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秀吉はどうして家康を生存中に滅ぼせなかったのか?

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0001人間七七四年2014/04/05(土) 21:51:31.75ID:oD/Eohea
いま、井沢元彦の『逆説の日本史11 戦国乱世編 - 朝鮮出兵と秀吉の謎』読んでるんですけど、
そのなかで以下に秀吉が家康に気を使ったか(妹を嫁にやったり、母親を人質に差し出したり)
書いてありました。

そこで素朴な疑問なんですが、小田原城を20万の大軍で攻めた秀吉なら生存中に徳川家を
滅ぼすことも可能だったと思います。
逆説の日本史には、小牧・長久手の戦いで負けたから、野戦では手が出せないと書いてありましたが、
あれは家康が勝負運に恵まれただけで、後に再戦を挑めば秀吉が余裕勝ちだったんじゃないでしょうか?

どうして、秀吉は家康を滅ぼさなかったんでしょうか?
何か理由があったんでしょうか?
0270人間七七四年2014/04/17(木) 19:55:37.89ID:2x3NVR4R
は?お前のバイアスを意図的どうこうが妄想だっつってんだろうがアホが
0271人間七七四年2014/04/17(木) 19:56:11.18ID:jGWxgMq+
このスレで垂れ流される秀吉厨のバイアスのかかった妄想集

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/1
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/89
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/130
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/158

それに対する歴史的事例や、根拠となる史料や事例をあげての具体的な反論
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/4-11
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/14-53
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/55-57
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/59-67
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/69-76
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/78-88
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/90-115


秀吉厨のなんら根拠のない妄想に比べ、反論レスには全て論拠となる事例や史料や根拠などが詳細に述べられているため
どうみても反論側の勝ち。

よって「読むに絶えない文章」は秀吉厨が垂れ流す馬鹿な妄想で確定。
0272人間七七四年2014/04/17(木) 20:22:07.61ID:yTZBRu7z
秀吉厨のバイアスがかった馬鹿な妄想「秀吉軍は烏合の衆だったから負けた」「秀吉は家臣が必死に戦ってくれなかった」

秀吉の小牧長久手の敗因が寄せ集めの大軍だからとか言い訳もいい所だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵

丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
0273人間七七四年2014/04/17(木) 20:23:03.03ID:yTZBRu7z
秀吉厨のバイアスがかったアホ妄想

>>秀吉は、人柄で天下を獲った男で、それゆえに、本気で秀吉に着いて行く家臣がいなかった。

秀吉の小牧長久手時は羽柴軍は相当強固な権限を秀吉が握ってた。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。

寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ

秀吉は譜代いまくりだよ。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。


秀吉方陣営からは誰も寝返りが出てないし、最も外様に近い池田も森も清洲会議時点でハッキリとした主従関係が出来てる



>>逆に、家康には、命を変えても、自分を守ってくれる家臣が多くいた。

家康方は譜代の石川までこの頃既に離反しかけてるのが6月の秀吉→石川書状でわかるし、連れてた家臣なんてほとんど外様みたいなもんだろ。
木曽も小笠原も真田も石川も水野もあっさり家康から寝返ってるし
信雄からは伊勢でも美濃でも尾張でも会戦早々寝返りが出まくってる。
0274人間七七四年2014/04/17(木) 20:23:54.47ID:yTZBRu7z
古くからの言うことを聞かない家臣達に振り回された家康や信雄に比べて秀吉は下記のように子飼いの家臣ばかり持て、邪魔な言うこと聞かない譜代家臣がほとんどいなかったから
かなり戦う上で有利だった。
熊見川合戦時点での秀吉家臣団は一門衆が秀長・秀勝・三好義房・浅野長政・杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正・福島・山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
近江衆の木村隼人正・片桐且元・寺沢広政・石田三成・中村一氏・増田長盛・宮部継潤・速水守久・脇坂安治・
長浜衆(伊藤牛助・谷兵介・石川小四郎・藤縣三蔵・田中小十郎など)
他国衆の中川清秀(摂津茨城城主、舎弟)小西行長(堺衆)・黒田孝高(播磨姫路城主)
これとは別に播磨衆と但馬衆に亀井・垣谷などが加わるし相当の規模の軍団だっただろ。これに加えて尼子残党の
上月城でしぶとく敢闘してる尼子義久や山中幸盛らや、同陣している荒木村重らがいるんだから普通に18000程度は余裕でいく。
下手すりゃ22000くらいはいてもおかしくない。蜂須賀前野とか河波衆のリーダー格だからそんなに極端に少ない兵力って事はないだろうし
一方の毛利軍は超遠距離で兵站の問題もあるし、背後の大友はいるし、反旗を翻した鈴木孫右衛門等に備えて清水らを備中に帰国させてるし。
ほぼ互角といった所じゃね。中川や荒木あたりは普通に大身だしな。蜂須賀も尾張時代ですでに2000程度持ってたとされるし
それから主君の秀吉が出世したんだから家臣の蜂須賀も出世してるだろうし。
谷とかも、竹中と同程度の地位だったし。

それにもかかわらず、馬鹿みたいに規格外の兵力で雑魚信雄や輝元に蹴散らされたり
氏政に29万で攻め込んで家臣を殺されまくったり、兵站線を崩壊させられてるのは、秀吉がそういった有利な条件を覆すくらい
アホみたいに戦べただっただけ。
0275人間七七四年2014/04/17(木) 20:57:08.53ID:AUFU3cT3
270
どのレスがその主張を示しているんだい?
0276人間七七四年2014/04/17(木) 21:01:51.04ID:2x3NVR4R
>>275
>>263
0277人間七七四年2014/04/17(木) 22:33:48.98ID:7WJsW04B
菅沼遼太のファビョりっぷりw

いつもの返答期待してるよw
自称関係のない人が、なぜか菅沼遼太に反応して返答するいつものアレw
0278人間七七四年2014/04/17(木) 22:44:26.71ID:RTRUfQ0M
下記のワードが出てきたら、織田厨が論破されてる指標。

「菅沼」「だが」「長文」「コピペ」「珍説」
0279人間七七四年2014/04/17(木) 22:48:05.56ID:Xz2h5BR6
まともに反論できないので答えに窮して他の事に摩り替えてるって事だからね。
議論の勝敗は火をみるより明らかなので、他にすり替えないと、自尊心も保つことのできないアホ
0280人間七七四年2014/04/17(木) 22:48:46.09ID:il+s3mYm
織田厨が論破されていつもの如く泣き言と負け惜しみを垂れ流してるね
0281人間七七四年2014/04/18(金) 04:52:14.62ID:gTnnJn3Q
276
それがお前が日本語読めてない際たるレスなんだよ
0282人間七七四年2014/04/18(金) 08:39:48.80ID:smYYjBn/
期待通りの返答キターw
菅沼菅沼言われても普通の人なら無視できるんだよねー
なんせ「菅沼遼太」と関係ない人なら、他人からどういわれようが知ったこっちゃないしw
0283人間七七四年2014/04/18(金) 09:30:09.18ID:pUN5ClM8
>>281
は?
お前のバイアスがかった解釈だの読むに耐えない武将だのが、お前の妄想だっつんってんだろがアホが。
0284人間七七四年2014/04/18(金) 09:33:45.31ID:Ux4BrYAM
秀吉厨の読むに耐えない妄想集

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/1
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/89
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/130
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/158
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/199
それに対する歴史的事例や、根拠となる史料や事例をあげての具体的な反論
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/4-11
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/14-53
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/55-57
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/59-67
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/69-76
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/78-88
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/90-115
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/272-274

秀吉厨のなんら根拠のない妄想に比べ、反論レスには全て論拠となる事例や史料や根拠などが詳細に述べられているため
どうみても反論側の勝ち。

よって「読むに絶えない文章」は秀吉厨が垂れ流す馬鹿な妄想で確定。
0285人間七七四年2014/04/18(金) 09:34:26.01ID:wt/Yl9ZA
それ以前に秀吉厨の妄想は司馬小説がソースだから反論する価値すらねーだろ
0286人間七七四年2014/04/18(金) 09:52:21.48ID:+8aD9Hos
ここまでの流れ

>>262 歴史を語る人はバイアスを意図的にかけた解釈をしません
なのでこのコピペは歴史を騙る文章
そして読めないのではなく、読むに絶えない文章というのが正確なところ
扇情的な文句を入れてる時点で読む価値が御座いません
それで出版なりブログで披瀝するなりして意見を聞くといい
きっとお前の言う秀吉厨ばかりになるから

>>263 バイアス?何それ?

>>269 日本語読めてない
>>270 は?お前のバイアスを意図的どうこうが妄想だっつってんだろうがアホが
>>271-273 バイアスがかった解釈してるのは秀吉厨の方
>>275 どこでそんな発言を?
>>276 >>263
横レス>>277   菅沼遼太がファビョってるな
>>281  >276お前が日本語読めてない最たるレス
>>283 >>281は?お前のバイアスどうこうが妄想だっつってんだろうがアホ
>>284   バイアスかかりまくりのアホ妄想主張してるのは秀吉厨の方


 
どっからどうみても秀吉厨が自分のバイアスかかりまくりの妄想垂れ流しを棚に上げて
ちゃんと論拠や歴史事例や史料に基づいた詳細な反論を無視、意図的に司馬小説などバイアスかかりまくった妄想垂れ流してるだけなので
「日本語が読めない馬鹿」は秀吉厨で確定
0287人間七七四年2014/04/18(金) 12:50:35.85ID:K/+6rBAx
このスレで定期的に垂れ流される秀吉厨の馬鹿な妄想リスト


・秀吉の臣下になったのが家康だから家康は秀吉以下
→論破レスhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/417-422
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/296-297


・家康は秀吉に養子を差し出したから小牧長久手は秀吉の勝ち
→論破レスhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/378-380
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/386
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/390-395
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/354-362


・家康が差し出した秀康は養子ではなく人質
→論破レス
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/233-236

・秀吉が生きてた間は家康は秀吉に勝てなかった。
→論破レス
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/365-366
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1290868544/186-199
0288人間七七四年2014/04/18(金) 12:51:11.98ID:K/+6rBAx
秀吉厨を論破しまくったレス集
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/388-400
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/402-406
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/488-411
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/415-428
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/430-434

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/287
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/289
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/291
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/294-296
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/298
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/300-304
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/306-309
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/311-313
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/317-324
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/327-329

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/332-340
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/344-346
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/348-350
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/355-357
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/359-371
0289人間七七四年2014/04/18(金) 13:49:27.03ID:pUN5ClM8
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/85-97
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/98-107
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/128-137
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/l44-157

悉く打ち砕かれた秀吉厨のアホ妄想
0290人間七七四年2014/04/18(金) 16:04:22.98ID:vBnPef2X
秀吉厨は知能が著しく劣る生き物だな
0291人間七七四年2014/04/18(金) 20:09:59.08ID:gTnnJn3Q
286
な?
論理的説明が出来て無いだろ?
列挙してどっからどう見てもといえば説明した気になってるあたり、足りないのは公平な視点だけじゃ無いみたいだな
0292人間七七四年2014/04/18(金) 21:37:42.55ID:a2P2mEW3
論理的説明>>286
論理もクソもないただの感想文>>291>>262>>281
0293人間七七四年2014/04/18(金) 21:41:25.71ID:9bWUlNKS
論理=理屈の筋道・つながり。
よって>>291>>262>>281はそれらがないのでただの妄想
>>284-289は一応論拠となる歴史上の事績や史料など一応挙がっているし、理由も細かく述べられてるので
まだ論理的。
0294人間七七四年2014/04/18(金) 21:42:39.74ID:9bWUlNKS
そもそも秀吉厨からはろくな史料が出た試しがないからな。
ソースは司馬小説だと吐露してるくらい低脳だし。
0295人間七七四年2014/04/19(土) 07:19:31.17ID:CuuPC+Y8
ほんとお前は説明って言うのができないな
0296人間七七四年2014/04/19(土) 07:21:48.53ID:C/70gLV/
説明は詳細にされてるが、それを理解するお前の脳味噌が足りないだけ。
0297人間七七四年2014/04/19(土) 07:33:10.82ID:jpppF+EB
秀吉厨は説明なんかした事がないからね。
史料・論拠・歴史的事例の詳細な説明。秀吉厨はそれらの物を詳細に使って説明は
一度も行ったことのはない何回も論破された妄想垂れ流すだけのアホ
0298人間七七四年2014/04/19(土) 22:35:58.84ID:CuuPC+Y8
「どうみても」が説明か
それで論文かけりゃ苦労しねえよ
0299人間七七四年2014/04/19(土) 23:02:46.53ID:hYoQeUhL
>>298
は?馬鹿かお前。
どうみても以外の部分もちゃんと読んでみろよクズ
0300人間七七四年2014/04/19(土) 23:04:43.47ID:/+0OEEbT
つか「どうみても」って修飾語なんだから
別に外して読んでも意味はわからんだろうが。
重要なのはそれ以外の部分の説明なのに
そこには一切触れず
どうでもいい「どうみても」なんて部分に突っ込んでる時点で秀吉厨は馬鹿すぎる
0301人間七七四年2014/04/19(土) 23:05:49.35ID:M/Oc8sq5
秀吉厨は自分でろくな説明は行った事もないし
司馬小説くらいしかソースはないただの妄想アホだが
人の詳細の説明にはケチをつけるただのゴミクズ
0302人間七七四年2014/04/19(土) 23:12:27.79ID:cZMpIsgE
秀吉厨は何回論破されようが、何回テンプレ張られようが一切無視。
日本語通じないただのカセットテープクズ
0303人間七七四年2014/04/20(日) 09:00:03.13ID:NxTFFfNX
では286のどこが説明か抜き書きしてみなさい
0304人間七七四年2014/04/20(日) 12:02:50.77ID:EUGrjRHX
>>281のアホレスに対して
>>262-284でのレスを流れにしてまとめてるから十分説明
0305人間七七四年2014/04/20(日) 23:23:53.06ID:NxTFFfNX
羅列が説明か
お粗末な論文しか読んだこと無いんだな
0306人間七七四年2014/04/20(日) 23:28:14.77ID:4QR7r5bc
そら詳細な説明になれば時列の羅列になるのは当たり前だろ。
論文でも時系列データベースとか綱文とか日付年表とか細かく作成されてるものも結構あるし
0307人間七七四年2014/04/21(月) 23:30:04.94ID:kSN3341/
当たり前で説明から逃げないでね
データベースやらの目的は論述じゃないんだよ
今後の研究の利便性向上が目的
0308人間七七四年2014/04/21(月) 23:37:09.91ID:kMUqT6hy
事例の羅列は、説明の上で欠かせない証明。
それ抜きに歴史の事例を語るのは、無理。
歴史とは出来事が何個も何万個も重なって起きるものだからな。
0309人間七七四年2014/04/22(火) 09:35:26.93ID:wpT8t+wT
朝鮮出兵くらいはさせればよかったのにな
名護屋まで行ったのだから渡海させればよい
江戸から遠征させれば、徳川もかなり消耗したただろう
0310人間七七四年2014/04/22(火) 10:29:25.88ID:d34D/cZC
そもそも家康を潰す気がなかったのでは、秀吉は。
0311人間七七四年2014/04/22(火) 10:58:09.39ID:iB90GJUf
>>310

>>4-27
0312人間七七四年2014/04/22(火) 11:02:38.93ID:e39+rv5j
>>310

>>40-41
0313人間七七四年2014/04/22(火) 11:35:02.92ID:NsqSGNXZ
秀吉は下記のように天正13年にも徳川出兵計画練りまくってて、しかしその直前の天正14年1月末になるとびびりまくって中止してるくらいだったからね。
天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い さらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に
散々計画を書いてたが、 いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、母や妹を差し出して戦いを避けてる。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石やチート官位と秀吉外戚の地位まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0314人間七七四年2014/04/22(火) 13:12:50.91ID:AvOJ2foQ
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た他力本願で漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる
0315人間七七四年2014/04/22(火) 15:15:58.26ID:vtMS2uDP
野戦下手な秀吉に家康に勝てる要素ないやん
0316人間七七四年2014/04/22(火) 15:16:37.89ID:rg+N2DJn
実際に戦闘ふかっけて135000で主力決戦挑んで雑魚の信雄に大敗して家康を滅ぼすどころじゃなくなったし
家康を滅ぼす気満々だったことが諸資料で伺えるのに
家康を滅ぼす気がなかっただの馬鹿なバイアスがかった解釈するのが妄想秀吉厨クオリティ
0317人間七七四年2014/04/22(火) 17:34:52.11ID:Iio0ZD48
秀よりは滅ぼされる直前、
なぜ親父はコイツを滅ぼしといてくれなかったんだと
恨んだだろうね
0318人間七七四年2014/04/22(火) 17:54:31.31ID:ClXtK8mD
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
0319人間七七四年2014/04/22(火) 17:55:11.32ID:kxjqIA3A
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
0320人間七七四年2014/04/22(火) 17:56:00.31ID:ClXtK8mD
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、おとなしくしてやっただけ。
0321人間七七四年2014/04/22(火) 19:15:23.70ID:A50xvoY3
ちょっと何言ってるか分からない
0322人間七七四年2014/04/22(火) 19:52:20.25ID:XUiSoici
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0323人間七七四年2014/04/23(水) 00:09:47.92ID:I0n9WJhL
308
説明のために事実をられつするのはあるよ
問題はその羅列だけで説明と言い張っている点
0324人間七七四年2014/04/23(水) 07:16:30.83ID:3EZ2+O/0
秀吉って参謀で天下獲れたよね
竹中、黒田いなかったら部将で終わってただろ
0325人間七七四年2014/04/23(水) 08:29:29.30ID:uHtarG9K
事実の羅列だけで終わってるというならそのレスを抽出してみなさい
全て説明と事実の羅列とセットになってるから。
0326人間七七四年2014/04/23(水) 08:50:11.20ID:3vRpKrOk
秀吉は本能寺の変というチート棚ボタがあったし、信忠や信長が殺されたり光秀が逆賊の汚名勝手に負ってくれたり
信雄と信孝がいがみあっていたり基地外のようなヌルゲーしか残ってなかったからな
本能寺の変で信長が光秀に殺されて光秀が逆賊の汚名負ってくれたおかげで、主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的にいただいたあげく
摂津の諸侯や丹羽や信孝などをはじめ馬鹿みたいに味方が集まってくれたし清洲会議でも大きく優位になって領土を獲得してる。
あげく信雄と信孝も勝手にやりあってくれてたし、勝豊も美濃衆も会戦前くらいであっさり寝返ってたくらい、柴田側は統制が崩壊してたし、
会戦になると前田や不和や金森まで勝手に退却してくれるし、周辺諸大名も毛利上杉木曽小笠原宇喜多大友佐竹結城宇都宮那須皆川佐野真田芦名二階堂
白川結城石川岩城相馬河野十河など悉く秀吉に味方してくれたおかげで、秀吉は他力本願でヌルゲーの誰でも勝てる戦いができただけ。
しかもそんな今川氏真が指揮をとっても楽勝で勝てそうなヌルゲーの戦いですら小牧長久手合戦や熊見川合戦や小田原合戦など家臣をぶち殺されまくったり
300しかいない馬鹿な雑魚城攻めでろくに落せなかったりしてる。
0327人間七七四年2014/04/23(水) 08:50:57.51ID:uHtarG9K
柴田は上杉と交戦が続いてたのに対し秀吉は一応国境画定作業が残ってるとはいえ、
三か国毛利が割譲した上での和議が成立し、宇喜多とも本能寺前から一体化が進められ、もはや親藩的存在だったし
その差でしょ。そもそも単純に国力で見ても、かなりの開きがあるし。
柴田・信孝側からは美濃衆や勝豊などがボロボロ寝返ってるが
秀吉からは寝返りが皆無だし信雄領からも寝返りがなかったことから見ても
信雄よりも信孝領は遥かに不安定な状態だっただろうし。

そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
0328人間七七四年2014/04/23(水) 08:53:23.34ID:n77IarPu
秀吉は10日かけて200キロを走破しただけで「大返し」なんて大袈裟な誇張のつく芸当なんてやってないし
柴田も信雄も信孝も丹羽も池田も中川も細川筒井滝川など、明智軍12000程度以外全て敵。
最初から明智単体での謀反なら成功するはずのない愚かな芸当としかいいようがないわけ。
秀吉はその当時で長浜播磨但馬因幡備前美作備中淡路とすでに200万石級の大大名(宇喜多は直家死後幼君になって
秀家を擁する秀吉との一体化が一層進められていた)
さらに摂津の諸将も秀吉が光秀との織田家中での政争勝利から秀吉方軍閥で、中川なんか天正8年時点で兄弟の契り結んでる
大返しなんていわれるほどの大袈裟な芸当やってないし、軌跡の3年なんて事も全くやってない。ただ織田家が、光秀に当主と嫡男を殺されたせいで無主状態になった所を
主君を殺した敵打ちの大義名分と三法師の後見役という立場を利用して織田旧臣たちを味方につけるなど火事場ドロしただけ。
0329人間七七四年2014/04/23(水) 21:35:54.14ID:zTjFZduv
まーた発作かよお薬増やしてもらえ
0330人間七七四年2014/04/24(木) 23:09:51.47ID:2B4Wltkw
長文バカよ、せめて同じスレッド内で一言半句違わないレス、コピペ引用したきゃレスアンカ使えよ
アンカーの使い方分かるか?
>>(←コレ)付けてお前が引用したいレス番号を書けよ

まったく同じ10行レス連続でコピられると単純に読み難いんだよ
しかも文面は他所で何回も見たヤツな。2回も読めばもーええわ、ってなるっちゅうの


いけ沼君だっけ? 長文連投すんならせめて新しいのを書いてくれよ
0331人間七七四年2014/04/24(木) 23:55:20.82ID:BPl2PWqi
お前が何回も反論無視して妄想垂れ流してるから
同じ反論がコピペとして貼られる事に気付けよアホ
0332人間七七四年2014/04/24(木) 23:56:10.59ID:X6z61BUN
秀吉厨は何回論破されようが、何回テンプレ張られようが一切無視。
日本語通じないただのカセットテープクズ
0333人間七七四年2014/04/25(金) 08:05:44.87ID:yqpLlIc0
何回も同じ話題繰り返すのは時間の無駄。
コピペで済む話だからコピペが何回も張られてる事に気づけ。
0334人間七七四年2014/04/25(金) 13:48:13.80ID:jGqw+LMj
何のためのアンカーだっつうことだろ
0335人間七七四年2014/04/25(金) 14:01:52.13ID:3JP7VMM9
アンカー引用しようが
アホ秀吉厨は無視して妄想垂れ流すだけだろ
コピペならいやでも目に入らざるをえなくなる
0336人間七七四年2014/04/25(金) 20:20:54.27ID:dgAHqN2f
>コピペならいやでも目に入らざるをえなくなる(キリッ

じゃねーよ。読みづらいっつってんだよ
NGぶっ込むのも長文スクロールすんのも面倒臭せえっつーの


俺は特定大名家に贔屓ないから、秀吉でも織田家でも武田家でもいいから
新着の書き込み読んでニヤニヤしたいだけだっつーの

糞コピペでスレ爆撃されると、初めて読む書き込みまで流してまうから止めろっつてんだよ、池沼糞チョン
0337人間七七四年2014/04/25(金) 22:24:11.13ID:ViL4jT46
お前が何回も反論無視して妄想垂れ流してるから
同じ反論がコピペとして貼られる事に気付けよアホ
0338人間七七四年2014/04/25(金) 22:24:35.08ID:NXdB4giS
秀吉厨は何回論破されようが、何回テンプレ張られようが一切無視。
日本語通じないただのカセットテープクズ
0339人間七七四年2014/04/25(金) 23:51:04.35ID:fr46qBlu
>>336
ニヤニヤしてもらえるだろうか?
秀吉が存命中に徳川を滅ぼせなかったのは、それをすると危機感をつのらせた外様大名の結託と一斉蜂起を引き起こしかねないから。
もともと秀吉の政権は諸大名のバランスの上に乗った、やや不安定なものであり、例え徳川を滅ぼせたとしても他の大名が次の徳川になるだけのことであった。
ならば律儀者と評判を取っている家康に豊臣政権と秀頼の後ろ楯になってもらった方が良い。
その結果、徳川が鎌倉幕府における北条執権のような存在になるのはやむなしと認める。
この辺りが秀吉の思考ではあるまいか?

我々は武家政権というと徳川幕府のような比較的統制力の強い政権を思いがちであるが、
秀吉の時代までにそのような強力な政権は日本に誕生しておらず、
秀吉が、皮肉なことに豊臣の一族を始末することによって家康がそれを誕生させることに気付けなかったとしても、一概に秀吉を愚かであったとするにはあたらないことだと思う。
0340人間七七四年2014/04/26(土) 00:49:22.33ID:dMK/KdRK
秀吉は譜代いまくりでしょ

尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や、秀吉子飼い系の福島加藤など尾張衆に加え長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見による領国崩壊で
めちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
つうか外様系でも宇喜多なんてもう直家が死んだ時点で秀吉領との一体化が進められてたし
毛利や上杉も、最初から秀吉に敵対せずに協力した時点で家康よりも遥かに豊臣に忠義的。
僅かな期間で築いたとか書いてるけどそれは別に徳川も織田も細川も三好も大内も何も変わらんからいいわけにならん
織田に仕えてる時点での秀吉は家じゃないのかって話だし

秀吉家臣団は長浜時代でいうと一門衆が秀長秀勝三好義房浅野長政杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正福島山内蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末伊藤秀盛・尾藤知宣。
これに近江衆と他国衆が加わる感じかな。
0341人間七七四年2014/04/26(土) 00:50:28.81ID:dMK/KdRK
傀儡化した大名権力と、言う事を聞かず専横しまくる家臣という腐りきった支配構造を抱えた守護大名とかと違って
秀吉は言う事を聞かず邪魔になるような先代からの旧臣とかがいなかったから
その分自分の都合よく動かせるよく言う事を聞く好きな家臣を生え抜きの叩き上げで育成できたからね。
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
0342人間七七四年2014/04/26(土) 00:51:32.13ID:dMK/KdRK
本能寺の変後の秀吉軍は軍閥化が進んでいて委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて
逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるし陣立書の導入により今までのような一揆的秩序の貫徹する
軍隊内部に 命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている
叩き上げ武将達が悉く豊臣家を見捨てて家康に篭絡され
前田や浅野が家康の示威行動に対してビビって即効ヘタレ土下座し
総大将であり首謀者の毛利輝元が馬鹿すぎて100%かてる状況にもかかわらず
何もできず兵力を分散しまくり大敗したのが、豊臣家衰退の原因。
三成や宇喜多や小西などの恩顧系・親藩系の諸大名はそこそこ頑張ってたが
前田や浅野や毛利や豊臣武功派系などあまりにも情けない馬鹿な大名らが多すぎたのが痛かった。
0343人間七七四年2014/04/26(土) 00:53:13.47ID:tiDx02p4
秀吉は下記のように天正13年にも徳川出兵計画練りまくってて、しかしその直前の天正14年1月末になるとびびりまくって中止してるくらいだったからね。
天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い さらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に
散々計画を書いてたが、 いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、母や妹を差し出して戦いを避けてる。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石やチート官位と秀吉外戚の地位まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0344人間七七四年2014/04/26(土) 00:53:48.21ID:kA6Efybq
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た他力本願で漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる
0345人間七七四年2014/04/26(土) 00:54:19.26ID:kA6Efybq
結局ガチンコ勝負だったら敵軍の8倍〜11倍で攻め込もうが全く勝ち目がないから母や妹まで家康に差し出して
土下座しただけ。
実際に攻め込んだら直接対決で雑魚の信雄相手に135000の大軍で挑みかかってガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
結局それが原因で家康は大版図と秀吉縁戚の地位を得る事となり
豊臣家を楽に継承したんだろ。自力で歯が立たなかったから普通に豊臣家は滅ぼされただけ。
秀吉は必死に家康に土下座して、母や妹を差し出したり関八州260万石やったり高い官位と秀吉縁戚の地位やったりして
気を使いまくってたから、慈悲深く、温情あふれる家康は、秀吉生前中は、おとなしくしてやっただけ。
0346人間七七四年2014/04/26(土) 00:54:50.74ID:tiDx02p4
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
0347人間七七四年2014/04/26(土) 08:59:14.88ID:enPJeXrJ
>>339
レスありがとう

家康と戦った1983年あたりの秀吉は、全方位敵の中、勢いに乗って背伸び状態の不安定な勢力だったから
信長との困難な織徳同盟を守り続けた実績があって、味方に付ければ裏切らない(可能性が高い)家康は、
形だけの臣従でも味方にしたかったんだろうね

その後、完全な臣下にするには時間が足りなかったけど、秀吉存命中の家康は律儀の評判通りで、討伐の理由をつけようがなかった

もし秀吉より先に家康が死んでいれば、遺領相続に口出して徳川家の兄弟重臣で分割(九州辺りの個別国替えとセットで)
相続させる等、勢力弱体化はやったと思うけどね
0348人間七七四年2014/04/26(土) 09:01:24.59ID:enPJeXrJ
>>1
秀吉からすれば、信長配下で中国方面軍司令として毛利だけ相手にし、「他方面の統制は上様お願い」で済んでた時代と違い、
新政権安定の為に、強力な勢力を同時に敵に回す状況は可能な限り回避したかったと思う

結果として、毛利・上杉・徳川を味方に付けて以降の天下統一戦は単独勢力との戦いに専念でき、相手を「征伐」呼ばわり出来る勝ち方が出来た


中央政権が安定し、物量で圧倒かつ各個撃破が可能な(誰がやっても勝てる=戦略的には圧勝)状態で戦えた天下統一戦も
九州(島津)、四国(長宗我部)、関東(北条)等、いずれも局地戦レベルでは決して楽勝ではなかった事を考えると
もし当時、徳川を滅ぼすまで戦ったら、秀吉の時間的・人材的損害は致命傷レベルなんじゃないだろうか
徳川家一家だけ滅ぼせても、天下統一事業は頓挫した可能性すらある

徳川家との殺し合い長期化で、(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦を強いられていたら、
各地で連戦連敗、優秀な配下も討ち死に寝返り続出で、徳川戦にも負ける可能性も出てくる
秀吉勢最精鋭を長期間相手にする徳川も徳川で、秀吉討っても天下には絶対手が届かない所までダメージ受けるだろう。
その後の日本史はどうなっていただろうか
0349人間七七四年2014/04/26(土) 10:29:31.85ID:Io95PwF7
>>家康と戦った1983年あたりの秀吉は、全方位敵の中

当時の秀吉の状況…自領は北は北陸・東は尾張口数郡や美濃ほぼ全域・西は備中まで広範な版図を抱え
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野らを従える。
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野らは、秀吉の要請によって敵方の徳川・長宗我部・北条などと交戦したり長久手に援軍送ったりまでしてる。
北条は関東に釘付けで、出てくる気配なしどころか家康の背後を襲う風聞すらあり、信濃川中島にも挙兵してきたため、
家康は軍のほとんどを領内に残して8000程度しかつれてきてない(当代記など)


>>勢いに乗って背伸び状態の不安定な勢力

>>200-207のように秀吉軍が連れてきた135000はかなり安定してる。
むしろ信雄の方が遥かに不安定で会戦前からさっさと信雄を裏切りまくってるほど。
0350人間七七四年2014/04/26(土) 10:38:44.00ID:Io95PwF7
>>家康は、形だけの臣従でも味方にしたかった

秀吉は元々家康を潰す気満々でいたが家康どころか雑魚の信雄に主力決戦で大敗したので、結局家康に土下座して関八州240万石・チート官位・秀吉縁戚の地位・五大老筆頭まで献上するハメになっただけ>>22-29
秀吉は小牧長久手合戦後でも家康を潰す気満々で出兵計画立てまくってたが
天正14年初頭の出兵直前になるとビビリまくって家康に信雄を送って仲介したり母や妹を差し出したりして土下座してるからな。

>> 完全な臣下にするには時間が足りなかったけど、秀吉存命中の家康は律儀の評判通りで、討伐の理由をつけようがなかった

家康は小牧長久手後でずっと秀吉に反抗して、交戦の準備進めまくって、秀吉の上洛命令無視して
諸城の改修やったり浜松会議開いて諸将から人質召集したり会戦準備やりまくってたんだから
攻め込むだけの名分は十分あったし、秀吉も出兵する気満々で、直前まで出兵計画立ててたのは
一柳・木曽・真田・上杉などに宛てた書状でわかる。
結局秀吉は家康にビビリまくって直前で信雄に仲介頼んで、母や妹を差し出して交戦を避けただけ。
0351人間七七四年2014/04/26(土) 11:03:32.50ID:Io95PwF7
>>新政権安定の為に、強力な勢力を同時に敵に回す状況は可能な限り回避したかった

はいはい根拠なし。>>91-92のように、秀吉は家康や信雄を潰す気満々で主力135000を率いて楽田までやってきてるし
>>93-95のように、協力な敵を同時に敵に回してたのは家康であって秀吉はその頃900万石近い自領に加えて
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野と同盟者だらけで超絶ヌルゲーだった。
実際紀州一揆対策には中村6000しか残してなくても、撃退できてるから、その後岸和田には誰も派遣してないし「
それ以外の方面の敵(長州我部など)は他の同盟者が抑えているどころか、秀吉なしでも優勢に戦ってるほどだったから、
秀吉は対信雄と家康に全力で挑めたし、実際に主力135000でやってきて攻めまくってる。

>>結果として、毛利・上杉・徳川を味方に付けて以降

毛利・上杉は家康と交戦時でもう完全なる味方です。徳川は完全なる敵だったが、秀吉が戦に負けまくった後に土下座して何とか味方にできただけ。

>>天下統一戦は単独勢力との戦いに専念

単独勢力も糞も秀吉のその頃の敵対勢力なんて同盟軍だけで十分なくらいの規模しかいなかったからな。
自領の30分の1程度の雑魚国力との戦いで、多方面どうこう持ち出されても困る。

>>相手を「征伐」呼ばわり出来る勝ち方

相手を征伐呼ばわりして戦ってたのは小牧長久手じゃん。結果は雑魚信雄との 直接対決でガチンコで1万人ぶち殺される
大敗喫した上に その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない

>>中央政権が安定

中央政権はもう既に安定しまくってる>>200-207

>>九州(島津)、四国(長宗我部)、関東(北条)等、いずれも局地戦レベルでは決して楽勝ではなかった

対島津では秀吉はほとんど何もやってないよな。大友や龍造寺の残党が頑張ってたのと、宮部らの活躍であっさり終結しただけ。
島津からは雑魚統制ゆえの寝返りが相次いでたし。
対四国では十河・河野・毛利が秀吉の戦線でも優勢なくらいだったし超絶ヌルゲーだろ。
四国なんて全てあわせても70万石程度しかない雑魚土地だし。
対北条では局地戦どころか主力決戦の山中城攻防や忍城・小田原城・韮山城などの諸城攻防で秀吉は大苦戦し
一柳・平岩弟・前田重臣・依田・堀尾嫡男が戦死し氏家も負傷
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし


>>徳川家との殺し合い長期化で、(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦を強いられていたら、

(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦とか相当妄想だな。秀吉は諸城にほとんど抑えをおかなくていいくらい
同盟者が多く、岸和田ではわずか6000の中村が一揆勢を撃退とかやってるし
長宗我部なんてまだ秀吉方の十河や河野や四国に派兵してきた毛利に苦戦して、70万石程度の四国制覇すらできてないじゃんよ。
逆に家康の方が上杉対策や、関東に乱入する風聞の北条対策で大量の兵力を領内に残してたから、よほど長期戦不利だわ。
結局秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
土下座能力はチートだったので 信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
0352人間七七四年2014/04/26(土) 11:04:18.51ID:Io95PwF7
>> 各地で連戦連敗、優秀な配下も討ち死に寝返り続出で、徳川戦にも負ける可能性も出てくる

秀吉のいない豊臣方は中々敢闘してるが秀吉のいる尾張口の部隊はハナクソみたいな戦果しか挙げてないどころか、配下も殺されまくってる。
秀吉はそもそも背後の心配が全くないから
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/440-447
のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
0353人間七七四年2014/04/26(土) 11:44:21.69ID:yaxNvGKB
上杉・木曽らとの交戦が見込まれ、石川が既に篭絡されかかっており
翌年には水野や真田や小笠原まで寝返りだすような雑魚統制で
北条の駿河乱入の風聞まであり、主力のほとんどを領国に配置してきた家康の支配が強固とか
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野・大友らを従え
各方面に兵力を残す必要がなく小牧長久手合戦で135000の主力を思い切り動員でき
その後も多方面は留守居部隊と同盟軍の活躍で何ら心配がなかった秀吉900万石を
多方面に敵がいて多方面作戦を強いられてたとか相当馬鹿な発想だな。
自国+同盟軍まで合計したら秀吉なんて1400万石くらいいくだろ。
秀吉の敵対者で明確なのは長宗我部57万石と弱体化した雑賀一揆10万石と
この頃挙兵すらしてない佐々30万石と佐竹結城宇都宮那須皆川壬生連合がしっかり釘付けにしてる北条180万石だけ。
実際に秀吉軍は留守居部隊をほとんど配置せずに主力を全力で率いて短期決戦しかけてボロ負けしてるわけで
多方面作戦を敷くのが不利だから家康を潰せなかったとか妄想もいい所だな。
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん。
結局全く雑魚の信雄に歯が立たずあれだけ規格外の兵力差と、徳川の領国の崩壊状態(寝返りの連鎖や軍事機密露見や、
天正11年からの飢饉への対策として出した徳政連発)にも関わらず秀吉は家康や信雄に「ワシに従ってくれ〜」と必死に土下座して
母や妹を献上したり、関八州240万石の大領を与えなくてはいけないほど、家康に土下座状態だったから
豊臣家はあっさりと滅ぼされたんだろ。
結局事の始まりは秀吉が家康どころか雑魚の信雄に蹴散らされまくったせいで豊臣家を滅ぼされたんだから
秀吉が雑魚の信雄に大敗して、家を滅ぼされたって事だろ。


今川氏真が指揮を取っても楽勝で勝てそうな超ヌルゲーで
雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん。
結局全く雑魚の信雄に歯が立たずあれだけ規格外の兵力差と、徳川の領国の崩壊状態(寝返りの連鎖や軍事機密露見や、
天正11年からの飢饉への対策として出した徳政連発)にも関わらず秀吉は家康や信雄に「ワシに従ってくれ〜」と必死に土下座して
母や妹を献上したり、関八州240万石の大領を与えなくてはいけないほど、家康に土下座状態だったから
豊臣家はあっさりと滅ぼされたんだろ。
結局事の始まりは秀吉が家康どころか雑魚の信雄に蹴散らされまくったせいで豊臣家を滅ぼされたんだから
秀吉が雑魚の信雄に大敗して、家を滅ぼされたって事だろ。
0354人間七七四年2014/04/26(土) 11:50:05.37ID:23P9sI0n
秀吉厨は自国の国力の割合、秀吉同盟者の割合、秀吉敵対者の割合という
国力を比で見る小学生でもできる基本的な考え方が欠如してるから
自国からみてハナクソみたいな雑魚国力の敵&周囲には敵対者と長年争ってきた自軍の味方だらけの状況でも
全方面敵だの多方面作戦だのアホな発想ができる。
実際に国力の割合からいえばよってたかるハエを追い払うくらいのヌルゲーの戦争しか残ってないのが秀吉。
しかしそんな今川氏真が指揮を取っても楽勝で勝てそうな超絶ヌルゲーで
雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん
0355人間七七四年2014/04/26(土) 12:18:42.00ID:DFV4mMlQ
実際に秀吉は自国の兵力総動員して信雄相手に短期決戦挑んでガチ負けしてるし
その後も諸城を攻めては撃退され攻めては撃退されあげくは浜田・蟹江・前田・下市場・長久保などの諸城を奪回されたりまでしてるし
夏の対陣のときは丹羽勢含めて16万で出兵してきてるのに
家康を潰す気がなかったとか多方面作戦が大変だったとか言い訳もいい所だな。
多方面作戦敷くなら最初から対信雄戦線放置するか最低限の抑えの兵だけ残して雑賀や四国やらに先に出兵して滅ぼしてる。
同盟者が馬鹿みたいに多い秀吉からすれば多方面作戦で敵を同時に侵略するくらい国力的に容易な芸当なのに
主力全て対信雄・家康に向けた戦闘ですら全くといっていいほど戦果があがってないのに
0356人間七七四年2014/04/26(土) 12:19:35.73ID:Io95PwF7
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
0357人間七七四年2014/04/26(土) 12:19:59.32ID:SUrBcmNV
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
0358人間七七四年2014/04/26(土) 12:20:33.72ID:2BkBLD+o
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
0359人間七七四年2014/04/26(土) 12:21:48.02ID:Io95PwF7
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ
0360人間七七四年2014/04/26(土) 12:22:32.35ID:SUrBcmNV
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう

同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)

天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
0361人間七七四年2014/04/26(土) 12:23:03.01ID:SUrBcmNV
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)

6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
0362人間七七四年2014/04/26(土) 12:24:02.40ID:SUrBcmNV
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている

秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ
0363人間七七四年2014/04/26(土) 12:24:47.01ID:DFV4mMlQ
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
0364人間七七四年2014/04/26(土) 12:25:44.71ID:mJ8Nn4Iq
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
0365人間七七四年2014/04/26(土) 12:26:52.77ID:GgwHlyl7
●二重掘合戦 細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり
0366人間七七四年2014/04/26(土) 12:27:52.79ID:Io95PwF7
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
0367人間七七四年2014/04/26(土) 12:28:15.14ID:Io95PwF7
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
0368人間七七四年2014/04/26(土) 12:34:47.47ID:0+S5nEzv
定期的に秀吉厨の馬鹿妄想が垂れ流されるスレッド
0369人間七七四年2014/04/26(土) 12:52:38.55ID:0+S5nEzv
秀吉厨のアホ妄想

>>当時の秀吉は勢いに乗って背伸び状態の不安定な勢力
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/201
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/203-210

>>家康と戦った1983年あたりの秀吉は、全方位敵
>>強力な勢力を同時に敵に回す状況

当時の秀吉の状況…自領は北は北陸・東は尾張口数郡や美濃ほぼ全域伊勢の大部分伊賀全域・西は備中・伯耆まで900万石程度の広範な版図を抱え
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野らを従える。この中で宇喜多は秀吉の親藩で、本能寺前ですら秀吉領との一体化が進められてた程
直轄領に近い関係。十河や河野も本能寺前から対長宗我部の関係で相当密接な主従関係にあった。
上杉も毛利もとっくに秀吉に臣従してる。これは秀吉の要請に従って上杉が新発田攻めを後回しにしてでも秀吉からの要請優先で信濃攻めを行ったり
毛利が秀吉の要請に従って四国に派兵してる事からわかる。
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野らは、秀吉の要請によって敵方の徳川・長宗我部・北条などと交戦したり長久手に援軍送ったりまでしてる。
北条は関東に釘付けで、出てくる気配なしどころか家康の背後を襲う風聞すらあり、信濃川中島にも挙兵してきたため、
家康は軍のほとんどを領内に残して8000程度しかつれてきてない(当代記など)

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/91-92のように、
秀吉は家康や信雄を潰す気満々で主力135000を率いて楽田までやってきてるし
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1396702291/93-95のように
協力な敵を同時に敵に回してたのは家康であって秀吉はその頃900万石近い自領に加えて
上杉・毛利・宇喜多・木曽・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野と同盟者だらけで超絶ヌルゲーだった。
実際紀州一揆対策には中村6000しか残してなくても、撃退できてるから、その後岸和田には誰も派遣してないし「
それ以外の方面の敵(長州我部など)は他の同盟者が抑えているどころか、秀吉なしでも優勢に戦ってるほどだったから、
秀吉は対信雄と家康に全力で挑めたし、実際に主力135000でやってきて攻めまくってる。

>>徳川家との殺し合い長期化で、(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦を強いられていたら

(戦略的不利な状況で)同時多方面作戦とか相当妄想だな。秀吉は諸城にほとんど抑えをおかなくていいくらい
同盟者が多く、岸和田ではわずか6000の中村が一揆勢を撃退とかやってるし
長宗我部なんてまだ秀吉方の十河や河野や四国に派兵してきた毛利に苦戦して、70万石程度の四国制覇すらできてないじゃんよ。
逆に家康の方が上杉対策や、関東に乱入する風聞の北条対策で大量の兵力を領内に残してたから、よほど長期戦不利だわ。
結局秀吉はどれだけ国力や兵力が大きかろうが敵の家臣がどれだけ秀吉方に寝返ろうが
本人の指揮能力や采配能力が糞すぎて雑魚の信雄や家康には到底敵わないため
土下座能力はチートだったので 信雄対策には顕如に必死に土下座して取り成しやってもらって強制的に和睦を結び
家康対策には重臣等を篭絡しまくり母や妹を差し出したり関八州260万石と秀吉外戚の地位を土下座して差し出す事で
慈悲深く、寛容で大儀名分を重んじる家康は、秀吉への牙を収めてやる事にした。
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