六之助(長利)に言った
「桐若が生きていれば、現時点で首三十三は取っていただろうから、首供養をしたことだろう。
しかし桐若の外に首供養の基準を満たしている者は我が家中には居ない。
であれば六之助よ、お主が別所の家臣より先に首供養をするように。」
これを聞いて六之助は戸惑った
「私は只今までに取った首は二十七です、三十三に不足しているのに首供養を行うというのは
いかがかと思います…」
ところがこれに官兵衛は
「さても汝は小気な者だろうか。お前は今年で、未だ31,2歳であろう?
年若いのに、一生の間に首級三十三を取れないと思っているのか?
先に首供養をして、その後首を取り、三十三に合わせればいいのだ!」
そう言って六之助に米百石を与えた。
吉田六之助は結局その命に従い、別所の家臣より先に首供養を行って、播磨国青山の南の方に塚を築いた。
その後六之助は、日本国内で首数十、朝鮮において首五十を取った。
(黒田家臣伝)
黒田官兵衛、先取りで首供養を行わせる。というお話。
0862人間七七四年
2014/08/02(土) 15:33:31.87ID:yR9iIoT70863人間七七四年
2014/08/03(日) 06:30:51.93ID:DuxhY17I0864人間七七四年
2014/08/03(日) 08:32:03.96ID:mNQ/sHkq0866人間七七四年
2014/08/03(日) 12:06:10.92ID:SGDzIMhG0867人間七七四年
2014/08/04(月) 01:46:49.10ID:nia5rqbg景虎は怒涛の進撃を行い、この事態に北条の同盟国である武田家において、飯富兵部少輔(虎昌)は
信玄にこのように申し上げた。
「景虎の勢いはこのようでは、北条氏康公がついには切腹されることも疑いありません。
そうして北条が滅亡すれば、次は駿河の今川家、そしてこの武田家も滅亡と成るでしょう。
氏康公が未だ堅固な間に、笛吹に兵を入れて、甲州から花水川に出て関東の勢力と共に、
景虎と決戦をいたしましょう。そうすれば勝っても負けても、信玄公の名は末代まで言い伝えられる
ことでしょう。我々に直接関係のあることでなくても、北条氏康公に頼まれての義理の一戦は、
弓矢取る者にとっての面目です!」
しかし信玄、これを聞いて
「長尾景虎の攻撃の様子、あるいは退却、武辺の形などをここ14年ほど見てきたが、彼は戦争に関しては
生まれついて優れた才能を持って持っている。だが、彼の戦略には臆意に練った工夫がない。
今回の事、結局は氏康にとっての吉事であると考える。何故なら、上杉憲政はうつけたる
人物であったので、関東の諸侍は表向きは憲政を恐れるようにしていても、裏では侮り、
藤田左衛門をはじめ上杉家の侍たちは逆心をして、上杉家を関東より追い出した。
そして北条氏康を主としたわけだが、彼は一段優秀な人物であるから、関東の者達は今度は
その支配を難しく思い、それよりは景虎がいいと思って、今渇望しているのだ。
だが、彼はようやく30歳の若さであり無分別である。しかも短気者であるから手荒に仕置きをする。
だから今年来年の間には関東の諸侍も景虎を疎み、かといって独り立ちも出来ないので、結局は
北条氏康を頼りとするより外に選択肢はなくなるのだ。」
この信玄の発言に飯富は全く納得しなかった。
さて、上杉景虎は3月中旬には相模国小田原へと攻め込み、蓮池まで乱入した。
彼はよく知らない関東の侍大将の衆に少しも気遣いすること無く、兜をつけず
白布の手ぬぐいを使った桂包という物に頭を包み、朱采配をとって諸手へ乗り込んで下知した。
彼の、他人を生きた虫ほどにも思わない態度を見て、関東の諸侍は大小共に舌を震わせ、
『このままこの大将を頼っていては、ゆくゆく大変なことに成る』と、今後の身の上を考える
者も多かった。
そのような中、景虎が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮に参拝した時、近衛前久殿に都より下っていただき
これを公方とみなし、景虎は山内から大石、小幡、長尾、白倉の4人の侍大将を近辺に連れて、中でも
上野国鷹巣の城主、小幡三河守に太刀を持たせ、ここで景虎は関東管領と成った。
人々は
「その威勢は東日本の三十三ヶ国に並ぶもの無く、行く行くは京都へと軍を出しても、一体誰が
盾をつくだろう。そもそも景虎は大国の越後を支配し、それに上野を手にし、関東を従え管領となり、
十万あまりの軍勢を率いている。3年のうちに日本の主となること疑いない。なんと果報の大将であろうか。」
と評判した。
ところが、この鎌倉参拝の帰りに、忍の成田長康という五百騎の大将が畏まっていたが、他の者より
すこし頭が高いと景虎は激怒し、手に持った扇で成田の額を3度まで打った。
成田は宿舎に戻ると、「私も五百騎を率い、地元の合戦では千騎を従える程の者だというのに、
景虎にこのようにさせられる事口惜しい」と、景虎に暇乞すること無く忍へと帰った。
これを見て、関東の諸侍も尽く引き払い、景虎の手勢である1万7千の人数すら混乱した。
その上小荷駄を地元の百姓に取られ、小物・中元を殺され、敗軍のような有様となり、
ようやく上野国平井まで戻れたのも、景虎なればこそであった。そしてそのまま平井に逗留し、
5月始めに越後へと帰っていった。
武田家の人々は、大小、上下を問わず、「信玄公の批評は少しも間違いはなかった」と大いに
感じ入ったのである。
(甲陽軍鑑)
0868人間七七四年
2014/08/04(月) 01:59:53.30ID:KLawV5yp0869人間七七四年
2014/08/04(月) 04:30:48.77ID:YawQpXQz0870人間七七四年
2014/08/04(月) 12:35:44.72ID:b6Mz3aC7「自分の縄張り広げるぞー!!」っていう考えが
そのあとの世代になって「やっぱ都目指さなきゃダメっしょ」
みたいに変わってきたってことなんかな
0871人間七七四年
2014/08/04(月) 14:34:48.21ID:j/22Dnht冬の間、出稼ぎ遠征だけで目的は達せられるし
遠隔地に代官をおいて地域の問題を解決したり、領民の保護したり、
というコストを考えると、むしろ荒らすだけのほうが安上がりだったとか
関東管領になったことで戦略目標(分捕り許可)は十分達せられたってことで
0872人間七七四年
2014/08/06(水) 02:55:53.66ID:nSnDUXdK徳川家康・織田信雄の連合軍は小牧山に陣を据えた。
これに対して羽柴秀吉は、陣地に堀や櫓を作るなどしていた。
小牧山の陣よりこれを見た徳川家康は、織田信雄に対しこのように言った
「先年、長篠において私は、故右府(信長)と共に、あのような手筈を整え武田勝頼を
待ち受けましたが、勝頼は年若く血気盛んであったため、陣を乱して攻めかかってきました。
しかしこちらは待ち受けていた事なので、思い通りに引きつけ、鉄砲で打ちすくめ、労せずして
勝利を得ました。
今、秀吉はその故知を用いて、櫓などを作っているようです。つまり、秀吉は
あなたや私を、勝頼と同じたぐいの相手だと思っているのですよ。」
そう語り、笑ったという。
(落穂集)
つまり家康は信雄に「秀吉はお前のこと、罠に自分から突っ込んでくるような奴だと思ってるぞ」と
言ったという事ですね。逆にそう言って信雄がむやみに攻めていかないように釘を差したのかもしれませんが。
徳川家康が織田信雄を煽ったお話。
0873人間七七四年
2014/08/06(水) 10:07:32.63ID:1A33Hc9L0874人間七七四年
2014/08/06(水) 14:02:28.67ID:ZtFjIi4q0875人間七七四年
2014/08/06(水) 17:08:22.47ID:Lw/WOK5k0876人間七七四年
2014/08/06(水) 19:48:07.95ID:nSnDUXdK『史跡で読む日本の歴史7 戦国の時代』(小島道裕 編)によると、小牧城に関して
> 織田徳川連合軍は信長時代の城郭の基本構造を活かし、堀や土塁といった防御施設を集中的に改造していた。
> 先ず山麓に山全体を囲む巨大な堀と土塁を巡らせて一帯を広大な陣地とした。山頂の主郭まわりは信長時代以来の
> 石垣をそのまま用いたが、山の中腹にも新たな堀を巡らせ、防御上の弱点には信長時代の石垣を埋め込んだ上に
> 大土塁を築いた。せっかくの石垣を土塁に戻したから見栄えはしなくなったが、軍事機能は飛躍的に高まった。
としていたそうで。
0877人間七七四年
2014/08/06(水) 21:16:18.52ID:+vwNNjQ/0878人間七七四年
2014/08/06(水) 23:18:57.61ID:ZYu8zGE80879人間七七四年
2014/08/07(木) 01:59:57.59ID:0e3+1740紀伊守は容色艶麗な富民の娘をひとたび見て、その姿が目の前にあるかのようで、少しも
忘れられず「文を通わせる伝手でもあればなあ、この心を知らせたいものだ」と思い煩った。
そんなところに、どのような手引きであろうか、人が静まった深夜に前述の女が初めて
参り、それからの紀伊守は日暮れを待ち、夜が明けるのを恨んで、稀に逢瀬が途絶える
ことも無かった。
そんな中、紀伊守の精神は気が抜けてぼんやりした状態となり、この頃気鬱している
ということで城外に出て遊んだ。日暮れ過ぎになって、遥か山上を見ると、鞠の大きさの
光物が飛んで来て、城中に入り、家屋の間に隠れた。
家老は怪しんで近侍の士に詰問した。近侍の士は密通のことを告げて「あの女の来る所も、
帰る所もわかりません」と言った。家老は(紀伊守のいる部屋に)入って諌めようとしたが、
近侍の士は、
「この事は深く秘密になされましたが、相談のために申し上げました。まずは小臣が
諌め申し上げます。それでも御承諾なされなくば、その時はよろしく御計らいください」
と言ったので、家老は「もっともだ」と同意した。
近侍の士が紀伊守の前に出て、「昨暮、山上の光物が飛んで来て、御城に入りましたのを
御覧になられましたか? この頃の御病苦は魑魅の祟りがあるのか、色々と訝しい諸事が
ございます。古えにもそのような例が無いわけではありません。御気をつけてくださいませ」
と申し上げると、紀伊守は「心得た」と言った。
0880人間七七四年
2014/08/07(木) 02:01:42.65ID:0e3+1740次の日、取り出して見ると、髪は銀針のようであった。紀伊守はたいへん驚いて近侍の士を
呼び、その髪を示した。近侍の士は「これは猶予してはなりません。小臣が今夜、寝室の外で
待ち、女を捕らえて刺し殺します」と言ったが、紀伊守は、
「それはよくない。あの女は寝床に就く前に気が緩んだりはしないだろう。万一仕損じれば、
悔いてもどうにもならない。前夜に髪を切られたことについて女に覚えがあるなら、必ず
疑う心があるはずだ。私がものやわらかな言葉でその感情を解き、その後でお前にも知らせ
ようぞ。お前は早まってはならない」と、制止した。
夜半を過ぎた頃、寝室で俄に騒動があった。近侍や宿衛の者たちは同時に起きて、
戸を押し破って入り見れば、紀伊守は気絶していた。しばらくして紀伊守は目を見開き、
「私が気絶したことは無念である。しかしながら、あの女はよもや生きてはいまい。
女が戸外に立って『今宵は心が普通ではないので、これから帰ります』と言ったのを、
私はなだめて呼び入れた。
いつもより懇意に語らい、女が少し眠るのを待って直ちに胸に乗り掛かり、三刀まで刺した。
すると、あの女は私を脇に挟んで天井に飛び上がった。私は固く捉えて手を離さなかった。
天井から落ちてしまったが、(どうして落ちたのかは)夢のようで記憶していない」
と、語った。天井は破れ、そこから血が流れて避ける所が無かった。夜が明けて光物の
来た所の山に人を遣わし、血を印しに女を捜索させたところ、三里余りの深山に入り、
血痕が巌穴の入り口に到り止まっているのを発見した。恐れて中に入る者はいなかったが、
一人の壮力の士が腰に縄を付けて二、三十間這い入ると、中が暗いために何なのかは
わからないが、死んだ様子のものがあった。その足に縄を付け、出てからこれを引き出した。
それを見ると、身長六尺余りの老女だった。白髪の長さは一丈ほどで、面背(表側と裏側)
を覆っていた。胸には大きな傷が三つあって死んでいた。その後、紀伊守の病気は癒えた。
――『武将感状記』
0881人間七七四年
2014/08/07(木) 02:50:12.89ID:Ls+TpjCi0882人間七七四年
2014/08/07(木) 03:05:04.24ID:yxi26cir0883人間七七四年
2014/08/07(木) 03:28:30.46ID:lDwTBDoc0884人間七七四年
2014/08/07(木) 15:26:42.66ID:6GG21SAs>三村紀伊守(親成)は備中半国を保って成岩(成羽)に在城した。物事のついでに
>紀伊守は容色艶麗な富民の娘をひとたび見て、その姿が目の前にあるかのようで、少しも
出だしの段階だと宇喜多さんの娘かと思った
0885人間七七四年
2014/08/07(木) 17:49:04.31ID:5RLxnS35というオチになるのかと思ったぜ
0887人間七七四年
2014/08/07(木) 20:10:35.52ID:+S/R0Uo0備中ではよくあること。
0888人間七七四年
2014/08/07(木) 23:10:19.42ID:yxi26cir0889人間七七四年
2014/08/07(木) 23:23:25.09ID:iT1TS5YI0890人間七七四年
2014/08/08(金) 15:49:47.43ID:XM906JXL0891人間七七四年
2014/08/09(土) 20:00:35.39ID:FYbOX1wM小田原城包囲に加わっていた徳川家康であったが、ある時小田原城に向かって自ら矢を放ち、
その遠近を計る事をした。
家康が矢を放つと、この時側にいた家臣たちは「御矢、城中まで入りましたぞ!」と言った。
家康、これを聞くや
「城まであれほど遠いのだぞ、私の弓の勢いで及ぶわけがないだろう!」
と、弓の名手である松平康安を呼び出し
「汝は弓において聞き及ぶ精兵である。城に向かって射てみよ」
と命じ、その距離を測定した。
康安の射た弓は、その多くが土居に落ち、数本射たうち、1本だけ城端まで届いた。
この結果を見て家康は左右の者達に
「康安の弓勢ですらこうなのだ。それをお前たちは、私の矢が城中に入ったなどというのは、
全く阿諛の為の言葉である!かまえて、そのようなことは申してはならない!」
と戒めたという。
(徳川実紀)
戒める前に弓の達人に試させ実証させた当たりが、じつに家康らしい逸話である。
特に関係ないが松平康安の読みは、「まつだいらやすやす」である。
0892人間七七四年
2014/08/09(土) 20:04:04.78ID:cdzG0XpW0893人間七七四年
2014/08/09(土) 20:12:25.37ID:DwBXdYXkhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5027.html
0894人間七七四年
2014/08/09(土) 21:28:56.54ID:ZhboR2P70895人間七七四年
2014/08/10(日) 08:40:04.82ID:Q3PoyVbXあいつ、恐喝で訴えられたあとどうしてんだろ
0896人間七七四年
2014/08/10(日) 14:43:33.03ID:R8WvhgNk0897人間七七四年
2014/08/10(日) 15:33:18.77ID:SeWSSxT60898人間七七四年
2014/08/10(日) 15:59:31.93ID:8W+qQTg2君臣豊楽
0899人間七七四年
2014/08/10(日) 17:10:44.80ID:R9KA2SIW避諱してないからどっちにしろダメだが
0900人間七七四年
2014/08/11(月) 00:06:04.82ID:hXMVAG1+1523年、毛利幸松丸が急死。叔父の元就が毛利家の家督を継ぐ事となる。
1524年、尼子経久、亀井秀綱の後押しで元就の異母弟・元綱が謀反を企図する物の、
それを察した元就は元綱と謀反に与した渡辺氏、坂氏らを粛清。これにより毛利家は
完全に元就によって統制されることとなる。
この時、尼子・亀井と共に元綱の謀反に一枚噛んでいた人物がもう一人いた。
安芸北部・石見に勢力を張る高橋氏の当主、興光である。
亡くなった毛利幸松丸の外戚(幸松丸の母が高橋氏出身で興光の叔母)である。
1521年に祖父の高橋久光が戦死するまでは、毛利家は当主幸松丸を元就と外戚の
高橋久光が後見しており、力関係では高橋氏の影響力の方が遥かに強く、毛利家は
実質高橋氏の思うがままであった。しかし久光が戦死した後はその影響力は
一気に削がれ、幸松丸が死して元就が家督を継ぐと、元就は遂には高橋氏と敵対する事になる。
元綱の謀反を収めた元就は主家を尼子から大内へ鞍替え。逆に高橋興光は大内から尼子へ接近を図る。
元就は弟の謀反の恨み、長年に渡り亡き久光に毛利を好き勝手された恨みもあってか、主家・大内氏に
許可を得ることなく、高橋氏への攻撃を開始した。
1528年、元就は高橋一族である高橋重光の居城松尾城を攻撃して高橋氏に大打撃を与える。
2年後の享禄三年には高橋領の安芸山県郡北部と松尾城に侵攻。大内氏の弘中隆兼
や備後の和智豊郷の助勢を受けて松尾城を陥落させ、重光を討ち取った。
0901人間七七四年
2014/08/11(月) 00:12:06.84ID:hXMVAG1+を攻めている最中で、正月を居城で迎えようと僅かな兵と城へ帰る途上であった。
そこで元就は一計を案じ、高橋一族で鷲影城主の高橋弾正左衛門盛光を調略する。
この高橋盛光は興光と兄弟同様に育てられた仲だったというが、盛光はその興光
を裏切り石見の軍原で興光を急襲。興光は奮戦するも力尽き、軍原にある岩の上で腹を切った。
高橋盛光はその首を持って犬伏山に出陣していた元就(または元就配下の武将)の陣へ向かう。
そこで所領安堵の書状を頂戴するよう申し出た盛光であったが、返ってきた言葉は以下の様な物であったという。
「汝高橋本家相続人であり元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと。かかる犬武士は生かしてはおけぬ。直ちに誅せよ」
その場で盛光は首を討たれ、そのまま犬伏山で葬られることとなった。
そして石見高橋氏は滅亡し、その領地は毛利に奪われることとなったのであった。
若き日の元就の大変後味の悪いお話。
なお、高橋興光が切腹した軍原は現在キャンプ場となっており、腹切り岩はキャンプ場の中に
史跡として残っています。また、盛光の墓は犬伏山に粗末な石ころの様な物がそれであると伝わっております。
(参考文献 『芸侯三家誌』『陰徳太平記』『吉田物語』『高田郡誌』『邑智町誌』)
0902人間七七四年
2014/08/11(月) 09:55:53.13ID:eCAtQ0010903人間七七四年
2014/08/11(月) 10:17:10.68ID:lYq9yyDk0904人間七七四年
2014/08/11(月) 13:32:59.55ID:dbBXu24S0905人間七七四年
2014/08/11(月) 17:28:31.32ID:qs4BO72Y0906人間七七四年
2014/08/11(月) 21:00:28.01ID:xgQVD9Bkもっとちゃんとしたとこ無かったのか
0908人間七七四年
2014/08/11(月) 21:12:01.82ID:HpWefZDjまぁ興光も岩の上で切腹しなくてもと突っ込みたくなるけど
0909人間七七四年
2014/08/11(月) 21:17:36.35ID:fnKzRSwk0910人間七七四年
2014/08/11(月) 21:56:35.72ID:Oj7yGiTU関ヶ原はいまだに荒涼としてるね
南無八幡大菩薩
0912人間七七四年
2014/08/11(月) 22:30:08.96ID:hXMVAG1+やっぱアレじゃない?夏の風物詩、肝試しに持って来いだから
0913人間七七四年
2014/08/11(月) 22:42:55.34ID:EjAQtTP40914人間七七四年
2014/08/11(月) 22:47:28.49ID:gto/pV+1仲間と勘違いされそうです
彡 ⌒ ミ
(´・ω・`)
0915人間七七四年
2014/08/11(月) 22:50:13.77ID:TJUYda4k全部抜いてしまえば坊さんと思われるだろうから思い切って抜いてしまいなさい。
ノノ
〆 ⌒ヽ∩ ブチ!ブチ!
( ゚ω゚)☆⌒ ミ
ヽ⊂彡(´・ω・`)
0916人間七七四年
2014/08/11(月) 23:01:00.32ID:Z2oXRHJt0917人間七七四年
2014/08/11(月) 23:12:03.60ID:hXMVAG1+落ち武者の霊を見かけやすいと聞いたことがあるなぁ。
0918人間七七四年
2014/08/11(月) 23:19:55.42ID:Oj7yGiTU0919人間七七四年
2014/08/11(月) 23:45:26.10ID:muZGKzh7他に戦国時代の古戦場跡でそういう場所って有ったかな?
0920人間七七四年
2014/08/12(火) 07:29:06.08ID:tQEpvKr70921人間七七四年
2014/08/12(火) 07:37:10.02ID:+fKqZizM安土桃山時代なんて新顔じゃ、存在感がないんじゃないかしら。
0923人間七七四年
2014/08/12(火) 09:24:05.61ID:1OHulR+Aいや、落ち武者だから陸に逃げて死んだのも居たんじゃ…
長府や新下関といった、壇ノ浦から少し離れた街中や山の方でも、目撃例が有るそうな
0924人間七七四年
2014/08/12(火) 09:36:24.99ID:Absk3Svc壇ノ浦で死んだ落ち武者って、それ落ち武者じゃ無くて普通に戦地で討たれた武者だろ
0925人間七七四年
2014/08/12(火) 09:48:35.65ID:k5XFhPI40926人間七七四年
2014/08/12(火) 11:28:25.59ID:ii1jayGd0927人間七七四年
2014/08/12(火) 11:44:39.26ID:91sz6eqC「私も兼々武功をなしてきましたが、今後後代に至った時には証拠もなく、また人も
知らないということに成るでしょう。
これは子孫のためですので、御感状を頂けないでしょうか?」
黒田親子はこれを聞くと
「其の方には、上方口並びに豊前表の押さえのため、小倉の城に近い若松城を預け置いている。
これは天正のころ、上杉謙信の押さえのために、武田信玄が高坂弾正を越後表に置いたのと
同じ意味である。
其の方の軍功のことは、家中の諸士は兼ねてからよく知っている。後代に至っても
その記憶は著しいことだろう。」
そう言って感状を与えなかった。
黒田家においては、封禄を多く与えられている家臣で、黒田如水・長政の感状を持つものは
居なかった、という。
(黒田家臣伝)
それにしてもどうして感状与えなかったんだろう?他家に転職されるのを防ぐためですかね?
0928人間七七四年
2014/08/12(火) 12:04:15.38ID:/MgbD2wv0929人間七七四年
2014/08/12(火) 16:05:19.26ID:xajuSkrw「私めは粉骨を尽くして、御奉公を勤め申し上げる所存です」
と、御前で申し上げた。これに家康は親身な言葉をかけた。
これについて近習衆が、
「あまりに御丁重すぎたように存じます」
と申し上げると、家康は、
「あのような者には、このように言っておくのが良いのだぞ」
と言った。
――『武功雑記』
0931人間七七四年
2014/08/13(水) 00:59:15.26ID:OohdeqJC尼子方の重臣、牛尾遠江守幸清の家臣に、琢阿弥という大力の剛の者があった。
彼は牛尾遠江守の子息である、湯原弥二郎に従ってこの吉田郡山城の戦いに出陣したが、
現地で風邪をひき寝込んでいた所、その日、主人である湯原弥二郎は討ち死にしてしまった。
琢阿弥は彼に従って出ることが出来なかったことを口惜しく思いながらも、
病身であり心に任せることが出来ず、日を送っていたが、そんな中ようやく少し回復した様子を覚えたため、
早速郡山城近くまで寄せ来ると、城に向かって叫んだ
「私は牛尾が近習の者である!主人である者が討ち死にした時、所労の事によって
その場に居合わせることが出来なかった!只今、討ち死にするためこちらに罷り来たり。
毛利勢よ、討ち取りに出て来られよ、勝負せん!」
この呼びかけに、郡山城から井上与三右衛門が出て、名乗りを上げ、
終にこれを射落とし首をとったという。
(芸侯三家誌)
吉田郡山城の戦いにおける、討ち死にに来た男の逸話である、
0932人間七七四年
2014/08/13(水) 17:36:43.68ID:1OqoGbPe0933人間七七四年
2014/08/13(水) 21:29:23.86ID:yuwboFv0「博打をうて、嘘をつけ、町を歩くあいだに七度ハッタリをかまさないでは男が立たないぞ」
(博打を打ち虚言をいへ 一町の内七度虚言いはねば 男は立たぬぞ)
と話した。
昔の侍どもは武勇だけを心がけたから、正直者では剛の者の働きが出来ぬと思い、このように言われた。
身持ちの悪い者でも知らぬふりで許しておいて、
「よいことをした」
と声を掛けた。
相良求馬及真なども、盗みや密通をした家来どもを許して、徐々に侍らしく育てていった。
「そのくらいの者でないと、役には立たない」
と言っていたとのことだ 【葉隠】
追記
中野神右衛門も同じことを言っていた
0934人間七七四年
2014/08/13(水) 21:33:33.14ID:V/FngQ+K0935人間七七四年
2014/08/14(木) 18:08:26.47ID:6WZMZPHy0936人間七七四年
2014/08/14(木) 21:59:04.96ID:bLRffh6E0937人間七七四年
2014/08/14(木) 23:35:44.46ID:S2NXrhrV0938人間七七四年
2014/08/15(金) 00:05:33.31ID:c7FoL7bh牟田口廉也も佐賀 HANAWAも歌わない♪
0939人間七七四年
2014/08/15(金) 09:28:54.79ID:u64C3I5n0940人間七七四年
2014/08/15(金) 09:43:33.70ID:YezRyw1aやるのは構わんから、精々世界に赤っ恥晒してきなさいw
0942人間七七四年
2014/08/15(金) 17:31:00.13ID:4u+if8UR松雪泰子も佐賀 公表してねえ
S A G A 佐賀 S A G A 佐賀
江頭も佐賀 公表するな
というか芸能人てしょーもない見栄張る奴多いよね
おれの地元のとなりの芸能人も出身地ビミョーに詐称してるw
0943人間七七四年
2014/08/15(金) 20:20:00.80ID:tdBWVnKS日本のためしっかりやっとくれ防人サガ!
0944人間七七四年
2014/08/15(金) 20:54:44.20ID:Tn1STtQQ0945人間七七四年
2014/08/15(金) 22:00:09.78ID:fEDArLrs尼子家に仕え文武に通じると評された、多胡氏の城である。現在この城の跡には当時の歴史を記した
碑文が多数並ぶ、碑公園となっている。
1559年に吉川元春と小早川隆景が城を攻めた際には城主多胡辰敬の弟、多胡正国と家老沖弾正正藤
の働きによって撃退される。
1561年に吉川元春が再び攻めるが、この時も城側の夜討ちにより児玉興三郎はじめ500の戦死者を出した
吉川軍は一時退散。戦死者500はかなり盛った数字と言われるが、吉川元春がこの城を攻めあぐねたのは間違いない。
同年12月、吉川元春は三度目の攻城を開始。
二度に渡り煮え湯を飲まされた元春は城側の重臣別所小三郎宗晴を調略。
1562年1月1日、別所は多胡正国の息子・秀光を殺害し、城の裏門を開いて吉川勢を城に入れた為、
城兵500は殆どが討ち死にし、生き残った多胡正国ら7名は隣の郡山城へ逃げ、家老沖弾正は城に火を放ち自害。
この後、郡山城もあっさり落とされ多胡正国は兄辰敬の岩山城へ逃亡するも、そこも落とされ多胡兄弟は自害し
多胡氏は滅ぶ。この多胡辰敬の娘が亀井茲矩の母であり、後、津和野藩を興す藩祖の父となるのであるが、それはまた別のお話。
なお、多胡氏を裏切った別所宗晴は毛利元就に信用されず、後に死を賜ったという。
毛利に敵対した主家を裏切った武将が辿る何時もの末路であった。
この余勢城から1kmほど行ったところに西隆寺という真言宗の寺がある。ここは多胡氏の菩提寺として
伝わる寺であるが、この寺の裏手にドウショウ坂と呼ばれる鬱蒼とした森に囲まれた坂がある。
この坂の途中にある杉の木の茂る場所は、かつて城の処刑場として用いられ、また吉川の余勢城攻めの時に
敗残兵が処刑された場所とも伝わり、実際ここには朽ち果てた五輪墓の跡が幾つも残り、近隣では恐怖のスポットとして知られ、
通る時にこの坂を上ろうか上るまいかどうしようか?と悩むことからドウショウ坂と言う名が付いたという。
0946人間七七四年
2014/08/15(金) 22:58:51.55ID:Bs48ykLc0947人間七七四年
2014/08/16(土) 08:11:25.13ID:6ZJ9Kvda「血塗られた地名なのに鬼武蔵が関わった話じゃないなんて」なのは色々と毒されたようだ
0948人間七七四年
2014/08/16(土) 10:36:12.27ID:oZ8TZBKaありえないだろ!とか言ってたら、実は悪い話バージョンがあったことが
明らかになってワロタ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4700.html
0949人間七七四年
2014/08/16(土) 10:50:00.75ID:4Y8NqYJl| 彡^ミ
\ (´・ω・`)また鬼の話してる
(| |)::::
(γ /:::::::
し \:::
\
0950人間七七四年
2014/08/17(日) 07:12:28.77ID:6cNQD05V0951人間七七四年
2014/08/17(日) 07:24:48.99ID:qekedrqu冷蔵庫のない時代なら野菜がどんどん腐って大変だっただろうな
0952人間七七四年
2014/08/17(日) 10:37:35.04ID:rR9OFM8y私は野球のことは全く知りませんが、今時スポーツをするのに丸刈りにする必要があるのか・・・・
と疑問に思っていました。
謎が解けたのは、息子が「皇支援に行くのが夢だ」などと言い出してからでした。
野球とはスポーツに見せかけた極右活動だったのです。
息子が党首をやっていて保守のためにがんばるというのを聞いた時にはその場にへたりこんでしまいました。
最近始まった高校野球の大会も「春の戦没」などという名で、あの忌まわしき戦争を思い出させます。
揃いの服に身を包んだ丸刈りの若者達の入場行進を見た時、私には軍靴の足音が聞こえてきました。
0953人間七七四年
2014/08/17(日) 10:55:06.72ID:kmmLxem80954人間七七四年
2014/08/17(日) 13:14:55.03ID:lsq+fZgL0955人間七七四年
2014/08/17(日) 16:30:49.19ID:LA87lVqN1527年頃のこと、安芸船山城の城主である山中佐渡守祐成は悩んでいた。
それは同じ安芸武田家傘下の将で、隣接する三入庄を支配する熊谷信直の存在である。
勇は熊谷、智は天野と称されるほど安芸では名の知れた武将であり、その配下にも
優れた者が多く、いずれは我が領土を熊谷に侵されるのではないかと危惧していたのであった。
事実、熊谷信直は主の武田光和に知行を増やすよう訴えており、それが隣接する山中祐成の心を
更にざわつかせていたのである。
殺られる前に殺ってしまえ。だが、正面からでは分が悪い。
祐成は息子の新四郎と謀って熊谷信直を闇討ちする事にした。
熊谷信直は毎晩、馬の世話をする為に城から一丁離れた馬小屋へ一人で訪れる。
この情報を得た山中親子はここで熊谷信直を討ち果たさんと決意した。
そして、その決行の日・・・。熊谷信直は突然の腹痛に倒れていた。
分かったよ兄者 腹壊したからお前代わりに行って来て
彡 ⌒ ミ <⌒/ヽ___
(´・ω・`) /<_/____/
( )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
信直は代わりに弟、直続を馬小屋へ行かせることにした。
この日の夜は大変寒く、直続は厚着をして顔も隠れるほど寝着を被って出かけたのであった。
(~)
γ´⌒`ヽ ウー、サブイサブイ
{i:i:i:i:i:i:i:i:}
( ´・ω・)
(:::O┬O
◎-ヽJ┴◎
(●●●●●) あ、来た。いてまえや!
/ ヽ
|| 山中 |
し| i |J=二フ
| | ノ
し' し'
そして弟の直続とは知らず襲い掛かる山中親子であったが、厚着の為に止めを刺したかも確認は取れず、彼らは
引き返したであった。この時厚着が幸いして熊谷直続は一命を取り留め、城に帰って兄にこの事を報告する。
それを聞いた熊谷信直は「相手がそういう事をするならこちらも謀をもって敵を討たん」と、策を練った。
その後、熊谷信直は今まで以上に山中家との交流を深める事に努め、山中家の方はこの件がバレているとは思っておらず、
熊谷家にすっかり心を許して交際に応じていた。
それから数年後、1529年ごろのことである。熊谷家から「毛利が攻めてくるから、守りの為の砦を築いたので祝宴するから来られたし」
と、招待を受けた山中親子はそれに応じ砦に赴くのであった。そして、その宴の最中、山中親子とその配下約30名は別々に熊谷信直と
その郎党の手により討ち取られ、命を失った。
その後、熊谷信直はすぐさま300の兵を率いて山中氏の船山城を急襲。ほぼ無血で占拠し、山中氏の所領と更には主である安芸武田氏の
領地も掠め取ることに成功したのであった。
主である武田光和はこれを黙認したものの、後にこの領地の件で熊谷信直が大内義隆、毛利元就と密約を結び熊谷の領有を認めさせた事
が露見、また、武田光和の側室であった熊谷信直の妹が兄の一存で離縁させられ、他家に再嫁させられるに及び、かつては水魚の仲と言われた
主従の仲は完全に破綻。横川表の戦いが勃発するに至るのであった。(陰徳太平記・可部町誌)
0956人間七七四年
2014/08/17(日) 18:54:29.38ID:x0xy5SN+せっかくの逸話が勿体ない
0957人間七七四年
2014/08/17(日) 19:33:22.43ID:jR02EXhj0958人間七七四年
2014/08/17(日) 20:06:31.61ID:gQlP9Xe/分厚い綿って腕のない奴が斬るの難しそうだもんなあ
闇討ちの類でもやっぱ腕の立つ奴がやらないとだめなのね
忠恒が家中の上意討ちに東郷さん重用してたわけだ
0960人間七七四年
2014/08/17(日) 20:42:39.09ID:R0bAuJoJなるほど、なんj系の顔文字はダメでやる夫とか2ちゃんの昔からのaaは良いのかな?
0962人間七七四年
2014/08/17(日) 22:08:46.30ID:LA87lVqNこの暗殺未遂事件自体が後に作られた話かも知れないのもあるけど、当時の夜は今より遥かに暗かったろうし、専門の殺し屋でもないからしくじるのも仕方ないかなとか思ったり。
0963人間七七四年
2014/08/18(月) 06:57:28.99ID:aHrSRIl10965人間七七四年
2014/08/18(月) 12:05:46.75ID:ZlsX7Q6S0966人間七七四年
2014/08/18(月) 12:20:41.64ID:ll8mFeEo0967人間七七四年
2014/08/18(月) 13:46:30.58ID:040eP83M緊迫の度が増す中、大内配下の有力国人である毛利元就のもとには、大内義隆方、陶隆房方双方より
加勢の申し出が来た。
このような中、元就の前に児玉三郎右衛門(就忠)が座していたが、元就は児玉に
「どちらに与するべきだろうか?」
と尋ねた。児玉は少しも思案する様子もなく、即座に
「陶に一味然るべきです。」
と答えた。これに元就は笑い出し
「当家興亡の大事は今この時だというのに、いささかの思慮にも及ばないとは、
いい加減な意見なのだろう?」
「とんでもありません。この考えは兼ねてから我が心で量見していた物なのです。」
その後、元就は子の隆元、元春、隆景、その他の重臣たちを集め、このことを評議した。
ここで熊谷伊豆(信直)が発言した
「大内義隆は、近年武業を取り失い、遊楽に浸っており、その家人は多くそれを疎み、
大内家内の権勢は、却って陶に及びません。大内義隆が勝利することはないでしょう。
尤も、主従が争う時、主を助ける事は義に当たります。ですが滅びようとするものに対し、
そちらに与して共に滅んでは益がありません。
そもそも毛利家は大内家に対し、重恩の家というわけではありません。時の権威に従って、
一旦麾下に属したにすぎないのです。ですから、ひとまず陶に一味して、重ねて
大内義隆の敗北後、その泉下の恨みを散ぜられる謀を行えば、当家はいよいよ興隆するでしょう。」
この言葉に元就は
「先に児玉が申したことも、今の熊谷の言葉と符合している。そして私が心に考えていることも、
その通りである、」
こうして一座の衆議はこれに決し、陶隆房に対し一味する返答を行った。
(芸侯三家誌)
毛利元就が陶に与することを決めた協議についてのお話。
0968人間七七四年
2014/08/18(月) 15:26:10.22ID:9GbdPUW00969人間七七四年
2014/08/18(月) 16:09:54.29ID:/Bls1iEJ0970人間七七四年
2014/08/18(月) 16:20:32.05ID:wRMqwQur0972人間七七四年
2014/08/19(火) 10:03:32.31ID:ajvNkPk60974人間七七四年
2014/08/19(火) 21:27:21.81ID:CFo03HzL北郷時久の侍女に小少将という飯野郷出身の天性美女があり、城内若武者の憧れであった。
或る年の秋、蹴鞠の会があり、ここで最も見事な技を披露したのが桑山刑部少輔親基であった。
多くの侍女がそれに見蕩れ、小少将も殊の外真剣な目で声援を送った。
双方共に思慕を打ち明ける機会を窺っていたが、侍女と臣下の恋愛は御法度である。
堪りかねた刑部は或る日一首を届けた。
「わが恋は、山下滝つ岩の瀬に、心くだけつ、つまぞ恋しき」
小少将は思い悩んだ挙句、
「わが恋は、山下しげき夏草のまたも憂き身を思ふ君かも」
と返歌、二人はいつしか忍び合う仲となる。
城山の南端に大きな松の老木があり、刑部は夜毎忍んで、小少将が垂らした白い布を伝って
城に入り逢瀬を重ねた。
天正元年8月7日の夜、城の大手門から一人の若武者が供を連れて出て行った。
翌朝、見張りの看守が城門の傍に何やら貼り付けてあるのを見つけた。
「今日出でて、明日は帰らぬ旅の道、いづくの土か、われを待つらん」
との歌であった。小少将が若武者に変装して刑部と共に城を出て行ったのである。
二人は夜道を本野原から狐塚、高牟礼の麓まで行くと道に迷う。
この頃、城では小少将が見えないと騒ぎとなり、時久も知る処となる。
「この城に宿直の者はいないか? 城を出ていく者を取り締まる番人はいないのか?
まだ遠くまで行くまい。一刻も早く天長寺へ行き、和尚に足止めの秘法を頼んで来い」
と、怒気も荒く命じた。天長寺は厳命であるからと秘法を修めた。
その頃、小少将は六石原を出て七折集落の一軒家の農家へ辿り着き、
「我々は福山寺まで行く者で御座る。夜道に迷い難儀しておる。人目につかぬ所で
休ませてもらいたい」と頼み、幾らか所持金を与えた。百姓は二人を匿ったが、
怪しいと思い城へ知らせる。
城中には小杉・川上・中馬・土持らが詰所にいたところへ百姓から報せが入り、
300騎が刑部召し取りに動いた。
天長寺の和尚は秘法が刑部の為のものと知ると、
「しまった、刑部であれば逃してやるところであった」と悔やみ、300騎が向かう後ろから
牛の背に跨り桜の枝を鞭に後を追った。
小少将らは怪しい気配を察し、自害しようと考える。
小少将は既に身籠っており、刑部は「お前は女の身なれば、よもや殺されなどすまい。
どうか無事に生きて、身二つとなり我が児を育て上げてくれ」と言ったが、
小少将は「ここまで連れ立って供をし、なんぞ城へ帰れましょう。
釣れない御言葉とも存じまする。今更、生まれ故郷の飯野に帰っても頼る人とておりませぬ。
さぁ早く殺して下さい」と縋りつく。追手は既に迫っており、二人は共に自害して果てた。
刑部29歳、小少将19歳という。
二人の墓は財部町七村集落の一番高い丘に立つ。
0975人間七七四年
2014/08/20(水) 09:35:31.63ID:kJkEoFmT0976人間七七四年
2014/08/20(水) 19:37:43.80ID:a3Tp0PIT囲っていたが、さらに都と堺の市民と役人たちの、未婚の娘および未亡人を全て連行してくるように
命じた。そして容姿の美しいものは、殆ど残らず関白のもとに連行された、
時に、この憐れむべき暴君は、既に60の齢を過ぎていた。しかも彼は、連行してきた女達をすべて城に
留めておくのではなく、1日か2日経てば彼女らの家に帰らせ、そのうちひどく気に召したものだけを
長く引き留めておいた。
関白は、妾の一人が病気になった折、彼女が自分の家に戻って療養することを許し、その費用として
銀では44タイス、ないしクルザードにあたる黄金1枚を与えた。
同女は病気が瘉えると、既に関白は自由行動を許したものと思っていたので、ある僧侶に嫁ぎ一子をもうけた。
彼女は気軽に考えて関白に会いに行き、関白が下(九州)を訪れたことについて挨拶した。
関白が、彼女が今どこにいるのかと尋ねたとの対して、「結婚している」と答えたのを聞くと
烈火のように怒り、彼女とその夫を捕らえさせ、腰まで地に埋め、両名を一本の柱に縛り付けて
恐るべき苦痛を嘗めさせ、三日間にわたり、竹製の鋸で徐々に彼らの首を斬るようにと命じた。
だがその方法では殺せないことが解ると、斬首させ、さらにその子供と乳母、及び女の母親をも
火刑に処したのである。
(ルイス・フロイス『日本史』)
0977人間七七四年
2014/08/20(水) 19:55:44.57ID:qj9ciXK5この詳しいバージョンか、それともフロイスとは別に日本の記録があるのか気になる
(フロイスのことだからどこまで盛ってるのかわからんし)
0980人間七七四年
2014/08/21(木) 09:20:59.23ID:Xs688Zd70981sc→net未反映分のコピー
2014/08/21(木) 23:50:07.86ID:wxSgOPL/山形義光(最上義光)が八ツ沼城を攻めた折り、地の利の不案内と急ないくさの準備不足もあり、緒戦で八ツ沼城の幾志美作(貴志美作)の精兵150に、山形兵500が不意を突かれ四度路(しどろ、木っ端みじん)に崩されかけた
先手にいた義光は少しも引かず「いひ甲斐なき者哉(だらしない)、付入にせよ(者共突っ込め)、返せ返せ(引くな引くな)」と命令したが、貴志勢に向かってとって返し戦う者は少なく、義光の馬廻や旗本も疎らに(少なく)なってしまった
その時八ツ沼の勇士飯沼源八が義光を討つ好機と見て
大薙刀を打ち振り、義光目掛けて馬を走らせて来た
義光はにっこりと打ち笑い「剛の者よくぞ懸かって来られた」と愛用の鉄砕棒を構えると
真っ向微塵に撲り倒した
義光の近習の山辺六郎が義光が撃ち倒した源八の首級を掻き落とすと
義光は鉄棒に首を刺して「おん敵討ち取ったり」と雄叫びを挙げた
この勢いに畏れをなした貴志勢は動揺を隠せない様でだったが、そこに氏江尾張(氏家守棟)なる老将が20〜30騎ばかりの兵を急ぎ寄せ
義光をはたと睨みつけ「このクソたわけ!大将自らが進んで雑兵と斬り結ぶとは何事哉」と泪ながらに訴えた
「奥羽永慶軍記」
討たれた八ツ沼の兵にも名前があったのと
「最上記」とはややも細部の異なる八ツ沼攻めの一幕。
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2014/08/22(金) 00:23:14.55ID:k/wP8bZN天正18(1590)年、小田原平定が成ると最上義光は太閤秀吉から「わ主(お主)のところに野邊澤(延沢満延)といった剛の者がおるじゃろ。是非ゆっくり会うてみたいものじゃ。上洛の折りに同道させよ」との命を受けた
京には諸侯が同様に腕利きの家臣を連れて来ていたが、武勇で知られた満延の下には入れ替わり立ち代わり、様々な大名家から「是非にいくさの話を聞きたい」「武辺の満延殿と親交を深めたい」と宴への誘いが連日の様にあった
義光も満延も特に断る理由を持たなかったために
諸将との交歓を行った
夜分遅く京の最上屋敷に従者に抱えられる様に帰る、赤ら顔の見なりの高そうな武将(満延か?)の姿があったと伝承が残る
秀吉へのお目見えも無事済み、京で新年(1591年)を迎えた最上義光は従四位下侍従に叙せられ、一旦出羽へと帰国する運びとなった矢先に満延が倒れた
半身不随となり、呂律も上手く廻らない満延を義光は大変不安に思い「ゆっくり養生せよ。又五郎(満延の息子)の事は心配せずに任せよ。無理はせず、身体が治ってから山形に戻って来よ」と多額の薬代と当座の生活費と治療費、それに旅費を屋敷に残る満延の郎党に渡した
義光が京を離れしばらくし、満延は回復する事なくこの世を去った
享年48、脳溢血と伝えられている
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2014/08/22(金) 00:27:11.06ID:k/wP8bZN慶長19(1614)年に最上義光が没すると、江戸で徳川秀忠の近習をしていた最上家親が帰国しその遺領を継いだが、国元から長く離れていたために在国の重臣らとは意思の疎通が噛み合わない部分が少なからずあった
鶴ヶ岡城の侍大将であった一栗高春も家親とは馬が合わず、酒田を治める亀ヶ崎城の志村光惟(志村光安の息子)を訪ね
「家親様よりは舎弟の清水義親さまの方が我らが最上家の当主として押しいただくべき方ではなかろうか?」と腹の内を打ち明けたが
光惟は高春に「徳川の治世が定まった今、徳川家に覚えめでたき家親さまをこのままみなで支えていくべきでしょう」と諌めた
しかし日がな家親の政事は義光のやり方に倣わぬ部分があり、些細な事で処罰をされる郎党が増えるに至り
大事を光惟に漏らした高春は「家親の耳に反意が入れば、わしとてただでは済まぬだろう」と危惧を強めた
同年6月、故・最上義光の弟である楯岡光直が内陸から庄内に来るのに合わせ、宴の企画がなされた
高春は寶客警護と称して武装させた兵を鶴ヶ岡城に数十人配し、宴もたけなわの時を見計らい
「かねて諸将にお話いたしました清水義親さまを仰ぐ儀のご返事を、この場で改めて頂戴できませぬでしょうか」と申し出た
志村光惟「楯岡光直さまも見えられてるのに、そちはまだその様な事を言うのか?」
下秀実(下吉忠の息子。吉忠の隠居により跡を継ぎ尾浦城主)「宴の席で切り出す話でなかろう」
高春「同心頂けぬのであれば御免!」
光惟と秀実が高春によって斬られた
(つづく)
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2014/08/22(金) 00:28:24.50ID:k/wP8bZN新関久正「兵部(高春)!貴様乱心したか!?」
高春「新関さまこそかねては親身に話を聞いてくだされたのは偽りでござれたか?」
久正「多少の蟠(わだかま)りがないとは言えないまでも、そちのやっている事は謀叛でしかないわ!」
この一喝で鶴ヶ岡城にいた侍たちがすわ大事(事件)かとわらわらと集まって来た
高春はどうにか城外に逃れたが、追っ手は増すばかり
添川の淵に達した所で天命を悟った高春は自刃して果てた
高春に最期まで従った者は40名ほどであったという
この乱により清水義親を最上家の当主に擁立しようと考える家臣の存在を知った最上家親は
大阪の豊臣征伐を控える大変な時期に少しでも後顧の憂いを減らそうと
清水城攻撃を発令した
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2014/08/22(金) 00:53:24.25ID:k/wP8bZN島津豊久は関ヶ原の退き口で島津義弘を逃すために身替わりとなり、井伊隊や福島隊を相手に討ち死にを遂げた
江戸中期になって島津家中の者が江戸の古道具屋で槍傷の多々遺る、島津紋の装飾の入った紫糸威胴を見つけ、これを買い上げ、薩摩に持ち帰った
関ヶ原の里人が打ち捨てられていた豊久公の遺骸から剥ぎ取った鎧が
流れに流れて江戸の古道具屋に並んだのだろうと目された
−これが世に知られる豊久の鎧の話であるが
近年その話に疑問が投げかけられた
「本藩人物誌」によれば豊久を討ち取ったのは福島勢の笠原藤左衛門といった者で、豊久の遺骸から甲冑を奪い、甲冑は笠原家に伝わっていたとされる
時代が経ち、笠原の子孫がその豊久の鎧を江戸後期の永吉島津家当主・久芳に安永6(1777)年に譲渡し、鎧は九州の天昌寺に納められたと伝わっている
「永吉島津家文書」
豊久の鎧とされる槍傷の紫糸の胴は
果たして誰のものだったのだろう?
島津義弘の身替わりとなって壮烈に討ち死にをした家中のものとは想像されるものの
持ち主のはっきりしなくなってしまった鎧のちょっと悪い話
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2014/08/22(金) 01:52:06.33ID:k/wP8bZN豊久ヲ追取込メ十方ヨリ突掛リ鎗七八本ニテ六七度鎗玉ニ上リ見ルガ内ニ豊久猩々緋ノ羽織散々ニ裂テ飛散リ
首ハ筑前中納言秀秋ノ先手ニ進ミケル小田原浪人笠原藤左衛門之ヲ取ル
豊久ノ旗下勇士十三騎モ又大ニ戦ヒ豊久ノ前後ニ枕ヲ並テ打死ス
豊久打死ノ次第ヲ以テ此時敵味方共ニ戦ノ烈シキヲ知ルベシ
「関原合戦進退秘訣」
笠原の属した家中も史料によって様々
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2014/08/22(金) 01:58:45.13ID:k/wP8bZNしばらく前の事、神奈川県に在住の旧伊達家家臣の末裔の方が青葉城資料館に寄贈した百通余りの書状の中に、新発見となる最上義守の書状が4通含まれていた事が明らかとなった
書状は隠居した最上義守が伊達家に出したもので
義光に家督を譲ったものの
義守「義光に家督を譲ったのは時期尚早であり誤りだった」
「(天童八楯と揉め事を起こそうとする)義光をおとなしくさせたい」
「言う事を聞かないなら義光を討つのも仕方ない」と、義光にとってはかなり物騒な内容であり
「義光を討つか追放して、最上家の当主に戻りたいから、機会が来たら是非に力(援軍)を貸してほしい」とも書かれていた
実際には、伊達輝宗があまり積極的に最上家の内紛に介入しなかったために、白鳥長久の仲介で最上義光と輝宗との間に休戦約定が結ばれ、義守の家督復権には至らなかった
書状は最上義守が50代、義光が25才頃のものと見られている
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2014/08/22(金) 02:02:46.08ID:k/wP8bZN小田原の役が終わると太閤秀吉は諸大名に命じて妻子を京都の屋敷に住まわせた
遠国の大名の妻子も例外ではなく、羽州の最上義光の夫人のとしよ姫(大崎夫人)も洛中の屋敷に住む事を命じられた
秀吉には悪い噂があり、諸大名の奥方に地方の珍しい話を聞きたいと登城を命じては、権力をかさに伽を申しつけるといった話があった
武装をして秀吉の前に進み出て、度肝を抜いた九州の姫君もいたという
最上義光「…そういう風聞があるとは言え、なにか事前に一言でも相談をしてくれれば良かったのだが…」
としよ姫「髪を下ろした尼に手を出そうとする物好きはおりますまい?その様な畜生がいたら天罰が降りましょう」
最上義光「夫も知らぬ間に妻に尼になられるというのも、結構心臓に悪いぞ?」
最上義光はとしよ姫の待女についていた谷柏直家の娘が利発で美しい事から、としよ姫の身代わりに仕立てて秀吉からの招きに合わせて送り出したが
谷柏の娘は義光の年齢に見合わぬ程うら若かったたことから正体がばれ
秀吉に斬りころされたと云う
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2014/08/22(金) 04:17:34.80ID:k/wP8bZN羽陽大梵寺(大宝寺)の城主・藤原駿河(武藤光安)は庄内大山の武藤義氏(大宝寺義氏)の一族の中にあって武威を誇っていた
しかし光安は乱暴なところがあり、大山の義氏には従わず、大宝寺城下で勝手に政事を敷いていた
一方の大宝寺義氏も領民に圧制を強いて「悪屋形」と呼ばれる程評判は良くはなかった
義氏は光安を排除しようとしたが、攻め切るには兵力が足りず、また、大山と大宝寺は近い場所にあったために、義氏派と光安派はあちこちで衝突を繰り返していた
そんなところに兼山の戦いで兵糧攻めにより落ち延びて来た鮭延秀綱らが現れた
鮭延秀綱「庄内では大山の大宝寺義氏の権威が霞むくらいに武藤光安といった者に勢いがあるという」
秀綱は武藤光安を訪ねた
光安「鮭延殿の武功は聞こえ及ぶところ。ゆっくりしていくが良い」
秀綱は光安に仕える事となったが、光安が些細な事で癇癪を起こし、近習や郎党を斬り殺すのを目の当たりにすると
秀綱「噂に聞いていた以上に乱暴な主君だ…
仕える家を間違えたな。
今は後悔しかしていない。
越後に流れて上杉家に仕えるか…
しかしもう少し庄内に留まって土地の倣いを覚えるか」
と志ならず(仕方なしに)滞在を延ばす事となった
「奥羽永慶軍記」
※武藤光安は実在が不確かとされ
また鮭延秀綱は本来最上義光による鮭延城攻めの後に大宝寺義氏を頼った事から
色々と歴史事象との矛盾を含む悪いお話
0990sc→net未反映分のコピー
2014/08/22(金) 07:37:06.53ID:k/wP8bZN口は是禍の門 舌は是禍の根なり とは誠哉
庄内鶴岡酒井御家中衆四五人 加茂浦へ釣に出 其帰り千安河の辺東禅寺右馬頭 草苅虎之助両人討死したる塚の前通る時 一人申しけるは
昔の時 此所千安(十五里ヶ原)合戦の時 草苅虎之助十七歳にて 漢のハンクァイが威を奮い 多くの敵を打ち亡し 其身も討死してカバネは此塚の白骨となれりと 諸人云り
当代ならばかかる冠者は一足も働かせず 則時に可討捕 彼に討れたる越後勢は 定て腰抜け侍たるべし
と大音声に笑ける
言葉の下面色変り狂人と成て 此塚より遥かに馳り通橋の麓に至りどふと伏にける
同道の人々追付見れば 彼人本心失ひ顔色尋常ならず青醒り 漸々介錯して帰りけり
其後大病に煩ひける時語りけるは
我千安川の辺にて草苅虎之助を嘲弄致しける時 カレが塚の中より虎之助と覚しき若侍出現れ 其いかれる顔色すさまじく 紺色威の鎧を着し 鹿毛の馬に乗り 鉄砲提げ 兜の鉢を輝し 我を目掛けて追来る間 怖く思ひ逃しが
後より鉄砲にて打れし時 我伏たりと夢のごとくに覚る
と云り
実にも彼が云ごとく背黒血染みたる鉄砲玉の跡有とかや
虎之助のカバネは土中に埋ると云へ共 亡魂つきず繁念無量功末代に亡威を遺せり
『奥羽軍談』
0991sc→net未反映分のコピー
2014/08/22(金) 08:30:20.62ID:k/wP8bZN久慈川には鮭が遡上し、石神領と額田領で秋月の半々を折半し、漁をする決まりが約定されていた
しかし天正4(1576)年の額田領ではほとんど鮭が獲れず、これをおかしいと感じた額田の民らが川を調べたところ、石上領側が川底に網を仕掛け、約定を無視し、鮭を獲りまくっていたことがわかった
額田領主・額田照通は石神領主・石神通長に文句を付けたが石神通長はのうのうと無視
さらに石神通長は「言い掛かりで武士の体面を汚された」と、額田氏にいやがらせを続けた
ある日額田照通が佐竹義重を饗応する際に、家の子二人に久慈湊に鮮魚を買出しに行かせたが、この二人が使いの帰りに石神領を通る際にいざこざに巻き込まれ、斬首にされた
額田城では、使いに出した者が帰って来ず、料理の準備が間に合わず、来訪していた佐竹義重を大いに怒らせてしまった
堪忍袋の緒が切れた額田照通は石神城を攻撃
燃え盛る城の中で石神通長は自害して果てた
『石神後鑑記』
0992人間七七四年
2014/08/22(金) 08:40:22.71ID:k/wP8bZN4月の2ちゃんねる騒動でnet(従来の2ちゃんねる)とsc(ひろゆきサイト)を混同したまま、時折sc側からも話の投下やコメントをしておりました
連投になりましたが、現行スレで自分が投下した逸話についてはこれでおおよそ従来の2ちゃんねるに移行が終わりました
(コメントについては時期外れのものや他の方のコメントもありますのでコピー&ペーストは行いません)
まとめ管理人様・サイト利用のみなさまにはご迷惑をお掛け致します
0993人間七七四年
2014/08/22(金) 08:48:11.42ID:aY3me86z引っかかる奴ホントにいたんだw
0995人間七七四年
2014/08/22(金) 09:07:50.14ID:+ShZ5FQXと思っていたらそういうことか
0996人間七七四年
2014/08/22(金) 09:39:48.11ID:+ShZ5FQX下総でも獲れる
九十九里からだったか香取海からだったかは忘れたが上がってきていたようだ
小さい頃に父親の田舎の秋祭りで炭のようになった鮭を風邪予防だといって食わされたのを覚えてる
0997人間七七四年
2014/08/22(金) 10:13:59.39ID:/2QViTit0998人間七七四年
2014/08/22(金) 12:49:24.17ID:fr01M5PT戦国ちょっと悪い話40
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1408672111/
1000人間七七四年
2014/08/22(金) 13:19:58.74ID:aY3me86z10011001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
l { .、 /
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